2013年10月15日

家族とは何かという問い「そして父になる」

家族とは何かという問い「そして父になる」

是枝裕和監督作品、映画「そして父になる」を観る。

この映画は血のつながりがあるから家族に「なる」のではなく、血のつながりのない者同士が家族に「なろう」とすることを描いている。家族というものはただ血がつながっているから、一緒に住んでいるから家族になるのではなく、愛や信頼といった強い意志、つまり家族に「なろう」とする意志がなければそれは「家族」ではないということ。それはつまり家族に「なろう」とする意志があれば血のつながりのない赤の他人同士でも家族になれることを示す。と、ここまでは以前書いた映画評「八日目の蝉」(東京物語とコジェーヴで読み解く「八日目の蝉」)とテーマが同じなので言ってることの繰り返しになっているが、じゃあ根本的な問題として「家族」ってなんだよ、という問いに突き当たってしまう。

「家族とは何か」なんてあまりにも根本的な問いすぎて、荷が重いのだが、「そして父になる」を見る上で避けては通れないと思ったので無理やり考えてみる。

家族とは何か。生物学的に言えば、自分の遺伝子を残すためのものという身も蓋もない答えが出てしまう。人間以外の生物も家族という単位を作るが、それは自分の遺伝子を残すというプログラミングでしかない。たとえばよく知られているライオンのオスの行動がある。他のオスからメスを奪ったオスライオンは、そのオスとメスの間に生まれた子供を皆殺しにする。子供が死ななければメスは発情せず、交尾すること=自分の遺伝子を残すことができないからだ。人間以外の生物にとって、家族を作ることとは遺伝子を残すための自動的なプログラミング以外の何ものでもない。

しかし人間と他の生物との違いは、人は遺伝子の命令(自己保存という脳の命令でもいい)というプログラミングを超える文化的価値を創造する点にある。家族はいわばその文化的価値の産物である。といっても「家族」という制度に関しては毀誉褒貶もある。近代の家族制度は「国民国家」の誕生とともに生まれた制度だろう。国家にとって一人一人の民衆から税金を取るより、男性を中心とした家族という単位を作り、そこから税金を取った方が効率的である(徴兵も)。近代の家族制度は徴税の効率性から生じたものにすぎない。

しかしそれでも「家族」という仕組みが完全に消滅するとも思えない。姿や形、制度や思想が変われど「家族」という形態は数百年後も残るはずだ。そしてその「家族」は遺伝子を残すために存続するのではなく、人の信念を存続させるために存在するようになる。

フランソワ・ダゴニエはこういう
「いかなる社会的参加にも関わらず、自分だけに頼るものは最悪の抑圧に屈することになる」と。


その最悪の抑圧に対抗するための最小の社会的参加単位こそが「家族」である。自分の生命、自由を守るために、信念と愛で結びついた最小の社会的参加単位。さまざまな社会の抑圧から身をていして守ってくれる信念の単位である。この信念の単位はもはや遺伝子を存続させるためなどという生物学的なシステムや、血縁主義から遠く離れている。「そして父になる」は血縁主義や近代の国家制度を超えたところで「家族」を構築しようとするこころみを提示しているとはいえないだろうか。

・・・たんなる映画批評が大げさな方向にいきすぎたかな。でもこの映画を見て「家族っていいもんだな〜」という感想をもつのは能天気すぎると思ったので。「家族」という文化的価値が自明のものとしてあることに揺さぶりをかける意図が是枝監督にはあったと思う。つまりこの映画を観ると、あなたの信じてる「家族」ってなにかね?という問いを突きつけられるのだ。






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閑話休題
℃-uteの矢島舞美さんが「そして父になる」を観て感想をブログに書いていた。感動したのでURLを貼ります。文章は人柄を表すという言葉は本当だった!奇跡のアイドルとしかいいようがない。


http://gree.jp/c_ute/blog/entry/673379446

昨日は久しぶりに一人映画しましたよー

最近、全然映画観に行ってなかったもんな〜(^^;;

観たのはですね〜(  ̄▽ ̄)
『そして父になる』

産後、取り違えられた子供を6年間我が子と思って育ててきた夫婦。

その事実を知って今までの生活が崩れて行くんですが、その中で親として成長していく物語!!

テレビであらすじを知った時点で

『うわー
こんな事が自分の身に起きたらどうするんだろう…
』って思ってしまいました

実際に映画を観て…

ズシッときましたねー

いろんな立場で感情移入してしまいました

子供は何にも悪くないのに、『明日から、違う人がパパとママです!』って突然言われたって…

『じゃあ、私、もうこの家にいらないの?』って、心にすっごい傷をおいますよね…。

でも親の葛藤も分かります

これまで自分の子と思って愛情を注いできた我が子をとるのか

自分たちと血の繋がった本当の我が子をとるのか

あー
もぅダメだ

考えられない

映画の中のある人に向かって
『もぅ(●`ε´●)あの人は許せない
』って思っちゃいましたもん!!(^^;;

…役なのに…ごめんなさい(;^_^A

だけど、その事で、自分に足りなかったものに気が付く事ができて

徐々に徐々に、自分を変えていく…変わっていく父親の姿に、やじはもぅ……一人で涙腺崩壊寸前でした

まだまだ先の話だけど
いつか私がお母さんになったら、その時は子供が今どんな気持ちでいるのか、ちゃんと気付いてあげられるようなお母さんになりたいな

そしていーーっぱい愛してあげたい

…なんて事を思う映画でした

そんな映画を観たからか…

父と母に感謝の気持ちが沸いてきて

そのまま2人にプレゼントを買って帰りました

父には直接渡せたけど
母は用事で会えないまま、私も北海道に向けて前泊しなくちゃいけなかったから

お手紙と一緒にベッドの横に置いてきました

お母さん、気付くかな〜

ちょっと照れくさいね(///∇///)

ちなみに父は
『どうしたの
(゜o゜)/』と、ビックリしながら喜んでました(笑)

だって本当は一人で都内に向かうはずだったのに

『送ってあげるよ
可愛い娘のためだもん
……なんちゃってf(^_^)』とか言い出してましたもん(笑)

ははは(*´∇`*)
相変わらず愉快な父だぁ


つい引用してしまいました。

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posted by シンジ at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

風立ちぬ批評を批評する。作品イコール作者は正しいか?

風立ちぬ批評を批評する。作品イコール作者は正しいか?

ネットで見られる宮崎駿監督「風立ちぬ」評でよくできた批評はなぜか方向性が同じである。とくにこの三つの批評。

岡田斗司夫氏の批評
http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html

町山智浩氏の批評
http://www.youtube.com/watch?v=S8LBzoSx430

横岩良太氏の批評
http://urx.nu/4YCG

いずれも宮崎駿監督の人間観世界観がダイレクトに作品に反映してるというのが論旨である。いわく結核の妻の前で平然とタバコを吸う二郎の姿は宮崎駿自身であり、戦争に興味もなく、貧しい人たちにも興味がわかないのも宮崎自身であり、ピラミッドのない世界より、ピラミッドのある世界のほうがいいと思っているのも宮崎自身である・・・というような、作品と作者が完全に一体化しているとする批評。

この三つがよくできた批評だと認めつつも、やはり違和感があるといわざるをえないのはこの三つの批評の根底にある作品の創造観に受け入れがたいものがあるからだ。

その根底にある考えとは、作者と作品とは同根であり、作者と作中人物は同一であるという考え方だ。作品は作者の考えを100%反映したものであり、作品内の登場人物は作者のメッセージを伝達する役割を持つという考えがこの三つの批評に共通する考え方だ。

はたしてひとつの作品を創造するということは、ひとつのまったく揺るぎのない人格や個人の思想をそのまま作品に投影するような作業なのであろうか。私は違うと思っている。

ひとつの作品を創造するということは

ある種の小説家にとっては、物を書いているときに自分を発見し、自分を生み出しているように思われる。−ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」


作品は作者のあらかじめ保有している思想や感情をコピー&ペーストするようなものではない。むしろ書くたびに、新たな発見があり、驚きがあり、意外性が生み出されるもの。こうした作者が作品をコントロールできない実例はどこにでも転がっている。たとえば私の大好きな池波正太郎は「鬼平犯科帳」連載中、作中の人気キャラである伊三次を死なすつもりがなかったのに、書いているうちに死んでしまって呆然としたというようなことを言っています。

私だって、彼らを死なせたくなかったのだ。いつまでも生きていて、「鬼平」の連載を助けてもらいたかった。ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい。ペンでつくりあげた人間が、ほんとうに生命をもってしまうとしか、おもわれないときがある。−池波正太郎「日曜日の万年筆」


作者の生み出した作中人物が、まるで生命をもったかのように作者の手を離れ勝手に動き出してしまうことは創作の現場では普通にあることです。宮崎駿自身もこう語っています。

自分がこれで何かを訴えたいというよりも、映画がこれを言いたがっているんだから、それを言わなきゃしょうがない。


絵を描いて動かしていくと、自分がこういう人物だと思っていた人物が理解が足りなくてそうじゃなかったとわかったり、この人はこういうことをするはずがないとわかったりする。−「もののけ姫はこうして生まれた」より


作者と作品の登場人物は決してイコールではないのです。作者と作品の登場人物との関係はまるで対話を重ねる他人同士のようだ。自分の中にさまざまな他人がうごめき、それとひとりずつ探り探り対話を重ねていく作業のように見える。

ウェイン・C・ブースは作品が駄作であればあるほど作品と現実の作者の問題とを結び付けて考えられるようになると皮肉る。

(フロベールの有名な言葉とは違い)「ボヴァリー夫人」の作者は、一見したところでは作品にほとんど姿を見せていないように見える。それは「ボヴァリー夫人」が傑作だからである。言い換えれば、渾然一体をなし、一つの全体として、それを創造した者から離れた一つの世界として、自己を主張する作品だからである。われわれが不完全であるにつれ、隙間からその憐れな作者の悩める魂が顔を出すのである。−ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」


作者が知っていることを伝えるのは伝達であって創造ではない。作者のメッセージを伝達するだけの作品は「ゴミ」でしかない。作品が作者のくびきを離れ独立した世界を作り出すような作品が「傑作」と呼ばれるのである。

ドストエフスキーの小説では、登場人物の声が、それぞれひとつの独立した声として登場し、作者自身の声を代弁することがない。つまり、登場人物は、作者の個人的な趣味や世界観といったモノローグに回収されることなく、独立した人格として自己を主張するということである。−亀山郁夫「カラマーゾフの兄弟」読書ガイド


堀越二郎は宮崎駿のメッセージの伝達者でもなければ、代弁者でもない。おそらく宮崎が絵を描いているうちに、こんな風に動くのか!?こんなことを言ったりするのか!?という驚きとともに自己主張を始めたのではないだろうか。堀越二郎は宮崎駿から独立した「他人」としてうごめきはじめるのだ。

自分が知っていることを伝えるのは伝達であって、表現ではない。表現とは自分でもよくわからないものと格闘すること。−宮崎駿


自分でもよくわからないものとは、自分の中にいる「他人」「他者」のことだろう。創作活動とは自分の中にいる「他者」との対話であり、「他者」を解放することでもある。その「他者」は決して作者を代弁するために生まれてくるのではない。逆にその「他者」が作者を屈服させてしまうことだってあるのだ。

映画は映画になろうとする。その時自分は映画のしもべ、奴隷になる。−宮崎駿

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2013年04月24日

映画「リンカーン」善と正義の対立

映画「リンカーン」善と正義の対立
このタイトルの意味は「善」は奴隷制度廃止、「正義」は戦争回避を意味する。映画「リンカーン」では奴隷制度廃止を優先するか、南北戦争を早く終わらせるかの二択に揺れるアメリカ議会を描いている。

現代に生きる我々は当然、奴隷制度廃止が優先に決まってると思うだろう。奴隷制度はどう考えても絶対悪であり、すぐにでも廃止しなければならない制度であるのは明らかだからだ。

アメリカの有名な政治哲学者にサンデルという人がいる。彼の哲学の特徴を一言で言い表すと「正義に対する善の優越」ということになる。「善は正義に優越する」ってどゆこと?これは南北戦争を例に取れば簡単に説明できる。

リンカーンの若いときからの政敵にダグラスという人がいた。ダグラスは奴隷制度に関しては州ごとに考えが違う。だからこの問題は棚上げにして、南北の分裂を防ぐべきだと主張した。それに対しリンカーンは奴隷制度は「悪」なのだから道徳的判断を棚上げするべきではなく、奴隷制度は廃止すべきであると主張した。(リンカーン-ダグラス論争)

すなわちダグラスのような南北分裂を避け戦争を回避しアメリカ合衆国を守ること=公共の正義より、悪である奴隷制度を廃止する道徳的価値判断=善を優先すべきだというのがサンデルの「正義に対する善の優越」である。公共の「正義」を守ることよりも「善」を優先することのほうが正しいとされるのだ。

この考えが正しければ、当然映画「リンカーン」でのリンカーンの判断は正しいことになる。多くの人にもそう見えるだろう。だがしかし、南北戦争の戦死者の数を見てほしい。

南北戦争戦死者62万4511人(推定)

これがどのくらい異常な数か、他のアメリカの戦争と比較してみればわかる。

第一次世界大戦アメリカ人戦死者11万6516人
第二次世界大戦アメリカ人戦死者40万5399人
ベトナム戦争アメリカ人戦死者5万8209人
(数字は「戦争指揮官リンカーン」より引用)

高性能の大量殺戮兵器が使用された20世紀の第二次世界大戦の戦死者より19世紀の南北戦争の戦死者数がはるかに上回るのである。戦死者数60万人以上といわれてもピンとこない人はこの数を現代のアメリカの人口比率に直せばそれがどのくらい驚くべき人数なのかわかるだろう。

南北戦争時のアメリカの人口は約3千万人程度、2012年度のアメリカの人口は約3億人。約10倍である。現代のアメリカで戦争が起こり戦死者数600万人以上となることを想像してほしい。600万人の死者・・・それは世界の様相が一変するほどの戦死者の数といえるだろう。そういう事態が19世紀のアメリカ国内だけで起こったのである。

ここで問いたい。このような莫大な戦死者を出してまで守るべき「善」などあるのだろうか?

奴隷制度が「悪」であるのに疑問の余地はない。だが、この「善」を貫き通すために60万の人たちがむごたらしく死んだのは、必要な犠牲だったといえるのか。

リンカーンは共和党の急進派であるサディアス・スティーヴンス(トミー・リー・ジョーンズ好演)らからつねに批判されてきた。そのどっちつかずの曖昧な態度を。リンカーンは奴隷制度廃止よりも常にアメリカ連邦維持を優先してきた。急進派のいうように奴隷制度廃止を急げば南北が分断されるのは火を見るよりも明らかだったからだ。リンカーンは理想に燃える政治家というよりはバランスを重視する現実的な政治家だった。

リンカーンが大統領になり、南部が独立してもリンカーンは連邦に残った奴隷制度を支持する州に配慮して奴隷制度を廃止するとは言わなかった。それが変わったのは、南北戦争が長引き、もはや南部の復帰が絶望的になったと悟ったときだ。

リンカーンは穏便に南部を連邦に復帰させることをあきらめた時「奴隷解放宣言」を出す。奴隷解放という絶対「善」の大義名分をかかげ、北部に道徳的優位性があり、南部は道徳的に劣った「悪」の存在であるというレッテルを貼るのである。

リンカーンのこの宣言により、南北戦争は単なる内乱の位置づけから、「善」と「悪」の戦いに変わる。南北戦争は自由と平等を世界に向けて証明する「聖戦」となるのだ。

これは南部を「在来の敵」から、殲滅するほかない「絶対的な敵」へと変換することを意味する。

在来の敵とはいわばルールにのっとった敵対関係のこと。そうした敵とは交渉もし、妥協もし、和解も可能な敵である。しかし絶対的な敵とはそうしたことは一切許されない。絶対的な敵対関係とは「敵を有罪化」することに他ならない。(カール・シュミット)

それが如実に表れたのが北軍のシャーマン将軍による「焦土作戦」だろう。それまでは民間人や民間の施設には手を出さないというルールがあったが、シャーマン将軍が指揮を執り始めて以降そうしたルールは無視され、攻め込んだ街のあらゆるものを破壊し尽くす作戦に切り替わった。映画「風と共に去りぬ」でも描かれたアトランタ炎上がそれである。

リンカーンの変節は南北分裂を防ぎ、連邦を維持することによって戦争を回避しようとした「正義」から、奴隷制度廃止という「善」へと切り替え、南北戦争を南軍を殲滅するほかない「聖戦」へと変えてしまったことにある。聖なる戦いのもとではどのような残虐行為も容認されてしまう。サンデルのいう「正義に対する善の優越」は在来の敵を絶対的な敵へと変えるのである。

映画の中のリンカーンがおびただしい戦死者の中を馬で行くシーンがある。私はこのシーンを見て、彼が暗殺されたのはこの死者たちに引きずり込まれたのだとしか思えなかった。

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映画批評じゃなくなってしまいました。映画「リンカーン」はスピルバーグ作品なので質は保証付きです。絶対に見るべき作品です。映画を見てる最中、別に泣けるようなシーンじゃないところで涙ぐむことが何度もありました。私はジョン・フォードの「若き日のリンカーン」を見ても泣いてしまいます。それはアメリカ人のリンカーンに対する敬愛の念、思慕の深さ、アメリカ人のリンカーンに対する幻想の美しさに泣けてしまうのだと思う。私はそうしたアメリカ人の幻想をとがめ立てするようなことはしたくない。・・・しかし南北戦争の戦死者数を見ると深く考え込んでしまうのです。
posted by シンジ at 18:03| Comment(4) | TrackBack(1) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月14日

映画ごっこを越えて「ジャンゴ」

「(タランティーノ)映画はすべてごっこ遊びでしかないのだ」ー柳下毅一郎(映画秘宝3月号ジャンゴ評より)


タランティーノ映画を言い表すのにこれ以上の言葉はないだろう。タランティーノは自分の好きなジャンル映画をひたすら模倣し、コラージュする「映画ごっこ」遊びの達人である。そしてそんなタランティーノ映画を見て喜んでいる私たちはタランティーノが砂場で泥(映画)をこねるのを取り囲みながら夢中になって見ている子供みたいなものだ。つまりタランティーノマニアは映画の中の物語を楽しむのではなく、映画におけるタランティーノの手癖を見て楽しんでいるのだ。これはメタ的な映画の観方といえるだろう。

ウンベルト・エーコの文学理論で「モデル読者」と「モデル作者」という考え方がある(「エーコの文学講義」)。モデル読者とは物語の中に入り込み、その物語に疑いを向けない読者のこと。例えば物語に出てくるネズミやカエルが人語を話してもそれに驚いたり腹を立てたりしない読者のことだ。ようするに物語に積極的に乗っかってくれる理想的読者、それがモデル読者だ。そんなモデル読者が物語の中のたくらみに乗っかるとき、そのたくらみを作り出す存在として想定するのがモデル作者である。

ここではモデル作者はあくまで読者が想定する「作者像」であって、実在の作者は一切問題にされない。実在の映画作家タランティーノがどんな人間で、どんな思想の持ち主であるとか、ジャンゴを撮るときにどんな意図があったのかは問題にはならないのだ。これを難しい言葉で言うと翻訳不可能性とかコミュニケーションの非対称性とか、作者還元不可能性という。テクスト論的にいうと作者主体とエクリチュールは切断されているのだ。ようするにタランティーノの意図やメッセージ、「本当に言いたいこと」なんて赤の他人にわかるわけないのだ。

だから読者は実在の作者ではなく「モデル作者」というものを作り出す。作品にモデル作者の意図を見いだし、自分をモデル作者の意図を見いだすモデル読者として創造するのだ。エーコいわくモデル読者にも初級と中級があって、初級は物語に没入してくれる読者。不信を停止してくれる読者のこと。中級は作品に含まれるたくらみや戦略にモデル作者の意図を見いだし、その意図どおりのモデル読者を構築しようとする読者。想定するモデル作者と同一化しようとする読者のことだ。冒頭の柳下さんの言葉はいわば中級のモデル読者といえる。タランティーノというモデル作者の意図(とされるもの)「マカロニごっこ遊び」を見いだし、それを楽しむモデル読者としてふるまっているのだ。

モデル作者たるタランティーノはまさにタランティーノスタイルである「ごっこ遊び」の権化として、そこかしこにマカロニウエスタンのオマージュをちりばめて映画ファンのヲタク心をくすぐり、映画ファンはモデル読者=メタ観客としてタランティーノがマカロニごっこをして遊ぶのを見て楽しむのである。そしてもちろんこの私も映画を見る前から中級のメタ観客としてタランティーノのマカロニごっこを見て楽しむつもりだったはずが・・・・映画を見始めてからすぐに私は中級のメタ観客であることを降りざるえなくなる。

私を中級のモデル読者=メタ観客から引きずりおろしたのは、恐るべき視線・・・白人の視線という網の目である。ジャンゴが馬に乗って町に入るだけで突き刺さるような白人たちの視線視線視線。それは憎悪や嫌悪とも違う、白人たちのありえないものを見たという驚きの視線である。馬に乗っている黒人という姿がもうすでに白人たちにとっては常識外れ驚天動地の光景なのだ。

19世紀アメリカ社会を支配しているのは法律ではない。文字にも言葉にもあらわすことのできない不文律−白人の視線である。この世界の黒人の行動と思考を決定するのは他でもない白人の視線なのだ。白人の視線という網の目が張り巡らされた世界で黒人はどう生きなければならないのか。J.M.バーダマン「アメリカ黒人の歴史」より抜粋してみよう。

・白人の連れがなく単独で黒人がプランテーションを離れて歩いていると即座に近くの刑務所に連行される。
・黒人は白人に対しては常に「ミスター、ミス」と敬称をつけて呼ばなければならず、白人から話しかけられないかぎりしゃべってはならない。
・黒人が白人と話すときは黒人は帽子を脱いで尊敬の証として帽子を両手で前に持たなくてはならない。
・黒人が反対方向から歩いてくる白人に遭遇したときには白人が通り過ぎるまで道を譲らねばならない。
・黒人は白人と同じテーブルについてはならない。
・黒人男性は白人女性を直接見てはならない。etc,etc....

白人によって張り巡らされた視線の鉄条網は黒人の尊厳を根こそぎ奪いとる。黒人たちは常に白人に気を遣い、白人の視線を気にしながら暮らすしかない。白人の視線という有刺鉄線に少しでも引っかかれば、問答無用でリンチを受けるのだ。(当時黒人を殺した白人が罪に問われることはほとんどなかった)

マカロニウエスタンの敵は極悪非道、悪辣な敵役がせいぜい一人とその他の雑魚部下たちだけだろう。だが映画「ジャンゴ」は違う。ジャンゴにとっての敵は一人ではなく、白人全員、すなわち当時のアメリカ社会全体である。これは途方もない恐怖と絶望を呼び起こす。アメリカ社会全体が敵ということは、ジャンゴには逃げる先も、身を隠す場所も、心休まる土地も何もないということだからだ。この映画の緊張感とサスペンスはそこから来る。

しかもその緊張感とサスペンスという恐怖は突然襲ってくるのではなく、日常的に存在する。その恐怖は家庭では良き父であり、母であり、良き娘、息子たちである普通の人間たちなのだ。普通の人間が普通に黒人を虐待し、それをごく普通のこととして誰一人疑問を持たない社会がジャンゴの敵である。これほど途方もない敵があるだろうか。

タランティーノはインタビューに答えて言う
「(ジャンゴのパートナーを)ホワイトアメリカンじゃなくてドイツ人にしたのは、アメリカ白人の中にもいい人がいるってことになると、お仕置きパワーが弱まってしまうから」(TVBROS3月2日号より)


この映画の敵は社会に深く根を下ろし、容易に抜きさることのできないもの−奴隷制度そのものだ。このような異常な世界(だが実在した世界)に置かれた主人公に突き刺さる視線は映画を見る私をメタ観客という安穏とした地位に置かしてはくれない。

ジャンゴのラストシーンに不満があるという意見も聞く。それはそうだろう。マカロニウエスタンでは手強い敵との一対一の決闘で敵を打ち倒し観客はカタルシスを得ることになっている。だがこのジャンゴでは敵は19世紀のアメリカ社会全体なのだ。このような強大な敵を倒すことなどできようはずもない。勝利したとしてもほんのつかの間の勝利にすぎない。それゆえに映画「ジャンゴ」のハッピーエンディングは切ないまでに美しい。なぜならあのハッピーエンディングははかない幻想にすぎないからだ。

現実の19世紀アメリカでは白人を殺した黒人が生きのびられる可能性はゼロに等しい。ジャンゴとブリュンヒルデは地の果てまで追いつめられ捕らえられるだろう。そして彼らが裁判にかけられることはない。奴隷が解放され南北戦争が終わって30年後、1899年の黒人サム・ホーズの運命を見ればわかる。

サムは雇い主の白人に殺されそうになり自衛のために逆に殺してしまう。サムは捕らえられるが法廷で裁きを受けることはなく、2千人以上の群衆の前でリンチにかけられる。リンチの扇動者の一人がサムの片方の耳をそしてもう一人が指と性器を切り取り、さらには他の一人がサムの顔の外皮をはいで殺したのだ。このことについて連邦司法長官は連邦政府は一切関与しないと答えた。アメリカ政府は白人による黒人のリンチを法的に歯止めをかける気がなかった。ー「アメリカ黒人の歴史」


白人の視線という鉄条網が張り巡らされた世界に放り込まれた私は、タランティーノのごっこ遊びを楽しむというメタ観客の地位を剥奪され19世紀のアメリカという地獄をゆく一人の黒人となる。

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文中では黒人ではなくアフリカ系アメリカ人とするべきかなと思ったんですが、「アメリカ黒人の歴史」では「ブラック・アメリカン」、「ブラック・ピープル」、また単に「ブラックス」が現在でも特に差別的な意味合いがなく使われていると書かれていたので黒人に統一しました。映画で使われている「ニガ−」はきわめて差別的な意味合いがあるので使っちゃダメ。
posted by シンジ at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月13日

エヴァンゲリヲンQと自由意志問題

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見た。面白くてびっくりした。Qとくらべたら序も破も凡作と言って差し支えないのではないか。オープニングからしていったい画面上で何が起きているのかさっぱりわからないにもかかわらず、こんなにワクワクドキドキする自分にびっくりする。いや、ちょっと待て自分。意味がわからないのに面白いって子供じゃないんだからと、一応解釈らしきものがぼんやりと浮かんできたので書いてみる。

エヴァQの主人公シンジはその選択という選択、行動という行動がすべて裏目にでる。よかれと思ってしたことが、ことごとく悲惨な状況を生み出してしまう。このような主人公は他の映画でも見たことあるな〜と思い出したのがフランク・ダラボンの映画「ミスト」だ。

ミストを観た人はわかると思うが、ミストの主人公であるお父さんは子供を守るために行動するまさに正統派ヒーローだ。モンスターが闊歩する異常な世界にいながら果断に決断し、行動する主人公らしい主人公。しかしこの映画「ミスト」が特異なのは、このお父さんの決断という決断、行動という行動がすべて間違っているというところにある。ヒーローとして作品世界に君臨する主人公の選択と行動がすべて間違っているとどうなるのかを映画「ミスト」は冷酷に描く。主人公を信じ、支持し、ついてくる人間をことごとく死に至らしめるのだ。

ミストでいわゆる悪役として描かれるのはキリスト教原理主義のババァだが、この映画の二重の皮肉は、主人公の決断と行動、すなわち「自由意志」がことごとく間違っていたという意味で、作品自体が「自由意志」を否定するカルヴィニズムを体現している点にある。悪役も原理主義者なら、作品自体も原理主義的内容に沿っているのだ。

ミストのお父さんとエヴァQのシンジが重なり合うのは、まさにその点、「自由意志」がことごとく否定される点にある。

キリスト教における自由意志問題はキリスト教の根幹にかかわる問題である。神は全能と永遠と定義される以上、「これまで起きたこと」、「今起きていること」、「これから起きること」すべてを見通している。したがって救済される人は生まれる前から神によって決められているとするのがキリスト教の教義「予定説」である。この世の出来事はあらかじめ神によって決定されているのだ。

だがしかし、そうなると問題が出てくる、すべてが決定されているならば、殺人などの犯罪を犯した人間もあらかじめ決定されていたことになる。そうなるとあらかじめ決定されていたのだから殺人犯に罪はないことになってしまう。人間には自由意志があるから善をなしたり、悪をなしたりすることができるという考えに立たないと矛盾が出てくるのだ。ここで「自由意志」問題が浮上してくるわけだ。

キリスト教における自由意志問題を雄弁に語ったのがペラギウス(354年−不明)である。人間は神に作られた以上、自由意志を持っている。善をなすのも悪をなすのもあらかじめ決定されているのではなく、自らの意志で選択することができる。

これに対し反駁をくわえたのが「告白」などの著作で知られるアウグスティヌス(354年−430年)である。アウグスティヌスは人間は罪にまみれた弱い存在でしかないとし、そのような罪人である人間が自らの意志で善を選択することはできない。人間はひたすら神にすがるほかないのだ。

二人の対照的な考えをまとめると

アウグスティヌス
@予定説・すべてはあらかじめ神によって決定されている。
A原罪説・人間は生まれながらに罪を背負っている。
B自由意志否定・人間は原罪のためかならず間違った選択をしてしまう。
C信仰義認・信仰によってのみ神に認められる。

ペラギウス
@予定説否定・神によって作られた人間は自由である。
A原罪説否定・神の似姿である人間が罪を背負って生まれてくるはずがない。
B自由意志肯定・イエス・キリストを教師として人は自分の意志で善を選択できる。
C実践義認・道徳的な行為によってのみ神に認められる。

アウグスティヌスにおける神は絶対的な存在であり、人間の力ではどうやっても神に届くことはできないことを示しているなら、ペラギウスにとって神は道徳的な手本として存在し、イエスの行為をまねることによって神に届くことができるとする。

このペラギウスの考えは決断主義的、行動主義的であり、自らの自由意志によって人間を、世界を変革することができるということを確信してる点においてエヴァQの碇シンジと同じである。

映画のクライマックスにおいてシンジはよくわからないにもかかわらず、ロンギヌスの槍を抜けば世界が良くなると考えた。そこには世界がこの先どのようになるかの吟味も内容もなく、ただ決断し、行動することこそがこの停滞した状況を変えられるがゆえに、善であり、正義であるという考えが根底にある。

決断主義の誤謬は決断の内容が一切かえりみられず、ただ決断することのみが重視される点にある。なんらかの価値に基づいたものでない決断は必然的に悲惨な状況へと決断したものを投げ込むことになる。シンジの決断と行動がことごとくあやまちとなり、周囲の人間が返り血を浴びることになるのはそのためだ。

いわば、このエヴァンゲリヲンQという作品自体、アウグスティヌス的、カルヴィニズム的な予定説−すべては神によって定められている−に支配されている。サードインパクトもフォースインパクトも人類滅亡も、すべてあらかじめ決定されている。そんなすべてが予定された世界の中で自由意志によって世界を変えられると考えた人間は「ミスト」のお父さんやエヴァQのシンジのように無惨な姿を晒すほかないのだ。

こうしてエヴァンゲリヲンQの自由意志は異端とされその全著作を灰にされたペラギウスの運命と同じように無残に敗北する・・・だがしかし、だがしかしである。次回作の「シン・エヴァンゲリオン」には、だがしかし・・・を見せて欲しいと願っている。

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・・・と一応解釈はしてみたものの、この映画をはじめて見た時の意味わかんね〜けどめちゃ面白い!という原初的な感動には1ミリたりと近づけていないのが本当のところ。言葉ってむなしい、そして映画は偉大だ。
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2012年11月06日

キャラが勝手に動き始めるということ「ザ・レイド」

インドネシアのアクション映画「ザ・レイド」を見て思うことなど

格闘技や喧嘩は体のでかい奴が圧倒的に有利だ。敵役であるちっこいおじさん(マッドドッグ役のヤヤン・ルヒアン。以降親愛を込めて、ちっこいおじさん)はその体の小ささ、体重の軽さから戦う相手に抱えられてヒョイヒョイ投げられる。観る方としてはそのたびにヒヤッとしてしまう・・・ってこれどう考えても逆ですよね。正義のヒーロー側に感情移入して見なければいけないはずなのに、この敵役のちっこいおじさんの一挙手一投足にハラハラして見入ってしまう。

このちっこいおじさんが体格の圧倒的なハンデをどう克服して戦うのか。そのことに注視してしまって、自然にちっこいおじさんの側に立って映画を見てしまうのだ。これはあきらかに映画の意図せざるところだろう。

映画の意図としては圧倒的に強い敵にどうヒーローが立ち向かうかを見て欲しいわけだし、主人公の立場に立って客も一緒にハラハラドキドキしてほしいはずだ。ところが観客は(少なくとも私は)ちっこいおっさん中心に見てしまう。

格闘技において決定的なハンデをもつこの愛くるしい顔をした、貧弱な肉体の持ち主であるおっさんが、このハンサムで可愛い妻を持つヒーロー(糞)にどうやって立ち向かうのか・・・

頑張れ・・・敵役だけど、多分最後に負けるだろうけど、頑張れ・・・とソワソワして見守っていたら、まぁ見事に体の小ささというハンデもものともせずに戦うわけです。それもその強さに説得力がある!

最初はどう見ても強そうに見えないし、勝ち目のなさそうな感じで始まります。ハンサムな警察の隊長にボンボン投げられたりして、ああこれはだめだ、こんなに体が小さくて勝てるわけないと思うんですが、その華麗で豊富な足技で徐々に相手を圧倒していくんです。興奮しましたね〜。

この最初は負けそうだけど最終的には逆転勝ちをおさめる姿ってどう見ても少年漫画の主人公タイプなわけです。警察側の戦い方とちっこいおじさんの戦い方では断然おじさん側のほうがヒロイックなんですよ。それからは完全にちっこいおじさん視点で映画を見るようになりましたね。またおじさんがいちいちかっこいいんですわ。自分の有利な立場をわざと不利にしてから戦う姿を見ても、多分監督のギャレス・エヴァンスは武士道とか騎士道精神をこのちっこいおじさんに担わせている。

特にクライマックスの2対1の局面なんて、ハンサムな二人を相手に貧相なちっこいおじさんが大立ち回りをするんですけど、これあきらかに演出意図としては失敗してると思うんです。だってどう考えても二人で戦うハンサムが卑怯で、一人で戦うおっさんがかっこよすぎて敵役であるはずのおっさんに感情移入してしまうようになってる。

この場面でちっこいおっさんを応援してた観客は私だけじゃないはず。監督もこのちっこいおっさんがあまりにも魅力的なので、敵役はヒーローを引き立てなきゃいけないという原則を忘れているようにしか思えない。

じゃあ、この映画「ザ・レイド」は失敗してるのかというとそうじゃない。映画の演出の意図を超えて主張しだすキャラクターがいるということ。演出の意図をはみ出しても魅力があふれ出すというのは凄いことだと思うからです。

たとえば、小説や漫画ではよくそういうことー作中のキャラが作者の手を離れて勝手に動き出すことーが起こるといいます。池波正太郎は「鬼平犯科帳」連載中、作中の人気キャラである伊三次を死なすつもりがなかったのに、書いているうちに死んでしまって呆然としたというようなことを言っています。

私だって、彼らを死なせたくなかったのだ。いつまでも生きていて、「鬼平」の連載を助けてもらいたかった。
ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい。ペンでつくりあげた人間が、ほんとうに生命をもってしまうとしか、おもわれないときがある。−池波正太郎「日曜日の万年筆」


作者が意図しないのに自分の作り出したはずのキャラが勝手に動き始めるというのは作家や漫画家にはよくある現象のようです。これはどういうことかというと、自己という主体は「私」というひとつのものに統一されているようにみえるが、実は様々な他者が反映してできている。「私」は世界でただ一つのオリジナルな「私」ではなく、ありとあらゆる無数の他者が介在して織りあわされたものが「話す」こと(発話行為)によって「私」というものに統一されたようにみえるにすぎない。「わたしとはわたしというものに他ならない」(ロラン・バルト)。そういう風に考えれば、作家や漫画家の描いたキャラが作者の意図を離れて勝手に動き出すという現象は説明がつきます。「私」の中の「他者」が動いているのです。

しかしそれは映画においても当てはまるものでしょうか。映画は小説や漫画とは比べものにならないほど莫大な予算がかかり、大勢の人々が関わり、ありとあらゆる人のチェックにさらされます。そこでは映画の意図にはずれてるようなこと、論理的でないもの、整合性のあわないもの、夾雑物は興行的観点から徹底的に排除されます。キャラが映画の意図をはずれて勝手に動き出すことなどありうるはずのないことなのです。

・・・・しかし映画「ザ・レイド」ではちっこいおっさんが勝手に動き始めてしまう。製作者や、映画作家が意図したことを超えて動き始めるもの。それは観客である「私」の中の他者が動かしたのではないか。ただ映画から一方的に情報を受け取るだけ、演出の意図どおりのものを消費するだけではなく、映画が意図せざるものをそこに見いだし、生み育ててしまう見方。映画の亀裂、映画のほころびに「私」の中の何かがざわめきはじめ、映画を根底から作り変えてしまうということ。

例えばちっこいおっさんはインドネシアの最底辺の貧困地区の出身者であろう。そんな最底辺の土地で体が小さいということが何を意味するか。子供というのはむき出しの残酷さを持つ生き物だ。おそらくおっさんは子供の頃散々いじめられたであろう。毎日毎日屈辱と恥辱と直接的な暴力を日常的に受けてきたに違いない。むき出しのエゴがぶつかりあう最底辺の社会では体が小さいというだけで抑圧の対象になるのだ。弱いものがさらに弱いものを叩く、貧困地域によく見られる構図だ。だが、ある日いじめられていた少年時代のおっさんは得体の知れないみすぼらしい爺さんがチンピラを見たこともない体術でやっつけるのを目撃する。ちっこいおっさんは爺さんにその体術を教えてくれとせがむ。その体術は「シラット」。少年時代のおっさんはその格闘技を瞬く間に会得してしまう。恥辱と屈辱と汚辱にまみれた人生が一変する。いままで自分を馬鹿にしてきた連中をシラットという暴力で屈服させてしまうのだ。「もう誰も俺をいじめたり馬鹿にするやつはいない」暴力さえあれば、この底辺から這い上がることが出来る。そして幾年月、ちっこいおっさんは幸福な日々を満喫していた。だがそんな幸せな日々も長くは続くない。国家権力という暴力がちっこいおっさんの幸福な日々をぶち壊しに来るのだ。ちっこいおっさんは立ち上がる。もう二度と誰かにいじめられたり、屈服させられたり、恥辱を耐え忍んだりしない。俺の人生は俺自身の手で掴み取る!

これがちっこいおっさん主演、もうひとつの「ザ・レイド」
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2012年10月15日

アウトレイジビヨンド完全読解

映画「アウトレイジ ビヨンド」を隅から隅まで考察しているので、当然ネタバレしています。

1カット目・単線と複線


人は映画を見るとき、ただ物語や登場人物の感情を追うだけではない。映像やセリフとして表現されたものだけではなく、表現されていないものまでそこに読み取ろうとする。一番わかりやすいたとえを出せば、私の大好きな映画監督にエルンスト・ルビッチがいます。

ルビッチの映画手法は表面的にかわされる会話やしぐさの裏に別の意味が隠されている。つまり映像で表現されていないものを観客に読み取らせるのだ。映画「メリーウィドウ」(1934)ではテーブル席に座る男女がよそよそしい会話をかわす。彼らはあくまで礼儀正しく、堅苦しい態度を崩さないのだが、女がある一言をもらす「靴をかえしてくださる?」

その瞬間そのシーンはひっくりかえる。よそよそしく堅苦しい男女の会話が続くなか実はテーブルの下ではエロティックな攻防が行われていたことがわかるのだ。ルビッチ映画では表現されていること(テーブルの上でのよそよそしさ)と表現されていないこと(テーブルの下のエロティックな攻防)の二重の表現がある。

では北野映画ではどうなのか。アウトレイジビヨンドは一見したところ表面的な表現しかないように見える。これまでの北野映画以上に緻密に組み立てられたプロットは一方通行的に進行する物語と登場人物の感情を追わせるだけのような作品に見える。そういう映画をここでは「単線的」映画ということにする。

単線的とはブレヒトの言葉で
「観客が演じられている事柄に身を置き、そこから考えること。一切を一つの理念に組み込み、観客を単線的な思考方向に駆り立てて右も左も上も下も見えなくすること」をいう。(三文オペラへのブレヒトの覚え書き)


単線的作品とは、物語の一定の型に観客をはめ込むこと。観客を一つの表現や一つの感情に誘導することをいう。

だが、実はアウトレイジビヨンドもまたルビッチ映画と同じように、表現されている面と表現されていない面の二重の面をもっている。単線的の反対だからこれを複線的ということにする。

ルビッチ映画の場合表現されないテーブルの下を暗示するのが一番表現したい部分なので、最初から観客にテーブルの下を読み取ってくださいという意図がある。その点が北野映画と違って親切設計なのだ。アウトレイジビヨンドがやっかいなのは、一見したところ、ただのヤクザ映画にしか見えない、それも面白いヤクザ映画にしか見えない点で、いわば単線的表現だけでも十分に映画として完成されている点だ。北野映画は映画を深く読み取らない人にとっても面白くできているのだ。だが、北野映画にはまる人にとって北野映画は単線的とは言い難い複雑な魅力を持つ。映画を単線的に見るのではなく、より深く読み取るためには映画のどこに注視すればいいかというと、北野武の「身体性」に注視すればよいということになります。

2カット目・北野武の身体性


アウトレイジビヨンドを見ていて少し違和感がなかったでしょうか。おそらくその違和感はこの映画の中心であるはずの大友(北野武)の存在感の希薄さと関係がある。

この映画での大友は老い、疲れはて、抗争に対するやる気のなさを露呈しています。この人が映画の主人公?と思えるような存在感のなさです。しかしこの大友の存在感の希薄さが映画を単線的なものから複線的なものへと変換する重要なファクターなのです。

本来映画の中心であるべき大友の老いと疲れが大友というキャラクターを突きぬけて北野武という生身の男の身体にまで到達する。映画のキャラである大友はいつしか北野武という現実の男と重なり合う。老いて疲れはてた北野武の身体性が透明感を帯び、大友をまるで映画のなかで宙に浮いたような存在にさせる。それは映画の中の余白、空白として機能しはじめる。

自分をヒーローにすると、映画が、小型になっちゃうじゃない。自分が主役で、自分が最後に殴り込んだりすると、映画がすごい小型化して、単なる、主役とその周りに付随した奴のストーリーになるんだけど。主役を薄くしちゃって、周りを広くすると、映画自体が大きくなるっていう。ー北野武「物語」


空白となった北野武の肉体はこの映画を単線的なものから複線的なものへと変換する。映画の中心が空白ということは、いくらでもそこに意味を読み取ることが可能ということであり、観客の思考は上にも下にも右にも左にも開かれる。世界は開かれ、映画が大きくなるのだ。

大友の老いと疲れと諦念を如実にあらわす北野武の身体性をとおしてわかるのは、大友と他の人物は同じ盤上に存在していないということだ。大友にとって前作の因縁がある山王会に対する復讐の機会はととのっているにもかかわらず彼は復讐というゲームの盤上にのぼろうとしない。いや、のぼろうとしないのではなく、のぼれないのだ。なぜなら彼だけは同じ盤上に存在していないからだ。

3カット目・ゲームマスター


この映画のほとんどの登場人物が住まう世界とは片岡(小日向文世)が作り出したゲームの世界である。アウトレイジビヨンドの世界は片岡という刑事が作り出したゲームにすぎない。他はヤクザゲームの駒でしかない。だがそれぞれの人物は自分が駒だとは思わずに、自分こそが駒を動かす棋士だと思っている。だがその棋士もこのゲームのルールにのっとった上で意味がある存在でしかない。片岡は棋士でもなければ駒でもない。彼こそはこのゲームのルールを司るゲームマスターなのだ。

ゲームマスターは他のプレイヤーと対話しながらゲームの舞台となる世界とそこに登場するいろいろな事件や人物を説明し、決められたルールに従って、プレイヤーが考えたキャラクターの行動が実現したか否かを裁定することでゲームを進行させる。ーテーブルトークRPG・wikiより


テーブルトークRPGではゲームマスターがストーリーの背景や設定を考え、ゲームマスターにリードされて役割を演じるプレイヤーがいる。この映画の登場人物を采配し、自分の思い通りに動かしていく片岡こそ、この映画のゲームマスターである。彼は盤面上の駒も駒を動かしている棋士も自分の決めたルールで動かしているのだ。そしてこの片岡がルールを決めるゲームの盤面に上がらないのが大友である。なぜなら大友だけがこのゲームの仕組みに気づいているからだ。

通常、ゲームの駒やゲームプレイヤーがゲーム自体のルールを疑うということはあり得ない。彼らにとってルールに対する疑いは不可視化されている。つまり、将棋の駒がしゃべれるとして、この将棋のルールはおかしいといいだすだろうか。将棋の棋士がこの将棋のルールっておかしくないか、などといったりするだろうか。ゲームをプレイするものがゲームのルールに疑いを持つことはあり得ない。疑わないことでゲームは成立しているのだ。

ではなぜ大友だけがこのゲームのルールはおかしいと気づき、ゲームの盤面に上がろうとしないのか。それは大友が前作「アウトレイジ」で死んだからである。死んだことによりゲームの盤上からはじき出され、外側からゲームの盤面を眺めることができるからだ。そのような立場にいる存在とはいうまでもなく「亡霊」にほかならない。

4カット目・召還


大友が刑務所から出所するとき、彼を迎えに来たのは「その男凶暴につき」の白竜である。蓮實重彦は「ビートたけしによりそう白竜は、「彼岸」からの、寡黙な、だが妥協を知らぬ一徹な使者にほかなるまい」と書いている(群像11月号)。白竜は彼岸と此岸の間にいる亡霊と化した大友を彼岸の世界(ビヨンド)へ連れ去ろうと迎えに来た使者なのだ。見事な造形だった刑務所の塀を思い出してほしい。灰色と黒影が交互に刻まれた刑務所の壁はそれぞれ彼岸と此岸をあらわしているといえはしまいか。(ちなみに蓮實氏は白竜を見て落涙したそうです。どんだけ殿の映画が好きなんだよ)

しかし大友が亡霊のままでは映画は進展しない。亡霊は現世に関わることができないからだ。そこで大友を現世へと呼び戻すきっかけになるのが、木村(中野英雄)の若い衆二人の惨殺と花菱会の怒号飛び交う会合での木村の衝撃的な指つめである。この木村の血の儀式により大友ははからずも現世へと召還されてしまうのだ。木村の衝撃的行為、その血、その引きちぎられた指により亡霊は現し身(うつしみ)となる。このシーンの演出は見事でそのシーンの前と後ろでは画面の空気の色がまるで違って見えるほどだ。血の儀式による召還にふさわしい名場面といえる。

5カット目・彼岸=ビヨンドの表現


この映画では「黒」や「闇」という映像表現が頻出する。特に象徴的なのは人を殺すときに頭に黒い袋をかぶせるシーンだ。それは視界を奪うことだけではなく、光の遮断を意味している。ゲームの盤面上を照らし出す光を遮断することはそのゲームからの離脱であり、光を遮断された世界はゲーム世界の埒外を示す。

北野武は車を撮る達人だと言いたくなるほど車をきわめてエロティックに撮る。車はゲームの盤上にいる駒たちをその濡れたような黒光りする車体から捕らえようとしているかのようだ。いつでも彼らをゲームから取り除くことができるようにその黒い深淵からのぞいているものは−彼岸。そしてゲームマスターである片岡の車は黒を拒絶するかのように銀色に鈍く光り輝いている。

音響について
映画冒頭で鮮烈に示されるように、音声だけが映像に先行し、後から映像が追いつく手法が頻繁に使われる。銃声だけが画面外のどこかから響きわたり、その後、殺されたばかりの死体が映し出される場面。三浦友和が殺害されるパチンコ店では音響が徐々にマイナスされナイフが内臓をえぐる音だけが響きわたる。

画面外、彼岸=ビヨンドからの手が先にさしのべられた後で、此岸=現世の映像がそれを後追いする。パチンコ店の音響は音がマイナスされることによって画面全体を彼岸が覆う瞬間を遅延して見せる。音響もまた映像における闇や黒と同じものを表現しているのだ。

6カット目・北野武と数学


ゲームの盤上に降り立った大友は花菱会最強の手駒、城(高橋克典)率いる殺し屋集団をあやつり手際よく駒を排除していく。その排除の演出には数学的手法が使われている。銃声だけがどこからか響き渡り、あとは死体だけがころがっている演出。

「映画における因数分解」
aという殺し屋がxとyとzを殺すという話を数式にすると、ax+ay+azという式で表せる。この場合映像的にはaがxを拳銃で撃つと、次のシーンではaがyを撃って、また次にはaがzを撃つ。近代映画における因数分解は、aが拳銃を持って、ただ歩くだけ。次のシーンで、x,y,zの死体を順番に見せる。それでaが3人を殺したってわかる。つまり、a(x+y+z)となるわけ。それが因数分解的な映画表現。ービートたけし「達人に聞け!」


北野武の数学へのこだわりは、この世界はすべて数学によってはかることができるという考えに基づく。だが、その考えは、この世界は数学では決してはかれないものがあるという不安の裏返しでもある。この世界は数学に代表される理性や知性によって完全に解明できるとする考えは、人間の理性や知性の光によっても照らし出すことのできない闇の領域があることへの恐怖と区別できない。

片岡はいうなれば、数学が支配する世界の王だ。この世はすべて自分の計算通りに動かすことができる。自分の知性に対する絶対の信頼。そこに自分に対する疑いや、自分の作り出したゲームに対する疑いは微塵もない。それに対し大友はまず自分を疑い、みなが従うゲームを疑う。この世界に確たるものは何もない。大友は知性という光から遮断された世界である深淵=ビヨンドから来た埒外の男である。つまり、片岡は表の北野武の顔、大友は裏の北野武の顔である。片岡と大友は北野武という同じ仮面の表裏なのだ。

7カット目・北野映画におけるコンビ


北野映画はこれまでもさまざまな「コンビ」(二人組)を描いてきた。コメディリリーフ的なコンビもいれば、心の交流をもつコンビも。しかしアウトレイジビヨンドで描かれるコンビはいままでの北野映画が描いてきたコンビとは一線を画している。片岡とコンビを組む繁田(松重豊)は最初から最後まで片岡に対する疑いを隠そうとせず、最後には片岡と離反する。花菱会の西田敏行と塩見三省は相手をかわるがわる恫喝し追い込んでいく二人で一組の暴力機械である(この映画で一番恐ろしく素晴らしいのが塩見の顔芸、恫喝芸である。見ていて怖いけど惚れ惚れする)。桐谷健太と新井浩文のキッズリターンを思わせる二人はあっさりと命を散らし、山王会二代目加藤(三浦友和)と石原(加瀬亮)のコンビは加藤の石原に対する疑心暗鬼から最後には石原は切り捨てられる。大友と木村は唯一人間らしい交流を持つが大友は山王会を弱体化した後あっさりと身を引く。

この今までの北野映画に見られない寒々しいまでのコンビの姿。なぜこのような描写になったのか、ヒントは北野武のインタビューにある。

「震災後の一年間は、逆に自分は怒りを感じている部分があった。世の中、絆とか愛とか表面的なものばかりでイライラした。こういうときこそヤクザ映画を撮ってやろうとやる気が起きた」ーベネチア映画祭でのインタビュー


絆とか愛とか連帯とかいう空疎な言葉を連呼する世間に対する嫌悪感。北野武は連帯や団結に疑いを向け、愛や友情も虚構ではないのかと疑う。つまり連帯や団結、愛や友情などの言葉だけで実体のない概念の強制がなければ人間社会が成り立たないのだとすれば、そんなもろい基盤の上に立つ人間社会は容易に残虐な相貌をあらわにすることを北野武は知っているのだ。

アウトレイジビヨンドのコンビの寒々しいまでの描写は、他者に依存することの危うさ、他者の価値観を疑わずに従うものには悲惨な末路が待ちうけていること教える。映画ではコンビの片岡を疑い決別した繁田が生き残り、木村との交流を断ち切って別れた大友が生き残る。他者に依存しないものが生き残り、他者に依存するものはみな死ぬのだ。

ファイナルカット・ゲームマスターを殺す者


木村の血の儀式によって彼岸より召還された大友だったが、山王会を弱体化させた後はお役ご免だとばかりに抗争から身を引く。大友はゲームの盤上から降りる、つまり亡霊へと戻るのだ。そしてこのことは衝撃のラストシーンを必然のものとする。ゲームのルールを作り出したゲームマスターである片岡をゲームの盤上にいる駒やゲームのプレイヤーたちは決して殺すことはできない。ゲームマスターはこのゲームの創造者であるがゆえに、このゲームの盤上に存在しないからだ。そしてゲームマスターである片岡を殺すことができる映画中唯一の存在はゲームの盤上に存在しない亡霊たる大友だけなのだ。このラストは必然である。

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小難しいことを書いてきましたが、この映画は何も考えずボーッと眺めているだけでもめちゃくちゃ面白いです。そして何回か繰り返し見ていくと、その面白さが別の意味を持って浮かび上がってくることがある、そこがまた映画を見る楽しみでもあります。映画を見る楽しみは一方通行=単線的ではなく、多角的=複線的なのです。
posted by シンジ at 11:18| Comment(5) | TrackBack(2) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

まなざしという幻視「桐島、部活やめるってよ」

映画「桐島、部活やめるってよ」を見る。

この映画で個人的に最もショックを受けたところは、わが最愛の橋本愛さまのシーンです。映画ヲタ的には映画館で一人塚本晋也監督の「鉄男」を見ている同じクラスの美少女というだけで、ご飯何杯でもいけるくらい幻想が膨らみ放題膨らむわけで。映画中、愛さまを見つめることだけがこの映画の推進力だといってもいいほど。だが、しかし、このボンクラの愛さまへのまなざしが極限まで達した時、それが起こる!

・・・映画の中途で愛さまが学校一のチャラ男と付き合っていたことが発覚するのだ。これには映画部の神木隆之介だけでなく、俺も顔面蒼白。失望と絶望が同時に襲ってきて頭が痛くなってくる。愛さまは名画「鉄男」を見るほどの由緒正しい映画美少女にもかかわらず、こんな映画もろくに見ないであろう薄っぺらな男と付き合ってるのだ!ああ、しょせん俺は愛さまに自分の幻想を仮託していたにすぎないのだ。

と、映画を見てガチでへこんでいたら(笑)、ハッと気づいた。これこそ、この映画の構造そのものではないか。

吹奏楽部の部長はヒロキに熱いまなざしを一方的にそそぎ、バドミントン部の少女は桐島の補欠だった男子にひたすらまなざしを向ける。そして神木くんは橋本愛にそのまなざしを向け続ける。この一方的なまなざしの先にあるのは、それが一方的であるという意味では幻視に近い。つまりあくまで自分の幻想をふくらまして幻想そのものを見ているのだ。だが、それでもそのまなざしの先にあるのは、生身の肉体であり、実在する人間である。

しかし、そのまなざしの先にあるものが、不在ならばどうなるのだろう。多くの女子や男子がそのまなざしを向けていたものが不在となったとき、そのまなざしは行き場を失い、まなざし自体が失われてしまう。まなざしの対象がなくなれば、もはや、まなざしそのものが意味をもたなくなる。

そのまなざしを支えていたものは、学校内階層の頂点に君臨する桐島という存在だ。まなざしという幻視に支えられていた学校内階層という虚構。そしてその虚構を最後の最後に打ち破るのが、これまた不在の対象を幻視する「映画」という虚構なのである。虚構の上に成り立っていた学校内階層を破壊し、それに代わって立ち上がるのは、もう一つの大いなる虚構「映画」なのだ。

それがゾンビ映画というのにももちろん意味がある。ゾンビは生者でもなければ死者でもない存在。ゾンビは此岸にいながら彼岸のものでもある。それは存在しながら、不在でもあるものに向けるまなざし−幻視と同じことだ。・・・クライマックスのゾンビはこのことをあらわしている。

これは虚構がさらに徹底した大虚構によって打ち砕かれる痛快無比で、どこかほろ苦い物語。そのほろ苦さはこんなところから来る。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことだ。」−イプセン「野鴨」

だが学校内階層という嘘は取り上げられても、映画という嘘だけは決して取り上げることは出来ないだろう。
posted by シンジ at 18:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月30日

不可解な世界と向き合う「おおかみこどもの雨と雪」

おおかみこどもの雨と雪を見る。

「おおかみおとこ」あるいは「おおかみこども」はいったい何のメタファーか。

なかにはこれを「マイノリティ」のメタファーだとする意見がある。たしかに自分の恋人がおおかみおとこで、子供がおおかみこどもという非常事態は迫害の対象となってもおかしくない。

だが、映画で細やかに描写されるのは日常そのものであり、子供を育てるシングルマザーの苦労そのものである。花(宮崎あおい)は日常を生きるごくごく普通の女性であり、子供たちも大きい耳としっぽはあるものの普通の子供と何ら変わりない存在だ。

おおかみおとこがマイノリティのメタファーではないことは細田守もインタビューで言っている。

今回はおおかみこどもを育てる話なんだけど、それが「おおかみこどもだから」社会から迫害される、そういう窮地には立ってほしくなかったわけ。これはそういう話じゃない。マイノリティがどうやって社会の中で生きていくかという話じゃない。冒頭で「彼」が死んじゃうけれど、その理由にしても、たとえば警察に追われてとか、迫害を受けてとか、そういう理由じゃない。「彼」が死ぬときは、仕事の途中だったり、花のことを思っていたりするときであってほしい。・・・とにかくマイノリティが迫害される話にはしたくなかったんです。−オフィシャルブック細田守インタビュー


細田守はこれはマイノリティの話ではないというが、では「おおかみおとこ」の意味とはなんなのか。なぜ、おおかみおとこなのか?

ヒントは映画のわりとはじめの方に出るセリフにある。「彼」がはじめて花に自分がおおかみおとこだと正体を明かすシーンのあとで花の心情がこう語られる。

「世界は、私の知らない事柄で満ちている」

だから私の愛した人がおおかみおとこであってもおかしくはない、と。それは花と不可解な「世界」がはじめて向き合った瞬間でもある。

このシーンを見たとき聖書の一節を思い出した。それは人が神の使いを見てその名前を問うた時の一節である。そのとき神の使いは人に何と答えたか。

「私の名は不思議」−士師記13.18


主は不思議であり、不可解であり、人には決して理解できないもの、という意味合いがあるのだろう。また聖書にはヨブ記という話がある。清廉潔白な正義の人にして敬虔なる人ヨブを見てサタンは神をそそのかす。ヨブの身に不幸が起これば、ヨブのような義の人でも神を呪うに違いありません、と。神はヨブをためそうと、ヨブの娘、息子たちを皆殺しにする。その時ヨブはこういう。

私は裸で母の胎から出てきた。
また裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。−ヨブ記1.21


ヨブ記のあまりに理不尽で不可解な「主」をここでは「世界」あるいは「生」そのものとしてとらえたい。

ヨブは絶望し、神に訴え、生を呪う。

神を道徳的理想者としてのみ愛する者は、世界の導かれ方がその道徳的理想像のあらゆる原理につねに矛盾していることに容易に失望してしまう。−マルティン・ブーバ−


「世界」や「生」は人間の道徳的理解によって、はかれるものではない。圧倒的なまでに理不尽であり、不可解なもの、それが「世界」であり「生」そのものなのだ。

作品中ではあの「熊」の描写に、そのことを強烈に感じた。熊の目を一切描かない演出に「世界」の不可解さ、この世界には絶対に理解できないものが存在するということがあらわされていたように思う。そしてその後に熊に二匹の子供がいるという演出にはただ慄然するほかない。

つまり絶対理解できない存在としての熊に自分と同じように子供が2匹いるという衝撃である。絶対理解できないと思われた恐怖、自然の驚異にも私と同じものが流れている・・・。

「おおかみおとこ」は世界の不思議さ、不可解さ、理不尽さのメタファーである。世界は何の前触れも、理由もなく「与え」そして「奪う」ものなのだ。

花は世界の理不尽さに打ちのめされる。花と世界は分断される。花は冷たくよそよそしい世界から逃げるように田舎へと引っ越す。そこで誰ともかかわらず、誰にも頼らず、世界と隔絶されたまま子供たちと生きようとする。

だが、都会で生きようと、田舎で生きようと、生きるということは「いかなる文明の進歩によっても根絶されない生の恐怖と無防備と絶望」(レオ・シュトラウス)と向き合うということに他ならない。

理不尽で不可解な世界を避けようとしたはずが、いつのまにかそれと向き合わされていく。花は田舎暮らしを通して世界を受容し、そして和解する。それが決定的となるのは最愛の息子、雨との別れだ。

「主は与え、主は取られる。」ヨブを襲った「世界」の、「生」の理不尽が花を襲う。

雨は人間の世界ではなく、野生の世界。狼の世界を選択する。それは痛切きわまりない親子の別れ。だが、花は息子の選択を祝福する−「しっかり生きて!」息子とのおそらく永遠の別れを笑顔で送り出すのだ。

なぜなら、もはやそれは花と世界の分断ではないから。
世界から与えられ、そして奪われたもの
世界の一部となったものは、私のお腹を痛めた子。私の血を分けた子供なのだから。
今日もあの子の遠吠えが聞こえる。
世界と私はあの子をとおしてひとつとなる。
posted by シンジ at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月19日

欲望という名の「苦役列車」

映画「苦役列車」を見る。苦痛である。スクリーンという鏡に映った自分自身の醜い姿を2時間ものあいだ直視しつづけることは苦痛以外の何ものでもない。

しかしいったいこのスクリーンに映り続ける醜い自画像=北町貫多をつき動かしているものはなんだというのか。自分自身社会の底辺にいるにもかかわらず、同じ底辺にいる連中をさげすみ、リア充(80年代にそんな言葉はないが)を見ると嫉妬とルサンチマンでどす黒いものがはらわたの奥底からフツフツと湧き上がってくる。女を性欲の捌け口としか見ていないのに、心のつながりを持ちたがり、他人を見下しているのに、他人に認めて欲しいと人一倍願うこの唾棄すべきありふれた生き物をつき動かす得体の知れないものっていったいなんなんだろう。

劇中、貫多の人足仲間のマキタスポーツが言う「生きていて、いいことなんてひとつもないぞ」

人はいいことなんてひとつもないのに生きる。死ぬまで生きるしかない。ビートたけしはこういう「何も無くていいんだ。人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ」。明石家さんまはいう「生きてるだけで丸儲け」。つまり飢えもなく生命の危険もない、衣食住さえ足りた生活を送ることが出来ればそれが幸せなんだと。

それは一面の真実であるが、貫多とその似姿の私たちにはあてはまらない。人はただ生きているだけの状態に甘んじることが出来ない生き物だ。ただ生きているという、飢えや生命の危険がないというだけの状態に身を置けば、その状態から抜け出したいと思うのが人という生き物なのだ。自分を認めてくれる友が欲しい。愛してくれる女も欲しい。常に渇いた情念は何かを求めて、満たされることはない。貫多の他人や社会に対するルサンチマンは自尊心から来るというより、他者を求めるあまりの転倒した情念だろう。“ぼくはこれほど「おまえら」を欲しているのに「おまえら」ときたらぼくに見向きもしない”。(貫多はなぜか自分のことを“ぼく”という)

人はいままで欲してきたものが手元にあると、そんなものに見向きをせずに、手元にないものを求め続ける。つまり自分にないものを求め続けるそのことこそが人間を動かす原動力ということになる。それは通常「欲望」と呼ばれるが、自分の持ってないものをひたすら求め続けることが人間の原動力としての欲望なら、欲望はなんて“へんてこ”なんだろう!

「生きていていいことなんて一つもないぞ」。人は死ぬまで自分にないものを求めつづける、ということは「いいこと」は決して自分の手に入ることはないのだ。人は死ぬまで「いいこと」なしに生きなければならない。それはまるで死ぬために生きているみたいだ。

なぜか映画「苦役列車」を見ている間中、ずーっと「死」のことが頭を離れなかった。映画中「死」をにおわす描写や「死」をテーマにしているということはないのに映画を見ている私の脳裏から「死」が離れようとしないのだ。貫多はただ生きているだけ、自分がどこへ向かっているのかもわからず、自分を動かしているものがなにかもわからない得体の知れない欲望という名の列車に乗っている。自分がなにかを欲していることはわかっても、それがなにかはわからないのだ。

厭世的な人は、よく人間を例えて、人類は地球にとってのがん(癌)などというが、がんもまたわけのわからないものだ。がんは人間の体に寄生し増殖して臓器を食い荒らして人間を死に至らしめる。そして寄生先の人間が死ぬとがんもまた死滅するのだ。これほど滑稽なことがあるだろうか。がんはがん自身の死期を早めるために活動しているようなものなのだ。がんはまさか自分たちをつき動かしているものが自分たちを死に至らしめるものだとは露ほども知らない。

だがこれは人間も同じことだ。果たして人間は自分たちをつき動かしているものの正体を知っているといえるのだろうか。なぜこれほどまでに人は嫉妬し、恨み、呪い、憎み、欲するのか。先にそれを欲望と呼ぶといったが、では欲望とは一体何なのか。欲望は動物が本性的に持つ自己保存の働きだとしたら、なぜ人は飢えや生命の危険のない、ちゃんと生活できている状態で満足せずに、自分にないものを求め続けるのか。

人を動かしているものとがんを動かしているものはまったく同じだ。人は目隠しをされ、がんと同じ得体の知れない動力を積んだ苦役列車に乗せられている。それも行き着く先の駅の名は「死」である。

だが人はそんな苦役列車に乗せられていることに甘んじはしない。必死になってジタバタし、あたりかまわず引っ掻き回して抵抗する。それが北町貫多にとって「書くこと」である。「書くこと」によって得体の知れないものを制御できるわけでも、行く先の駅を変更できるわけでもない。それでも人は抵抗せずにはいられない。貫多にとって「書くこと」だけが自分にできる唯一の抵抗なのだ。
posted by シンジ at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする