2012年02月06日

黒沢清「贖罪」論

黒沢清ドラマ「贖罪」全五話を見て、一話から五話まですべて傑作という偉業を前にただ呆然とする。黒沢清すごい!とひれ伏すのみ・・・では芸がないので自分なりにこの黒沢清という世界トップクラスの映画監督にぶちあたって砕けてみたいと思います。

「贖罪」とは神学用語では罪をあがなうこと。罪をあがなえば救済されることを意味する。いうまでもなく我々人間の罪を自らの死をもってあがない、すべての人間に救済をもたらしたのがイエス・キリストである。

つまり贖罪とはただ「罪をあがなう」ことだけを意味するのではなく、神の恩恵=救済があってはじめて贖罪が成立する。

ではこの世界に神が存在しないとすればどうなるのか。それが黒沢清「贖罪」の根幹にある。

神が存在しない、神が死んだ世界では恩恵などどこにもない。はじめから救済などないのだ。救済などはじめからないにもかかわらず、何の罪もない少女たちに贖罪を迫る麻子(小泉今日子)とはいったい何者なのでしょうか。

「律法としての小泉今日子」

わたしは、かっては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。ーローマの信徒への手紙7・9


麻子は四人の少女たちの前で掟を命令する。何の罪もない無垢な少女たちに掟を命令するとはどういうことか。

律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。ーローマの信徒への手紙7・8


律法は何の罪もなかったところに「罪」を生じさせる。アダムに「汝この実を食うべからず」(創世記)と命じなければアダムは罪を知らずに無垢なままでいられたのだ。

律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては罪の自覚しか生じないのですーローマの信徒への手紙3・20


まったく何の罪もない少女たちの前にほとんど理不尽なまでの律法として屹立する小泉今日子。無垢な少女たちは麻子という律法を前にして罪の自覚を強制させられるのだ。しかしそれはいったい何の罪だというのだろうか。

ーもし私たちが禁止を遵奉し、これに服従しているならば、もはや私たちに禁止の意識はなくなる。しかし私たちは違反の瞬間、それがなければ禁止は存在しなくなるであろうような後ろめたさを感じるのだ。それが罪の体験である。ーバタイユ「エロティシズム」


禁止=律法に対する違反の感覚。それが神なき世界における罪の自覚である。つまり神なき世界の「罪」に内実やら実体とやらは存在しない。空っぽなのだ。

だが四人の少女たちにとってはそれで充分だ。身近な友達の死、その母親の命令=律法がそれに違反している私たちという罪の自覚を植えつける。空疎な罪の実体がまるで本当に罪であるかのような内実をともなって現前する。

律法による罪の自覚は呪いである。

そこに神の恩恵による救済がもたらされなければ罪の自覚は苦しみでしかないのだ。そしていうまでもなく黒沢清の世界に神など存在しない。神が存在しなければ恩恵による救済もまたもたらされることはない。救済のない贖罪は呪いである。それは終わりのない苦しみ。四人の少女たちは終わりのない呪いの中を生きるしかないのだ。

第一話「フランス人形」律法の呪いが直撃したせいで大人になることを拒絶した蒼井優。

第二話「PTA臨時総会」律法を忠実に守るために暴力も辞さない小池栄子。

第三話「くまの兄妹」律法を守ることと少女に愛する兄を奪われた嫉妬を混同してしまった安藤サクラ。

第四話「とつきとおか」妊娠を恩恵ととらえ、その恩恵を使って他者を従わせ、おのれが律法になろうとする池脇千鶴。(私自身の考えでは池脇はその傲慢さにより流産するほうがテーマ的には正しかったと見るがどうか)

いささか図式的に物語を見るとこうなるが、黒沢清の魅力はこうした図式的な物語性を超えるところにあるのはいうまでもない。いまからその物語性を超える黒沢清の映像表現について考えてみたい。

黒沢清作品の「不穏」は物語性から来るものではなく、映像表現から来る。黒沢清の「不穏」とはなにか。それは物語と情景描写を超える表現が画面上で展開されていることを意味する。

たとえばX軸が物語で、Y軸が情景描写だとしよう。物語が展開されていく中、情景描写は物語に沿うように、物語の説明と補完をしていく。相互に補完しあって比例していくわけだ。

だが黒沢清作品はそれで終わりではない。そこにZ軸なる、物語にも情景描写にも沿わない得体の知れない「不穏」なものが現出する。

物語によってコントロールされる世界とその表現にくわえてもう一つのもの、それらコントロールされた世界を根底から覆しかねない得体の知れない「何か」が姿を現すのだ。

なにものにもコントロールされえない、理性や論理によってもはかれない「何か」。黒沢清はその「何か」を映像に取り込む。

初めて黒沢監督とお会いしたときに、「人は理由がなくても、行動するんです」っておっしゃったんですね。ー中谷美紀(映画「LOFT」のインタビュー)


黒沢監督が「ここでこうしたいんですよね、でも理由がないんですけどね」それが楽しい。理由がないなんて楽しいじゃないですか。ー安藤サクラ(「贖罪」インタビュー)


このような俳優たちに対する演出でもわかるように黒沢清は「理由のないこと」、「理解できないこと」、「不可解なこと」を求めている。論理や理性によってはかれない何かを画面内に取り込もうとしているのだ。

それは物語によってコントロールされた映画のフレームの外にあるものを取り込むことでもある。映画の完璧にコントロールされたフレーム内にフレーム外にある「世界」が流入してくるということ。

ー世界には絶対理解できないものが存在する。
ー世界は自分が信じてきたものとは違うようだ。ー「黒沢清、21世紀の映画を語る」


黒沢清の世界に神は存在しない。その意味は恩恵をもたらすキリスト教的な神は存在しないという意味だ。黒沢清にとっての神とは不可解なもの、不穏なものとしてだけ世界に流入してくる何かだ。その神は私たちには理解できず、私たちに理解できるようには関わらず、私たちに理解できるような意図など持たない存在としての神。それはまさに恩恵による救済をもたらすことのない神としての「世界」にほかならない。

「お前は映画で何を描いているんだ?」と聞かれたとき、言葉に困ってつい「世界」と答えてしまうことが多いようです。ー「黒沢清、21世紀の映画を語る」


私たちの前に理解不能な絶対他者として屹立するもの。それが黒沢清の「世界」にほかならない。

第五話「償い」救済のない贖罪は呪いである。小泉今日子は少しでも自分の呪いが軽減されるように自らかけた呪いを周りにまき散らす。だがもちろんそこに救済をもたらすものがいない以上呪いから逃れることはできない。恩恵をもたらさない絶対他者としての「世界」が霧のようにフレーム内に侵入し世界はその輪郭を失う。
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2012年01月17日

ことばが受肉する・園子温「ヒミズ」

最初はこの映画「ヒミズ」にのれなかった。いや、最初どころか最後の直前までのれなかった。ここに描かれている苦悩が絵空事にしか思えなくて。もちろん親に虐待されている子供たちは世界中にごまんといるのだから、それ自体は絵空事ではないにしろ、少なくともこの映画に描かれていることは嘘だとしか感じられなかった。

そうした嘘くささは、人生は灰色一色に染められているという思い込みからくる傲慢からきていると思う。実際の人生は明るい色もあれば暗い色もあるようにまだらのように様々な色がグラデーションとなっている。人生は灰色一色に塗り込められていると考える人は、自分とその周りにしか世界がないと思いこんでいるモノローグ的生を送っている人だ。(モノローグ的生については「スピノザ・園子温論」を参照

モノローグ的生を生きる人にとって関心があるのは自分だけでしかない。だから震災や津波、原発被害も自分のモノローグ的苦悩を際立たせる道具でしかない。津波被害をきっかけにモノローグ的苦悩から脱却しようというのではなく、ますます自分という牢獄に引きこもるだけ。津波も原発も外の世界にある苦悩でしかない。

園子温はそのフィルモグラフィで散々モノローグ的生を描いてきた。おそらく園子温にとって独立した「個人」であること、「個的」であることがなによりも重要で大切なことなのだろう。自由で独立した個人にとっての敵は社会であり、共同体であり、家族なのだ。

自由で独立した個人を抑圧するのは家族であり=「紀子の食卓」。社会であり=「恋の罪」。カルト的な共同体である=「愛のむきだし」

園子温映画では社会も共同体も家族も、公認され慣習化したカルトでしかない。

自由で独立した個人は「私」を抑圧し共同体に組み込もうとする他者たちを一切拒絶する。神々しいまでの「個」、はなばなしくも枯れ果てるしかない「個」。

世界や他者のすべては、このはなばなしく枯れ果てるしかない個人の苦悩を引き立てる道具としてしか存在を許されない・・・それってむなしくないか。

・・・そう思っていたその時だった。私の心が映画から離れかけていた終盤、それが起こった。

二階堂ふみ演じる茶沢が、映画の前半、教師が授業で話した空々しく薄っぺらな言葉とまったく同じ言葉を繰り返す。「世界に一つだけの花」「がんばれ」おそらくほとんどの人がその薄っぺらさに寒気がするであろう形骸化した言葉が、信じられないことに生きたことばとなるのだ。

言葉が、あの言葉でしかない言葉が「受肉」する瞬間を私たちは目撃する。

完全に死んだと思われていたことばが生き生きとした生命をまとって姿を現す衝撃。ことばが「受肉」したというのは誇張でも比喩でもない。

ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。ーヨハネによる福音書1・14


今ならこのことばの意味がはっきりとわかる。ロゴス(ことば、知恵)が受肉して人の姿となってあらわれたのがかのイエス・キリストである。イエスは常に貧しく虐げられた人々の側に立ち、彼らと対話をかわすものだ。ことばが受肉するとは形骸化した言葉=モノローグが、生けることば=ダイアローグとなって人に届くことをいうのだ。

(そういう意味でもラスト直前の住田と茶沢が自分たちの幸福な将来を想像する感動的なシーンの後二人は愛し合わなければならなかったと思う。つまり住田はタイムマシンでもなんでもいいからあの場面に戻って茶沢を、二階堂ふみを抱け!と。あそこで抱かなきゃ自分の苦悩をえさにマスターベーション(=モノローグ)してるだけじゃねぇか。SEXこそダイアローグ的生の始まりだ。今すぐ抱け、リテイクしてでも抱け!)

この作品では空疎なモノローグ的生が受肉されダイアローグ的生へと転換するその端緒を見せてもらった。いわば園子温の過渡期的作品ととらえている。次回作に期待してやまない。

あとは・・・二階堂ふみを愛す、心から二階堂ふみを愛す。あんな娘がいれば男の子は自殺せずにすむんだよ。
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2011年11月04日

正義はすべてに先行する「電人ザボーガー」

映画「電人ザボーガー」を見た。

子供の頃テレビで「電人ザボーガー」を見た記憶はうっすら残っている。しかしどういう話だったのかは、まったくおぼえていないので、ザボーガーをはじめて見る人と同じ感覚で見た。つまりノスタルジーのまったくない状態で見た。だからこの文章に思い出補正は一切かかっていません。なにが言いたいのかというと、思い出補正がかかっていなくてもこの映画は傑作だといいたいのです。

この映画はおもちゃを手にした子供が部屋を散らかすように、楽しいお遊びや、脱線であふれている。井口昇監督やスタッフの楽しげな顔が浮かんでくるようだ。

だが、この作品は三池版「ヤッターマン」のような背骨が抜けた、ふぬけた映画とは根本的に違う。

この映画はいい年した大人たちのノスタルジー込みのお遊び映画のような見せかけとは違い、作品自体をぶっとい芯がつらぬいている。井口昇監督の明確な狙いのある脚本というしっかりした背骨が通っているため、ずっしりとした見応えのある作品になっているのだ。

第一部青年篇の終わりがどんなものだったか思い出してほしい。大門豊は最後苦渋の決断を迫られる。愛するミスボーグ(山崎真美好演!)の側に立つのか、それとも腐敗した人間たちの側に立つのか。

最愛のミスボーグは人類を滅ぼそうとしている、かたや相棒ザボーガーは腐敗した人間たちを守ろうとしている・・・苦悩する大門は決断を下せずミスボーグとザボーガー両方を見殺しにしてしまう。愛も正義もつらぬきとおせなかった男はそのどちらも失うのだ。

すべてを失った大門豊の25年後・・・第二部熟年篇では愛も正義も決断できなかった大門に復讐しにやってくるのは、大門とミスボーグの間にできた実の息子と娘である。25年前、愛を選ばなかった男は愛の結晶ともいうべき自分の子供達と戦うことを強いられるのだ。それが決断できなかった男への罰だといわんばかりに。

愛する娘が巨大ロボとなり人々を虐殺していく。それは大門豊を25年前と同じ状況に立たせる。愛するものを選ぶのか、正義を選ぶのか・・・。大門は25年前できなかった決断をする。

「愛するがゆえにおまえを破壊する!」


俺はここで泣いたよ・・・血は水よりも濃く、愛は何よりも尊い。されど「正義」のために、血を、愛を断ち切ることを決断する大門豊のかわりに泣いたんだ。

これが愛も正義もつらぬけずに、人として死んだ男が25年後に出した答えなのだ。これが泣かずにいられようか。

ラストシーンの大門豊の選択も象徴的だ。大門は愛する子供たちと一緒に暮らそうなどとはみじんも考えない。血より、愛より、正義を選んだ男のすがすがしい別れ。

むろん「正義」はあやふやな概念であり、現代は「正義」が濫用される危険な時代だという懸念もあるだろう。だが、正義というのは

決定不可能なもののみが私に決定すべきものを与えるのであり、そのような決定のみが「正義」なのである。ここでは不可能な決定に身を投ずるというある種の「跳躍=飛躍」が不可避なのであり、「正義」と呼びうる唯一のものは単独の状況における単独の行為だけなのだー「デリダ-なぜ「脱‐構築」は正義なのか」斉藤慶典


上記の「単独の状況における単独の行為」の「跳躍」、すなわち「正義」についての具体的な例をジョン・D・カプートは「デリダとの対話」であげている。1955年アメリカアラバマ州、白人にバスの座席を譲ることを拒否したローザ・パークスのことである。当時はバスの席は白人の席、黒人の席と法律で決められていた。彼女はそれを破ったのだ。法律だけ見ればローザは犯罪者である。だが彼女のその行為は圧倒的に「正義」だ。今そのことを疑うものがいるだろうか。つまり・・・

正義は法に先行する。

正義は法に、規則に、慣習に、文化に、伝統に先行する。映画「電人ザボーガー」に即して言えば、正義は愛や血族といった制度や慣習にも先行し、それを超越する。

この世で何よりも尊いとされる「血のつながり」や「愛」を断ち切るという不可能な決定。血よりも、愛よりも、大事な価値があるということ。すべてをうち捨てても、そこに身を投じるということ。そこには確かに「正義」としか呼びようのない崇高なものがある。

映画「電人ザボーガー」は圧倒的に正義である。それは決断の正義をあますところなく描いているからだ。単独者の単独の行為における「決断のみが正義にかなっている」(J・デリダ「法の力」)
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2011年09月29日

神なき世界の恐怖は続く「ゴーストライター」

映画「ゴーストライター」を見た。いきなりだがラストシーンの話からしてもいいだろうか。原稿の紙が宙を舞うラストシーンを見て、映画ファンなら記憶を刺激されたのではないだろうか。

キューブリックの「現金に体を張れ」、アンリ・ヴェルヌイユ「地下室のメロディ」などなど。いずれの作品もラスト、紙幣が散らばり、虚空を舞う(地下室のメロディは水の中だが)。それは悪事の露見、すべての企みが水泡に帰す瞬間。

両作品の一見似通ったラストシーンだが、意味は大きく違う。「現金に体を張れ」、「地下室のメロディ」がしょせん人間の浅知恵では完璧な計画など立てようもないといった人間の傲慢さをあざ笑うような意味合いがあるのに対し、「ゴーストライター」ではこの世を完全に支配する人の悪事は永遠に終わりがないことを示唆する。映像的には似たようなラストシーンでありながら、意味は真逆なのだ。

このラストシーンの違いは小さな問題ではない。前者と後者の作品の間には重要な思想の、観念の決定的な違いがある。

「現金に体を張れ」、「地下室のメロディ」、あるいはジャン=ピエール・メルヴィル監督のほとんどすべての作品に貫かれたある観念とはーどんなに完璧な計画を立てようと、計画したのが人間である以上かならずほころびが出る。人間という動物の知性と理性の限界があらわになる。ーいわば超越的な視点から人間の愚かさを断罪している。

それに対し「ゴーストライター」ではこの世界を完全にコントロールする人間の組織が描かれる。この世の出来事すべてを裏側からあやつる悪の組織。これを単細胞政治バカ、陰謀論者はポランスキーが国際政治の実態を描いてくれた、などと馬鹿げた勘違いをするだろうが(ゴーストライター公式サイトのジャーナリストたちのコメントを見よ)、これらはすべて政治バカを引っかける疑似餌にすぎない。ゴーストライターで描かれることの背景にあるのは、人間の知性や能力に限界はなく、この世界をすべてコントロールできるといった観念に基づいている。

キューブリックやJ=P・メルヴィルは人間の限界、知性の限界を、愚かな人間をあざ笑うかのような超越的視点で描く。その超越的視点こそ人間を断罪する人知の及ばないものー神の存在に他ならない。

人間は天まで届くバベルの塔を建てようとして、神の怒りをかい、お互いの話す言葉を変えられた。知性や知識に絶対の自信を持った人間の傲慢さに神は罰を下したのだ。人知に対する絶対の確信はかならずほころびをみせ崩壊する。人間の傲慢さに対する神からの断罪。

先に書いたように、「ゴーストライター」でのアメリカやCIAといったフックは陰謀論者が大好物の疑似餌でしかない。「ゴーストライター」におけるCIAはいわば、すべての現象の背後にいて、この世の出来事を裏側からあやつる全知全能の存在のメタファーなのだ。

つまり「ゴーストライター」の世界では、アメリカ、CIAが神の肩代わりをしてこの世界を支配するということ。それはこの世界の神の不在を示す。

人間の知性の限界は世界に神を要請し、人間の知性の万能を認める立場は世界から神を排除する。それが両者の作品を分ける決定的な違いといえる。

キューブリック、メルヴィルは人知の限界を描き、超越的視点によって人間を断罪する。だがポランスキーの世界に、もはや人間を断罪するものは存在しない。傲慢な人間に罰をくだす神はどこにもいないのだ。

そこに神がいない以上、悪事は露見せず、断罪もされない。「ゴーストライター」は神なき世界の終わりなき恐怖を描いているのだ。


追記・確かキューブリックとメルヴィルは無神論者だったような。・・・まぁ強弁するなら、“あえて”自分は無神論者と言うことは、自分が強い宗教的文化、生活、社会の影響下にいるということの宣言に他ならない・・・ということで。
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2011年09月22日

死ぬ間際に見る映画は「探偵はBARにいる」

映画「探偵はBARにいる」を見た。この映画を批判するのに、電話をかけてくる女が最初から(あるいは途中で)誰かわかってしまいミステリ的な興趣を削ぐという意見があり驚いている。例えばキネマ旬報2011年10月上旬号星取り評の野村正昭氏はこんなことを書いている。

冒頭の電話の依頼主は消去法を持ち出さずとも“彼女”しか考えられず、ここが小説と映画との決定的な違いであり、それを埋める配慮がもう少しあれば、ラストも鮮やかに決まっただろうと惜しまれる。ー野村正昭


原作は確かにミステリ的な側面が強いかもしれない。だがこの映画の狙いは最初から犯人当てゲームにないのは、火を見るよりも明らかだ。犯人当てゲームなら何人かあやしい女性の登場人物を増やしてミスリードを誘うようにするだろう。それをしていないということは、この作品の眼目はそこにはないということだ。

ではこの作品の眼目はどこにあるのか。この映画での悪役カトー(高嶋政伸の代表作になるんじゃないか)の印象的なセリフがある。カトーは人を殺す前に相手に言う「人は死ぬ前に映画を見る」。人は死ぬ瞬間に走馬燈のように自分の人生の映画を見るというのだ。

「コンドウ・キョウコ」と電話で名乗る女は自分が死ぬ瞬間に見る映画を完成させるために、映画を見守る観客が必要と考えた。その観客として選ばれたのが「探偵」(大泉洋)なのだ。

この探偵は終始、自分が何をしているのかわからずに行動させられている。ある意味探偵にあるまじき探偵である。自分の意志もなく、推理もできず、ただ電話の指示に振り回されているだけ。そしてただなにかを目撃させられているだけ。

探偵は今自分の目前で起こっていることに対して無力なままである。なぜなら探偵は電話の女の人生という映画を観客として見せられているにすぎないから。

しかし、映画の観客にすぎなかった探偵はいつしか女の映画の登場人物となってしまう。ただ金を貰ってすることだけをする職業探偵ではなかったから。女の物語に深く関わろうとしてしまうような男だったから。

いち観客であるべき探偵がいち登場人物となってしまったことは、電話の女の予期せぬことだった。それに対し女はある演出をほどこす。ーそれは映画から探偵を排除すること。

いち観客から、はからずも映画の登場人物となってしまった男への罰。それは映画のクライマックスを見ることを禁じられることだった。

かくして映画のもっとも重要なクライマックスを見ることができなかった探偵の脳裏には、映画のクライマックスだけ抜け落ちた、永遠に終わることのない映画が上映され続ける。こうして女は自分の映画に永遠に囚われ続ける観客を手にしたのだ。

この映画は原作の「バーにかかってきた電話」とは違い謎解きでも、犯人当てゲームでもない。この映画の主役は素晴らしい軽妙さの大泉洋でもなく、動きが親父に似てきた松田龍平でもない。この電話の女、一人の悲劇的な女が死ぬ間際に見る人生の映画そのものなのだ。
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2011年08月03日

心は隠されていない・マッケンドリックが教える映画「コクリコ坂から」

映画監督アレクサンダー・マッケンドリック(代表作「マダムと泥棒」「成功の甘き香り」etc)の言葉に

映画というものは、見せられている映像とセリフの言葉の意味が相反していると、より面白く説得力のあるものになる。ー「マッケンドリックが教える映画の本当の作り方」

というのがある。
なぜセリフの意味と、場面の意味が相反していると、面白く説得力のあるものになるのか。それはセリフと場面の意味が相反していると、そこに登場人物の心が浮き上がってくるかのように見えるからだ。

誰もが自分の心の声というのは自分だけにしか聞こえないものだと思っている。自分が何を思っているのか、何を考えているのかは、他人にはわからないはずだと。自分が何を思っているのかを他人に理解させるには当然、声に出して喋らなければならない。だが、映画では心のありかを声に出さずとも表現することが可能なのだ。

映画「コクリコ坂から」の一場面。カルチェ・ラタンを守るために東京へ学校の理事長を訪ね直談判した帰り道、海(長澤まさみ)と俊(岡田准一)はお互いの思いを告白する。海に「好きだよ」と言う俊。

だが、それは見た目通りのハッピーな場面ではない。実際には、断絶の、二人の別れのシーンでもあるのだ。愛の告白シーンがなぜ、映画中最も悲しく、胸締め付けられるシーンになるのか。ーそれは彼らが兄妹だからである。(このめまいのするようなアナクロニズム・・・という批判はとりあえず脇に置いておこう)

愛の告白は額面通りの意味ではない。では嘘なのだろうかー嘘ではない。好きであることには違いない。だがこの愛の告白は二人の別れを意味するのである。(あるいはこの「好きだよ」のニュアンスの中に「兄として愛する」というニュアンスも含まれていたかもしれない)。セリフの意味と場面の意味が相反しているためにおこる感銘。マッケンドリックの言葉通りの名シーンといえるだろう。

ではなぜ、セリフの意味と場面の意味が相反していると感動的なシーンになるのか。・・人の心というものは自分以外には隠されている、他人から隔絶された、個人的なもの、私的なものであると考えられている。

だが、その心の声をモノローグという形や、実際にセリフとして喋らせると、これほど陳腐に聞こえるものはない。それは映画の演出としては一番嫌われる「説明」というものになってしまうからだ。では「説明」を避け、人の心を浮きぼりにするにはどうすればいいのか。

今ある状況とは真逆のセリフを人物に喋らせるか、喋っているセリフとは真逆の状況に人物を置けばいいのだ。ーそうすれば言外の意味ともいうべき内心の隠された言葉が浮きあがってくる。

ウィトゲンシュタインはこう言っている。

意図は心にではなく、状況に埋め込まれている。ー「哲学探究第337節」

(ちなみに本来この言葉は、意図や心というもの、すなわち主体や自我という概念に否定的なウィトゲンシュタインの考え方を意味している)

海と俊、二人の愛の告白場面の「意図」とはこうであろうー「二人は兄妹であるため愛し合うことは許されない」ーこれは心の声であると同時に実は二人の状況に埋め込まれているものでもあるのだ。しかしセリフはそんな二人の状況とは相反する「好きだよ」というストレートな愛の告白である。ーこのギャップにこそ、隠されていた人の心が浮きぼりになるのだ。ーいや、正確にはまるでそこに隠されていた心が出現したような錯覚をおぼえるのだ。

心の意図(隠された内心の声)は実はすでに状況(二人の身の回りの環境)に埋め込まれている。そして、その状況とは相反するセリフを言うことによって、まるで隠されていた心があらわになるような鮮烈な描写になるのだ。・・・映画演出のマジックというほかない。

こういう演出は決して珍しいものではない。たとえば、成瀬巳喜男の「あにいもうと」。この映画で最も心揺さぶられる場面は、兄(森雅之)と妹(京マチ子)が激しくののしり合い殴り合う喧嘩の場面だが、このシーンもまた、見た目通りのシーンではないからこそ深く感動するのだ。兄はなぜ妹を邪険に扱うのか。それはふしだらな女と噂される妹を守るためにわざと憎まれ役を演じているのだ。自分が乱暴に振る舞えば振る舞うほど妹に同情が集まる・・・それが兄の愛なのだ。“あにいもうと”がののしりあえばあうほど、そんな場面とは相反する「隠された」兄の愛が浮かび上がってくるのだ。
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2011年06月24日

名づけられたその後に「東京公園」

もし人が愛についてその様式と方法とを教え込まれなければ愛を感じる人などいるのだろうか。ーラ・ロシュフコー

映画「東京公園」を見た。

光司(三浦春馬)と富永(榮倉奈々)は幼なじみで親しい間柄だが、二人の間にはお互いのまなざしを通過させないものがある。富永の元彼で今は幽霊のヒロという第三者がいるからだ。とはいってもヒロの姿は光司には見えても富永には見えないのだが。妙齢の男女が部屋で二人きりでも、そこには常にヒロのまなざしがあり、光司と富永が向き合うことはない。なにか名状しがたい感情が心に浮かんだとしても、その感情は虚空に消えるだけだ。

光司と姉の美咲(小西真奈美)の間にもお互いのまなざしが通過せぬようシャッターが降りている。血のつながらない二人といえども、姉弟。お互いの感情に気づかぬふりをすること。その感情は名づけられることを恐れるかのように、虚空にぶら下げられ、決して見られず、触れられないものとして封印される。

光司に公園で妙な依頼をしてくる初島という男もそうだ。妻のまなざしを避け、パソコンのモニターにうつる妻しか見つめることができない。彼らは皆自分の心の奥底にある名づけられることのない感情を封印している。

しかし、そんな心の奥底でよどむモヤモヤした感情らしきものに名前をつけるものがいる。富永である。光司が尾行している人妻は光司の母親にうり二つだと喝破。光司が子供の頃亡くなったカメラマンの母が使っていたカメラで母親似の女性を追いかける光司をマザコンであると「名づける」のだ。

そしてさらに富永は決定的なことを言う。お姉さんは光司のことを愛してると言うのだ。美咲と光司がずっと気づかぬふりをしてきた、決して見られず、触れえないものとして虚空に宙づりにされた感情の扉を「名づける」ことにより開いてしまうのだ。

・・・さっきから名づける、名づけると連呼してますが「名づける」ことの意味をわかりやすく映画を例に出すと、最近見て感銘を受けた映画にジャン=ピエール・メルヴィルの「モラン神父」があります。

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ストーリーを簡潔に書くと、無神論者のバルニー(エマニュエル・リヴァ)が興味本位で入った教会の神父モラン(ジャン=ポール・ベルモンド)にからかい半分で論争を仕掛ける。モラン神父のユーモアと論理性に興味を持つバルニー。ある日友人と連れだってモラン神父を訪ねたバルニーは友人がモラン神父のことを「とってもハンサムな人ね」というのを聞いてハッとするのだ。いままでそんな風に神父を見たことはなかったのに、友人がモランを「ハンサム」すなわち異性として魅力があると「名づける」ことによって、モラン神父が一気に「性愛」の対象として発見されるのだ。

無論バルニーは神父に何らかの興味は抱いていたし、魅力も感じていただろう。しかし相手は神父である。バルニーのまなざしにはあらかじめシャッターが降りていた。神父はハンサムで魅力的な男性と「名づけられる」前までは霧のかかった心の奥底にあるモヤモヤとした感情の揺らぎにすぎなかった。バルニーにとってその心の揺らぎは自分の意識にものぼっていなかったはずのもの。だが「名づけられる」ことによってはじめてモラン神父はバルニーの性愛の対象として浮かび上がってくるのだ。

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もっとはっきりいうなら、名づけられる前の、モヤモヤとした霧のかかった心の揺らぎのことを「欲望」と定義してもいい。「欲望」は名づけられるまで「対象」を持たないものなのだ。言葉による「名づけ」こそが欲望に対象を、形を与えるのだということを映画「モラン神父」ははっきりと描いている。

「東京公園」に話を戻そう。

「名づける」ものとしての富永(榮倉奈々)は光司(三浦春馬)の中の霧がかかっていて見えなかった「なにか」を「名づける」ことによって引き出す。尾行していた人妻は光司の追い求めていた母親(像)であること。そして姉の美咲は光司を愛していること。「名づけられた」ことにより光司は自分の欲望、そして姉の欲望と向き合うことを迫られる。名づけられる前の曖昧な関係にはもう戻れない。名づけられたことにより欲望が形となってあらわれてしまった以上・・・

そして光司と美咲がはじめてそのまなざしを向けあう時がやってくる。そのシーンの小西真奈美の演技の素晴らしさたるや・・・。美咲がいままで気づかぬふりをしてきた自分の欲望に直面し恐れおののく姿。そしてその欲望と向き合うことを決意した後のキスシーンの崇高さ。人間の感情なんて映像に映るはずがないとわかっていても、光司と美咲の唇と唇の間には心の奥底から湧き上がってきた「なにか」が映っているとしか思えなかった。

そしていままで、ただ「名づける」ものとして他人の物語を動かしてきた富永もまた自分の欲望と向き合うことになる。亡くなったヒロを介してでしか光司と向き合ってこなかった富永は光司の家に押しかけ光司との同居を決意するのだ。自ら自分の欲望を名づけ光司と向き合うことにした富永。そしてその時、ヒロは光司の家から姿を消す。光司と富永、二人の間の感情が名づけられ、はっきり浮かび上がった瞬間、幽霊はモヤモヤとした霧の彼方へ、言葉以前の世界へ消え去るのだ。

もし人が愛についてその様式と方法とを教え込まれなければ愛を感じる人などいるのだろうか。ーラ・ロシュフコー

冒頭にかかげたラ・ロシュフコーの箴言を私なりの言葉で言い換えてみよう。

「言葉にされないものは、決して人の視野には入ってこないだろう」ーシンジ・ホニャラーラ

しかし問題は、なぜ「名づけられ」、「発見」されなければならなかったのかということだ。映画の光司はあきらかにおかしくなかったか。まず母親とうり二つの女性になぜ気づかないのか!?そしていままで姉の愛に気づいてなかったのか?ー光司のおかしな言動に防衛が働いているのは明らかだ。

何に対する防衛か。「母親」に対する防衛である。

ここからは単なる想像でしかないが、光司の母親は売れっ子カメラマンだった。当然光司は忙しい母から十分な愛を受け取ることができなかったはず。そしておそらく母親の悲惨な死の記憶。これらのことから光司は防衛し、母の記憶を抑圧し消し去ったといえるのではないだろうか。人間の自我とはフロイト-ラカンの言うとおり、抑圧や否認を通じて自己を葛藤や苦しみから守ろうとするために自己を欺くという仕組みである。

光司の自我は母から愛されなかったということと、母の死から目をそらすために、現実を「言葉にしない」という選択をするようになった。言葉にしなければ、その感情は曖昧模糊とした言葉以前の世界に沈殿してゆくだけだからだ。

「名づけること」とは欲望の発見であり、抑圧の解放でもある。

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2回観たけど、2回目も1回目と変わらず楽しめた。いい映画は見るたびに発見がある。2回目見て発見したことは、ヒロの部屋にはなぜか水面の光がゆらゆらとただよっていること。そして成仏した後ヒロの部屋には波の打ち寄せる音が聞こえること。

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あと榮倉奈々がでているシーンはどれも面白い工夫がされていて見ているだけで楽しい。こたつをはさんだ小津っぽい切り返し。光司と姉との重大なことを話すシーンではなぜか光司の後頭部ばかりを注視してるのがおかしくて。口の周りに粉をつけながらまんじゅうをぱくついている姿も愛おしい。とにかく榮倉奈々のでているシーンはすべて名場面で必見。
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2011年05月17日

本当の私という幻想「ブラック・スワン」

映画「ブラック・スワン」を見た。

ニナ(ナタリー・ポートマン)は母親の代理であり、分身である。母はニナを生んだことによりバレエダンサーのキャリアをあきらめた。それゆえにニナは母のためにもバレエダンサーとして成功しなければならないという焦りにも似た感じと追い立てられるような圧力を感じている。

こういう母子関係はさほどめずらしくない。思い出すのは去年亡くなった高峰秀子と養母の関係がそうだ。高峰秀子の養母「志げ」は兄の子供である女の子をひったくるように奪い取り、自分が女弁士だった頃の芸名「高峰秀子」から秀子と名付けた。高峰はこう言う。

「デブ(志げのこと)は、自分が“高峰秀子”のつもりだったのよ」ー高峰秀子の捨てられない荷物より

母と娘の同一化。捨てられない荷物・・・

登場人物の配置もエディプス葛藤として見ればわかりやすい。バレエ団の演出家トマ(ヴァンサン・カッセル)はニナの「父親」。ライバル、リリー(ミラ・キュニス)は「妹」。トマに魅了されることは、母親に取って代わって父親と愛し合うということであり、ニナにとって母殺しを意味する。母との同一化を解消し、父と一緒になりたいという願望。リリーは自分と同等の存在であり、嫉妬の対象、父親からの愛を競い合う「妹」。妹さえいなくなれば「父」を独占できるのだ。

そしてこの映画を支配する最も重要なイメージは「鏡」。この映画における「鏡」の意味はラカンの「鏡像段階」で説明がつくと思う。

鏡像段階論とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長して鏡を見ることによって(もしくは自分の姿を他者の鏡像として見ることによって)、鏡にうつった像が自分であり、統一体であることに気づくという理論。ーwikiより


鏡にうつった自分とは、また他者から見られた自分でもある。他者から見られた自分とは、母の分身としての自分、母に欲望される自分であり、トマからの承認を得ようと必死になるが実力が足らない自分であり、トマの承認をかけて争うリリーに脅威を感じる自分である。

ニナは悲鳴を上げる。鏡にうつる私(鏡像自己)は私じゃない!鏡にうつる私は、母や、トマや、リリーから見た私であり、本当の私じゃない。「本当の私」は母を上回るバレエダンサーである私であり、トマの要求に完璧に応えることのできる私であり、リリーを凌駕する力量を持ち、トマの愛を独占することのできる私だ。

・・・・だが、もちろん「本当の私」など幻想である。「私」はあくまで「他者」から見られた存在としての「私」なのだ。「本当の私」は虚構でしかない。

ーラカンは、このような鏡像段階があるということは、結局のところ、自己(自我)というものは最初から社会関係の中にくみこまれているものだとみなした。つまり、無垢の自己なんてものは最初からありはしないとみなしたのだ。もっとはっきりいえば、そのような社会的関係によって疎外されるということが自我をつくるのだと考えた。ー松岡正剛の千夜千冊・ジャック・ラカン「テレヴィジオン」より

つまり他者から見られた鏡像を自分だと認めたくないー他者から疎外された自分こそ「本当の私」だと思い込む。虚構としての「本当の私」

ニナは鏡の中の自分=他者から見られた自分を殺害し、「本当の私」を取り戻す。「完璧な」自分を。だが、もちろん「本当の私」という自己統一像は幻想でしかない。その幻想のなかで生き続けることは狂気か死を意味する。

「私、感じてたわ。完璧よ。私、完璧だったわ」
ニナは観客の喝采を浴びながら、完璧な自分として死ぬ。舞台という虚構の中で「本当の私」として歓喜のなかで死ぬのだ。

これを熱狂の中で、歓喜の絶頂の中で死ぬのだから本望ではないかという考えもあるだろう。だが、鏡像の中の私を殺した「本当の私」は偽りのイメージとしての私でしかない。偽りの自分をリアルな自分と錯覚することでしか歓喜を得られなかったというのは、やはり皮肉で残酷なことではないだろうか。

つまりあのラストシーンはすべて幻想だと考えられるのだ。鏡像自己を殺害し、本当の自分=完璧な自分となって、圧倒的なダンスを披露し、観衆の喝采を浴びるというのはニナの都合のいい幻想でしかない。つまりあの喝采もニナの幻想であり、客席に座る母親も幻想なのだ。偽りの自己イメージが見せたほんのつかの間の夢。狂気の幻。それが映画「ブラック・スワン」のすべてである。
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2011年05月11日

東京物語とコジェーヴで読み解く「八日目の蝉」

映画「八日目の蝉」この作品は過去と現在、二つが交差して描かれるが、同じようにこの映画のメッセージも二つに交差して表出する。交差する二つのメッセージを東京物語とコジェーヴによって読み解きたい。

井上真央演じる恵理菜の起点となるシーンは妻子ある恋人岸田との別れにある。恵理菜は別れを切り出しながら岸田に感謝する。人としての喜び、誕生日を祝ってくれたり、一緒に遊んだり、そしてなによりも人を好きになるという感情を教えてくれた最初の人だと感謝するのだ。つまり恵理菜はこう言っている。岸田に出会うまでは人並みの喜びをまるで知らないで育ったと。

それまでの恵理菜はあの誘拐事件のせいで暗いトンネルのなかを生きてきた。実母(森口瑤子)は恵理菜にあの「世界一悪い女」の影を見、絶望し、恵理菜を徹底的に抑圧してきた。そのために恵理菜は幼いときの記憶を失い、また誰からも愛されずに生きてきたと思いこんでいた。

その恵理菜の元にフリーライターと称する千草(小池栄子)が誘拐事件のことを取材させて欲しいと近づいてくる。だが恵理菜に喋ることはない、喋りたくないのではなく、誘拐されたときのことをまるでおぼえていないのだ。

恵理菜は千草が自分がかっていたエンジェルホームの住人だったことを知る。千草のなかに自分と同じものを見た恵理菜は千草と二人で過去を探す旅へと出る。消し去った記憶を求める旅へと。恵理菜のお腹の中には別れた岸田の子供がいる。10数年前、「世界一悪い女」である希和子(永作博美)が赤子の恵理菜をさらって逃げた時と同じ道筋をたどって、しかも同じように子供を抱えながらの「同行二人旅」。

旅の途中、ホテルの一室で恵理菜は千草に不安を吐露する。子供を産み育てていく自信がないと。なぜなら私は誰からも愛されたことがないから、どうやって子供を愛せばいいのかわからないのだと。だが、旅するうちに恵理菜は抑圧され消し去っていた記憶を取り戻し始める。それは心の底から求めていながら、どうしても認めたくなかったこと。

恵理菜は実母の苦悩と絶望ゆえに過去をないものとして生きてきた。それゆえに自分は愛を知らない人生を送ってきたと思っていた。すべては自分と自分の家族をめちゃくちゃにしたあの女のせいだと。だが、旅の過程で過去の扉が開いたとき、そこにあったのは紛れもない真実の愛だったのだ。実母との間には決して得られなかった愛が、私の人生をめちゃくちゃにしたはずの希和子との間には確かに存在した。この残酷なまでの愛の転倒。

恵理菜が愛を知らないと思ってきたのは、偽りの記憶だった。あの「世界一悪い女」が私にあふれんばかりの無償の愛をそそいでくれた。憎しみが反転し、すべてが愛に変わる。希和子から私はすべてのものを受け取った。だから私はもう恐れない。あの人が私にそそいだのと同じ愛をこのお腹の子にそそげばいいのだから。

すべての記憶を取り戻した恵理菜は「薫」となり、真の愛を取り戻す。感動的ではあるが、血のつながりよりも、そのつながりを故意に切断し、奪い去った他者との間に真実の愛があったというのはやはり残酷なラストだといえよう。

「八日目の蝉」というタイトルの意味も浮かび上がってくる。

「蝉は何年か地中で育った後、地上に出てからは七日しか生きられない。だが、まれに八日後も生き続ける蝉がいる。仲間が死んだ後、その蝉はいったいどんな世界を見るのだろう」劇中での千草のセリフ。

人は心の中の何かを殺して生きている。恵理菜は「薫」を「希和子」を殺して生きてきた。希和子は最愛の薫から引き離され、心の一部が死んだままこの先を生き続けなければならない。この二人だけではない、千草もそうだ。恵理菜の母も父も恵理菜が奪われてからは心の一部が死んだまま生き続けるしかなかったのだ。

人はそれぞれ心の中に死んだものを抱えながら、生き続けるほかない。人はみな八日目の世界を生きる蝉なのだから。

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上記の物語は、恵理菜の同一性を取り戻す旅を描いている。A・コジェーヴの言葉に

「人間は他者の欲望に向かう欲望、承認を求める欲望である。」ー「ヘーゲル読解入門」

というのがあるが、これは、人は他者という対象がなければ人として存在できないということをいっている。人は自分一人では存在できず、他者の欲望を欲望すること、つまり他者との同一化にしか自己を見いだすことはできない。

恵理菜にとってこの他者とは希和子のことだ。他者の欲望は、母の愛であり、恵理菜は母の愛を欲望する。母からの承認こそ恵理菜の望んでやまない自分と母との同一化なのだ。

恵理菜は希和子との同一化を願っているものの、それを実母が邪魔をする。当たり前だ。誰が誘拐犯の女と自分の娘とを同一化させたいものか。それゆえの母の抑圧。恵理菜の記憶、希和子と完全に一体化した濃密な記憶は失われる。

だが、それでも恵理菜は無意識のうちに希和子の記憶をなぞっていく。希和子と同じように妻子ある男性を好きになり、希和子と同じ行動をとるートイレで髪を切る希和子は星空を眺め、トイレで妊娠検査薬を使う恵理菜も星空を眺める。自転車に乗る恵理菜は坂道を走るときに脚をひろげ、希和子は小豆島で自転車に乗るとき脚をひろげる。演出家も脚本家もこの恵理菜の旅が、母と子の同一化の旅であることをはっきりと描いている。

そして旅が抑圧を解き、記憶がよみがえると、恵理菜と希和子の同一化が再び取り戻される。希和子が私を愛したように、私はこのお腹の子を愛せばよい。かくして恵理菜は希和子となり、お腹の子は薫となる。希和子と薫は再び人生を生き直すのだ。

この物語は愛の承認(他者との同一化)を得ようとする蝉たちの物語であり、八日目の蝉とは、承認を断念した蝉たちが苦しみのなか、それでも生き続けなければならないことを意味している。

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では「八日目の蝉」交差する二つ目のメッセージとは何か。それは小津安二郎「東京物語」と共通するテーマ、それこそが「八日目の蝉」のもう一つのメッセージだ。

小津安二郎「東京物語」とは・・・尾道から上京してきた老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が息子や娘の元を訪ねるが、邪険に扱われる。だが、8年前に戦死した息子の嫁、血のつながらない他人である紀子(原節子)からは心のこもったもてなしを受ける。失意の老夫婦は尾道に帰るが、突然妻が亡くなってしまう。葬式が終わるとさっさと東京に帰る実の息子や娘たち(杉村春子をグーで殴りたいっ)。そんななか一人残って笠智衆の世話をする原節子に笠智衆が語りかける・・・

「妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、いわば他人のあんたの方がよっぽどわしらにようしてくれた・・・」

「東京物語」ははっきりと、血のつながりがあっても形骸化した家族より、血がつながらなくとも「意志」によるつながりのある連帯こそが真の家族となれるといっているのだ。

そしてこの「東京物語」のメッセージこそ「八日目の蝉」と呼応するのものだ。

恵理菜の実母はいっこうに自分を愛そうとしない娘に異物感を感じ始める。そして自分のお腹を痛めた実の娘にもかかわらず、その娘を愛せない自分自身に絶望する。親子と言うだけで、家族というだけで、血のつながりがあるというだけで無条件に愛し愛される関係でいられるという幻想が、母を、娘を苦しめるのだ。

血のつながった家族から逃れ出た恵理菜=薫の人生は血のつながらない他者との間で構築されていく。その象徴がエンジェルホームである。一種カルト的な閉じた共同体であるものの、縁もゆかりもない他人同士の共同生活は希和子と薫に静かで落ち着いた生活を与えてくれた。本来エンジェルホームのようなカルトを描く場合は否定的に描くものだが、この作品では人生に傷つき、疲れ果てた女性たちの駆け込み寺として機能しているように描かれる。

そして過去への旅を続ける現在の薫=恵理菜はまったくの赤の他人である千草と不思議な共闘関係にある。恵理菜が子供を産み育てる自信がないと不安を打ち明けると、千草は二人で一緒に育てようとまでいうのである。赤の他人からのこの無償の愛。(百合成分たっぷりですがw)

希和子と薫最後の逃亡先である小豆島でも二人を温かく迎えてくれるのは、エンジェルホームの同僚だった久美(市川実和子)の両親である。希和子と薫二人には縁もゆかりもない他人同士の連帯の中にしか安らぎの場所はなかったのだ。

そしてなによりもこの物語の発端、縁もゆかりもない赤の他人同士の二人、希和子と薫の真の愛情で結ばれたにせの親子の姿がそこにある。

希和子は逃亡先の小豆島の寺院でずっと薫と一緒にいられますようにと祈る。原作での祈りはさらに強烈である。

「明日も薫といっしょにいることができますように。この2年と半年近く、一日も欠かさず私は同じことを願っている。私は今日も祈る。一年後、五年後などと大きなことは願わない。今日一日、それから明日一日、それだけでいい。だからどうか私の祈りを聞いてください」ー角田光代「八日目の蝉」

この強烈なまでの願い!この意志!このような「願い」、このような「意志」のあるところにしか「愛」は生まれない。ただ血のつながりがあるというだけで自動的に家族として父や母、娘や息子という役割を振り分けられるだけの関係では「愛」は決して生まれない。

私自身の意志によって家族をつかみとるという強烈なまでに能動的な意志。もはやそこにしか新しい家族の可能性はない。それこそが「東京物語」と「八日目の蝉」の共通したメッセージだ。


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・・・だが、しかしそれは本当の愛だったか。私がある人に「八日目の蝉」のストーリーを説明していると、その人は「大岡裁きに似てる」という。どっちが子供の本当の母親か調べるために、二人の女に子供の両腕をもたせて引っ張らせて、子供を奪ったほうを本当の母親として認めるという大岡越前。子供を引っ張り合う女たちだったが、一人は痛がる子供の悲鳴を聞いて手を離してしまう。大岡越前は手を離した方の女を本当の母親と認める、というお話。私はさきほど強い「意志」、強い「願い」が家族を作ると書いたが、そこには他者性がなかった。他者の痛みを我がことのように感じられることが真の愛なら、やはり希和子の愛は単なるエゴではなかったか。その一点においてやはり希和子は「赦されていない」。赦されていない以上、映画のラストで希和子と薫が会わないのは必然なのである。(原作ではお互いそれと知らずにすれ違っている。)
posted by シンジ at 18:20| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月29日

円環の外へ・まほろ駅前発、アウトレイジ、紀子の食卓行き

映画「まほろ駅前多田便利軒」を見て、円環世界を描いた映画の傾向と対策を考える。

「まほろ駅前〜」のオープニングでは、この映画は閉じた町でのお話だとあらかじめ示される。この町に生まれた人間は、この町で育ち、この町で死ぬ。誰も出ていこうとしない町であると。

映画の構造もそうなっており、すべて町の中と町の住民だけのお話であり、多田(瑛太)と行天(松田龍平)の出会いで始まり、再会で終わる。この作品はまほろ市という円環世界を描いた映画であると。円環世界というのは出発点が終着点であるような世界のこと。その中だけで充足しているような、閉じた世界のことである。

こうした円環世界を描いた映画をいくつかあげて、映画における円環世界とは何かを批判的に探っていきたい。

円環世界とは何か。円環世界とは出発点が終着点であるような世界。つまり、時空間が円環し続けること。ただ繰り返すだけの時間があり、その場だけで充足している生成のない空間がある。端的に言えば停滞した世界のことである。

そこにあるのは同質性であり、同質的な共同体であり、同質的な価値観を持つことでしか承認されない世界である。そこでは何も生まれず、何も動かず、ただ繰り返すだけだ。

そうした円環世界をファンタジーとして描いたのが「まほろ駅前〜」や「三丁目の夕日」のような映画だ。「まほろ駅前〜」は見かけはそうは見えないかもしれないが、甘い甘いファンタジーである。

もちろんまほろの住人たちはみな苦い過去と現在を生きる普通の人々として描かれ、ファンタジーというよりリアリズムのように描かれる。だが、彼らが円環世界にとどまる限りにおいてファンタジーなのである。

その円環世界を唯一破れそうなのが行天であるが、結局行天は親も殺せず、町を出て行くことも出来ずに多田のもとへ舞い戻ってきたところで映画は終わる。同質的な共同体をかき乱しては去っていき、再び舞い戻ってくる・・・・・どう見ても“寅さん”です、本当にありがとうござ(略

「まほろ駅前〜」は人間の苦悩に焦点を当てながら、構造的には「男はつらいよ」と同じことをやっている。山田洋次は「おとうと」(2010)で寅さん(的存在の鶴瓶)が家族や社会からはじき出されてどのように死んでいくのかを冷徹に描き、「男はつらいよ」的世界の一歩先を描いているというのに。

山田洋次80歳、大森立嗣40歳。それでいいのか大森立嗣。

ではもうひとつの円環世界を描いた映画「アウトレイジ」を考察する。北野武は同じような閉じた円環世界をどのように描いたか。もういうまでもないことだが、円環世界には絶望しかないことを北野武は「アウトレイジ」ではっきりと描いた。

誰ひとりこの絶望的な円環世界の鎖を断ち切ろうとせず、この同質的な世界、同質的な共同体、同質的な価値観を頑なに守りとおそうとする。その価値観を絶対とする暴力集団はただひたすら殺しあうだけだ。

閉じた世界の中では同一の価値観しか認められない。たとえその価値観が空疎なものであろうとも、閉じた世界の中ではその価値は絶対である。「アウトレイジ」ではそれは「権力闘争」ののち「殺しあう」ことでしかない。

だから「アウトレイジ」を注意深く見た人は気づいたと思うが、北野武率いる大友組は誰一人として反撃もせず、抵抗らしい抵抗もせずに死んでいくのだ。

映画を見ていておかしいとは思わなかったろうか?

武闘派揃いの大友組が何の反撃も逆襲もせずに、ただ逃げまどい殺されていく姿を。彼らが抵抗もせずにあっさりと自分の死を受け入れる理由はただ一つしかない。

「死」だけが、この円環世界から逃れることのできる唯一の扉だからだ。

アウトレイジの「生」を見よ。カッターナイフで指つめをするシーンに象徴されるように、空疎な価値のために耐え難い苦痛を耐えてはじめて「生」が享受できるのだ。このような苦痛に満ちた「生」を引き延ばすことに一体どんな意味があるというのか。

「アウトレイジ」という円環世界の住人にとって死はむしろ「恵み」であり「救い」なのだ。

この閉じた円環世界を映画的に救う方法はたった一つしかない。「この円環の鎖を断ち切り、外へでること」だ。円環の外へ出たものだけが高貴な光、可能性の光をまとうことが出来る。

そしてその可能性を示したのが、園子温「紀子の食卓」(2005)だ。

家族という虚構、さらにレンタル家族という二重の虚構を経た上で、虚構を真実として引き受け、その中で生きようと決意したかに見える家族から再び去る吉高由里子。何重にも張り巡らされた虚構の、だがそれゆえに人をつかんで離さない価値を捨て去り、この円環から抜け出す吉高の姿は悲しくも尊い。

虚構を、すなわち同質の世界、同質の共同体、同質の価値観を捨ててでも円環の外に出ること。そこにしか映画の、人の可能性はない。

円環の中で生きることを選択する「まほろ駅前多田便利軒」、円環から「死」によって脱出する「アウトレイジ」、そして円環を断ち切り「外」へ出る「紀子の食卓」。

映画の可能性は「まほろ駅前〜」→「アウトレイジ」→「紀子の食卓」の順に示される。
posted by シンジ at 16:59| Comment(5) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする