2020年01月24日

コスモポリタンへの違和感

最近のカズ・ヒロ氏のインタビューやゴーン逃亡に対してのリベラルの賞賛に違和感があったが、それがグローバリストやコスモポリタンに対する違和感であることが言語化できたのでメモとして書き残しておく。

2020年米アカデミー賞でノミネートされたカズ・ヒロ氏のインタビュー

「ウィンストン・チャーチル〜」で受賞をした時にも、彼は、「日本を代表して」とか、「日本人として初の」というような言われ方をされるのが、あまり心地よくないと語っていた。

「日本人は、日本人ということにこだわりすぎて、個人のアイデンティティが確立していないと思うんですよ。だからなかなか進歩しない。そこから抜け出せない。一番大事なのは、個人としてどんな存在なのか、何をやっているのかということ。その理由もあって、日本国籍を捨てるのがいいかなと思ったんですよね。(自分が)やりたいことがあるなら、それをやる上で何かに拘束される理由はないんですよ。その意味でも、切り離すというか。そういう理由です」。

https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20200114-00158572/

それはコスモポリタン(国際人)への違和感でもある。

世界で最初に我こそはコスモポリタンであると宣言したのはディオゲネス(紀元前412年?ー 紀元前323年)だった。

中世にも「私の故郷はおよそ世界である」といった人がいた。ダンテ(1265-1321)である。

ディオゲネスやダンテがコスモポリタンを自称できたのは世俗世界の上位にある教養人の世界に属しえたからだ。ディオゲネスはギリシアの哲学世界、ダンテはイタリアの詩人世界に。土地や親族、共同体を無視し唾棄すべきものとして遠ざけることができたのは知識人階級に属し、才能に恵まれたからでもある。まさにグローバルエリート族だからこそコスモポリタンを名乗れたのである。

コスモポリタンとは土地や親族、共同体から離れて個人の才覚のみに頼って生きることが出来ると「思っている」スーパーエリートである。ブルクハルトが言った様に「コスモポリタニズムは個人主義の一つの最高段階である」(ーイタリア・ルネサンスの文化)。彼らが頼みとするのはおのれの才覚ひとつであり、それ以外は取るに足らないものにすぎない。

しかしだ、ダンテもディオゲネスも土地や家族、共同体や民族が長年つちかってきた文化資本を摂取して生まれ育ってきたことを忘却している。人間の生来の資質=才能は自分だけの「手柄」ではない。才能は生まれ育った土地や家族、共同体のリソースによって開花するものであって個人の手柄でも「功績」でもない。

ではグローバリストやコスモポリタンのように才能は完全に個人の資質であり「手柄」であると考えると人間はどうなるか?サンデルいわく「成功を自分の手柄と考えるようになると遅れをとった人々に責任を感じなくなる」(ーこれからの「正義」の話をしよう)。エマニュエル・トッドも「グローバル化で、エリートは自分の国の人々に対して責任を感じなくなった」。

生まれ育った土地や共同体に帰属意識を持たなくなり、したがってそこへの責任も持たない、いびつな個人主義が選民思想をともなったとき、コスモポリタンというフリーライダーが誕生するのである。
posted by シンジ at 23:28| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月31日

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

主人公の帆高の選択に対する批判としてこれを社会性のないものであるとか、浅薄な功利主義(最大多数の最大幸福)批判であるとか、公共的なものへの反発からくる徹底した利己主義、リバタリアニズム(自由至上主義=個人の自由と権利を絶対視する思想)であるとかいう批判が一部にある。

一方で帆高の選択に対する賞賛として非常にラディカルでアナーキーなものであると賞賛する人たち(おもに革新幻想にとらわれた中年男性)がいる。むしろ批判よりもこっちのほうが多いかもしれない。

だがこの批判するもの、賞賛するもの両者ともに映画に描かれているものと向き合わず、新海誠の意図するものを無視し、頭の中にある「公式」に映画を当てはめているにすぎない。

この批判と賞賛の両者が見逃しているものとは新海誠その人であるといってもいい。

はたして新海誠は徹底した利己主義、自由至上主義の観点から帆高の決断を描いたのであろうか。もしくはこの世界など滅びてもかまわない、愛さえあればそれでいいというようなアナーキズムからこの決断を描いたのだろうか。

どちらも共に間違っている。

私のようなすれっからしからしてみれば信じられないことなのだが、新海誠は本心から「世界が良くなってほしい」と願い「世界が少しでも良くなるよう」に思いをこめて映画を作るお人なのだ。

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」ーLINELIVEの『君の名は。』特番での新海誠。


私は新海誠のこの発言が嘘偽りない彼の本心、映画作りの根底にある考えだと確信している。ここ何年かの新海誠のインタビューや対談のネット記事、雑誌記事のほとんどに目を通してきた結論がこれだ。(これでもし彼の発言が全部嘘で演技しているだけというなら脱帽する)

新海誠は我々が思っている以上に「ガチ」の人なのだ。心の底からこの世界が良くなればいいと願いながら映画作りをする新海が、リバタリアニズムにもとづいて、もしくはアナーキズムにもとづいてこうした選択を描いているのだと見えたのなら、その目は節穴である。

新海誠は議論の余地なく完全に帆高の選択こそが「世界を良くする」ものだと確信して描いているのである。

新海は徹頭徹尾、登場人物に寄り添い、どうすればこの子達が幸せとなるのか、どうすればこの世界がより良いものとなるのかを真摯に考え抜いた結果、この選択、この決断を描いたのだ。

帆高がくだした決断は、まず「目の前にいる苦しんでいる子を助けよ」という衝動に従うことだった。

目の前にいる苦しみ助けを求める人に手を差し伸べることこそが全世界を救うことと同義であるということ。

ここで毒々ルサンチマンもちの邪悪な私が囁く。「いや、もちろん目の前に困っている人がいたら助けるけども・・・それと世界を救うことには深い断絶があるよね?私たちは家族や友人、目の前にいる人は助けようと思っても、少しでも離れた地域や別の国にいる人たちの不幸に関してはほとんど無関心じゃないか」

人間の同情心や想像力というのは自分の身近なものにしか働かないように見える。そうした狭い範囲でしか通用しない衝動に身をまかせることは根本的にあやまちではないのか。

しかしこの目の前にいる苦しんでいる人を助けるという衝動こそ孟子のいう

「人皆人に忍びざる心有り」


に他ならない。これを「道徳を基礎づける」のフランソワ・ジュリアンはこう訳す。

「誰にとっても他人が不幸に沈んでいる時に無関心でいられず、反応を引き起こすものがある」


これを「仁」という。

なるほどこの「仁」はいまだ不完全であるかもしれない。目の前の人を助けても、地球の裏側で苦しんでいる人々を助けることもできないちっぽけな感傷かもしれない。

だがしかし目の前にいる苦しんでいる人を助けたいと思うこの小さな衝動こそが人のモラルの源泉であり根底にあるものなのだ。この未熟で小さな思いこそが地球上のすべての人々が倫理的にふるまう最初の一歩なのだ。

新海誠は苦しんでいる人が目の前にいたなら、それに無条件で手を差しのべる衝動こそが世界をより良くする第一歩だと本気で信じているからこそ「天気の子」を作った。

帆高の決断は愛を選ぶか、世界を選ぶかというような陳腐なトロッコ問題ではない。男女間の愛の問題ですらない。

焦点は「仁」なのである。
posted by シンジ at 08:15| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月14日

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」すさまじいアニメ表現と色っぽい人物、特に少年青年老人の男勢がみんな色っぽい。アニメのキャラクターでここまで色っぽく描写できるのは驚異としかいいようがない。色っぽいというのは性的も含むけど、実在感、肉体感、身体性がすぐれているということ。アニメ演出、作画両面ですさまじく高水準な仕事をされていることがわかる。

多くの人が意味がわからないという思想的な面も「ひとつは全にして全はひとつなり」「自と他の区別なく、生と死の境もない」というような仏教思想を多少齧ったことがあるならなんとなく理解はできるだろう。

主人公ルカの家の前を虫が羽虫の死体を引きずっていく場面や、エンドクレジット後の場面ー母親が赤ちゃんのへその緒をルカに切ってくれと頼むとルカはへその緒を切りながら「命を断つ音がした」という場面はまさに「生と死はつながっているし境もない」ということをあらわした場面だ。

しかしこの映画の背景にあるのは実は仏教ではない。この映画の海や鯨に対するこだわりからみてこれはあきらかに「ニューエイジ」だろう。

「ニューエイジ」とは、1970年代にムーブメントを起こしたースピリチュアリズム、オカルティズム、神秘主義、LSDカルチャー、チャネリング、手かざしなどの代替医療、環境保護などが混合された思想、擬似宗教。

その根本思想とは「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインドが融合」(スピリチュアルコネクトより引用)したものだ。

「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインド」まさにこれこそが映画「海獣の子供」のすべてでありニューエイジそのものだ。おそらく原作者はニューエイジにどっぷりつかった人なのは間違いない。

多くの人がわからないという「海獣の子供」のクライマックスの観念的な映像を映画「2001年宇宙の旅」のラストの映像とくらべるむきも多いと思う。その考えは間違っていない。

こんなことを聞いたことがあるー「2001年宇宙の旅」は「しらふ」で見る映画ではないのだと。「2001年宇宙の旅」はドラッグをやりながら見るとあの最後の映像でトリップできる。トリップすることによって映画の真の価値があらわになるというのだ。

ようするにLSDカルチャー、ニューエイジカルチャーとしての「覚醒」=トリップ感覚を味わうために「2001年宇宙の旅」や「海獣の子供」のあのトリップ映像があるのだ。そしてそうしたトリップ感覚はお手軽な「悟り」として世界中に輸出され、オウム真理教のようなカルトを世界中に生んだ。

映画「海獣の子供」は極限にまで達したアニメ表現の素晴らしさと「え?今頃ニューエイジ!?」という不可解さの混合だ。

posted by シンジ at 15:57| Comment(1) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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