2020年09月06日

ポリコレと検閲

ポリコレを創作物に適用せよというのは、映画や漫画やドラマや小説に「社会正義を実現させる道具」としての役割を期待しているという意味で創作物への過大評価かつ極めて一面的な評価にすぎないだろう。
またそれは社会正義を実現させる道具として機能していない作品はパージせよという危険なメッセージでもある。

創作物に「社会正義を実現させる道具」という役割を着せることは、必然的に社会正義にそぐわない表現をパージすること「検閲」を意味する。ポリコレが危険なのはその「検閲」を為政者や権力者が行うのではなく民間が行うことにある。

もちろん為政者側が検閲を行うのも危険なことだが、民間が検閲を行うことの真の恐ろしさは検閲が恣意的に行われることにある。ルールなき、定義なき、法的根拠なき検閲はその時・その場所・その人次第、その時の気分次第でいかようにも運用される。

検閲が恣意的に行われることの恐ろしさはすでに多くの人が経験している。バルテュスの絵を美術館から撤去せよという1万人の署名。もう二度と映画館で上映されないであろう風と共に去りぬ。これらのことを国家権力が行うのであれば許せないこととはいえ、まだ理解できる。だがこれらはすべて民間人が積極的に行ってきた検閲なのだ。

現代において検閲はもはや国家権力の仕事ではなくなっているのだ。

ポリコレ派をあえて好意的に見るなら、彼らはすごくまじめなんだと思う。だがそのまじめさは「無能な働き者」に近い。社会正義を本当に実現したいなら、創作物に対し検閲を仕掛けるよりも、現実に対し政治的アプローチを仕掛けるべき(投票行動、ボランティア、NGO、ロビー活動など)なのだ。


だが彼らはそういうことには熱心になれない。「コスト」がかかりすぎるから。だからコストの一切かからないポリコレ検閲に夢中になる。こんなに簡単に社会正義を行使した気になれることはないからである。

ポリコレの理想(これも恣意的に変えられるかもしれないが)あらゆる差別に対する反対、多様性の尊重などに反対する人は少ないだろう。では何が問題とされているのか、その「運用」が問題とされているのだ。

文化盗用なる珍妙な概念、バルテュスの絵画の追放、スティーブン・ピンカーですら政治的に正しくないという理由で学会からの除名運動が起きたり、映画やドラマにおける同性愛者やトランスジェンダーの役は同じ属性の人しか演じてはいけないなど、ポリコレの運用は支離滅裂になっている。

これこそが「民」が検閲を行うことの恐ろしさだ。ルールなき、定義なき、法的根拠なき検閲はその時・その場所・その人次第、気分次第でいかようにも運用される。検閲が恣意的に行われるとはまさにこのことなのである。

ここにいたって「自由論」を書いたジョン・スチュアート・ミルの慧眼が光る。ミルにとって自由の敵は「大衆」に他ならなかった。大衆が法的以外の手段を用いて正しいとされる考えを強制してくることこそミルは問題視したのだ。国家権力の圧力によって自由は死ぬのではなく、大衆の良識によって自由は死ぬのだ。

twitterでどう即氏がこんなことを書いていた。
>映画は「作り物と知りつつ、ソレにノる」事で楽しめる芸術と思う。最近のPC議論に感じる小さな違和感は、この「作り物と知りつつ」が抜けて(本物と思って)る人への違和感でもある。


>映画は「作り物と知りつつ、ソレにノる」事で楽しめる芸術。まさにそうなんだけど、
最近は映画を「正しい」イデオロギーとその描写を見るものと考える人が多くて危機感を覚える。

いつから映画は「正しさ」を要求されるような高級なものとなったのか。本来映画は人間のやましい感情や薄暗い欲望に光をあてるものではなかったか。

映画の起源がアメリカと日本共に犯罪映画であったことは決して偶然ではない(アメリカ映画最初の「劇映画」は1903年製作「大列車強盗」であり、日本映画最初の劇映画は1899年製作駒田好洋「ピストル強盗清水定吉」である)

映画やドラマに「正しさ」を啓蒙してもらいたい、あるいは啓蒙するものだと考えるのはまるで「社会主義リアリズム」の復活を思わせる。社会主義リアリズムとは芸術作品にマルクス主義的な考えに基づいた描写を必ず入れることを要求する芸術運動、批評の手法のことだ。

しかし社会主義リアリズムは芸術運動としての側面をあっという間に失い、社会主義リアリズムに即していない作品、社会主義リアリズムに反した作品に対する「検閲」としか機能しなくなる。

ポリコレも社会主義リアリズムと同じ運命をたどりつつあるのではないだろうか。


posted by シンジ at 19:04| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月24日

コスモポリタンへの違和感

最近のカズ・ヒロ氏のインタビューやゴーン逃亡に対してのリベラルの賞賛に違和感があったが、それがグローバリストやコスモポリタンに対する違和感であることが言語化できたのでメモとして書き残しておく。

2020年米アカデミー賞でノミネートされたカズ・ヒロ氏のインタビュー

「ウィンストン・チャーチル〜」で受賞をした時にも、彼は、「日本を代表して」とか、「日本人として初の」というような言われ方をされるのが、あまり心地よくないと語っていた。

「日本人は、日本人ということにこだわりすぎて、個人のアイデンティティが確立していないと思うんですよ。だからなかなか進歩しない。そこから抜け出せない。一番大事なのは、個人としてどんな存在なのか、何をやっているのかということ。その理由もあって、日本国籍を捨てるのがいいかなと思ったんですよね。(自分が)やりたいことがあるなら、それをやる上で何かに拘束される理由はないんですよ。その意味でも、切り離すというか。そういう理由です」。

https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20200114-00158572/

それはコスモポリタン(国際人)への違和感でもある。

世界で最初に我こそはコスモポリタンであると宣言したのはディオゲネス(紀元前412年?ー 紀元前323年)だった。

中世にも「私の故郷はおよそ世界である」といった人がいた。ダンテ(1265-1321)である。

ディオゲネスやダンテがコスモポリタンを自称できたのは世俗世界の上位にある教養人の世界に属しえたからだ。ディオゲネスはギリシアの哲学世界、ダンテはイタリアの詩人世界に。土地や親族、共同体を無視し唾棄すべきものとして遠ざけることができたのは知識人階級に属し、才能に恵まれたからでもある。まさにグローバルエリート族だからこそコスモポリタンを名乗れたのである。

コスモポリタンとは土地や親族、共同体から離れて個人の才覚のみに頼って生きることが出来ると「思っている」スーパーエリートである。ブルクハルトが言った様に「コスモポリタニズムは個人主義の一つの最高段階である」(ーイタリア・ルネサンスの文化)。彼らが頼みとするのはおのれの才覚ひとつであり、それ以外は取るに足らないものにすぎない。

しかしだ、ダンテもディオゲネスも土地や家族、共同体や民族が長年つちかってきた文化資本を摂取して生まれ育ってきたことを忘却している。人間の生来の資質=才能は自分だけの「手柄」ではない。才能は生まれ育った土地や家族、共同体のリソースによって開花するものであって個人の手柄でも「功績」でもない。

ではグローバリストやコスモポリタンのように才能は完全に個人の資質であり「手柄」であると考えると人間はどうなるか?サンデルいわく「成功を自分の手柄と考えるようになると遅れをとった人々に責任を感じなくなる」(ーこれからの「正義」の話をしよう)。エマニュエル・トッドも「グローバル化で、エリートは自分の国の人々に対して責任を感じなくなった」。

生まれ育った土地や共同体に帰属意識を持たなくなり、したがってそこへの責任も持たない、いびつな個人主義が選民思想をともなったとき、コスモポリタンというフリーライダーが誕生するのである。
posted by シンジ at 23:28| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月31日

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

主人公の帆高の選択に対する批判としてこれを社会性のないものであるとか、浅薄な功利主義(最大多数の最大幸福)批判であるとか、公共的なものへの反発からくる徹底した利己主義、リバタリアニズム(自由至上主義=個人の自由と権利を絶対視する思想)であるとかいう批判が一部にある。

一方で帆高の選択に対する賞賛として非常にラディカルでアナーキーなものであると賞賛する人たち(おもに革新幻想にとらわれた中年男性)がいる。むしろ批判よりもこっちのほうが多いかもしれない。

だがこの批判するもの、賞賛するもの両者ともに映画に描かれているものと向き合わず、新海誠の意図するものを無視し、頭の中にある「公式」に映画を当てはめているにすぎない。

この批判と賞賛の両者が見逃しているものとは新海誠その人であるといってもいい。

はたして新海誠は徹底した利己主義、自由至上主義の観点から帆高の決断を描いたのであろうか。もしくはこの世界など滅びてもかまわない、愛さえあればそれでいいというようなアナーキズムからこの決断を描いたのだろうか。

どちらも共に間違っている。

私のようなすれっからしからしてみれば信じられないことなのだが、新海誠は本心から「世界が良くなってほしい」と願い「世界が少しでも良くなるよう」に思いをこめて映画を作るお人なのだ。

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」ーLINELIVEの『君の名は。』特番での新海誠。


私は新海誠のこの発言が嘘偽りない彼の本心、映画作りの根底にある考えだと確信している。ここ何年かの新海誠のインタビューや対談のネット記事、雑誌記事のほとんどに目を通してきた結論がこれだ。(これでもし彼の発言が全部嘘で演技しているだけというなら脱帽する)

新海誠は我々が思っている以上に「ガチ」の人なのだ。心の底からこの世界が良くなればいいと願いながら映画作りをする新海が、リバタリアニズムにもとづいて、もしくはアナーキズムにもとづいてこうした選択を描いているのだと見えたのなら、その目は節穴である。

新海誠は議論の余地なく完全に帆高の選択こそが「世界を良くする」ものだと確信して描いているのである。

新海は徹頭徹尾、登場人物に寄り添い、どうすればこの子達が幸せとなるのか、どうすればこの世界がより良いものとなるのかを真摯に考え抜いた結果、この選択、この決断を描いたのだ。

帆高がくだした決断は、まず「目の前にいる苦しんでいる子を助けよ」という衝動に従うことだった。

目の前にいる苦しみ助けを求める人に手を差し伸べることこそが全世界を救うことと同義であるということ。

ここで毒々ルサンチマンもちの邪悪な私が囁く。「いや、もちろん目の前に困っている人がいたら助けるけども・・・それと世界を救うことには深い断絶があるよね?私たちは家族や友人、目の前にいる人は助けようと思っても、少しでも離れた地域や別の国にいる人たちの不幸に関してはほとんど無関心じゃないか」

人間の同情心や想像力というのは自分の身近なものにしか働かないように見える。そうした狭い範囲でしか通用しない衝動に身をまかせることは根本的にあやまちではないのか。

しかしこの目の前にいる苦しんでいる人を助けるという衝動こそ孟子のいう

「人皆人に忍びざる心有り」


に他ならない。これを「道徳を基礎づける」のフランソワ・ジュリアンはこう訳す。

「誰にとっても他人が不幸に沈んでいる時に無関心でいられず、反応を引き起こすものがある」


これを「仁」という。

なるほどこの「仁」はいまだ不完全であるかもしれない。目の前の人を助けても、地球の裏側で苦しんでいる人々を助けることもできないちっぽけな感傷かもしれない。

だがしかし目の前にいる苦しんでいる人を助けたいと思うこの小さな衝動こそが人のモラルの源泉であり根底にあるものなのだ。この未熟で小さな思いこそが地球上のすべての人々が倫理的にふるまう最初の一歩なのだ。

新海誠は苦しんでいる人が目の前にいたなら、それに無条件で手を差しのべる衝動こそが世界をより良くする第一歩だと本気で信じているからこそ「天気の子」を作った。

帆高の決断は愛を選ぶか、世界を選ぶかというような陳腐なトロッコ問題ではない。男女間の愛の問題ですらない。

焦点は「仁」なのである。
posted by シンジ at 08:15| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする