2015年06月17日

瞬間と永遠・映画「海街diary」

瞬間と永遠・映画「海街diary」

ありふれた日常を丁寧に描くだけでかけがえのない瞬間が浮かび上がり、その瞬間が永遠性をおびるのを確かに見た。

日常というのはたわいのないことの繰り返しだ。しかしその日常は、それぞれ同じことの繰り返しではない。今、この時この瞬間にしか存在しえない輝くような唯一性をおびている。

夏祭り、友達同士で花火を見に行った帰り、すずの同級生でサッカーのチームメイトでもある男の子は一世一代の勇気を振り絞ってこういう。
「その浴衣結構似合ってるよ・・・」
なんてことはない青春の1ページが痛いほど胸に響き渡る。

この誰もが経験するかもしれない身に覚えのある光景にかけがえのない瞬間=唯一性を感じて身を震わせるのだ。

唯一性とは、この世界を何回、何百回、何千万回生きることになっても、同じ瞬間は二度と起きないし、二度とおとずれることもないということを意味する。

自分の死を悟った食堂のおばちゃん(風吹ジュン)がすず(広瀬すず)にあなたの両親がうらやましいという。すずは驚く。自分の母と父は不倫の末に結ばれたということにやましさをもっていたからだ。だがおばちゃんはすずの両親のことをすずのような宝物を残すことができてうらやましいというのだ。

食堂のおばちゃんは自分の死を間近に意識することにより知ってしまったのだ。このかけがえのない人生の唯一性というものを。すずが不倫の末に生まれようがなんだろうが、生まれたこと自体が奇跡なんだ。このすずが生まれたこと、そのすずとこうしてとりとめのないおしゃべりをしていることすらもう二度とない奇跡のような瞬間だということを。

人生が、この宇宙が、何回、何百回、何千万回、何億回誕生しようとも、このかけがえのない瞬間は、ただこの瞬間、今だけにしかない。もう二度とない一回限りのことなのである。

驚くべきことに、このありきたりで、なんてことのない、私たちがうんざりするほど味わっている平凡な日常は、もう二度とおとずれることのないただ一回限りの奇跡が連綿と続くことによってできているのだ。

そして二度とおとずれることのないかけがえのない瞬間とは「永遠」のことにほかならない。

(永遠は持続性ではなく無時間性といったのはスピノザやウィトゲンシュタインがそうだが、歴史上最初にそのことを指摘したのはアウグスティヌスだと思われる(三位一体論参照))

私たちの日常は常に、瞬間、瞬間が永遠とつながっている。これほど驚くべきことがあろうか。

是枝裕和監督はこの「瞬間と永遠」をテーマにした映画をずっと作り続けてきたといってもいい。そのなかでも特に「瞬間と永遠」というテーマが明確に見て取れるのは「奇跡」(2011年)でしょう。「海街ダイアリー」が気にいったという人、もしくはそれほどピンとこなかった人も映画「奇跡」を見てください。海街ダイアリーがさりげなく訴えかけていたものをあなたは直接目にすることになるはずです。

女優4人(綾瀬はるか・長澤まさみ・夏帆・広瀬すず)もすばらしかったけど、是枝さんの冴えが見られるのは子供のキャスティングです。広瀬すずに恋心を抱く男の子(サッカーの香川真司似)なんて本当に奇跡のキャスティングといっていい。

菅野よう子の音楽はルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」を意識したのかなと思えるほど、使い方が似てる。マーラーの交響曲第5番に曲調が似ていることもあるけど、使い方とかシーンに入るタイミングとかにベニスに死すをそこはかとなく感じる。

本当にいい映画だ。
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2015年05月04日

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

笑った笑った。犯罪ポイントで親分を決める映画史上最も民主的なヤクザ映画(笑)であり、女装の藤竜也や殴りこみ場面での中尾彬のことを思い出すと今でもニヤニヤ笑いが止まりません。劇場の雰囲気も最高で、いい年したおっさんおばさんたちが遠慮なしに大口開けながら笑いあう光景はすかしたシネコンがここだけ昭和の劇場になったかのように錯覚するほど。トラック野郎の公開時も劇場はこんな感じだったのでは?なんかここだけ東映の小便臭い小屋のように感じられて・・・

ニヤニヤしたり、思わず噴出したり、大口開けてガハハと笑って爽快に映画は終幕するのですが、キレのいいラストカットが終わり、鈴木慶一の音楽が流れ始めると、どこかもの悲しいようなさびしいような寂寥感に包まれるのは私だけではないはず。この寂寥感の背後にあるものの正体は「死」でしょう。

龍三の最後のセリフ「刑務所から出る頃にはもう死んでるよ!」を見るまでもなく、モキチ(中尾彬)の仇をとるためにジジィたち一龍会の面々は、ある者はお世話になった人に連絡し、ある者はメソメソ泣いたりしながらそれぞれ今生の別れをすまし「死を覚悟」するのである。

「死を覚悟する」=「死を意識する」ことが人に何をもたらすのか。それは普通、覚醒とか目覚めとか、気づきといったことを人にもたらすはずです。スティーヴ・ジョブズはこういっている。

自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておくことは、私がこれまで重大な選択をする際の最も重要なツールでした。ほとんどのものごと、外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったもののすべては死に臨んでは消えてなくなり、真に重要なことだけが残るからです。−スティーブ・ジョブズ、スタンフォード大学での卒業式スピーチ


つまり死を間近に意識すると、人はわが身を振り返り、より生の貴重さを実感し、正しく道を選択することができる、というわけです。

だがしかし龍三たちは死を間近に意識した後何をするかというと、狂うのです。ただ狂い暴れるのです。京浜連合の半グレどもは龍三たちと幾度か遭遇すると「狂ってる・・・」と吐き捨て逃げていきます。龍三たちにとって死は人生の意味や意義をみずからに問いかけるような機会とはならず、ただ「狂う」きっかけにすぎないのです。

いったいこの違いはどこからくるのか・・・これはいうまでもなく北野武の本質からくる違いです。北野武は映画「HANA-BI」(1998)公開時のインタビューでふと背筋が寒くなるようなことを漏らします。それは「もらす」というにふさわしい北野武の本質があらわになった瞬間でした。

「変な言い方をすれば、死を意識してやるんだったら、何をやってもいいと思ってるわけ。悪は法律的には悪に違いないけれど、自決の覚悟が出来ている悪は許してもいい」−BRUTUS 1997年10月号


私はこれほどギリギリで危険な発言をした北野武を以後知りません。なぜならこの後2001年9月11日以降イスラム過激派によるテロが全世界的に拡大していったために、北野武のこの発言はテロを擁護するものと受け取られかねず、これ以後北野武はこの考え自体を封印してしまったからです。

9.11以降秘匿され、隠蔽された北野武の発言。二度と口にされることなく封印された言葉・・・それこそが北野武の本質とはいえないでしょうか。

北野武の「公式見解」ー「振り子理論」なるものは彼の本質でも哲学でもなんでもない。たんなる処世術にすぎません。アウトレイジのようなバイオレンスものが続いたから次はコメディを撮る。成功作が続いたから次はめちゃくちゃな失敗作をわざと撮る。北野武とビートたけしの間を行ったりきたりする・・・これはたんなる自己防衛作、処世術でしかない。

北野武が9.11以降決して口にすることのなくなった

「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

これこそが北野武の本音であり、本質であり、彼の根幹を支える哲学に他ならない。

死を覚悟した人間はただ狂い狂うことが許される。人の命を奪うことさえ許される。いったいこの野放図な考え方は何なのでしょうか。ここにもうひとつの北野武の思想=本質があらわになります。

かって石原良純は北野武と番組で共演したときに宇宙の話になり、こういう北野武の話を聴かされたそうです。

「この宇宙は人間が生み出したものなんだよ。人間が死ねばこの宇宙も世界も消えてなくなるんだ」


これは「独我論」というものです。「私」が存在するがゆえにこの「宇宙」は存在する。「私」が死ねばこの「宇宙」は消滅する。客観的に存在するものなど何もないという考えです。まるでおとぎ話か世迷いごとのように聞こえるかもしれません。しかしこういう考えもあるのです。

われわれの惑星で生命が誕生するのはどれくらいの偶然が重なったかというと、大竜巻がくず鉄置き場を襲った結果、ボーイング747ができあがったのと同じくらい偶然だという。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


この宇宙、この世界はあまりにも人間に都合のよいように出来すぎているというのです。人間が存在するからこの宇宙が存在する、これを宇宙論における「人間原理」といいます。しかしこうした独我論の行き着く先はこれもまた危険なものにならざるをえません。この世界は自分が存在するから存在するのだとしたら、自分が存在しなければ何の意味も価値もないということになる。究極的には

「この世界にはなんの意味も価値もない」


という「相対主義」におちいるのです。

そしてディープな北野武ファンや北野ウォッチャーなら薄々気づいていると思いますが、北野武は「相対主義者」です。

「振り子理論」のような「公式見解」の北野武ではなく、本人が秘匿し、隠蔽してきたイデオロギー

「この世には何の意味も価値もない」
のであるならば
「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

という北野武が秘匿してきた本質があらわになるのです。

「龍三と七人の子分たち」のような大衆娯楽作品にさえ自分自身のどす黒い刻印が色濃くこびりついてしまうというのは、北野武はつくづく「呪われた人」だなぁというほかありません。それも「映画」が北野武を「呪う」のではなく、「北野武」が映画を「呪う」のです。フェリーニも溝口健二もブレッソンも「映画」に「呪い」をかけられた映画作家たちです。しかし北野武だけが「映画」に「呪い」をかけることができるのです。
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2015年02月21日

平凡で愚かな普通の人々のための「アメリカン・スナイパー」

平凡で愚かな普通の人々のための「アメリカン・スナイパー」

映画「アメリカン・スナイパー」のテーマのひとつが「戦場と日常生活は地続きである」ということにあるのはイラクの戦場にいるクリス・カイルとアメリカにいるクリスの妻タヤとのあいだをつなぐ衛星電話の描写が頻繁にあることからもわかる。

しかし戦場と日常とが地続きであったとしてもクリスとタヤの見る現実は様相を異にする。といっても血みどろの戦場と穏やかな日常生活の違いといいたいわけではない。

様相の違いとは当人たちが抱える虚構度の違いといっていい。クリスとタヤの見る世界の虚構性の相違が戦場のクリスと地続きであるはずの日常のタヤとのディスコミニュケーションを際立たせているのだ。

タヤの場合は日々の生活、食事を作り、洗濯をし、子供の世話して・・・という地に足ついた生活世界に住まうのに対し、クリスは「大義」の世界に生きる。ケニアとタンザニアでのアメリカ大使館爆破テロにショックを受けたクリスはネイビーシールズの門を叩き、「国を守る」という「大義」の世界に住まうようになるのだ。さらに9.11のテロ以降クリスの「国を守る」「家族を守る」という大義は絶対的なものとなる。だが、この大義は空疎な概念=虚構でしかない。

クリスは家族を守るといいながら戦場に行きっぱなしで家族を放置し、国を守るといいながら、実際は9.11テロとフセインのイラクには何の関係もなかった。タヤが現実の生活世界に立っているのに対し、クリスは完全に空疎で中身のないものの上に立っているのである。

クリスが拠って立つ大義の世界とはおよそ現実とは言いがたい虚構の世界である。しかし男というものは虚構性が高ければ高いほど、それに吸い寄せられ没我していく生き物だ。

太平洋戦争時、日本人は何のために自分を鼓舞し戦ったか?妻や子供を守るためにといいながら戦っただろうか?・・・彼らは妻や子供や家族よりももっと抽象性、虚構性の高いものに自らを仮託して戦ったのだ。いわく天皇陛下のために・・・いわく靖国で会おう・・・。それらの言葉は無理やり言わされたのではない。人間は家族や生活といった地に足着いた具体的なものより、より抽象性や虚構性が高い「崇高なもの」のためにしか自身を奮い立たせることができないのだ。

「崇高なもの」のために戦う以上、この戦いには「意義」があり、自分の苦労や仲間の死にも「意味」があると思えるのである。

そしてここは声を大にして言いたいが、イーストウッドはこの「国のために戦う」という大義を口にするクリス・カイルを完全に空っぽな存在として意識的に描いている。おそらくこの映画での最重要シーンはベッドの上でのカイル夫妻のこの会話である。

(なぜあなたが戦場に行かなければならないの?という問いを投げかける妻のタヤ)
タヤ「なぜあなたがやるの?」
クリス「君のため、君を守るためだよ」
タヤ「私はここにいて、子供たちもここにいるのに、父親だけがいない」
クリス「国のためなんだよ」
タヤ「もう十分犠牲を払ったわ。他の人に替わればいい」
クリス「自分が自分でなくなってしまう」
タヤ「自分を変えればいい」


この場面でのタヤの力強い存在感にくらべ、クリスの存在感の希薄さといったら・・・。その希薄さは彼の発する言葉の空疎さから生じているのは明らかだ。その言葉の空疎さ、弱々しさに見るものはハッとさせられる。タヤが依拠しているものの力強さと比べてクリスの依拠しているものの脆弱さに気づかされるのだ。

クリスがイラクからアメリカに帰還しながら、妻や家族の元に帰らずひとりバーで飲んでいるのはなぜか。大義という虚構の世界から、地に足ついた生活世界へ足を踏み入れることになぜためらうのか?大義の世界では自分は「何者」かでいられたのに対し、生活世界では「何者」でもなくなるからだ。

またクリスに戦場で助けてもらったと感謝する青年に対しクリスはどんな態度をとったか。クリスの身の置き所のなさ、とまどい、一刻も早くここから立ち去ってしまいたいという衝動・・・。正義の戦争を戦っていると信じているのなら、青年の心からの感謝を素直に受け取ればよいではないか。だが、クリスはただとまどうのだ。なぜなら彼は心の奥底でこの戦争の大義は虚構=いつわりだと気づいているからである。

真にアメリカという国家を守りたいのなら他にもやり方はあり、真に家族を守りたいならタヤと子供のそばにいるべきなのである。だが彼はそうしようとはしない。偽りの大義でも大義だけが自分の存在を正当化してくれるものだからだ。

たとえいつわりでも「大義」はくだらない瑣末な日常に埋没する退屈な自分を忘れさせてくれる。1マイル先の敵をしとめることができる銃は自分の世界を拡張し全能感を充たしてくれる。まるで自分が偉大な人物になったかのように思えるほど・・・。これは明白なことだが、イーストウッドはクリス・カイルをヒーローとしてではなく徹頭徹尾平凡で愚かな人間として描いている。そのことはクリスがイラク人を「Savage」=野蛮人と呼んでいることからもわかる。イラク人全体を野蛮人と蔑む男が正義のヒーローでありうるだろうか。クリス・カイルはアメリカのどこにでもいる平凡で愚かな普通の男として描かれているのだ。

いつわりの大義も、銃も、愚かで卑小な自分を忘れさせてくれる全能感を提供してくれるものにすぎない。自分が何者でもないちっぽけな存在であることに耐えられない男。それがイーストウッドの描く英雄クリス・カイルその人である。

そう考えるとラストのクリスを見送る星条旗の数々もまた違った意味を帯びて見えてくる。最初見たときはあまりにも愛国主義的で「うわ〜」と閉口したけど、星条旗を振っている人々もまたクリス・カイルと同じ平凡で愚かな普通の人々なのだ。彼らもまた星条旗や偉大な国アメリカという虚構=幻想にすがりつくほかない弱い人々だ。誰が彼らを断罪できるというのか。それは私がネトウヨと呼ばれる人々の主張を心底唾棄しながらも、彼らの弱さやみじめさは完全に理解できるのと同じことだ。
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2014年06月19日

性愛と時間・映画「私の男」評

性愛と時間・映画「私の男」評

映画「私の男」を観て、いい映画なんだけどうまく言語化できなくて困っている人もいるのではないかと思い、私なりに説明のされない場面の言語化を試みようと思います。おもに「性愛」を軸にして考察します。

一、「性愛と所有」

「俺はおまえのものだ」
津波にあい、家族を失った少女、花(二階堂ふみ)を引き取る淳悟(浅野忠信)は自分の家へ連れて帰る車の中で泣き出した花をなぐさめるためにこの言葉をかける。「お前は俺のものだ」ではなく、その逆の意味「私はあなたの所有物です」という言葉をかける。これは被災地で大きなペットボトルを胸に抱え誰にも渡そうとしなかった花の心に火をともす。

すべてを奪われた花にとってペットボトルを「所有」することだけが、自分が自分でいることを維持することだった。そしてそのことを本能的に悟った淳悟の適切な言葉。「俺はおまえのものだ」により、花は淳悟を「所有」することによって自己を保持することができるようになるのである。

しかし「所有」に執着するということは、「所有」を失うことが死にも匹敵する恐怖を生み出すことにもつながることを意味する。ペットボトルを胸に抱くことにより自己を維持していた花にとって「所有」は死活問題である。「所有」を失わないためには何をなすべきか。「所有」を失う恐怖から逃れるためにはおのれの身を切ることだと花は悟る。それが「自己放棄」による自分自身の「贈与」である。花は幼い身ながら淳悟におのれ自身を与えるのだ。自分と相手との境界を崩しひとつに溶けあえば、「所有」が失われることはない。花は子供の身空で人ならざるものへの萌芽を見せる。

二、「性愛と時間」

性愛とはなにか。性愛とは時間を無化する行為である。時間とは人間の生活圏から離れて存在するものではなく(つまり客観的に存在するものではなく)人間の「労働」という観念から生み出されたものだ。

本来、動物は「今」だけを生きる。動物は過去を気にしないし、未来も気にしない。動物にとっては「今」がひたすら連続するだけであって、過去も未来も存在しない。動物には「時間」が存在しない。

人間だけが時間の観念を生み出しえたのは「労働」による「収穫」という観念を生み出したからだ。人間は未来の「収穫」を得るために「今」を生きることをあきらめるほとんど唯一の生物である。人間にとって「今」、とは楽しみをあきらめ、苦渋を当たり前のものとし、「将来」がきたるまでひたすら忍従することである。

それもこれもすべては将来の「収穫」を得るためだ。未来の「成果」や「報酬」を得るために「今」が存在するという思考様式が未来−現在−過去という時間という制度(時制)を生じさせたのだ。

だがしかし、性愛は、それも子作りという「成果」をもたない性愛は将来性−収穫性がまったく根絶された「今」を悦楽するという意味を持つ。性愛に惑溺することは時間とそれにともなう制度を無にするのである。つまり性愛は人間の時間という概念が生み出したもろもろのものをすべて無化してしまうのである。労働も、将来も、成果も、報酬も、富も、幸福ですら時間という制度の生み出したものにすぎない。性愛は時制が生み出した産物をすべて無にする。

父と娘の「所有」の果ての自己放棄−お互いを贈与しあう性愛はただ「今」だけをむさぼり続ける。

三、「性愛と死」

花は大塩(藤竜也)に淳悟との「営み」を目撃され、別の親族の元に行くよう諭される。父との性愛関係には未来がない、幸福もない。時制が生み出した観念=モラルに反するからだ。

しかしもはや時間という制度の中にいない花にとって、時間という制度に引き戻そうとする大塩は邪魔な存在でしかない。花が大塩を流氷の上で殺すのは象徴的だ。寄せては返し、流動的に動く波に対し、流氷は動く波を無視して固定的にとどまっている。波が時制に支配された人間の生活圏を意味しているなら、流氷は時制に支配されない花たちの世界だ。

物語は二つの殺人によって花と淳悟の世界を二つに分かつ。花と淳悟を分かつ「殺人」の意味とはなんだろうか。
花が殺人という現実からあっさりと立ち直るのに対し、淳悟がいつまでも殺人に拘泥し、自滅していくように見えるのにはわけがある。花は理解するのだ。

「性愛」と「死」はほとんど同じものであると。

性愛とは所有の果ての自己放棄と贈与である。さらに時間を無化する行為である。これはまったく「死」の概念と共通する。それも殺人は他者に究極の自己放棄と究極の贈与を迫る行為に他ならない。そしていうまでもなく「死」は時間という制度からもはずれている。「性愛と死」は同じものであると悟った花と違い、殺人という罪に恐れおののく淳悟は時間という制度に捕らわれてしまったのだ。

かくして花は時制から解き放たれ、自由に天空を舞う人ならざるものへと変身し、淳悟は時制に捕らわれ地上に縛り付けられまま老醜をさらけだす。二人の立場の違いを明白にあらわしたのがラストシーンなのはいうをまたない。

「お前には無理だよ」

淳悟が花の男たちにかける言葉は「お前たちに時間という制度から超越した人ならざるものを扱うことはできない」という意味だ。そしてそれは恐ろしいほどに正鵠を射ている。


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どうですか。バタイユオタクが書くと映画批評はこうなってしまうのです(苦笑)
それはともかく俳優陣は素晴らしかったです。浅野忠信の色気はやばいことになってるし、二階堂ふみさまはあいかわらず天才だし、藤竜也も枯れているだけではないし(北野映画の新作が楽しみだ)。

でも一番好きだったのは小町役(浅野忠信の恋人役)の河井青葉さんです。なんかリアルなんですよね。地方都市にいてくすぶっている女性なんだけど、妙にリアルな色気がある。こういう女性と一緒になれるなら地方でくすぶることになったとしても一向に構いません。

KawaiAoba2.jpg

ここに河井青葉さんのインタビューがあります。きれいな方だなぁ。
http://intro.ne.jp/contents/2014/06/13_1611.html
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2014年05月22日

井口昇「ライヴ」を通して考察する「デス・ゲーム」とはなにか

井口昇「ライヴ」を通して考察する「デス・ゲーム」とはなにか

井口昇監督のデス・ゲーム映画「ライヴ」を見て、あらためて「デス・ゲーム」とは何かについて考える。

デス・ゲームの元祖はリチャード・バックマン(スティーヴン・キング)の「死のロングウォーク」(1979)といわれる。有名な「バトルロワイヤル」や「ハンガーゲーム」の元ネタでもある。

デス・ゲームの特徴として
@デス・ゲームは人を問答無用で理不尽な状況に投げ込む。
Aデス・ゲームは見ず知らずの他人同士を競い合わせ、脱落したものには死が待ち受けている。

さしあたり@とAの定義が思いつくが、こういう定義だと「死のロングウォーク」以前にも同様のものがあるのではないかという指摘があるだろう。

たとえばアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を原型とするクローズドサークルミステリが「デス・ゲーム」の元祖ではないかという疑問が生じてくる。隔離された孤島に集められた他人同士が一人ずつ殺されていく。まさにデスゲームではないか。そうなると綾辻行人の「館シリーズ」も米澤穂信の「インシテミル」などもデス・ゲームといえるのだろうか。

私はそれらの作品はデス・ゲームではないと考える。なぜこれらの作品がデス・ゲームではなく、「死のロングウォーク」がデスゲームの原型といえるのか。両者の最大の違いはその作品にハイデッガーの「先駆」という考え方があるかどうかだ。

ハイデッガーの「先駆」とは

おのれの死のなかへ先駆してこの死へむかって打ち開かれることによって、現存在は、偶然のまにまに押しよせてくる有象無象の可能性への自己喪失から解放され、そして、追い越すことのできない可能性の手前に控えているもろもろの事実的可能性を、このことによってはじめて本来的に了解し選択することができるようになる。ーハイデッガー「存在と時間」下巻P88(ちくま学芸文庫、細谷貞雄訳)


・・・うん、すまない。さっぱり意味がわからないと思う。私だってできればハイデッガーなんて引用したくなかった。でも引用せずに同じようなことを書くと、「おまえハイデッガーパクってるやん!」といわれるのがしゃくなので引用せざる得なかった。でも大丈夫です。この「先駆」という考えをもっと平易になおかつ感動的な言葉で語ってくれる人がいました。スティーヴ・ジョブズです。

自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておくことは、私がこれまで重大な選択をする際の最も重要なツールでした。ほとんどのものごと、外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったもののすべては死に臨んでは消えてなくなり、真に重要なことだけが残るからです。自分も死に向かっているという自覚は、私の知る限り、何かを失ってしまうかもしれないという思考の落とし穴を避けるための最善の策です。あなた方はすでに丸裸です。自分の心に従わない理由はありません。ースティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業式スピーチ(訳はH-Yamaguchi.netさんから引用させていただきました。)


これはハイデッガーの「先駆」という考え方そのものです。めっちゃわかりやすい!さらにジョブズは素晴らしいことを言っています。

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを私は本当にやりたいだろうか?」と。その答えが「ノー」である日が続くと、そろそろ何かを変える必要があるとわかります。ースティーブ・ジョブズ


これも同じことをハイデッガーが書いています。

死への先駆において現存在がひとごとでない際立った可能性からおのれをまぎれなく了解すればするほど、おのれの実存の可能性の選択的発見は、それだけ曖昧さと偶然性のすくないものになる。死への先駆のみが、あらゆる偶然的な(暫定的な)可能性を追いはらう。死へむかって開かれた自由のみが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性のなかへ突きいれる。ー「存在と時間」下巻P324


同じことをいっているにもかかわらずジョブズの言葉の方が圧倒的に力がありますね。でも言っていることはハイデッガーの「先駆」あるいは「先駆的覚悟性」といわれるものなのです。

多くの人はこう考える。「ひとはいつかきっと死ぬ、しかし当分は、自分の番ではない」(ハイデッガー)。デス・ゲームはこうした考えに鉄槌を打ち下ろす。人をいきなり理不尽な状況に放り込み、ありとあらゆる苦難を短時間のうちに人間に与える。いままでなんとなく生きてきた人間たちにはっきりと目前の「死」を意識させることによって、人を否応なく覚醒させるのである。

つまりデス・ゲームとは人生を凝縮して短時間のうちに体験させることを主眼としているゲームなのだ。デスゲームは人生そのもの、人生のありとあらゆる理不尽さを体験させるものなのだ。そこがクリスティなどのミステリとデス・ゲームとの根本的な違いである。

R・バックマン「死のロングウォーク」は全体主義国家の祭典的な行事として子供たちにひたすら歩かせるゲームを強いる。そして精神的にも体力的にも限界が来て歩けなくなった子供を容赦なく射殺していくという、非現実的、理不尽きわまりないお話である。それでも、そんな過酷な状況下でも、子供たちは自分を見失わず、死をかけて戦う相手との友情を育みながら歩き続ける。死のロングウォークはいつしか敵との戦いではなく、自分自身との戦いになる。自分自身を見つめる旅路となるのだ。

デス・ゲームは理不尽にも「死」を意識させられた状況下で、自分にとって真に重要なことはなんなのかという「問い」と向き合わされるのである。いわば強制的に「先駆」という状況を作り出すのだ。

ここでデス・ゲームにあらたな定義が加わった。

@デス・ゲームは人を問答無用で理不尽な状況に投げ込む。
Aデス・ゲームは見ず知らずの他人同士を競い合わせ、脱落したものには死が待ち受けている。
Bデス・ゲームは人生に待ち受ける理不尽さや不条理の縮図である。
Cデス・ゲームにより主人公は人間的成長を遂げる。

クリスティや綾辻行人の「館シリーズ」にはBとCが欠けているためデス・ゲームとは呼べないのだ。

ここで井口昇の映画「ライヴ」を観ると見事に@〜Cを満たしていることがわかる。特に重要なのはCである。「ライヴ」の主人公田村直人(山田裕貴)は映画冒頭からいかに嫌な奴かということを強調して描かれている。・・・映画好きな人ならすぐにピンと来ると思うが、映画冒頭に主人公がいかに鼻持ちならない奴かということを強調するということは、この主人公は物語を通して成長するということを意味する。

デスゲームは強制的に「先駆」的状況を作り出す。つまり人生の理不尽さや不条理さを短時間のうちに凝縮して人に体験させる。それゆえに人は短時間のうちに急激に人間的成長を遂げることになるのである。「ライヴ」冒頭の主人公とラストシーンの主人公を見よ。まるで別人のように人間的に成長した姿を見せていて感動的である。

映画「ライヴ」は「デス・ゲーム」という「思想」を完全に体現した手練れの作品である。

追記・今思いついたけど、デス・ゲームの元祖って旧約聖書の「ヨブ記」じゃないか。となるとデス・ゲームの主催者であり、敵は「神」ということになる。

他にも井口昇監督作品である「電人ザボーガー」評、正義はすべてに先行する「電人ザボーガー」も書きました。
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2014年05月06日

乗り越える物語としての映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」

乗り越える物語としての映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」

「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」を観る。非常に恐ろしい映画でした。この映画を観る人のほとんどはひろし、それもロボとーちゃんであるロボひろしの立場に立って見ると思うのですが、この映画はロボひろしの地獄巡りの様相を呈しているので、見るものにとってはドキリとするような恐ろしい描写にあふれています。

まず最初にドキリとするのはロボットとなって家に帰ってきたひろしに対するみさえの態度です。体が、外見が違うというだけで心は100%ひろしにもかかわらずみさえはロボひろしを激しく拒絶するのです。外見が違うだけでもう「ひろし」は「ひろし」でなくなる、「わたし」は「わたし」でなくなるのです。つまり「わたし」という自己同一性を保障してくれるのはわたしの「心」や「精神」や「意識」などではなくて、他者の目からうつった姿かたちでしかないのです。

しかしこうした自己同一性の危機もロボットの中身がひろしだと納得してくれたみさえのやさしさに救われます。外見は違っても心がひろしならそれはわたしの愛する夫ひろしなのだとみさえが納得してくれるのです。ロボひろしと抱き合うみさえが神々しく見えて思わずウルッとくる名場面です。

しかし最大のショックは中盤に来ます。ひろしはスーパーロボとーちゃんとして家事に仕事にバリバリ働きます。子供たちの命の危険すら軽々と救ってしまう理想のとーちゃんとなるひろし。そしてロボひろしは悪役である「父ゆれ同盟(父よ、勇気で立ち上がれ同盟)」の総裁、鉄拳寺堂勝を倒して大団円を迎え、みさえと抱きあうために腕を広げると、みさえはロボひろしの腕をすり抜けて、父ゆれ同盟に捕らわれていた生身のひろし(以降、実ひろし)と抱き合うのです。率直に言って映画を観てこれほど胸引き裂かれるような思いをしたのはジャン=ルイ・トランティニャンとロミー・シュナイダーが共演した「離愁」(1973年)を観て以来です(知っている人は知っているあまりにも悲痛なラストシーン)

いったんは解決されたひろしの自己同一性危機がここにいたって致命的なダメージとしてロボひろしに襲い掛かってくるのです。このシーンの絶望感は胃に来るものがあります。心は100%ひろしにもかかわらず、愛する家族は自分をひろしだと思ってくれないのです。これほど恐ろしいことがあるだろうか。

こうした考えるだに恐ろしいアイデンティティクライシスをロボひろしはいかにして乗り越えていくかが、この映画の骨太のテーマとして見るものに深い感動を与えるのです。

この映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」では自己同一性危機が通奏低音として全体に響き渡るとともに、「乗り越える」という物語が展開されていきます。

まず一つ目の「乗り越える」物語とは「父性」が「父権」を乗り越える物語です。この映画の悪役は日頃虐げられている父親たちを復権させるために時代錯誤とも言える家父長制的な父権を復活させようとします。家父長制的な父権とは近代社会が歴史的、イデオロギー的に要請した文化的構築物=文化的虚構にすぎません。いわば捏造された父権をより生物学的、始原的な父性(以降、とーちゃん性)によって乗り越えようとする物語です。

文化的捏造である父権という権威によって家族制度をより統制的な形で再構築しようとする「父ゆれ同盟」を、仕事も出来ない、頼りない、足が臭いダメとーちゃん、妻や子を愛するだけがとりえのとーちゃんのとーちゃん性が凌駕するのである。とーちゃん性が父権を乗り越えるのだ。

そしてもうひとつの「乗り越える」テーマが衝撃的なラスト。ロボひろしの死によって描かれる「死を乗り越える」物語である。

ロボひろしは外見はロボットとはいえ、中身は100%ひろしである。そのひろしが実際に死ぬのである。例えるなら「サザエさん」をテレビで見ていていきなりマスオさんが交通事故かなにかで死ぬ回があったら人はどれほどのショックをおぼえるだろうか?それと同じことがこの映画では起きるのである。

ここで描かれるひろしの死の意味はただ「死ぬ」ということ以上に重大な意味を含んでいる。ロボひろしがどうやって自己同一性危機を乗り越えたかに関わってくるのだ。

ロボひろしはみずからの「とーちゃん性」によって「父権」を乗り越えた。そしてこの「とーちゃん性」を実ひろしに「受け渡す」ことによってみずからのアイデンティティクライシスを乗り越えるとともに、「死」をも乗り越えるのだ。

クライマックスの腕相撲は自分の「とーちゃん性」をもうひとりの自分に「受け渡す」重大な儀式であるとともに、「受け渡す」ことによってロボひろしは実ひろしの中に、しんちゃんの中に、ひまわりの中に、みさえの中に生き続けることを意味する。つまり「死を乗り越える」のだ。

この映画の感動は大切な人が死んだから悲しいというたぐいのものではない。ひとりの平凡な男が死を乗り越える瞬間をわたしたち観客がたしかに目撃する、そのたぐいまれなる感動なのである。
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2014年03月13日

人も豚も同じ経済動物である。映画「銀の匙」

人も豚も同じ経済動物である。映画「銀の匙」

映画「銀の匙」の中で一番ショッキングなことは飼育している豚を「経済動物」と呼ぶことだろう。

「経済動物」とは、商品であり、流通品であり、取引対象のことをいい、それは「生命」としては扱われない。主人公の八軒勇吾(中島健人)は飼育する豚に名前をつけようとしてたしなめられる。経済動物に名前を与えて情が移ることなど愚の骨頂なのだと。

いわば豚は「生命」としてではなく「商品」としての「有用性」のみで判断され算定される「モノ」である。

豚だけではない、牛は乳の出が悪ければつぶされ食肉となり、競走馬はレースの成績が悪ければこれもつぶされて食肉となる。「経済動物」とは有用性の連関の中に捕らえられた自由なき「モノ」のことである。

では、こうした動物たちを有用性のみで判断する人間は自由な存在なのだろうか。実は世界を有用性でもって捉える人間こそもっとも有用性に囚われた存在であるということが映画の冒頭のシーンですでにあきらかになる。

進学校に進みながら成績が悪く、農業高校に入学した八軒は父親から見放される。偏差値という産業社会が算定する価値評価基準からはじき出された人間は産業社会では「有用性」を失ったとみなされるのだ。

経済有用性でのみ判断されるのは豚や牛だけではなく人間も同じなのだ。

豚も人間もどちらも「経済有用性連関」の世界の中に釘付けにされ囚われたモノでしかない。しかし映画はその世界からどうやったら抜け出せるかのヒントも描いている。

経済有用性連関の世界を完全に覆すことは出来ないかもしれない。しかしそこから「生命への自覚」が生じることにより、経済有用性だけではない世界が生まれる。

「生命への自覚」とは何か。生命とは贈り物であり、私たちに与えられた天からの恵みである。私たちはその与えられた恵みを当然のように受け取るのではなく、感謝の気持ちを持つ。この人間の心の働きにしか経済有用性連関の世界を変えるすべはない。

八軒が育てた豚を買い取りベーコンにするとき、そこにあるのは経済有用性ではなく、「生命連関性」への自覚と感謝である。

ここで意地悪な人の問いを想定するに、生命連関への自覚と感謝が生まれても、どっちにしろ豚を殺すことには変わりないじゃないかということに答える。

生命が贈り物であり、恵みであるという自覚は、すべての生きとし生けるものへの尊重と寛容を育む。それは自分さえよければ他人がどうなろうと知ったこっちゃないという考えに対する抑制をもたらす。つまり人の中に道徳律が生まれる。

生命は与えられたものであり、贈り物であり、恵みであるという考えは道徳の根拠ともなるのだ。

例えば、なぜ自殺してはならないのか?という問いに対する答え・・・生命は贈り物だからである。贈り物である以上自分の勝手にはならないものなのである。

さらに意地悪な問いも想定してみる。人は殺しちゃいけないのに、豚は殺してもいいのかという問いにどう答えるか。

「生命連関」の世界には殺生も含まれる。もし一切の殺生が禁じられるならば、生命連関自体が閉じてしまい、この地球上に生命はいなくなる。この殺生しなければ生きられないということが「原罪」であり、生命はこの「原罪」から逃れることはできない。

この原罪から目をそむけているのが、経済有用性連関の世界だ。この原罪から目をそむけないことによって生命連関性の世界を自覚し、この自覚によって道徳の根拠も立ち上がるのである。

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読み直してみて・・・う〜ん固い。映画の批評じゃないなこれ。映画「銀の匙」はこのように小難しく考えることもできますが、基本はアイドル映画なので気楽に見て大丈夫です。中島健人や広瀬アリスはとにかくかわいい。今この時期にしかあらわられることのないきらめくようなアイドル性を輝き放っています。しかしいまやアイドルブーム真っ盛りの中、もう「kawaii」には食傷気味だよというあなたにも、市川知宏という無骨で男っぽい俳優もいるので映画ヲタは要注目です。
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2014年02月18日

ボヴァリズムという誘惑「ウルフ・オブ・ウォールストリート」

ボヴァリズムという誘惑「ウルフ・オブ・ウォールストリート」

マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオコンビ作としてはじめての傑作である。
これほど生き生きと演技しているディカプリオを見るのは「ギルバート・グレイプ」(1993)以来ではないか(ということは20年ぶり・・・)

この映画のテーマはずばり「ボヴァリズム」である。

ボヴァリズムとはフロベールの「ボヴァリー夫人」の主人公エンマ・ボヴァリーの生き方や思考からくる用語である。
ボヴァリズムとは、今現在、私が生きている退屈な日常は偽物であり、私が生きるべき本来の生はここではないどこかにあると考えること。(ボヴァリズムについては「ボヴァリー夫人を読むと死にたくなる」に詳細に書いた)

人は人間という動物に生まれてきた以上、自己の喜びや快楽を追求し、それを味わい尽くすのが真の幸福ではないのか。普段の人間にそれができないのは、そうした自分の欲望にフタをしているからだ。教育なり、宗教なりが邪魔をしたり、人の目を気にして欲望や快楽を追求できないだけなのだ。

そしてなにより欲望のフタの最大の重しは、欲望をかなえる「お金」がないことである。

映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」ではジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)というこの詐欺師にして俗物を3時間にわたって見せつけられるにもかかわらず、この人物に対してまったく嫌な感じを持たずにすむのは驚くべきことであるが、それには理由がある。ジョーダンにとって「お金」は目的ではなく「手段」にすぎないからだ。お金だけが目的の男なら3時間退屈で仕方なかっただろう。しかしジョーダンにとってお金とは自身の「欲望のフタ」をはぎとる手段でしかない。ジョーダンにとってお金は自分自身の際限のない欲望と快楽に惑溺するための道具なのだ。

でかい豪邸に住み、超絶美女を妻にし、自家用ジェットで飛び回り、豪華ヨットでクルージングを楽しむこと。ジョーダンはそうした外在的な享楽とともに、麻薬によって身体的にも享楽を浴び続ける。ジョーダンのモットーは「お金を儲けろ!」というより「もっと快楽を!」である。それが見ていて嫌な気持ちにならない最大の理由だろう。

なぜなら私たちもジョーダンのように、快楽をとことんまで追求してみたいという幻想を誰もが持っているからだ。この退屈きわまりない日常が延々と繰り返されるかのように見える私たちの生。なにもかも少しずつ抑制されて、制御された人生からはみだし、思うがままに欲望を追求してみたい。度を越した快楽に身をまかせてみたいとジョーダン・ベルフォートやエンマ・ボヴァリーのようなことを少しでも考えない人がいるだろうか。

ジョーダンを逮捕し大手柄を挙げたはずのFBI捜査官は今日もさえない勤務のために地下鉄に乗って出勤する。変わりばえのしない毎日を送るために、わずかな給料のために。最後に映し出されるジョーダンのセミナーに来た人たちの顔、顔、顔。ここに映し出された人々の顔は、映画館に座る私たちの顔でもある。変わりばえのしない日常から抜け出したい。豊かな暮らしをしたい。幸福になりたい。今、ここから抜け出せさえすれば幸せが待っているに違いないと思う人たちの顔、顔、顔・・・

「今ここではない、どこかへ」行きたい私たちはみなエンマ・ボヴァリーの子供だ。だからこそ「ウルフ・オブ・ウォールストリート」はボヴァリズムを描いた作品なのだ。ボヴァリズムこそ映画そのものなのである。
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2013年12月18日

真の恐怖と神秘は密室にあり「ゼロ・グラビティ」

真の恐怖と神秘は密室にあり「ゼロ・グラビティ」

IMAX3Dにてアルフォンソ・キュアロン「ゼロ・グラビティ」を観る。莫大な予算、新技術による見たことのない映像のオンパレードにもかかわらず、どこかなつかしい・・・このなつかしさはどこかで見たことがある。

これは私の大好きな「密室サスペンスもの」ではないか!密室サスペンスで思いだすのは、「大脱走」やジャック・ベッケルの名作「穴」のような脱獄もの。または「ダイ・ハード」一作目のビルという密室内でのサスペンスアクション。密室サスペンスもののなかでも特にゼロ・グラビティと雰囲気が似てるな〜と感じたのは「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年)だ。

密室サスペンスとは、密閉された空間や場所で主人公が危機的な状況に陥り、知恵を振り絞ってそこから脱出する、という定義でいいだろうか。しかし「ゼロ・グラビティ」の舞台は広大な宇宙空間である。宇宙空間が密室?と疑う向きもあるだろう。だが際限のない広大さは閉塞感と同義だ。そしてまた際限のない広大さは人間という存在の卑小さを際立たせる。これは誰もが雄大な自然の光景を目の当たりにした時感じる自然な感情として身に覚えがあるだろう。

カントはそれを「崇高さ」と表現したが、「崇高さ」を感じ取ることができるのは、まだ人の理解の範疇にあるからで、人の理解の範疇を超えるものは「恐怖」でしかない。宇宙空間は人にとって「恐怖」以外の何物でもなくなるのだ。

それは映画を観れば一目瞭然だ。命綱なしで宇宙空間をただようことがどれだけ恐ろしいことか。広大な宇宙空間そのものが人間にとっては閉塞感ただよう死の密室になるのだ。

「宇宙空間でひとりぼっち」の恐怖は同様のことが「2001年宇宙の旅」や「ミッション・トゥ・マーズ」でも描かれていたが、「ゼロ・グラビティ」とくらべれば児戯に等しい。宇宙に一人取り残される恐怖を他に例を見ないほど見事に映像化しただけでもこの映画は映画史に残るだろう。

密室サスペンスの定義を厳密に書くと

@「空間限定性」・・・行動できる範囲が狭く、逃げ場所が限られていること。
A「逓減的生存可能性」・・・時間がたつにつれ命の危険が迫ってくること。
B「緊急的決断性」・・・考える間もなく、右か左かの決断を迫られること。

この定義だと、「ゼロ・グラビティ」は正しく「ポセイドン・アドベンチャー」や「エイリアン」などの密室サスペンスの後継だといえるのではないか。

しかし「ゼロ・グラビティ」がポセイドン・アドベンチャーやエイリアンと違うのは、外在的脅威=自分に降りかかってくるトラブルが真の恐怖なのではなく、内在的脅威=自分自身との闘いこそが真の恐怖であると描写した点にある。

宇宙空間に一人で投げ出される恐怖。それは外在的トラブルへの恐怖というより、自分自身の恐怖との闘いである。宇宙空間という死の密室は孤独や不安、忍び寄る死の恐怖という自分自身との闘いになるのだ。

そして当然ながら、人の心は弱くもろい。ライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)は自分自身との闘いに負け、ついに生きることをあきらめる・・・その時唐突にあらわれる幻想にびっくりされる方もいるかもしれないが、これは神経科学的に説明できる現象ではないだろうか。ライアンは自分の意識上では生きることをあきらめたが、意識下、つまり無意識上の身体(脳)はどこまでも生きることをあきらめないのだ。ジョージ・クルーニーの幻想はライアン博士の脳が生み出した幻想。つまり死にゆく身体に対して脳が死ぬことにあらがい、非常ベルを鳴らす、脳の生存戦略としての幻覚なのだ。人間にとって理解不能なのは宇宙という密室だけではなく、人間の無意識の密室にもあったというわけだ。

人間の理解を超える宇宙の神秘が、人間の意志の届かぬ人間の内奥という密室の神秘によって乗り越えられる。人の内的宇宙が外的宇宙を乗り越えるのだ。
posted by シンジ at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月14日

「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子

「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子

やおい、という言葉がある。「ヤマなし(山場なし)、オチなし(落ちなし)、イミなし(意味なし)」という意味だ。本来は同性愛をテーマにした漫画などのことを総称してやおいというが、ここではその語源のとおりの意味合いで使用する。

山下敦弘の映画「もらとりあむタマ子」にはすがすがしいまでに「やおい」である。ヤマもなければ、オチもなく、意味・・・は少しある。といっても主人公がモラトリアムを脱するというテーマは映画を終わらせるための方便でしかなく、山下や脚本の向井康介が人がモラトリアムから脱することの重要さを訴えたかった(笑)などあるわけもない。

やはりこの映画は「やおい」である。映画の作劇法としての「やおい」がなぜすがすがしいかというと、映画が「単線的」ではないということにつきる。「単線的」とはブレヒトの言葉で

一切を一つの理念に組み込み、観客を単線的な思考方向に駆り立てて右も左も上も下も見えなくすることをいう。ー三文オペラへのブレヒトの覚え書き


つまり観客を一つの思考や一つの感情に誘導すること。ここで客を泣かせようとか、ひとつの政治的なメッセージに賛同させようとすることをいう。観客に一切考えさせることなく作品の流れに誘導する作劇法のことを「単線的」というのだ。

「もらとりあむタマ子」が「やおい」であることは「単線的」でないということ。つまりこの作品を観る人はどこからでもこの映画にアクセスできるということだ。感情移入してもいいし、しなくてもいい。あるようなないような物語を追ってもいいし、追わなくてもいい。登場人物の行動をボンヤリ眺めているだけでもいい。間口が広く、すべての扉が開け放たれている映画。

これを「開かれた」映画と呼ぼう。

いわば観客は映画に対し、ほぼフリーハンドを与えられている。そうなれば映画をどう観ようが客の自由である。私は真っ先に俳優たちの顔を楽しむ。当代一のアイドルであるはずの前田敦子の不細工カワイイ顔に瞠目し(ほめてます)、中学生の男の子のぶ厚いまぶた顔に惚れ惚れする。この男の子、絶対顔だけでキャスティングされたな。

前田のグダグダしゃべりも素晴らしい。特に富田靖子(シンジ最愛の映画「さびしんぼう」の頃とまったく変わらず美しい!)とのやりとりの前田の演技の独創性に息を呑む。言葉でなんて説明していいかわからないけど、「韜晦」とでもいうのだろうか。父親の再婚相手になるかもしれない女性との会話のあのなんともいえない空気。恥ずかしさや当惑・・・様々な感情が交差するシーンでの前田の演技の独創性は一見の価値がある。

こうした「開かれた」映画に対しては観客は作品に能動的に関わらなければならないため、自然に映画の細部を注視して観ることになる。細部に注視すると今度は自然にあるようなないようなプロットのヤマやオチ、イミが見えてくるのである。

食卓での父と娘のシーンが何度も繰り返される。会話は最小限、アクションも最小限、感情表現も最小限にもかかわらず、二人の関係性を完璧なまでに表現している。最初は声高に娘に接していた父が弱気になり、娘に気を使う様子。父の作った食事をとらずに温野菜ばかり食べてる娘。そして「父としての役割」を全うする父に対し「合格」とつぶやく娘。

「もらとりあむタマ子」の「ヤマ、オチ、イミ」はすべて食卓の場面にあった。食卓での父と娘の仕草、会話、食べものすべてがこの映画のヤマであり、オチであり、イミを形成していると気づくのだ。

山下敦弘映画をそれこそ何時間でも何十時間でも観ていられると感じるのは、どこからでもアクセスできる開かれた作品にもかかわらず、ゆるやかにコントロールされていたと気づかされるからだ。
posted by シンジ at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする