2011年09月22日

死ぬ間際に見る映画は「探偵はBARにいる」

映画「探偵はBARにいる」を見た。この映画を批判するのに、電話をかけてくる女が最初から(あるいは途中で)誰かわかってしまいミステリ的な興趣を削ぐという意見があり驚いている。例えばキネマ旬報2011年10月上旬号星取り評の野村正昭氏はこんなことを書いている。

冒頭の電話の依頼主は消去法を持ち出さずとも“彼女”しか考えられず、ここが小説と映画との決定的な違いであり、それを埋める配慮がもう少しあれば、ラストも鮮やかに決まっただろうと惜しまれる。ー野村正昭


原作は確かにミステリ的な側面が強いかもしれない。だがこの映画の狙いは最初から犯人当てゲームにないのは、火を見るよりも明らかだ。犯人当てゲームなら何人かあやしい女性の登場人物を増やしてミスリードを誘うようにするだろう。それをしていないということは、この作品の眼目はそこにはないということだ。

ではこの作品の眼目はどこにあるのか。この映画での悪役カトー(高嶋政伸の代表作になるんじゃないか)の印象的なセリフがある。カトーは人を殺す前に相手に言う「人は死ぬ前に映画を見る」。人は死ぬ瞬間に走馬燈のように自分の人生の映画を見るというのだ。

「コンドウ・キョウコ」と電話で名乗る女は自分が死ぬ瞬間に見る映画を完成させるために、映画を見守る観客が必要と考えた。その観客として選ばれたのが「探偵」(大泉洋)なのだ。

この探偵は終始、自分が何をしているのかわからずに行動させられている。ある意味探偵にあるまじき探偵である。自分の意志もなく、推理もできず、ただ電話の指示に振り回されているだけ。そしてただなにかを目撃させられているだけ。

探偵は今自分の目前で起こっていることに対して無力なままである。なぜなら探偵は電話の女の人生という映画を観客として見せられているにすぎないから。

しかし、映画の観客にすぎなかった探偵はいつしか女の映画の登場人物となってしまう。ただ金を貰ってすることだけをする職業探偵ではなかったから。女の物語に深く関わろうとしてしまうような男だったから。

いち観客であるべき探偵がいち登場人物となってしまったことは、電話の女の予期せぬことだった。それに対し女はある演出をほどこす。ーそれは映画から探偵を排除すること。

いち観客から、はからずも映画の登場人物となってしまった男への罰。それは映画のクライマックスを見ることを禁じられることだった。

かくして映画のもっとも重要なクライマックスを見ることができなかった探偵の脳裏には、映画のクライマックスだけ抜け落ちた、永遠に終わることのない映画が上映され続ける。こうして女は自分の映画に永遠に囚われ続ける観客を手にしたのだ。

この映画は原作の「バーにかかってきた電話」とは違い謎解きでも、犯人当てゲームでもない。この映画の主役は素晴らしい軽妙さの大泉洋でもなく、動きが親父に似てきた松田龍平でもない。この電話の女、一人の悲劇的な女が死ぬ間際に見る人生の映画そのものなのだ。
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2011年08月03日

心は隠されていない・マッケンドリックが教える映画「コクリコ坂から」

映画監督アレクサンダー・マッケンドリック(代表作「マダムと泥棒」「成功の甘き香り」etc)の言葉に

映画というものは、見せられている映像とセリフの言葉の意味が相反していると、より面白く説得力のあるものになる。ー「マッケンドリックが教える映画の本当の作り方」

というのがある。
なぜセリフの意味と、場面の意味が相反していると、面白く説得力のあるものになるのか。それはセリフと場面の意味が相反していると、そこに登場人物の心が浮き上がってくるかのように見えるからだ。

誰もが自分の心の声というのは自分だけにしか聞こえないものだと思っている。自分が何を思っているのか、何を考えているのかは、他人にはわからないはずだと。自分が何を思っているのかを他人に理解させるには当然、声に出して喋らなければならない。だが、映画では心のありかを声に出さずとも表現することが可能なのだ。

映画「コクリコ坂から」の一場面。カルチェ・ラタンを守るために東京へ学校の理事長を訪ね直談判した帰り道、海(長澤まさみ)と俊(岡田准一)はお互いの思いを告白する。海に「好きだよ」と言う俊。

だが、それは見た目通りのハッピーな場面ではない。実際には、断絶の、二人の別れのシーンでもあるのだ。愛の告白シーンがなぜ、映画中最も悲しく、胸締め付けられるシーンになるのか。ーそれは彼らが兄妹だからである。(このめまいのするようなアナクロニズム・・・という批判はとりあえず脇に置いておこう)

愛の告白は額面通りの意味ではない。では嘘なのだろうかー嘘ではない。好きであることには違いない。だがこの愛の告白は二人の別れを意味するのである。(あるいはこの「好きだよ」のニュアンスの中に「兄として愛する」というニュアンスも含まれていたかもしれない)。セリフの意味と場面の意味が相反しているためにおこる感銘。マッケンドリックの言葉通りの名シーンといえるだろう。

ではなぜ、セリフの意味と場面の意味が相反していると感動的なシーンになるのか。・・人の心というものは自分以外には隠されている、他人から隔絶された、個人的なもの、私的なものであると考えられている。

だが、その心の声をモノローグという形や、実際にセリフとして喋らせると、これほど陳腐に聞こえるものはない。それは映画の演出としては一番嫌われる「説明」というものになってしまうからだ。では「説明」を避け、人の心を浮きぼりにするにはどうすればいいのか。

今ある状況とは真逆のセリフを人物に喋らせるか、喋っているセリフとは真逆の状況に人物を置けばいいのだ。ーそうすれば言外の意味ともいうべき内心の隠された言葉が浮きあがってくる。

ウィトゲンシュタインはこう言っている。

意図は心にではなく、状況に埋め込まれている。ー「哲学探究第337節」

(ちなみに本来この言葉は、意図や心というもの、すなわち主体や自我という概念に否定的なウィトゲンシュタインの考え方を意味している)

海と俊、二人の愛の告白場面の「意図」とはこうであろうー「二人は兄妹であるため愛し合うことは許されない」ーこれは心の声であると同時に実は二人の状況に埋め込まれているものでもあるのだ。しかしセリフはそんな二人の状況とは相反する「好きだよ」というストレートな愛の告白である。ーこのギャップにこそ、隠されていた人の心が浮きぼりになるのだ。ーいや、正確にはまるでそこに隠されていた心が出現したような錯覚をおぼえるのだ。

心の意図(隠された内心の声)は実はすでに状況(二人の身の回りの環境)に埋め込まれている。そして、その状況とは相反するセリフを言うことによって、まるで隠されていた心があらわになるような鮮烈な描写になるのだ。・・・映画演出のマジックというほかない。

こういう演出は決して珍しいものではない。たとえば、成瀬巳喜男の「あにいもうと」。この映画で最も心揺さぶられる場面は、兄(森雅之)と妹(京マチ子)が激しくののしり合い殴り合う喧嘩の場面だが、このシーンもまた、見た目通りのシーンではないからこそ深く感動するのだ。兄はなぜ妹を邪険に扱うのか。それはふしだらな女と噂される妹を守るためにわざと憎まれ役を演じているのだ。自分が乱暴に振る舞えば振る舞うほど妹に同情が集まる・・・それが兄の愛なのだ。“あにいもうと”がののしりあえばあうほど、そんな場面とは相反する「隠された」兄の愛が浮かび上がってくるのだ。
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2011年06月24日

名づけられたその後に「東京公園」

もし人が愛についてその様式と方法とを教え込まれなければ愛を感じる人などいるのだろうか。ーラ・ロシュフコー

映画「東京公園」を見た。

光司(三浦春馬)と富永(榮倉奈々)は幼なじみで親しい間柄だが、二人の間にはお互いのまなざしを通過させないものがある。富永の元彼で今は幽霊のヒロという第三者がいるからだ。とはいってもヒロの姿は光司には見えても富永には見えないのだが。妙齢の男女が部屋で二人きりでも、そこには常にヒロのまなざしがあり、光司と富永が向き合うことはない。なにか名状しがたい感情が心に浮かんだとしても、その感情は虚空に消えるだけだ。

光司と姉の美咲(小西真奈美)の間にもお互いのまなざしが通過せぬようシャッターが降りている。血のつながらない二人といえども、姉弟。お互いの感情に気づかぬふりをすること。その感情は名づけられることを恐れるかのように、虚空にぶら下げられ、決して見られず、触れられないものとして封印される。

光司に公園で妙な依頼をしてくる初島という男もそうだ。妻のまなざしを避け、パソコンのモニターにうつる妻しか見つめることができない。彼らは皆自分の心の奥底にある名づけられることのない感情を封印している。

しかし、そんな心の奥底でよどむモヤモヤした感情らしきものに名前をつけるものがいる。富永である。光司が尾行している人妻は光司の母親にうり二つだと喝破。光司が子供の頃亡くなったカメラマンの母が使っていたカメラで母親似の女性を追いかける光司をマザコンであると「名づける」のだ。

そしてさらに富永は決定的なことを言う。お姉さんは光司のことを愛してると言うのだ。美咲と光司がずっと気づかぬふりをしてきた、決して見られず、触れえないものとして虚空に宙づりにされた感情の扉を「名づける」ことにより開いてしまうのだ。

・・・さっきから名づける、名づけると連呼してますが「名づける」ことの意味をわかりやすく映画を例に出すと、最近見て感銘を受けた映画にジャン=ピエール・メルヴィルの「モラン神父」があります。

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ストーリーを簡潔に書くと、無神論者のバルニー(エマニュエル・リヴァ)が興味本位で入った教会の神父モラン(ジャン=ポール・ベルモンド)にからかい半分で論争を仕掛ける。モラン神父のユーモアと論理性に興味を持つバルニー。ある日友人と連れだってモラン神父を訪ねたバルニーは友人がモラン神父のことを「とってもハンサムな人ね」というのを聞いてハッとするのだ。いままでそんな風に神父を見たことはなかったのに、友人がモランを「ハンサム」すなわち異性として魅力があると「名づける」ことによって、モラン神父が一気に「性愛」の対象として発見されるのだ。

無論バルニーは神父に何らかの興味は抱いていたし、魅力も感じていただろう。しかし相手は神父である。バルニーのまなざしにはあらかじめシャッターが降りていた。神父はハンサムで魅力的な男性と「名づけられる」前までは霧のかかった心の奥底にあるモヤモヤとした感情の揺らぎにすぎなかった。バルニーにとってその心の揺らぎは自分の意識にものぼっていなかったはずのもの。だが「名づけられる」ことによってはじめてモラン神父はバルニーの性愛の対象として浮かび上がってくるのだ。

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もっとはっきりいうなら、名づけられる前の、モヤモヤとした霧のかかった心の揺らぎのことを「欲望」と定義してもいい。「欲望」は名づけられるまで「対象」を持たないものなのだ。言葉による「名づけ」こそが欲望に対象を、形を与えるのだということを映画「モラン神父」ははっきりと描いている。

「東京公園」に話を戻そう。

「名づける」ものとしての富永(榮倉奈々)は光司(三浦春馬)の中の霧がかかっていて見えなかった「なにか」を「名づける」ことによって引き出す。尾行していた人妻は光司の追い求めていた母親(像)であること。そして姉の美咲は光司を愛していること。「名づけられた」ことにより光司は自分の欲望、そして姉の欲望と向き合うことを迫られる。名づけられる前の曖昧な関係にはもう戻れない。名づけられたことにより欲望が形となってあらわれてしまった以上・・・

そして光司と美咲がはじめてそのまなざしを向けあう時がやってくる。そのシーンの小西真奈美の演技の素晴らしさたるや・・・。美咲がいままで気づかぬふりをしてきた自分の欲望に直面し恐れおののく姿。そしてその欲望と向き合うことを決意した後のキスシーンの崇高さ。人間の感情なんて映像に映るはずがないとわかっていても、光司と美咲の唇と唇の間には心の奥底から湧き上がってきた「なにか」が映っているとしか思えなかった。

そしていままで、ただ「名づける」ものとして他人の物語を動かしてきた富永もまた自分の欲望と向き合うことになる。亡くなったヒロを介してでしか光司と向き合ってこなかった富永は光司の家に押しかけ光司との同居を決意するのだ。自ら自分の欲望を名づけ光司と向き合うことにした富永。そしてその時、ヒロは光司の家から姿を消す。光司と富永、二人の間の感情が名づけられ、はっきり浮かび上がった瞬間、幽霊はモヤモヤとした霧の彼方へ、言葉以前の世界へ消え去るのだ。

もし人が愛についてその様式と方法とを教え込まれなければ愛を感じる人などいるのだろうか。ーラ・ロシュフコー

冒頭にかかげたラ・ロシュフコーの箴言を私なりの言葉で言い換えてみよう。

「言葉にされないものは、決して人の視野には入ってこないだろう」ーシンジ・ホニャラーラ

しかし問題は、なぜ「名づけられ」、「発見」されなければならなかったのかということだ。映画の光司はあきらかにおかしくなかったか。まず母親とうり二つの女性になぜ気づかないのか!?そしていままで姉の愛に気づいてなかったのか?ー光司のおかしな言動に防衛が働いているのは明らかだ。

何に対する防衛か。「母親」に対する防衛である。

ここからは単なる想像でしかないが、光司の母親は売れっ子カメラマンだった。当然光司は忙しい母から十分な愛を受け取ることができなかったはず。そしておそらく母親の悲惨な死の記憶。これらのことから光司は防衛し、母の記憶を抑圧し消し去ったといえるのではないだろうか。人間の自我とはフロイト-ラカンの言うとおり、抑圧や否認を通じて自己を葛藤や苦しみから守ろうとするために自己を欺くという仕組みである。

光司の自我は母から愛されなかったということと、母の死から目をそらすために、現実を「言葉にしない」という選択をするようになった。言葉にしなければ、その感情は曖昧模糊とした言葉以前の世界に沈殿してゆくだけだからだ。

「名づけること」とは欲望の発見であり、抑圧の解放でもある。

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2回観たけど、2回目も1回目と変わらず楽しめた。いい映画は見るたびに発見がある。2回目見て発見したことは、ヒロの部屋にはなぜか水面の光がゆらゆらとただよっていること。そして成仏した後ヒロの部屋には波の打ち寄せる音が聞こえること。

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あと榮倉奈々がでているシーンはどれも面白い工夫がされていて見ているだけで楽しい。こたつをはさんだ小津っぽい切り返し。光司と姉との重大なことを話すシーンではなぜか光司の後頭部ばかりを注視してるのがおかしくて。口の周りに粉をつけながらまんじゅうをぱくついている姿も愛おしい。とにかく榮倉奈々のでているシーンはすべて名場面で必見。
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2011年05月17日

本当の私という幻想「ブラック・スワン」

映画「ブラック・スワン」を見た。

ニナ(ナタリー・ポートマン)は母親の代理であり、分身である。母はニナを生んだことによりバレエダンサーのキャリアをあきらめた。それゆえにニナは母のためにもバレエダンサーとして成功しなければならないという焦りにも似た感じと追い立てられるような圧力を感じている。

こういう母子関係はさほどめずらしくない。思い出すのは去年亡くなった高峰秀子と養母の関係がそうだ。高峰秀子の養母「志げ」は兄の子供である女の子をひったくるように奪い取り、自分が女弁士だった頃の芸名「高峰秀子」から秀子と名付けた。高峰はこう言う。

「デブ(志げのこと)は、自分が“高峰秀子”のつもりだったのよ」ー高峰秀子の捨てられない荷物より

母と娘の同一化。捨てられない荷物・・・

登場人物の配置もエディプス葛藤として見ればわかりやすい。バレエ団の演出家トマ(ヴァンサン・カッセル)はニナの「父親」。ライバル、リリー(ミラ・キュニス)は「妹」。トマに魅了されることは、母親に取って代わって父親と愛し合うということであり、ニナにとって母殺しを意味する。母との同一化を解消し、父と一緒になりたいという願望。リリーは自分と同等の存在であり、嫉妬の対象、父親からの愛を競い合う「妹」。妹さえいなくなれば「父」を独占できるのだ。

そしてこの映画を支配する最も重要なイメージは「鏡」。この映画における「鏡」の意味はラカンの「鏡像段階」で説明がつくと思う。

鏡像段階論とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長して鏡を見ることによって(もしくは自分の姿を他者の鏡像として見ることによって)、鏡にうつった像が自分であり、統一体であることに気づくという理論。ーwikiより


鏡にうつった自分とは、また他者から見られた自分でもある。他者から見られた自分とは、母の分身としての自分、母に欲望される自分であり、トマからの承認を得ようと必死になるが実力が足らない自分であり、トマの承認をかけて争うリリーに脅威を感じる自分である。

ニナは悲鳴を上げる。鏡にうつる私(鏡像自己)は私じゃない!鏡にうつる私は、母や、トマや、リリーから見た私であり、本当の私じゃない。「本当の私」は母を上回るバレエダンサーである私であり、トマの要求に完璧に応えることのできる私であり、リリーを凌駕する力量を持ち、トマの愛を独占することのできる私だ。

・・・・だが、もちろん「本当の私」など幻想である。「私」はあくまで「他者」から見られた存在としての「私」なのだ。「本当の私」は虚構でしかない。

ーラカンは、このような鏡像段階があるということは、結局のところ、自己(自我)というものは最初から社会関係の中にくみこまれているものだとみなした。つまり、無垢の自己なんてものは最初からありはしないとみなしたのだ。もっとはっきりいえば、そのような社会的関係によって疎外されるということが自我をつくるのだと考えた。ー松岡正剛の千夜千冊・ジャック・ラカン「テレヴィジオン」より

つまり他者から見られた鏡像を自分だと認めたくないー他者から疎外された自分こそ「本当の私」だと思い込む。虚構としての「本当の私」

ニナは鏡の中の自分=他者から見られた自分を殺害し、「本当の私」を取り戻す。「完璧な」自分を。だが、もちろん「本当の私」という自己統一像は幻想でしかない。その幻想のなかで生き続けることは狂気か死を意味する。

「私、感じてたわ。完璧よ。私、完璧だったわ」
ニナは観客の喝采を浴びながら、完璧な自分として死ぬ。舞台という虚構の中で「本当の私」として歓喜のなかで死ぬのだ。

これを熱狂の中で、歓喜の絶頂の中で死ぬのだから本望ではないかという考えもあるだろう。だが、鏡像の中の私を殺した「本当の私」は偽りのイメージとしての私でしかない。偽りの自分をリアルな自分と錯覚することでしか歓喜を得られなかったというのは、やはり皮肉で残酷なことではないだろうか。

つまりあのラストシーンはすべて幻想だと考えられるのだ。鏡像自己を殺害し、本当の自分=完璧な自分となって、圧倒的なダンスを披露し、観衆の喝采を浴びるというのはニナの都合のいい幻想でしかない。つまりあの喝采もニナの幻想であり、客席に座る母親も幻想なのだ。偽りの自己イメージが見せたほんのつかの間の夢。狂気の幻。それが映画「ブラック・スワン」のすべてである。
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2011年05月11日

東京物語とコジェーヴで読み解く「八日目の蝉」

映画「八日目の蝉」この作品は過去と現在、二つが交差して描かれるが、同じようにこの映画のメッセージも二つに交差して表出する。交差する二つのメッセージを東京物語とコジェーヴによって読み解きたい。

井上真央演じる恵理菜の起点となるシーンは妻子ある恋人岸田との別れにある。恵理菜は別れを切り出しながら岸田に感謝する。人としての喜び、誕生日を祝ってくれたり、一緒に遊んだり、そしてなによりも人を好きになるという感情を教えてくれた最初の人だと感謝するのだ。つまり恵理菜はこう言っている。岸田に出会うまでは人並みの喜びをまるで知らないで育ったと。

それまでの恵理菜はあの誘拐事件のせいで暗いトンネルのなかを生きてきた。実母(森口瑤子)は恵理菜にあの「世界一悪い女」の影を見、絶望し、恵理菜を徹底的に抑圧してきた。そのために恵理菜は幼いときの記憶を失い、また誰からも愛されずに生きてきたと思いこんでいた。

その恵理菜の元にフリーライターと称する千草(小池栄子)が誘拐事件のことを取材させて欲しいと近づいてくる。だが恵理菜に喋ることはない、喋りたくないのではなく、誘拐されたときのことをまるでおぼえていないのだ。

恵理菜は千草が自分がかっていたエンジェルホームの住人だったことを知る。千草のなかに自分と同じものを見た恵理菜は千草と二人で過去を探す旅へと出る。消し去った記憶を求める旅へと。恵理菜のお腹の中には別れた岸田の子供がいる。10数年前、「世界一悪い女」である希和子(永作博美)が赤子の恵理菜をさらって逃げた時と同じ道筋をたどって、しかも同じように子供を抱えながらの「同行二人旅」。

旅の途中、ホテルの一室で恵理菜は千草に不安を吐露する。子供を産み育てていく自信がないと。なぜなら私は誰からも愛されたことがないから、どうやって子供を愛せばいいのかわからないのだと。だが、旅するうちに恵理菜は抑圧され消し去っていた記憶を取り戻し始める。それは心の底から求めていながら、どうしても認めたくなかったこと。

恵理菜は実母の苦悩と絶望ゆえに過去をないものとして生きてきた。それゆえに自分は愛を知らない人生を送ってきたと思っていた。すべては自分と自分の家族をめちゃくちゃにしたあの女のせいだと。だが、旅の過程で過去の扉が開いたとき、そこにあったのは紛れもない真実の愛だったのだ。実母との間には決して得られなかった愛が、私の人生をめちゃくちゃにしたはずの希和子との間には確かに存在した。この残酷なまでの愛の転倒。

恵理菜が愛を知らないと思ってきたのは、偽りの記憶だった。あの「世界一悪い女」が私にあふれんばかりの無償の愛をそそいでくれた。憎しみが反転し、すべてが愛に変わる。希和子から私はすべてのものを受け取った。だから私はもう恐れない。あの人が私にそそいだのと同じ愛をこのお腹の子にそそげばいいのだから。

すべての記憶を取り戻した恵理菜は「薫」となり、真の愛を取り戻す。感動的ではあるが、血のつながりよりも、そのつながりを故意に切断し、奪い去った他者との間に真実の愛があったというのはやはり残酷なラストだといえよう。

「八日目の蝉」というタイトルの意味も浮かび上がってくる。

「蝉は何年か地中で育った後、地上に出てからは七日しか生きられない。だが、まれに八日後も生き続ける蝉がいる。仲間が死んだ後、その蝉はいったいどんな世界を見るのだろう」劇中での千草のセリフ。

人は心の中の何かを殺して生きている。恵理菜は「薫」を「希和子」を殺して生きてきた。希和子は最愛の薫から引き離され、心の一部が死んだままこの先を生き続けなければならない。この二人だけではない、千草もそうだ。恵理菜の母も父も恵理菜が奪われてからは心の一部が死んだまま生き続けるしかなかったのだ。

人はそれぞれ心の中に死んだものを抱えながら、生き続けるほかない。人はみな八日目の世界を生きる蝉なのだから。

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上記の物語は、恵理菜の同一性を取り戻す旅を描いている。A・コジェーヴの言葉に

「人間は他者の欲望に向かう欲望、承認を求める欲望である。」ー「ヘーゲル読解入門」

というのがあるが、これは、人は他者という対象がなければ人として存在できないということをいっている。人は自分一人では存在できず、他者の欲望を欲望すること、つまり他者との同一化にしか自己を見いだすことはできない。

恵理菜にとってこの他者とは希和子のことだ。他者の欲望は、母の愛であり、恵理菜は母の愛を欲望する。母からの承認こそ恵理菜の望んでやまない自分と母との同一化なのだ。

恵理菜は希和子との同一化を願っているものの、それを実母が邪魔をする。当たり前だ。誰が誘拐犯の女と自分の娘とを同一化させたいものか。それゆえの母の抑圧。恵理菜の記憶、希和子と完全に一体化した濃密な記憶は失われる。

だが、それでも恵理菜は無意識のうちに希和子の記憶をなぞっていく。希和子と同じように妻子ある男性を好きになり、希和子と同じ行動をとるートイレで髪を切る希和子は星空を眺め、トイレで妊娠検査薬を使う恵理菜も星空を眺める。自転車に乗る恵理菜は坂道を走るときに脚をひろげ、希和子は小豆島で自転車に乗るとき脚をひろげる。演出家も脚本家もこの恵理菜の旅が、母と子の同一化の旅であることをはっきりと描いている。

そして旅が抑圧を解き、記憶がよみがえると、恵理菜と希和子の同一化が再び取り戻される。希和子が私を愛したように、私はこのお腹の子を愛せばよい。かくして恵理菜は希和子となり、お腹の子は薫となる。希和子と薫は再び人生を生き直すのだ。

この物語は愛の承認(他者との同一化)を得ようとする蝉たちの物語であり、八日目の蝉とは、承認を断念した蝉たちが苦しみのなか、それでも生き続けなければならないことを意味している。

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では「八日目の蝉」交差する二つ目のメッセージとは何か。それは小津安二郎「東京物語」と共通するテーマ、それこそが「八日目の蝉」のもう一つのメッセージだ。

小津安二郎「東京物語」とは・・・尾道から上京してきた老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が息子や娘の元を訪ねるが、邪険に扱われる。だが、8年前に戦死した息子の嫁、血のつながらない他人である紀子(原節子)からは心のこもったもてなしを受ける。失意の老夫婦は尾道に帰るが、突然妻が亡くなってしまう。葬式が終わるとさっさと東京に帰る実の息子や娘たち(杉村春子をグーで殴りたいっ)。そんななか一人残って笠智衆の世話をする原節子に笠智衆が語りかける・・・

「妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、いわば他人のあんたの方がよっぽどわしらにようしてくれた・・・」

「東京物語」ははっきりと、血のつながりがあっても形骸化した家族より、血がつながらなくとも「意志」によるつながりのある連帯こそが真の家族となれるといっているのだ。

そしてこの「東京物語」のメッセージこそ「八日目の蝉」と呼応するのものだ。

恵理菜の実母はいっこうに自分を愛そうとしない娘に異物感を感じ始める。そして自分のお腹を痛めた実の娘にもかかわらず、その娘を愛せない自分自身に絶望する。親子と言うだけで、家族というだけで、血のつながりがあるというだけで無条件に愛し愛される関係でいられるという幻想が、母を、娘を苦しめるのだ。

血のつながった家族から逃れ出た恵理菜=薫の人生は血のつながらない他者との間で構築されていく。その象徴がエンジェルホームである。一種カルト的な閉じた共同体であるものの、縁もゆかりもない他人同士の共同生活は希和子と薫に静かで落ち着いた生活を与えてくれた。本来エンジェルホームのようなカルトを描く場合は否定的に描くものだが、この作品では人生に傷つき、疲れ果てた女性たちの駆け込み寺として機能しているように描かれる。

そして過去への旅を続ける現在の薫=恵理菜はまったくの赤の他人である千草と不思議な共闘関係にある。恵理菜が子供を産み育てる自信がないと不安を打ち明けると、千草は二人で一緒に育てようとまでいうのである。赤の他人からのこの無償の愛。(百合成分たっぷりですがw)

希和子と薫最後の逃亡先である小豆島でも二人を温かく迎えてくれるのは、エンジェルホームの同僚だった久美(市川実和子)の両親である。希和子と薫二人には縁もゆかりもない他人同士の連帯の中にしか安らぎの場所はなかったのだ。

そしてなによりもこの物語の発端、縁もゆかりもない赤の他人同士の二人、希和子と薫の真の愛情で結ばれたにせの親子の姿がそこにある。

希和子は逃亡先の小豆島の寺院でずっと薫と一緒にいられますようにと祈る。原作での祈りはさらに強烈である。

「明日も薫といっしょにいることができますように。この2年と半年近く、一日も欠かさず私は同じことを願っている。私は今日も祈る。一年後、五年後などと大きなことは願わない。今日一日、それから明日一日、それだけでいい。だからどうか私の祈りを聞いてください」ー角田光代「八日目の蝉」

この強烈なまでの願い!この意志!このような「願い」、このような「意志」のあるところにしか「愛」は生まれない。ただ血のつながりがあるというだけで自動的に家族として父や母、娘や息子という役割を振り分けられるだけの関係では「愛」は決して生まれない。

私自身の意志によって家族をつかみとるという強烈なまでに能動的な意志。もはやそこにしか新しい家族の可能性はない。それこそが「東京物語」と「八日目の蝉」の共通したメッセージだ。


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・・・だが、しかしそれは本当の愛だったか。私がある人に「八日目の蝉」のストーリーを説明していると、その人は「大岡裁きに似てる」という。どっちが子供の本当の母親か調べるために、二人の女に子供の両腕をもたせて引っ張らせて、子供を奪ったほうを本当の母親として認めるという大岡越前。子供を引っ張り合う女たちだったが、一人は痛がる子供の悲鳴を聞いて手を離してしまう。大岡越前は手を離した方の女を本当の母親と認める、というお話。私はさきほど強い「意志」、強い「願い」が家族を作ると書いたが、そこには他者性がなかった。他者の痛みを我がことのように感じられることが真の愛なら、やはり希和子の愛は単なるエゴではなかったか。その一点においてやはり希和子は「赦されていない」。赦されていない以上、映画のラストで希和子と薫が会わないのは必然なのである。(原作ではお互いそれと知らずにすれ違っている。)
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2011年04月29日

円環の外へ・まほろ駅前発、アウトレイジ、紀子の食卓行き

映画「まほろ駅前多田便利軒」を見て、円環世界を描いた映画の傾向と対策を考える。

「まほろ駅前〜」のオープニングでは、この映画は閉じた町でのお話だとあらかじめ示される。この町に生まれた人間は、この町で育ち、この町で死ぬ。誰も出ていこうとしない町であると。

映画の構造もそうなっており、すべて町の中と町の住民だけのお話であり、多田(瑛太)と行天(松田龍平)の出会いで始まり、再会で終わる。この作品はまほろ市という円環世界を描いた映画であると。円環世界というのは出発点が終着点であるような世界のこと。その中だけで充足しているような、閉じた世界のことである。

こうした円環世界を描いた映画をいくつかあげて、映画における円環世界とは何かを批判的に探っていきたい。

円環世界とは何か。円環世界とは出発点が終着点であるような世界。つまり、時空間が円環し続けること。ただ繰り返すだけの時間があり、その場だけで充足している生成のない空間がある。端的に言えば停滞した世界のことである。

そこにあるのは同質性であり、同質的な共同体であり、同質的な価値観を持つことでしか承認されない世界である。そこでは何も生まれず、何も動かず、ただ繰り返すだけだ。

そうした円環世界をファンタジーとして描いたのが「まほろ駅前〜」や「三丁目の夕日」のような映画だ。「まほろ駅前〜」は見かけはそうは見えないかもしれないが、甘い甘いファンタジーである。

もちろんまほろの住人たちはみな苦い過去と現在を生きる普通の人々として描かれ、ファンタジーというよりリアリズムのように描かれる。だが、彼らが円環世界にとどまる限りにおいてファンタジーなのである。

その円環世界を唯一破れそうなのが行天であるが、結局行天は親も殺せず、町を出て行くことも出来ずに多田のもとへ舞い戻ってきたところで映画は終わる。同質的な共同体をかき乱しては去っていき、再び舞い戻ってくる・・・・・どう見ても“寅さん”です、本当にありがとうござ(略

「まほろ駅前〜」は人間の苦悩に焦点を当てながら、構造的には「男はつらいよ」と同じことをやっている。山田洋次は「おとうと」(2010)で寅さん(的存在の鶴瓶)が家族や社会からはじき出されてどのように死んでいくのかを冷徹に描き、「男はつらいよ」的世界の一歩先を描いているというのに。

山田洋次80歳、大森立嗣40歳。それでいいのか大森立嗣。

ではもうひとつの円環世界を描いた映画「アウトレイジ」を考察する。北野武は同じような閉じた円環世界をどのように描いたか。もういうまでもないことだが、円環世界には絶望しかないことを北野武は「アウトレイジ」ではっきりと描いた。

誰ひとりこの絶望的な円環世界の鎖を断ち切ろうとせず、この同質的な世界、同質的な共同体、同質的な価値観を頑なに守りとおそうとする。その価値観を絶対とする暴力集団はただひたすら殺しあうだけだ。

閉じた世界の中では同一の価値観しか認められない。たとえその価値観が空疎なものであろうとも、閉じた世界の中ではその価値は絶対である。「アウトレイジ」ではそれは「権力闘争」ののち「殺しあう」ことでしかない。

だから「アウトレイジ」を注意深く見た人は気づいたと思うが、北野武率いる大友組は誰一人として反撃もせず、抵抗らしい抵抗もせずに死んでいくのだ。

映画を見ていておかしいとは思わなかったろうか?

武闘派揃いの大友組が何の反撃も逆襲もせずに、ただ逃げまどい殺されていく姿を。彼らが抵抗もせずにあっさりと自分の死を受け入れる理由はただ一つしかない。

「死」だけが、この円環世界から逃れることのできる唯一の扉だからだ。

アウトレイジの「生」を見よ。カッターナイフで指つめをするシーンに象徴されるように、空疎な価値のために耐え難い苦痛を耐えてはじめて「生」が享受できるのだ。このような苦痛に満ちた「生」を引き延ばすことに一体どんな意味があるというのか。

「アウトレイジ」という円環世界の住人にとって死はむしろ「恵み」であり「救い」なのだ。

この閉じた円環世界を映画的に救う方法はたった一つしかない。「この円環の鎖を断ち切り、外へでること」だ。円環の外へ出たものだけが高貴な光、可能性の光をまとうことが出来る。

そしてその可能性を示したのが、園子温「紀子の食卓」(2005)だ。

家族という虚構、さらにレンタル家族という二重の虚構を経た上で、虚構を真実として引き受け、その中で生きようと決意したかに見える家族から再び去る吉高由里子。何重にも張り巡らされた虚構の、だがそれゆえに人をつかんで離さない価値を捨て去り、この円環から抜け出す吉高の姿は悲しくも尊い。

虚構を、すなわち同質の世界、同質の共同体、同質の価値観を捨ててでも円環の外に出ること。そこにしか映画の、人の可能性はない。

円環の中で生きることを選択する「まほろ駅前多田便利軒」、円環から「死」によって脱出する「アウトレイジ」、そして円環を断ち切り「外」へ出る「紀子の食卓」。

映画の可能性は「まほろ駅前〜」→「アウトレイジ」→「紀子の食卓」の順に示される。
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2011年03月29日

世界との取引「トゥルー・グリット」

少女にとって復讐は「取引」だ。

少女が商人と馬の買い取りをめぐってする、あのあざやかなやりとり。少女にとって「世界」は秤にかけて計量することのできる「公正な取引」のできる世界でなければならない。あのシーンはそれを宣言する。

父が不当な理由から殺された。少女はその不当な取引によって奪われたものを「世界」から取り戻さねばならない。それこそが公正な取引というものだ。

だが、その「取引」は少女の想像を超えたものだった。少女は自分の行く先々で積み重なってゆく死体を凝視し続ける。

最初の小屋で待ち伏せた野盗たちの打ち捨てられた死体を見て少女は言う。「埋葬したい」と。それがせめてもの、この取引が公正かつ正当なものであるという証だと言わんばかりに。

だが、その願いは聞き入れられない。馬に乗ってその小屋を去りながら放置された死体を見つめ続ける少女。

野盗たちとの最後の決闘が終わる。少女もまた死の淵にありながら、地面にころがる死体から目を離せず、いつまでも追い続ける。

少女は死体を見つめながら考える。はたしてこの「取引」は「公正」なものだったかと。自分が父の復讐を考えさえしなければ、このような死体の山が築き上げられることはなかったのではないかと。

だが、少女はその「取引」から逃れることはできない。少女が「取引」しているのは「世界」そのものだから。

少女はその「取引」によって体の一部分だけではなく、「死」を凝視し続けたことで魂の一部分をも奪われた。

そして長い年月がたち、年老いたかっての少女は、誰にも頼らず、誰にもかかわらず、ただ一人で生きている。

自分は「正しい」ことをしたのに神は「不当」な人生を自分に押しつけたなどとはみじんも思わない。私は「奪い」、「奪われた」。それが「世界」との公正な「取引」だ。泣き言なんて言わない。

その毅然とした後ろ姿は神々しい。まるでイーストウッドのように。
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2011年02月20日

共感を超えた映画体験「海炭市叙景」

映画「海炭市叙景」を見て救われた気持ちになった。

映画は海炭市に住む4つの家族に寄り添いながら淡々と進む。そこで描かれるのは今の私たちの似姿。断絶し、理解し合えない家族の姿であり、停滞し、窒息しそうな街の姿だ。不思議なのは、そんな暗くじめじめした映画にもかかわらず見ていてすごく救われたこと。

一体この自分の不可思議な気持ちはなんなんだろうと。自分と同じようなみじめな境遇の人々を見て溜飲が下がったとでもいうのか。そんな卑しい気持ちが自分にあったのか?いや、違う。映画を見ていて最も心が満たされ、救われたのはどこだったか、はっきりと思い出せる。

路面電車がすべるように動き出した瞬間に私の心はスクリーンの中に入っていき、映画の中で何の関わりもなかった人々が同じ路面電車に乗り合わせたり、すれちがったりするその時、何か突然、救われた気持ちになったんだ。

それは決して自分と同じようなみじめな人々の境遇に共感し、みじめなのは自分一人だけじゃないというような陳腐な自己憐憫によるものではない。

物語の終盤、大晦日の夜。それとは意識されずに路面電車の中と外で登場人物がすれ違う。路面電車のなめらかな動きと共にスクリーンの中に没入していく私はその瞬間体験する。

いままで映画の登場人物の近くで身をひそめて寄り添っていたはずなのに、登場人物が同じ時間、同じ場所で意識することなくすれ違う場面で、ふいに超越的な視点に立たされたことに気づく。そこは神の視点といってもいい。

その突然の視点の変化からくる私自身の動揺が、あの路面電車の中に私と同じような人間がいる、というような同情や共感を超えた、超越的な感覚、いわく言い難い体験をもたらす。

そこに「世界」があり「生」があり「死」がある。そこが「始まり」であり「終わり」でもあり「過去」でもあり「未来」でもある。すべては「同時」に生成し「連続」している。すべては「ひとつながり」なんだという感覚に呆然とし、陶然とするような気持ちに満たされる。

この超越的な感覚を「悟り」というのはさすがにアホっぽいので、このわけのわからない体験を「映画的体験」ととりあえず名付けるほかない。

この映画には路面電車の場面以外にも、男が船の甲板でながれる海の波間を見ながら立ちつくす場面や、猫を抱きかかえる老婆の反り返った親指などおもわず呆然とするような、言葉で説明のつかない感覚と感動に満たされる瞬間がある。

一体この感覚をどう言葉にすればいいのかわからないが、老婆の“反りかえった親指”その「細部」に「全体」をみるというか、連綿と続く生の営みのすべてをそのほんのわずかな部分に見てしまうといえばいいのか・・・。言葉にできない「映画的体験」と呼ぶしかない。

ずっとこの映画の登場人物を一番近い距離から見ていたら、突然すべてを見渡せる場所に立たされた、そんな感覚。原作を読んでもこんな感覚はなかった。映画ってすげえな。映画が文学を超える瞬間ってこういうことなんじゃないかな。
posted by シンジ at 17:42| Comment(0) | TrackBack(2) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月08日

映画「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」のラストシーンが美しいのはなぜか?

映画「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」を見る。

せっかちなのでいきなりラストシーンの話からしていいだろうか。

なぜ「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」のラストシーンを美しいと感じるのか?

ここに愛し合う二人の男女がいる。しかし彼女は別の男の幻を彼氏に見、彼氏はそれを理解しながらその幻の男を演じ続ける。

この映画のラストはみーくん(嘘だけど)が虚構としてのみーくんという役割を演じながら、まーちゃんと共にメヴィウスの輪の中で永遠に循環しつづけることを示唆して終わる。

だが、しかし・・そもそも愛し愛されるということは、もろくはかない幻影を前提としたものではなかったろうか。対象に恋するのではなく、「恋に恋する」自分に恋したり、お互いに見ているものが違っていたり。

みーくんが作品中たびたび「嘘だけど」と観客に向かって念押しするのも、私は本当は「みーくん」ではないですよ、と親切に教えてくれるだけではなく、恋人とか家族なるもの自体虚構でしかないのですよというみーくんの超越的な立場を表明している・・・あるいはその絶望を。

自分はこの世のすべてが虚構でしかないとわかってしまっている。だからスクリーンの中から観客に話しかけることもできるし、まーちゃんが子供を拉致していようが何とも思わないし、自分の命すら大したものじゃないし・・・という徹底したすべてがどうでもいいという態度。だって自分も自分のいる世界も全部虚構なんだから、どうなろうと知ったことではないじゃないか。

たしかに恋人も、家族もこの世界はすべて虚構かもしれない。だが、そこに実際生きて生活しているものにとってはかけがえのない「真」なのである。

自分一人だけ超越的な立場から、上から目線で恋人や家族なんてしょせん虚構なんだよ、嘘なんだよという者は

焦げ工合を言いうる者は弱い火に焼かれている者だ。ーペトラルカ

弱い火に焼かれている者でしかない。

この映画のラストシーンでみーくんは恋人や家族というものはしょせん虚構だからという上からの視点を捨て、あえてその虚構を引き受けてみせる。「生の実感」としてその渦中に身を投じる決意を示すのだ。

それは「家族」というもの「父親」というものを形骸化した虚構としか感じられず、「生の実感」を失い、支配という名の獣性に身を堕としたみーくんの父親とは真逆の選択である。

みーくんは焦げ工合をいいうる(客に向かって「嘘だけど」という)立場から積極的に火に焼かれるためにまーちゃんの元へ身を投じる。たとえまーちゃんの見ているものが自分ではない幻影であろうとも、共に「生の実感」という火に焼かれることを選ぶのだ。

「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」のラストシーンを美しいと感じるのは、その選択ゆえだ。
posted by シンジ at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

震災との距離「その街のこども」評

映画「その街のこども」を見る。

ひょんなことから神戸で出会った男女が阪神淡路大震災の追悼集会がある三宮まで夜通し歩き続けることになる。上映時間80分全篇歩きっぱなし、喋りっぱなしですすむがまったく飽きが来ない。

徹底したリアルな会話のやりとり、佐藤江梨子に電話番号か3サイズ教えてという森山未來に佐藤が教える電話番号も気が利いてるし、どんなに歩き疲れてもタクシーを拾うことや自転車を拝借することが禁じられていたり。脚本渡辺あやの技が光る。

その渡辺あやの匠の技は忠実なまでにリアルに奉仕しているが、この映画でリアルがほころぶ瞬間がある。今まで快調にリアルに徹してきた映画がほころびを見せるのは佐藤江梨子が自分の友だちだった「ゆっちん」を震災で亡くしたことを告白し、「被災者同士で助け合っていかなあかんねん・・・」というようなことを話しはじめたときだ。その時いままで保たれてきたリアリズムはあっけなく崩壊する。

これにはちょっと驚きました。リアルが崩壊する原因は、いままでリアルだと感じていたものに「メッセージ」が挿入されると途端に白々しく作為的なドラマツルギーが働いてしまうこと。私自身このシーンを見ていて「あや・・・やっちまったな」と思ったんだけど、その後森山未來のインタビューを読んで考えをあらためたところがある。

森山は10歳の時に震災を経験し、そのことでNHKの震災特集に呼ばれることになる。

「そもそものきっかけはナビゲーターとして出演した『プレミアム10 絆・被災地に生まれたこころの歌』(NHK)でした。番組の最後に『あの日を決して忘れてはならない』という台詞が用意されてあったのですが、その言葉に違和感があってどうしても言えなかった。」ー森山未來インタビュー・週刊文春1月27日号

森山は被災者とはいえ、大きな被害を受けたわけではなく、震災を自分のものとして考えることがなかったのに震災の当事者面することに違和感を感じたのだ。

実は渡辺あやはこうした森山自身の震災に対する距離感も脚本に練り込んでいる。「その街のこども」の作り方は独特で、渡辺が台本を書く前に森山や佐藤、実際に震災を経験した人たちと話し合い(佐藤江梨子も被災者)その体験談を脚本に反映しているのだ。たとえば震災時に売られていた2千円の焼き芋の話は森山の体験談だし、森山や、森山の友人の話も脚本に取り入れられたという。

つまり私が佐藤の告白シーンにリアルを感じられなかったのは、身近な人の死を体験した佐藤と何の被害も受けなかった森山との埋められない溝を映画上の表現として端的に示しているからだとはいえないだろうか。

私が感じた違和感の正体は、いつのまにか森山視点で見ていたわたしが震災というものと森山自身の埋めがたい距離感を「わたし」自身が映画上で体験させられたのだ。

「あの日を決して忘れてはならない」というフレーズを当事者でもない自分が口にするのにためらいがある森山自身の震災に対する距離感。と同時に映画の中の森山の役は自分の父親が震災特需というものを活かして金儲けしたという負い目を背負っている。役の森山は佐藤が話す「死」と、お互い支え合って生きていこうという「メッセージ」に耐えられなかったのだー自分の負い目ゆえに。

どうやら私は物語上の男女の溝の表現を映画のリアルの喪失と受けとめ、渡辺あやの脚本上のミスとして感じてしまうほど渡辺あやの術中にはまってしまったようだ。

その証拠にこの佐藤江梨子の告白シーンを境に物語は急激にリアルからエモーションへと舵を切る。

佐藤はこの後「ゆっちん」の生き残った父親に会いに行く。佐藤が父親を訪れるシーンは描写せずに佐藤を待つ森山の姿だけが映し出される。つまりそれが森山と佐藤の、震災との距離なのだ。

・・・・そしてその場面が来る。いままでリアル一辺倒だった映画が、リアリズムを突き崩してエモーションに振り切れる瞬間。そのあまりにも見事な、エモーショナルなシーン。

リアリズムリアリズムと来て、そのバランスが一瞬崩れたところに・・・エモーション炸裂!渡辺あやの悪魔的な技倆に脱帽するほかない。ラスト二人の別れも美しく切ない。

しかし渡辺あや上手い上手すぎる。そんなことばかり考えていたら監督の名前を完全に失念。なんか渡辺あやと離れた犬童監督を思い出すな。あやと離れた犬童は凡作駄作を連打して今に至る。「ジョゼと虎と魚たち」「メゾン・ド・ヒミコ」はホントは渡辺あや作品だってばれちゃいましたね。
posted by シンジ at 17:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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