冒頭の電話の依頼主は消去法を持ち出さずとも“彼女”しか考えられず、ここが小説と映画との決定的な違いであり、それを埋める配慮がもう少しあれば、ラストも鮮やかに決まっただろうと惜しまれる。ー野村正昭
原作は確かにミステリ的な側面が強いかもしれない。だがこの映画の狙いは最初から犯人当てゲームにないのは、火を見るよりも明らかだ。犯人当てゲームなら何人かあやしい女性の登場人物を増やしてミスリードを誘うようにするだろう。それをしていないということは、この作品の眼目はそこにはないということだ。
ではこの作品の眼目はどこにあるのか。この映画での悪役カトー(高嶋政伸の代表作になるんじゃないか)の印象的なセリフがある。カトーは人を殺す前に相手に言う「人は死ぬ前に映画を見る」。人は死ぬ瞬間に走馬燈のように自分の人生の映画を見るというのだ。
「コンドウ・キョウコ」と電話で名乗る女は自分が死ぬ瞬間に見る映画を完成させるために、映画を見守る観客が必要と考えた。その観客として選ばれたのが「探偵」(大泉洋)なのだ。
この探偵は終始、自分が何をしているのかわからずに行動させられている。ある意味探偵にあるまじき探偵である。自分の意志もなく、推理もできず、ただ電話の指示に振り回されているだけ。そしてただなにかを目撃させられているだけ。
探偵は今自分の目前で起こっていることに対して無力なままである。なぜなら探偵は電話の女の人生という映画を観客として見せられているにすぎないから。
しかし、映画の観客にすぎなかった探偵はいつしか女の映画の登場人物となってしまう。ただ金を貰ってすることだけをする職業探偵ではなかったから。女の物語に深く関わろうとしてしまうような男だったから。
いち観客であるべき探偵がいち登場人物となってしまったことは、電話の女の予期せぬことだった。それに対し女はある演出をほどこす。ーそれは映画から探偵を排除すること。
いち観客から、はからずも映画の登場人物となってしまった男への罰。それは映画のクライマックスを見ることを禁じられることだった。
かくして映画のもっとも重要なクライマックスを見ることができなかった探偵の脳裏には、映画のクライマックスだけ抜け落ちた、永遠に終わることのない映画が上映され続ける。こうして女は自分の映画に永遠に囚われ続ける観客を手にしたのだ。
この映画は原作の「バーにかかってきた電話」とは違い謎解きでも、犯人当てゲームでもない。この映画の主役は素晴らしい軽妙さの大泉洋でもなく、動きが親父に似てきた松田龍平でもない。この電話の女、一人の悲劇的な女が死ぬ間際に見る人生の映画そのものなのだ。