2015年07月06日

きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見て

きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見て

2015年7月5日放送ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見た。

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内容は秋葉原の地下アイドル「カタモミ女子」にはまる中年男性の姿とアイドルの女の子たちを描いたもの。カタモミ女子はアイドルといっても日ごろはお客さんの肩をもむというアルバイトをしながらアイドル活動をしているという特殊な形態のアイドルだ。番組は53歳独身のアイドルファン「きよちゃん」とカタモミ女子のメンバーりりあを巡って繰り広げられる。

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きよちゃん53歳独身。この人がまたいい人なんだよ

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りりあちゃん。この娘さんがまたいい子なんだ。自分がお店にいると、きよちゃんに余計なお金を使わせてしまい心配だというのである。おっさんもファンになったわ!

この番組を見てなぜこんなにもつらく悲しい気持ちになり、激しく心揺さぶられたまま今に至るのか。(このノンフィクションのことを考え続け寝付くことができなかった)

それは人生のリミットというものに思いをはせざるを得なかったからだ。

リミットとは、ドルヲタのリミット、人としてのリミットでもある。きよちゃんは定年まであと7年というリミットがあり、もちろんいい年していつまでアイドルを追っかけているんだというリミットもある。そして応援しているアイドルもいつかは解散するというリミットもある。

アイドル本人たちにもリミットがある。カタモミ女子はカタモミ女子として活動することに未来が見えなくなっている。このままアイドルをやることが時間の無駄ではないかとさえ思っている。

この作品は三重、四重にも張り巡らされた現実世界の「リミット」の網の目を可視化しているがゆえに、同じように人としてリミットを意識せざる得ない中年男性ドルヲタである私自身の心を深くえぐるように突き刺すのです。

「リミット」というのはある種の「死」です。

年をとると人はいくつもの無数の死を通過します。それは比喩的な死もあれば具体的な死もあります。
私自身の経験でいうと、人は齢37〜8歳になると目に見えてガクッと体力が落ちます。特に日頃パソコンを使っている人はまず「目」にきます(眼精疲労という悪魔です)。それまで10代20代と同じように暴飲暴食し、体を酷使してきたのが、突然体がいうことをきかなくなる事を経験するのです。そのとき人は悟ります。「リミット」が来ているんだと。少し大げさに言うなら体が死ぬ準備をはじめているんだと感じるのです。

ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜は「リミット」=「死」という「呪い」をはっきりと描いた作品です。

人間にはいつしかリミット=死という避けられないものが訪れる。私たちはその準備と心構えをしなければならない。それが人間にかけられた「呪い」なのだ。

年をとってから見る映画「スタンドバイミー」や「三丁目の夕日」がなぜこんなにも切なくまぶしく見えるのかの答えもここにあります。

子供時代はこのリミットをまったく意識することなく、この時、この場所、この学校、この遊びがいつまでも永遠に続くかのように錯覚できる唯一の時間なのです。「スタンドバイミー」や「IT(イット)」(スティーヴン・キング)などかけがえのない子供時代を描いた作品があまりにもまぶしいのは、リミットという呪いがかかっていない甘く輝かしい時が永遠に続くんだと何の疑いもなしに信じることができたからなのです。それは本当に魔法の時だったのです。

しかしそうした甘く香ばしい時代は一瞬で去り、いずれリミットが何重にも張り巡らされた世界を生きるほかなくなる。

それは絶望なのだろうか。そんな時、私はきよちゃんに薦めたい本があります。フランクルの「夜と霧」です。

そんな強制収容所の悲惨さを描いた本なんて暗くなるだけだから読みたくないよというかもしれません。しかしこの本は先の見えない絶望的な状況下でいかに生きるべきかというサバイバル指南書になっているのです。

フランクルは先の見えない絶望的な収容所内で次から次へ自殺していく同胞を見てきました。フランクルは精神科医らしく自殺していった同胞を観察して、彼らの特徴を指摘します。彼らはみな自分の外側に希望を見出していた人たちばかりだったことを。
「いつか助けがくるだろう」
「いつかこの状況は好転するだろう」
「いつか解放されるだろう」etc...
彼らはその期待があっさりと裏切られるやいなやみずからの命を絶っていったのです。

自分の外側の世界から希望がやってくると期待していた人たちはその期待が裏切られると簡単に心が打ち砕かれるのです。フランクルは考えます。希望が外側からやってくるという「期待」という考え自体があやまりなのだ。むしろその発想を逆転させて自分が世界からなにを期待されているのかを考えろというのです。そして実際にフランクルはその発想の逆転により収容所を生き延びることができた。

このことが示唆するのはなにか。それは心のもちようひとつで世界は実際に変わるということだ。

この番組を見ていい年したおっさんが30歳も年下の女の子にいれあげて気持ち悪いんだよという感想が世間一般のものだろう。

ーアイドルもアイドルオタクも気持ち悪いし、気持悪い同士仲良くやってりゃいいんじゃないの(はてなコメントより引用)


ー番組見たけどいい歳したおっさんが若い女の子に貢いだ挙句涙するって光景はキモいって感想しかうかばなかった。(はてなコメントより)


だが、きよちゃんと私たちドルヲタはフランクルにならい、そうした「外側」からの承認や救済を求めることはもうない。逆に世界が私たちになにを期待しているのかが問われているのだ。私たちは心のもちようひとつでこの世界を承認し、救済することができるのだということ。

そんなの幻想だという人もいるだろう。しかし古来から人の幻想=心のもちようこそが世界を変えてきたのではないか。マックス・ヴェーバーもプロテスタンティズムが資本主義を発展させたといっている。つまり人の心のもちよう=信仰心が世界を資本主義化したのだ。

きよちゃんは53歳にして家族なしの独身。アイドルにいれあげるのが人生唯一の楽しみという「外側」から見れば悲惨な人生なのかもしれない。おそらくきよちゃんはこのままずっと独身で、孤独死を迎える運命なのかもしれない。

米国、ルイスビル大学の研究グループは、世界中の約5億人のデータを
分析した結果、「独身者は早死にするリスクが高い」と結論づけた。
この研究によると、独身男性の寿命は既婚男性より8〜17年も短く、
独身女性は既婚女性より平均7〜15年短い。
また、独身男性の死亡率は結婚している男性に比べて32%も高く、さらに
独身女性よりも23%高いという。


しかしもう外側からの承認も救済も求めることはなくなったきよちゃんが死の床につくときに私はきよちゃんにこう言ってあげたい。

「つらいことや悲しいこともあったけど、アイドルを追いかけていたときは幸せだったよね。楽しかったよね。思い返せばそんなに悪い人生じゃなかったよ、きよちゃん・・・」と。(つい感情移入しすぎてきよちゃんを殺してしまったことをここにお詫びいたします)

少し感傷的、憐憫的にすぎたでしょうか。でもあまりにもきよちゃんやりりあちゃんに感情移入しすぎて心乱れてしまい、つい心のうちを吐き出すようなひどい文章になってしまったのもザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜が真に迫る力ある作品だったからということで大目に見てほしい。
posted by シンジ at 20:21| Comment(3) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月17日

瞬間と永遠・映画「海街diary」

瞬間と永遠・映画「海街diary」

ありふれた日常を丁寧に描くだけでかけがえのない瞬間が浮かび上がり、その瞬間が永遠性をおびるのを確かに見た。

日常というのはたわいのないことの繰り返しだ。しかしその日常は、それぞれ同じことの繰り返しではない。今、この時この瞬間にしか存在しえない輝くような唯一性をおびている。

夏祭り、友達同士で花火を見に行った帰り、すずの同級生でサッカーのチームメイトでもある男の子は一世一代の勇気を振り絞ってこういう。
「その浴衣結構似合ってるよ・・・」
なんてことはない青春の1ページが痛いほど胸に響き渡る。

この誰もが経験するかもしれない身に覚えのある光景にかけがえのない瞬間=唯一性を感じて身を震わせるのだ。

唯一性とは、この世界を何回、何百回、何千万回生きることになっても、同じ瞬間は二度と起きないし、二度とおとずれることもないということを意味する。

自分の死を悟った食堂のおばちゃん(風吹ジュン)がすず(広瀬すず)にあなたの両親がうらやましいという。すずは驚く。自分の母と父は不倫の末に結ばれたということにやましさをもっていたからだ。だがおばちゃんはすずの両親のことをすずのような宝物を残すことができてうらやましいというのだ。

食堂のおばちゃんは自分の死を間近に意識することにより知ってしまったのだ。このかけがえのない人生の唯一性というものを。すずが不倫の末に生まれようがなんだろうが、生まれたこと自体が奇跡なんだ。このすずが生まれたこと、そのすずとこうしてとりとめのないおしゃべりをしていることすらもう二度とない奇跡のような瞬間だということを。

人生が、この宇宙が、何回、何百回、何千万回、何億回誕生しようとも、このかけがえのない瞬間は、ただこの瞬間、今だけにしかない。もう二度とない一回限りのことなのである。

驚くべきことに、このありきたりで、なんてことのない、私たちがうんざりするほど味わっている平凡な日常は、もう二度とおとずれることのないただ一回限りの奇跡が連綿と続くことによってできているのだ。

そして二度とおとずれることのないかけがえのない瞬間とは「永遠」のことにほかならない。

(永遠は持続性ではなく無時間性といったのはスピノザやウィトゲンシュタインがそうだが、歴史上最初にそのことを指摘したのはアウグスティヌスだと思われる(三位一体論参照))

私たちの日常は常に、瞬間、瞬間が永遠とつながっている。これほど驚くべきことがあろうか。

是枝裕和監督はこの「瞬間と永遠」をテーマにした映画をずっと作り続けてきたといってもいい。そのなかでも特に「瞬間と永遠」というテーマが明確に見て取れるのは「奇跡」(2011年)でしょう。「海街ダイアリー」が気にいったという人、もしくはそれほどピンとこなかった人も映画「奇跡」を見てください。海街ダイアリーがさりげなく訴えかけていたものをあなたは直接目にすることになるはずです。

女優4人(綾瀬はるか・長澤まさみ・夏帆・広瀬すず)もすばらしかったけど、是枝さんの冴えが見られるのは子供のキャスティングです。広瀬すずに恋心を抱く男の子(サッカーの香川真司似)なんて本当に奇跡のキャスティングといっていい。

菅野よう子の音楽はルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」を意識したのかなと思えるほど、使い方が似てる。マーラーの交響曲第5番に曲調が似ていることもあるけど、使い方とかシーンに入るタイミングとかにベニスに死すをそこはかとなく感じる。

本当にいい映画だ。
posted by シンジ at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

何か書いてないと脳みそが腐ってくるので、「〜を読んでみた」シリーズをはじめてみる。最初は
マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

戦争における道徳についてウォルツァーは二つにわけられるという。
ひとつは「戦うにあたって国家が有する理由としての道徳」=「戦争への正義」
もうひとつは「国家が用いる手段に関しての道徳」=「戦争における正義」である。

このふたつの戦争道徳は重大な対立を引き起こす。「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」である。

国家が戦う理由の正義はおもに侵略の理論がある。侵略は明白な戦争犯罪であり、それに対抗することは「正しい戦争」である。すなわち「戦争を正当化しうるのは侵略のみである」

だがウォルツァーはそれ以外の正しい戦争=正戦もあるという。そのひとつが「人道的介入」である。人道的介入は大量虐殺に手を染める政府や軍隊に対抗するためになら容認される。

さらに「復仇」という概念もある。「復仇」とはもし我々の村が攻撃されれば、そちらの村も攻撃されるだろうという警告としての戦争のことである。ウォルツァーはこの復仇理論によりイスラエルのパレスチナ攻撃を正当化するのである。

「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」で最も使われるのが「スライディング・スケール」論法である。それは「ある大義が有する正義の度合いが高ければ高いほど戦闘における権利が増加する」という考え方。

つまり正義の戦争であるという大義があれば、戦場においてどんな非道なこともしても許されるという考え方のことだ。この「スライディング・スケール」論法がアメリカで最も使用されるのは第二次大戦での日本への大量の民間人を殺傷する目的の空爆と、いうまでもなく広島長崎への原爆投下の正当化のためである。

スライディング・スケール論法によれば、早く戦争を終わらすことができれば、それだけアメリカ側も日本側も犠牲者の数が少なくてすむ。よって、戦争の早期解決のためになら大量の民間人殺傷を目的とする空爆や原爆投下も容認されうるというのだ。

しかしウォルツァーはスライディング・スケール論法をこう批判する。「もしある戦争によって(民間人を殺してはならないという)制約が破られれば、それは次の戦争において守られはしないだろう。短期的な利益が得られても、それは長期的な均衡の中では意味を持たない」

またウォルツァーは日本に対しては無条件降伏を求めるべきではなかったとし、1945年時点に日本との交渉の席につくべきであったという。そのときアメリカは勝利を手中におさめていたのであり、原爆投下すべき緊急性はみじんもなかったからだ。

戦争の目的を「無条件降伏」に設定すべきではないといったのは、軍事戦略家のリデル・ハートも同じだ。「無条件降伏」を目的に設定することは、より被害者を増大させることのみならず、戦場における残虐性をも呼び起こすのである。

ウォルツァーはこのように日本に対しては軍事的緊急性が低く、「例外的状況」にはなかったので、空爆や原爆投下による民間人殺傷は容認できないとするが、これがナチスになるとちがってくる。

なぜならナチスにおいては自由民主主義共同体の自由と独立が敗北に瀕していた「例外的状況」=「最高度緊急事態」だったからである。ナチスは単なる敗北を超えた災厄をもたらすものであり、このような例外的状況に対したときのみスライディング・スケールという功利計算を用いることができる。そのときウォルツァーが出す事例はチャーチルによるドイツ本土への空爆のことである。民間人殺傷が容認されうるのは「最高度緊急事態」のみであって、ナチスはその例外的状況にあたる。

民間人を殺傷してはならないという「戦争における正義」は自由と独立を破壊する災厄をもたらす敗北に直面したときだけ「戦争への正義」に道を譲るのである。

マイケル・ウォルツァーは自由と民主主義が敗北に陥る「最高度緊急事態」にだけ「功利計算」であるスライディングスケール論法を容認するが、これはリベラル・デモクラシーそのものがカール・シュミットの「友敵理論」を最大限補強することを意味している。

友敵理論とは、本来、政治的対立にすぎなかったものが、道徳的対立にすりかえられること。「友」は味方であり同胞である。それ以外は「敵」とみなされる。それも「敵」は政治的対抗者というよりも道徳的に劣った存在として規定される。それが道徳的対立である以上、敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となるのである。

リベラル・デモクラシーと対立するものは「絶対的な敵」=非人間的な怪物として、この世界から抹殺、根絶せしめなければならない。だとするならばリベラル・デモクラシーこそ、戦争に破壊性、残虐性をもたらす最大の要因ではないのか。

「人類の名をかかげ人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること。この高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえない。敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法、非人間と宣告」(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治」)するリベラル・デモクラシーは友敵理論を拡大化する。リベラル・デモクラシーは異質なものはどのような手段を持ってしても排除しなければ存立できない政体なのだとしたら、近代に入って民主主義や人権が啓蒙されるようになってからのほうが古代や中世より戦争の残虐性が高まった理由も理解できるのである。
posted by シンジ at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする