2016年03月28日

凡人が戦い続けることに意味はあるか・映画「ちはやふる」評

凡人が戦い続けることに意味はあるか・映画「ちはやふる」評

映画「ちはやふる」では綾瀬千早(広瀬すず)は最初からポジティヴ天才人間として描かれる。それも外側からの視点で。つまり周囲にいる凡人たちから見た視点でちはやが描かれる。

何の才能もない平凡な高校生たち(つまり私たちのことでもある)がひとりの天才を仰ぎ見るという構図は必然的に物語全体に「苦さ」というものを生じさせる。

競技かるたは才能のある選ばれた者がやればいいのであって、何の才能もない者がやる意味なんてあるのか。勝つ見込みもないのに、なぜこんな苦しい思いをしなければならないのか。

これは大変シビアな問いを私たちに突きつけます。

「才能を必要とされる競技に、才能のない人間が挑む理由はあるのか」

この問いを普遍化するとこうなる。

「何の才能もない凡人が戦い続けることに意味はあるのか」

これが真島太一(野村周平)になると、さらにひどい形容詞がつく。

「小ずるく、卑劣な人間に生きる意味はあるのか」

子供時代のかるた大会で太一は負けたくないために、千早の前でいい顔がしたいために綿谷新(真剣佑)のメガネを隠す。太一の卑劣さ卑小さの描写はさらに続く。新(あらた)に渡してくれと言われた携帯の番号を千早に渡さない太一。

ちはやふるはこの卑劣かつ卑小きわまりない凡人、太一の苦悩の物語でもある。そしてこの何のとりえもない、ずるく、あさましく、醜悪な人間太一は私たちの自画像に他ならない。

はたしてこのような醜悪な凡人、卑小な人間が戦う意味、生きる意味はあるのだろうか、という絶望的な問いに私たちは向き合わざるえなくなるのだ。なんという恐ろしい映画だろうか。

映画ちはやふるはこの問いにどう答えてくれるのだろうか。このような難問にたった2時間の映画で答えを出せるのだろうか。

太一は新のメガネを隠したところをお地蔵さんに見られます。そのことによって太一はかるたの神様からの「恩恵」を失ったと考えるようになる。「恩恵」を失った太一はそれ以来、競技かるたの運命戦(自陣・敵陣ともに残りの札が1枚ずつになる展開)に勝つことができなくなります。

太一にとって「恩恵」とは天から、自分の外側からさずかるもの。つまり才能とはどこか外側から与えられる「恩恵」であって、才能のない自分は「恩恵」をさずけられなかった凡人である。だから「恩恵」を与えられている千早や新にどこかコンプレックスを抱いている。恩恵を与えられなかった自分が彼らと同じ土俵で戦い続けること自体「無駄な努力」にすぎないのではないかと思っている。

しかし太一は自分と同じ凡人である机くん(森永悠希)の屈辱と悲しみを見て、天才であるはずの千早の苦しみを見て気づく。

大会中にやる気を失ってしまう机くんを見てチームに動揺が走る。机くんにとっての価値基準とは、テストでいい点数を取ること。かるたで自分が勝利すること。そしてなによりチームに必要とされること。簡単に言えば外部評価、他者評価こそが机くんにとって価値あるものとなる。こうした外部評価が得られないとなると、かるたをやる意味が机くんには見出せなくなるのだ。机くんは心底かるたをやりたいと思ってかるた部にいるわけではないからこれは必然である。

実は太一も机くんと同じで、自分は「外側」からくる「恩恵」に見放されたために勝てなくなった、才能が失われたと思っている。机くんも太一も自分の「外側」のものから見放されたがゆえに、もう自分がかるたをやる意味がないと思っているのだ。

それに対して千早はチーム内の動揺という「外側」のことが気にかかり、力を発揮できない。しかし「外側」からの雑音をシャットアウトし、「自由」になったとき。すなわち自分の内側からあふれるでるかるたへの情熱にだけ身をまかせたとき、最大の力を発揮することができるのだ。

千早は映画でははじめからポジティヴ天才として描かれているが、原作ではスターである姉にコンプレックスを持ち、家族からもまるで相手にされない孤独を抱えた少女だった。そんな孤独な少女がやっと見つけた自分のもの、それが「かるた」なのだ。

「恩恵」とは外側から来たり、誰かからさずけられたりするものではなく、自分の「内側」にこそ「恩恵」は住まう。外側なんて関係ないんだ。自分の内なる情熱こそがもっとも価値あるものなんだ。

凡人が戦い続ける意味、生きる意味は、決して外側にあるのではなく、ただ自分の内側からあふれでるものに忠実になること。光は自分の中にしかない。これが私たち凡人が向き合わなければならない難問に対する「ちはやふる」の答えだ。
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2016年02月10日

2015年めっちゃ面白かった本ベスト10

2015年度ベストBOOKを発表します。ベスト10とありますが、11冊面白かった本を紹介します。

11位エマニュエル・トッド「移民の運命」
欧州を代表する知性としてピケティと並んで日本のメディアに取り上げられることも多いエマニュエル・トッドが世界中の家族形態を調査して、移民を受け入れる体制が、国ごとの家族形態によって異なることを論証する。それはおおまかに「普遍主義」と「差異主義」の二つに分けられる。この場合ものすごく大ざっぱに説明すると普遍主義とは「人間はみな同じようなもので大した違いはない」という考え。差異主義は「人間は生まれや育ち、環境によってまったく違うものとして存在する」という考え方のこと。トッドは左翼にして愛国者であることを隠しもせず、フランスの形態である「普遍主義」こそがもっとも移民を受け入れる体制としてふさわしいと豪語するのである。普遍主義とはこの場合「同化主義」を意味する。「差異主義」の国々では「多文化主義」という美名の下に各民族ごとの「隔離政策」が行われているに過ぎないというのだ(差異主義の代表的な国はドイツ、日本、アメリカ)。その証拠にフランスでは人種混交率が他の国より高い。こうした人種混交=同化主義こそが移民問題を解決する鍵となるというのだが、もはやトッドが自慢するようなフランスの同化政策は揺らいでいるのが現実だ。欧州で最も極右が台頭し、移民に対する風当たりが強い国、移民たちにもフランスは移民したくない国筆頭として挙げられるようになってしまっている。トッドの斬新な研究が、容赦ない現実によって無残にも洗い流されようとしているのを読んで味わうのもまた一興というわけで、あえてベスト10圏外の11位からはじめてみた。

10位ビートきよし「相方」
ツービート、ビートたけしファンにとっては、意外な浅草時代の真実が明かされている。一般的なイメージとして才気あふれるたけしによって凡庸なきよしが引き上げられツービートが結成されたというものがあるが、実際は浅草にいた頃のたけしはとにかくやる気ゼロ、酒を飲んでは客前に出て暴言を吐くような、自暴自棄なダメ人間だったのだ。そうしたやる気のないダメ人間のたけしを才能はないが野心とやる気だけはあるきよしが説得し、強引に漫才に引き込み、やる気を出させ、救いあげたというのだ。また長年の相方だけあって、たけしに対する観察眼も並々ならぬものがある。とくにたけしが自分がステップアップするために誰の力を利用したらよいかの嗅覚が並外れていたと喝破するところなど、あのきよし師匠に非凡ささえ感じてしまう。・・・まぁゴーストライターが書いてるんだろうけど。

9位ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」
なんか最近読む外国のミステリーに過去の陰惨な事件をたどっていく形式のものが多い。アイスランドのミステリ作家インドリダソンの全作品をはじめ北欧のミステリ、ジャック・カーリィの髑髏の檻などなど。ハリー・クバート事件も30年前の事件が現代によみがえる形式になっている。そしてひとりの女を多面的に描くのはルメートルの「その女アレックス」でもあり黒澤の「羅生門」のようでもある。この作品の非凡さは羅生門からシラノ・ド・ベルジュラックへと変転していく万華鏡的展開にある。ちなみにこの作品アマゾンのレビューでは評価が低いが、めっちゃ面白いんで無視してください。本にしろ、映画にしろ、食べ物にしろ他人の評価は当てにしちゃならんです。2011年映画秘宝でワースト1だった作品に「スーパー8」なる作品がありますが、これは私大好きな作品ですし、食べログで評価の高いラーメン店に行くと、がっかりすることがたびたびあります。他人の評価を当てにしていると本当に素晴らしいものを見逃すことになります。

8位森本あんり「反知性主義・アメリカが生んだ「熱病」の正体」
日本では反知性主義とは(自民党などを支持する)知的レベルの低い大衆を批判する言葉として近年知識人を中心に頻繁に使われているが、反知性主義という運動や言葉が生まれたアメリカではまったく違う意味であるという。むしろ反知性主義はキリスト教エリートたちに対する大衆側からの反発や批判を意味していた。反知性主義とは反エリート主義、反権威主義という積極的で肯定的な意味合いを持つものなのだ。これを読んじゃうともう安易に反知性主義というレッテルを他人に貼ることができなくなってしまう。残念だったね内田樹先生。

7位ブレイク・クラウチ「パインズ」「ウエイワード」「ラストタウン」ウエイワード・パインズ三部作
1作目のアイデア一発勝負ものがまさか3部作も続けることができるなんて。しかも3作とも面白い!なんも考えずにジェットコースターに身を任せる感じで読み進めていけばよい。面白くて時間を忘れて夢中になってしまう。難しいことなんて何一つない。ミステリも、SFも、モンスターパニックもなんでもござれの、これがTHE娯楽である。

6位フェルディナント・フォン・シーラッハ「禁忌」
前半部分は文学的香気が充溢してて「これは傑作やな〜」と思っていたんですが、後半の裁判部分、真相に差し掛かると「おい!なんやこの茶番!」となる非常に読者を混乱させてくれる作品です。この作品はある人にとってはベスト作でもあるでしょうし、別の人にとってはワースト作にもなる。でもこうやって読者を混乱させることがシーラッハの目的であるならば、私はまんまとその罠に引っかかったといえるわけでこの順位にしました。

5位米澤穂信「王とサーカス」
これは禁忌とは逆で、前半は退屈なミステリで「なんや平凡なミステリやな」と。米澤先生の好調もここで途切れるかなと思っていたんですが、終盤になってきて「うわ〜そうきたか〜米澤やべ〜!」となりましたよね。ミステリは本筋を隠すためのものにすぎなくて、本当に伝えたいメッセージがラストにドカン!と提示されるのにびっくり。ニュースを消費するメディアや私たち読者にも襲い掛かってくる真の犯人の恐ろしさ。米澤穂信絶好調。

4位ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」
これに関しては長文を書いていますので、そちらを参照していただければ。「その女アレックス」にもびっくりしたけど、ミステリ好きにはこっちのほうがショックが大きいかもしれない。
ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

3位イアン・マキューアン「初夜」
マキューアンのなにがすごいって文章がすごい。翻訳者の村松潔氏もすごいんでしょうけど、この心のひだの裏の奥のほうまで表現する文章力。ゾッとするけど美しい。華麗なんだけど吐き気を催す筆致にクラクラする。特にこの初夜はマキューアン節が炸裂してる大傑作で、SEXがテーマなんだけど、そのSEX描写のおぞましさたるや・・・もう一生童貞でかまいません的なギブアップせざるえない強烈な描写。おぞましいまでのSEXに対する嫌悪が克明に描かれるのである。すんごい、ホントすんごい。

2位ジョン・ウィリアムズ「ストーナー」
外国文学ではこれがダントツの1位です。ナボコフは「小説に「実人生」を探すという致命的な誤りを犯さぬように最善の努力をしたいものだ。」というようなことを書いている。その意図は、文学がなんらかのイデオロギーや社会的メッセージの奴隷であることへの拒絶にあります。ナボコフにとって作品の本質は社会の中にはなく、作品の中にしかないのです。
「文学は狼が来たと叫びながら、少年が走ってきたが、その後ろには狼なんかいなかったというその日に生まれたのである」ー「ナボコフの文学講義」

ナボコフの言いたいこともわかります。しかし、私は文学の中に実人生を、自分自身を見つけたいのです。私は作品に感情移入し、共感し、没入できることを無上の喜びとする凡庸な読者です。文学に高度な読み、ハイコンテクストを読解することを求める作品は、私には関係ない作品でしかない。そしてこのストーナーは恐ろしいまでの感情移入と没入感をもたらすがゆえに私にとって最も大切な作品となったのです。もちろんここに描かれる主人公は私とはまったく関わりのない、住んでいる世界も、考えも何から何まで違う世界の住人にすぎません。しかもこの作品で描かれることはどこにでもある苦悩であり、ありふれた悲しみでしかありません。主人公ストーナーは苦悩や悲しみ、災難に雄雄しく立ち向かうわけでもなく、ただじっと静かに受け止めるだけです。みずからにふりかかる災難や不幸に対し、なすすべもなく立ちすくむしかないストーナーは誰でもない私たちそのものだ。人生の苦悩や困難がなにかのきっかけでいっぺんに解決することはほとんどなく、その苦しみや困難と渋々ながらもつきあっていくしかない。まさに平凡極まりないわたしたちの姿が描かれている。しかし同じ平凡な人間を描くフローベールの視点が冷徹な観察から来るものだったのに対し、ウィリアムズは、「確かに平凡で愚かな人間の人生は苦しみに満ちている・・・しかしそれでも美しい」。という平凡さから「美」を取り出すことに成功しているのだ。これほどの作品にはめったにお目にかかれない。極上の読書体験。

1位ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」
2015年度もっとも知的興奮を覚えたウルトラ大傑作とはこの本のことだ。ローマ帝国のはずれで起こった小さなカルト宗教が、あまたの宗教を駆逐し、ローマ帝国全体を支配するようになったのはなぜか?それを著者は数量的、社会科学的アプローチでこれまでにない説得力をもって論証していくのである。圧巻というほかない。この作品の面白さはそこだけではない。この本にはカルト宗教、新興宗教の運営者ばかりでなく、アイドル運営者にとってもヒントとなるような具体的なことが書かれているのだ。はっきりいって新興宗教指導者はみんなこの本を読んだほうがよい。信者獲得、アイドル運営にとってはファン獲得の重大なヒントがつまっている。こういう学術書が実社会で応用できてしまうのは大変面白く危険である。

シンジの2015年ベストBOOK
1位ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」
2位ジョン・ウィリアムズ「ストーナー」
3位イアン・マキューアン「初夜」
4位ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」
5位米澤穂信「王とサーカス」
6位フェルディナント・フォン・シーラッハ「禁忌」
7位ブレイク・クラウチ「パインズ」「ウエイワード」「ラストタウン」ウエイワード三部作
8位森本あんり「反知性主義アメリカが生んだ「熱病」の正体」
9位ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」
10位ビートきよし「相方」
11位エマニュエル・トッド「移民の運命」
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2015年12月11日

ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

いきなりネタバレから入るので注意。







ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」は一部と二部に分かれていて、一部は犯人の書いた小説である。つまり犯人は自分の書いた小説と同じように実際の犯行を重ねていくのである。虚構を現実が後追いしていくというのがこの作品の大きな仕掛けである。

犯人の犯行はすべて現実に存在する小説に描かれた犯罪の忠実な模倣である。

犯人はジェイムズ・エルロイの「ブラック・ダリア」の犯行を模倣し
ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ」の殺人を模倣し
マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの「刑事マルティン・ベック ロセアンナ」の犯罪を模倣し
ウィリアム・マッキルヴァニー「夜を深く葬れ」の事件を模倣する。

犯人は実際に存在する小説を「引用」しながら殺人を実行していくのだ。

作家とは、引用文から引用符を取り除き、加工する者のことである。−ロラン・バルト(悲しみのイレーヌ序文より引用)


他の小説を引用して作られた犯罪小説と、その犯罪小説を引用して実行される現実の犯罪の「入れ子構造」。「悲しみのイレーヌ」のこの入れ子構造はいったい何を意図しているのか。

すべては「読者をこの入れ子構造に巻き込む」ためにであるーそしてその犯人は「作者」に他ならない。

作者は「作品」を創造するだけでなく、「読者」をも創造している。作者はストーリーやプロットを駆使して読者の感情や思い込みを巧みに誘導する。そうした作者のコントロールによって創造された読者のことをここでは「想定読者」と呼ぶ。

「想定読者」は作者の想定したとおりの反応を見せてくれる「いいお客さん」であり、あくまで作品の外側=安全圏にいる存在だ。

しかしルメートルが「悲しみのイレーヌ」に施した「入れ子構造」は想定読者を無理やりこの構造の中に巻き込み、取り込んでしまうことを意図している。想定読者は安全圏にいて「作品」をながめて楽しむお客さんから、小説内へと取り込まれ作品の「当事者」にされてしまうのだ。読者は「想定読者」から「共犯読者」へと変貌させられるのだ。

ルメートルが引用する小説の犯罪はどれも残虐なものである。そしてそれらの作品は一部の好事家だけが評価している知る人ぞ知る作品ではなくて、エルロイ「ブラック・ダリア」もB・E・エリス「アメリカン・サイコ」も大ベストセラーである。つまり大衆が支持した有名作品なのだ。

ベストセラーというものはその時代の大衆の欲望を反映したものであることが多い。残虐な描写、むごたらしい殺人も大衆が望んだもの、人々の欲望が反映したものなのだ。

ルメートルは「悲しみのイレーヌ」の中でこう書いている。

ミステリがこれほどもてはやされるのは、人々が無意識のうちに死を求めているからです。そして謎を。誰もが死のイメージを追い求めるのは、イメージが欲しいからではなく、イメージしか手に入らないからです。血に飢えた人々のために政府が用意する戦争や虐殺を除くと、ほかになにがあるでしょう?そう、死のイメージです。それしかありません。だから人々は死のイメージを求めます。そして、その渇きを癒すことができるのは芸術家だけです。作家は死を夢見る人々のために死を描き、悲劇を求める人々のために悲劇を書いています。人類は芸術という形で現実を変貌させることによって、自分たちの欲望を正当化しようとしている・・・(「悲しみのイレーヌ」p349)


作家とは大衆の暗い欲望を満たすために存在しているのであるならば、大衆の欲望を満たしてきたベストセラー小説内の犯罪を引用して書いた小説を実際に実行することは、わたしたち大衆の暗い欲望を実現化することではないか。

わたしたち大衆は自分たちの暗くて陰惨などす黒い欲望を剥き出しにすることはほとんどない。誰もが持つ後ろ暗い欲望を世間につまびらかに明かすことになれば、わたしたちの見かけ上は平和で穏やかな生活が破綻することは確実だからだ。

だが小説は(小説に限らず、あらゆる表現形態。映像、演劇、ゲームにいたるまで)わたしたちの暗く邪な欲望を肯定し、実現してくれる。

「悲しみのイレーヌ」の犯人は(この場合犯人は作者であるルメートルだが)読者にこう言っているように感じられる。
「私はあなたたちが心のうちに秘めてきた欲望を実現してあげただけですよ」

本国フランスでもルメートル作品は「残虐すぎる」と批判されているという。だが「悲しみのイレーヌ」で描かれる残虐性はすべて大衆の支持を長年受け続けた作品(エルロイ、エリス、シューヴァル&ヴァールー)からの引用である。ルメートルは残虐であるという非難にこう言いたい事だろう。

「私は読者に感謝されこそすれ、非難されるいわれはない」と。
「私はあなた方読者の欲望を忠実に再現したにすぎない」と。

ここにいたって悲しみのイレーヌを読んでいた私たちはこの作品の残虐性がわたしたち読者の暗い欲望を直接反映したものにすぎない、合わせ鏡を見ていたにすぎないと悟るのである。

この小説でむごたらしく殺された女性たち。悲しみのイレーヌで引用された小説内で殺された被害者たちはすべてわたしたち読者が望んで殺したものなのである。

こうしてルメートルは読者を作品の外側にいて、安全な場所で作品を眺めて楽しんでいる立場から、作品内の犯行はすべて読者の欲望を反映したにすぎないとする「共犯読者」、「加害読者」を創造するのである。真の犯人はわたしたち「読者」なのだ。
posted by シンジ at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする