「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」を観る。非常に恐ろしい映画でした。この映画を観る人のほとんどはひろし、それもロボとーちゃんであるロボひろしの立場に立って見ると思うのですが、この映画はロボひろしの地獄巡りの様相を呈しているので、見るものにとってはドキリとするような恐ろしい描写にあふれています。
まず最初にドキリとするのはロボットとなって家に帰ってきたひろしに対するみさえの態度です。体が、外見が違うというだけで心は100%ひろしにもかかわらずみさえはロボひろしを激しく拒絶するのです。外見が違うだけでもう「ひろし」は「ひろし」でなくなる、「わたし」は「わたし」でなくなるのです。つまり「わたし」という自己同一性を保障してくれるのはわたしの「心」や「精神」や「意識」などではなくて、他者の目からうつった姿かたちでしかないのです。
しかしこうした自己同一性の危機もロボットの中身がひろしだと納得してくれたみさえのやさしさに救われます。外見は違っても心がひろしならそれはわたしの愛する夫ひろしなのだとみさえが納得してくれるのです。ロボひろしと抱き合うみさえが神々しく見えて思わずウルッとくる名場面です。
しかし最大のショックは中盤に来ます。ひろしはスーパーロボとーちゃんとして家事に仕事にバリバリ働きます。子供たちの命の危険すら軽々と救ってしまう理想のとーちゃんとなるひろし。そしてロボひろしは悪役である「父ゆれ同盟(父よ、勇気で立ち上がれ同盟)」の総裁、鉄拳寺堂勝を倒して大団円を迎え、みさえと抱きあうために腕を広げると、みさえはロボひろしの腕をすり抜けて、父ゆれ同盟に捕らわれていた生身のひろし(以降、実ひろし)と抱き合うのです。率直に言って映画を観てこれほど胸引き裂かれるような思いをしたのはジャン=ルイ・トランティニャンとロミー・シュナイダーが共演した「離愁」(1973年)を観て以来です(知っている人は知っているあまりにも悲痛なラストシーン)
いったんは解決されたひろしの自己同一性危機がここにいたって致命的なダメージとしてロボひろしに襲い掛かってくるのです。このシーンの絶望感は胃に来るものがあります。心は100%ひろしにもかかわらず、愛する家族は自分をひろしだと思ってくれないのです。これほど恐ろしいことがあるだろうか。
こうした考えるだに恐ろしいアイデンティティクライシスをロボひろしはいかにして乗り越えていくかが、この映画の骨太のテーマとして見るものに深い感動を与えるのです。
この映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」では自己同一性危機が通奏低音として全体に響き渡るとともに、「乗り越える」という物語が展開されていきます。
まず一つ目の「乗り越える」物語とは「父性」が「父権」を乗り越える物語です。この映画の悪役は日頃虐げられている父親たちを復権させるために時代錯誤とも言える家父長制的な父権を復活させようとします。家父長制的な父権とは近代社会が歴史的、イデオロギー的に要請した文化的構築物=文化的虚構にすぎません。いわば捏造された父権をより生物学的、始原的な父性(以降、とーちゃん性)によって乗り越えようとする物語です。
文化的捏造である父権という権威によって家族制度をより統制的な形で再構築しようとする「父ゆれ同盟」を、仕事も出来ない、頼りない、足が臭いダメとーちゃん、妻や子を愛するだけがとりえのとーちゃんのとーちゃん性が凌駕するのである。とーちゃん性が父権を乗り越えるのだ。
そしてもうひとつの「乗り越える」テーマが衝撃的なラスト。ロボひろしの死によって描かれる「死を乗り越える」物語である。
ロボひろしは外見はロボットとはいえ、中身は100%ひろしである。そのひろしが実際に死ぬのである。例えるなら「サザエさん」をテレビで見ていていきなりマスオさんが交通事故かなにかで死ぬ回があったら人はどれほどのショックをおぼえるだろうか?それと同じことがこの映画では起きるのである。
ここで描かれるひろしの死の意味はただ「死ぬ」ということ以上に重大な意味を含んでいる。ロボひろしがどうやって自己同一性危機を乗り越えたかに関わってくるのだ。
ロボひろしはみずからの「とーちゃん性」によって「父権」を乗り越えた。そしてこの「とーちゃん性」を実ひろしに「受け渡す」ことによってみずからのアイデンティティクライシスを乗り越えるとともに、「死」をも乗り越えるのだ。
クライマックスの腕相撲は自分の「とーちゃん性」をもうひとりの自分に「受け渡す」重大な儀式であるとともに、「受け渡す」ことによってロボひろしは実ひろしの中に、しんちゃんの中に、ひまわりの中に、みさえの中に生き続けることを意味する。つまり「死を乗り越える」のだ。
この映画の感動は大切な人が死んだから悲しいというたぐいのものではない。ひとりの平凡な男が死を乗り越える瞬間をわたしたち観客がたしかに目撃する、そのたぐいまれなる感動なのである。