2012年11月06日

キャラが勝手に動き始めるということ「ザ・レイド」

インドネシアのアクション映画「ザ・レイド」を見て思うことなど

格闘技や喧嘩は体のでかい奴が圧倒的に有利だ。敵役であるちっこいおじさん(マッドドッグ役のヤヤン・ルヒアン。以降親愛を込めて、ちっこいおじさん)はその体の小ささ、体重の軽さから戦う相手に抱えられてヒョイヒョイ投げられる。観る方としてはそのたびにヒヤッとしてしまう・・・ってこれどう考えても逆ですよね。正義のヒーロー側に感情移入して見なければいけないはずなのに、この敵役のちっこいおじさんの一挙手一投足にハラハラして見入ってしまう。

このちっこいおじさんが体格の圧倒的なハンデをどう克服して戦うのか。そのことに注視してしまって、自然にちっこいおじさんの側に立って映画を見てしまうのだ。これはあきらかに映画の意図せざるところだろう。

映画の意図としては圧倒的に強い敵にどうヒーローが立ち向かうかを見て欲しいわけだし、主人公の立場に立って客も一緒にハラハラドキドキしてほしいはずだ。ところが観客は(少なくとも私は)ちっこいおっさん中心に見てしまう。

格闘技において決定的なハンデをもつこの愛くるしい顔をした、貧弱な肉体の持ち主であるおっさんが、このハンサムで可愛い妻を持つヒーロー(糞)にどうやって立ち向かうのか・・・

頑張れ・・・敵役だけど、多分最後に負けるだろうけど、頑張れ・・・とソワソワして見守っていたら、まぁ見事に体の小ささというハンデもものともせずに戦うわけです。それもその強さに説得力がある!

最初はどう見ても強そうに見えないし、勝ち目のなさそうな感じで始まります。ハンサムな警察の隊長にボンボン投げられたりして、ああこれはだめだ、こんなに体が小さくて勝てるわけないと思うんですが、その華麗で豊富な足技で徐々に相手を圧倒していくんです。興奮しましたね〜。

この最初は負けそうだけど最終的には逆転勝ちをおさめる姿ってどう見ても少年漫画の主人公タイプなわけです。警察側の戦い方とちっこいおじさんの戦い方では断然おじさん側のほうがヒロイックなんですよ。それからは完全にちっこいおじさん視点で映画を見るようになりましたね。またおじさんがいちいちかっこいいんですわ。自分の有利な立場をわざと不利にしてから戦う姿を見ても、多分監督のギャレス・エヴァンスは武士道とか騎士道精神をこのちっこいおじさんに担わせている。

特にクライマックスの2対1の局面なんて、ハンサムな二人を相手に貧相なちっこいおじさんが大立ち回りをするんですけど、これあきらかに演出意図としては失敗してると思うんです。だってどう考えても二人で戦うハンサムが卑怯で、一人で戦うおっさんがかっこよすぎて敵役であるはずのおっさんに感情移入してしまうようになってる。

この場面でちっこいおっさんを応援してた観客は私だけじゃないはず。監督もこのちっこいおっさんがあまりにも魅力的なので、敵役はヒーローを引き立てなきゃいけないという原則を忘れているようにしか思えない。

じゃあ、この映画「ザ・レイド」は失敗してるのかというとそうじゃない。映画の演出の意図を超えて主張しだすキャラクターがいるということ。演出の意図をはみ出しても魅力があふれ出すというのは凄いことだと思うからです。

たとえば、小説や漫画ではよくそういうことー作中のキャラが作者の手を離れて勝手に動き出すことーが起こるといいます。池波正太郎は「鬼平犯科帳」連載中、作中の人気キャラである伊三次を死なすつもりがなかったのに、書いているうちに死んでしまって呆然としたというようなことを言っています。

私だって、彼らを死なせたくなかったのだ。いつまでも生きていて、「鬼平」の連載を助けてもらいたかった。
ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい。ペンでつくりあげた人間が、ほんとうに生命をもってしまうとしか、おもわれないときがある。−池波正太郎「日曜日の万年筆」


作者が意図しないのに自分の作り出したはずのキャラが勝手に動き始めるというのは作家や漫画家にはよくある現象のようです。これはどういうことかというと、自己という主体は「私」というひとつのものに統一されているようにみえるが、実は様々な他者が反映してできている。「私」は世界でただ一つのオリジナルな「私」ではなく、ありとあらゆる無数の他者が介在して織りあわされたものが「話す」こと(発話行為)によって「私」というものに統一されたようにみえるにすぎない。「わたしとはわたしというものに他ならない」(ロラン・バルト)。そういう風に考えれば、作家や漫画家の描いたキャラが作者の意図を離れて勝手に動き出すという現象は説明がつきます。「私」の中の「他者」が動いているのです。

しかしそれは映画においても当てはまるものでしょうか。映画は小説や漫画とは比べものにならないほど莫大な予算がかかり、大勢の人々が関わり、ありとあらゆる人のチェックにさらされます。そこでは映画の意図にはずれてるようなこと、論理的でないもの、整合性のあわないもの、夾雑物は興行的観点から徹底的に排除されます。キャラが映画の意図をはずれて勝手に動き出すことなどありうるはずのないことなのです。

・・・・しかし映画「ザ・レイド」ではちっこいおっさんが勝手に動き始めてしまう。製作者や、映画作家が意図したことを超えて動き始めるもの。それは観客である「私」の中の他者が動かしたのではないか。ただ映画から一方的に情報を受け取るだけ、演出の意図どおりのものを消費するだけではなく、映画が意図せざるものをそこに見いだし、生み育ててしまう見方。映画の亀裂、映画のほころびに「私」の中の何かがざわめきはじめ、映画を根底から作り変えてしまうということ。

例えばちっこいおっさんはインドネシアの最底辺の貧困地区の出身者であろう。そんな最底辺の土地で体が小さいということが何を意味するか。子供というのはむき出しの残酷さを持つ生き物だ。おそらくおっさんは子供の頃散々いじめられたであろう。毎日毎日屈辱と恥辱と直接的な暴力を日常的に受けてきたに違いない。むき出しのエゴがぶつかりあう最底辺の社会では体が小さいというだけで抑圧の対象になるのだ。弱いものがさらに弱いものを叩く、貧困地域によく見られる構図だ。だが、ある日いじめられていた少年時代のおっさんは得体の知れないみすぼらしい爺さんがチンピラを見たこともない体術でやっつけるのを目撃する。ちっこいおっさんは爺さんにその体術を教えてくれとせがむ。その体術は「シラット」。少年時代のおっさんはその格闘技を瞬く間に会得してしまう。恥辱と屈辱と汚辱にまみれた人生が一変する。いままで自分を馬鹿にしてきた連中をシラットという暴力で屈服させてしまうのだ。「もう誰も俺をいじめたり馬鹿にするやつはいない」暴力さえあれば、この底辺から這い上がることが出来る。そして幾年月、ちっこいおっさんは幸福な日々を満喫していた。だがそんな幸せな日々も長くは続くない。国家権力という暴力がちっこいおっさんの幸福な日々をぶち壊しに来るのだ。ちっこいおっさんは立ち上がる。もう二度と誰かにいじめられたり、屈服させられたり、恥辱を耐え忍んだりしない。俺の人生は俺自身の手で掴み取る!

これがちっこいおっさん主演、もうひとつの「ザ・レイド」
posted by シンジ at 23:03| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月15日

アウトレイジビヨンド完全読解

映画「アウトレイジ ビヨンド」を隅から隅まで考察しているので、当然ネタバレしています。

1カット目・単線と複線


人は映画を見るとき、ただ物語や登場人物の感情を追うだけではない。映像やセリフとして表現されたものだけではなく、表現されていないものまでそこに読み取ろうとする。一番わかりやすいたとえを出せば、私の大好きな映画監督にエルンスト・ルビッチがいます。

ルビッチの映画手法は表面的にかわされる会話やしぐさの裏に別の意味が隠されている。つまり映像で表現されていないものを観客に読み取らせるのだ。映画「メリーウィドウ」(1934)ではテーブル席に座る男女がよそよそしい会話をかわす。彼らはあくまで礼儀正しく、堅苦しい態度を崩さないのだが、女がある一言をもらす「靴をかえしてくださる?」

その瞬間そのシーンはひっくりかえる。よそよそしく堅苦しい男女の会話が続くなか実はテーブルの下ではエロティックな攻防が行われていたことがわかるのだ。ルビッチ映画では表現されていること(テーブルの上でのよそよそしさ)と表現されていないこと(テーブルの下のエロティックな攻防)の二重の表現がある。

では北野映画ではどうなのか。アウトレイジビヨンドは一見したところ表面的な表現しかないように見える。これまでの北野映画以上に緻密に組み立てられたプロットは一方通行的に進行する物語と登場人物の感情を追わせるだけのような作品に見える。そういう映画をここでは「単線的」映画ということにする。

単線的とはブレヒトの言葉で
「観客が演じられている事柄に身を置き、そこから考えること。一切を一つの理念に組み込み、観客を単線的な思考方向に駆り立てて右も左も上も下も見えなくすること」をいう。(三文オペラへのブレヒトの覚え書き)


単線的作品とは、物語の一定の型に観客をはめ込むこと。観客を一つの表現や一つの感情に誘導することをいう。

だが、実はアウトレイジビヨンドもまたルビッチ映画と同じように、表現されている面と表現されていない面の二重の面をもっている。単線的の反対だからこれを複線的ということにする。

ルビッチ映画の場合表現されないテーブルの下を暗示するのが一番表現したい部分なので、最初から観客にテーブルの下を読み取ってくださいという意図がある。その点が北野映画と違って親切設計なのだ。アウトレイジビヨンドがやっかいなのは、一見したところ、ただのヤクザ映画にしか見えない、それも面白いヤクザ映画にしか見えない点で、いわば単線的表現だけでも十分に映画として完成されている点だ。北野映画は映画を深く読み取らない人にとっても面白くできているのだ。だが、北野映画にはまる人にとって北野映画は単線的とは言い難い複雑な魅力を持つ。映画を単線的に見るのではなく、より深く読み取るためには映画のどこに注視すればいいかというと、北野武の「身体性」に注視すればよいということになります。

2カット目・北野武の身体性


アウトレイジビヨンドを見ていて少し違和感がなかったでしょうか。おそらくその違和感はこの映画の中心であるはずの大友(北野武)の存在感の希薄さと関係がある。

この映画での大友は老い、疲れはて、抗争に対するやる気のなさを露呈しています。この人が映画の主人公?と思えるような存在感のなさです。しかしこの大友の存在感の希薄さが映画を単線的なものから複線的なものへと変換する重要なファクターなのです。

本来映画の中心であるべき大友の老いと疲れが大友というキャラクターを突きぬけて北野武という生身の男の身体にまで到達する。映画のキャラである大友はいつしか北野武という現実の男と重なり合う。老いて疲れはてた北野武の身体性が透明感を帯び、大友をまるで映画のなかで宙に浮いたような存在にさせる。それは映画の中の余白、空白として機能しはじめる。

自分をヒーローにすると、映画が、小型になっちゃうじゃない。自分が主役で、自分が最後に殴り込んだりすると、映画がすごい小型化して、単なる、主役とその周りに付随した奴のストーリーになるんだけど。主役を薄くしちゃって、周りを広くすると、映画自体が大きくなるっていう。ー北野武「物語」


空白となった北野武の肉体はこの映画を単線的なものから複線的なものへと変換する。映画の中心が空白ということは、いくらでもそこに意味を読み取ることが可能ということであり、観客の思考は上にも下にも右にも左にも開かれる。世界は開かれ、映画が大きくなるのだ。

大友の老いと疲れと諦念を如実にあらわす北野武の身体性をとおしてわかるのは、大友と他の人物は同じ盤上に存在していないということだ。大友にとって前作の因縁がある山王会に対する復讐の機会はととのっているにもかかわらず彼は復讐というゲームの盤上にのぼろうとしない。いや、のぼろうとしないのではなく、のぼれないのだ。なぜなら彼だけは同じ盤上に存在していないからだ。

3カット目・ゲームマスター


この映画のほとんどの登場人物が住まう世界とは片岡(小日向文世)が作り出したゲームの世界である。アウトレイジビヨンドの世界は片岡という刑事が作り出したゲームにすぎない。他はヤクザゲームの駒でしかない。だがそれぞれの人物は自分が駒だとは思わずに、自分こそが駒を動かす棋士だと思っている。だがその棋士もこのゲームのルールにのっとった上で意味がある存在でしかない。片岡は棋士でもなければ駒でもない。彼こそはこのゲームのルールを司るゲームマスターなのだ。

ゲームマスターは他のプレイヤーと対話しながらゲームの舞台となる世界とそこに登場するいろいろな事件や人物を説明し、決められたルールに従って、プレイヤーが考えたキャラクターの行動が実現したか否かを裁定することでゲームを進行させる。ーテーブルトークRPG・wikiより


テーブルトークRPGではゲームマスターがストーリーの背景や設定を考え、ゲームマスターにリードされて役割を演じるプレイヤーがいる。この映画の登場人物を采配し、自分の思い通りに動かしていく片岡こそ、この映画のゲームマスターである。彼は盤面上の駒も駒を動かしている棋士も自分の決めたルールで動かしているのだ。そしてこの片岡がルールを決めるゲームの盤面に上がらないのが大友である。なぜなら大友だけがこのゲームの仕組みに気づいているからだ。

通常、ゲームの駒やゲームプレイヤーがゲーム自体のルールを疑うということはあり得ない。彼らにとってルールに対する疑いは不可視化されている。つまり、将棋の駒がしゃべれるとして、この将棋のルールはおかしいといいだすだろうか。将棋の棋士がこの将棋のルールっておかしくないか、などといったりするだろうか。ゲームをプレイするものがゲームのルールに疑いを持つことはあり得ない。疑わないことでゲームは成立しているのだ。

ではなぜ大友だけがこのゲームのルールはおかしいと気づき、ゲームの盤面に上がろうとしないのか。それは大友が前作「アウトレイジ」で死んだからである。死んだことによりゲームの盤上からはじき出され、外側からゲームの盤面を眺めることができるからだ。そのような立場にいる存在とはいうまでもなく「亡霊」にほかならない。

4カット目・召還


大友が刑務所から出所するとき、彼を迎えに来たのは「その男凶暴につき」の白竜である。蓮實重彦は「ビートたけしによりそう白竜は、「彼岸」からの、寡黙な、だが妥協を知らぬ一徹な使者にほかなるまい」と書いている(群像11月号)。白竜は彼岸と此岸の間にいる亡霊と化した大友を彼岸の世界(ビヨンド)へ連れ去ろうと迎えに来た使者なのだ。見事な造形だった刑務所の塀を思い出してほしい。灰色と黒影が交互に刻まれた刑務所の壁はそれぞれ彼岸と此岸をあらわしているといえはしまいか。(ちなみに蓮實氏は白竜を見て落涙したそうです。どんだけ殿の映画が好きなんだよ)

しかし大友が亡霊のままでは映画は進展しない。亡霊は現世に関わることができないからだ。そこで大友を現世へと呼び戻すきっかけになるのが、木村(中野英雄)の若い衆二人の惨殺と花菱会の怒号飛び交う会合での木村の衝撃的な指つめである。この木村の血の儀式により大友ははからずも現世へと召還されてしまうのだ。木村の衝撃的行為、その血、その引きちぎられた指により亡霊は現し身(うつしみ)となる。このシーンの演出は見事でそのシーンの前と後ろでは画面の空気の色がまるで違って見えるほどだ。血の儀式による召還にふさわしい名場面といえる。

5カット目・彼岸=ビヨンドの表現


この映画では「黒」や「闇」という映像表現が頻出する。特に象徴的なのは人を殺すときに頭に黒い袋をかぶせるシーンだ。それは視界を奪うことだけではなく、光の遮断を意味している。ゲームの盤面上を照らし出す光を遮断することはそのゲームからの離脱であり、光を遮断された世界はゲーム世界の埒外を示す。

北野武は車を撮る達人だと言いたくなるほど車をきわめてエロティックに撮る。車はゲームの盤上にいる駒たちをその濡れたような黒光りする車体から捕らえようとしているかのようだ。いつでも彼らをゲームから取り除くことができるようにその黒い深淵からのぞいているものは−彼岸。そしてゲームマスターである片岡の車は黒を拒絶するかのように銀色に鈍く光り輝いている。

音響について
映画冒頭で鮮烈に示されるように、音声だけが映像に先行し、後から映像が追いつく手法が頻繁に使われる。銃声だけが画面外のどこかから響きわたり、その後、殺されたばかりの死体が映し出される場面。三浦友和が殺害されるパチンコ店では音響が徐々にマイナスされナイフが内臓をえぐる音だけが響きわたる。

画面外、彼岸=ビヨンドからの手が先にさしのべられた後で、此岸=現世の映像がそれを後追いする。パチンコ店の音響は音がマイナスされることによって画面全体を彼岸が覆う瞬間を遅延して見せる。音響もまた映像における闇や黒と同じものを表現しているのだ。

6カット目・北野武と数学


ゲームの盤上に降り立った大友は花菱会最強の手駒、城(高橋克典)率いる殺し屋集団をあやつり手際よく駒を排除していく。その排除の演出には数学的手法が使われている。銃声だけがどこからか響き渡り、あとは死体だけがころがっている演出。

「映画における因数分解」
aという殺し屋がxとyとzを殺すという話を数式にすると、ax+ay+azという式で表せる。この場合映像的にはaがxを拳銃で撃つと、次のシーンではaがyを撃って、また次にはaがzを撃つ。近代映画における因数分解は、aが拳銃を持って、ただ歩くだけ。次のシーンで、x,y,zの死体を順番に見せる。それでaが3人を殺したってわかる。つまり、a(x+y+z)となるわけ。それが因数分解的な映画表現。ービートたけし「達人に聞け!」


北野武の数学へのこだわりは、この世界はすべて数学によってはかることができるという考えに基づく。だが、その考えは、この世界は数学では決してはかれないものがあるという不安の裏返しでもある。この世界は数学に代表される理性や知性によって完全に解明できるとする考えは、人間の理性や知性の光によっても照らし出すことのできない闇の領域があることへの恐怖と区別できない。

片岡はいうなれば、数学が支配する世界の王だ。この世はすべて自分の計算通りに動かすことができる。自分の知性に対する絶対の信頼。そこに自分に対する疑いや、自分の作り出したゲームに対する疑いは微塵もない。それに対し大友はまず自分を疑い、みなが従うゲームを疑う。この世界に確たるものは何もない。大友は知性という光から遮断された世界である深淵=ビヨンドから来た埒外の男である。つまり、片岡は表の北野武の顔、大友は裏の北野武の顔である。片岡と大友は北野武という同じ仮面の表裏なのだ。

7カット目・北野映画におけるコンビ


北野映画はこれまでもさまざまな「コンビ」(二人組)を描いてきた。コメディリリーフ的なコンビもいれば、心の交流をもつコンビも。しかしアウトレイジビヨンドで描かれるコンビはいままでの北野映画が描いてきたコンビとは一線を画している。片岡とコンビを組む繁田(松重豊)は最初から最後まで片岡に対する疑いを隠そうとせず、最後には片岡と離反する。花菱会の西田敏行と塩見三省は相手をかわるがわる恫喝し追い込んでいく二人で一組の暴力機械である(この映画で一番恐ろしく素晴らしいのが塩見の顔芸、恫喝芸である。見ていて怖いけど惚れ惚れする)。桐谷健太と新井浩文のキッズリターンを思わせる二人はあっさりと命を散らし、山王会二代目加藤(三浦友和)と石原(加瀬亮)のコンビは加藤の石原に対する疑心暗鬼から最後には石原は切り捨てられる。大友と木村は唯一人間らしい交流を持つが大友は山王会を弱体化した後あっさりと身を引く。

この今までの北野映画に見られない寒々しいまでのコンビの姿。なぜこのような描写になったのか、ヒントは北野武のインタビューにある。

「震災後の一年間は、逆に自分は怒りを感じている部分があった。世の中、絆とか愛とか表面的なものばかりでイライラした。こういうときこそヤクザ映画を撮ってやろうとやる気が起きた」ーベネチア映画祭でのインタビュー


絆とか愛とか連帯とかいう空疎な言葉を連呼する世間に対する嫌悪感。北野武は連帯や団結に疑いを向け、愛や友情も虚構ではないのかと疑う。つまり連帯や団結、愛や友情などの言葉だけで実体のない概念の強制がなければ人間社会が成り立たないのだとすれば、そんなもろい基盤の上に立つ人間社会は容易に残虐な相貌をあらわにすることを北野武は知っているのだ。

アウトレイジビヨンドのコンビの寒々しいまでの描写は、他者に依存することの危うさ、他者の価値観を疑わずに従うものには悲惨な末路が待ちうけていること教える。映画ではコンビの片岡を疑い決別した繁田が生き残り、木村との交流を断ち切って別れた大友が生き残る。他者に依存しないものが生き残り、他者に依存するものはみな死ぬのだ。

ファイナルカット・ゲームマスターを殺す者


木村の血の儀式によって彼岸より召還された大友だったが、山王会を弱体化させた後はお役ご免だとばかりに抗争から身を引く。大友はゲームの盤上から降りる、つまり亡霊へと戻るのだ。そしてこのことは衝撃のラストシーンを必然のものとする。ゲームのルールを作り出したゲームマスターである片岡をゲームの盤上にいる駒やゲームのプレイヤーたちは決して殺すことはできない。ゲームマスターはこのゲームの創造者であるがゆえに、このゲームの盤上に存在しないからだ。そしてゲームマスターである片岡を殺すことができる映画中唯一の存在はゲームの盤上に存在しない亡霊たる大友だけなのだ。このラストは必然である。

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小難しいことを書いてきましたが、この映画は何も考えずボーッと眺めているだけでもめちゃくちゃ面白いです。そして何回か繰り返し見ていくと、その面白さが別の意味を持って浮かび上がってくることがある、そこがまた映画を見る楽しみでもあります。映画を見る楽しみは一方通行=単線的ではなく、多角的=複線的なのです。
posted by シンジ at 11:18| Comment(5) | TrackBack(2) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

まなざしという幻視「桐島、部活やめるってよ」

映画「桐島、部活やめるってよ」を見る。

この映画で個人的に最もショックを受けたところは、わが最愛の橋本愛さまのシーンです。映画ヲタ的には映画館で一人塚本晋也監督の「鉄男」を見ている同じクラスの美少女というだけで、ご飯何杯でもいけるくらい幻想が膨らみ放題膨らむわけで。映画中、愛さまを見つめることだけがこの映画の推進力だといってもいいほど。だが、しかし、このボンクラの愛さまへのまなざしが極限まで達した時、それが起こる!

・・・映画の中途で愛さまが学校一のチャラ男と付き合っていたことが発覚するのだ。これには映画部の神木隆之介だけでなく、俺も顔面蒼白。失望と絶望が同時に襲ってきて頭が痛くなってくる。愛さまは名画「鉄男」を見るほどの由緒正しい映画美少女にもかかわらず、こんな映画もろくに見ないであろう薄っぺらな男と付き合ってるのだ!ああ、しょせん俺は愛さまに自分の幻想を仮託していたにすぎないのだ。

と、映画を見てガチでへこんでいたら(笑)、ハッと気づいた。これこそ、この映画の構造そのものではないか。

吹奏楽部の部長はヒロキに熱いまなざしを一方的にそそぎ、バドミントン部の少女は桐島の補欠だった男子にひたすらまなざしを向ける。そして神木くんは橋本愛にそのまなざしを向け続ける。この一方的なまなざしの先にあるのは、それが一方的であるという意味では幻視に近い。つまりあくまで自分の幻想をふくらまして幻想そのものを見ているのだ。だが、それでもそのまなざしの先にあるのは、生身の肉体であり、実在する人間である。

しかし、そのまなざしの先にあるものが、不在ならばどうなるのだろう。多くの女子や男子がそのまなざしを向けていたものが不在となったとき、そのまなざしは行き場を失い、まなざし自体が失われてしまう。まなざしの対象がなくなれば、もはや、まなざしそのものが意味をもたなくなる。

そのまなざしを支えていたものは、学校内階層の頂点に君臨する桐島という存在だ。まなざしという幻視に支えられていた学校内階層という虚構。そしてその虚構を最後の最後に打ち破るのが、これまた不在の対象を幻視する「映画」という虚構なのである。虚構の上に成り立っていた学校内階層を破壊し、それに代わって立ち上がるのは、もう一つの大いなる虚構「映画」なのだ。

それがゾンビ映画というのにももちろん意味がある。ゾンビは生者でもなければ死者でもない存在。ゾンビは此岸にいながら彼岸のものでもある。それは存在しながら、不在でもあるものに向けるまなざし−幻視と同じことだ。・・・クライマックスのゾンビはこのことをあらわしている。

これは虚構がさらに徹底した大虚構によって打ち砕かれる痛快無比で、どこかほろ苦い物語。そのほろ苦さはこんなところから来る。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことだ。」−イプセン「野鴨」

だが学校内階層という嘘は取り上げられても、映画という嘘だけは決して取り上げることは出来ないだろう。
posted by シンジ at 18:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月30日

不可解な世界と向き合う「おおかみこどもの雨と雪」

おおかみこどもの雨と雪を見る。

「おおかみおとこ」あるいは「おおかみこども」はいったい何のメタファーか。

なかにはこれを「マイノリティ」のメタファーだとする意見がある。たしかに自分の恋人がおおかみおとこで、子供がおおかみこどもという非常事態は迫害の対象となってもおかしくない。

だが、映画で細やかに描写されるのは日常そのものであり、子供を育てるシングルマザーの苦労そのものである。花(宮崎あおい)は日常を生きるごくごく普通の女性であり、子供たちも大きい耳としっぽはあるものの普通の子供と何ら変わりない存在だ。

おおかみおとこがマイノリティのメタファーではないことは細田守もインタビューで言っている。

今回はおおかみこどもを育てる話なんだけど、それが「おおかみこどもだから」社会から迫害される、そういう窮地には立ってほしくなかったわけ。これはそういう話じゃない。マイノリティがどうやって社会の中で生きていくかという話じゃない。冒頭で「彼」が死んじゃうけれど、その理由にしても、たとえば警察に追われてとか、迫害を受けてとか、そういう理由じゃない。「彼」が死ぬときは、仕事の途中だったり、花のことを思っていたりするときであってほしい。・・・とにかくマイノリティが迫害される話にはしたくなかったんです。−オフィシャルブック細田守インタビュー


細田守はこれはマイノリティの話ではないというが、では「おおかみおとこ」の意味とはなんなのか。なぜ、おおかみおとこなのか?

ヒントは映画のわりとはじめの方に出るセリフにある。「彼」がはじめて花に自分がおおかみおとこだと正体を明かすシーンのあとで花の心情がこう語られる。

「世界は、私の知らない事柄で満ちている」

だから私の愛した人がおおかみおとこであってもおかしくはない、と。それは花と不可解な「世界」がはじめて向き合った瞬間でもある。

このシーンを見たとき聖書の一節を思い出した。それは人が神の使いを見てその名前を問うた時の一節である。そのとき神の使いは人に何と答えたか。

「私の名は不思議」−士師記13.18


主は不思議であり、不可解であり、人には決して理解できないもの、という意味合いがあるのだろう。また聖書にはヨブ記という話がある。清廉潔白な正義の人にして敬虔なる人ヨブを見てサタンは神をそそのかす。ヨブの身に不幸が起これば、ヨブのような義の人でも神を呪うに違いありません、と。神はヨブをためそうと、ヨブの娘、息子たちを皆殺しにする。その時ヨブはこういう。

私は裸で母の胎から出てきた。
また裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。−ヨブ記1.21


ヨブ記のあまりに理不尽で不可解な「主」をここでは「世界」あるいは「生」そのものとしてとらえたい。

ヨブは絶望し、神に訴え、生を呪う。

神を道徳的理想者としてのみ愛する者は、世界の導かれ方がその道徳的理想像のあらゆる原理につねに矛盾していることに容易に失望してしまう。−マルティン・ブーバ−


「世界」や「生」は人間の道徳的理解によって、はかれるものではない。圧倒的なまでに理不尽であり、不可解なもの、それが「世界」であり「生」そのものなのだ。

作品中ではあの「熊」の描写に、そのことを強烈に感じた。熊の目を一切描かない演出に「世界」の不可解さ、この世界には絶対に理解できないものが存在するということがあらわされていたように思う。そしてその後に熊に二匹の子供がいるという演出にはただ慄然するほかない。

つまり絶対理解できない存在としての熊に自分と同じように子供が2匹いるという衝撃である。絶対理解できないと思われた恐怖、自然の驚異にも私と同じものが流れている・・・。

「おおかみおとこ」は世界の不思議さ、不可解さ、理不尽さのメタファーである。世界は何の前触れも、理由もなく「与え」そして「奪う」ものなのだ。

花は世界の理不尽さに打ちのめされる。花と世界は分断される。花は冷たくよそよそしい世界から逃げるように田舎へと引っ越す。そこで誰ともかかわらず、誰にも頼らず、世界と隔絶されたまま子供たちと生きようとする。

だが、都会で生きようと、田舎で生きようと、生きるということは「いかなる文明の進歩によっても根絶されない生の恐怖と無防備と絶望」(レオ・シュトラウス)と向き合うということに他ならない。

理不尽で不可解な世界を避けようとしたはずが、いつのまにかそれと向き合わされていく。花は田舎暮らしを通して世界を受容し、そして和解する。それが決定的となるのは最愛の息子、雨との別れだ。

「主は与え、主は取られる。」ヨブを襲った「世界」の、「生」の理不尽が花を襲う。

雨は人間の世界ではなく、野生の世界。狼の世界を選択する。それは痛切きわまりない親子の別れ。だが、花は息子の選択を祝福する−「しっかり生きて!」息子とのおそらく永遠の別れを笑顔で送り出すのだ。

なぜなら、もはやそれは花と世界の分断ではないから。
世界から与えられ、そして奪われたもの
世界の一部となったものは、私のお腹を痛めた子。私の血を分けた子供なのだから。
今日もあの子の遠吠えが聞こえる。
世界と私はあの子をとおしてひとつとなる。
posted by シンジ at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月19日

欲望という名の「苦役列車」

映画「苦役列車」を見る。苦痛である。スクリーンという鏡に映った自分自身の醜い姿を2時間ものあいだ直視しつづけることは苦痛以外の何ものでもない。

しかしいったいこのスクリーンに映り続ける醜い自画像=北町貫多をつき動かしているものはなんだというのか。自分自身社会の底辺にいるにもかかわらず、同じ底辺にいる連中をさげすみ、リア充(80年代にそんな言葉はないが)を見ると嫉妬とルサンチマンでどす黒いものがはらわたの奥底からフツフツと湧き上がってくる。女を性欲の捌け口としか見ていないのに、心のつながりを持ちたがり、他人を見下しているのに、他人に認めて欲しいと人一倍願うこの唾棄すべきありふれた生き物をつき動かす得体の知れないものっていったいなんなんだろう。

劇中、貫多の人足仲間のマキタスポーツが言う「生きていて、いいことなんてひとつもないぞ」

人はいいことなんてひとつもないのに生きる。死ぬまで生きるしかない。ビートたけしはこういう「何も無くていいんだ。人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ」。明石家さんまはいう「生きてるだけで丸儲け」。つまり飢えもなく生命の危険もない、衣食住さえ足りた生活を送ることが出来ればそれが幸せなんだと。

それは一面の真実であるが、貫多とその似姿の私たちにはあてはまらない。人はただ生きているだけの状態に甘んじることが出来ない生き物だ。ただ生きているという、飢えや生命の危険がないというだけの状態に身を置けば、その状態から抜け出したいと思うのが人という生き物なのだ。自分を認めてくれる友が欲しい。愛してくれる女も欲しい。常に渇いた情念は何かを求めて、満たされることはない。貫多の他人や社会に対するルサンチマンは自尊心から来るというより、他者を求めるあまりの転倒した情念だろう。“ぼくはこれほど「おまえら」を欲しているのに「おまえら」ときたらぼくに見向きもしない”。(貫多はなぜか自分のことを“ぼく”という)

人はいままで欲してきたものが手元にあると、そんなものに見向きをせずに、手元にないものを求め続ける。つまり自分にないものを求め続けるそのことこそが人間を動かす原動力ということになる。それは通常「欲望」と呼ばれるが、自分の持ってないものをひたすら求め続けることが人間の原動力としての欲望なら、欲望はなんて“へんてこ”なんだろう!

「生きていていいことなんて一つもないぞ」。人は死ぬまで自分にないものを求めつづける、ということは「いいこと」は決して自分の手に入ることはないのだ。人は死ぬまで「いいこと」なしに生きなければならない。それはまるで死ぬために生きているみたいだ。

なぜか映画「苦役列車」を見ている間中、ずーっと「死」のことが頭を離れなかった。映画中「死」をにおわす描写や「死」をテーマにしているということはないのに映画を見ている私の脳裏から「死」が離れようとしないのだ。貫多はただ生きているだけ、自分がどこへ向かっているのかもわからず、自分を動かしているものがなにかもわからない得体の知れない欲望という名の列車に乗っている。自分がなにかを欲していることはわかっても、それがなにかはわからないのだ。

厭世的な人は、よく人間を例えて、人類は地球にとってのがん(癌)などというが、がんもまたわけのわからないものだ。がんは人間の体に寄生し増殖して臓器を食い荒らして人間を死に至らしめる。そして寄生先の人間が死ぬとがんもまた死滅するのだ。これほど滑稽なことがあるだろうか。がんはがん自身の死期を早めるために活動しているようなものなのだ。がんはまさか自分たちをつき動かしているものが自分たちを死に至らしめるものだとは露ほども知らない。

だがこれは人間も同じことだ。果たして人間は自分たちをつき動かしているものの正体を知っているといえるのだろうか。なぜこれほどまでに人は嫉妬し、恨み、呪い、憎み、欲するのか。先にそれを欲望と呼ぶといったが、では欲望とは一体何なのか。欲望は動物が本性的に持つ自己保存の働きだとしたら、なぜ人は飢えや生命の危険のない、ちゃんと生活できている状態で満足せずに、自分にないものを求め続けるのか。

人を動かしているものとがんを動かしているものはまったく同じだ。人は目隠しをされ、がんと同じ得体の知れない動力を積んだ苦役列車に乗せられている。それも行き着く先の駅の名は「死」である。

だが人はそんな苦役列車に乗せられていることに甘んじはしない。必死になってジタバタし、あたりかまわず引っ掻き回して抵抗する。それが北町貫多にとって「書くこと」である。「書くこと」によって得体の知れないものを制御できるわけでも、行く先の駅を変更できるわけでもない。それでも人は抵抗せずにはいられない。貫多にとって「書くこと」だけが自分にできる唯一の抵抗なのだ。
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2012年05月16日

阿部ちゃんの裸最高!テルマエ・ロマエ

映画「テルマエ・ロマエ」を見る。もちろんここには「映画的」なものや「映画的なショット」は微塵もない・・・・・という書き出しを考えたところで、はて「映画的」とか「映画的ショット」ってなんじゃらほい?と考える。

「映画的」とか「映画的ショット」を400字詰め原稿用紙で論理的かつ明瞭に書いてみろといわれた場合、はたして書けるものだろうか・・・しばらく考えてみるが・・・・・か、書けない。

たとえば「映画的ショット」なるものを説明する時に「ジョン・フォードのカメラポジションの的確さ」とか、「イーストウッドのフレーミングの見事さ」とかいったりするわけだが、それでは何も説明していないに等しい。もっと大勢の人と分かち合える論理的な説明はできないものだろうか・・・・・これができないのである。

もちろん映画の撮影現場に従事している人たちは、このショットは、このフレーミングは、このポジションは最高だねとかいうことはわかりあえるのかもしれない。

しかし映画批評の場合、「映画的」とか「映画的ショット」とかいう物言いははっきりいって、「キチガイの言語」にしかすぎない。すなわちウィトゲンシュタインのいう「私的言語」にしかすぎないのだ。

私的言語というのはウィトゲンシュタインの造語ですが、簡単にいうとこういうことです。

・・・ここに一人の精神病患者(パラノイア)がいます。彼は普段からこう主張しています。「私の頭の中にはCIAが住んでいて、いつもCIAから指令を受けて活動しています!」彼にとっては日常的にCIAから監視され、指令を受けるのがまったくの現実なのです。しかし、彼の周囲の人たちにとって彼の発言はまったく意味のない妄想にしかすぎません。彼一人にとってはまごう事無き現実であっても、共通理解が得られなければ、それは「キチガイの言語」=私的言語にすぎないのです。

「映画的」とか「映画的ショット」という言語も同じことです。俺様シネフィル一人がわかっているだけで、共通理解がなければ、私的言語=精神病患者の言語と同じなのだ。

(決して蓮實重彦をdisっているわけではない)

そこでだ。もういいかげんに「映画」を「映画的」やら「映画的ショット」というくびきから解放しても良いのではないか。

「テルマエ・ロマエ」に戻ろう。ここには「映画的」なものや「映画的ショット」は微塵もない。だが、そんなわけのわからない私的言語よりもっとわかりやすい、共通理解を得られる素晴らしいものがあるではないか。

それが、それこそが阿部ちゃんの「裸」である。
テルマエ・ロマエ02.jpg
は・だ・か
テルマエ・ロマエ01.jpg
HA・DA・KAである。

これほど古今東西、老若男女が胸躍らされる共通理解があるだろうか!

映画を褒めるのに映画的とか、映画的ショットとかいうシネフィルは死んでしまえ。これからは映画を褒めるのに、キチガイの言語=私的言語は必要ない。

「テルマエ・ロマエ見た?阿部ちゃんの裸よくね?」

「いや〜阿部ちゃんの裸最高だったね」

「あの裸だけでご飯何杯でもいけるわ」

これが正しい映画ファンの会話だ!

(多少お酒が入ってます)
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2012年02月06日

黒沢清「贖罪」論

黒沢清ドラマ「贖罪」全五話を見て、一話から五話まですべて傑作という偉業を前にただ呆然とする。黒沢清すごい!とひれ伏すのみ・・・では芸がないので自分なりにこの黒沢清という世界トップクラスの映画監督にぶちあたって砕けてみたいと思います。

「贖罪」とは神学用語では罪をあがなうこと。罪をあがなえば救済されることを意味する。いうまでもなく我々人間の罪を自らの死をもってあがない、すべての人間に救済をもたらしたのがイエス・キリストである。

つまり贖罪とはただ「罪をあがなう」ことだけを意味するのではなく、神の恩恵=救済があってはじめて贖罪が成立する。

ではこの世界に神が存在しないとすればどうなるのか。それが黒沢清「贖罪」の根幹にある。

神が存在しない、神が死んだ世界では恩恵などどこにもない。はじめから救済などないのだ。救済などはじめからないにもかかわらず、何の罪もない少女たちに贖罪を迫る麻子(小泉今日子)とはいったい何者なのでしょうか。

「律法としての小泉今日子」

わたしは、かっては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。ーローマの信徒への手紙7・9


麻子は四人の少女たちの前で掟を命令する。何の罪もない無垢な少女たちに掟を命令するとはどういうことか。

律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。ーローマの信徒への手紙7・8


律法は何の罪もなかったところに「罪」を生じさせる。アダムに「汝この実を食うべからず」(創世記)と命じなければアダムは罪を知らずに無垢なままでいられたのだ。

律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては罪の自覚しか生じないのですーローマの信徒への手紙3・20


まったく何の罪もない少女たちの前にほとんど理不尽なまでの律法として屹立する小泉今日子。無垢な少女たちは麻子という律法を前にして罪の自覚を強制させられるのだ。しかしそれはいったい何の罪だというのだろうか。

ーもし私たちが禁止を遵奉し、これに服従しているならば、もはや私たちに禁止の意識はなくなる。しかし私たちは違反の瞬間、それがなければ禁止は存在しなくなるであろうような後ろめたさを感じるのだ。それが罪の体験である。ーバタイユ「エロティシズム」


禁止=律法に対する違反の感覚。それが神なき世界における罪の自覚である。つまり神なき世界の「罪」に内実やら実体とやらは存在しない。空っぽなのだ。

だが四人の少女たちにとってはそれで充分だ。身近な友達の死、その母親の命令=律法がそれに違反している私たちという罪の自覚を植えつける。空疎な罪の実体がまるで本当に罪であるかのような内実をともなって現前する。

律法による罪の自覚は呪いである。

そこに神の恩恵による救済がもたらされなければ罪の自覚は苦しみでしかないのだ。そしていうまでもなく黒沢清の世界に神など存在しない。神が存在しなければ恩恵による救済もまたもたらされることはない。救済のない贖罪は呪いである。それは終わりのない苦しみ。四人の少女たちは終わりのない呪いの中を生きるしかないのだ。

第一話「フランス人形」律法の呪いが直撃したせいで大人になることを拒絶した蒼井優。

第二話「PTA臨時総会」律法を忠実に守るために暴力も辞さない小池栄子。

第三話「くまの兄妹」律法を守ることと少女に愛する兄を奪われた嫉妬を混同してしまった安藤サクラ。

第四話「とつきとおか」妊娠を恩恵ととらえ、その恩恵を使って他者を従わせ、おのれが律法になろうとする池脇千鶴。(私自身の考えでは池脇はその傲慢さにより流産するほうがテーマ的には正しかったと見るがどうか)

いささか図式的に物語を見るとこうなるが、黒沢清の魅力はこうした図式的な物語性を超えるところにあるのはいうまでもない。いまからその物語性を超える黒沢清の映像表現について考えてみたい。

黒沢清作品の「不穏」は物語性から来るものではなく、映像表現から来る。黒沢清の「不穏」とはなにか。それは物語と情景描写を超える表現が画面上で展開されていることを意味する。

たとえばX軸が物語で、Y軸が情景描写だとしよう。物語が展開されていく中、情景描写は物語に沿うように、物語の説明と補完をしていく。相互に補完しあって比例していくわけだ。

だが黒沢清作品はそれで終わりではない。そこにZ軸なる、物語にも情景描写にも沿わない得体の知れない「不穏」なものが現出する。

物語によってコントロールされる世界とその表現にくわえてもう一つのもの、それらコントロールされた世界を根底から覆しかねない得体の知れない「何か」が姿を現すのだ。

なにものにもコントロールされえない、理性や論理によってもはかれない「何か」。黒沢清はその「何か」を映像に取り込む。

初めて黒沢監督とお会いしたときに、「人は理由がなくても、行動するんです」っておっしゃったんですね。ー中谷美紀(映画「LOFT」のインタビュー)


黒沢監督が「ここでこうしたいんですよね、でも理由がないんですけどね」それが楽しい。理由がないなんて楽しいじゃないですか。ー安藤サクラ(「贖罪」インタビュー)


このような俳優たちに対する演出でもわかるように黒沢清は「理由のないこと」、「理解できないこと」、「不可解なこと」を求めている。論理や理性によってはかれない何かを画面内に取り込もうとしているのだ。

それは物語によってコントロールされた映画のフレームの外にあるものを取り込むことでもある。映画の完璧にコントロールされたフレーム内にフレーム外にある「世界」が流入してくるということ。

ー世界には絶対理解できないものが存在する。
ー世界は自分が信じてきたものとは違うようだ。ー「黒沢清、21世紀の映画を語る」


黒沢清の世界に神は存在しない。その意味は恩恵をもたらすキリスト教的な神は存在しないという意味だ。黒沢清にとっての神とは不可解なもの、不穏なものとしてだけ世界に流入してくる何かだ。その神は私たちには理解できず、私たちに理解できるようには関わらず、私たちに理解できるような意図など持たない存在としての神。それはまさに恩恵による救済をもたらすことのない神としての「世界」にほかならない。

「お前は映画で何を描いているんだ?」と聞かれたとき、言葉に困ってつい「世界」と答えてしまうことが多いようです。ー「黒沢清、21世紀の映画を語る」


私たちの前に理解不能な絶対他者として屹立するもの。それが黒沢清の「世界」にほかならない。

第五話「償い」救済のない贖罪は呪いである。小泉今日子は少しでも自分の呪いが軽減されるように自らかけた呪いを周りにまき散らす。だがもちろんそこに救済をもたらすものがいない以上呪いから逃れることはできない。恩恵をもたらさない絶対他者としての「世界」が霧のようにフレーム内に侵入し世界はその輪郭を失う。
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2012年01月17日

ことばが受肉する・園子温「ヒミズ」

最初はこの映画「ヒミズ」にのれなかった。いや、最初どころか最後の直前までのれなかった。ここに描かれている苦悩が絵空事にしか思えなくて。もちろん親に虐待されている子供たちは世界中にごまんといるのだから、それ自体は絵空事ではないにしろ、少なくともこの映画に描かれていることは嘘だとしか感じられなかった。

そうした嘘くささは、人生は灰色一色に染められているという思い込みからくる傲慢からきていると思う。実際の人生は明るい色もあれば暗い色もあるようにまだらのように様々な色がグラデーションとなっている。人生は灰色一色に塗り込められていると考える人は、自分とその周りにしか世界がないと思いこんでいるモノローグ的生を送っている人だ。(モノローグ的生については「スピノザ・園子温論」を参照

モノローグ的生を生きる人にとって関心があるのは自分だけでしかない。だから震災や津波、原発被害も自分のモノローグ的苦悩を際立たせる道具でしかない。津波被害をきっかけにモノローグ的苦悩から脱却しようというのではなく、ますます自分という牢獄に引きこもるだけ。津波も原発も外の世界にある苦悩でしかない。

園子温はそのフィルモグラフィで散々モノローグ的生を描いてきた。おそらく園子温にとって独立した「個人」であること、「個的」であることがなによりも重要で大切なことなのだろう。自由で独立した個人にとっての敵は社会であり、共同体であり、家族なのだ。

自由で独立した個人を抑圧するのは家族であり=「紀子の食卓」。社会であり=「恋の罪」。カルト的な共同体である=「愛のむきだし」

園子温映画では社会も共同体も家族も、公認され慣習化したカルトでしかない。

自由で独立した個人は「私」を抑圧し共同体に組み込もうとする他者たちを一切拒絶する。神々しいまでの「個」、はなばなしくも枯れ果てるしかない「個」。

世界や他者のすべては、このはなばなしく枯れ果てるしかない個人の苦悩を引き立てる道具としてしか存在を許されない・・・それってむなしくないか。

・・・そう思っていたその時だった。私の心が映画から離れかけていた終盤、それが起こった。

二階堂ふみ演じる茶沢が、映画の前半、教師が授業で話した空々しく薄っぺらな言葉とまったく同じ言葉を繰り返す。「世界に一つだけの花」「がんばれ」おそらくほとんどの人がその薄っぺらさに寒気がするであろう形骸化した言葉が、信じられないことに生きたことばとなるのだ。

言葉が、あの言葉でしかない言葉が「受肉」する瞬間を私たちは目撃する。

完全に死んだと思われていたことばが生き生きとした生命をまとって姿を現す衝撃。ことばが「受肉」したというのは誇張でも比喩でもない。

ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。ーヨハネによる福音書1・14


今ならこのことばの意味がはっきりとわかる。ロゴス(ことば、知恵)が受肉して人の姿となってあらわれたのがかのイエス・キリストである。イエスは常に貧しく虐げられた人々の側に立ち、彼らと対話をかわすものだ。ことばが受肉するとは形骸化した言葉=モノローグが、生けることば=ダイアローグとなって人に届くことをいうのだ。

(そういう意味でもラスト直前の住田と茶沢が自分たちの幸福な将来を想像する感動的なシーンの後二人は愛し合わなければならなかったと思う。つまり住田はタイムマシンでもなんでもいいからあの場面に戻って茶沢を、二階堂ふみを抱け!と。あそこで抱かなきゃ自分の苦悩をえさにマスターベーション(=モノローグ)してるだけじゃねぇか。SEXこそダイアローグ的生の始まりだ。今すぐ抱け、リテイクしてでも抱け!)

この作品では空疎なモノローグ的生が受肉されダイアローグ的生へと転換するその端緒を見せてもらった。いわば園子温の過渡期的作品ととらえている。次回作に期待してやまない。

あとは・・・二階堂ふみを愛す、心から二階堂ふみを愛す。あんな娘がいれば男の子は自殺せずにすむんだよ。
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2011年11月04日

正義はすべてに先行する「電人ザボーガー」

映画「電人ザボーガー」を見た。

子供の頃テレビで「電人ザボーガー」を見た記憶はうっすら残っている。しかしどういう話だったのかは、まったくおぼえていないので、ザボーガーをはじめて見る人と同じ感覚で見た。つまりノスタルジーのまったくない状態で見た。だからこの文章に思い出補正は一切かかっていません。なにが言いたいのかというと、思い出補正がかかっていなくてもこの映画は傑作だといいたいのです。

この映画はおもちゃを手にした子供が部屋を散らかすように、楽しいお遊びや、脱線であふれている。井口昇監督やスタッフの楽しげな顔が浮かんでくるようだ。

だが、この作品は三池版「ヤッターマン」のような背骨が抜けた、ふぬけた映画とは根本的に違う。

この映画はいい年した大人たちのノスタルジー込みのお遊び映画のような見せかけとは違い、作品自体をぶっとい芯がつらぬいている。井口昇監督の明確な狙いのある脚本というしっかりした背骨が通っているため、ずっしりとした見応えのある作品になっているのだ。

第一部青年篇の終わりがどんなものだったか思い出してほしい。大門豊は最後苦渋の決断を迫られる。愛するミスボーグ(山崎真美好演!)の側に立つのか、それとも腐敗した人間たちの側に立つのか。

最愛のミスボーグは人類を滅ぼそうとしている、かたや相棒ザボーガーは腐敗した人間たちを守ろうとしている・・・苦悩する大門は決断を下せずミスボーグとザボーガー両方を見殺しにしてしまう。愛も正義もつらぬきとおせなかった男はそのどちらも失うのだ。

すべてを失った大門豊の25年後・・・第二部熟年篇では愛も正義も決断できなかった大門に復讐しにやってくるのは、大門とミスボーグの間にできた実の息子と娘である。25年前、愛を選ばなかった男は愛の結晶ともいうべき自分の子供達と戦うことを強いられるのだ。それが決断できなかった男への罰だといわんばかりに。

愛する娘が巨大ロボとなり人々を虐殺していく。それは大門豊を25年前と同じ状況に立たせる。愛するものを選ぶのか、正義を選ぶのか・・・。大門は25年前できなかった決断をする。

「愛するがゆえにおまえを破壊する!」


俺はここで泣いたよ・・・血は水よりも濃く、愛は何よりも尊い。されど「正義」のために、血を、愛を断ち切ることを決断する大門豊のかわりに泣いたんだ。

これが愛も正義もつらぬけずに、人として死んだ男が25年後に出した答えなのだ。これが泣かずにいられようか。

ラストシーンの大門豊の選択も象徴的だ。大門は愛する子供たちと一緒に暮らそうなどとはみじんも考えない。血より、愛より、正義を選んだ男のすがすがしい別れ。

むろん「正義」はあやふやな概念であり、現代は「正義」が濫用される危険な時代だという懸念もあるだろう。だが、正義というのは

決定不可能なもののみが私に決定すべきものを与えるのであり、そのような決定のみが「正義」なのである。ここでは不可能な決定に身を投ずるというある種の「跳躍=飛躍」が不可避なのであり、「正義」と呼びうる唯一のものは単独の状況における単独の行為だけなのだー「デリダ-なぜ「脱‐構築」は正義なのか」斉藤慶典


上記の「単独の状況における単独の行為」の「跳躍」、すなわち「正義」についての具体的な例をジョン・D・カプートは「デリダとの対話」であげている。1955年アメリカアラバマ州、白人にバスの座席を譲ることを拒否したローザ・パークスのことである。当時はバスの席は白人の席、黒人の席と法律で決められていた。彼女はそれを破ったのだ。法律だけ見ればローザは犯罪者である。だが彼女のその行為は圧倒的に「正義」だ。今そのことを疑うものがいるだろうか。つまり・・・

正義は法に先行する。

正義は法に、規則に、慣習に、文化に、伝統に先行する。映画「電人ザボーガー」に即して言えば、正義は愛や血族といった制度や慣習にも先行し、それを超越する。

この世で何よりも尊いとされる「血のつながり」や「愛」を断ち切るという不可能な決定。血よりも、愛よりも、大事な価値があるということ。すべてをうち捨てても、そこに身を投じるということ。そこには確かに「正義」としか呼びようのない崇高なものがある。

映画「電人ザボーガー」は圧倒的に正義である。それは決断の正義をあますところなく描いているからだ。単独者の単独の行為における「決断のみが正義にかなっている」(J・デリダ「法の力」)
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2011年09月29日

神なき世界の恐怖は続く「ゴーストライター」

映画「ゴーストライター」を見た。いきなりだがラストシーンの話からしてもいいだろうか。原稿の紙が宙を舞うラストシーンを見て、映画ファンなら記憶を刺激されたのではないだろうか。

キューブリックの「現金に体を張れ」、アンリ・ヴェルヌイユ「地下室のメロディ」などなど。いずれの作品もラスト、紙幣が散らばり、虚空を舞う(地下室のメロディは水の中だが)。それは悪事の露見、すべての企みが水泡に帰す瞬間。

両作品の一見似通ったラストシーンだが、意味は大きく違う。「現金に体を張れ」、「地下室のメロディ」がしょせん人間の浅知恵では完璧な計画など立てようもないといった人間の傲慢さをあざ笑うような意味合いがあるのに対し、「ゴーストライター」ではこの世を完全に支配する人の悪事は永遠に終わりがないことを示唆する。映像的には似たようなラストシーンでありながら、意味は真逆なのだ。

このラストシーンの違いは小さな問題ではない。前者と後者の作品の間には重要な思想の、観念の決定的な違いがある。

「現金に体を張れ」、「地下室のメロディ」、あるいはジャン=ピエール・メルヴィル監督のほとんどすべての作品に貫かれたある観念とはーどんなに完璧な計画を立てようと、計画したのが人間である以上かならずほころびが出る。人間という動物の知性と理性の限界があらわになる。ーいわば超越的な視点から人間の愚かさを断罪している。

それに対し「ゴーストライター」ではこの世界を完全にコントロールする人間の組織が描かれる。この世の出来事すべてを裏側からあやつる悪の組織。これを単細胞政治バカ、陰謀論者はポランスキーが国際政治の実態を描いてくれた、などと馬鹿げた勘違いをするだろうが(ゴーストライター公式サイトのジャーナリストたちのコメントを見よ)、これらはすべて政治バカを引っかける疑似餌にすぎない。ゴーストライターで描かれることの背景にあるのは、人間の知性や能力に限界はなく、この世界をすべてコントロールできるといった観念に基づいている。

キューブリックやJ=P・メルヴィルは人間の限界、知性の限界を、愚かな人間をあざ笑うかのような超越的視点で描く。その超越的視点こそ人間を断罪する人知の及ばないものー神の存在に他ならない。

人間は天まで届くバベルの塔を建てようとして、神の怒りをかい、お互いの話す言葉を変えられた。知性や知識に絶対の自信を持った人間の傲慢さに神は罰を下したのだ。人知に対する絶対の確信はかならずほころびをみせ崩壊する。人間の傲慢さに対する神からの断罪。

先に書いたように、「ゴーストライター」でのアメリカやCIAといったフックは陰謀論者が大好物の疑似餌でしかない。「ゴーストライター」におけるCIAはいわば、すべての現象の背後にいて、この世の出来事を裏側からあやつる全知全能の存在のメタファーなのだ。

つまり「ゴーストライター」の世界では、アメリカ、CIAが神の肩代わりをしてこの世界を支配するということ。それはこの世界の神の不在を示す。

人間の知性の限界は世界に神を要請し、人間の知性の万能を認める立場は世界から神を排除する。それが両者の作品を分ける決定的な違いといえる。

キューブリック、メルヴィルは人知の限界を描き、超越的視点によって人間を断罪する。だがポランスキーの世界に、もはや人間を断罪するものは存在しない。傲慢な人間に罰をくだす神はどこにもいないのだ。

そこに神がいない以上、悪事は露見せず、断罪もされない。「ゴーストライター」は神なき世界の終わりなき恐怖を描いているのだ。


追記・確かキューブリックとメルヴィルは無神論者だったような。・・・まぁ強弁するなら、“あえて”自分は無神論者と言うことは、自分が強い宗教的文化、生活、社会の影響下にいるということの宣言に他ならない・・・ということで。
posted by シンジ at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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