2011年03月29日

世界との取引「トゥルー・グリット」

少女にとって復讐は「取引」だ。

少女が商人と馬の買い取りをめぐってする、あのあざやかなやりとり。少女にとって「世界」は秤にかけて計量することのできる「公正な取引」のできる世界でなければならない。あのシーンはそれを宣言する。

父が不当な理由から殺された。少女はその不当な取引によって奪われたものを「世界」から取り戻さねばならない。それこそが公正な取引というものだ。

だが、その「取引」は少女の想像を超えたものだった。少女は自分の行く先々で積み重なってゆく死体を凝視し続ける。

最初の小屋で待ち伏せた野盗たちの打ち捨てられた死体を見て少女は言う。「埋葬したい」と。それがせめてもの、この取引が公正かつ正当なものであるという証だと言わんばかりに。

だが、その願いは聞き入れられない。馬に乗ってその小屋を去りながら放置された死体を見つめ続ける少女。

野盗たちとの最後の決闘が終わる。少女もまた死の淵にありながら、地面にころがる死体から目を離せず、いつまでも追い続ける。

少女は死体を見つめながら考える。はたしてこの「取引」は「公正」なものだったかと。自分が父の復讐を考えさえしなければ、このような死体の山が築き上げられることはなかったのではないかと。

だが、少女はその「取引」から逃れることはできない。少女が「取引」しているのは「世界」そのものだから。

少女はその「取引」によって体の一部分だけではなく、「死」を凝視し続けたことで魂の一部分をも奪われた。

そして長い年月がたち、年老いたかっての少女は、誰にも頼らず、誰にもかかわらず、ただ一人で生きている。

自分は「正しい」ことをしたのに神は「不当」な人生を自分に押しつけたなどとはみじんも思わない。私は「奪い」、「奪われた」。それが「世界」との公正な「取引」だ。泣き言なんて言わない。

その毅然とした後ろ姿は神々しい。まるでイーストウッドのように。
posted by シンジ at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月20日

共感を超えた映画体験「海炭市叙景」

映画「海炭市叙景」を見て救われた気持ちになった。

映画は海炭市に住む4つの家族に寄り添いながら淡々と進む。そこで描かれるのは今の私たちの似姿。断絶し、理解し合えない家族の姿であり、停滞し、窒息しそうな街の姿だ。不思議なのは、そんな暗くじめじめした映画にもかかわらず見ていてすごく救われたこと。

一体この自分の不可思議な気持ちはなんなんだろうと。自分と同じようなみじめな境遇の人々を見て溜飲が下がったとでもいうのか。そんな卑しい気持ちが自分にあったのか?いや、違う。映画を見ていて最も心が満たされ、救われたのはどこだったか、はっきりと思い出せる。

路面電車がすべるように動き出した瞬間に私の心はスクリーンの中に入っていき、映画の中で何の関わりもなかった人々が同じ路面電車に乗り合わせたり、すれちがったりするその時、何か突然、救われた気持ちになったんだ。

それは決して自分と同じようなみじめな人々の境遇に共感し、みじめなのは自分一人だけじゃないというような陳腐な自己憐憫によるものではない。

物語の終盤、大晦日の夜。それとは意識されずに路面電車の中と外で登場人物がすれ違う。路面電車のなめらかな動きと共にスクリーンの中に没入していく私はその瞬間体験する。

いままで映画の登場人物の近くで身をひそめて寄り添っていたはずなのに、登場人物が同じ時間、同じ場所で意識することなくすれ違う場面で、ふいに超越的な視点に立たされたことに気づく。そこは神の視点といってもいい。

その突然の視点の変化からくる私自身の動揺が、あの路面電車の中に私と同じような人間がいる、というような同情や共感を超えた、超越的な感覚、いわく言い難い体験をもたらす。

そこに「世界」があり「生」があり「死」がある。そこが「始まり」であり「終わり」でもあり「過去」でもあり「未来」でもある。すべては「同時」に生成し「連続」している。すべては「ひとつながり」なんだという感覚に呆然とし、陶然とするような気持ちに満たされる。

この超越的な感覚を「悟り」というのはさすがにアホっぽいので、このわけのわからない体験を「映画的体験」ととりあえず名付けるほかない。

この映画には路面電車の場面以外にも、男が船の甲板でながれる海の波間を見ながら立ちつくす場面や、猫を抱きかかえる老婆の反り返った親指などおもわず呆然とするような、言葉で説明のつかない感覚と感動に満たされる瞬間がある。

一体この感覚をどう言葉にすればいいのかわからないが、老婆の“反りかえった親指”その「細部」に「全体」をみるというか、連綿と続く生の営みのすべてをそのほんのわずかな部分に見てしまうといえばいいのか・・・。言葉にできない「映画的体験」と呼ぶしかない。

ずっとこの映画の登場人物を一番近い距離から見ていたら、突然すべてを見渡せる場所に立たされた、そんな感覚。原作を読んでもこんな感覚はなかった。映画ってすげえな。映画が文学を超える瞬間ってこういうことなんじゃないかな。
posted by シンジ at 17:42| Comment(0) | TrackBack(2) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月08日

映画「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」のラストシーンが美しいのはなぜか?

映画「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」を見る。

せっかちなのでいきなりラストシーンの話からしていいだろうか。

なぜ「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」のラストシーンを美しいと感じるのか?

ここに愛し合う二人の男女がいる。しかし彼女は別の男の幻を彼氏に見、彼氏はそれを理解しながらその幻の男を演じ続ける。

この映画のラストはみーくん(嘘だけど)が虚構としてのみーくんという役割を演じながら、まーちゃんと共にメヴィウスの輪の中で永遠に循環しつづけることを示唆して終わる。

だが、しかし・・そもそも愛し愛されるということは、もろくはかない幻影を前提としたものではなかったろうか。対象に恋するのではなく、「恋に恋する」自分に恋したり、お互いに見ているものが違っていたり。

みーくんが作品中たびたび「嘘だけど」と観客に向かって念押しするのも、私は本当は「みーくん」ではないですよ、と親切に教えてくれるだけではなく、恋人とか家族なるもの自体虚構でしかないのですよというみーくんの超越的な立場を表明している・・・あるいはその絶望を。

自分はこの世のすべてが虚構でしかないとわかってしまっている。だからスクリーンの中から観客に話しかけることもできるし、まーちゃんが子供を拉致していようが何とも思わないし、自分の命すら大したものじゃないし・・・という徹底したすべてがどうでもいいという態度。だって自分も自分のいる世界も全部虚構なんだから、どうなろうと知ったことではないじゃないか。

たしかに恋人も、家族もこの世界はすべて虚構かもしれない。だが、そこに実際生きて生活しているものにとってはかけがえのない「真」なのである。

自分一人だけ超越的な立場から、上から目線で恋人や家族なんてしょせん虚構なんだよ、嘘なんだよという者は

焦げ工合を言いうる者は弱い火に焼かれている者だ。ーペトラルカ

弱い火に焼かれている者でしかない。

この映画のラストシーンでみーくんは恋人や家族というものはしょせん虚構だからという上からの視点を捨て、あえてその虚構を引き受けてみせる。「生の実感」としてその渦中に身を投じる決意を示すのだ。

それは「家族」というもの「父親」というものを形骸化した虚構としか感じられず、「生の実感」を失い、支配という名の獣性に身を堕としたみーくんの父親とは真逆の選択である。

みーくんは焦げ工合をいいうる(客に向かって「嘘だけど」という)立場から積極的に火に焼かれるためにまーちゃんの元へ身を投じる。たとえまーちゃんの見ているものが自分ではない幻影であろうとも、共に「生の実感」という火に焼かれることを選ぶのだ。

「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」のラストシーンを美しいと感じるのは、その選択ゆえだ。
posted by シンジ at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

震災との距離「その街のこども」評

映画「その街のこども」を見る。

ひょんなことから神戸で出会った男女が阪神淡路大震災の追悼集会がある三宮まで夜通し歩き続けることになる。上映時間80分全篇歩きっぱなし、喋りっぱなしですすむがまったく飽きが来ない。

徹底したリアルな会話のやりとり、佐藤江梨子に電話番号か3サイズ教えてという森山未來に佐藤が教える電話番号も気が利いてるし、どんなに歩き疲れてもタクシーを拾うことや自転車を拝借することが禁じられていたり。脚本渡辺あやの技が光る。

その渡辺あやの匠の技は忠実なまでにリアルに奉仕しているが、この映画でリアルがほころぶ瞬間がある。今まで快調にリアルに徹してきた映画がほころびを見せるのは佐藤江梨子が自分の友だちだった「ゆっちん」を震災で亡くしたことを告白し、「被災者同士で助け合っていかなあかんねん・・・」というようなことを話しはじめたときだ。その時いままで保たれてきたリアリズムはあっけなく崩壊する。

これにはちょっと驚きました。リアルが崩壊する原因は、いままでリアルだと感じていたものに「メッセージ」が挿入されると途端に白々しく作為的なドラマツルギーが働いてしまうこと。私自身このシーンを見ていて「あや・・・やっちまったな」と思ったんだけど、その後森山未來のインタビューを読んで考えをあらためたところがある。

森山は10歳の時に震災を経験し、そのことでNHKの震災特集に呼ばれることになる。

「そもそものきっかけはナビゲーターとして出演した『プレミアム10 絆・被災地に生まれたこころの歌』(NHK)でした。番組の最後に『あの日を決して忘れてはならない』という台詞が用意されてあったのですが、その言葉に違和感があってどうしても言えなかった。」ー森山未來インタビュー・週刊文春1月27日号

森山は被災者とはいえ、大きな被害を受けたわけではなく、震災を自分のものとして考えることがなかったのに震災の当事者面することに違和感を感じたのだ。

実は渡辺あやはこうした森山自身の震災に対する距離感も脚本に練り込んでいる。「その街のこども」の作り方は独特で、渡辺が台本を書く前に森山や佐藤、実際に震災を経験した人たちと話し合い(佐藤江梨子も被災者)その体験談を脚本に反映しているのだ。たとえば震災時に売られていた2千円の焼き芋の話は森山の体験談だし、森山や、森山の友人の話も脚本に取り入れられたという。

つまり私が佐藤の告白シーンにリアルを感じられなかったのは、身近な人の死を体験した佐藤と何の被害も受けなかった森山との埋められない溝を映画上の表現として端的に示しているからだとはいえないだろうか。

私が感じた違和感の正体は、いつのまにか森山視点で見ていたわたしが震災というものと森山自身の埋めがたい距離感を「わたし」自身が映画上で体験させられたのだ。

「あの日を決して忘れてはならない」というフレーズを当事者でもない自分が口にするのにためらいがある森山自身の震災に対する距離感。と同時に映画の中の森山の役は自分の父親が震災特需というものを活かして金儲けしたという負い目を背負っている。役の森山は佐藤が話す「死」と、お互い支え合って生きていこうという「メッセージ」に耐えられなかったのだー自分の負い目ゆえに。

どうやら私は物語上の男女の溝の表現を映画のリアルの喪失と受けとめ、渡辺あやの脚本上のミスとして感じてしまうほど渡辺あやの術中にはまってしまったようだ。

その証拠にこの佐藤江梨子の告白シーンを境に物語は急激にリアルからエモーションへと舵を切る。

佐藤はこの後「ゆっちん」の生き残った父親に会いに行く。佐藤が父親を訪れるシーンは描写せずに佐藤を待つ森山の姿だけが映し出される。つまりそれが森山と佐藤の、震災との距離なのだ。

・・・・そしてその場面が来る。いままでリアル一辺倒だった映画が、リアリズムを突き崩してエモーションに振り切れる瞬間。そのあまりにも見事な、エモーショナルなシーン。

リアリズムリアリズムと来て、そのバランスが一瞬崩れたところに・・・エモーション炸裂!渡辺あやの悪魔的な技倆に脱帽するほかない。ラスト二人の別れも美しく切ない。

しかし渡辺あや上手い上手すぎる。そんなことばかり考えていたら監督の名前を完全に失念。なんか渡辺あやと離れた犬童監督を思い出すな。あやと離れた犬童は凡作駄作を連打して今に至る。「ジョゼと虎と魚たち」「メゾン・ド・ヒミコ」はホントは渡辺あや作品だってばれちゃいましたね。
posted by シンジ at 17:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月23日

敗北を抱えながら・ソーシャル・ネットワーク評

映画「ソーシャル・ネットワーク」を見る。

映画の中のマーク・ザッカーバーグがただの上昇志向が強い「向こう」側に行きたいだけの人間だったなら、私はこんなにもこの映画に夢中になることはなかっただろう。

ー「向こう」側とはなにか。

それは映画で象徴的に描かれるあの双子のウィンクルボス兄弟である。上流階級のスポーツであるボートをあやつり、彼らの父親もその祖父も、そのまた曾祖父も大富豪であり、そして彼らも彼らの息子もその孫もずーーーーーーっと富豪でありつづける。過去も未来も全世界の富を独占するためだけに存在する「システム」。

この映画はザッカーバーグの成功物語から取り残されていく平凡な人間の代表であるエドゥアルド視点と共に、「システム」側の代表である双子から妨害を受け続ける「システム」への挑戦者であるザッカーバーグの姿を描いている。

何一つ生み出していない、何一つ作り出していないにもかかわらず双子は「システム」側の人間の特権をいかし莫大な金をザッカーバーグからせしめる。そして親友であるエドゥアルドもまたザッカーバーグを訴え、莫大な金を奪い取っていく。

「向こう」側からも「こちら」側からも敵視され、こづきまわされるザッカーバーグは成功したにもかかわらず、まるで敗北を抱えているかのようだ。

ザッカ−バーグはどんなに成功しようと「システム」の一員になることはできないし、「システム」はザッカーバーグを利用するだけ利用した後ポイ捨てするだろう。そして「こちら」側である私たち大衆はいつだって成り上がり者を引きずり下ろそうと舌なめずりしている。

いわばザッカーバーグは「向こう」側から突き落とそうとする手と、「こちら」側から引きずりおろそうとする手にはさまれた断崖を生きている。

私はそこに世界でひとりぼっちのまま宙づりにされた、もろくはかない存在を見る。およそ愛すべき人間とは言いがたいザッカーバーグを愛おしいとさえ感じる。私がこの「ソーシャル・ネットワーク」を「キッズ・リターン」に例えるのもそこにある。

「ソーシャル・ネットワーク」を見てる間中、例の場面を思い起こさせる・・・「マー(ク)ちゃん俺たち終わっちゃったのかな?」「まだ始まってもいないよ」キッズリターンです。しかしこの映画には何かが足りない・・・この映画はザッカーバーグが没落してこそ真に完成する。そう・・「キッズ・リターン2」として!ーシンジのTwitterより

北野武「キッズ・リターン」で、もはや終わってしまった人生を生き続けるほかないシンジとマサル。

「システム」の一員にもなれず、大衆からも変人扱いされ、アイデアを盗み、友を裏切ったと、うしろ指さされる世界最年少の大富豪はシンジやマサルと同じように「敗北を抱えながら」生き続けるほかないのだ。

KidsReturn.jpg



今気づいたけど「敗北を抱えながら」というタイトルはジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」のパクリっぽい。
posted by シンジ at 14:01| Comment(0) | TrackBack(3) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月27日

エモーションとリアル金子修介論・映画「ばかもの」

金子修介監督作映画「ばかもの」これほど金子修介の資質があらわになった作品はないだろう。金子修介の資質とはなにか?

この作品で金子は橋口亮輔の「ぐるりのこと。」(2008)を意識しているのはあきらかだと思う。「ぐるりのこと。」は夫婦の崩壊と再生が描かれると共に90年代に起きた数々の歴史的大事件が裁判の形で並行して描かれる。夫婦間、家族間の断絶と、裁判での被告人と社会との断絶っぷりを橋口亮輔がひりひりするようなリアリズムで描いた傑作。

それに対し金子は「ばかもの」で1999年から2009年までの男女の関係を当時の世相を挟みながら描いている。世相はあくまで当時の風俗や事件などをさらりと描写するだけで背景程度の意味しかないのが「ぐるりのこと。」とは違う。そしてなによりも橋口亮輔が容赦なく人間をリアリズムで見つめているのに対し金子はどうしてもリアリズムに徹することが出来ない。

実は私が金子修介を意識したのは「毎日が夏休み」(1994)と遅く、ガメラシリーズは傑作だと思い、デスノート二作もそれなりに楽しんだが、あくまで職人監督としての認識で、その作品を熱心に追うような気持ちはなかった。

それがここにきて変わったのはあの「プライド」(2009)を目撃したからだ。欠点をあげようと思えばいくらでもあげられるほど欠点だらけでいびつな作品にもかかわらず・・・見てる途中からぐんぐんのめり込むように映画にはまってしまうあの感覚は目撃というにふさわしい。

映画「プライド」はおよそリアリティに欠ける二人の歌姫の熾烈なライバル物語。この嘘くさいお話をそのまま映像化すればアホらしいコメディにしかならないところを金子はリアリズムを無視してエモーションだけで描き切り、勢いだけで出来ているような異様な傑作に仕立て上げることに成功した。

「プライド」はまさに映画の題材と映画作家の資質がピッタリと合わさった幸福な作品だった。では「ばかもの」はどうか?

「ばかもの」の内田有紀と成宮寛貴の苦悩に満ちた10年間に及ぶラブストーリーは題材的には本来リアリズムで撮るべき作品だろう。しかし「ばかもの」にはまるで地上から5p浮いてるような人間たちがうつしだされている。この現実から遊離した感じ、浮遊感は「毎日が夏休み」や「プライド」でも観られた金子修介の資質といえるのではないか。

金子修介のこの独特の現実感からの遊離性、浮遊感こそ彼の資質であるとしたら、リアリズムで描くべき「ばかもの」はもっとも金子から遠い題材ではなかったか?リアリズムで人間を捉えようとしてもリアリズムから遊離していく自身の資質に金子は気づいているのだろうか。

映画の題材と映画作家の資質との乖離。だが、それでも私は映画「ばかもの」を傑作だと信じる。

確かに映画はリアリズムから離れて独特の浮遊感をただよわせている。まずリアリズムに徹するなら内田有紀や成宮寛貴というキャスティングはないだろう。なぜなら二人とも美しすぎるからだ。特に内田有紀は映画内でどん底の人生を経験して10年の歳月がたったとは思えないほどの輝くような美貌で映画からリアリズムを根こそぎ奪っている。

だが、それでも私は内田有紀を肯定する。彼女の演じる額子の乱暴な言葉遣いにしなやかな肢体、リアリティがあるとは言い難い内田の非現実的な美しさは物語上のリアルより映画のエモーションに奉仕している。

無理矢理、エモーション、あるいはドラマというようなものを盛り上げていかないと、お客さんは退屈してしまう。しかし、そうした瞬間、リアルからは遠ざかって行く。ー「黒沢清、21世紀の映画を語る」


金子修介は自身の資質をはっきりと見極めているのだ。お客を退屈させるぐらいならリアリズムを犠牲にしてもエモーションを選ぶ自身の資質を。

そう考えれば映画「ばかもの」が現実から遊離したような浮遊感を持つ理由がよくわかる。物語上の整合性や論理性、現実感を犠牲にしてでもエモーションを最優先する金子の資質こそが、この熱病のようないびつな映画の正体なのだ。

観客のエモーションをつき動かすための美男美女の恋人たち。絵に描いたような恋人たちの転落劇は物語を整合性から解き放ち、映画をエモーションだけによって支配させる。観客の内なるエモーションと物語上のエモーションの両輪がリアリズムを振り落として疾走する。

それが「ばかもの」それが金子修介。



------------------------------
ー補足

この映画、興行的に苦戦してるようなので見所を書きます。

まず成宮くんのファンは必見ですよ。可愛い成宮くんからエロ成宮さらに荒んでくる成宮くんまでありとあらゆる成宮くんが観られます。

内田有紀ファンにとっても最高です。昔好きだった内田有紀と何ら変わらぬ美貌を誇っており、かってのファンの愛が再燃するのは間違いなし。しかもエロいです!

それから男女の10年間におよぶ苦いラブストーリーと書きましたが、女と男というのはどん底を経験するほど愛が燃え上がるものなのです。しかも安心してください、ハッピーエンドです!

・・・・この映画で唯一残念だったこと。ヒデが額子のわきを剃るシーンはちゃんと見せて欲しかった。それがあれば2010年度ベスト1にしてもよかったのに!
posted by シンジ at 17:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月17日

最高の教育映画ジョン・ヒューストン「黄金」

なんで今頃ジョン・ヒューストンの「黄金」の話なんだ?というと20年ぶりくらいにBSでやっていたのをふと見てしまい、見るのを止められなくなってしまったからです。ま〜凄かったですね。昔見たときより、ある程度年を重ねて見た方が映画が面白くなることは誰もが経験してることでしょうが、「黄金」The Treasure of the Sierra Madre(1948)は発見することが多くてうれしい驚きでした。

何が凄かったのか。「黄金」は最高の「教育」映画だ、と思ったのです。この映画ではモラルを踏み外した人間がどうなっていくのか段階ごとに描くというこころみがなされている。

「黄金」のストーリーは誰もが知ってると思うので省略したいけど、一応書きます。

メキシコでくすぶっていた不良アメリカ人ハンフリー・ボガードは友人ティム・ホルトと共にベテランの金鉱掘りウォルター・ヒューストンの話に乗り金鉱探しに出かける。途中山賊の襲撃に遭いながらも金鉱を掘り当てることに成功。だがボギーは莫大な額の砂金を手に入れた途端、疑心暗鬼に陥り誰も信じられなくなっていく・・・・。

一線を越えた人間がどうなるかの見本市がこの映画。まずは・・・

第一段階ティム・ホルト

holt.jpg

ティム・ホルトは映画を見ている我々に一番近い存在として設定されている。つまり我々と同じ、弱くて若干のずるさもある普通の人間。でも最低限のモラルは持ち合わせているため一線を越える手前まではいくものの戻ってくる男だ。

一線を越えるという意味は、最低限のモラルを踏み越えてしまうこと。つまり仲間を裏切ることだったり、そのものズバリ人を殺してしまうことだったり。人間として守るべき最低のラインを破ること。この映画はモラルという一線を越えてしまった人間のたどる道を登場人物4人を4段階に分けて描写してくれる親切設計なのです。

第二段階ハンフリー・ボガード

bog.jpg

ここからがこの映画の本番。ボギーはたった今、一線を越えてしまったばかりの私たちだ。私がこの映画の舞台に実際身を置いてみたら・・・と想像したとき、自分に最も近い思考と行動をしているのがボギーだと知ったときの恐ろしさたるや。

欲の皮が突っ張っていることが似ているのではない。小心な人間特有の切羽詰まった思考が似すぎていて怖いのだ。


金脈を見つけた三人に一人の男(ブルース・ベネット)が近づいてきて「仲間に入れろ」といってくる。私はこいつが出てきた瞬間「うぜえな、殺してしまえ」と心の中で思ったんだけど、映画の中のボギーも私とほんのわずかのタイムラグもなく「殺そう」と決断してしまっている。映画の中の登場人物の思考と映画を見ている私の思考がシンクロする恐怖。

bennet02.jpg

ウォルター・ヒューストンはベネットを殺したときのリスク、死体を発見される可能性。そしてなによりも人を殺したことによる心のリスクもろもろを考えた上で殺さずに仲間にした方が得だと考える。

ところがボギーはそんな当たり前のことさえ考えられなくなっている。彼の思考はこうだ。

@大金が手に入った。
   ↓
Aよそものが近づいてきた。
   ↓
B殺してしまえ!!

AからBの間に思考というものが全く抜け落ちている。W・ヒューストンはAからBの間に何通りもの解決法を考えられるのに、ボギーにはそれが考えられなくなっているのだ。これを小心者の思考回路という。

ボギーは私たちと違って欲深いために一線を越えたわけではない。私たちとまったく同じ小心者だからこそ一線を踏み越えてしまったのだ。

一線を踏み越えたばかりにどんどんボロボロになっていくボギーの姿を見せられて怖いよ〜とおののいている私ですが、じゃあボギーの状態になった場合人間はもう元には戻らないのか?いや、そんなことはない。その答えが

第三段階ウォルター・ヒューストン

hyuston.jpg

なんで第三段階がウォルター・ヒューストンなんだよ、と思いになるでしょう。この映画で最も徳が高く、強固なモラルを持っているのがW・ヒューストンなのだから。

しかし映画をよく見ていればわかるように、W・ヒューストンはところどころ暗い影を見せます。ボギーがどんどんおかしくなっていくさまをW・ヒューストンは予見していたかのように。

W・ヒューストンは身に余る莫大な金を手にした人間がどうなるかをわかっていた。それは彼が狂っていくボギーと同じような人間を今までに散々見てきたからに他ならない。そしてなによりW・ヒューストン自身もボギーと同じように一線を踏み越えたことのある〜地獄に落ちたことのある人間だからなのです。

その証拠にW・ヒューストンはベテランの金鉱掘りでありながら、安い木賃宿に泊まっている。ボギーたちと出会う前W・ヒューストンは一線を越える修羅場を経験して一文無しになったに違いないのです。

だが、そんな地獄に落ちた人間でも、戻ってくることが出来る。戻ってこれたからこそ他人よりも自分を厳しく律することができる徳の高い人間になれたのがウォルター・ヒューストンなのです。一線を踏み越えながらも帰還できた者の人間的な深みと滋味、俳優ウォルター・ヒューストン自身の魅力ともあいまって、この映画での彼の演技と存在は絶品です。アメリカ映画史上最高の演技と断言してもいい。

しかしボギーの状態からヒューストンのところまで持ち直すのは容易なことではない。ほとんどの人が一線を越えた場合行き着く先がある。

第四段階山賊

sanzoku.jpg

メキシコ人山賊ゴールドハット役のアルフォンソ・ベドヤです。この映画での山賊は決して陰惨には描かれない。彼らは心から山賊を楽しんでいるかのようで、むしろコメディリリーフ的に描かれます。そうした描写はのちに観客にショックを与えるための監督ジョン・ヒューストンの狙いであることがわかります。

映画のクライマックス、山賊はある人をなんのためらいもなく殺します。それもマチェットのような刀でまるで牛や豚などの家畜を屠殺するかのように無造作に刀を振り下ろす。それなのに山賊はいつもと変わらず陽気で楽しそうなのです。彼らにとって人を殺すことになんの意味もない。良心の呵責もなければ、なにか重大なことをしたという感慨もない。

驚くべき描写はさらに続く。山賊たちは警察に捕まり即座に処刑されることになるが、処刑される前にベドヤは自分の落ちた帽子を拾ってかぶってもよいかと銃を構えた警官隊に聞く。それが許されるとコミカルな動作でベドヤは帽子を拾い、そして銃殺される。

山賊たちにとって命なんてなんの価値もないんだ。それが他人のであろうと、自分のであろうと。これが一線を越えた人間の最終段階というわけ。

人を殺すことにも自分が殺されることにもなんの意味もない空っぽな存在。人間をやめた人間は畜生になるのではなく、空っぽになるだけなんだと山賊を見て思い知らされる。

映画「黄金」はモラルを踏みはずした人間の姿を四段階にわたって丁寧に見せてくれるこれ以上ない教育映画です。全教育機関にDVDを配布すべき。そして小中学生はこの映画を見て震えるがいい。
posted by シンジ at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月03日

三池崇史は工藤栄一版をどう超えたか「十三人の刺客」

「十三人の刺客」オープニングの字幕からふるっている。「広島長崎に原爆が落とされた百年前のことである。」ドーン!字幕から本気で客を殴りにかかっている。

この映画は1963年工藤栄一監督「十三人の刺客」のリメイクで、ほぼオリジナルに忠実な作り。この三池版の面白さの大部分がオリジナルの面白さに依拠しているのは間違いない。それでもリメイクした意味があるのが確かに感じられる出来となっている。

まずなにより三池版がいいのはキャラクターの相貌をくっきりと描いているところ。オリジナルでは片岡千恵蔵(=役所広司)、嵐寛寿郎(=松方弘樹)、里見浩太朗(=山田孝之)、西村晃(=伊原剛志)以外の刺客メンバーは誰が誰やらはっきりと描かれなかったが、三池版では13人のキャラクターが一人一人粒だっている。

特に出色なのが伊原剛志で、剣道やった人ならわかると思うけど、強い人と対峙した時はすぐにわかる。「あ・・・この人強いわ・・・」って。それをスクリーン上で最も感じさせたのが伊原。真剣でもって相対した時、伊原の前には立ちたくないな〜と思った。(正直山田孝之には勝てそうと思ったw)

あと、映画を見て“萌え、萌え”いうのは気が引けるんだけど・・・伊原剛志と窪田正孝のカップリング・・・師弟萌え!!(これはオリジナルにはなかった感情!)

13人の中でも異色なのが松方で、この映画の殺陣は基本リアリズムで、戦いの後半になってくるとみんな疲れ果ててフラフラになりながら手だけで刀を振り回したりするんだけど、松方だけはフラフラになりながらもビシーッとした型を崩さない。松方以外の役者は疲れた表現として刀の切っ先がブレブレになるんだけど、松方だけは見事なまでに腰が定まり、切っ先が乱れないのだ。さすが東映育ち、近衛十四郎の息子。

そしてこの映画にはオリジナルを大きく超えて主張しだすキャラがいる。それが伊勢谷友介の小弥太と稲垣吾郎の松平斉韶(なりつぐ)である。

小弥太は山の民(サンカ?)で武家社会にも人間社会にも属さない存在。いわば人の世のらち外から来た異性物で、その自由さ、超人ぶり、この映画のギャグパートを一手に引き受けるおかしさで異彩を放っている。ガチガチに凝り固まった武家社会を描いた作品だけに小弥太の自由闊達さがそれらと比較され強調されている。

そしてなんといっても稲垣吾郎の斉韶である。おそらく事前にキャスティングを聞いた誰もが不安視したであろう暴君役。オリジナルはもはや伝説といってもいい菅貫太郎である。それがなんと、オリジナルを超えた超暴君として復活するとは!

稲垣暴君はとにかく狂気の見せ場満載で、名シーン名セリフの乱れ打ち。「まよわず愚かな方を選べ」「これがいくさというものか?」「面白い!」「風流よのう〜」冷静に狂ってるのが最高。はっきりいって稲垣は映画でこれ以上の役を得ることは今後二度とないんじゃないか。それくらいおいしい役。

オリジナルの菅貫太郎も素晴らしかったが、菅貫太郎の斉韶は映画の発端ではあっても中心ではなかった。工藤版はあくまで片岡千恵蔵(島田新左衛門)と内田良平(鬼頭半兵衛)の関係が中心だったが、三池版では稲垣斉韶がはっきりと映画の中心になっている。

三池崇史と脚本の天願大介がなによりもこの小弥太と斉韶を描きたかったということがわかる二人の突出した描写っぷり。小弥太と斉韶の二人は人の世の理の世界から外れた存在であるがゆえに三池にとって描きがいのある魅力的な存在ということでもあるが、三池の、というよりこの二人をより強調して描いたのは天願大介のメッセージだろう。この二人を中心にすえることはこの映画のテーマと密接な関係がある。

松平斉韶は武家社会の理不尽さを象徴する存在にもかかわらず、斉韶自身は武家社会どころか人間世界のらち外にいる存在。

小弥太は山の民という当時の日本のどの社会にも属さない流浪の民であり、さらに山の民からも追放された完全に人間社会のらち外にいる存在。

当時の身分階級の頂点と最底辺にいるものが同一の存在であるというところにこの映画の肝がある。

ひとりは人間社会のらち外の存在にもかかわらず、武家社会というがんじがらめの世界に生まれ育ったことにより暴虐の人生を歩む。

ひとりは人間社会のらち外の存在であるからこそ自由奔放に面白おかしく生きる。

この二人の対比は何を意味するか。

斉韶と小弥太は同じ人間社会のらち外にいる存在にもかかわらず、ひとりは武家に生まれたばかりに狂気と暴虐の人生を歩むことになる。この二人を対比させることは、すなわち斉韶の狂気を生み育てたものがほかでもない「武家社会」そのものであることを示している。

斉韶は生まれが違っていれば、小弥太だったかもしれない姿であり、小弥太は生まれが違っていれば斉韶だったかもしれない存在なのだ。

二人は一枚のコインの表と裏。そのことを確信させる場面がある。(ここからネタバレ入ります)




斉韶と小弥太が対峙する場面で、斉韶は小弥太の存在を面白がり、そして自分の手で殺す。斉韶のような身分の侍が侍でもない下賤のものに自ら手を下すということは本来ならありえないこと。斉韶が落合宿で自分の手を汚すのは二度。小弥太と島田新左衛門(役所広司)だけである。そのことには明白な意味がある。

そしてこの映画のラストで観客は愕然とする(か、笑う)。確かに斉韶に殺されたはずの小弥太が身に傷一つつけずピンピンして出てくるのだ。

斉韶と小弥太は一枚のコインの表裏であり同一の存在と考えれば、何もおかしい場面ではない。鏡の中の自分を殺すことはできないのだ。

三池版は99%工藤版の面白さによっているが、天願の脚本は斉韶と小弥太を映画の中心にすえることにより、テーマをより明確にした。武家社会へのほとんど憎悪に近い批判である。斉韶と小弥太は階級社会では天と地ほども違う身分だが、実際には同一の存在であり、一枚のコインの表と裏。それが片方は武家社会に生まれたばかりに暴虐と狂気の世界を生きることになる悲惨。斉韶の狂気は生来のものではなく武家社会に育ったからだと天願は言いたいのだ。

ラストシーンもまた象徴的だ。この映画で最後に生き残るのは社会のらち外にいる山の民小弥太と侍をやめたいと思っている島田新六郎(山田孝之)の二人だけで、武家の掟に縛られ、それを疑問に思わぬものはすべて死に絶える。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

と、ここで文章を終えてもよかったんだけど、まだまだ書きたいことがあるので続きますw

いいエンターテイメント映画にはかならず“あがる”瞬間がある。“あがる”というのはアクションシーンが派手だから"あがる"というのもあるけど、ここが映画の転換点であり、“キメ”のシーンだというところで一番"あがる"ものです。

この「十三人の刺客」はオリジナルの面白さに、ポイントポイントに「七人の侍」の面白さを加味している。なかでも作品中最高潮に達する場面に例の女性が「みなごろし」と書いた紙を役所がかかげるシーンがある。映画ファンならわかったでしょうが、このシーンが「七人の侍」で三船敏郎演じる菊千代が屋根に登って自分たちの旗を立てるシーンを意識しているのは明白です。旗を立てた瞬間に七人の侍のあのテーマ曲が流れて野武士たちが一斉に丘を馬で下ってくる戦闘開始の重要な場面。十三人でも紙をかかげた後戦いが始まります。

こういう“あがる”シーンこそエンタメ映画を見る楽しみではないでしょうか。正直いうと、隣の席に誰も座ってなかったので「よしっ!」とガッツポーズしました。

この映画で不満があるとすれば、落合宿での罠かな。あれだけ金をかけたんだからもっと巧妙な罠を作って(落とし穴とか、迷路とか)やっつけてほしかった。でも戦術的には間違えてないと思う。工藤栄一版では落合宿を入り組んだ狭い路地に作り替えて、そこに誘い込んで戦力を無力化するという戦術。三池版では敵が200と多いため(工藤版はせいぜい50人程度)柵を作って敵を分断する戦術。どちらも理にかなっていると思う。

ただ、罠を使って敵を殺すよりも、わりと早い段階で「小細工は終わりだ」と直接的な斬り合いになるのは仕方ない部分もある。なぜなら彼ら十三人は暗殺者といえど「武士」だからである。彼らは武家に育ち、厳しい武芸の修行を受けてきた、いわば正統的な侍である。その彼らが“罠”だけで相手を殺めるのに内心忸怩たる思いがあったことは理解しなくてはならない。
posted by シンジ at 16:43| Comment(3) | TrackBack(3) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月15日

私をどこかへ連れてって「悪人」

映画「悪人」の誰に感情移入しましたか?

「妻夫木聡に感情移入なんかできないよ。だってブッキーイケメンだし、とても社会の底辺にいるような負け犬には見えないし・・・」そう思う方もいるでしょう。

でも感情移入の対象は何も同性である必要はない。映画を見るうちに私は誰でもない深津絵里演じる光代に寄り添うようになっていた。

毎日変わらぬ日常、子供の頃からずーっと同じ土地に住み、そこから一歩も出ずに同じことを繰り返していくだけの人生。

そこへ私の体だけが目当ての男があらわれる。SEXだけが目的でも、私を求め欲してくれる男。私の渇ききった心の隙間に入りこんでくる男の存在。

ある日男が震えながら私を抱きしめて「もっと早く光代に出会っていればよかった」と言ってくれる。

体だけの触れあいではない、確かに私は彼の魂の一端に触れたのだ。こんなことは生まれて初めての経験だった。

男はワケも言わず私を連れ出す。とまどいもあったが、むしろ喜んでさえいる自分に驚く。男に「もっと早く出会っていればよかった」と言われたとき私は震えるほどの感動と共にこの運命をすでに受け入れていたのだ。

そして男は他に誰にも見せたことのないであろう顔で私に打ち明ける「人を殺した」・・・と。

男は自首をするため警察署の前に車を止め歩きだす。彼をこのまま行かせてもよいのか?

いや、絶対に彼を行かせてはならない!

この私を退屈な日常から救い出してくれた人、この世界でただ一人私を求め欲してくれた人を失うわけにはいかない。

ああ、そうだ光代、お前は正しい。相手がどんな男であろうと、人殺しだろうと関係ない。この世界でただ一人自分を必要としてくれる人をくだらない世界(私のかっていた世界)に奪われてなるものか。

自分を心底必要としてくれる人と、今いる世界を捨てられるチャンスがあるなら、そんなチャンスを逃してはならない。

光代は男を呼びとめ、二人して先の見えない暗闇へジャンプする・・・・・


フリッツ・ラングの「暗黒街の弾痕」(原題「You Only Live Once」1937)という映画がある。ストーリーはこうだ。

前科者が愛する女と所帯を持つが、かっての仲間の犯罪に関わったと疑われ刑務所に入れられる。男は無実の罪が晴れる直前に脱獄し、愛する妻と二人、逃避行を続けるというもの。フリッツ・ラングアメリカ時代の最高傑作であり、我が生涯ベスト1でもある。

その逃避行シーンの美しさは思い出しても胸が熱くなる。逃亡シーンの何が美しいというのか?世界のすべてが二人の敵であり、人目を避け、逃げ続ける二人が人々から弾圧され迫害されればされるほど、その愛はよりいっそう深まり純化されていくのだ。

まるで二人に触れようとする者あらば、その手をズタズタに切り裂かんばかりのとぎすまされた愛。なんぴとたりとも触れ得ぬ二人だけの世界。

「悪人」はとても「You Only Live Once」の域には達していないかも知れない。でも表現しようとしたことは同じだ。

ラストの解釈についてはいろいろあるだろう。だが光代=自分となってしまった私の心はこうささやく。

愛する人の手が首に巻きついてきて絞めるなら絞めるがいい。

そうして私はこの世界から永遠に逃れることができるのだから。
posted by シンジ at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月10日

彼岸へ・借りぐらしのアリエッティ評

冒頭、アリエッティとその父が人のモノを借りに行く探検シーンの素晴らしさに魅了される。見慣れたはずの台所の光景が、小人から見るとまったく別の世界に見える演出の素晴らしさ。

音響効果によって日常の音がゆがめられ、広大な空間に響きわたると、そこはまるで異世界のように感じられる。その見事な音の演出による日常空間の異世界化。

この繊細な演出、この世界観ならいつまででも見ていられる。それほどこの世界を愛おしく感じる。

あえて欲張りをいうならば、この少年が亡くなっていれば、この作品の感銘は永遠のものになった気がする。(男の子の葬式をアリエッティが見つめる後ろ姿のラストシーンを想像してしまった・・・・)

この私の妄想はあながち間違いではないはず。

というのも、この作品の根底には“死”が常に横たわっているから。

いずれ滅びゆく種族である小人と、先の短い病身の少年。両者は滅び=死の予兆によって分かちがたく結びついている。

死期が近いからこそ、少年は普段なら決して見えないはずのものを見、なんの恐れも偏見もなく小人に接する。もうすでに少年の半身は彼岸にあるから。

アリエッティは少年を見て顔を赤らめ、まるで一目惚れしたかのように描かれるが、アリエッティもまた滅びゆく種族。少年がもはや此岸にはいないことを敏感に感ずるのだ。

だからあれほど禁じられていたのにもかかわらず、少年に接触するのだ。同じ彼岸にいるものを恐れる必要があろうか。

滅びゆく種族と死にゆく少年のつかの間の出会い。二人の間に淡く浮かび上がるのは、愛や恋にも似ているが、それとは別の感情。

違う種族ながら彼岸にいる者同士の魂のふれあい。
posted by シンジ at 17:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする