2019年06月14日

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」すさまじいアニメ表現と色っぽい人物、特に少年青年老人の男勢がみんな色っぽい。アニメのキャラクターでここまで色っぽく描写できるのは驚異としかいいようがない。色っぽいというのは性的も含むけど、実在感、肉体感、身体性がすぐれているということ。アニメ演出、作画両面ですさまじく高水準な仕事をされていることがわかる。

多くの人が意味がわからないという思想的な面も「ひとつは全にして全はひとつなり」「自と他の区別なく、生と死の境もない」というような仏教思想を多少齧ったことがあるならなんとなく理解はできるだろう。

主人公ルカの家の前を虫が羽虫の死体を引きずっていく場面や、エンドクレジット後の場面ー母親が赤ちゃんのへその緒をルカに切ってくれと頼むとルカはへその緒を切りながら「命を断つ音がした」という場面はまさに「生と死はつながっているし境もない」ということをあらわした場面だ。

しかしこの映画の背景にあるのは実は仏教ではない。この映画の海や鯨に対するこだわりからみてこれはあきらかに「ニューエイジ」だろう。

「ニューエイジ」とは、1970年代にムーブメントを起こしたースピリチュアリズム、オカルティズム、神秘主義、LSDカルチャー、チャネリング、手かざしなどの代替医療、環境保護などが混合された思想、擬似宗教。

その根本思想とは「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインドが融合」(スピリチュアルコネクトより引用)したものだ。

「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインド」まさにこれこそが映画「海獣の子供」のすべてでありニューエイジそのものだ。おそらく原作者はニューエイジにどっぷりつかった人なのは間違いない。

多くの人がわからないという「海獣の子供」のクライマックスの観念的な映像を映画「2001年宇宙の旅」のラストの映像とくらべるむきも多いと思う。その考えは間違っていない。

こんなことを聞いたことがあるー「2001年宇宙の旅」は「しらふ」で見る映画ではないのだと。「2001年宇宙の旅」はドラッグをやりながら見るとあの最後の映像でトリップできる。トリップすることによって映画の真の価値があらわになるというのだ。

ようするにLSDカルチャー、ニューエイジカルチャーとしての「覚醒」=トリップ感覚を味わうために「2001年宇宙の旅」や「海獣の子供」のあのトリップ映像があるのだ。そしてそうしたトリップ感覚はお手軽な「悟り」として世界中に輸出され、オウム真理教のようなカルトを世界中に生んだ。

映画「海獣の子供」は極限にまで達したアニメ表現の素晴らしさと「え?今頃ニューエイジ!?」という不可解さの混合だ。



posted by シンジ at 15:57| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月26日

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武監督の「アウトレイジ最終章」後の新作映画が決まったようだ。文藝春秋2019年1月号でのビートたけしと伊集院静との対談で明かしている。

たけし−いま、ずっと映画にしたいと構想している。本能寺の変を題材にした「首」って歴史物を、小説とシナリオで同時に進めてるんです。片っ端から史料を読んでノートを取るでしょ。そうすると、こんなに積み上がっちゃって。どうしていいか書きあぐねている感じですよ。

伊集院−ちょっとしたきっかけがあればそこから飛躍するのはあっという間ですよ。私も取材をするけれども、実際の小説は資料や聞いた話とは別に育っていくから。

たけし−今年は小説を六本書いちゃったんで、来年はしっかり「首」に集中しようかと思ってるんです。

伊集院−映画「首」は、いつ頃撮るご予定ですか?

たけし−「いだてん」(NHK大河ドラマ)が終わってからでしょうね。大河で俺は古今亭志ん生さんを演るんですけど、セリフは少ないんです。だいたい月二回の撮影で来年の九月までかかるのかな。(文藝春秋2019年1月号)


2019年9月以降撮影開始と予想される「首」とはずばり「織豊時代のアウトレイジ」である。この企画はもう十年以上前から北野武の口にのぼっては消える幻の企画だった。

北野武はつねにいくつかの映画企画を準備している人なのだが、「首」も企画はされるもののオフィス北野の森昌行元社長に却下される映画のひとつだった。

却下された映画企画の中には、たとえば障害者にピナ・バウシュ風のダンスを躍らせる時代劇だったり、のちに小説「アナログ」として結実した恋愛ものもあった。映画「首」も森昌行に却下されて日の目を見ないはずの映画だったのだ。

しかし事態は急転した。北野映画の企画をさまざまな理由で却下しつづけて、本人が撮りたくもないヤクザ映画の続編を二本も無理やり撮らせた元凶はもう存在しない。

北野武が本当に撮りたかった企画「首」がついに始動したのだ。ただ森昌行が「首」を却下した理由もわかる。映画「首」の内容を北野武監督自身の証言から追ってみよう。

豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。

でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。

その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。

それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。

それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」

まさに本人が話す内容から見ても「織豊時代のアウトレイジ」と呼ぶにふさわしい内容だ。だが織豊時代を描く、さらには高松城の水攻めや中国大返しを描くとなると莫大な予算がかかってしまう。森昌行が映画化に二の足を踏んだのも理解できる。

しかしどうやらこの「首」にGOサインが出たということはお金を出してくれるところが見つかったようだ。シナリオと同時に小説も書くということはその小説の出版社がお金を出してくれるのではないか。

そしてその出版社とは北野武の小説「ゴンちゃん、またね。」や「フランス座」を出版した文藝春秋社ではないだろうか。

同じ出版社である新潮社が映画「関ヶ原」に出資してそれなりの手ごたえを得た(興行収入24億円)ことも文藝春秋社には念頭にあったのではないか。そしてここで満を持して日本を代表する出版社が世界的巨匠の映画に出資するのだ。楽しみでならない。

北野武新作映画「首」見るまでは生きていようという気にもなるものだ。
posted by シンジ at 19:34| Comment(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月05日

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

現在世界中で跳梁跋扈するイデオロギー、リベラリズムとグローバリズム。この二つの巨大な潮流を80年以上前に徹底的に批判したのがカール・シュミット(1888-1985)である。

シュミットのもっとも有名な政治理論「友敵論」が書かれた著作「政治的なものの概念」の中で標的にされるのがリベラリズムとグローバリズムなのだ。

シュミットにおいての「友敵論」の友と敵とは、すべての政治的関係の基盤にあるものだ。味方と敵=友と敵という現実可能性を無視する政治理論はシュミットにとって意味のないものだ。

友と敵は「主権」をもった政治的団体間の関係のことである。シュミットにとっての「主権」とは、「戦争」という現実の闘争の「危急事態」に際し「決断」できるものだけを「主権者」と呼ぶ。戦争などの危急事態=例外事態に決断を下すことができるものだけが「主権者」であり「主権団体」なのだ。

こうした主権をもつものだけが「政治的単位」と呼ばれる。したがって多元主義的な政治理論における中間団体=宗教団体、労働組合、家族、スポーツクラブなどは政治的単位とは認められない。

政治的単位とはあくまで例外状況における決断のできる主権を持った団体だけが政治的単位であり、友敵区別はこの政治的単位にのみ限られる。たとえこの友敵区別に反対し、非政治的であろうとしたり、中立であろうとしても、非政治的であることや中立であることに正当性や優位性を見出しているのであり、その時点でみずから友敵区別を実行しているのである。

こうした友敵区別からは必然的に「国家多元論」が生じてくる。友敵という基本的な政治関係にとって諸国家群の存在は必須であるからだ。そしてこの考えに基づけば「世界国家」などあってはならないものなのだ。

友敵の「敵」とは

「政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとは限らず、敵と取引するのが有利だと思われることさえおそらくはありうる」(政治的なものの概念P15)


シュミットにおいて「敵」とは「悪」ではなく、交渉も取引もできる相手である。しかしリベラリズムとグローバリズムは基本的政治的単位である友敵を無化し、友敵の基盤である「国家多元論」を認めず「世界統一国家」=グローバリズムを推進する。

リベラリズムとグローバリズムというイデオロギーは敵を敵とはみなさなくなり、敵を「非合法」「非人間的」な怪物としてしかあつかわない。

敵ならざるものが非人間的、非合法的な怪物である以上もはやそれは法律(デュープロセス)や人権を剥奪された「透明な怪物」として処理されるだけの存在となる。

これこそがリベラリズムとグローバリズムの落とし子=「ポリティカル・コレクトネス」の誕生である。「ポリティカル・コレクトネス」に反するものは法律によって裁かれる前に社会的に抹殺される。抹殺するのに確かな証拠や裁判や警察すらも必要でなくなるのである。

リベラリズムとグローバリズムは国家や政治的なもの=友敵を解体し、すべてを法律以前の「道徳」と「経済」に従属させる。リベラリズムとグローバリズムによる「世界の非政治化」(=「非友敵化」)はこの世界を「道徳」と「経済」による完全支配へと結実する。

この「道徳」と「経済」によって完全支配された世界、リベラリズムとグローバリズムが完遂された世界においてもはや「敵」は存在しない。リベラリズムとグローバリズムに反するものは非合法化、非人間化され抹殺されるだけの透明な存在に過ぎなくなる。

1932年に書かれたとは思えない恐るべき予言の書といっていいだろう。とくにリベラリズムとグローバリズムが法律を超える「道徳」と「経済」にすべてを従属させようとすると喝破したのは背筋があわ立つ思いがする。

この恐るべき予言の書がナチスの法学者であったカール・シュミットの手によって書かれたのは皮肉としかいいようがない。
posted by シンジ at 00:11| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする