2015年06月17日

瞬間と永遠・映画「海街diary」

瞬間と永遠・映画「海街diary」

ありふれた日常を丁寧に描くだけでかけがえのない瞬間が浮かび上がり、その瞬間が永遠性をおびるのを確かに見た。

日常というのはたわいのないことの繰り返しだ。しかしその日常は、それぞれ同じことの繰り返しではない。今、この時この瞬間にしか存在しえない輝くような唯一性をおびている。

夏祭り、友達同士で花火を見に行った帰り、すずの同級生でサッカーのチームメイトでもある男の子は一世一代の勇気を振り絞ってこういう。
「その浴衣結構似合ってるよ・・・」
なんてことはない青春の1ページが痛いほど胸に響き渡る。

この誰もが経験するかもしれない身に覚えのある光景にかけがえのない瞬間=唯一性を感じて身を震わせるのだ。

唯一性とは、この世界を何回、何百回、何千万回生きることになっても、同じ瞬間は二度と起きないし、二度とおとずれることもないということを意味する。

自分の死を悟った食堂のおばちゃん(風吹ジュン)がすず(広瀬すず)にあなたの両親がうらやましいという。すずは驚く。自分の母と父は不倫の末に結ばれたということにやましさをもっていたからだ。だがおばちゃんはすずの両親のことをすずのような宝物を残すことができてうらやましいというのだ。

食堂のおばちゃんは自分の死を間近に意識することにより知ってしまったのだ。このかけがえのない人生の唯一性というものを。すずが不倫の末に生まれようがなんだろうが、生まれたこと自体が奇跡なんだ。このすずが生まれたこと、そのすずとこうしてとりとめのないおしゃべりをしていることすらもう二度とない奇跡のような瞬間だということを。

人生が、この宇宙が、何回、何百回、何千万回、何億回誕生しようとも、このかけがえのない瞬間は、ただこの瞬間、今だけにしかない。もう二度とない一回限りのことなのである。

驚くべきことに、このありきたりで、なんてことのない、私たちがうんざりするほど味わっている平凡な日常は、もう二度とおとずれることのないただ一回限りの奇跡が連綿と続くことによってできているのだ。

そして二度とおとずれることのないかけがえのない瞬間とは「永遠」のことにほかならない。

(永遠は持続性ではなく無時間性といったのはスピノザやウィトゲンシュタインがそうだが、歴史上最初にそのことを指摘したのはアウグスティヌスだと思われる(三位一体論参照))

私たちの日常は常に、瞬間、瞬間が永遠とつながっている。これほど驚くべきことがあろうか。

是枝裕和監督はこの「瞬間と永遠」をテーマにした映画をずっと作り続けてきたといってもいい。そのなかでも特に「瞬間と永遠」というテーマが明確に見て取れるのは「奇跡」(2011年)でしょう。「海街ダイアリー」が気にいったという人、もしくはそれほどピンとこなかった人も映画「奇跡」を見てください。海街ダイアリーがさりげなく訴えかけていたものをあなたは直接目にすることになるはずです。

女優4人(綾瀬はるか・長澤まさみ・夏帆・広瀬すず)もすばらしかったけど、是枝さんの冴えが見られるのは子供のキャスティングです。広瀬すずに恋心を抱く男の子(サッカーの香川真司似)なんて本当に奇跡のキャスティングといっていい。

菅野よう子の音楽はルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」を意識したのかなと思えるほど、使い方が似てる。マーラーの交響曲第5番に曲調が似ていることもあるけど、使い方とかシーンに入るタイミングとかにベニスに死すをそこはかとなく感じる。

本当にいい映画だ。
posted by シンジ at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

何か書いてないと脳みそが腐ってくるので、「〜を読んでみた」シリーズをはじめてみる。最初は
マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

戦争における道徳についてウォルツァーは二つにわけられるという。
ひとつは「戦うにあたって国家が有する理由としての道徳」=「戦争への正義」
もうひとつは「国家が用いる手段に関しての道徳」=「戦争における正義」である。

このふたつの戦争道徳は重大な対立を引き起こす。「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」である。

国家が戦う理由の正義はおもに侵略の理論がある。侵略は明白な戦争犯罪であり、それに対抗することは「正しい戦争」である。すなわち「戦争を正当化しうるのは侵略のみである」

だがウォルツァーはそれ以外の正しい戦争=正戦もあるという。そのひとつが「人道的介入」である。人道的介入は大量虐殺に手を染める政府や軍隊に対抗するためになら容認される。

さらに「復仇」という概念もある。「復仇」とはもし我々の村が攻撃されれば、そちらの村も攻撃されるだろうという警告としての戦争のことである。ウォルツァーはこの復仇理論によりイスラエルのパレスチナ攻撃を正当化するのである。

「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」で最も使われるのが「スライディング・スケール」論法である。それは「ある大義が有する正義の度合いが高ければ高いほど戦闘における権利が増加する」という考え方。

つまり正義の戦争であるという大義があれば、戦場においてどんな非道なこともしても許されるという考え方のことだ。この「スライディング・スケール」論法がアメリカで最も使用されるのは第二次大戦での日本への大量の民間人を殺傷する目的の空爆と、いうまでもなく広島長崎への原爆投下の正当化のためである。

スライディング・スケール論法によれば、早く戦争を終わらすことができれば、それだけアメリカ側も日本側も犠牲者の数が少なくてすむ。よって、戦争の早期解決のためになら大量の民間人殺傷を目的とする空爆や原爆投下も容認されうるというのだ。

しかしウォルツァーはスライディング・スケール論法をこう批判する。「もしある戦争によって(民間人を殺してはならないという)制約が破られれば、それは次の戦争において守られはしないだろう。短期的な利益が得られても、それは長期的な均衡の中では意味を持たない」

またウォルツァーは日本に対しては無条件降伏を求めるべきではなかったとし、1945年時点に日本との交渉の席につくべきであったという。そのときアメリカは勝利を手中におさめていたのであり、原爆投下すべき緊急性はみじんもなかったからだ。

戦争の目的を「無条件降伏」に設定すべきではないといったのは、軍事戦略家のリデル・ハートも同じだ。「無条件降伏」を目的に設定することは、より被害者を増大させることのみならず、戦場における残虐性をも呼び起こすのである。

ウォルツァーはこのように日本に対しては軍事的緊急性が低く、「例外的状況」にはなかったので、空爆や原爆投下による民間人殺傷は容認できないとするが、これがナチスになるとちがってくる。

なぜならナチスにおいては自由民主主義共同体の自由と独立が敗北に瀕していた「例外的状況」=「最高度緊急事態」だったからである。ナチスは単なる敗北を超えた災厄をもたらすものであり、このような例外的状況に対したときのみスライディング・スケールという功利計算を用いることができる。そのときウォルツァーが出す事例はチャーチルによるドイツ本土への空爆のことである。民間人殺傷が容認されうるのは「最高度緊急事態」のみであって、ナチスはその例外的状況にあたる。

民間人を殺傷してはならないという「戦争における正義」は自由と独立を破壊する災厄をもたらす敗北に直面したときだけ「戦争への正義」に道を譲るのである。

マイケル・ウォルツァーは自由と民主主義が敗北に陥る「最高度緊急事態」にだけ「功利計算」であるスライディングスケール論法を容認するが、これはリベラル・デモクラシーそのものがカール・シュミットの「友敵理論」を最大限補強することを意味している。

友敵理論とは、本来、政治的対立にすぎなかったものが、道徳的対立にすりかえられること。「友」は味方であり同胞である。それ以外は「敵」とみなされる。それも「敵」は政治的対抗者というよりも道徳的に劣った存在として規定される。それが道徳的対立である以上、敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となるのである。

リベラル・デモクラシーと対立するものは「絶対的な敵」=非人間的な怪物として、この世界から抹殺、根絶せしめなければならない。だとするならばリベラル・デモクラシーこそ、戦争に破壊性、残虐性をもたらす最大の要因ではないのか。

「人類の名をかかげ人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること。この高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえない。敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法、非人間と宣告」(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治」)するリベラル・デモクラシーは友敵理論を拡大化する。リベラル・デモクラシーは異質なものはどのような手段を持ってしても排除しなければ存立できない政体なのだとしたら、近代に入って民主主義や人権が啓蒙されるようになってからのほうが古代や中世より戦争の残虐性が高まった理由も理解できるのである。
posted by シンジ at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月08日

北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」か

北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」か

「龍三と七人の子分たち」が大ヒットしているので北野武監督の次回作もワーナーが配給するのは確実。そこで北野監督の龍三公開前のインタビューから、北野映画の次回作を予想してみる。

北野武監督が次回作として構想中とあげている作品は大体3本。時代劇二本に、恋愛映画一本です。そのなかでも最も実現性の高そうな作品が時代劇版「フリークス」です。

「江戸時代に障害者が生まれるとそこに捨てられるっていう部落があって。で、主人公は殿様の子で、双子なんだけど、当時は双子って
「畜生腹だ」っつって嫌がられた。っていうのがあって。殿様の子供が双子で、その一人が捨てられて、捨てられたとこがその障害者の部落で。そこの親分が「ここで生きるためにはしょうがないんだ」つって、その子の片腕を取っちゃう。そいつが実は運動神経がすごくて、丹下左膳みたいに強くて、片手で熊殺したりする奴に成長して。で自分たちを差別する町の代官みたいなひどいのがいて、それで城を攻めちゃうと。そうするとそこに自分とそっくりな奴がいて、それが殿様で、双子の片方で・・・・っていう話。ーCUT5月号北野武インタビュー


時代劇版「フリークス」と書いたのは、トッド・ブラウニング「フリークス」(1932)のことを念頭においています。映画「フリークス」とは見世物小屋の障害者たちの復讐劇を描いた映画で、実際の小人や下半身のない障害者を起用しているので当時物議をかもした問題作です。しかしそれだけでは終わらないのが北野作品です。

「ただ、その映画で見せたいのは、立ち回りもそうだけど、実は・・・死んじゃったけど、振付家のピナ・バウシュっているじゃない?障害者が踊るっていう。ひとりが踊っているのを観ると変な動きなんだけど、全員揃うと異常にかっこいいの。生で観たことあんだけど、もうブレイクダンスみたいになってるわけ。だから松葉杖とかダンスに使えないかって考えたり・・・村祭りのシーンを要所要所に入れて、片足で杖ついてて、杖の音とタップシューズの音でカタカタカタカタって激しくやり合うとか。そうすると映画的にはすごいなと思って」


殿!これやりましょう!これ絶対傑作になりますよ!めちゃくちゃ面白そう!!・・・ただ問題は障害者を描くことが配給のワーナー的にはどうなんだろう?という問題がありますが・・・。でもこんな野心的で面白そうな企画はめったにないんでぜひ実現してほしい。

もうひとつの時代劇企画はズバリ、安土桃山版「アウトレイジ」

豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。/それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」


「汚ねえ!」連中の謀略戦を描かせれば北野武の右に出るものはいません。安土桃山版「アウトレイジ」間違いなく傑作になると思いますが、問題になるのは「予算」でしょう。なにしろ信長が本能寺で暗殺されるシーンや、高松城水攻め、中国大返しまで描くとなると、莫大な製作費がかかること必定です。正直そこまで北野作品に大予算をかけるガッツが今のワーナー日本支社にあるとは思えないのです。

そこでもう一つの企画、北野武念願の企画だという「純愛映画」が浮かび上がってきます。

「それとか純愛ものを撮りたい。純愛ものなんだけど、実は主人公を取り囲む人間関係がすごい笑っちゃうとか、お笑いがいっぱい入ってくるんだけど」−CUT5月号


・・・私も長年北野ファンを続けてきましたが、これに関しては「嫌な予感しかしない」といわせていただきます。殿の恋愛観って「いつまでもお弁当作ってあなたをお待ちしてます・・・」的なあれでしょ。この恋愛観って完全に明治大正時代の恋愛観なんですよ!(苦笑)。

これは本人も認めるところですが、北野武にとって女性は二種類しかいません。「おかーちゃんとおねーちゃん」の二種類です。これは「性の二重基準」といわれるもので、女性を性的な主体とは認めないミソジニー男性がよくやることです。女性を性的主体と認めないにもかかわらず、そんな女性の母から生まれてきた自分という矛盾を解消するために、男性は女性をおかーちゃん=聖女と、おねーちゃん=娼婦に二分するのです。だから北野武が「純愛」映画を撮るというときは女性をありえないくらい美化し理想化=聖女化してしまうのが目に見えてしまう。率直に言わせてもらえば、女性を美化し理想化するような人は「恋愛映画」は撮らないほうがいいです。

というわけで、北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作の有力候補は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」で決まりではないでしょうか。超楽しみ!!みんな、北野武新作が見られるまで生きていような!
posted by シンジ at 18:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする