2015年12月11日

ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

いきなりネタバレから入るので注意。







ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」は一部と二部に分かれていて、一部は犯人の書いた小説である。つまり犯人は自分の書いた小説と同じように実際の犯行を重ねていくのである。虚構を現実が後追いしていくというのがこの作品の大きな仕掛けである。

犯人の犯行はすべて現実に存在する小説に描かれた犯罪の忠実な模倣である。

犯人はジェイムズ・エルロイの「ブラック・ダリア」の犯行を模倣し
ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ」の殺人を模倣し
マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの「刑事マルティン・ベック ロセアンナ」の犯罪を模倣し
ウィリアム・マッキルヴァニー「夜を深く葬れ」の事件を模倣する。

犯人は実際に存在する小説を「引用」しながら殺人を実行していくのだ。

作家とは、引用文から引用符を取り除き、加工する者のことである。−ロラン・バルト(悲しみのイレーヌ序文より引用)


他の小説を引用して作られた犯罪小説と、その犯罪小説を引用して実行される現実の犯罪の「入れ子構造」。「悲しみのイレーヌ」のこの入れ子構造はいったい何を意図しているのか。

すべては「読者をこの入れ子構造に巻き込む」ためにであるーそしてその犯人は「作者」に他ならない。

作者は「作品」を創造するだけでなく、「読者」をも創造している。作者はストーリーやプロットを駆使して読者の感情や思い込みを巧みに誘導する。そうした作者のコントロールによって創造された読者のことをここでは「想定読者」と呼ぶ。

「想定読者」は作者の想定したとおりの反応を見せてくれる「いいお客さん」であり、あくまで作品の外側=安全圏にいる存在だ。

しかしルメートルが「悲しみのイレーヌ」に施した「入れ子構造」は想定読者を無理やりこの構造の中に巻き込み、取り込んでしまうことを意図している。想定読者は安全圏にいて「作品」をながめて楽しむお客さんから、小説内へと取り込まれ作品の「当事者」にされてしまうのだ。読者は「想定読者」から「共犯読者」へと変貌させられるのだ。

ルメートルが引用する小説の犯罪はどれも残虐なものである。そしてそれらの作品は一部の好事家だけが評価している知る人ぞ知る作品ではなくて、エルロイ「ブラック・ダリア」もB・E・エリス「アメリカン・サイコ」も大ベストセラーである。つまり大衆が支持した有名作品なのだ。

ベストセラーというものはその時代の大衆の欲望を反映したものであることが多い。残虐な描写、むごたらしい殺人も大衆が望んだもの、人々の欲望が反映したものなのだ。

ルメートルは「悲しみのイレーヌ」の中でこう書いている。

ミステリがこれほどもてはやされるのは、人々が無意識のうちに死を求めているからです。そして謎を。誰もが死のイメージを追い求めるのは、イメージが欲しいからではなく、イメージしか手に入らないからです。血に飢えた人々のために政府が用意する戦争や虐殺を除くと、ほかになにがあるでしょう?そう、死のイメージです。それしかありません。だから人々は死のイメージを求めます。そして、その渇きを癒すことができるのは芸術家だけです。作家は死を夢見る人々のために死を描き、悲劇を求める人々のために悲劇を書いています。人類は芸術という形で現実を変貌させることによって、自分たちの欲望を正当化しようとしている・・・(「悲しみのイレーヌ」p349)


作家とは大衆の暗い欲望を満たすために存在しているのであるならば、大衆の欲望を満たしてきたベストセラー小説内の犯罪を引用して書いた小説を実際に実行することは、わたしたち大衆の暗い欲望を実現化することではないか。

わたしたち大衆は自分たちの暗くて陰惨などす黒い欲望を剥き出しにすることはほとんどない。誰もが持つ後ろ暗い欲望を世間につまびらかに明かすことになれば、わたしたちの見かけ上は平和で穏やかな生活が破綻することは確実だからだ。

だが小説は(小説に限らず、あらゆる表現形態。映像、演劇、ゲームにいたるまで)わたしたちの暗く邪な欲望を肯定し、実現してくれる。

「悲しみのイレーヌ」の犯人は(この場合犯人は作者であるルメートルだが)読者にこう言っているように感じられる。
「私はあなたたちが心のうちに秘めてきた欲望を実現してあげただけですよ」

本国フランスでもルメートル作品は「残虐すぎる」と批判されているという。だが「悲しみのイレーヌ」で描かれる残虐性はすべて大衆の支持を長年受け続けた作品(エルロイ、エリス、シューヴァル&ヴァールー)からの引用である。ルメートルは残虐であるという非難にこう言いたい事だろう。

「私は読者に感謝されこそすれ、非難されるいわれはない」と。
「私はあなた方読者の欲望を忠実に再現したにすぎない」と。

ここにいたって悲しみのイレーヌを読んでいた私たちはこの作品の残虐性がわたしたち読者の暗い欲望を直接反映したものにすぎない、合わせ鏡を見ていたにすぎないと悟るのである。

この小説でむごたらしく殺された女性たち。悲しみのイレーヌで引用された小説内で殺された被害者たちはすべてわたしたち読者が望んで殺したものなのである。

こうしてルメートルは読者を作品の外側にいて、安全な場所で作品を眺めて楽しんでいる立場から、作品内の犯行はすべて読者の欲望を反映したにすぎないとする「共犯読者」、「加害読者」を創造するのである。真の犯人はわたしたち「読者」なのだ。
posted by シンジ at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月03日

私のブログを盗用しているKINO-PRAVDAに告ぐ(苦笑)

以前このようなブログを書いた。
鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって

大好きな℃-uteのアイドル鈴木愛理のことを書いた記事で結構気に入っている。

で、これが私のブログを盗用している映画ブログ「KINO-PRAVDA」2015/12/01の記事
『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか
web魚拓はこちら
http://megalodon.jp/2015-1203-0344-54/kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/

盗用している部分を証拠としてスクリーンショットしておく。
touyou001.png
touyou002.png
touyou003.png
touyou004.png
touyou005.png
touyou006.png
touyou007.png

次に2014年04月12日に書いた私の記事

鈴木愛理・・・絶対エース。四番松井。絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ(ダイノジ大谷)。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大。そして客観的に見てもアイドルとしてずば抜けた素質と才能を持ち合わせている。
しかしグループアイドル全盛時代の今、愛理のような抜きん出た才能と個性は、あくまでグループを生かすための「点」として扱われてしまう。
いうなれば鈴木愛理はグループアイドルという形式を守るための中心なき中心「空虚な中心」として使われてきた。
歌手として抜きん出た才能を持つにもかかわらず、グループアイドルという形式のための駒として扱われてきたのである。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」


そして以下が「KINO-PRAVDA」2015年12月1日の記事です。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大なものです。グループのリーダーは矢島舞美であっても、その歌唱力や存在感やパフォーマンスの高さから、やはり「中心」としての愛理の印象は強いはずです。
いまや「アイドル戦国時代」なんちゅー物騒なネーミングが施され、幾多のアイドルが量産される中においても、愛理の存在は突出した才能だと言っても過言ではありません。
しかしながらワタシは、グループ・アイドル全盛期の現在、彼女のような突出した才能と個性は、時にグループを生かすための「中心点」として扱われてしまうのではないかと危惧しているのも確かです。
「中心点」とは、文字通りに円や図形の真ん中のことを指しますが、円や図形を描くための単なる「点」でもあり、コンパスの針が刺される場所でもあります。
それはつまり「愛理という絶対的な存在があるから、我々は他のメンバーを応援することができる。愛理がしっかりとしているから、他のメンバーの個性も引き立つ」という恐ろしき思考です。
あくまで他のメンバーの個性を引き立てるための「中心」としての鈴木愛理、そんな残酷な捉え方すら為されてしまうこともあるのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか


盗用部分はさらに続きます。
KINO-PRAVDAの記事

もう一つ、歌が「歌唱」ではなく「音色」を提示する時代になったのは、彼女にとって残酷な現実だと言っても過言ではありません。
要するに、歌の「ソング」から「サウンド」への変化のことです。
これは、今現在ディーヴァと呼称されるようなソロアーティストが一掃されつつある現状からも明らかなことなのですが、作り手は、歌唱力よりも音色の心地良さを重要視しているワケですね。
もちろん、アイドル界においてもソレは同じこと。
ちょち前には、松田聖子成るパーフェクトな歌唱力を持ったアイドルが「ソング」を唄っていました。
しかし、いまやグループ・アイドルたちには「ダンス」をするための「サウンド」がセッティングされているのみ。
21世紀のアイドルは、グループであること、ダンスをすること、そしてサウンドに重きを置くこと、この3点によってほぼ定義づけられています。
つまり、「サウンド」は必要とされても「ソング」は必要とされないのです。
転じて、ハロープロジェクト屈指の歌い手である鈴木愛理にとっては、不遇の時代と言えてしまいます。
幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまいました。つまり「音楽的本質」を持ってしまったのです。
ライムスター宇多丸氏曰く「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」だそうですが、
これをアイドルの定義とするならば、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が同等の力で対立している存在」と表現できます。
実のところ、彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか


唖然としてしまいます。この人恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか。以下が私の書いた記事。完全に同じです。

歌がソングからサウンドへ変わっていったという見立ての正しさは、今現在ディーヴァ系のソロ歌手が一掃され、EDMがブームになっていることからも明らかだ。ハロプロ屈指の歌い手鈴木愛理とっては不遇の時代といっていい。
サウンド重視の今のアイドルシーンにおいて、ソング=歌のうまさなど重要ではないのだ。今のアイドルシーンでは、歌い手に合わせた楽曲は時代遅れの産物となる可能性が高い。歌唱力自慢の歌い手の個性はサウンドの邪魔になるのである。
今のアイドル三種の神器は
@グループアイドル
Aダンス
Bサウンド重視
この三つである。
この三つとも歌い手の力量を必要としないことで一致している。グループアイドルには「サウンド」は必要とされても、「ソング」は必要とされないのだ。
しかし幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまった。つまり「音楽的本質」を持ってしまった。
ライムスター宇多丸のいう「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」をアイドルの定義とするなら、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が拮抗した存在」といえる。彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのだ。
「歌手鈴木愛理」という「本質」をないがしろにしてグループアイドル、ダンスアイドルという「形式」に愛理を沿わせている現状から、いまいちど1980年代の復権ーサウンドからソングへの転換を楽曲的に行うべきではないのか。会社(アップフロント)とつんく♂さんの力がためされている。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」


完全に盗用ですね、これは。とりあえずKINO-PRAVDAに要求するのは私の記事を盗用したと認めること。それに対する謝罪と当該記事の抹消。そしてそのことをKINO-PRAVDAのページに掲載してください。

KINO-PRAVDAのURLは
http://kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/
彼のtwitterは
https://twitter.com/AndalouCaligari

とりあえずtwitterで彼に連絡を取ってみたいと思います。

KINO-PRAVDAの方から連絡がありました。私の記事の盗用を認め、謝罪文が掲載されました。
「謝罪」
http://kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/
謝罪を受け入れこの話はこれで終了といたします。

2015年12月12日現在
何の反省もなく謝罪文をあっというまに消し去ったようなのでweb魚拓を貼ります
http://megalodon.jp/2015-1203-0840-50/kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/
posted by シンジ at 03:01| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月11日

私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT

私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT

WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENTをついさっき見たばかりの興奮の真っ只中で一気に書きあげるので誤字脱字悪文ご容赦。

幸せすぎて泣けてくるという稀有な体験をさせてくれる映画。それが本作「WE ARE Perfume」だ。

映画の構成的には単純極まりない。ワールドツアーで台北→シンガポール→LA→ロンドン→NYと巡り、本番前、本番後、各都市で観光を楽しむPerfumeの三人の姿を映し出すだけだ。

ファン目線で見るならば、公演後のダメ出し会議が実に興味深い。ダメ出し会議といってもピリピリしたムードではなく、可愛いかしゆかが可愛いおみ足をモミモミマッサージをしながら、セットリストをあれこれ考えたりするのでファン的には「萌」という感情しか湧いてきません。

まじめに書くと、3人は公演後、客の反応を見て次の公演のセトリを臨機応変に変更するのだ。この曲は海外のファンにはなじみがないから変えようとか、こっちの曲の方が盛り上がるよとか。演出面でもアメリカのお客さんは暗転すると熱が引いてしまうので暗転は最小限にとどめようとか。3人が主体的にセットリスト、演出面で意見を交換していくのを見るのは楽しい。

LA公演ではトラブルで背景のLEDがつかないというピンチに立たされる。そしてLA公演後はMIKIKO先生が号泣するのである。それはうれし泣きではなく、悔し泣き。トラブルがあり、完璧に出来なかったことへの悔し泣きである。こういうところがMIKIKO先生の素晴らしいところだ。私は映画館内でおもわず「MIKIKO I LOVE YOU・・・」とつぶやいてしまった。MIKIKO先生は4人目のPerfumeなのである。あとLA公演後、OK GOのメンバーがのっちの手に熱烈にキスしてるところだけは決して許さない決して。

ロンドン公演ではのっちの大失敗とのっちの弁明が映し出され、大笑いした。大事な本番でフリを間違え、フリーズしてあ〜ちゃんの顔色をうかがうのっちのおかしさ、愛らしさ。もうとにかく映画を見てる感覚じゃなくなってる、私もチームの一員としてハラハラしたり、楽しんだり、外国の観客となって拍手してしまうのだ。

公演前は3人が異国の地を楽しんでいる姿を堪能する。3人の私服がまた三者三様の個性が出てていいんだよな〜。かしゆかは常にキメキメの服でファッションリーダー感満載。あ〜ちゃんは常にスカートで上着にはヒラヒラがついているフェミニンなものしか着ない。のっちは常にオールブラック、ダボッとしたものしか着ない、当然パンツスタイル。これだけ着る服によって性格が出るってすごいな。

ワールドツアー最終の地はNY。やはりエンタメ業界にいる人たちにとってNYは特別な地らしく、3人にも気負いや緊張が見られる。NY公演最後の曲は「MY COLOR」

「MY COLOR」中、映し出される世界各国のファンの顔顔顔・・・泣いているファンもたくさんいる。白人や黒人もいれば、アジア人もラテン系もいる。ゲイのひとたちもいる。いろんな「私の色」を持った人たちみんながみんなPerfumeを愛している、それだけの理由で集まっているのだ。

いまから子供じみた幻想を書くのでギョッとしないでほしい。マイカラーとは肌の色や人種や民族、性別、主義主張のさまざまな色のことを言っているのだとする。そうした多種多様なMY COLORはPerfumeを愛するということだけで乗り越えられてひとつになるのだ。

Perfumeの愛のもとで私たちのMY COLORはひとつに塗りなおされていく。世界はひとつだし、世界は愛でひとつになる。

世界はひとつだ、なんて言葉でギョッとされる方に、ここで多様性と多元性の違いを説明しておこう。多元性とはそれぞれが決してまじりあうことなく独立性をたもったままの状態でそれぞれ隔離的に存在するさまのことをいう。それとは違い、多様性とはそれぞれが影響しあい、交じり合うことを恐れない存在のあり方をいうのだ。それぞれのMY COLORが多種多様に存在しつつも、影響しあいまじりあってひとつになることも多様性のあり方なのだ。

・・・わかってる、わかってるよ。私もいい年をしたすれっからしのおっさんだし、世界はひとつだとか、愛で世界は変えられるだなんて本気で信じているわけじゃない。

でも、このドキュメント映画「WE ARE Perfume」を見ている2時間だけは、このすれっからしのおっさんも、俺たちはみんな同じ人間だし、愛で世界はひとつになれるとたしかに信じることができたんだ。

Perfumeを愛している人たち。そんな人たちが世界中に存在している。そのことを感じることができるだけで、えもいわれぬ幸福感に満たされ泣けてくるんだ。

たしかにこれはたった2時間の愛の幻想である。現実の人間ってのは互いに憎みあい、争いあう生き物だ。内と外で境界を作り、外側を攻撃する。そういう本性を持っている生き物だ。この本性は何万年にもわたって作られてきたものでいまさらやめろといわれてもやめるわけにはいかない厄介なシロモノだ。

でもあ〜ちゃんの言葉を聴いていると、現実を忘れ、幻想が確かな輪郭を持って浮かび上がってくるのだ。あ〜ちゃんの言葉はメンバーやスタッフ、ファンの心にクリティカルに届く恐ろしいほどの強い力を秘めている。その説得力とカリスマ性。人間力としか形容しがたい器の大きさ。

もしあ〜ちゃんが戦国時代に生まれていたなら、確実に天下を獲っていただろう。・・・いや、あ〜ちゃんのことだから戦争をことのほか嫌っているであろうから戦国時代のたとえは適当ではなかった。

もしあ〜ちゃんが宗教改革期にプロテスタント側に生まれていたならプロテスタントは天下を獲っていただろう。

もしあ〜ちゃんがフランス革命期に生まれていたなら恐怖政治は起こらずフランス国王も斬首されずに愛に満ちた共和制が今に至るまで続いていたことだろう。

私はこの映画「WE ARE Perfume」を見て人類の歴史に思いをはせていたわけだが、見ているうちに「ピコーン!」ときた。

人類の歴史は内と外に境界を設けて争いあうことで成り立ってきた。内=友、外=敵として。じゃあ「外」なくして「内」だけにすればいいんじゃね、と。

この世界でPerfumeを愛する同胞を増やしていき、境界線を広げて全世界を同胞だらけにしていけばよい。つまりこの世界を全部「内」側にしてしまえばよいのだ。

全世界をPerfumeを愛する同胞で満たしていけば世界中の人たちが全員同胞になる。全世界がPerfume共同体の一員となるのだ。

ってこれ宗教じゃん!!!

無信仰の俺にも信仰の何たるかを教えてくれるこの映画やばすぎる。

「WE ARE Perfume」というこの映画のタイトルにもなっている言葉は、Perfumeの自己紹介の英訳で、ワールドツアーでは「I'm kashiyuka, I'm a-chan, I'm NOCCHi WE ARE Perfume!」とお約束の挨拶となっている。そしてもちろんファンは「WE ARE Perfume!」のところで同じように声を上げるわけだ。「私たちもPerfumeである」と。

でもそれはおかしいといわせていただきたい。Perfumeはいわば教祖的立場の人であるわけです。私たちPerfumeを愛する同胞は教祖と同じ立場なわけはなく、あくまでPerfumeを愛する同胞、仲間という位置づけであるべきなのです。

しかしである。宗教というのは魅力的な教祖がいるだけでは立ち行かなくなるものなのです。教祖の魅力や教えを理論化、体系化して衆生や後世に伝える人が必要となるのです。

ここらへんで記事のタイトルの意味がわかりかけてきた人もいるでしょう。「私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!」の「Paul」とは「パウロ」のことです。

私たちはPerfumeにはなれないけど「パウロ」になるんだよ!これです。

イエスが「キリスト教」を設立した気なんてこれっぽっちもなかったのは確かです。イエスは自分のことをユダヤ教の革新者としか考えていませんでした。にもかかわらずキリスト教を今日の世界宗教にしたのは、イエスと会ったこともないパウロがイエスの教えを理論化体系化し、世界中に伝道したことによるのです。キリスト教とはパウロ教のことに他なりません。

アイドルを世界中に広めるのは(私はPerfumeをアイドルだと思っています)、教祖(アイドル自身)でもなく、会社でもなく、ファンひとりひとりが「パウロ」になって世界中に愛を伝え広めることなんだとこの映画は教えてくれます。

「WE ARE Paul!」これが今日から私たちドルヲタの合言葉です。

-----------------------

NY公演後にあのキャンディーズのマネージャーだったアミューズ会長大里洋吉氏が登場して、その場違いなハイテンションぶりをみせつけて場をさらっていくのに笑った。はじめて大里氏を映像で見た。なんか日本の芸能史の1ページにPerfumeもいるんだなぁと考えてしまった。
posted by シンジ at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする