2022年09月26日

イプセン「野鴨」が裏テーマのリコリスリコイル

アニメ「リコリスリコイル」が大人気の内に最終回を終えたが、私も最初は楽しく見ていたものの、徐々に否定的になっていった、その変遷を抜き書きしてみる。

「先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い」(はてな匿名ダイアリー)


というリコリコに対する代表的な批判に対して、まだまだ寛容だった時↓

「リコリスリコイルに関するこの手の批判は
@1話目でこの世界がディストピアだと明示されている。
Aまだ6話なので結論を出すのは早い。
に尽きるが、ディストピア世界を自明のものとして進行していく作品には他にサイコパスなどもある。まだ6話目なので結論を出すには早いが、」

「私にとってリコリコはディストピアを自明のものとして進行していく「萌え」フォーマットの作品の一種だと思える。そうした作品を、この作品には深いテーマ性や社会的なメッセージがないと言って批判するのは単に「カテゴリーミス」としか思えない。」

「批評における「カテゴリーミス」とは例えばアガサ・クリスティーの作品にドストエフスキー的な深みのあるテーマがないとか、ミケランジェロと現代美術を比較して批判するようなことを指す。そもそもカテゴリーが違うのだ。これを批評におけるカテゴリーミスという。」

「とはいうもののリコリコのスタッフがこの先物語をどう転ばせていくかは誰にもわからないので、まずは終わりを見届けてから批評を始めても遅くはないだろう。」

とここまでは寛容というか鷹揚にかまえている。これが8話目になると・・・

「リコリスリコイル8話。めちゃくちゃよくできている。だがしかし、だからこそ「萌え」に頼らずアクションとプロットで勝負してくれ。萌えに頼るか、プロットによるかでアニメ史に残るか否かが決まる。」

作画も、演出も、美術も高水準なのにだんだん不安を感じていることがわかる。そして10話になると評価が一変する。

「リコリスリコイル10話。もともとガバ脚本なのには目をつむってきたが、ここにいたって段々きつくなってきた。設定がガバガバなのは受け入れる(そもそも少女暗殺者集団だしな・・)がストーリーの細部までガバになると・・・」

「創作物のセオリーとして大きな嘘をつくときは、小さな事実を積み重ねろというのがある。設定のリアリティラインは低くてもよいが(大きな嘘)、ドラマやアクションの細部はリアリティラインを高くする。リコリコはそれができているか?」

「あんな厳重な警戒態勢を敷いていながらあっさりタワーへの侵入を許すDA。そんなスーパーテロリスト真島のテロの方法が拳銃千丁を街にばらまくだけ(現代日本でも千丁ばらまいたって重大なことは起こらないでしょう)細部がガバだとすべてが台無しになる。」

ガバガバな脚本の荒に目が行き、評価が辛くなってくる。そしてついに11話では作品内モラルとの決定的な齟齬が生まれる。

「リコリスリコイル11話。本当にアクションは素晴らしいだけに、設定面が気になってしょうがない。この物語どう考えてもテロリスト真島が正義の味方であり、千束たちの所属するDAこそが悪の組織そのものなんだよね。そこらへんにムズムズして素直に楽しめない。」

「犯罪者を、法律も無視し、逮捕も起訴もせずにただ殺害するだけの組織と、殺害を実行する少女たちは、どう考えても悪の組織であり、革命を起こされる側の腐った体制側である。その体制を覆そうとしている真島は革命側であり、正義なんだよね。」

「このどんだけ腐った体制でも、平和と日常さえ維持できてさえいれば、それは尊いものであり、守るべきものであるという考えのアニメがリコリスリコイル以外にもある。「サイコパス」である。」

「アニメ「サイコパス」は大好きだし、傑作なんだけど、腐った体制を維持し続ける点にモヤモヤしたものを感じた。どうやらリコリコにもそうしたモヤモヤを感じることになりそうだ。」

リコリスリコイル12話ともなるともう評価は覆らないあきらめの境地に。

「リコリスリコイルはスーパーテロリストが銃を千丁、街にばらまくだけのスーパーテロ(笑)を起こしたあたりと、リコリコの存在が世間にばれて全員抹殺指令が出てるのに、実はリコリコはテーマパークの新しいアトラクションでした、で全国民納得する時点で、傑作からありきたりな萌え作品になった感」

リコリコ13話では制作者側の思想自体に問題があると考えるように。

「リコリコ13話。制作者のグロテスクな思想が垣間見えてきつかったな。千束の「世界を好みの形に変えてる間にお爺さんになっちゃうぞ」「世界がどうとか知らんわ」というのは作品で描かれるこの世界の人権無視、法治主義否定のファシズム体制の現状肯定という意味だからね。」

「千束の現状肯定はニヒリズムと表裏一体で、「この世界はこのままで完璧なんだから、一切変える必要はない」は、「この現実の世界にはなんの意味も価値もないのだから変える必要はない」と同義である。これが現状肯定のニヒリズム。」

「制作者は意図しなかったことだろうが、今、人権も法律も無視してロシアが侵略してる最中に、「どんな腐った体制でも、変える必要はないし、この体制を維持していきます」という主人公なのはバッドタイミングとはいえグロテスクすぎる。」

「リコリスリコイルに感じる、このロシアや北朝鮮をはるかに凌駕する極悪国家、ファシズム体制を命を懸けて守る意味ってなにかね?」

これ書き終えてしばらくしてイプセン「野鴨」が裏テーマなんだと気づいた。

イプセン「野鴨」とは。〜正義にとりつかれたグレーゲルスが虚偽の土台の上に築かれた家族を壊し、真実の愛という「理想の追求」を友人のヤルマールとその家族に強いた時、それまでのヤルマール家の幸福は崩壊し、悲劇が訪れる。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことになるんだからね」−「野鴨」より

これまったくリコリスリコイルやPSYCHO-PASSサイコパスのメッセージなのだ。

吐き気を催すディストピアであったとしても、そこで暮らす人々は幸福に暮らしている。だがしかし「正義」や「真実」に価値を置くならば、この虚妄に満ちた世界を破壊しなければならない。たとえ真実と正義のために人々の日常や生活や幸福が完膚なきまでに破壊されようと。・・・だがしかしそれは本当に正しいのか?

PSYCHO-PASSではこの社会のシステムが破壊されれば、大混乱が起こり、人々の平穏は一瞬で終わるがゆえに、シビュラシステムを温存せざるえない=このディストピアを続けていくほかないという答えにある程度の説得力があった。

しかしリコリスリコイルではそれほどの説得力はない。むしろ少女暗殺集団を国家が運営してること自体、なくしてしまったほうがいいのではないか?つまりこの虚妄の世界を維持し続けなければならないという理由がとぼしいのだ。

イプセン「野鴨」のテーマを突き詰めて考えているがゆえに、PSYCHO-PASSは傑作であり、おそらく制作陣が野鴨など読んだこともないであろうリコリコが浅い萌え作品のなったのは当然であった。

posted by シンジ at 14:23| Comment(1) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月29日

対話と救済 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||評

対話と救済 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||評

シン・エヴァンゲリオン劇場版を初めて見たとき、映画のDパート(マイナス宇宙のパート)のあまりに意表を突く突拍子もない映像の数々と初出の用語と概念の洪水に脳をやられて感動する暇すらなかった。3回目を見てようやく情報の洪水状態を脱し、脳の処理速度が追い付いてきたのでやっとシンエヴァ評を書けるに至った次第。

しかし1回だけ見てあの大量の情報が高密度で高速に流れるさまを見て理解できたり、「泣いた」と言ってる人が多いのにびっくりした。正直こんなにも理解してる人が多いのに、理解できなかった自分が馬鹿なのかと不安になったりもした。

でも3月28日のシンエヴァ声優陣の舞台挨拶でカヲル役の石田彰さんが

「僕もこの作品見終わったあとに、作品自身に翻弄されました。異様とも言える映像を見せられて、これをどう解釈すればいいんだろうとか、細かな設定的な事とか、理解が及ばない事が多すぎて、物語をどうとらえればいいんだろうと思ったいました。けれど、シンジとゲンドウの会話をきっちり聞き逃さないようにしていれば大丈夫なのかなと思っています。今作の中で、ゲンドウがシンジに“大人になったな”と言うんですけど、“お前が言うな!!”って思いました。そういう作品です」
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1314909.html

石田さん!そうですよね!26年間エヴァにたずさわってきた人でさえ翻弄されたんだから。自分だけが翻弄されたんじゃないと。

私も初出の用語、概念の「エヴァイマジナリー」だとか「マイナス宇宙」に頭の中がはてなマークになったり、既出の用語にすら(「黒い月ってなんだっけ・・・?」「アダムスって?」)戸惑い、頭フル回転状態でしたから。

私のシンエヴァ鑑賞ガイドとしては初出、既出の難解な用語、概念はひとまず置いておいて、「テーマ」と「メッセージ」だけに注目してみるという古典的な手法でシンエヴァのかなりの部分を味わい尽くせると思っております。

エヴァ新劇場版のテーマなんてあるのか?と問われれば「明確にあります」
ヱヴァンゲリヲンQですらはっきりとしたテーマがあるのです。(ヱヴァQのテーマに関しては運命と自由意志の相克であると考えますが、それは「ヱヴァンゲリヲンQと自由意志問題」に書きました http://runsinjirun.seesaa.net/article/313105957.html

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のテーマは「対話」と「救済」です。

「救済」に関しては作中のそれぞれの立場によって救済の中身が違ってきます。
ゼーレは「人類補完計画」という「人類の個という外殻を捨て去り、一つの魂となって融合することにより、争いも差別もない永遠の平穏を得る」ことを目指しているのに対し、碇ゲンドウはゼーレに従うと見せかけて、フォースインパクトとは別の「アディショナル・インパクト」を起こそうとしています。

ゲンドウがおこそうとするアディショナル・インパクトとは作中のセリフによれば「虚構と現実の情報の均一化」つまりエヴァイマジナリーを使って魂の均一化だけでなく、虚構と現実の均一化も成し遂げようとしているのです。人の想像が現実と同一になることによって妻であるユイを取り戻そうとするわけです。

これがゼーレとゲンドウが考える「救済」の中身です。

だが碇シンジの考える「救済」はこれらのものとは違います。

シンエヴァ作中、しきりに「縁」という言葉が繰り返し発せられます。相田ケンスケが3回重要な場面で「縁」を口にし、カヲル君も1回「縁」を口にします。いずれもシンジ君へと発せられ伝えられたのが「縁」という言葉です。

「縁」とはすべてのものは相互に関係しているものであり、独立自存するものは存在しないという意味です。「関係」と言い換えてもいい。

ー「関係」とは「私」が他者との関係に巻き込まれ、他者と共に存在し、他者に対して存在することで深く規定されている。関係とは他者へのかかわりとふるまいによってかたちづくられるものーであり

「人間は厳密にいえば他の人間とだけ「関係」することが可能である」ーレーヴィット「共同存在の現象学」

M・ブーバーはさらにはっきりといいます「憎しみをもつ人は、愛も憎しみもない人よりは、はるかに関係の近くにいる」と。(我と汝)

人類補完計画は個人を捨て、自我を捨て、執着も捨てることにより、「関係」の一切ない、つまり愛も憎しみもない平穏な世界を創造しようとするが、シンジは愛も憎しみもある「縁」の世界を望むのだ。

ありがたいことに人類補完計画を全否定してくれるようなバフチンの文章がある。

ー人間のいかなる出来事も、ひとつの意識の枠内では展開されないし、解決されない。そのためドストエフスキーはひとつの意識のなかの融合、溶解や個別化の解消を最終目的とみなすような世界観に敵対する。いかなる涅槃もひとつだけの意識にはありえない。一つだけの意識というのは形容矛盾である。意識とは本質的に複数ものである。ー「バフチン対話そして解放の笑い」

融合、溶解や個別化の解消を最終目的とみなすような世界観に敵対すること。ではそれらを否定して、愛も憎しみも存続する「縁」の世界での「救済」とは何か?

それこそが「対話」である。

「真理が開かれるのは、対等な複数の意識が対話的に交通しあう過程においてである」ー(バフチン対話そして解放の笑い)

映画のクライマックス。ついにゲンドウとシンジの親子対決が始まる!!と期待していた観客はあっさりと裏切られます。まるで映画のセットのような場所(東宝スタジオらしい)
で天丼ギャグのようなバトルを繰り返す親子。ゲンドウは言います「暴力と恐怖では決着はつかない」と。非常にメタ的な表現を用いて、バトルものにはしない。そんなものではこの映画は決着できないと映画の作者から面と向かって言われるような気にすらなる、異様なシーンでした。

ここから映画の雰囲気は一気に変わり、内面世界へと、対話の世界へと入っていくのです。

ここでもう一度「対話」の意味を考えます。

平田オリザは「会話」と「討論」と「対話」の違いについてこう書いています。

「会話」とは価値観や生活慣習なども近い親しい者同士のおしゃべり。

「討論」とはAとB二つの論理が戦ってAが勝てばBはAに従うこと。

そして「対話」とはAとB異なる二つの論理がすりあわさりCという新しい概念が生み出されることだ。ー「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」

「対話」による「救済」とは、対話によりなにか新しいものが生まれ、そして二人の間の関係性が変わるだけでなく、二人の魂自体も変わることをいう。

個人を消去し、関係も消去することによって得られる永遠の平穏(人類補完計画)も、ゲンドウの虚構と現実の境目をなくして、想像を現実化させようとする計画(アディショナル・インパクト)も、所詮は他者不在の妄想=独我論でしかない。

シンジはそれらを否定し、「私」と「君」が縁を結び、関係性を築きあげ、対話による「変容」をうながす世界へと舵を切るのだ。

それではその「対話」によって「変容」したことによる「救済」をエヴァはどう描いたか。

この映画で一番びっくりするのは登場人物全員が「救済」されたことではないでしょうか。ゲンドウが救済されるのはまだしも、カヲル君まで救済されたのには驚きました。

この救済方法が独特で、登場人物たちの「神秘性」をはく奪し「凡俗」化することが救済につながるというものです。

アスカは今まで求め続けてきた愛をしごく平凡な形として受け取る。決して得られることのなかった両親の愛でもなく、それまで愛していた特別な男(シンジ)の愛でもなく、エヴァ作品上最も特別なところのない平凡な男の愛を得るのです。

エヴァ破で消えた綾波レイは初号機の中で生き続けていたことが髪の伸びたレイとして描かれる。作中マリのセリフにある通り、髪が伸びるということはカオスであること、人間である証拠だ。またそのレイが赤ちゃん(ツバメ)の人形を持っていることからも、第3村で消滅した黒波(仮称)の記憶も受け継いでいることがわかる。綾波レイはクローンでも操り人形でもなく完全なる自我を持った「平凡な人間」となるのだ。

ゲンドウは壮大な計画を遂行する鉄の人間のような見かけに対して、実際はおのれの弱さに向き合うことができなかった欠点だらけの弱くもろい存在として暴かれる。シンジとの対話でようやくおのれの弱さと向き合い、その結果、求め続けた妻ユイがすぐそばにいたことに気づく。そして最後は妻ユイと一緒になって、シンジの身代わりとなってすべてのエヴァンゲリオンごと消えていく。

カヲル君はエヴァ作品上最も神秘性に覆われた人物として描かれてきたが、その本質は自分の欲望と向き合うことができずにいた、ただの哀れな弱い存在でしかなかったと暴かれる。人間ではなく使徒として神秘性と謎の権化だったカヲルがひどく平凡な「人間」として描かれ、そしてそのことによって救われるのだ。このことは作中最大の衝撃をもたらす。

そしてマリである。正直にいってシンエヴァ中、最も謎めいた人物が真希波・マリ・イラストリアスだろう。マリは作中でゲンドウとユイの同期の友人として描かれている。そしてなぜか一切年を取っていないことから、真希波シリーズというクローンなのだろうと推定ができる。マリは過去からやってきた時間を超越する者だ。超越者だからこそ、イマジナリーの中に取り残されたシンジを迎えに行き、救い出すことができたのだろう。ではマリの救済はいかなる形でおこなわれたのか?マリはおそらくゲンドウかユイを(もしくは両方を)愛していた。その愛の執念がゲンドウとユイ二人の息子であるシンジへの愛へと結実した、というのは的外れだろうか?(ここは私にもわからないので、マリ読解を成し遂げた人の意見を聞きたい)。過去からやってきた時間を超越する特別な存在が、愛の執念の結実という至極平凡なことで救われるのだ。

庵野秀明のエヴァンゲリオンの終わらせ方は、登場人物から神秘をはく奪し凡俗化させるということだった。そして驚くべきことにこの凡俗化が救済になるのだ。なぜ神秘をはく奪し凡俗化させることが「救済」になるのか。

それだけが「神話」の否定になるからである。エヴァの登場人物はほとんどが怪物であり、英雄である。シンジにいたっては世界を書き換えるという神にも匹敵する御業を見せる。そんな神話的人物を救済するには平凡な「人間」へと昇格(降格ではない)させるほかない。

あらゆる登場人物を凡俗化させ神話から解放することが、すべてを救済し、エヴァンゲリオンを完全に終わらせる唯一の方法だったのだ。

もしラストシーンでシンジの声が緒方恵美さんのままだったら、シンジの神話はこれからも続く・・・という意味合いのラストシーンになっていただろう。声優を交代させたことによりシンジの神話は完全に終わったのだ。

エヴァンゲリオンのこの終わらせ方、救済方法だけでも庵野秀明は天才だと断言できる。極細の針の穴に糸を通すかのようなエヴァを終わらせる唯一の方法を発見した庵野秀明をもっとみんなほめたたえるべき。これは偉業です。
posted by シンジ at 16:33| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月06日

ポリコレと検閲

ポリコレを創作物に適用せよというのは、映画や漫画やドラマや小説に「社会正義を実現させる道具」としての役割を期待しているという意味で創作物への過大評価かつ極めて一面的な評価にすぎないだろう。
またそれは社会正義を実現させる道具として機能していない作品はパージせよという危険なメッセージでもある。

創作物に「社会正義を実現させる道具」という役割を着せることは、必然的に社会正義にそぐわない表現をパージすること「検閲」を意味する。ポリコレが危険なのはその「検閲」を為政者や権力者が行うのではなく民間が行うことにある。

もちろん為政者側が検閲を行うのも危険なことだが、民間が検閲を行うことの真の恐ろしさは検閲が恣意的に行われることにある。ルールなき、定義なき、法的根拠なき検閲はその時・その場所・その人次第、その時の気分次第でいかようにも運用される。

検閲が恣意的に行われることの恐ろしさはすでに多くの人が経験している。バルテュスの絵を美術館から撤去せよという1万人の署名。もう二度と映画館で上映されないであろう風と共に去りぬ。これらのことを国家権力が行うのであれば許せないこととはいえ、まだ理解できる。だがこれらはすべて民間人が積極的に行ってきた検閲なのだ。

現代において検閲はもはや国家権力の仕事ではなくなっているのだ。

ポリコレ派をあえて好意的に見るなら、彼らはすごくまじめなんだと思う。だがそのまじめさは「無能な働き者」に近い。社会正義を本当に実現したいなら、創作物に対し検閲を仕掛けるよりも、現実に対し政治的アプローチを仕掛けるべき(投票行動、ボランティア、NGO、ロビー活動など)なのだ。


だが彼らはそういうことには熱心になれない。「コスト」がかかりすぎるから。だからコストの一切かからないポリコレ検閲に夢中になる。こんなに簡単に社会正義を行使した気になれることはないからである。

ポリコレの理想(これも恣意的に変えられるかもしれないが)あらゆる差別に対する反対、多様性の尊重などに反対する人は少ないだろう。では何が問題とされているのか、その「運用」が問題とされているのだ。

文化盗用なる珍妙な概念、バルテュスの絵画の追放、スティーブン・ピンカーですら政治的に正しくないという理由で学会からの除名運動が起きたり、映画やドラマにおける同性愛者やトランスジェンダーの役は同じ属性の人しか演じてはいけないなど、ポリコレの運用は支離滅裂になっている。

これこそが「民」が検閲を行うことの恐ろしさだ。ルールなき、定義なき、法的根拠なき検閲はその時・その場所・その人次第、気分次第でいかようにも運用される。検閲が恣意的に行われるとはまさにこのことなのである。

ここにいたって「自由論」を書いたジョン・スチュアート・ミルの慧眼が光る。ミルにとって自由の敵は「大衆」に他ならなかった。大衆が法的以外の手段を用いて正しいとされる考えを強制してくることこそミルは問題視したのだ。国家権力の圧力によって自由は死ぬのではなく、大衆の良識によって自由は死ぬのだ。

twitterでどう即氏がこんなことを書いていた。
>映画は「作り物と知りつつ、ソレにノる」事で楽しめる芸術と思う。最近のPC議論に感じる小さな違和感は、この「作り物と知りつつ」が抜けて(本物と思って)る人への違和感でもある。


>映画は「作り物と知りつつ、ソレにノる」事で楽しめる芸術。まさにそうなんだけど、
最近は映画を「正しい」イデオロギーとその描写を見るものと考える人が多くて危機感を覚える。

いつから映画は「正しさ」を要求されるような高級なものとなったのか。本来映画は人間のやましい感情や薄暗い欲望に光をあてるものではなかったか。

映画の起源がアメリカと日本共に犯罪映画であったことは決して偶然ではない(アメリカ映画最初の「劇映画」は1903年製作「大列車強盗」であり、日本映画最初の劇映画は1899年製作駒田好洋「ピストル強盗清水定吉」である)

映画やドラマに「正しさ」を啓蒙してもらいたい、あるいは啓蒙するものだと考えるのはまるで「社会主義リアリズム」の復活を思わせる。社会主義リアリズムとは芸術作品にマルクス主義的な考えに基づいた描写を必ず入れることを要求する芸術運動、批評の手法のことだ。

しかし社会主義リアリズムは芸術運動としての側面をあっという間に失い、社会主義リアリズムに即していない作品、社会主義リアリズムに反した作品に対する「検閲」としか機能しなくなる。

ポリコレも社会主義リアリズムと同じ運命をたどりつつあるのではないだろうか。
posted by シンジ at 19:04| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする