2015年10月18日

至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か 映画「バクマン。」

至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か「バクマン。」

目標も夢も何もないごくフツーの高校生が、一転、漫画という夢と希望を発見したときの世界が一気に開ける感覚!その衝撃と感動は何物にも変えがたい光芒として私の網膜に焼きつけられる。本当にここは感動するよなぁ。たいていの人は一生を捧げるに値するものなんて何も見つけられずに亡羊と生きていくほかないってのに、この子たちは高校生のみそらでそれを見つけてしまうんだ。有頂天になるのもわかる。

夢に向かって、ただ夢だけを見て駆け上がっていくことの出来る人生というのはそれだけで貴重すぎるほどの宝物だ。

だがプロデューサーの川村元気氏がこの映画を「キッズリターン」(北野武作品)にしてくれと大根仁監督に注文した以上、夢だけを見て駆け上がっていく映画ではなくなるのは当然のことだった。

晴れてジャンプ作家となった二人(佐藤健、神木隆之介)を待ち構えていたのは、恐るべきジャンプシステムーアンケート至上主義、週間連載というあまりにも過酷な「業務」の連続であった。

週間連載、1週間ごとに締め切りがやってくるというのは想像するだに過酷な状況である。それも新人作家である以上絶対に「落とす」わけにはいかないプレッシャーがあり、読者のアンケートで人気順位が二桁代になれば容赦なく打ち切られるのである。もし私がこんな過酷な状況に陥ったらと思うと「オエッ」とえづくような緊張感がある。

あれほど夢と希望にあふれていた高校生二人は夢も希望もない「日常業務」の中に埋もれて疲弊していくのだ。これは見ていてつらかったな。

まるで少年ジャンプが高校生二人の貴重な夢と希望と才能と時間を食い尽くそうとする「搾取モンスター」のように見えてしまうのだ。

この映画バクマン。を少年ジャンプにとって最高の宣伝という人もいるだろうが、私には逆効果としか思えなかった。私はこう考えてしまうのだ。

はたして少年ジャンプに命を賭してまで戦う価値はあるや?と。

日本には漫画家を目指す人たちが何万人、何十万人はいるだろう。だがそのほとんどの人たちは漫画家にはなれない。またその狭き関門をくぐりぬけた人たちでも連載を持つまでには至らないし、連載を持ったとしてもほんのひと握りの「天才」以外は連載を続けられずに打ち切られ人知れず消えていくのだ。そして連載を持ったひと握りの天才ですら原稿料は安く、アシスタントを雇えば足が出る始末だ。

こんな想像を絶する競争を勝ち抜いても大した栄誉も金銭もえられずに身も心もズタボロにしてまで戦う価値が漫画にはあるのだろうか?

少年ジャンプは漫画を至上の価値とする大勢の人の幻想に支えられた砂上の楼閣ではないのか。その構造は宗教に近いのではないか。

古代ローマ時代キリスト教徒は迫害され弾圧され、処刑される人も少なくなかった。しかし彼らはそうした苦しみを受け迫害されることに意味を見つける。「私たちは神に選ばれたからこそこのような苦しみにあっているのだ」と。そして棄教すれば命を助けるといわれても、彼らはそれを拒否して喜んで殉教者となった。そして信者たちは殉教者を見てますます「選ばれてあること」の確信を強めて、信者数を増やしていき最終的にはローマ帝国を支配することとなる。

プロの漫画家の方たちはどこか嬉々として漫画家苦労話をされるが、彼らにとっても漫画家の「苦しみ」は「選ばれしもの」の意味合いがあるのだろう。漫画家になった以上苦しむことが当然なのだと。彼らは「漫画」を信仰しているのだ。

漫画が信仰対象なら、彼らが常軌を逸した作業量にくらべて微々たるギャラで我慢しているのも理解できる。

しかしだ。私は漫画を愛好してはいるものの、決して「信仰」しているわけではないので、バクマン。の命を賭してまで漫画に打ち込むことの意味が理解できない。つまり少年ジャンプがブラック企業に見えてしまうのはいかんともしがたい。

それではこのバクマン。は駄作なのかというと違う。

私にとって少年ジャンプは漫画挫折者という屍を大量生産するブラック企業でしかない、このようなものに命を賭してまで身を捧げることはできない。・・・しかしだ。小松菜奈になら命を削り取られるようなことになったとしても、それを甘受する用意がある。

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小松菜奈ちゃんのようなお人が漫画家として成功するのを待っているねというのなら、死ぬ気で頑張る気があるということだ。

つまりこの映画バクマン。を小松菜奈の「アイドル映画」としてみるならば、キッズリターン的な鬱々とした青春映画から一転、希望に溢れた「愛の映画」となるのである。

漫画が読者という不特定多数の支持を受けられなければ、大好きな漫画を描くことさえ強制的にやめさせられるという無理ゲーなのに対し、アイドル映画としてのバクマンは小松菜奈たった一人の支持さえ受けられれば、満願成就するのである。ここにいたって答えは明らかだろう。おのれの人生を賭けるに値するのは少年ジャンプではなく、小松菜奈なのだ。

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映画バクマン。は小松菜奈をひたすらペロペロする映画である。
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2015年08月18日

全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで

全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで

朝井リョウの小説「武道館」は今売り出し中のアイドル「NEXT YOU」のメンバー愛子の心象を追いながらも、実際に作者が書きたいのは、アイドルとそのファンの関係性、アイドル現象もろもろ。つまり「アイドル論」である。

この作品内において描かれるアイドル論やアイドルの抱えている問題の数々は、今現在アイドルムーヴメントの中で語られていることのほとんどを網羅しているといっていい。
たとえばアイドルのダイエット問題であるならば、すぐに思い浮かぶのがモーニング娘。の鈴木香音の劇的なダイエットだろう。そうした現実のアイドル事情が作品にダイレクトに反映されている。作者はそうした現実にあるアイドルの問題をひとつひとつ物語の登場人物たちに語らせていくのである。
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鈴木香音ダイエット前後

アイドルの体型、ダイエット問題に対しては作者(の声を借りた登場人物)はこう答える。
10代の女の子の体型が変わるのは自然なことであり、むしろ無理なダイエットをすることにより体力が落ちてしまう。
「いま変なダイエットしてるでしょ?体力がないときって、振りを踊ることよりも体を止めることのほうができなくなるから」

とそれをいさめるのである。

そして今のアイドル問題の中核をなす「CD付握手券」の是非について、作者は登場人物を借りてこう語る。

「今、ほんっとうにCDって売れないの。音楽だけだと、誰も買ってくれないの。すぐネットにあげられちゃったりして、とにかく音楽が、お金を出して手に入れるものって思われてない感じなんだよね」
「・・・そんな状態でさ、うちらがさ、CDに握手券つけてやっと買ってもらったり、同じ人が何枚も同じCDを買ってくれたりすることって、そんなに悪いことなのかな」

CD付握手券なるものは、音楽を無料だと思っている大多数の連中に対しての精一杯の抵抗だというのだ。あなた方がただで手に入れているものは、多くの人の多くの労力を費やして作られたもののはずなのに。CD付握手券は音楽を「ただ」だと思っている私たち消費者へのカウンターなのである。

アイドル論の中には当然「アイドルファン論」も入る。ここではアイドルファンはかなり手厳しく書かれる。

アイドルファンはアイドルを応援するうちに勘違いし始める。
ファンは「やがて、ファン以上の役割を自負し始める」

アイドルという対象に欲望していただけの一方的な関係性をまるで双方向性のように錯覚しはじめ
「応援はしているけれど、自分たちよりもいい生活をすることは許さない」という視線。
「応援はしているけれど、アイドル以外の道で生きていけるほどの商品価値はないことはきちんと知らしめておきたい」という視線。
「アイドルから一歩踏み出そうとした途端、不幸を見たいっていう視線が増える気はする」

ファンの欲望どおりに従わないアイドルに不満をぶつけるいびつなアイドルファン像が語られていくのである。

・・・しかしである。このような作者が考えるアイドル問題とアイドル論を登場人物の口を借りて語らせてしまった結果、登場人物がまるで作者の口寄せ人形にしか感じられなくなり、単に作者の考えを代弁しているだけのまったく血の通わない道具のような存在になってしまっているのである。

これは物語としては致命的な欠陥となる。登場人物の誰一人として血が通ってない物語を読むのは大変な苦痛で、正直に言うとこの作品を途中までどうしようもない駄作だと思いながら読みすすめていたのが偽らざる気持ちです。

しかしある展開からこの小説「武道館」は完全に化けるのです。

その展開とは主人公の愛子が幼馴染の大地とSEXをすることによってです。
ここから驚くほど急激に登場人物に血が通い始めるのです。ありきたりなアイドル論を作者に代わって代弁するだけの存在だった愛子は愛する人とのSEXを経て一気に「血肉化」する。

私はこれを愛子がアイドルとして「欲望の対象」から「欲望の主体」へと転化したことのあらわれだと感じました。

アイドルという虚構存在はファンの一方的な欲望と議論の「対象」=「モノ」でしかなかった。そうした空っぽなモノが、愛する人とのSEXを通じて欲望の対象であることから脱し、欲望の主体的存在へと変貌を遂げることによってアイドル愛子は「人間愛子」として「血肉化」するのです。

小説「武道館」にはアイドル「NEXT YOU」の有名ヲタ、「サムライ」が出てくる。このサムライはハロプロの有名ヲタである「サムライ」氏からきているのだろう。(私も1回だけハロ現場で見かけたことがある)
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そのハロヲタ「サムライ」氏はかって℃-ute鈴木愛理の恋人発覚か?というニュースが流れたとき(結局デマだったが)こうtwitterに書いたと記憶している。

「恋人がいることを認めればアイドル史が変わったのにね」と。

当時は意味がわからなかったが、今になってその意味がわかったと思う。
わが愛する℃-uteのメンバー矢島舞美や鈴木愛理が欲望の対象としてだけではなく、欲望の主体としても私たちを認めてほしいということを主張したらどうなるのか?
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舞美や愛理が「好きな人ができました。でもアイドル続けます」とファンの前で宣言すること。私はそのことを恐れながらも、どこかで期待している自分も感じるのだ。

それは欲望の対象としてのアイドルではなく、主体的存在としてのアイドル像を認めること。アイドルの「人間宣言」を受容することでもある。

そして朝井リョウは物語の最後に心憎い場面をもってくる。NEXT YOUの愛子と碧(あおい)は大事な武道館公演の直前に恋人が発覚して、武道館公演を待たずにNEXT YOUから脱退する。そこから何年もの月日がたち、NEXT YOUは13期メンバーをお披露目する武道館公演の最中である。その公演に姿を見せファンの喝采を浴びるのは、NEXT YOUを脱退したはずの愛子と碧である。二人はすでに結婚し、子供もいる。二人はNEXT YOUの栄えある第一期生としてファンからリスペクトされながら武道館で歌い踊るのだ。

夫がいて、子供もいる女性がいちアイドルとして武道館の舞台に立ちファンから尊敬のまなざしを受けながら喝采を浴びる光景。朝井はこれこそが理想のアイドルとアイドルファンとの関係であると高らかに宣言するのである。これにはもちろんモーニング娘。OG=ドリームモーニング娘。という存在が意識されているのはいうまでもない。

これは朝井リョウのアイドルに対するひとつの理想的結論であり、またハロヲタに対する問いかけでもある。ハロヲタは期せずしてアイドルとファンの理想的な関係を体現している。つまりハロヲタこそがアイドルファンの先陣を切ってアイドル像を積極的に更新すべき責を負っているのではないかと問うているのだ。

朝井リョウは全ハロヲタに問う。アイドルの「人間宣言」に答えよと。
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2015年07月06日

きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見て

きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見て

2015年7月5日放送ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見た。

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内容は秋葉原の地下アイドル「カタモミ女子」にはまる中年男性の姿とアイドルの女の子たちを描いたもの。カタモミ女子はアイドルといっても日ごろはお客さんの肩をもむというアルバイトをしながらアイドル活動をしているという特殊な形態のアイドルだ。番組は53歳独身のアイドルファン「きよちゃん」とカタモミ女子のメンバーりりあを巡って繰り広げられる。

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きよちゃん53歳独身。この人がまたいい人なんだよ

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りりあちゃん。この娘さんがまたいい子なんだ。自分がお店にいると、きよちゃんに余計なお金を使わせてしまい心配だというのである。おっさんもファンになったわ!

この番組を見てなぜこんなにもつらく悲しい気持ちになり、激しく心揺さぶられたまま今に至るのか。(このノンフィクションのことを考え続け寝付くことができなかった)

それは人生のリミットというものに思いをはせざるを得なかったからだ。

リミットとは、ドルヲタのリミット、人としてのリミットでもある。きよちゃんは定年まであと7年というリミットがあり、もちろんいい年していつまでアイドルを追っかけているんだというリミットもある。そして応援しているアイドルもいつかは解散するというリミットもある。

アイドル本人たちにもリミットがある。カタモミ女子はカタモミ女子として活動することに未来が見えなくなっている。このままアイドルをやることが時間の無駄ではないかとさえ思っている。

この作品は三重、四重にも張り巡らされた現実世界の「リミット」の網の目を可視化しているがゆえに、同じように人としてリミットを意識せざる得ない中年男性ドルヲタである私自身の心を深くえぐるように突き刺すのです。

「リミット」というのはある種の「死」です。

年をとると人はいくつもの無数の死を通過します。それは比喩的な死もあれば具体的な死もあります。
私自身の経験でいうと、人は齢37〜8歳になると目に見えてガクッと体力が落ちます。特に日頃パソコンを使っている人はまず「目」にきます(眼精疲労という悪魔です)。それまで10代20代と同じように暴飲暴食し、体を酷使してきたのが、突然体がいうことをきかなくなる事を経験するのです。そのとき人は悟ります。「リミット」が来ているんだと。少し大げさに言うなら体が死ぬ準備をはじめているんだと感じるのです。

ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜は「リミット」=「死」という「呪い」をはっきりと描いた作品です。

人間にはいつしかリミット=死という避けられないものが訪れる。私たちはその準備と心構えをしなければならない。それが人間にかけられた「呪い」なのだ。

年をとってから見る映画「スタンドバイミー」や「三丁目の夕日」がなぜこんなにも切なくまぶしく見えるのかの答えもここにあります。

子供時代はこのリミットをまったく意識することなく、この時、この場所、この学校、この遊びがいつまでも永遠に続くかのように錯覚できる唯一の時間なのです。「スタンドバイミー」や「IT(イット)」(スティーヴン・キング)などかけがえのない子供時代を描いた作品があまりにもまぶしいのは、リミットという呪いがかかっていない甘く輝かしい時が永遠に続くんだと何の疑いもなしに信じることができたからなのです。それは本当に魔法の時だったのです。

しかしそうした甘く香ばしい時代は一瞬で去り、いずれリミットが何重にも張り巡らされた世界を生きるほかなくなる。

それは絶望なのだろうか。そんな時、私はきよちゃんに薦めたい本があります。フランクルの「夜と霧」です。

そんな強制収容所の悲惨さを描いた本なんて暗くなるだけだから読みたくないよというかもしれません。しかしこの本は先の見えない絶望的な状況下でいかに生きるべきかというサバイバル指南書になっているのです。

フランクルは先の見えない絶望的な収容所内で次から次へ自殺していく同胞を見てきました。フランクルは精神科医らしく自殺していった同胞を観察して、彼らの特徴を指摘します。彼らはみな自分の外側に希望を見出していた人たちばかりだったことを。
「いつか助けがくるだろう」
「いつかこの状況は好転するだろう」
「いつか解放されるだろう」etc...
彼らはその期待があっさりと裏切られるやいなやみずからの命を絶っていったのです。

自分の外側の世界から希望がやってくると期待していた人たちはその期待が裏切られると簡単に心が打ち砕かれるのです。フランクルは考えます。希望が外側からやってくるという「期待」という考え自体があやまりなのだ。むしろその発想を逆転させて自分が世界からなにを期待されているのかを考えろというのです。そして実際にフランクルはその発想の逆転により収容所を生き延びることができた。

このことが示唆するのはなにか。それは心のもちようひとつで世界は実際に変わるということだ。

この番組を見ていい年したおっさんが30歳も年下の女の子にいれあげて気持ち悪いんだよという感想が世間一般のものだろう。

ーアイドルもアイドルオタクも気持ち悪いし、気持悪い同士仲良くやってりゃいいんじゃないの(はてなコメントより引用)


ー番組見たけどいい歳したおっさんが若い女の子に貢いだ挙句涙するって光景はキモいって感想しかうかばなかった。(はてなコメントより)


だが、きよちゃんと私たちドルヲタはフランクルにならい、そうした「外側」からの承認や救済を求めることはもうない。逆に世界が私たちになにを期待しているのかが問われているのだ。私たちは心のもちようひとつでこの世界を承認し、救済することができるのだということ。

そんなの幻想だという人もいるだろう。しかし古来から人の幻想=心のもちようこそが世界を変えてきたのではないか。マックス・ヴェーバーもプロテスタンティズムが資本主義を発展させたといっている。つまり人の心のもちよう=信仰心が世界を資本主義化したのだ。

きよちゃんは53歳にして家族なしの独身。アイドルにいれあげるのが人生唯一の楽しみという「外側」から見れば悲惨な人生なのかもしれない。おそらくきよちゃんはこのままずっと独身で、孤独死を迎える運命なのかもしれない。

米国、ルイスビル大学の研究グループは、世界中の約5億人のデータを
分析した結果、「独身者は早死にするリスクが高い」と結論づけた。
この研究によると、独身男性の寿命は既婚男性より8〜17年も短く、
独身女性は既婚女性より平均7〜15年短い。
また、独身男性の死亡率は結婚している男性に比べて32%も高く、さらに
独身女性よりも23%高いという。


しかしもう外側からの承認も救済も求めることはなくなったきよちゃんが死の床につくときに私はきよちゃんにこう言ってあげたい。

「つらいことや悲しいこともあったけど、アイドルを追いかけていたときは幸せだったよね。楽しかったよね。思い返せばそんなに悪い人生じゃなかったよ、きよちゃん・・・」と。(つい感情移入しすぎてきよちゃんを殺してしまったことをここにお詫びいたします)

少し感傷的、憐憫的にすぎたでしょうか。でもあまりにもきよちゃんやりりあちゃんに感情移入しすぎて心乱れてしまい、つい心のうちを吐き出すようなひどい文章になってしまったのもザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜が真に迫る力ある作品だったからということで大目に見てほしい。
posted by シンジ at 20:21| Comment(3) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする