2017年01月07日

絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」

絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」

映画「溺れるナイフ」(山戸結希監督)を観た実感として、少女漫画原作の女子中高生用のよくあるジャンル映画とはかけ離れた映画であることにまず驚愕する。一種の極北映画。ロベール・ブレッソンと柳町光男を掛け合わせたような作風に戦慄をおぼえた。

画面をところ狭しと予測不可能な動きで飛び回る菅田将暉とそれに必死で食らいついていく小松菜奈。画面を見ているだけ、人の動きを見ているだけでこれは映画だ。ここには映画しかない。という感慨が喜びとともに溢れてくる。

ただ、映画「溺れるナイフ」をこの映画だけで完全に理解することは難しいと思うので補助線として、柳町光男の「火まつり」を参考映画としてあげておきたい。

「火まつり」の主人公(北大路欣也)は野蛮で野卑で、野生そのものを体現したかのような男だ。彼は不遜にも自分を神に愛し愛される男だと自負していた。そして彼は神と「契り」を交わし、その代償として自分の子供たちを神にささげ、自らの命を絶つ。

映画「火まつり」の「神」とは、惜しみなく与え、惜しみなく奪う。理不尽かつ理解不能な存在として人の前に屹立している。この「神」はヨブ記の神に近い。

溺れるナイフのコウは、この火まつりの主人公に対応するキャラクターといっていいだろう。「神さん」と特別な関係にあると自負するコウ。そしてそのコウを特別視し、自身の神とする夏芽。

だが「神さん」に愛されていると自負していたコウは「自分のもの」である夏芽がストーカー男に乱暴されるのを防ぐことができなかった。

わしは神に愛されていなかったのかと自分に失望するコウと、なんでやっつけてくれなかったの?とコウに失望する夏芽。二人は疎遠になる。コウは神と自分に、夏芽はコウに失望するのだ。

だがこの二人の失望は浅慮な「神」観からくるものでしかない。「神」なんだから私の希望をかなえてくれるだろう。「神」は願いを聞いてくれるものだろう、というのは自分の欲望を神に投影したものにすぎない。二人は「神」とは絶対的「他者」であることを知らない。

絶対的他者とは、あなたの希望や願いや欲望を都合よくかなえてくれる存在ではなく、理解不能であり、理不尽なまでの決断をあなたに不断に迫る不可避の存在。それが絶対的他者である「神」である。

ルドルフ・ブルトマンは「神」をヒューマニズムのかけらもない、人間には理解不能の、人間的な善、正義、幸福すべてを打ち壊す存在と定義している。(ブルトマン「イエス」)

注意すべきはコウは「不遜」にも神に愛されていると自負していたから罰せられたのではないということ。神は人間とは取引しない。ただ一方的に与え、一方的に奪うだけでしかない。したがって人間に罰を与えることも、逆に褒美を与えることもしない。神はただ

「不可能な決断を迫る」(ブルトマン)
それだけだ。

そしてその時がやってくる。

再度夏芽を襲うストーカー男。このクライマックスの火まつりシーンの夢かうつつか幻かというエロティックなシーンは、夏芽と神との「交合」であることはいうをまたない。神は一方的に与え、そして一方的にストーカー男を「贄」として奪う。

神との「交合」をはたした夏芽はもはやもうひとりの「神さん」コウちゃんを必要としなくなり、東京に出て女優として成功をおさめる。

最後の現実ではないコウと夏芽の「応答」は、「絶対的他者」との応答。自己の欲望をうつしだす鏡としての「他者」ではなく、自身と隔絶した、不可能な決断を迫る「他者」を認めることにより「私」は目覚め、私としての実存を生きることになるその証しだ。

それは不可解なことや理不尽なことに直面し、悩み苦しみながら一歩を踏み出すその一瞬一瞬に「私」が目覚め、「私」が生まれるということ。私を目覚めさせるのは自分の欲望を投影できる「もうひとりの自分」ではなく、絶対的他者である「あなた」に他ならない。

「人間はこの本来的存在において「あなた」に出会い、「あなた」に求められていると知ることができる。まさにこの要求が本当のところ、はじめて彼に「私」としての実存を与えるのである。そうして人間が「私」に目覚めることによってさけがたい「あなた」に要求されていると気づく」−ブルトマン「イエス」


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小松菜奈も菅田将暉も本当に素晴らしかったが、この二人は神話の世界に生きる二人である。溺れるナイフの中でひとり現実に生きる大友(重岡大毅)がいたからこそ、この映画は魅力的な恋愛映画として繋ぎとめられているのだ。観客はみな大友に恋するだろう。彼がいたからこそ神話と恋愛がシームレスにつながっている。
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2017年01月02日

庵野秀明は樋口真嗣から映画を奪った・シンゴジラ簒奪劇のすべて。ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読む

庵野秀明は樋口真嗣から映画を奪った・シンゴジラ簒奪劇のすべて。ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読む

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラはただのアートブックでも、映画制作を資料を並べながら解説する本でもない。ここには庵野秀明という異物がいかに映画スタッフから憎まれ、嫌われながら、それでもなお映画の現場を蹂躙していったかの記録が残されている。

この本は庵野秀明がいかにして現場の主導権を傍若無人に奪い取ったかのあまりにも赤裸々な記録なのだ。

そもそもシン・ゴジラ撮影現場での大混乱は庵野秀明自身も樋口真嗣やそのスタッフも庵野本人が撮影現場に出張ってくるとは誰も考えていなかったことにある。

「(庵野は)脚本とプリヴィズと編集だけやるから、現場は任せた」という話だった。−樋口真嗣監督(p482)


しかしなぜか庵野は撮影現場につきっきりとなる。このことに騒然とする樋口組スタッフ。当たり前である。現場スタッフは進撃の巨人からのスタッフが多く、みな樋口を「親分」とする樋口組のスタッフで構成されているからだ。

当たり前ですけど、(現場は)「監督」である樋口君の意見を尊重します。ー尾上克郎准監督(p478)


しかし「監督」であるはずの樋口がOKを出しても庵野が首を振らないということが現場でたびたび起こるようになる。

それによって、かなり混乱があったようですし、「約束と違います」という話も漏れ聞こえてきました。−佐藤敦紀編集・VFXスーパーバイザーp456


最初のころ現場のスタッフ、全キャストが庵野さんに対して「あの人、なんなの」みたいな感じで、それをなだめすかすのが自分の役割でした。「樋口さんは、それでいいわけ?」なんて聞かれる。−樋口真嗣p485


招かれざる闖入者庵野秀明に対する現場の風当たりは庵野子飼いのスタッフ、轟木一騎、摩砂雪が撮影D班として現場に入った時に頂点に達する。映画撮影というのは大きなメインカメラがひとつドカッとあってそれを中心に撮影班が動いていく。しかしそれでは機動力が足りないと庵野は小型カメラのキャノンXC10だけではなくiPhoneをも導入するのである。そして現場では撮影A班B班C班だけではなく庵野子飼いのD班が急遽導入され撮影現場では常時6台以上のカメラが回っているという状況になってしまう。このことを撮影のクオリティに人一倍気を使う撮影班が面白く思うはずがなかった。

「(自分たちは)他のスタッフにはメイキング班以下に感じられていたみたいですね。」−摩砂雪・画コンテ・D班監督p342


「(D班は)イレギュラーなチームだったので、現場スタッフには戸惑いや反発もあったようです。僕の反省として、D班に関する周知を、もっとかみ砕いてスタッフに話しておけばよかったなというのがあります。」−尾上克郎p479


この証言だけでも庵野と庵野子飼いのスタッフが樋口組の中で完全に孤立していたというのがわかる。

シン・ゴジラ現場は招かれざる客庵野秀明により破綻寸前だった。しかしシンゴジラは完成した。それはなぜか?常識では考えられないほどのお人よし=樋口真嗣監督のおかげである。

「現場からすれば、庵野さんの陣取るベースを敵視するようなムードになる時だってあったわけですが、そんな時には、樋口監督が、素晴らしいリエゾン(連絡、関係の意)的能力を発揮していただいて、ありがたかったですね。」ー中川和博監督助手p327


「普通だったら、ヤケクソになって、「もうなんでもいいや、やっときゃいいんだろう」ってなりそうな所を、ムードを鋭く察知した樋口監督が絶妙にフォローしてくださったのでそうはならずに、ベストのことが成し遂げられたと思います」−大庭功睦監督助手p327


普通であれば現場責任者は樋口真嗣であるし、樋口の権限で庵野を撮影現場から追い出すこともできたはずだ。だが、樋口は庵野との長年の友情からか、庵野を切ることができなかった。樋口のその優柔不断さがまたスタッフの怒りや苛立ちを煽ったこともあるかもしれない。しかし樋口の常軌を逸したお人よしさはこう考えるまでにいたる。

「おれが助けようと。(庵野に)尽くそう。尽くします。」ー樋口真嗣p485


樋口真嗣が最終的に折れたことで、庵野は現場での実権を奪い取ることに成功するのである。庵野は樋口真嗣、樋口組から映画を奪い取ったのだ。

撮影現場で蛇蝎のごとく嫌われた庵野秀明だったが、この庵野の傍若無人な暴れぶりはプリプロダクションでも、ポストプロダクションでも同じだった。

プリプロダクションでは他の脚本家が書いてきた内容(恋愛、家族ドラマたっぷり)に激怒して2014年9月の段階でゴジラから降板するという電話を東宝映画社長の市川南にしている。

ポストプロダクションでは次のような証言をネットで見つけた。

No-001.jpg

「面白かったのはシンゴジの焦土東京の衛星高度からの夜の画でプリビズから出来上がっていく進行過程が全部貼ってある横の監督の指示がもうgdgd 修正させた挙句 前の段階の画に「これでいいです」打ち上げで「1つ前に戻るのはよくある事」 あーこれじゃ人が離れてくのも無理ないわ…」


どうやら庵野秀明の悪評は業界の隅々にまで周知されているようだ。

庵野秀明はこのようにありとあらゆるスタッフから嫌われ、憎まれ、現場は怒りと不安と苛立ちで包まれていた、にもかかわらずシン・ゴジラは興行的にも批評的にも大成功を収めた稀有な作品となった。なぜなのか?庵野は自分がスタッフから憎まれていることなど一切関知できないほどの鈍感な人間だったのだろうか?

そうではなかった。庵野秀明は自分の行動がスタッフ間にさざなみを立てさせ、怒りや憎しみを生むことになることをはっきりと自覚していた。

(最初は現場に出る予定はなかったが)いくつかの段階と転機と理由があり「可能な限り現場に出るしかない」と判断しました。実は理由のひとつに現場の意識改革を試みるしかないと思ったこともありました。当初スタッフは、ルーティンワークで動いていました。もちろん全員がそうではないんですが、基本的にスタッフの意識は「年に何本かある仕事の一本」なんです。


ルーティンからは面白さも新しさも生まれにくいんです。普段と違うことで、何か引っかかるというか面白さや変革がそこに生まれると思うんです。ですから現場でのルーティンの否定と破壊から始めようと。スタッフにはパラダイムシフトを起こして欲しかったんですねー庵野秀明脚本・総監督


庵野は意識的にスタッフとの間に緊張関係を作り出していたのだ。そしてそのために庵野はつらい状況に置かれることにもなった。

「自業自得の状況なんですが、正直辛くて、あまり良い記憶がない現場でした。それが作品の緊張感になっていれば、幸いです。」


庵野は撮影に入って早い段階から、現場の主導権を樋口から奪おうと画策していた。二人には長年の友情があるのではっきりとは言わないが、赤の他人の私なら遠慮なしに書ける。庵野は早い段階で樋口真嗣と樋口組にまかせていてはシン・ゴジラは駄作になると確信したのだ。そして庵野は自覚的に映画を樋口の手から奪った。これがシン・ゴジラ簒奪劇の真相だ。

こうして映画は樋口組スタッフによるものでありながら、樋口真嗣の影はどこにも存在しない、どこを切っても庵野秀明の刻印が押された作品となってしまった。あれほどまでにスタッフから反発され、嫌悪されても庵野印の作品になってしまうのかと、映画の恐ろしさを痛感するばかりだ。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラは庵野秀明とスタッフとの壮絶なバトルを描いたドキュメントであり、2017年最大の読書体験を私たちにもたらす大事件だ。
posted by シンジ at 20:13| Comment(25) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

「失われたもの」


この夏公開された二本の大ヒット作、新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は奇妙な符合を見せている。

「失われたものを取り戻す」。それが偶然にも両者に共通するテーマとなっているのだ。

シン・ゴジラと君の名は。は両作品とも3.11=東日本大震災の悲惨な出来事が背景として存在している。そして両作品とも3.11で「失われたもの」を取り戻すというファンタジーであるということも共通している。

シン・ゴジラは3.11でうまく立ち回れず、被害を大きくしてしまったかもしれない当時の政府がもしうまく立ち回れていたら、という「願望」めいた「幻想」を描いていた。

君の名は。は3.11で失われてしまった生命と土地を再びこの世に取り戻すというファンタジーだ。

「失われたものを取り戻す」という幻想は、もはや変えることのできない「運命」への絶望的な挑戦でもあるがゆえに、映画のような創作にだけに許された特権的なもののようみえる。

「運命を打ち破れ」


「運命」とはいかなるものか。運命とは過去から未来にわたって、決して変えられない世界のことをいう。「運命」とは「決定論的世界観」の別の名前です。

決定論的世界観とはこの世界は人間の手が下される前に、過去も未来もどうなるかすでに決まっていて絶対に動かせない。そういう世界観のことだ。

こうした決定論的世界観=「運命絶対主義」ともいうべきテーマをもった映画が、シン・ゴジラの監督でもある庵野秀明の前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だ。

エヴァQに関してはすでにここで書いている。

エヴァンゲリヲンQと自由意志問題

エヴァQでしつこいくらい描かれたのは「人は運命の前では無力」。人の意志や行動や善意や正義では決して運命は変えられない、そのことだけだった。人間の自由意志が「運命」に戦いを挑み無惨に散っていく姿を描いたのがエヴァQだった。

しかし庵野秀明はシン・ゴジラでは一転、3.11のメタファーであるゴジラというあらがえない「運命」に対し果敢に挑戦する人間たちを描き、そして彼らはゴジラに見事に勝利する。人間の意志や行動、決断が決してあらがえない「運命」の象徴であるゴジラ=「災害」に打ち勝つのだ。

そしてさらに、そこから歩を進めた「君の名は。」では、「自然災害」や「失われた生命」という絶対に覆すことのできない「運命」=「歴史」をも人の「意志」で変えてしまうというアクロバットを見せるのだ。

とくに「君の名は。」の歴史改変というアクロバットは「運命」に立ち向かうというより、絵空事でしかないという人もいるだろう。しかしそうした考えも「運命絶対主義」という考えに毒されたものでしかないとしたらどうだろう。

「運命」は決して変えられないという思考は、実はたったひとつの思考に縛られているに過ぎない。すなわち「世界はひとつしかない」という思考である。

世界がひとつしかないのであるならば、「運命」に打ち勝つことは不可能だろう。もはや絶対に変えられない「過去」によって「未来」は規定されるからだ。

「多世界論=並行世界論」


しかしここにひとつの考え方がある。「多世界論」である。人がさまざまなことを「決断」するたびに「世界」は分裂していく。「並行世界」が生まれていくという考え方だ。これはなにも突飛なSFを語っているのではない。多世界論とは「量子力学」のことだ。

多世界論ならシュレーディンガーの猫のパラドックスだけではなく、タイムマシンのパラドックスまで一気に解決できる。タイムトラベルのパラドックスで有名なのは祖父殺しのパラドックスだろう。タイムマシンに乗って過去にタイムトラベルし、子供時代の自分の祖父を殺したとしよう。・・・でははたして祖父を殺したわたしはいったい誰から生まれたのだろうか?これが祖父殺しのタイムパラドックス。

しかしこれも多世界論ならパラドックスにはならない。過去にタイムトラベルした時点で自分の元いた世界とはちがう並行世界に来た事になるからだ。自分の殺した祖父は自分の元いた世界の祖父ではなく、並行した別の世界の祖父であり、だから祖父を殺しても自分の存在にパラドックスは起きない。こうして多世界論は量子力学とタイムトラベルのパラドックスを一気に解決することができる。ーライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

多世界論ならば、「君の名は。」の歴史改変は絵空事ではなく、実現可能なことになる。世界がひとつでない以上「運命」は変えられるのである。

そしてまた「シン・ゴジラ」もゴジラがこれまで存在しなかった「並行世界」を描いている。それまでのゴジラシリーズは初代ゴジラすなわち1954年本多猪四郎と円谷英二の作り出した「ゴジラ」という前提があったうえでその後のゴジラ世界を描いている。しかしシン・ゴジラは1954年版ゴジラが存在せずに、今この時代に始めてやって来た「巨大不明生物」としてあつかっている。

そしてその巨大不明生物は3.11と重ねあわされ、3.11をうまく処理できた日本政府と社会という並行世界となっているのだ。

君の名は。もシン・ゴジラもそうであったかもしれない多世界=並行世界を描いているのだ。

「時代が要請する公共性」


新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」はまったくの偶然ながら、同じようなテーマをあつかっていた。しかしこれは偶然というより「時代の要請」というものではないだろうか。3.11という出来事を前にした庵野と新海は同じ時代の空気を浴びたがゆえに、まったく違う種類の映画で同じようなテーマ描くことになってしまった。

新海誠は「新海誠その作品と人」(EYESCREAM 2016年10月増刊号)のインタビューで「公共的な視点」という言葉を口にしている。さらにLINELIVEの『君の名は。』特番では

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」
といっているのだ。

奇しくも細田守も是枝裕和との対談でこう言っているー

「作家主義的なものより公共性が先に来るべきだと。それを外しちゃうんだったら、作らなくていいよってなっちゃう」 ー映画ナタリー「細田守と是枝裕和が“いい父親”東映動画とテレビマンユニオンについて語る」


この「公共性」とは噛み砕いて言えば、映画は社会と無関係ではいられない。「内向性」や「趣味性」という個人の殻の中にとどまってはいられないということ。映画は社会と向き合い、人や社会に向けて肯定的なメッセージやときには警告を発する必要があるということだ。

はっきりいってしまえば、「世界がどうなろうと君と僕さえいれば世界は完結する」だの、「世界もニンゲンもこの世からすべて消え去ってしまえばいい」などという社会への無関心や後ろ向きなルサンチマンからくる映画など作っても意味がないといっているのだ。・・・まるでかっての庵野秀明を批判しているようだが。

新海誠や細田守が3.11以降敏感に感じた「時代の空気」とは、作品と社会とは決して切り離すことができないということ。うちひしがれた人々を励まし、顔を上げさせ、重くのしかかる「運命」に立ち向かわせること。そして映画はその手助けをするべきだということだ。

そして庵野秀明もさすがに凡庸ではない。新海誠と細田守がとらえた時代の空気を敏感に察し、「運命」を打ち破り、失われたものを取り戻す「シン・ゴジラ」を作ったのだ。人は運命の前で決して無力ではない。戦え!とあの庵野が言うのである。

シン・ゴジラは庵野秀明なりの時代が要請する「公共性」への答えなのである。

新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は、時代の空気を敏感に読み取った映画作家二人の転回点であり、代表作であり、時代の要請に誠実に答えたことの結実だ。
posted by シンジ at 05:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする