2015年12月03日

私のブログを盗用しているKINO-PRAVDAに告ぐ(苦笑)

以前このようなブログを書いた。
鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって

大好きな℃-uteのアイドル鈴木愛理のことを書いた記事で結構気に入っている。

で、これが私のブログを盗用している映画ブログ「KINO-PRAVDA」2015/12/01の記事
『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか
web魚拓はこちら
http://megalodon.jp/2015-1203-0344-54/kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/

盗用している部分を証拠としてスクリーンショットしておく。
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次に2014年04月12日に書いた私の記事

鈴木愛理・・・絶対エース。四番松井。絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ(ダイノジ大谷)。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大。そして客観的に見てもアイドルとしてずば抜けた素質と才能を持ち合わせている。
しかしグループアイドル全盛時代の今、愛理のような抜きん出た才能と個性は、あくまでグループを生かすための「点」として扱われてしまう。
いうなれば鈴木愛理はグループアイドルという形式を守るための中心なき中心「空虚な中心」として使われてきた。
歌手として抜きん出た才能を持つにもかかわらず、グループアイドルという形式のための駒として扱われてきたのである。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」


そして以下が「KINO-PRAVDA」2015年12月1日の記事です。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大なものです。グループのリーダーは矢島舞美であっても、その歌唱力や存在感やパフォーマンスの高さから、やはり「中心」としての愛理の印象は強いはずです。
いまや「アイドル戦国時代」なんちゅー物騒なネーミングが施され、幾多のアイドルが量産される中においても、愛理の存在は突出した才能だと言っても過言ではありません。
しかしながらワタシは、グループ・アイドル全盛期の現在、彼女のような突出した才能と個性は、時にグループを生かすための「中心点」として扱われてしまうのではないかと危惧しているのも確かです。
「中心点」とは、文字通りに円や図形の真ん中のことを指しますが、円や図形を描くための単なる「点」でもあり、コンパスの針が刺される場所でもあります。
それはつまり「愛理という絶対的な存在があるから、我々は他のメンバーを応援することができる。愛理がしっかりとしているから、他のメンバーの個性も引き立つ」という恐ろしき思考です。
あくまで他のメンバーの個性を引き立てるための「中心」としての鈴木愛理、そんな残酷な捉え方すら為されてしまうこともあるのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか


盗用部分はさらに続きます。
KINO-PRAVDAの記事

もう一つ、歌が「歌唱」ではなく「音色」を提示する時代になったのは、彼女にとって残酷な現実だと言っても過言ではありません。
要するに、歌の「ソング」から「サウンド」への変化のことです。
これは、今現在ディーヴァと呼称されるようなソロアーティストが一掃されつつある現状からも明らかなことなのですが、作り手は、歌唱力よりも音色の心地良さを重要視しているワケですね。
もちろん、アイドル界においてもソレは同じこと。
ちょち前には、松田聖子成るパーフェクトな歌唱力を持ったアイドルが「ソング」を唄っていました。
しかし、いまやグループ・アイドルたちには「ダンス」をするための「サウンド」がセッティングされているのみ。
21世紀のアイドルは、グループであること、ダンスをすること、そしてサウンドに重きを置くこと、この3点によってほぼ定義づけられています。
つまり、「サウンド」は必要とされても「ソング」は必要とされないのです。
転じて、ハロープロジェクト屈指の歌い手である鈴木愛理にとっては、不遇の時代と言えてしまいます。
幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまいました。つまり「音楽的本質」を持ってしまったのです。
ライムスター宇多丸氏曰く「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」だそうですが、
これをアイドルの定義とするならば、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が同等の力で対立している存在」と表現できます。
実のところ、彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか


唖然としてしまいます。この人恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか。以下が私の書いた記事。完全に同じです。

歌がソングからサウンドへ変わっていったという見立ての正しさは、今現在ディーヴァ系のソロ歌手が一掃され、EDMがブームになっていることからも明らかだ。ハロプロ屈指の歌い手鈴木愛理とっては不遇の時代といっていい。
サウンド重視の今のアイドルシーンにおいて、ソング=歌のうまさなど重要ではないのだ。今のアイドルシーンでは、歌い手に合わせた楽曲は時代遅れの産物となる可能性が高い。歌唱力自慢の歌い手の個性はサウンドの邪魔になるのである。
今のアイドル三種の神器は
@グループアイドル
Aダンス
Bサウンド重視
この三つである。
この三つとも歌い手の力量を必要としないことで一致している。グループアイドルには「サウンド」は必要とされても、「ソング」は必要とされないのだ。
しかし幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまった。つまり「音楽的本質」を持ってしまった。
ライムスター宇多丸のいう「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」をアイドルの定義とするなら、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が拮抗した存在」といえる。彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのだ。
「歌手鈴木愛理」という「本質」をないがしろにしてグループアイドル、ダンスアイドルという「形式」に愛理を沿わせている現状から、いまいちど1980年代の復権ーサウンドからソングへの転換を楽曲的に行うべきではないのか。会社(アップフロント)とつんく♂さんの力がためされている。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」


完全に盗用ですね、これは。とりあえずKINO-PRAVDAに要求するのは私の記事を盗用したと認めること。それに対する謝罪と当該記事の抹消。そしてそのことをKINO-PRAVDAのページに掲載してください。

KINO-PRAVDAのURLは
http://kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/
彼のtwitterは
https://twitter.com/AndalouCaligari

とりあえずtwitterで彼に連絡を取ってみたいと思います。

KINO-PRAVDAの方から連絡がありました。私の記事の盗用を認め、謝罪文が掲載されました。
「謝罪」
http://kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/
謝罪を受け入れこの話はこれで終了といたします。

2015年12月12日現在
何の反省もなく謝罪文をあっというまに消し去ったようなのでweb魚拓を貼ります
http://megalodon.jp/2015-1203-0840-50/kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/
posted by シンジ at 03:01| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月11日

私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT

私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT

WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENTをついさっき見たばかりの興奮の真っ只中で一気に書きあげるので誤字脱字悪文ご容赦。

幸せすぎて泣けてくるという稀有な体験をさせてくれる映画。それが本作「WE ARE Perfume」だ。

映画の構成的には単純極まりない。ワールドツアーで台北→シンガポール→LA→ロンドン→NYと巡り、本番前、本番後、各都市で観光を楽しむPerfumeの三人の姿を映し出すだけだ。

ファン目線で見るならば、公演後のダメ出し会議が実に興味深い。ダメ出し会議といってもピリピリしたムードではなく、可愛いかしゆかが可愛いおみ足をモミモミマッサージをしながら、セットリストをあれこれ考えたりするのでファン的には「萌」という感情しか湧いてきません。

まじめに書くと、3人は公演後、客の反応を見て次の公演のセトリを臨機応変に変更するのだ。この曲は海外のファンにはなじみがないから変えようとか、こっちの曲の方が盛り上がるよとか。演出面でもアメリカのお客さんは暗転すると熱が引いてしまうので暗転は最小限にとどめようとか。3人が主体的にセットリスト、演出面で意見を交換していくのを見るのは楽しい。

LA公演ではトラブルで背景のLEDがつかないというピンチに立たされる。そしてLA公演後はMIKIKO先生が号泣するのである。それはうれし泣きではなく、悔し泣き。トラブルがあり、完璧に出来なかったことへの悔し泣きである。こういうところがMIKIKO先生の素晴らしいところだ。私は映画館内でおもわず「MIKIKO I LOVE YOU・・・」とつぶやいてしまった。MIKIKO先生は4人目のPerfumeなのである。あとLA公演後、OK GOのメンバーがのっちの手に熱烈にキスしてるところだけは決して許さない決して。

ロンドン公演ではのっちの大失敗とのっちの弁明が映し出され、大笑いした。大事な本番でフリを間違え、フリーズしてあ〜ちゃんの顔色をうかがうのっちのおかしさ、愛らしさ。もうとにかく映画を見てる感覚じゃなくなってる、私もチームの一員としてハラハラしたり、楽しんだり、外国の観客となって拍手してしまうのだ。

公演前は3人が異国の地を楽しんでいる姿を堪能する。3人の私服がまた三者三様の個性が出てていいんだよな〜。かしゆかは常にキメキメの服でファッションリーダー感満載。あ〜ちゃんは常にスカートで上着にはヒラヒラがついているフェミニンなものしか着ない。のっちは常にオールブラック、ダボッとしたものしか着ない、当然パンツスタイル。これだけ着る服によって性格が出るってすごいな。

ワールドツアー最終の地はNY。やはりエンタメ業界にいる人たちにとってNYは特別な地らしく、3人にも気負いや緊張が見られる。NY公演最後の曲は「MY COLOR」

「MY COLOR」中、映し出される世界各国のファンの顔顔顔・・・泣いているファンもたくさんいる。白人や黒人もいれば、アジア人もラテン系もいる。ゲイのひとたちもいる。いろんな「私の色」を持った人たちみんながみんなPerfumeを愛している、それだけの理由で集まっているのだ。

いまから子供じみた幻想を書くのでギョッとしないでほしい。マイカラーとは肌の色や人種や民族、性別、主義主張のさまざまな色のことを言っているのだとする。そうした多種多様なMY COLORはPerfumeを愛するということだけで乗り越えられてひとつになるのだ。

Perfumeの愛のもとで私たちのMY COLORはひとつに塗りなおされていく。世界はひとつだし、世界は愛でひとつになる。

世界はひとつだ、なんて言葉でギョッとされる方に、ここで多様性と多元性の違いを説明しておこう。多元性とはそれぞれが決してまじりあうことなく独立性をたもったままの状態でそれぞれ隔離的に存在するさまのことをいう。それとは違い、多様性とはそれぞれが影響しあい、交じり合うことを恐れない存在のあり方をいうのだ。それぞれのMY COLORが多種多様に存在しつつも、影響しあいまじりあってひとつになることも多様性のあり方なのだ。

・・・わかってる、わかってるよ。私もいい年をしたすれっからしのおっさんだし、世界はひとつだとか、愛で世界は変えられるだなんて本気で信じているわけじゃない。

でも、このドキュメント映画「WE ARE Perfume」を見ている2時間だけは、このすれっからしのおっさんも、俺たちはみんな同じ人間だし、愛で世界はひとつになれるとたしかに信じることができたんだ。

Perfumeを愛している人たち。そんな人たちが世界中に存在している。そのことを感じることができるだけで、えもいわれぬ幸福感に満たされ泣けてくるんだ。

たしかにこれはたった2時間の愛の幻想である。現実の人間ってのは互いに憎みあい、争いあう生き物だ。内と外で境界を作り、外側を攻撃する。そういう本性を持っている生き物だ。この本性は何万年にもわたって作られてきたものでいまさらやめろといわれてもやめるわけにはいかない厄介なシロモノだ。

でもあ〜ちゃんの言葉を聴いていると、現実を忘れ、幻想が確かな輪郭を持って浮かび上がってくるのだ。あ〜ちゃんの言葉はメンバーやスタッフ、ファンの心にクリティカルに届く恐ろしいほどの強い力を秘めている。その説得力とカリスマ性。人間力としか形容しがたい器の大きさ。

もしあ〜ちゃんが戦国時代に生まれていたなら、確実に天下を獲っていただろう。・・・いや、あ〜ちゃんのことだから戦争をことのほか嫌っているであろうから戦国時代のたとえは適当ではなかった。

もしあ〜ちゃんが宗教改革期にプロテスタント側に生まれていたならプロテスタントは天下を獲っていただろう。

もしあ〜ちゃんがフランス革命期に生まれていたなら恐怖政治は起こらずフランス国王も斬首されずに愛に満ちた共和制が今に至るまで続いていたことだろう。

私はこの映画「WE ARE Perfume」を見て人類の歴史に思いをはせていたわけだが、見ているうちに「ピコーン!」ときた。

人類の歴史は内と外に境界を設けて争いあうことで成り立ってきた。内=友、外=敵として。じゃあ「外」なくして「内」だけにすればいいんじゃね、と。

この世界でPerfumeを愛する同胞を増やしていき、境界線を広げて全世界を同胞だらけにしていけばよい。つまりこの世界を全部「内」側にしてしまえばよいのだ。

全世界をPerfumeを愛する同胞で満たしていけば世界中の人たちが全員同胞になる。全世界がPerfume共同体の一員となるのだ。

ってこれ宗教じゃん!!!

無信仰の俺にも信仰の何たるかを教えてくれるこの映画やばすぎる。

「WE ARE Perfume」というこの映画のタイトルにもなっている言葉は、Perfumeの自己紹介の英訳で、ワールドツアーでは「I'm kashiyuka, I'm a-chan, I'm NOCCHi WE ARE Perfume!」とお約束の挨拶となっている。そしてもちろんファンは「WE ARE Perfume!」のところで同じように声を上げるわけだ。「私たちもPerfumeである」と。

でもそれはおかしいといわせていただきたい。Perfumeはいわば教祖的立場の人であるわけです。私たちPerfumeを愛する同胞は教祖と同じ立場なわけはなく、あくまでPerfumeを愛する同胞、仲間という位置づけであるべきなのです。

しかしである。宗教というのは魅力的な教祖がいるだけでは立ち行かなくなるものなのです。教祖の魅力や教えを理論化、体系化して衆生や後世に伝える人が必要となるのです。

ここらへんで記事のタイトルの意味がわかりかけてきた人もいるでしょう。「私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!」の「Paul」とは「パウロ」のことです。

私たちはPerfumeにはなれないけど「パウロ」になるんだよ!これです。

イエスが「キリスト教」を設立した気なんてこれっぽっちもなかったのは確かです。イエスは自分のことをユダヤ教の革新者としか考えていませんでした。にもかかわらずキリスト教を今日の世界宗教にしたのは、イエスと会ったこともないパウロがイエスの教えを理論化体系化し、世界中に伝道したことによるのです。キリスト教とはパウロ教のことに他なりません。

アイドルを世界中に広めるのは(私はPerfumeをアイドルだと思っています)、教祖(アイドル自身)でもなく、会社でもなく、ファンひとりひとりが「パウロ」になって世界中に愛を伝え広めることなんだとこの映画は教えてくれます。

「WE ARE Paul!」これが今日から私たちドルヲタの合言葉です。

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NY公演後にあのキャンディーズのマネージャーだったアミューズ会長大里洋吉氏が登場して、その場違いなハイテンションぶりをみせつけて場をさらっていくのに笑った。はじめて大里氏を映像で見た。なんか日本の芸能史の1ページにPerfumeもいるんだなぁと考えてしまった。
posted by シンジ at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月25日

なぜ一郎彦を主人公にしなかったのか・映画「バケモノの子」

なぜ一郎彦を主人公にしなかったのか・映画「バケモノの子」

「闇」それは憎しみとか殺意のことを言うのだろうか。闇が出現する「穴」はどうしてできるのか。蓮(バケモノ界では九太)は母が事故で亡くなり、父親は母と離婚してから会いに来ることはなく見捨てられた状態で、親戚一同はイヤ〜な空気を発している。蓮はそこから逃げ出す。もはや蓮はこの社会に身の置き所のない天涯孤独の身となる。これを「無縁化」という。

この世界には自分の居場所は存在しない。そうした思いが胸に「穴」を開けるのである。その穴から飛び出たものが自分の分裂したもう一人の自分である(スプリッティング)。

自身を分裂させること自体は別に病ではない。マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」で印象的なのはトムが退屈でつらい現実から自分を守るために幻想の自己を作り出す場面が頻繁にあることだ。退屈な現実を忘れるために海賊である自分を想像したり、自分が死んでみんなが嘆き悲しむ場面を想像しては自分自身を慰めたりする。現実から自分の心を守るために想像自己を作り出すこと。それがトム・ソーヤーだけじゃない、私たちみんながやっている心の防衛メカニズムなのだ。

蓮(九太)は人間社会から逃げ出し「無縁」という苦しみをあじわう。その苦しみから身を守るために自分の身を分裂させてしまうのだ。それによってできたのが「穴」である。

ではこの映画で九太と対になる一郎彦を見てみよう。

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一郎彦は人間でありながらバケモノの子として育てられた。子供の頃はまだ自分をバケモノの子だと信じて疑わなかったが、いくら年齢を重ねて成長してもいっこうに父の息子である証拠ともいえる「牙」が生えてこないのである。自分は父の息子であるどころかバケモノですらないのではないかという疑心暗鬼が一郎彦を蝕んでいく。

一郎彦はバケモノの世界にいながら、バケモノではない存在。「周縁化」した存在である。

「周縁化」とは・・・人がふたつの集団に属しているとき、そのことで矛盾を抱えたり、どちらの集団においても低い地位に押しやられる圧力を受けたりすることを周縁化という。人々は周縁化された位置からの逃避あるいは解消を試みるだろう。−ロドニー・スターク


一郎彦は自分が尊敬してやまない父の実の息子ではないこと、そしてバケモノですらないことに気づくと、心の防衛メカニズムが働き自己分裂することになる。偉大なる父の息子であり、父の跡を継ぐ偉大なるバケモノの子であるはずの想像自己と、現実の惨めな自己とに。

分裂して胸にポッカリと空いた穴に埋まるのは「憎悪」。父、猪王山(いおうぜん)があろうことか熊徹に敗れたとき、その闇が一気に膨れ上がるのは象徴的である。普通ならいままでバケモノの子とだまされて育てられたことに対し怒りを向ける相手は猪王山であるはずだし、後ろめたさの原因であるバケモノの世界であってもいいはずだ。しかし一郎彦の憎悪の対象はあくまでニンゲンである。それはなぜか。

まだ作家になる前のジョージ・オーウェルが英国の植民地だったビルマに赴任したとき感じたことは、英国人に仕えるビルマ人は英国人以上に同胞であるはずのビルマ人に苛烈に当たるということだった。

支配階級の文化を受容し、自分を紳士に擬すれば擬するほど、労働者階級である自分の出自はますます引け目の多いものになっていく。そしてその引け目があるからこそ、ますます支配的価値への同化と忠誠を強めていくのである。−オーウェル評論集1


これをそのまま「バケモノの子」の一郎彦の立場に当てはめてみよう。

バケモノの文化を受容し、自分をバケモノに擬すれば擬するほど、人間である自分の出自はますます引け目の多いものになっていく。そしてその引け目があるからこそ、ますます支配的価値への同化と忠誠を強めていくのである。


バケモノの世界に所属していながら、人間であるという出自により周縁へと追いやられた一郎彦はますますバケモノの子であることにこだわり、自分本来の出自であるニンゲンを憎悪するようになるのである。現実自己と折り合うことの出来ない一郎彦は想像自己こそが自分の本当の姿であると思い込み、すべての現実を否定する。まず真っ先に否定すべきなのは、偉大なるバケモノの父とその息子である自分の存在を危うくする「ニンゲン」であり、ニンゲンでありながらバケモノと父と子の契りを交わす九太である。

九太と一郎彦とまったく同じ存在なのにも関わらず、一人は憎悪のモンスターと化し、一人は世界と和解しあう。

九太は熊徹とバケモノの仲間たちとの交流を通じて、自分を無縁へと追いやったニンゲン世界を許し、自分を見捨てた父を許す。そして熊徹もバケモノ世界での自分の父親として認める。九太は人間世界もバケモノ世界もともに肯定し、そこに存在する等身大の自分を認める。

一方、一郎彦は等身大の自分も世界をも認めることが出来ず、想像自己の暴走を許すことになる。想像自己を否定するものをことごとく破壊し尽くさないではいられない存在=鯨へと姿を変えるのだ。

この鯨はいうまでもなくメルヴィル「白鯨」のモービーディックからきている。ではなぜ白鯨なのか。メルヴィルの白鯨は何を表しているのか。

メルヴィルにおける白鯨とは、「自然」のことである。といってもその自然は「緑豊かな木々や草花」のことではない。自然についてニーチェはこう書いている。

自然という物の本性を考えてみたまえ。節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛でかつ同時に不確かなものだ。−善悪の彼岸


自然とは無秩序で人間の理解の及ばない得体の知れないもの。それに対し人間社会は秩序であり、隅々までゆきわたる論理であり、計量可能なものである。

いわば自然は人間社会を脅かすものと「白鯨」執筆当時は考えられていた。秩序を維持するために、人間が心安んじて生きていくためには無秩序かつ不毛で、不確かな領域である自然を克服しなければならない。

だが「白鯨」のユニークさはそれだけではない。白鯨を追うエイハブ船長その人こそ「節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛でかつ同時に不確かなもの」を抱える怪物なのだ。怪物が怪物を追う話なのだ「白鯨」は。

つまり人間もまたその心の奥底に「自然」を宿しているのである。エイハブは白鯨を殺すと同時に、自分の内なる自然をも殺すことになるのだ。

一郎彦も同じことだ。彼は人間社会を破壊しつくすと同時に自分の内なるものをも喰いつくそうとしているのだ。

合わせ鏡の二人、九太と一郎彦では、やはり周縁化によるアイデンティティクライシスの一郎彦のほうが病が重い。九太を無縁に追いやったのは社会のほうであって九太自身に責任はない。敵は社会であって自分の中にはいない。一方、一郎彦の敵は自分の中に存在する。そのため、より重大な危機に瀕しているのは一郎彦であり、本来なら映画の中で九太以上に深く描かなければならない存在であったという批判はあってしかるべきだ。

ではなぜ一郎彦が主人公ではなく、九太が主人公となるのか。

それは九太が細田守の息子だからである。細田守は徹頭徹尾、映画を自分の半径5メートルの問題にすり寄せてしか考えられない映画作家なのだ。「サマーウォーズ」は細田が結婚して妻の親戚一同と会った経験を映画にしたものだし、「おおかみこどもの雨と雪」は細田の妻が妊娠したのを受けて考えられた物語だ。そして「バケモノの子」は細田に子供が生まれて、さあどうしよう、どう育てるべきなのかを考えた物語なのだ。息子にどう接していいかわからない自分。不安におののく父親からの視点で映画「バケモノの子」は作られている。

一郎彦という存在は映像化にふさわしい大テーマであり、政治的、社会的なものを含んだ深遠なメッセージを映画にもたらしたはずだ。一郎彦という「周縁化」された存在。ふたつの共同体の狭間でアイデンティティクライシスに苦しむ少年。それはより世界的・普遍的なテーマを私たちに思い起こさせるだろう。それはユダヤ人問題であり、日本における「在日」問題のことだ。

一郎彦を主役として描くだけで、それら普遍的な大テーマが描けたはずなのだ。しかし細田はそれを避けてしまう。なぜならそれは自分の問題ではないと思っているからだ。自分の問題、自分の扱える問題は半径5メートルのことだと思っているからだ。だから細田は自分の息子を投影した九太を主人公にした。自分の「実感」がともなったこと以外は描けない細田守的ファンタジーがどこか狭苦しく感じられるのはそこに原因があるとはいえないだろうか。
posted by シンジ at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする