2014年05月06日

乗り越える物語としての映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」

乗り越える物語としての映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」

「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」を観る。非常に恐ろしい映画でした。この映画を観る人のほとんどはひろし、それもロボとーちゃんであるロボひろしの立場に立って見ると思うのですが、この映画はロボひろしの地獄巡りの様相を呈しているので、見るものにとってはドキリとするような恐ろしい描写にあふれています。

まず最初にドキリとするのはロボットとなって家に帰ってきたひろしに対するみさえの態度です。体が、外見が違うというだけで心は100%ひろしにもかかわらずみさえはロボひろしを激しく拒絶するのです。外見が違うだけでもう「ひろし」は「ひろし」でなくなる、「わたし」は「わたし」でなくなるのです。つまり「わたし」という自己同一性を保障してくれるのはわたしの「心」や「精神」や「意識」などではなくて、他者の目からうつった姿かたちでしかないのです。

しかしこうした自己同一性の危機もロボットの中身がひろしだと納得してくれたみさえのやさしさに救われます。外見は違っても心がひろしならそれはわたしの愛する夫ひろしなのだとみさえが納得してくれるのです。ロボひろしと抱き合うみさえが神々しく見えて思わずウルッとくる名場面です。

しかし最大のショックは中盤に来ます。ひろしはスーパーロボとーちゃんとして家事に仕事にバリバリ働きます。子供たちの命の危険すら軽々と救ってしまう理想のとーちゃんとなるひろし。そしてロボひろしは悪役である「父ゆれ同盟(父よ、勇気で立ち上がれ同盟)」の総裁、鉄拳寺堂勝を倒して大団円を迎え、みさえと抱きあうために腕を広げると、みさえはロボひろしの腕をすり抜けて、父ゆれ同盟に捕らわれていた生身のひろし(以降、実ひろし)と抱き合うのです。率直に言って映画を観てこれほど胸引き裂かれるような思いをしたのはジャン=ルイ・トランティニャンとロミー・シュナイダーが共演した「離愁」(1973年)を観て以来です(知っている人は知っているあまりにも悲痛なラストシーン)

いったんは解決されたひろしの自己同一性危機がここにいたって致命的なダメージとしてロボひろしに襲い掛かってくるのです。このシーンの絶望感は胃に来るものがあります。心は100%ひろしにもかかわらず、愛する家族は自分をひろしだと思ってくれないのです。これほど恐ろしいことがあるだろうか。

こうした考えるだに恐ろしいアイデンティティクライシスをロボひろしはいかにして乗り越えていくかが、この映画の骨太のテーマとして見るものに深い感動を与えるのです。

この映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」では自己同一性危機が通奏低音として全体に響き渡るとともに、「乗り越える」という物語が展開されていきます。

まず一つ目の「乗り越える」物語とは「父性」が「父権」を乗り越える物語です。この映画の悪役は日頃虐げられている父親たちを復権させるために時代錯誤とも言える家父長制的な父権を復活させようとします。家父長制的な父権とは近代社会が歴史的、イデオロギー的に要請した文化的構築物=文化的虚構にすぎません。いわば捏造された父権をより生物学的、始原的な父性(以降、とーちゃん性)によって乗り越えようとする物語です。

文化的捏造である父権という権威によって家族制度をより統制的な形で再構築しようとする「父ゆれ同盟」を、仕事も出来ない、頼りない、足が臭いダメとーちゃん、妻や子を愛するだけがとりえのとーちゃんのとーちゃん性が凌駕するのである。とーちゃん性が父権を乗り越えるのだ。

そしてもうひとつの「乗り越える」テーマが衝撃的なラスト。ロボひろしの死によって描かれる「死を乗り越える」物語である。

ロボひろしは外見はロボットとはいえ、中身は100%ひろしである。そのひろしが実際に死ぬのである。例えるなら「サザエさん」をテレビで見ていていきなりマスオさんが交通事故かなにかで死ぬ回があったら人はどれほどのショックをおぼえるだろうか?それと同じことがこの映画では起きるのである。

ここで描かれるひろしの死の意味はただ「死ぬ」ということ以上に重大な意味を含んでいる。ロボひろしがどうやって自己同一性危機を乗り越えたかに関わってくるのだ。

ロボひろしはみずからの「とーちゃん性」によって「父権」を乗り越えた。そしてこの「とーちゃん性」を実ひろしに「受け渡す」ことによってみずからのアイデンティティクライシスを乗り越えるとともに、「死」をも乗り越えるのだ。

クライマックスの腕相撲は自分の「とーちゃん性」をもうひとりの自分に「受け渡す」重大な儀式であるとともに、「受け渡す」ことによってロボひろしは実ひろしの中に、しんちゃんの中に、ひまわりの中に、みさえの中に生き続けることを意味する。つまり「死を乗り越える」のだ。

この映画の感動は大切な人が死んだから悲しいというたぐいのものではない。ひとりの平凡な男が死を乗り越える瞬間をわたしたち観客がたしかに目撃する、そのたぐいまれなる感動なのである。
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2014年03月13日

人も豚も同じ経済動物である。映画「銀の匙」

人も豚も同じ経済動物である。映画「銀の匙」

映画「銀の匙」の中で一番ショッキングなことは飼育している豚を「経済動物」と呼ぶことだろう。

「経済動物」とは、商品であり、流通品であり、取引対象のことをいい、それは「生命」としては扱われない。主人公の八軒勇吾(中島健人)は飼育する豚に名前をつけようとしてたしなめられる。経済動物に名前を与えて情が移ることなど愚の骨頂なのだと。

いわば豚は「生命」としてではなく「商品」としての「有用性」のみで判断され算定される「モノ」である。

豚だけではない、牛は乳の出が悪ければつぶされ食肉となり、競走馬はレースの成績が悪ければこれもつぶされて食肉となる。「経済動物」とは有用性の連関の中に捕らえられた自由なき「モノ」のことである。

では、こうした動物たちを有用性のみで判断する人間は自由な存在なのだろうか。実は世界を有用性でもって捉える人間こそもっとも有用性に囚われた存在であるということが映画の冒頭のシーンですでにあきらかになる。

進学校に進みながら成績が悪く、農業高校に入学した八軒は父親から見放される。偏差値という産業社会が算定する価値評価基準からはじき出された人間は産業社会では「有用性」を失ったとみなされるのだ。

経済有用性でのみ判断されるのは豚や牛だけではなく人間も同じなのだ。

豚も人間もどちらも「経済有用性連関」の世界の中に釘付けにされ囚われたモノでしかない。しかし映画はその世界からどうやったら抜け出せるかのヒントも描いている。

経済有用性連関の世界を完全に覆すことは出来ないかもしれない。しかしそこから「生命への自覚」が生じることにより、経済有用性だけではない世界が生まれる。

「生命への自覚」とは何か。生命とは贈り物であり、私たちに与えられた天からの恵みである。私たちはその与えられた恵みを当然のように受け取るのではなく、感謝の気持ちを持つ。この人間の心の働きにしか経済有用性連関の世界を変えるすべはない。

八軒が育てた豚を買い取りベーコンにするとき、そこにあるのは経済有用性ではなく、「生命連関性」への自覚と感謝である。

ここで意地悪な人の問いを想定するに、生命連関への自覚と感謝が生まれても、どっちにしろ豚を殺すことには変わりないじゃないかということに答える。

生命が贈り物であり、恵みであるという自覚は、すべての生きとし生けるものへの尊重と寛容を育む。それは自分さえよければ他人がどうなろうと知ったこっちゃないという考えに対する抑制をもたらす。つまり人の中に道徳律が生まれる。

生命は与えられたものであり、贈り物であり、恵みであるという考えは道徳の根拠ともなるのだ。

例えば、なぜ自殺してはならないのか?という問いに対する答え・・・生命は贈り物だからである。贈り物である以上自分の勝手にはならないものなのである。

さらに意地悪な問いも想定してみる。人は殺しちゃいけないのに、豚は殺してもいいのかという問いにどう答えるか。

「生命連関」の世界には殺生も含まれる。もし一切の殺生が禁じられるならば、生命連関自体が閉じてしまい、この地球上に生命はいなくなる。この殺生しなければ生きられないということが「原罪」であり、生命はこの「原罪」から逃れることはできない。

この原罪から目をそむけているのが、経済有用性連関の世界だ。この原罪から目をそむけないことによって生命連関性の世界を自覚し、この自覚によって道徳の根拠も立ち上がるのである。

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読み直してみて・・・う〜ん固い。映画の批評じゃないなこれ。映画「銀の匙」はこのように小難しく考えることもできますが、基本はアイドル映画なので気楽に見て大丈夫です。中島健人や広瀬アリスはとにかくかわいい。今この時期にしかあらわられることのないきらめくようなアイドル性を輝き放っています。しかしいまやアイドルブーム真っ盛りの中、もう「kawaii」には食傷気味だよというあなたにも、市川知宏という無骨で男っぽい俳優もいるので映画ヲタは要注目です。
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2014年02月18日

ボヴァリズムという誘惑「ウルフ・オブ・ウォールストリート」

ボヴァリズムという誘惑「ウルフ・オブ・ウォールストリート」

マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオコンビ作としてはじめての傑作である。
これほど生き生きと演技しているディカプリオを見るのは「ギルバート・グレイプ」(1993)以来ではないか(ということは20年ぶり・・・)

この映画のテーマはずばり「ボヴァリズム」である。

ボヴァリズムとはフロベールの「ボヴァリー夫人」の主人公エンマ・ボヴァリーの生き方や思考からくる用語である。
ボヴァリズムとは、今現在、私が生きている退屈な日常は偽物であり、私が生きるべき本来の生はここではないどこかにあると考えること。(ボヴァリズムについては「ボヴァリー夫人を読むと死にたくなる」に詳細に書いた)

人は人間という動物に生まれてきた以上、自己の喜びや快楽を追求し、それを味わい尽くすのが真の幸福ではないのか。普段の人間にそれができないのは、そうした自分の欲望にフタをしているからだ。教育なり、宗教なりが邪魔をしたり、人の目を気にして欲望や快楽を追求できないだけなのだ。

そしてなにより欲望のフタの最大の重しは、欲望をかなえる「お金」がないことである。

映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」ではジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)というこの詐欺師にして俗物を3時間にわたって見せつけられるにもかかわらず、この人物に対してまったく嫌な感じを持たずにすむのは驚くべきことであるが、それには理由がある。ジョーダンにとって「お金」は目的ではなく「手段」にすぎないからだ。お金だけが目的の男なら3時間退屈で仕方なかっただろう。しかしジョーダンにとってお金とは自身の「欲望のフタ」をはぎとる手段でしかない。ジョーダンにとってお金は自分自身の際限のない欲望と快楽に惑溺するための道具なのだ。

でかい豪邸に住み、超絶美女を妻にし、自家用ジェットで飛び回り、豪華ヨットでクルージングを楽しむこと。ジョーダンはそうした外在的な享楽とともに、麻薬によって身体的にも享楽を浴び続ける。ジョーダンのモットーは「お金を儲けろ!」というより「もっと快楽を!」である。それが見ていて嫌な気持ちにならない最大の理由だろう。

なぜなら私たちもジョーダンのように、快楽をとことんまで追求してみたいという幻想を誰もが持っているからだ。この退屈きわまりない日常が延々と繰り返されるかのように見える私たちの生。なにもかも少しずつ抑制されて、制御された人生からはみだし、思うがままに欲望を追求してみたい。度を越した快楽に身をまかせてみたいとジョーダン・ベルフォートやエンマ・ボヴァリーのようなことを少しでも考えない人がいるだろうか。

ジョーダンを逮捕し大手柄を挙げたはずのFBI捜査官は今日もさえない勤務のために地下鉄に乗って出勤する。変わりばえのしない毎日を送るために、わずかな給料のために。最後に映し出されるジョーダンのセミナーに来た人たちの顔、顔、顔。ここに映し出された人々の顔は、映画館に座る私たちの顔でもある。変わりばえのしない日常から抜け出したい。豊かな暮らしをしたい。幸福になりたい。今、ここから抜け出せさえすれば幸せが待っているに違いないと思う人たちの顔、顔、顔・・・

「今ここではない、どこかへ」行きたい私たちはみなエンマ・ボヴァリーの子供だ。だからこそ「ウルフ・オブ・ウォールストリート」はボヴァリズムを描いた作品なのだ。ボヴァリズムこそ映画そのものなのである。
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2013年12月18日

真の恐怖と神秘は密室にあり「ゼロ・グラビティ」

真の恐怖と神秘は密室にあり「ゼロ・グラビティ」

IMAX3Dにてアルフォンソ・キュアロン「ゼロ・グラビティ」を観る。莫大な予算、新技術による見たことのない映像のオンパレードにもかかわらず、どこかなつかしい・・・このなつかしさはどこかで見たことがある。

これは私の大好きな「密室サスペンスもの」ではないか!密室サスペンスで思いだすのは、「大脱走」やジャック・ベッケルの名作「穴」のような脱獄もの。または「ダイ・ハード」一作目のビルという密室内でのサスペンスアクション。密室サスペンスもののなかでも特にゼロ・グラビティと雰囲気が似てるな〜と感じたのは「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年)だ。

密室サスペンスとは、密閉された空間や場所で主人公が危機的な状況に陥り、知恵を振り絞ってそこから脱出する、という定義でいいだろうか。しかし「ゼロ・グラビティ」の舞台は広大な宇宙空間である。宇宙空間が密室?と疑う向きもあるだろう。だが際限のない広大さは閉塞感と同義だ。そしてまた際限のない広大さは人間という存在の卑小さを際立たせる。これは誰もが雄大な自然の光景を目の当たりにした時感じる自然な感情として身に覚えがあるだろう。

カントはそれを「崇高さ」と表現したが、「崇高さ」を感じ取ることができるのは、まだ人の理解の範疇にあるからで、人の理解の範疇を超えるものは「恐怖」でしかない。宇宙空間は人にとって「恐怖」以外の何物でもなくなるのだ。

それは映画を観れば一目瞭然だ。命綱なしで宇宙空間をただようことがどれだけ恐ろしいことか。広大な宇宙空間そのものが人間にとっては閉塞感ただよう死の密室になるのだ。

「宇宙空間でひとりぼっち」の恐怖は同様のことが「2001年宇宙の旅」や「ミッション・トゥ・マーズ」でも描かれていたが、「ゼロ・グラビティ」とくらべれば児戯に等しい。宇宙に一人取り残される恐怖を他に例を見ないほど見事に映像化しただけでもこの映画は映画史に残るだろう。

密室サスペンスの定義を厳密に書くと

@「空間限定性」・・・行動できる範囲が狭く、逃げ場所が限られていること。
A「逓減的生存可能性」・・・時間がたつにつれ命の危険が迫ってくること。
B「緊急的決断性」・・・考える間もなく、右か左かの決断を迫られること。

この定義だと、「ゼロ・グラビティ」は正しく「ポセイドン・アドベンチャー」や「エイリアン」などの密室サスペンスの後継だといえるのではないか。

しかし「ゼロ・グラビティ」がポセイドン・アドベンチャーやエイリアンと違うのは、外在的脅威=自分に降りかかってくるトラブルが真の恐怖なのではなく、内在的脅威=自分自身との闘いこそが真の恐怖であると描写した点にある。

宇宙空間に一人で投げ出される恐怖。それは外在的トラブルへの恐怖というより、自分自身の恐怖との闘いである。宇宙空間という死の密室は孤独や不安、忍び寄る死の恐怖という自分自身との闘いになるのだ。

そして当然ながら、人の心は弱くもろい。ライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)は自分自身との闘いに負け、ついに生きることをあきらめる・・・その時唐突にあらわれる幻想にびっくりされる方もいるかもしれないが、これは神経科学的に説明できる現象ではないだろうか。ライアンは自分の意識上では生きることをあきらめたが、意識下、つまり無意識上の身体(脳)はどこまでも生きることをあきらめないのだ。ジョージ・クルーニーの幻想はライアン博士の脳が生み出した幻想。つまり死にゆく身体に対して脳が死ぬことにあらがい、非常ベルを鳴らす、脳の生存戦略としての幻覚なのだ。人間にとって理解不能なのは宇宙という密室だけではなく、人間の無意識の密室にもあったというわけだ。

人間の理解を超える宇宙の神秘が、人間の意志の届かぬ人間の内奥という密室の神秘によって乗り越えられる。人の内的宇宙が外的宇宙を乗り越えるのだ。
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2013年12月14日

「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子

「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子

やおい、という言葉がある。「ヤマなし(山場なし)、オチなし(落ちなし)、イミなし(意味なし)」という意味だ。本来は同性愛をテーマにした漫画などのことを総称してやおいというが、ここではその語源のとおりの意味合いで使用する。

山下敦弘の映画「もらとりあむタマ子」にはすがすがしいまでに「やおい」である。ヤマもなければ、オチもなく、意味・・・は少しある。といっても主人公がモラトリアムを脱するというテーマは映画を終わらせるための方便でしかなく、山下や脚本の向井康介が人がモラトリアムから脱することの重要さを訴えたかった(笑)などあるわけもない。

やはりこの映画は「やおい」である。映画の作劇法としての「やおい」がなぜすがすがしいかというと、映画が「単線的」ではないということにつきる。「単線的」とはブレヒトの言葉で

一切を一つの理念に組み込み、観客を単線的な思考方向に駆り立てて右も左も上も下も見えなくすることをいう。ー三文オペラへのブレヒトの覚え書き


つまり観客を一つの思考や一つの感情に誘導すること。ここで客を泣かせようとか、ひとつの政治的なメッセージに賛同させようとすることをいう。観客に一切考えさせることなく作品の流れに誘導する作劇法のことを「単線的」というのだ。

「もらとりあむタマ子」が「やおい」であることは「単線的」でないということ。つまりこの作品を観る人はどこからでもこの映画にアクセスできるということだ。感情移入してもいいし、しなくてもいい。あるようなないような物語を追ってもいいし、追わなくてもいい。登場人物の行動をボンヤリ眺めているだけでもいい。間口が広く、すべての扉が開け放たれている映画。

これを「開かれた」映画と呼ぼう。

いわば観客は映画に対し、ほぼフリーハンドを与えられている。そうなれば映画をどう観ようが客の自由である。私は真っ先に俳優たちの顔を楽しむ。当代一のアイドルであるはずの前田敦子の不細工カワイイ顔に瞠目し(ほめてます)、中学生の男の子のぶ厚いまぶた顔に惚れ惚れする。この男の子、絶対顔だけでキャスティングされたな。

前田のグダグダしゃべりも素晴らしい。特に富田靖子(シンジ最愛の映画「さびしんぼう」の頃とまったく変わらず美しい!)とのやりとりの前田の演技の独創性に息を呑む。言葉でなんて説明していいかわからないけど、「韜晦」とでもいうのだろうか。父親の再婚相手になるかもしれない女性との会話のあのなんともいえない空気。恥ずかしさや当惑・・・様々な感情が交差するシーンでの前田の演技の独創性は一見の価値がある。

こうした「開かれた」映画に対しては観客は作品に能動的に関わらなければならないため、自然に映画の細部を注視して観ることになる。細部に注視すると今度は自然にあるようなないようなプロットのヤマやオチ、イミが見えてくるのである。

食卓での父と娘のシーンが何度も繰り返される。会話は最小限、アクションも最小限、感情表現も最小限にもかかわらず、二人の関係性を完璧なまでに表現している。最初は声高に娘に接していた父が弱気になり、娘に気を使う様子。父の作った食事をとらずに温野菜ばかり食べてる娘。そして「父としての役割」を全うする父に対し「合格」とつぶやく娘。

「もらとりあむタマ子」の「ヤマ、オチ、イミ」はすべて食卓の場面にあった。食卓での父と娘の仕草、会話、食べものすべてがこの映画のヤマであり、オチであり、イミを形成していると気づくのだ。

山下敦弘映画をそれこそ何時間でも何十時間でも観ていられると感じるのは、どこからでもアクセスできる開かれた作品にもかかわらず、ゆるやかにコントロールされていたと気づかされるからだ。
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2013年10月15日

家族とは何かという問い「そして父になる」

家族とは何かという問い「そして父になる」

是枝裕和監督作品、映画「そして父になる」を観る。

この映画は血のつながりがあるから家族に「なる」のではなく、血のつながりのない者同士が家族に「なろう」とすることを描いている。家族というものはただ血がつながっているから、一緒に住んでいるから家族になるのではなく、愛や信頼といった強い意志、つまり家族に「なろう」とする意志がなければそれは「家族」ではないということ。それはつまり家族に「なろう」とする意志があれば血のつながりのない赤の他人同士でも家族になれることを示す。と、ここまでは以前書いた映画評「八日目の蝉」(東京物語とコジェーヴで読み解く「八日目の蝉」)とテーマが同じなので言ってることの繰り返しになっているが、じゃあ根本的な問題として「家族」ってなんだよ、という問いに突き当たってしまう。

「家族とは何か」なんてあまりにも根本的な問いすぎて、荷が重いのだが、「そして父になる」を見る上で避けては通れないと思ったので無理やり考えてみる。

家族とは何か。生物学的に言えば、自分の遺伝子を残すためのものという身も蓋もない答えが出てしまう。人間以外の生物も家族という単位を作るが、それは自分の遺伝子を残すというプログラミングでしかない。たとえばよく知られているライオンのオスの行動がある。他のオスからメスを奪ったオスライオンは、そのオスとメスの間に生まれた子供を皆殺しにする。子供が死ななければメスは発情せず、交尾すること=自分の遺伝子を残すことができないからだ。人間以外の生物にとって、家族を作ることとは遺伝子を残すための自動的なプログラミング以外の何ものでもない。

しかし人間と他の生物との違いは、人は遺伝子の命令(自己保存という脳の命令でもいい)というプログラミングを超える文化的価値を創造する点にある。家族はいわばその文化的価値の産物である。といっても「家族」という制度に関しては毀誉褒貶もある。近代の家族制度は「国民国家」の誕生とともに生まれた制度だろう。国家にとって一人一人の民衆から税金を取るより、男性を中心とした家族という単位を作り、そこから税金を取った方が効率的である(徴兵も)。近代の家族制度は徴税の効率性から生じたものにすぎない。

しかしそれでも「家族」という仕組みが完全に消滅するとも思えない。姿や形、制度や思想が変われど「家族」という形態は数百年後も残るはずだ。そしてその「家族」は遺伝子を残すために存続するのではなく、人の信念を存続させるために存在するようになる。

フランソワ・ダゴニエはこういう
「いかなる社会的参加にも関わらず、自分だけに頼るものは最悪の抑圧に屈することになる」と。


その最悪の抑圧に対抗するための最小の社会的参加単位こそが「家族」である。自分の生命、自由を守るために、信念と愛で結びついた最小の社会的参加単位。さまざまな社会の抑圧から身をていして守ってくれる信念の単位である。この信念の単位はもはや遺伝子を存続させるためなどという生物学的なシステムや、血縁主義から遠く離れている。「そして父になる」は血縁主義や近代の国家制度を超えたところで「家族」を構築しようとするこころみを提示しているとはいえないだろうか。

・・・たんなる映画批評が大げさな方向にいきすぎたかな。でもこの映画を見て「家族っていいもんだな〜」という感想をもつのは能天気すぎると思ったので。「家族」という文化的価値が自明のものとしてあることに揺さぶりをかける意図が是枝監督にはあったと思う。つまりこの映画を観ると、あなたの信じてる「家族」ってなにかね?という問いを突きつけられるのだ。






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閑話休題
℃-uteの矢島舞美さんが「そして父になる」を観て感想をブログに書いていた。感動したのでURLを貼ります。文章は人柄を表すという言葉は本当だった!奇跡のアイドルとしかいいようがない。


http://gree.jp/c_ute/blog/entry/673379446

昨日は久しぶりに一人映画しましたよー

最近、全然映画観に行ってなかったもんな〜(^^;;

観たのはですね〜(  ̄▽ ̄)
『そして父になる』

産後、取り違えられた子供を6年間我が子と思って育ててきた夫婦。

その事実を知って今までの生活が崩れて行くんですが、その中で親として成長していく物語!!

テレビであらすじを知った時点で

『うわー
こんな事が自分の身に起きたらどうするんだろう…
』って思ってしまいました

実際に映画を観て…

ズシッときましたねー

いろんな立場で感情移入してしまいました

子供は何にも悪くないのに、『明日から、違う人がパパとママです!』って突然言われたって…

『じゃあ、私、もうこの家にいらないの?』って、心にすっごい傷をおいますよね…。

でも親の葛藤も分かります

これまで自分の子と思って愛情を注いできた我が子をとるのか

自分たちと血の繋がった本当の我が子をとるのか

あー
もぅダメだ

考えられない

映画の中のある人に向かって
『もぅ(●`ε´●)あの人は許せない
』って思っちゃいましたもん!!(^^;;

…役なのに…ごめんなさい(;^_^A

だけど、その事で、自分に足りなかったものに気が付く事ができて

徐々に徐々に、自分を変えていく…変わっていく父親の姿に、やじはもぅ……一人で涙腺崩壊寸前でした

まだまだ先の話だけど
いつか私がお母さんになったら、その時は子供が今どんな気持ちでいるのか、ちゃんと気付いてあげられるようなお母さんになりたいな

そしていーーっぱい愛してあげたい

…なんて事を思う映画でした

そんな映画を観たからか…

父と母に感謝の気持ちが沸いてきて

そのまま2人にプレゼントを買って帰りました

父には直接渡せたけど
母は用事で会えないまま、私も北海道に向けて前泊しなくちゃいけなかったから

お手紙と一緒にベッドの横に置いてきました

お母さん、気付くかな〜

ちょっと照れくさいね(///∇///)

ちなみに父は
『どうしたの
(゜o゜)/』と、ビックリしながら喜んでました(笑)

だって本当は一人で都内に向かうはずだったのに

『送ってあげるよ
可愛い娘のためだもん
……なんちゃってf(^_^)』とか言い出してましたもん(笑)

ははは(*´∇`*)
相変わらず愉快な父だぁ


つい引用してしまいました。

maimi001.jpg
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2013年09月01日

風立ちぬ批評を批評する。作品イコール作者は正しいか?

風立ちぬ批評を批評する。作品イコール作者は正しいか?

ネットで見られる宮崎駿監督「風立ちぬ」評でよくできた批評はなぜか方向性が同じである。とくにこの三つの批評。

岡田斗司夫氏の批評
http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html

町山智浩氏の批評
http://www.youtube.com/watch?v=S8LBzoSx430

横岩良太氏の批評
http://urx.nu/4YCG

いずれも宮崎駿監督の人間観世界観がダイレクトに作品に反映してるというのが論旨である。いわく結核の妻の前で平然とタバコを吸う二郎の姿は宮崎駿自身であり、戦争に興味もなく、貧しい人たちにも興味がわかないのも宮崎自身であり、ピラミッドのない世界より、ピラミッドのある世界のほうがいいと思っているのも宮崎自身である・・・というような、作品と作者が完全に一体化しているとする批評。

この三つがよくできた批評だと認めつつも、やはり違和感があるといわざるをえないのはこの三つの批評の根底にある作品の創造観に受け入れがたいものがあるからだ。

その根底にある考えとは、作者と作品とは同根であり、作者と作中人物は同一であるという考え方だ。作品は作者の考えを100%反映したものであり、作品内の登場人物は作者のメッセージを伝達する役割を持つという考えがこの三つの批評に共通する考え方だ。

はたしてひとつの作品を創造するということは、ひとつのまったく揺るぎのない人格や個人の思想をそのまま作品に投影するような作業なのであろうか。私は違うと思っている。

ひとつの作品を創造するということは

ある種の小説家にとっては、物を書いているときに自分を発見し、自分を生み出しているように思われる。−ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」


作品は作者のあらかじめ保有している思想や感情をコピー&ペーストするようなものではない。むしろ書くたびに、新たな発見があり、驚きがあり、意外性が生み出されるもの。こうした作者が作品をコントロールできない実例はどこにでも転がっている。たとえば私の大好きな池波正太郎は「鬼平犯科帳」連載中、作中の人気キャラである伊三次を死なすつもりがなかったのに、書いているうちに死んでしまって呆然としたというようなことを言っています。

私だって、彼らを死なせたくなかったのだ。いつまでも生きていて、「鬼平」の連載を助けてもらいたかった。ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい。ペンでつくりあげた人間が、ほんとうに生命をもってしまうとしか、おもわれないときがある。−池波正太郎「日曜日の万年筆」


作者の生み出した作中人物が、まるで生命をもったかのように作者の手を離れ勝手に動き出してしまうことは創作の現場では普通にあることです。宮崎駿自身もこう語っています。

自分がこれで何かを訴えたいというよりも、映画がこれを言いたがっているんだから、それを言わなきゃしょうがない。


絵を描いて動かしていくと、自分がこういう人物だと思っていた人物が理解が足りなくてそうじゃなかったとわかったり、この人はこういうことをするはずがないとわかったりする。−「もののけ姫はこうして生まれた」より


作者と作品の登場人物は決してイコールではないのです。作者と作品の登場人物との関係はまるで対話を重ねる他人同士のようだ。自分の中にさまざまな他人がうごめき、それとひとりずつ探り探り対話を重ねていく作業のように見える。

ウェイン・C・ブースは作品が駄作であればあるほど作品と現実の作者の問題とを結び付けて考えられるようになると皮肉る。

(フロベールの有名な言葉とは違い)「ボヴァリー夫人」の作者は、一見したところでは作品にほとんど姿を見せていないように見える。それは「ボヴァリー夫人」が傑作だからである。言い換えれば、渾然一体をなし、一つの全体として、それを創造した者から離れた一つの世界として、自己を主張する作品だからである。われわれが不完全であるにつれ、隙間からその憐れな作者の悩める魂が顔を出すのである。−ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」


作者が知っていることを伝えるのは伝達であって創造ではない。作者のメッセージを伝達するだけの作品は「ゴミ」でしかない。作品が作者のくびきを離れ独立した世界を作り出すような作品が「傑作」と呼ばれるのである。

ドストエフスキーの小説では、登場人物の声が、それぞれひとつの独立した声として登場し、作者自身の声を代弁することがない。つまり、登場人物は、作者の個人的な趣味や世界観といったモノローグに回収されることなく、独立した人格として自己を主張するということである。−亀山郁夫「カラマーゾフの兄弟」読書ガイド


堀越二郎は宮崎駿のメッセージの伝達者でもなければ、代弁者でもない。おそらく宮崎が絵を描いているうちに、こんな風に動くのか!?こんなことを言ったりするのか!?という驚きとともに自己主張を始めたのではないだろうか。堀越二郎は宮崎駿から独立した「他人」としてうごめきはじめるのだ。

自分が知っていることを伝えるのは伝達であって、表現ではない。表現とは自分でもよくわからないものと格闘すること。−宮崎駿


自分でもよくわからないものとは、自分の中にいる「他人」「他者」のことだろう。創作活動とは自分の中にいる「他者」との対話であり、「他者」を解放することでもある。その「他者」は決して作者を代弁するために生まれてくるのではない。逆にその「他者」が作者を屈服させてしまうことだってあるのだ。

映画は映画になろうとする。その時自分は映画のしもべ、奴隷になる。−宮崎駿

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2013年04月24日

映画「リンカーン」善と正義の対立

映画「リンカーン」善と正義の対立
このタイトルの意味は「善」は奴隷制度廃止、「正義」は戦争回避を意味する。映画「リンカーン」では奴隷制度廃止を優先するか、南北戦争を早く終わらせるかの二択に揺れるアメリカ議会を描いている。

現代に生きる我々は当然、奴隷制度廃止が優先に決まってると思うだろう。奴隷制度はどう考えても絶対悪であり、すぐにでも廃止しなければならない制度であるのは明らかだからだ。

アメリカの有名な政治哲学者にサンデルという人がいる。彼の哲学の特徴を一言で言い表すと「正義に対する善の優越」ということになる。「善は正義に優越する」ってどゆこと?これは南北戦争を例に取れば簡単に説明できる。

リンカーンの若いときからの政敵にダグラスという人がいた。ダグラスは奴隷制度に関しては州ごとに考えが違う。だからこの問題は棚上げにして、南北の分裂を防ぐべきだと主張した。それに対しリンカーンは奴隷制度は「悪」なのだから道徳的判断を棚上げするべきではなく、奴隷制度は廃止すべきであると主張した。(リンカーン-ダグラス論争)

すなわちダグラスのような南北分裂を避け戦争を回避しアメリカ合衆国を守ること=公共の正義より、悪である奴隷制度を廃止する道徳的価値判断=善を優先すべきだというのがサンデルの「正義に対する善の優越」である。公共の「正義」を守ることよりも「善」を優先することのほうが正しいとされるのだ。

この考えが正しければ、当然映画「リンカーン」でのリンカーンの判断は正しいことになる。多くの人にもそう見えるだろう。だがしかし、南北戦争の戦死者の数を見てほしい。

南北戦争戦死者62万4511人(推定)

これがどのくらい異常な数か、他のアメリカの戦争と比較してみればわかる。

第一次世界大戦アメリカ人戦死者11万6516人
第二次世界大戦アメリカ人戦死者40万5399人
ベトナム戦争アメリカ人戦死者5万8209人
(数字は「戦争指揮官リンカーン」より引用)

高性能の大量殺戮兵器が使用された20世紀の第二次世界大戦の戦死者より19世紀の南北戦争の戦死者数がはるかに上回るのである。戦死者数60万人以上といわれてもピンとこない人はこの数を現代のアメリカの人口比率に直せばそれがどのくらい驚くべき人数なのかわかるだろう。

南北戦争時のアメリカの人口は約3千万人程度、2012年度のアメリカの人口は約3億人。約10倍である。現代のアメリカで戦争が起こり戦死者数600万人以上となることを想像してほしい。600万人の死者・・・それは世界の様相が一変するほどの戦死者の数といえるだろう。そういう事態が19世紀のアメリカ国内だけで起こったのである。

ここで問いたい。このような莫大な戦死者を出してまで守るべき「善」などあるのだろうか?

奴隷制度が「悪」であるのに疑問の余地はない。だが、この「善」を貫き通すために60万の人たちがむごたらしく死んだのは、必要な犠牲だったといえるのか。

リンカーンは共和党の急進派であるサディアス・スティーヴンス(トミー・リー・ジョーンズ好演)らからつねに批判されてきた。そのどっちつかずの曖昧な態度を。リンカーンは奴隷制度廃止よりも常にアメリカ連邦維持を優先してきた。急進派のいうように奴隷制度廃止を急げば南北が分断されるのは火を見るよりも明らかだったからだ。リンカーンは理想に燃える政治家というよりはバランスを重視する現実的な政治家だった。

リンカーンが大統領になり、南部が独立してもリンカーンは連邦に残った奴隷制度を支持する州に配慮して奴隷制度を廃止するとは言わなかった。それが変わったのは、南北戦争が長引き、もはや南部の復帰が絶望的になったと悟ったときだ。

リンカーンは穏便に南部を連邦に復帰させることをあきらめた時「奴隷解放宣言」を出す。奴隷解放という絶対「善」の大義名分をかかげ、北部に道徳的優位性があり、南部は道徳的に劣った「悪」の存在であるというレッテルを貼るのである。

リンカーンのこの宣言により、南北戦争は単なる内乱の位置づけから、「善」と「悪」の戦いに変わる。南北戦争は自由と平等を世界に向けて証明する「聖戦」となるのだ。

これは南部を「在来の敵」から、殲滅するほかない「絶対的な敵」へと変換することを意味する。

在来の敵とはいわばルールにのっとった敵対関係のこと。そうした敵とは交渉もし、妥協もし、和解も可能な敵である。しかし絶対的な敵とはそうしたことは一切許されない。絶対的な敵対関係とは「敵を有罪化」することに他ならない。(カール・シュミット)

それが如実に表れたのが北軍のシャーマン将軍による「焦土作戦」だろう。それまでは民間人や民間の施設には手を出さないというルールがあったが、シャーマン将軍が指揮を執り始めて以降そうしたルールは無視され、攻め込んだ街のあらゆるものを破壊し尽くす作戦に切り替わった。映画「風と共に去りぬ」でも描かれたアトランタ炎上がそれである。

リンカーンの変節は南北分裂を防ぎ、連邦を維持することによって戦争を回避しようとした「正義」から、奴隷制度廃止という「善」へと切り替え、南北戦争を南軍を殲滅するほかない「聖戦」へと変えてしまったことにある。聖なる戦いのもとではどのような残虐行為も容認されてしまう。サンデルのいう「正義に対する善の優越」は在来の敵を絶対的な敵へと変えるのである。

映画の中のリンカーンがおびただしい戦死者の中を馬で行くシーンがある。私はこのシーンを見て、彼が暗殺されたのはこの死者たちに引きずり込まれたのだとしか思えなかった。

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映画批評じゃなくなってしまいました。映画「リンカーン」はスピルバーグ作品なので質は保証付きです。絶対に見るべき作品です。映画を見てる最中、別に泣けるようなシーンじゃないところで涙ぐむことが何度もありました。私はジョン・フォードの「若き日のリンカーン」を見ても泣いてしまいます。それはアメリカ人のリンカーンに対する敬愛の念、思慕の深さ、アメリカ人のリンカーンに対する幻想の美しさに泣けてしまうのだと思う。私はそうしたアメリカ人の幻想をとがめ立てするようなことはしたくない。・・・しかし南北戦争の戦死者数を見ると深く考え込んでしまうのです。
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2013年03月14日

映画ごっこを越えて「ジャンゴ」

「(タランティーノ)映画はすべてごっこ遊びでしかないのだ」ー柳下毅一郎(映画秘宝3月号ジャンゴ評より)


タランティーノ映画を言い表すのにこれ以上の言葉はないだろう。タランティーノは自分の好きなジャンル映画をひたすら模倣し、コラージュする「映画ごっこ」遊びの達人である。そしてそんなタランティーノ映画を見て喜んでいる私たちはタランティーノが砂場で泥(映画)をこねるのを取り囲みながら夢中になって見ている子供みたいなものだ。つまりタランティーノマニアは映画の中の物語を楽しむのではなく、映画におけるタランティーノの手癖を見て楽しんでいるのだ。これはメタ的な映画の観方といえるだろう。

ウンベルト・エーコの文学理論で「モデル読者」と「モデル作者」という考え方がある(「エーコの文学講義」)。モデル読者とは物語の中に入り込み、その物語に疑いを向けない読者のこと。例えば物語に出てくるネズミやカエルが人語を話してもそれに驚いたり腹を立てたりしない読者のことだ。ようするに物語に積極的に乗っかってくれる理想的読者、それがモデル読者だ。そんなモデル読者が物語の中のたくらみに乗っかるとき、そのたくらみを作り出す存在として想定するのがモデル作者である。

ここではモデル作者はあくまで読者が想定する「作者像」であって、実在の作者は一切問題にされない。実在の映画作家タランティーノがどんな人間で、どんな思想の持ち主であるとか、ジャンゴを撮るときにどんな意図があったのかは問題にはならないのだ。これを難しい言葉で言うと翻訳不可能性とかコミュニケーションの非対称性とか、作者還元不可能性という。テクスト論的にいうと作者主体とエクリチュールは切断されているのだ。ようするにタランティーノの意図やメッセージ、「本当に言いたいこと」なんて赤の他人にわかるわけないのだ。

だから読者は実在の作者ではなく「モデル作者」というものを作り出す。作品にモデル作者の意図を見いだし、自分をモデル作者の意図を見いだすモデル読者として創造するのだ。エーコいわくモデル読者にも初級と中級があって、初級は物語に没入してくれる読者。不信を停止してくれる読者のこと。中級は作品に含まれるたくらみや戦略にモデル作者の意図を見いだし、その意図どおりのモデル読者を構築しようとする読者。想定するモデル作者と同一化しようとする読者のことだ。冒頭の柳下さんの言葉はいわば中級のモデル読者といえる。タランティーノというモデル作者の意図(とされるもの)「マカロニごっこ遊び」を見いだし、それを楽しむモデル読者としてふるまっているのだ。

モデル作者たるタランティーノはまさにタランティーノスタイルである「ごっこ遊び」の権化として、そこかしこにマカロニウエスタンのオマージュをちりばめて映画ファンのヲタク心をくすぐり、映画ファンはモデル読者=メタ観客としてタランティーノがマカロニごっこをして遊ぶのを見て楽しむのである。そしてもちろんこの私も映画を見る前から中級のメタ観客としてタランティーノのマカロニごっこを見て楽しむつもりだったはずが・・・・映画を見始めてからすぐに私は中級のメタ観客であることを降りざるえなくなる。

私を中級のモデル読者=メタ観客から引きずりおろしたのは、恐るべき視線・・・白人の視線という網の目である。ジャンゴが馬に乗って町に入るだけで突き刺さるような白人たちの視線視線視線。それは憎悪や嫌悪とも違う、白人たちのありえないものを見たという驚きの視線である。馬に乗っている黒人という姿がもうすでに白人たちにとっては常識外れ驚天動地の光景なのだ。

19世紀アメリカ社会を支配しているのは法律ではない。文字にも言葉にもあらわすことのできない不文律−白人の視線である。この世界の黒人の行動と思考を決定するのは他でもない白人の視線なのだ。白人の視線という網の目が張り巡らされた世界で黒人はどう生きなければならないのか。J.M.バーダマン「アメリカ黒人の歴史」より抜粋してみよう。

・白人の連れがなく単独で黒人がプランテーションを離れて歩いていると即座に近くの刑務所に連行される。
・黒人は白人に対しては常に「ミスター、ミス」と敬称をつけて呼ばなければならず、白人から話しかけられないかぎりしゃべってはならない。
・黒人が白人と話すときは黒人は帽子を脱いで尊敬の証として帽子を両手で前に持たなくてはならない。
・黒人が反対方向から歩いてくる白人に遭遇したときには白人が通り過ぎるまで道を譲らねばならない。
・黒人は白人と同じテーブルについてはならない。
・黒人男性は白人女性を直接見てはならない。etc,etc....

白人によって張り巡らされた視線の鉄条網は黒人の尊厳を根こそぎ奪いとる。黒人たちは常に白人に気を遣い、白人の視線を気にしながら暮らすしかない。白人の視線という有刺鉄線に少しでも引っかかれば、問答無用でリンチを受けるのだ。(当時黒人を殺した白人が罪に問われることはほとんどなかった)

マカロニウエスタンの敵は極悪非道、悪辣な敵役がせいぜい一人とその他の雑魚部下たちだけだろう。だが映画「ジャンゴ」は違う。ジャンゴにとっての敵は一人ではなく、白人全員、すなわち当時のアメリカ社会全体である。これは途方もない恐怖と絶望を呼び起こす。アメリカ社会全体が敵ということは、ジャンゴには逃げる先も、身を隠す場所も、心休まる土地も何もないということだからだ。この映画の緊張感とサスペンスはそこから来る。

しかもその緊張感とサスペンスという恐怖は突然襲ってくるのではなく、日常的に存在する。その恐怖は家庭では良き父であり、母であり、良き娘、息子たちである普通の人間たちなのだ。普通の人間が普通に黒人を虐待し、それをごく普通のこととして誰一人疑問を持たない社会がジャンゴの敵である。これほど途方もない敵があるだろうか。

タランティーノはインタビューに答えて言う
「(ジャンゴのパートナーを)ホワイトアメリカンじゃなくてドイツ人にしたのは、アメリカ白人の中にもいい人がいるってことになると、お仕置きパワーが弱まってしまうから」(TVBROS3月2日号より)


この映画の敵は社会に深く根を下ろし、容易に抜きさることのできないもの−奴隷制度そのものだ。このような異常な世界(だが実在した世界)に置かれた主人公に突き刺さる視線は映画を見る私をメタ観客という安穏とした地位に置かしてはくれない。

ジャンゴのラストシーンに不満があるという意見も聞く。それはそうだろう。マカロニウエスタンでは手強い敵との一対一の決闘で敵を打ち倒し観客はカタルシスを得ることになっている。だがこのジャンゴでは敵は19世紀のアメリカ社会全体なのだ。このような強大な敵を倒すことなどできようはずもない。勝利したとしてもほんのつかの間の勝利にすぎない。それゆえに映画「ジャンゴ」のハッピーエンディングは切ないまでに美しい。なぜならあのハッピーエンディングははかない幻想にすぎないからだ。

現実の19世紀アメリカでは白人を殺した黒人が生きのびられる可能性はゼロに等しい。ジャンゴとブリュンヒルデは地の果てまで追いつめられ捕らえられるだろう。そして彼らが裁判にかけられることはない。奴隷が解放され南北戦争が終わって30年後、1899年の黒人サム・ホーズの運命を見ればわかる。

サムは雇い主の白人に殺されそうになり自衛のために逆に殺してしまう。サムは捕らえられるが法廷で裁きを受けることはなく、2千人以上の群衆の前でリンチにかけられる。リンチの扇動者の一人がサムの片方の耳をそしてもう一人が指と性器を切り取り、さらには他の一人がサムの顔の外皮をはいで殺したのだ。このことについて連邦司法長官は連邦政府は一切関与しないと答えた。アメリカ政府は白人による黒人のリンチを法的に歯止めをかける気がなかった。ー「アメリカ黒人の歴史」


白人の視線という鉄条網が張り巡らされた世界に放り込まれた私は、タランティーノのごっこ遊びを楽しむというメタ観客の地位を剥奪され19世紀のアメリカという地獄をゆく一人の黒人となる。

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文中では黒人ではなくアフリカ系アメリカ人とするべきかなと思ったんですが、「アメリカ黒人の歴史」では「ブラック・アメリカン」、「ブラック・ピープル」、また単に「ブラックス」が現在でも特に差別的な意味合いがなく使われていると書かれていたので黒人に統一しました。映画で使われている「ニガ−」はきわめて差別的な意味合いがあるので使っちゃダメ。
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2013年01月13日

エヴァンゲリヲンQと自由意志問題

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見た。面白くてびっくりした。Qとくらべたら序も破も凡作と言って差し支えないのではないか。オープニングからしていったい画面上で何が起きているのかさっぱりわからないにもかかわらず、こんなにワクワクドキドキする自分にびっくりする。いや、ちょっと待て自分。意味がわからないのに面白いって子供じゃないんだからと、一応解釈らしきものがぼんやりと浮かんできたので書いてみる。

エヴァQの主人公シンジはその選択という選択、行動という行動がすべて裏目にでる。よかれと思ってしたことが、ことごとく悲惨な状況を生み出してしまう。このような主人公は他の映画でも見たことあるな〜と思い出したのがフランク・ダラボンの映画「ミスト」だ。

ミストを観た人はわかると思うが、ミストの主人公であるお父さんは子供を守るために行動するまさに正統派ヒーローだ。モンスターが闊歩する異常な世界にいながら果断に決断し、行動する主人公らしい主人公。しかしこの映画「ミスト」が特異なのは、このお父さんの決断という決断、行動という行動がすべて間違っているというところにある。ヒーローとして作品世界に君臨する主人公の選択と行動がすべて間違っているとどうなるのかを映画「ミスト」は冷酷に描く。主人公を信じ、支持し、ついてくる人間をことごとく死に至らしめるのだ。

ミストでいわゆる悪役として描かれるのはキリスト教原理主義のババァだが、この映画の二重の皮肉は、主人公の決断と行動、すなわち「自由意志」がことごとく間違っていたという意味で、作品自体が「自由意志」を否定するカルヴィニズムを体現している点にある。悪役も原理主義者なら、作品自体も原理主義的内容に沿っているのだ。

ミストのお父さんとエヴァQのシンジが重なり合うのは、まさにその点、「自由意志」がことごとく否定される点にある。

キリスト教における自由意志問題はキリスト教の根幹にかかわる問題である。神は全能と永遠と定義される以上、「これまで起きたこと」、「今起きていること」、「これから起きること」すべてを見通している。したがって救済される人は生まれる前から神によって決められているとするのがキリスト教の教義「予定説」である。この世の出来事はあらかじめ神によって決定されているのだ。

だがしかし、そうなると問題が出てくる、すべてが決定されているならば、殺人などの犯罪を犯した人間もあらかじめ決定されていたことになる。そうなるとあらかじめ決定されていたのだから殺人犯に罪はないことになってしまう。人間には自由意志があるから善をなしたり、悪をなしたりすることができるという考えに立たないと矛盾が出てくるのだ。ここで「自由意志」問題が浮上してくるわけだ。

キリスト教における自由意志問題を雄弁に語ったのがペラギウス(354年−不明)である。人間は神に作られた以上、自由意志を持っている。善をなすのも悪をなすのもあらかじめ決定されているのではなく、自らの意志で選択することができる。

これに対し反駁をくわえたのが「告白」などの著作で知られるアウグスティヌス(354年−430年)である。アウグスティヌスは人間は罪にまみれた弱い存在でしかないとし、そのような罪人である人間が自らの意志で善を選択することはできない。人間はひたすら神にすがるほかないのだ。

二人の対照的な考えをまとめると

アウグスティヌス
@予定説・すべてはあらかじめ神によって決定されている。
A原罪説・人間は生まれながらに罪を背負っている。
B自由意志否定・人間は原罪のためかならず間違った選択をしてしまう。
C信仰義認・信仰によってのみ神に認められる。

ペラギウス
@予定説否定・神によって作られた人間は自由である。
A原罪説否定・神の似姿である人間が罪を背負って生まれてくるはずがない。
B自由意志肯定・イエス・キリストを教師として人は自分の意志で善を選択できる。
C実践義認・道徳的な行為によってのみ神に認められる。

アウグスティヌスにおける神は絶対的な存在であり、人間の力ではどうやっても神に届くことはできないことを示しているなら、ペラギウスにとって神は道徳的な手本として存在し、イエスの行為をまねることによって神に届くことができるとする。

このペラギウスの考えは決断主義的、行動主義的であり、自らの自由意志によって人間を、世界を変革することができるということを確信してる点においてエヴァQの碇シンジと同じである。

映画のクライマックスにおいてシンジはよくわからないにもかかわらず、ロンギヌスの槍を抜けば世界が良くなると考えた。そこには世界がこの先どのようになるかの吟味も内容もなく、ただ決断し、行動することこそがこの停滞した状況を変えられるがゆえに、善であり、正義であるという考えが根底にある。

決断主義の誤謬は決断の内容が一切かえりみられず、ただ決断することのみが重視される点にある。なんらかの価値に基づいたものでない決断は必然的に悲惨な状況へと決断したものを投げ込むことになる。シンジの決断と行動がことごとくあやまちとなり、周囲の人間が返り血を浴びることになるのはそのためだ。

いわば、このエヴァンゲリヲンQという作品自体、アウグスティヌス的、カルヴィニズム的な予定説−すべては神によって定められている−に支配されている。サードインパクトもフォースインパクトも人類滅亡も、すべてあらかじめ決定されている。そんなすべてが予定された世界の中で自由意志によって世界を変えられると考えた人間は「ミスト」のお父さんやエヴァQのシンジのように無惨な姿を晒すほかないのだ。

こうしてエヴァンゲリヲンQの自由意志は異端とされその全著作を灰にされたペラギウスの運命と同じように無残に敗北する・・・だがしかし、だがしかしである。次回作の「シン・エヴァンゲリオン」には、だがしかし・・・を見せて欲しいと願っている。

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・・・と一応解釈はしてみたものの、この映画をはじめて見た時の意味わかんね〜けどめちゃ面白い!という原初的な感動には1ミリたりと近づけていないのが本当のところ。言葉ってむなしい、そして映画は偉大だ。
posted by シンジ at 18:03| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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