格闘技や喧嘩は体のでかい奴が圧倒的に有利だ。敵役であるちっこいおじさん(マッドドッグ役のヤヤン・ルヒアン。以降親愛を込めて、ちっこいおじさん)はその体の小ささ、体重の軽さから戦う相手に抱えられてヒョイヒョイ投げられる。観る方としてはそのたびにヒヤッとしてしまう・・・ってこれどう考えても逆ですよね。正義のヒーロー側に感情移入して見なければいけないはずなのに、この敵役のちっこいおじさんの一挙手一投足にハラハラして見入ってしまう。
このちっこいおじさんが体格の圧倒的なハンデをどう克服して戦うのか。そのことに注視してしまって、自然にちっこいおじさんの側に立って映画を見てしまうのだ。これはあきらかに映画の意図せざるところだろう。
映画の意図としては圧倒的に強い敵にどうヒーローが立ち向かうかを見て欲しいわけだし、主人公の立場に立って客も一緒にハラハラドキドキしてほしいはずだ。ところが観客は(少なくとも私は)ちっこいおっさん中心に見てしまう。
格闘技において決定的なハンデをもつこの愛くるしい顔をした、貧弱な肉体の持ち主であるおっさんが、このハンサムで可愛い妻を持つヒーロー(糞)にどうやって立ち向かうのか・・・
頑張れ・・・敵役だけど、多分最後に負けるだろうけど、頑張れ・・・とソワソワして見守っていたら、まぁ見事に体の小ささというハンデもものともせずに戦うわけです。それもその強さに説得力がある!
最初はどう見ても強そうに見えないし、勝ち目のなさそうな感じで始まります。ハンサムな警察の隊長にボンボン投げられたりして、ああこれはだめだ、こんなに体が小さくて勝てるわけないと思うんですが、その華麗で豊富な足技で徐々に相手を圧倒していくんです。興奮しましたね〜。
この最初は負けそうだけど最終的には逆転勝ちをおさめる姿ってどう見ても少年漫画の主人公タイプなわけです。警察側の戦い方とちっこいおじさんの戦い方では断然おじさん側のほうがヒロイックなんですよ。それからは完全にちっこいおじさん視点で映画を見るようになりましたね。またおじさんがいちいちかっこいいんですわ。自分の有利な立場をわざと不利にしてから戦う姿を見ても、多分監督のギャレス・エヴァンスは武士道とか騎士道精神をこのちっこいおじさんに担わせている。
特にクライマックスの2対1の局面なんて、ハンサムな二人を相手に貧相なちっこいおじさんが大立ち回りをするんですけど、これあきらかに演出意図としては失敗してると思うんです。だってどう考えても二人で戦うハンサムが卑怯で、一人で戦うおっさんがかっこよすぎて敵役であるはずのおっさんに感情移入してしまうようになってる。
この場面でちっこいおっさんを応援してた観客は私だけじゃないはず。監督もこのちっこいおっさんがあまりにも魅力的なので、敵役はヒーローを引き立てなきゃいけないという原則を忘れているようにしか思えない。
じゃあ、この映画「ザ・レイド」は失敗してるのかというとそうじゃない。映画の演出の意図を超えて主張しだすキャラクターがいるということ。演出の意図をはみ出しても魅力があふれ出すというのは凄いことだと思うからです。
たとえば、小説や漫画ではよくそういうことー作中のキャラが作者の手を離れて勝手に動き出すことーが起こるといいます。池波正太郎は「鬼平犯科帳」連載中、作中の人気キャラである伊三次を死なすつもりがなかったのに、書いているうちに死んでしまって呆然としたというようなことを言っています。
私だって、彼らを死なせたくなかったのだ。いつまでも生きていて、「鬼平」の連載を助けてもらいたかった。
ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい。ペンでつくりあげた人間が、ほんとうに生命をもってしまうとしか、おもわれないときがある。−池波正太郎「日曜日の万年筆」
作者が意図しないのに自分の作り出したはずのキャラが勝手に動き始めるというのは作家や漫画家にはよくある現象のようです。これはどういうことかというと、自己という主体は「私」というひとつのものに統一されているようにみえるが、実は様々な他者が反映してできている。「私」は世界でただ一つのオリジナルな「私」ではなく、ありとあらゆる無数の他者が介在して織りあわされたものが「話す」こと(発話行為)によって「私」というものに統一されたようにみえるにすぎない。「わたしとはわたしというものに他ならない」(ロラン・バルト)。そういう風に考えれば、作家や漫画家の描いたキャラが作者の意図を離れて勝手に動き出すという現象は説明がつきます。「私」の中の「他者」が動いているのです。
しかしそれは映画においても当てはまるものでしょうか。映画は小説や漫画とは比べものにならないほど莫大な予算がかかり、大勢の人々が関わり、ありとあらゆる人のチェックにさらされます。そこでは映画の意図にはずれてるようなこと、論理的でないもの、整合性のあわないもの、夾雑物は興行的観点から徹底的に排除されます。キャラが映画の意図をはずれて勝手に動き出すことなどありうるはずのないことなのです。
・・・・しかし映画「ザ・レイド」ではちっこいおっさんが勝手に動き始めてしまう。製作者や、映画作家が意図したことを超えて動き始めるもの。それは観客である「私」の中の他者が動かしたのではないか。ただ映画から一方的に情報を受け取るだけ、演出の意図どおりのものを消費するだけではなく、映画が意図せざるものをそこに見いだし、生み育ててしまう見方。映画の亀裂、映画のほころびに「私」の中の何かがざわめきはじめ、映画を根底から作り変えてしまうということ。
例えばちっこいおっさんはインドネシアの最底辺の貧困地区の出身者であろう。そんな最底辺の土地で体が小さいということが何を意味するか。子供というのはむき出しの残酷さを持つ生き物だ。おそらくおっさんは子供の頃散々いじめられたであろう。毎日毎日屈辱と恥辱と直接的な暴力を日常的に受けてきたに違いない。むき出しのエゴがぶつかりあう最底辺の社会では体が小さいというだけで抑圧の対象になるのだ。弱いものがさらに弱いものを叩く、貧困地域によく見られる構図だ。だが、ある日いじめられていた少年時代のおっさんは得体の知れないみすぼらしい爺さんがチンピラを見たこともない体術でやっつけるのを目撃する。ちっこいおっさんは爺さんにその体術を教えてくれとせがむ。その体術は「シラット」。少年時代のおっさんはその格闘技を瞬く間に会得してしまう。恥辱と屈辱と汚辱にまみれた人生が一変する。いままで自分を馬鹿にしてきた連中をシラットという暴力で屈服させてしまうのだ。「もう誰も俺をいじめたり馬鹿にするやつはいない」暴力さえあれば、この底辺から這い上がることが出来る。そして幾年月、ちっこいおっさんは幸福な日々を満喫していた。だがそんな幸せな日々も長くは続くない。国家権力という暴力がちっこいおっさんの幸福な日々をぶち壊しに来るのだ。ちっこいおっさんは立ち上がる。もう二度と誰かにいじめられたり、屈服させられたり、恥辱を耐え忍んだりしない。俺の人生は俺自身の手で掴み取る!
これがちっこいおっさん主演、もうひとつの「ザ・レイド」