2017年01月02日

庵野秀明は樋口真嗣から映画を奪った・シンゴジラ簒奪劇のすべて。ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読む

庵野秀明は樋口真嗣から映画を奪った・シンゴジラ簒奪劇のすべて。ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読む

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラはただのアートブックでも、映画制作を資料を並べながら解説する本でもない。ここには庵野秀明という異物がいかに映画スタッフから憎まれ、嫌われながら、それでもなお映画の現場を蹂躙していったかの記録が残されている。

この本は庵野秀明がいかにして現場の主導権を傍若無人に奪い取ったかのあまりにも赤裸々な記録なのだ。

そもそもシン・ゴジラ撮影現場での大混乱は庵野秀明自身も樋口真嗣やそのスタッフも庵野本人が撮影現場に出張ってくるとは誰も考えていなかったことにある。

「(庵野は)脚本とプリヴィズと編集だけやるから、現場は任せた」という話だった。−樋口真嗣監督(p482)


しかしなぜか庵野は撮影現場につきっきりとなる。このことに騒然とする樋口組スタッフ。当たり前である。現場スタッフは進撃の巨人からのスタッフが多く、みな樋口を「親分」とする樋口組のスタッフで構成されているからだ。

当たり前ですけど、(現場は)「監督」である樋口君の意見を尊重します。ー尾上克郎准監督(p478)


しかし「監督」であるはずの樋口がOKを出しても庵野が首を振らないということが現場でたびたび起こるようになる。

それによって、かなり混乱があったようですし、「約束と違います」という話も漏れ聞こえてきました。−佐藤敦紀編集・VFXスーパーバイザーp456


最初のころ現場のスタッフ、全キャストが庵野さんに対して「あの人、なんなの」みたいな感じで、それをなだめすかすのが自分の役割でした。「樋口さんは、それでいいわけ?」なんて聞かれる。−樋口真嗣p485


招かれざる闖入者庵野秀明に対する現場の風当たりは庵野子飼いのスタッフ、轟木一騎、摩砂雪が撮影D班として現場に入った時に頂点に達する。映画撮影というのは大きなメインカメラがひとつドカッとあってそれを中心に撮影班が動いていく。しかしそれでは機動力が足りないと庵野は小型カメラのキャノンXC10だけではなくiPhoneをも導入するのである。そして現場では撮影A班B班C班だけではなく庵野子飼いのD班が急遽導入され撮影現場では常時6台以上のカメラが回っているという状況になってしまう。このことを撮影のクオリティに人一倍気を使う撮影班が面白く思うはずがなかった。

「(自分たちは)他のスタッフにはメイキング班以下に感じられていたみたいですね。」−摩砂雪・画コンテ・D班監督p342


「(D班は)イレギュラーなチームだったので、現場スタッフには戸惑いや反発もあったようです。僕の反省として、D班に関する周知を、もっとかみ砕いてスタッフに話しておけばよかったなというのがあります。」−尾上克郎p479


この証言だけでも庵野と庵野子飼いのスタッフが樋口組の中で完全に孤立していたというのがわかる。

シン・ゴジラ現場は招かれざる客庵野秀明により破綻寸前だった。しかしシンゴジラは完成した。それはなぜか?常識では考えられないほどのお人よし=樋口真嗣監督のおかげである。

「現場からすれば、庵野さんの陣取るベースを敵視するようなムードになる時だってあったわけですが、そんな時には、樋口監督が、素晴らしいリエゾン(連絡、関係の意)的能力を発揮していただいて、ありがたかったですね。」ー中川和博監督助手p327


「普通だったら、ヤケクソになって、「もうなんでもいいや、やっときゃいいんだろう」ってなりそうな所を、ムードを鋭く察知した樋口監督が絶妙にフォローしてくださったのでそうはならずに、ベストのことが成し遂げられたと思います」−大庭功睦監督助手p327


普通であれば現場責任者は樋口真嗣であるし、樋口の権限で庵野を撮影現場から追い出すこともできたはずだ。だが、樋口は庵野との長年の友情からか、庵野を切ることができなかった。樋口のその優柔不断さがまたスタッフの怒りや苛立ちを煽ったこともあるかもしれない。しかし樋口の常軌を逸したお人よしさはこう考えるまでにいたる。

「おれが助けようと。(庵野に)尽くそう。尽くします。」ー樋口真嗣p485


樋口真嗣が最終的に折れたことで、庵野は現場での実権を奪い取ることに成功するのである。庵野は樋口真嗣、樋口組から映画を奪い取ったのだ。

撮影現場で蛇蝎のごとく嫌われた庵野秀明だったが、この庵野の傍若無人な暴れぶりはプリプロダクションでも、ポストプロダクションでも同じだった。

プリプロダクションでは他の脚本家が書いてきた内容(恋愛、家族ドラマたっぷり)に激怒して2014年9月の段階でゴジラから降板するという電話を東宝映画社長の市川南にしている。

ポストプロダクションでは次のような証言をネットで見つけた。

No-001.jpg

「面白かったのはシンゴジの焦土東京の衛星高度からの夜の画でプリビズから出来上がっていく進行過程が全部貼ってある横の監督の指示がもうgdgd 修正させた挙句 前の段階の画に「これでいいです」打ち上げで「1つ前に戻るのはよくある事」 あーこれじゃ人が離れてくのも無理ないわ…」


どうやら庵野秀明の悪評は業界の隅々にまで周知されているようだ。

庵野秀明はこのようにありとあらゆるスタッフから嫌われ、憎まれ、現場は怒りと不安と苛立ちで包まれていた、にもかかわらずシン・ゴジラは興行的にも批評的にも大成功を収めた稀有な作品となった。なぜなのか?庵野は自分がスタッフから憎まれていることなど一切関知できないほどの鈍感な人間だったのだろうか?

そうではなかった。庵野秀明は自分の行動がスタッフ間にさざなみを立てさせ、怒りや憎しみを生むことになることをはっきりと自覚していた。

(最初は現場に出る予定はなかったが)いくつかの段階と転機と理由があり「可能な限り現場に出るしかない」と判断しました。実は理由のひとつに現場の意識改革を試みるしかないと思ったこともありました。当初スタッフは、ルーティンワークで動いていました。もちろん全員がそうではないんですが、基本的にスタッフの意識は「年に何本かある仕事の一本」なんです。


ルーティンからは面白さも新しさも生まれにくいんです。普段と違うことで、何か引っかかるというか面白さや変革がそこに生まれると思うんです。ですから現場でのルーティンの否定と破壊から始めようと。スタッフにはパラダイムシフトを起こして欲しかったんですねー庵野秀明脚本・総監督


庵野は意識的にスタッフとの間に緊張関係を作り出していたのだ。そしてそのために庵野はつらい状況に置かれることにもなった。

「自業自得の状況なんですが、正直辛くて、あまり良い記憶がない現場でした。それが作品の緊張感になっていれば、幸いです。」


庵野は撮影に入って早い段階から、現場の主導権を樋口から奪おうと画策していた。二人には長年の友情があるのではっきりとは言わないが、赤の他人の私なら遠慮なしに書ける。庵野は早い段階で樋口真嗣と樋口組にまかせていてはシン・ゴジラは駄作になると確信したのだ。そして庵野は自覚的に映画を樋口の手から奪った。これがシン・ゴジラ簒奪劇の真相だ。

こうして映画は樋口組スタッフによるものでありながら、樋口真嗣の影はどこにも存在しない、どこを切っても庵野秀明の刻印が押された作品となってしまった。あれほどまでにスタッフから反発され、嫌悪されても庵野印の作品になってしまうのかと、映画の恐ろしさを痛感するばかりだ。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラは庵野秀明とスタッフとの壮絶なバトルを描いたドキュメントであり、2017年最大の読書体験を私たちにもたらす大事件だ。
posted by シンジ at 20:13| Comment(25) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

「失われたもの」


この夏公開された二本の大ヒット作、新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は奇妙な符合を見せている。

「失われたものを取り戻す」。それが偶然にも両者に共通するテーマとなっているのだ。

シン・ゴジラと君の名は。は両作品とも3.11=東日本大震災の悲惨な出来事が背景として存在している。そして両作品とも3.11で「失われたもの」を取り戻すというファンタジーであるということも共通している。

シン・ゴジラは3.11でうまく立ち回れず、被害を大きくしてしまったかもしれない当時の政府がもしうまく立ち回れていたら、という「願望」めいた「幻想」を描いていた。

君の名は。は3.11で失われてしまった生命と土地を再びこの世に取り戻すというファンタジーだ。

「失われたものを取り戻す」という幻想は、もはや変えることのできない「運命」への絶望的な挑戦でもあるがゆえに、映画のような創作にだけに許された特権的なもののようみえる。

「運命を打ち破れ」


「運命」とはいかなるものか。運命とは過去から未来にわたって、決して変えられない世界のことをいう。「運命」とは「決定論的世界観」の別の名前です。

決定論的世界観とはこの世界は人間の手が下される前に、過去も未来もどうなるかすでに決まっていて絶対に動かせない。そういう世界観のことだ。

こうした決定論的世界観=「運命絶対主義」ともいうべきテーマをもった映画が、シン・ゴジラの監督でもある庵野秀明の前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だ。

エヴァQに関してはすでにここで書いている。

エヴァンゲリヲンQと自由意志問題

エヴァQでしつこいくらい描かれたのは「人は運命の前では無力」。人の意志や行動や善意や正義では決して運命は変えられない、そのことだけだった。人間の自由意志が「運命」に戦いを挑み無惨に散っていく姿を描いたのがエヴァQだった。

しかし庵野秀明はシン・ゴジラでは一転、3.11のメタファーであるゴジラというあらがえない「運命」に対し果敢に挑戦する人間たちを描き、そして彼らはゴジラに見事に勝利する。人間の意志や行動、決断が決してあらがえない「運命」の象徴であるゴジラ=「災害」に打ち勝つのだ。

そしてさらに、そこから歩を進めた「君の名は。」では、「自然災害」や「失われた生命」という絶対に覆すことのできない「運命」=「歴史」をも人の「意志」で変えてしまうというアクロバットを見せるのだ。

とくに「君の名は。」の歴史改変というアクロバットは「運命」に立ち向かうというより、絵空事でしかないという人もいるだろう。しかしそうした考えも「運命絶対主義」という考えに毒されたものでしかないとしたらどうだろう。

「運命」は決して変えられないという思考は、実はたったひとつの思考に縛られているに過ぎない。すなわち「世界はひとつしかない」という思考である。

世界がひとつしかないのであるならば、「運命」に打ち勝つことは不可能だろう。もはや絶対に変えられない「過去」によって「未来」は規定されるからだ。

「多世界論=並行世界論」


しかしここにひとつの考え方がある。「多世界論」である。人がさまざまなことを「決断」するたびに「世界」は分裂していく。「並行世界」が生まれていくという考え方だ。これはなにも突飛なSFを語っているのではない。多世界論とは「量子力学」のことだ。

多世界論ならシュレーディンガーの猫のパラドックスだけではなく、タイムマシンのパラドックスまで一気に解決できる。タイムトラベルのパラドックスで有名なのは祖父殺しのパラドックスだろう。タイムマシンに乗って過去にタイムトラベルし、子供時代の自分の祖父を殺したとしよう。・・・でははたして祖父を殺したわたしはいったい誰から生まれたのだろうか?これが祖父殺しのタイムパラドックス。

しかしこれも多世界論ならパラドックスにはならない。過去にタイムトラベルした時点で自分の元いた世界とはちがう並行世界に来た事になるからだ。自分の殺した祖父は自分の元いた世界の祖父ではなく、並行した別の世界の祖父であり、だから祖父を殺しても自分の存在にパラドックスは起きない。こうして多世界論は量子力学とタイムトラベルのパラドックスを一気に解決することができる。ーライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

多世界論ならば、「君の名は。」の歴史改変は絵空事ではなく、実現可能なことになる。世界がひとつでない以上「運命」は変えられるのである。

そしてまた「シン・ゴジラ」もゴジラがこれまで存在しなかった「並行世界」を描いている。それまでのゴジラシリーズは初代ゴジラすなわち1954年本多猪四郎と円谷英二の作り出した「ゴジラ」という前提があったうえでその後のゴジラ世界を描いている。しかしシン・ゴジラは1954年版ゴジラが存在せずに、今この時代に始めてやって来た「巨大不明生物」としてあつかっている。

そしてその巨大不明生物は3.11と重ねあわされ、3.11をうまく処理できた日本政府と社会という並行世界となっているのだ。

君の名は。もシン・ゴジラもそうであったかもしれない多世界=並行世界を描いているのだ。

「時代が要請する公共性」


新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」はまったくの偶然ながら、同じようなテーマをあつかっていた。しかしこれは偶然というより「時代の要請」というものではないだろうか。3.11という出来事を前にした庵野と新海は同じ時代の空気を浴びたがゆえに、まったく違う種類の映画で同じようなテーマ描くことになってしまった。

新海誠は「新海誠その作品と人」(EYESCREAM 2016年10月増刊号)のインタビューで「公共的な視点」という言葉を口にしている。さらにLINELIVEの『君の名は。』特番では

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」
といっているのだ。

奇しくも細田守も是枝裕和との対談でこう言っているー

「作家主義的なものより公共性が先に来るべきだと。それを外しちゃうんだったら、作らなくていいよってなっちゃう」 ー映画ナタリー「細田守と是枝裕和が“いい父親”東映動画とテレビマンユニオンについて語る」


この「公共性」とは噛み砕いて言えば、映画は社会と無関係ではいられない。「内向性」や「趣味性」という個人の殻の中にとどまってはいられないということ。映画は社会と向き合い、人や社会に向けて肯定的なメッセージやときには警告を発する必要があるということだ。

はっきりいってしまえば、「世界がどうなろうと君と僕さえいれば世界は完結する」だの、「世界もニンゲンもこの世からすべて消え去ってしまえばいい」などという社会への無関心や後ろ向きなルサンチマンからくる映画など作っても意味がないといっているのだ。・・・まるでかっての庵野秀明を批判しているようだが。

新海誠や細田守が3.11以降敏感に感じた「時代の空気」とは、作品と社会とは決して切り離すことができないということ。うちひしがれた人々を励まし、顔を上げさせ、重くのしかかる「運命」に立ち向かわせること。そして映画はその手助けをするべきだということだ。

そして庵野秀明もさすがに凡庸ではない。新海誠と細田守がとらえた時代の空気を敏感に察し、「運命」を打ち破り、失われたものを取り戻す「シン・ゴジラ」を作ったのだ。人は運命の前で決して無力ではない。戦え!とあの庵野が言うのである。

シン・ゴジラは庵野秀明なりの時代が要請する「公共性」への答えなのである。

新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は、時代の空気を敏感に読み取った映画作家二人の転回点であり、代表作であり、時代の要請に誠実に答えたことの結実だ。
posted by シンジ at 05:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月31日

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

映画「シン・ゴジラ」とてもとても面白かった。正直に告白すれば「無人在来線爆弾」のあたりであまりにも面白すぎて気が狂うのではないかと思ったくらいだ。こういう人はどうやら私だけではなく、8月28日のBS-TBSのシン・ゴジラ特集では10回も見たという女性も出てきていた。

たしかにシン・ゴジラは面白かった。しかし、ただ面白かったというだけで人は何回も何回も同じ映画を観てしまうものだろうか。

いわゆる「シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題」である。

実は私もすでに4回観てしまっている。しかし好きな映画を繰り返し観ることはさほど珍しいことではない。「仁義なき戦い」とくに「代理戦争」などは10回以上は観ているし、北野武映画は最低三回は観て批評なり感想なりを書くことにしている。

しかしそれらの作品を繰り返し見ることと、シン・ゴジラを何回も観ることのあいだには何か決定的な違いがあるように思われる。

なにしろシン・ゴジラの場合、観るのが四回目でも画面のレイヤー(層)のどこを見るかで悩み苦しむことになるのだ。

映画表現におけるレイヤーについて考えるために、亀山郁夫のドストエフスキー論を借りたい。亀山によればドストエフスキー作品は「象徴層」と「自伝層」と「物語層」の三つのレイヤーに分けられるという。

これをシン・ゴジラに当てはめると、「象徴層」は2011年3月11日いわゆる「3.11」に起こった悲惨な出来事。震災、津波、原発事故のことであるといえる。この3.11が象徴層として通奏低音のように作品の背後に控えているため、ゴジラというまったくの虚構存在、ファンタジー存在が恐るべき迫真と現実性をもって観客に迫ってくる。

「自伝層」についてはゴジラ誕生の首謀者といえる牧悟郎(岡本喜八)の遺言「私は好きにした、君らも好きにしろ」に庵野秀明の自伝的「覚悟」を見ることも可能だろうが、ここでは「日本人である私」または「日本に住んでいる私」からの視点の層としたい。生命の危険をともなう甚大な災害に見舞われることは日本に住んでいる限りありえないことではない。誰でも3.11のようなことを経験しうる。「その時」私は、私たちはどうなるのか?また「その時」が来たらどうすればいいのか?このことを作品を観ているあいだじゅう突きつけられるのだ。

「物語層」は亀山郁夫によれば、象徴層や自伝層よりも低次の層として、象徴層や自伝層に支配される層とされる。しかし本当にそうだろうか?ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」は圧倒的にその物語が面白いからこそ、名作として残っているわけで、象徴層や自伝層がより高次で高尚だから名作として今も読み継がれているわけではない。

シン・ゴジラも同じで、物語層が圧倒的に面白いからこそ、象徴層や自伝層がうまく機能するのであって、その逆ではない。作品はまずメッセージありき、テーマありきではなく、作品として面白いからこそ副次的なメッセージやテーマが観客のもとにうまく届くようになっているのだ。

さて、まだシン・ゴジラをなぜ何回も観たくなるのかの答えを出していなかった。

シン・ゴジラのレイヤーは実はこの三つだけではない。より表層的なレイヤーがある。それが「日本語表現層」と「キャラクター層」である。

日本語表現層はセリフとテロップに分けられる。奔流のようなセリフ量にテロップ量。カット割が早いために

「いま、環境省自然環境局野生生物課課長補佐の尾頭さんなんつった!?」

「テロップちょっと待って!安田さんの役職、文部科学省研究振興局基礎研究・・・なに!?」

とくに驚愕したのはtwitterでの伊藤聡さんの指摘。

2016-8-30.jpg
https://twitter.com/campintheair/status/764351578274799617?lang=ja

みんな大好き泉ちゃんこと泉修一保守第一党政調副会長(松尾諭)と矢口蘭堂内閣官房副長官(長谷川博巳)の大惨事の後の会話「君も地元を大事にしろよ」のすぐあとのセリフがどうしても聞き取れないと思っていたら、こういうことを言っていたという。「キンキカライのおかげで助かったよ」のキンキカライとは「金帰火来」(国会議員が金曜に自分の選挙区へ帰り、火曜に東京へ戻ることを指す)というのだ。こんな日本語初めて知ったよ!

この興奮は日本語使用者だけにしかわからない醍醐味ではある。ちなみにこういうセリフについては「製作側からは「分かりやすく言い換えてほしい」という要求があったけれど、闘い続けました。言い換えたら、嘘になってしまう。」と樋口真嗣監督がインタビューで答えている。

樋口真嗣監督がエヴァンゲリオンの盟友・庵野秀明総監督を語る「破壊しながら前に進む。彼こそがゴジラだった…」ー産経ニュース

役職のテロップの長さも凄い。何度も観てなんとか俳優と役職名を一致させようとテロップ読みに全力を尽くすが常に惨敗。四回目はヤシオリ作戦中の科学技術館の指揮台にいるのはどんな役職の誰なのか見極めようとするが、全員マスクをかぶっているので皆目見当も付かず!

「キャラクター層」ではネット上でのシン・ゴジラの登場人物の二次創作が盛んだ。尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐(市川実日子)の最後の笑顔に萌え、矢口と泉はできている!やぐいずだ、いや、矢口は赤坂先生と相思相愛なのだから矢赤だ!などという議論もかまびすしい。画面に描かれていないことまで観客は想像して楽しんでいる。

それもこれも、象徴層、自伝層、物語層、日本語表現層、キャラ層など何重ものレイヤーがたった2時間の中に凝縮されているから、情報を処理しきれないため起こる現象といっていい。この現象を見事にあらわした動画をネット上で見つけたので見てほしい。



まさにこの動画の子犬こそ、シン・ゴジラに夢中になる私たちそのものではないだろうか。

本来映画というものは、情報の取捨選択を積極的に行う「省略」の芸術である。観客を短い時間のうちにたくみに誘導するために、省略すべきところは省略し、シンプルな描写で情動を刺激する。シン・ゴジラは物語層こそシンプルかもしれないが、それ以外のところではこれでもかとばかりに情報の洪水を引き起こしている。それこそが、観客に今日はどのレイヤーに注目して見ようかというモチベーションを起こし、何度も観る動機となるものだ。

観客にとって情報が処理しきれなくなる映画が失敗作としてではなく、傑作となって姿をあらわしてしまう稀有な例がこのシン・ゴジラだ。
posted by シンジ at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする