2016年03月28日

凡人が戦い続けることに意味はあるか・映画「ちはやふる」評

凡人が戦い続けることに意味はあるか・映画「ちはやふる」評

映画「ちはやふる」では綾瀬千早(広瀬すず)は最初からポジティヴ天才人間として描かれる。それも外側からの視点で。つまり周囲にいる凡人たちから見た視点でちはやが描かれる。

何の才能もない平凡な高校生たち(つまり私たちのことでもある)がひとりの天才を仰ぎ見るという構図は必然的に物語全体に「苦さ」というものを生じさせる。

競技かるたは才能のある選ばれた者がやればいいのであって、何の才能もない者がやる意味なんてあるのか。勝つ見込みもないのに、なぜこんな苦しい思いをしなければならないのか。

これは大変シビアな問いを私たちに突きつけます。

「才能を必要とされる競技に、才能のない人間が挑む理由はあるのか」

この問いを普遍化するとこうなる。

「何の才能もない凡人が戦い続けることに意味はあるのか」

これが真島太一(野村周平)になると、さらにひどい形容詞がつく。

「小ずるく、卑劣な人間に生きる意味はあるのか」

子供時代のかるた大会で太一は負けたくないために、千早の前でいい顔がしたいために綿谷新(真剣佑)のメガネを隠す。太一の卑劣さ卑小さの描写はさらに続く。新(あらた)に渡してくれと言われた携帯の番号を千早に渡さない太一。

ちはやふるはこの卑劣かつ卑小きわまりない凡人、太一の苦悩の物語でもある。そしてこの何のとりえもない、ずるく、あさましく、醜悪な人間太一は私たちの自画像に他ならない。

はたしてこのような醜悪な凡人、卑小な人間が戦う意味、生きる意味はあるのだろうか、という絶望的な問いに私たちは向き合わざるえなくなるのだ。なんという恐ろしい映画だろうか。

映画ちはやふるはこの問いにどう答えてくれるのだろうか。このような難問にたった2時間の映画で答えを出せるのだろうか。

太一は新のメガネを隠したところをお地蔵さんに見られます。そのことによって太一はかるたの神様からの「恩恵」を失ったと考えるようになる。「恩恵」を失った太一はそれ以来、競技かるたの運命戦(自陣・敵陣ともに残りの札が1枚ずつになる展開)に勝つことができなくなります。

太一にとって「恩恵」とは天から、自分の外側からさずかるもの。つまり才能とはどこか外側から与えられる「恩恵」であって、才能のない自分は「恩恵」をさずけられなかった凡人である。だから「恩恵」を与えられている千早や新にどこかコンプレックスを抱いている。恩恵を与えられなかった自分が彼らと同じ土俵で戦い続けること自体「無駄な努力」にすぎないのではないかと思っている。

しかし太一は自分と同じ凡人である机くん(森永悠希)の屈辱と悲しみを見て、天才であるはずの千早の苦しみを見て気づく。

大会中にやる気を失ってしまう机くんを見てチームに動揺が走る。机くんにとっての価値基準とは、テストでいい点数を取ること。かるたで自分が勝利すること。そしてなによりチームに必要とされること。簡単に言えば外部評価、他者評価こそが机くんにとって価値あるものとなる。こうした外部評価が得られないとなると、かるたをやる意味が机くんには見出せなくなるのだ。机くんは心底かるたをやりたいと思ってかるた部にいるわけではないからこれは必然である。

実は太一も机くんと同じで、自分は「外側」からくる「恩恵」に見放されたために勝てなくなった、才能が失われたと思っている。机くんも太一も自分の「外側」のものから見放されたがゆえに、もう自分がかるたをやる意味がないと思っているのだ。

それに対して千早はチーム内の動揺という「外側」のことが気にかかり、力を発揮できない。しかし「外側」からの雑音をシャットアウトし、「自由」になったとき。すなわち自分の内側からあふれるでるかるたへの情熱にだけ身をまかせたとき、最大の力を発揮することができるのだ。

千早は映画でははじめからポジティヴ天才として描かれているが、原作ではスターである姉にコンプレックスを持ち、家族からもまるで相手にされない孤独を抱えた少女だった。そんな孤独な少女がやっと見つけた自分のもの、それが「かるた」なのだ。

「恩恵」とは外側から来たり、誰かからさずけられたりするものではなく、自分の「内側」にこそ「恩恵」は住まう。外側なんて関係ないんだ。自分の内なる情熱こそがもっとも価値あるものなんだ。

凡人が戦い続ける意味、生きる意味は、決して外側にあるのではなく、ただ自分の内側からあふれでるものに忠実になること。光は自分の中にしかない。これが私たち凡人が向き合わなければならない難問に対する「ちはやふる」の答えだ。
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2015年11月11日

私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT

私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT

WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENTをついさっき見たばかりの興奮の真っ只中で一気に書きあげるので誤字脱字悪文ご容赦。

幸せすぎて泣けてくるという稀有な体験をさせてくれる映画。それが本作「WE ARE Perfume」だ。

映画の構成的には単純極まりない。ワールドツアーで台北→シンガポール→LA→ロンドン→NYと巡り、本番前、本番後、各都市で観光を楽しむPerfumeの三人の姿を映し出すだけだ。

ファン目線で見るならば、公演後のダメ出し会議が実に興味深い。ダメ出し会議といってもピリピリしたムードではなく、可愛いかしゆかが可愛いおみ足をモミモミマッサージをしながら、セットリストをあれこれ考えたりするのでファン的には「萌」という感情しか湧いてきません。

まじめに書くと、3人は公演後、客の反応を見て次の公演のセトリを臨機応変に変更するのだ。この曲は海外のファンにはなじみがないから変えようとか、こっちの曲の方が盛り上がるよとか。演出面でもアメリカのお客さんは暗転すると熱が引いてしまうので暗転は最小限にとどめようとか。3人が主体的にセットリスト、演出面で意見を交換していくのを見るのは楽しい。

LA公演ではトラブルで背景のLEDがつかないというピンチに立たされる。そしてLA公演後はMIKIKO先生が号泣するのである。それはうれし泣きではなく、悔し泣き。トラブルがあり、完璧に出来なかったことへの悔し泣きである。こういうところがMIKIKO先生の素晴らしいところだ。私は映画館内でおもわず「MIKIKO I LOVE YOU・・・」とつぶやいてしまった。MIKIKO先生は4人目のPerfumeなのである。あとLA公演後、OK GOのメンバーがのっちの手に熱烈にキスしてるところだけは決して許さない決して。

ロンドン公演ではのっちの大失敗とのっちの弁明が映し出され、大笑いした。大事な本番でフリを間違え、フリーズしてあ〜ちゃんの顔色をうかがうのっちのおかしさ、愛らしさ。もうとにかく映画を見てる感覚じゃなくなってる、私もチームの一員としてハラハラしたり、楽しんだり、外国の観客となって拍手してしまうのだ。

公演前は3人が異国の地を楽しんでいる姿を堪能する。3人の私服がまた三者三様の個性が出てていいんだよな〜。かしゆかは常にキメキメの服でファッションリーダー感満載。あ〜ちゃんは常にスカートで上着にはヒラヒラがついているフェミニンなものしか着ない。のっちは常にオールブラック、ダボッとしたものしか着ない、当然パンツスタイル。これだけ着る服によって性格が出るってすごいな。

ワールドツアー最終の地はNY。やはりエンタメ業界にいる人たちにとってNYは特別な地らしく、3人にも気負いや緊張が見られる。NY公演最後の曲は「MY COLOR」

「MY COLOR」中、映し出される世界各国のファンの顔顔顔・・・泣いているファンもたくさんいる。白人や黒人もいれば、アジア人もラテン系もいる。ゲイのひとたちもいる。いろんな「私の色」を持った人たちみんながみんなPerfumeを愛している、それだけの理由で集まっているのだ。

いまから子供じみた幻想を書くのでギョッとしないでほしい。マイカラーとは肌の色や人種や民族、性別、主義主張のさまざまな色のことを言っているのだとする。そうした多種多様なMY COLORはPerfumeを愛するということだけで乗り越えられてひとつになるのだ。

Perfumeの愛のもとで私たちのMY COLORはひとつに塗りなおされていく。世界はひとつだし、世界は愛でひとつになる。

世界はひとつだ、なんて言葉でギョッとされる方に、ここで多様性と多元性の違いを説明しておこう。多元性とはそれぞれが決してまじりあうことなく独立性をたもったままの状態でそれぞれ隔離的に存在するさまのことをいう。それとは違い、多様性とはそれぞれが影響しあい、交じり合うことを恐れない存在のあり方をいうのだ。それぞれのMY COLORが多種多様に存在しつつも、影響しあいまじりあってひとつになることも多様性のあり方なのだ。

・・・わかってる、わかってるよ。私もいい年をしたすれっからしのおっさんだし、世界はひとつだとか、愛で世界は変えられるだなんて本気で信じているわけじゃない。

でも、このドキュメント映画「WE ARE Perfume」を見ている2時間だけは、このすれっからしのおっさんも、俺たちはみんな同じ人間だし、愛で世界はひとつになれるとたしかに信じることができたんだ。

Perfumeを愛している人たち。そんな人たちが世界中に存在している。そのことを感じることができるだけで、えもいわれぬ幸福感に満たされ泣けてくるんだ。

たしかにこれはたった2時間の愛の幻想である。現実の人間ってのは互いに憎みあい、争いあう生き物だ。内と外で境界を作り、外側を攻撃する。そういう本性を持っている生き物だ。この本性は何万年にもわたって作られてきたものでいまさらやめろといわれてもやめるわけにはいかない厄介なシロモノだ。

でもあ〜ちゃんの言葉を聴いていると、現実を忘れ、幻想が確かな輪郭を持って浮かび上がってくるのだ。あ〜ちゃんの言葉はメンバーやスタッフ、ファンの心にクリティカルに届く恐ろしいほどの強い力を秘めている。その説得力とカリスマ性。人間力としか形容しがたい器の大きさ。

もしあ〜ちゃんが戦国時代に生まれていたなら、確実に天下を獲っていただろう。・・・いや、あ〜ちゃんのことだから戦争をことのほか嫌っているであろうから戦国時代のたとえは適当ではなかった。

もしあ〜ちゃんが宗教改革期にプロテスタント側に生まれていたならプロテスタントは天下を獲っていただろう。

もしあ〜ちゃんがフランス革命期に生まれていたなら恐怖政治は起こらずフランス国王も斬首されずに愛に満ちた共和制が今に至るまで続いていたことだろう。

私はこの映画「WE ARE Perfume」を見て人類の歴史に思いをはせていたわけだが、見ているうちに「ピコーン!」ときた。

人類の歴史は内と外に境界を設けて争いあうことで成り立ってきた。内=友、外=敵として。じゃあ「外」なくして「内」だけにすればいいんじゃね、と。

この世界でPerfumeを愛する同胞を増やしていき、境界線を広げて全世界を同胞だらけにしていけばよい。つまりこの世界を全部「内」側にしてしまえばよいのだ。

全世界をPerfumeを愛する同胞で満たしていけば世界中の人たちが全員同胞になる。全世界がPerfume共同体の一員となるのだ。

ってこれ宗教じゃん!!!

無信仰の俺にも信仰の何たるかを教えてくれるこの映画やばすぎる。

「WE ARE Perfume」というこの映画のタイトルにもなっている言葉は、Perfumeの自己紹介の英訳で、ワールドツアーでは「I'm kashiyuka, I'm a-chan, I'm NOCCHi WE ARE Perfume!」とお約束の挨拶となっている。そしてもちろんファンは「WE ARE Perfume!」のところで同じように声を上げるわけだ。「私たちもPerfumeである」と。

でもそれはおかしいといわせていただきたい。Perfumeはいわば教祖的立場の人であるわけです。私たちPerfumeを愛する同胞は教祖と同じ立場なわけはなく、あくまでPerfumeを愛する同胞、仲間という位置づけであるべきなのです。

しかしである。宗教というのは魅力的な教祖がいるだけでは立ち行かなくなるものなのです。教祖の魅力や教えを理論化、体系化して衆生や後世に伝える人が必要となるのです。

ここらへんで記事のタイトルの意味がわかりかけてきた人もいるでしょう。「私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!」の「Paul」とは「パウロ」のことです。

私たちはPerfumeにはなれないけど「パウロ」になるんだよ!これです。

イエスが「キリスト教」を設立した気なんてこれっぽっちもなかったのは確かです。イエスは自分のことをユダヤ教の革新者としか考えていませんでした。にもかかわらずキリスト教を今日の世界宗教にしたのは、イエスと会ったこともないパウロがイエスの教えを理論化体系化し、世界中に伝道したことによるのです。キリスト教とはパウロ教のことに他なりません。

アイドルを世界中に広めるのは(私はPerfumeをアイドルだと思っています)、教祖(アイドル自身)でもなく、会社でもなく、ファンひとりひとりが「パウロ」になって世界中に愛を伝え広めることなんだとこの映画は教えてくれます。

「WE ARE Paul!」これが今日から私たちドルヲタの合言葉です。

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NY公演後にあのキャンディーズのマネージャーだったアミューズ会長大里洋吉氏が登場して、その場違いなハイテンションぶりをみせつけて場をさらっていくのに笑った。はじめて大里氏を映像で見た。なんか日本の芸能史の1ページにPerfumeもいるんだなぁと考えてしまった。
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2015年10月25日

なぜ一郎彦を主人公にしなかったのか・映画「バケモノの子」

なぜ一郎彦を主人公にしなかったのか・映画「バケモノの子」

「闇」それは憎しみとか殺意のことを言うのだろうか。闇が出現する「穴」はどうしてできるのか。蓮(バケモノ界では九太)は母が事故で亡くなり、父親は母と離婚してから会いに来ることはなく見捨てられた状態で、親戚一同はイヤ〜な空気を発している。蓮はそこから逃げ出す。もはや蓮はこの社会に身の置き所のない天涯孤独の身となる。これを「無縁化」という。

この世界には自分の居場所は存在しない。そうした思いが胸に「穴」を開けるのである。その穴から飛び出たものが自分の分裂したもう一人の自分である(スプリッティング)。

自身を分裂させること自体は別に病ではない。マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」で印象的なのはトムが退屈でつらい現実から自分を守るために幻想の自己を作り出す場面が頻繁にあることだ。退屈な現実を忘れるために海賊である自分を想像したり、自分が死んでみんなが嘆き悲しむ場面を想像しては自分自身を慰めたりする。現実から自分の心を守るために想像自己を作り出すこと。それがトム・ソーヤーだけじゃない、私たちみんながやっている心の防衛メカニズムなのだ。

蓮(九太)は人間社会から逃げ出し「無縁」という苦しみをあじわう。その苦しみから身を守るために自分の身を分裂させてしまうのだ。それによってできたのが「穴」である。

ではこの映画で九太と対になる一郎彦を見てみよう。

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一郎彦は人間でありながらバケモノの子として育てられた。子供の頃はまだ自分をバケモノの子だと信じて疑わなかったが、いくら年齢を重ねて成長してもいっこうに父の息子である証拠ともいえる「牙」が生えてこないのである。自分は父の息子であるどころかバケモノですらないのではないかという疑心暗鬼が一郎彦を蝕んでいく。

一郎彦はバケモノの世界にいながら、バケモノではない存在。「周縁化」した存在である。

「周縁化」とは・・・人がふたつの集団に属しているとき、そのことで矛盾を抱えたり、どちらの集団においても低い地位に押しやられる圧力を受けたりすることを周縁化という。人々は周縁化された位置からの逃避あるいは解消を試みるだろう。−ロドニー・スターク


一郎彦は自分が尊敬してやまない父の実の息子ではないこと、そしてバケモノですらないことに気づくと、心の防衛メカニズムが働き自己分裂することになる。偉大なる父の息子であり、父の跡を継ぐ偉大なるバケモノの子であるはずの想像自己と、現実の惨めな自己とに。

分裂して胸にポッカリと空いた穴に埋まるのは「憎悪」。父、猪王山(いおうぜん)があろうことか熊徹に敗れたとき、その闇が一気に膨れ上がるのは象徴的である。普通ならいままでバケモノの子とだまされて育てられたことに対し怒りを向ける相手は猪王山であるはずだし、後ろめたさの原因であるバケモノの世界であってもいいはずだ。しかし一郎彦の憎悪の対象はあくまでニンゲンである。それはなぜか。

まだ作家になる前のジョージ・オーウェルが英国の植民地だったビルマに赴任したとき感じたことは、英国人に仕えるビルマ人は英国人以上に同胞であるはずのビルマ人に苛烈に当たるということだった。

支配階級の文化を受容し、自分を紳士に擬すれば擬するほど、労働者階級である自分の出自はますます引け目の多いものになっていく。そしてその引け目があるからこそ、ますます支配的価値への同化と忠誠を強めていくのである。−オーウェル評論集1


これをそのまま「バケモノの子」の一郎彦の立場に当てはめてみよう。

バケモノの文化を受容し、自分をバケモノに擬すれば擬するほど、人間である自分の出自はますます引け目の多いものになっていく。そしてその引け目があるからこそ、ますます支配的価値への同化と忠誠を強めていくのである。


バケモノの世界に所属していながら、人間であるという出自により周縁へと追いやられた一郎彦はますますバケモノの子であることにこだわり、自分本来の出自であるニンゲンを憎悪するようになるのである。現実自己と折り合うことの出来ない一郎彦は想像自己こそが自分の本当の姿であると思い込み、すべての現実を否定する。まず真っ先に否定すべきなのは、偉大なるバケモノの父とその息子である自分の存在を危うくする「ニンゲン」であり、ニンゲンでありながらバケモノと父と子の契りを交わす九太である。

九太と一郎彦とまったく同じ存在なのにも関わらず、一人は憎悪のモンスターと化し、一人は世界と和解しあう。

九太は熊徹とバケモノの仲間たちとの交流を通じて、自分を無縁へと追いやったニンゲン世界を許し、自分を見捨てた父を許す。そして熊徹もバケモノ世界での自分の父親として認める。九太は人間世界もバケモノ世界もともに肯定し、そこに存在する等身大の自分を認める。

一方、一郎彦は等身大の自分も世界をも認めることが出来ず、想像自己の暴走を許すことになる。想像自己を否定するものをことごとく破壊し尽くさないではいられない存在=鯨へと姿を変えるのだ。

この鯨はいうまでもなくメルヴィル「白鯨」のモービーディックからきている。ではなぜ白鯨なのか。メルヴィルの白鯨は何を表しているのか。

メルヴィルにおける白鯨とは、「自然」のことである。といってもその自然は「緑豊かな木々や草花」のことではない。自然についてニーチェはこう書いている。

自然という物の本性を考えてみたまえ。節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛でかつ同時に不確かなものだ。−善悪の彼岸


自然とは無秩序で人間の理解の及ばない得体の知れないもの。それに対し人間社会は秩序であり、隅々までゆきわたる論理であり、計量可能なものである。

いわば自然は人間社会を脅かすものと「白鯨」執筆当時は考えられていた。秩序を維持するために、人間が心安んじて生きていくためには無秩序かつ不毛で、不確かな領域である自然を克服しなければならない。

だが「白鯨」のユニークさはそれだけではない。白鯨を追うエイハブ船長その人こそ「節度もなく浪費し、限度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒で、不毛でかつ同時に不確かなもの」を抱える怪物なのだ。怪物が怪物を追う話なのだ「白鯨」は。

つまり人間もまたその心の奥底に「自然」を宿しているのである。エイハブは白鯨を殺すと同時に、自分の内なる自然をも殺すことになるのだ。

一郎彦も同じことだ。彼は人間社会を破壊しつくすと同時に自分の内なるものをも喰いつくそうとしているのだ。

合わせ鏡の二人、九太と一郎彦では、やはり周縁化によるアイデンティティクライシスの一郎彦のほうが病が重い。九太を無縁に追いやったのは社会のほうであって九太自身に責任はない。敵は社会であって自分の中にはいない。一方、一郎彦の敵は自分の中に存在する。そのため、より重大な危機に瀕しているのは一郎彦であり、本来なら映画の中で九太以上に深く描かなければならない存在であったという批判はあってしかるべきだ。

ではなぜ一郎彦が主人公ではなく、九太が主人公となるのか。

それは九太が細田守の息子だからである。細田守は徹頭徹尾、映画を自分の半径5メートルの問題にすり寄せてしか考えられない映画作家なのだ。「サマーウォーズ」は細田が結婚して妻の親戚一同と会った経験を映画にしたものだし、「おおかみこどもの雨と雪」は細田の妻が妊娠したのを受けて考えられた物語だ。そして「バケモノの子」は細田に子供が生まれて、さあどうしよう、どう育てるべきなのかを考えた物語なのだ。息子にどう接していいかわからない自分。不安におののく父親からの視点で映画「バケモノの子」は作られている。

一郎彦という存在は映像化にふさわしい大テーマであり、政治的、社会的なものを含んだ深遠なメッセージを映画にもたらしたはずだ。一郎彦という「周縁化」された存在。ふたつの共同体の狭間でアイデンティティクライシスに苦しむ少年。それはより世界的・普遍的なテーマを私たちに思い起こさせるだろう。それはユダヤ人問題であり、日本における「在日」問題のことだ。

一郎彦を主役として描くだけで、それら普遍的な大テーマが描けたはずなのだ。しかし細田はそれを避けてしまう。なぜならそれは自分の問題ではないと思っているからだ。自分の問題、自分の扱える問題は半径5メートルのことだと思っているからだ。だから細田は自分の息子を投影した九太を主人公にした。自分の「実感」がともなったこと以外は描けない細田守的ファンタジーがどこか狭苦しく感じられるのはそこに原因があるとはいえないだろうか。
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2015年10月19日

黒沢清論を離れて「岸辺の旅」シュレーディンガーの猫的解釈

黒沢清論を離れて「岸辺の旅」シュレーディンガーの猫的解釈

黒沢清「岸辺の旅」ですが、清が溝口の雨月物語にオマージュを捧げているシーンもあって、いつもの黒沢清論〜生と死の境界が曖昧になって・・・・うんぬんをやりたいところですが、もうそれは散々人に語られていると思うので、別の観点から見てみたい。

ストーリー中、浅野忠信が村人相手に量子論を教える場面がある。黒沢清がわざわざこんな場面に量子論を持ってくる以上、そこにはなんらかの意味があると考えざる得ない。そういう仮定を根拠にして岸辺の旅を考える。

量子論で有名なのは「観測者問題」だろう。

観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する。物体の状態を確定するには観測をする必要があり、それにより波動関数は「収縮」し、物体が明確な状態になる。観測という行為が波動関数を解体し、物体にはっきりとした実体をもたせるのである。−ニールス・ボーアの量子のコペンハーゲン解釈


つまり量子は観察することによってはじめて実体化することができる。この量子のおかしな特性を揶揄するかのような思考実験が有名なシュレーディンガーの猫だ。

一匹の猫が箱に閉じ込められているとする。箱の中には毒ガスの入ったビンがあり、ビンにはハンマーが取り付けられ、さらにそれがウランのかけらの近くに設置したガイガーカウンターにつながっている。ウラン原子の放射性崩壊が起こる確率は50%だとしよう。もし崩壊すればガイガーカウンターが反応し、それでハンマーが作動して毒ガスのビンを割り、猫は死ぬ。しかし箱を開けるまで猫の生死はわからない。ーミチオ・カク「パラレルワールド」


箱を開けて「観察」するまで猫は死んでいるとも生きているともつかない状態なのである。

しかしシュレーディンガーの猫のパラドックスを解決する方法がある。それが並行世界論、多世界論である。つまり猫が死んでいる世界と、生きている世界とに分岐してそれぞれに存在するという考えだ。

岸辺の旅の浅野忠信は生者でもなければ、死者でもないどっちつかずの状態にある。いわばシュレーディンガーの猫だ。そうした観測前の未決定状態にいる夫が、妻と旅立つ先々でまったく「別の人生」を歩むことになるのは、「観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する」からでもある。

シュレーディンガーの猫状態になる以前の浅野は歯科医という人生を送っていたが、生者でも死者でもない未決定状態の浅野はこうであったかもしれないいくつもの可能的だった世界を生き直す。

新聞配達人だったかもしれない人生。大衆食堂で餃子を作っていたかもしれない人生。教師だったかもしれない人生=並行世界を生き直す浅野。

そしてこの映画の肝は、そのいくつもの可能的な並行世界でつねに浅野のそばにいるのが深津絵里だ、ということである。つまり何度生き直そうと、どんな選択をして、どんな並行世界に飛ぼうとも浅野のそばにはつねに深津絵里が寄り添っているのだ。

そしてシュレーディンガーの猫として可能的な並行世界をさまよって来た二人が体を重ね合わせ愛し合ったとき、未決定状態だった夫の存在は決定状態へと収れんしてしまう。浅野は可能世界という並行世界にいられなくなるのである。世界は浅野が死んだ世界という浅野が不在である世界ひとつに収束してしまうのだ。

いつもの黒沢清論「生と死の境界が曖昧に・・・」などをするより、こうした量子論的解釈も黒沢清の可能世界を広げるのではないでしょうか。

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死んだ人がよみがえるという話だと塩田明彦「黄泉がえり」という映画があって、ちょっと岸辺の旅にもそういう雰囲気があった。でもそうした感動モノと決定的に分かつのは、深津絵里が亡き父親(首藤康之)と再会する場面である。普通ならここは感動的な場面になるはずである。しかしこのシーンの印象はひたすら「気持ち悪い」のだ。深津が父に「向こう(あの世)でおかあさんとうまくやってる?」と聞くと、死んだ父は「ああ・・・」と答えるのだが、これが明らかに嘘をついているとわかるのだ。娘に聞かれたことに対し、嘘をつかなければならない死んだ父親。いったい死後の世界とは娘にも嘘をつかざるえないなにかなのか。ゾッとせざるえない恐ろしい場面でした。
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2015年10月18日

至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か 映画「バクマン。」

至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か「バクマン。」

目標も夢も何もないごくフツーの高校生が、一転、漫画という夢と希望を発見したときの世界が一気に開ける感覚!その衝撃と感動は何物にも変えがたい光芒として私の網膜に焼きつけられる。本当にここは感動するよなぁ。たいていの人は一生を捧げるに値するものなんて何も見つけられずに亡羊と生きていくほかないってのに、この子たちは高校生のみそらでそれを見つけてしまうんだ。有頂天になるのもわかる。

夢に向かって、ただ夢だけを見て駆け上がっていくことの出来る人生というのはそれだけで貴重すぎるほどの宝物だ。

だがプロデューサーの川村元気氏がこの映画を「キッズリターン」(北野武作品)にしてくれと大根仁監督に注文した以上、夢だけを見て駆け上がっていく映画ではなくなるのは当然のことだった。

晴れてジャンプ作家となった二人(佐藤健、神木隆之介)を待ち構えていたのは、恐るべきジャンプシステムーアンケート至上主義、週間連載というあまりにも過酷な「業務」の連続であった。

週間連載、1週間ごとに締め切りがやってくるというのは想像するだに過酷な状況である。それも新人作家である以上絶対に「落とす」わけにはいかないプレッシャーがあり、読者のアンケートで人気順位が二桁代になれば容赦なく打ち切られるのである。もし私がこんな過酷な状況に陥ったらと思うと「オエッ」とえづくような緊張感がある。

あれほど夢と希望にあふれていた高校生二人は夢も希望もない「日常業務」の中に埋もれて疲弊していくのだ。これは見ていてつらかったな。

まるで少年ジャンプが高校生二人の貴重な夢と希望と才能と時間を食い尽くそうとする「搾取モンスター」のように見えてしまうのだ。

この映画バクマン。を少年ジャンプにとって最高の宣伝という人もいるだろうが、私には逆効果としか思えなかった。私はこう考えてしまうのだ。

はたして少年ジャンプに命を賭してまで戦う価値はあるや?と。

日本には漫画家を目指す人たちが何万人、何十万人はいるだろう。だがそのほとんどの人たちは漫画家にはなれない。またその狭き関門をくぐりぬけた人たちでも連載を持つまでには至らないし、連載を持ったとしてもほんのひと握りの「天才」以外は連載を続けられずに打ち切られ人知れず消えていくのだ。そして連載を持ったひと握りの天才ですら原稿料は安く、アシスタントを雇えば足が出る始末だ。

こんな想像を絶する競争を勝ち抜いても大した栄誉も金銭もえられずに身も心もズタボロにしてまで戦う価値が漫画にはあるのだろうか?

少年ジャンプは漫画を至上の価値とする大勢の人の幻想に支えられた砂上の楼閣ではないのか。その構造は宗教に近いのではないか。

古代ローマ時代キリスト教徒は迫害され弾圧され、処刑される人も少なくなかった。しかし彼らはそうした苦しみを受け迫害されることに意味を見つける。「私たちは神に選ばれたからこそこのような苦しみにあっているのだ」と。そして棄教すれば命を助けるといわれても、彼らはそれを拒否して喜んで殉教者となった。そして信者たちは殉教者を見てますます「選ばれてあること」の確信を強めて、信者数を増やしていき最終的にはローマ帝国を支配することとなる。

プロの漫画家の方たちはどこか嬉々として漫画家苦労話をされるが、彼らにとっても漫画家の「苦しみ」は「選ばれしもの」の意味合いがあるのだろう。漫画家になった以上苦しむことが当然なのだと。彼らは「漫画」を信仰しているのだ。

漫画が信仰対象なら、彼らが常軌を逸した作業量にくらべて微々たるギャラで我慢しているのも理解できる。

しかしだ。私は漫画を愛好してはいるものの、決して「信仰」しているわけではないので、バクマン。の命を賭してまで漫画に打ち込むことの意味が理解できない。つまり少年ジャンプがブラック企業に見えてしまうのはいかんともしがたい。

それではこのバクマン。は駄作なのかというと違う。

私にとって少年ジャンプは漫画挫折者という屍を大量生産するブラック企業でしかない、このようなものに命を賭してまで身を捧げることはできない。・・・しかしだ。小松菜奈になら命を削り取られるようなことになったとしても、それを甘受する用意がある。

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小松菜奈ちゃんのようなお人が漫画家として成功するのを待っているねというのなら、死ぬ気で頑張る気があるということだ。

つまりこの映画バクマン。を小松菜奈の「アイドル映画」としてみるならば、キッズリターン的な鬱々とした青春映画から一転、希望に溢れた「愛の映画」となるのである。

漫画が読者という不特定多数の支持を受けられなければ、大好きな漫画を描くことさえ強制的にやめさせられるという無理ゲーなのに対し、アイドル映画としてのバクマンは小松菜奈たった一人の支持さえ受けられれば、満願成就するのである。ここにいたって答えは明らかだろう。おのれの人生を賭けるに値するのは少年ジャンプではなく、小松菜奈なのだ。

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映画バクマン。は小松菜奈をひたすらペロペロする映画である。
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2015年06月17日

瞬間と永遠・映画「海街diary」

瞬間と永遠・映画「海街diary」

ありふれた日常を丁寧に描くだけでかけがえのない瞬間が浮かび上がり、その瞬間が永遠性をおびるのを確かに見た。

日常というのはたわいのないことの繰り返しだ。しかしその日常は、それぞれ同じことの繰り返しではない。今、この時この瞬間にしか存在しえない輝くような唯一性をおびている。

夏祭り、友達同士で花火を見に行った帰り、すずの同級生でサッカーのチームメイトでもある男の子は一世一代の勇気を振り絞ってこういう。
「その浴衣結構似合ってるよ・・・」
なんてことはない青春の1ページが痛いほど胸に響き渡る。

この誰もが経験するかもしれない身に覚えのある光景にかけがえのない瞬間=唯一性を感じて身を震わせるのだ。

唯一性とは、この世界を何回、何百回、何千万回生きることになっても、同じ瞬間は二度と起きないし、二度とおとずれることもないということを意味する。

自分の死を悟った食堂のおばちゃん(風吹ジュン)がすず(広瀬すず)にあなたの両親がうらやましいという。すずは驚く。自分の母と父は不倫の末に結ばれたということにやましさをもっていたからだ。だがおばちゃんはすずの両親のことをすずのような宝物を残すことができてうらやましいというのだ。

食堂のおばちゃんは自分の死を間近に意識することにより知ってしまったのだ。このかけがえのない人生の唯一性というものを。すずが不倫の末に生まれようがなんだろうが、生まれたこと自体が奇跡なんだ。このすずが生まれたこと、そのすずとこうしてとりとめのないおしゃべりをしていることすらもう二度とない奇跡のような瞬間だということを。

人生が、この宇宙が、何回、何百回、何千万回、何億回誕生しようとも、このかけがえのない瞬間は、ただこの瞬間、今だけにしかない。もう二度とない一回限りのことなのである。

驚くべきことに、このありきたりで、なんてことのない、私たちがうんざりするほど味わっている平凡な日常は、もう二度とおとずれることのないただ一回限りの奇跡が連綿と続くことによってできているのだ。

そして二度とおとずれることのないかけがえのない瞬間とは「永遠」のことにほかならない。

(永遠は持続性ではなく無時間性といったのはスピノザやウィトゲンシュタインがそうだが、歴史上最初にそのことを指摘したのはアウグスティヌスだと思われる(三位一体論参照))

私たちの日常は常に、瞬間、瞬間が永遠とつながっている。これほど驚くべきことがあろうか。

是枝裕和監督はこの「瞬間と永遠」をテーマにした映画をずっと作り続けてきたといってもいい。そのなかでも特に「瞬間と永遠」というテーマが明確に見て取れるのは「奇跡」(2011年)でしょう。「海街ダイアリー」が気にいったという人、もしくはそれほどピンとこなかった人も映画「奇跡」を見てください。海街ダイアリーがさりげなく訴えかけていたものをあなたは直接目にすることになるはずです。

女優4人(綾瀬はるか・長澤まさみ・夏帆・広瀬すず)もすばらしかったけど、是枝さんの冴えが見られるのは子供のキャスティングです。広瀬すずに恋心を抱く男の子(サッカーの香川真司似)なんて本当に奇跡のキャスティングといっていい。

菅野よう子の音楽はルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」を意識したのかなと思えるほど、使い方が似てる。マーラーの交響曲第5番に曲調が似ていることもあるけど、使い方とかシーンに入るタイミングとかにベニスに死すをそこはかとなく感じる。

本当にいい映画だ。
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2015年05月04日

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

笑った笑った。犯罪ポイントで親分を決める映画史上最も民主的なヤクザ映画(笑)であり、女装の藤竜也や殴りこみ場面での中尾彬のことを思い出すと今でもニヤニヤ笑いが止まりません。劇場の雰囲気も最高で、いい年したおっさんおばさんたちが遠慮なしに大口開けながら笑いあう光景はすかしたシネコンがここだけ昭和の劇場になったかのように錯覚するほど。トラック野郎の公開時も劇場はこんな感じだったのでは?なんかここだけ東映の小便臭い小屋のように感じられて・・・

ニヤニヤしたり、思わず噴出したり、大口開けてガハハと笑って爽快に映画は終幕するのですが、キレのいいラストカットが終わり、鈴木慶一の音楽が流れ始めると、どこかもの悲しいようなさびしいような寂寥感に包まれるのは私だけではないはず。この寂寥感の背後にあるものの正体は「死」でしょう。

龍三の最後のセリフ「刑務所から出る頃にはもう死んでるよ!」を見るまでもなく、モキチ(中尾彬)の仇をとるためにジジィたち一龍会の面々は、ある者はお世話になった人に連絡し、ある者はメソメソ泣いたりしながらそれぞれ今生の別れをすまし「死を覚悟」するのである。

「死を覚悟する」=「死を意識する」ことが人に何をもたらすのか。それは普通、覚醒とか目覚めとか、気づきといったことを人にもたらすはずです。スティーヴ・ジョブズはこういっている。

自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておくことは、私がこれまで重大な選択をする際の最も重要なツールでした。ほとんどのものごと、外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったもののすべては死に臨んでは消えてなくなり、真に重要なことだけが残るからです。−スティーブ・ジョブズ、スタンフォード大学での卒業式スピーチ


つまり死を間近に意識すると、人はわが身を振り返り、より生の貴重さを実感し、正しく道を選択することができる、というわけです。

だがしかし龍三たちは死を間近に意識した後何をするかというと、狂うのです。ただ狂い暴れるのです。京浜連合の半グレどもは龍三たちと幾度か遭遇すると「狂ってる・・・」と吐き捨て逃げていきます。龍三たちにとって死は人生の意味や意義をみずからに問いかけるような機会とはならず、ただ「狂う」きっかけにすぎないのです。

いったいこの違いはどこからくるのか・・・これはいうまでもなく北野武の本質からくる違いです。北野武は映画「HANA-BI」(1998)公開時のインタビューでふと背筋が寒くなるようなことを漏らします。それは「もらす」というにふさわしい北野武の本質があらわになった瞬間でした。

「変な言い方をすれば、死を意識してやるんだったら、何をやってもいいと思ってるわけ。悪は法律的には悪に違いないけれど、自決の覚悟が出来ている悪は許してもいい」−BRUTUS 1997年10月号


私はこれほどギリギリで危険な発言をした北野武を以後知りません。なぜならこの後2001年9月11日以降イスラム過激派によるテロが全世界的に拡大していったために、北野武のこの発言はテロを擁護するものと受け取られかねず、これ以後北野武はこの考え自体を封印してしまったからです。

9.11以降秘匿され、隠蔽された北野武の発言。二度と口にされることなく封印された言葉・・・それこそが北野武の本質とはいえないでしょうか。

北野武の「公式見解」ー「振り子理論」なるものは彼の本質でも哲学でもなんでもない。たんなる処世術にすぎません。アウトレイジのようなバイオレンスものが続いたから次はコメディを撮る。成功作が続いたから次はめちゃくちゃな失敗作をわざと撮る。北野武とビートたけしの間を行ったりきたりする・・・これはたんなる自己防衛作、処世術でしかない。

北野武が9.11以降決して口にすることのなくなった

「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

これこそが北野武の本音であり、本質であり、彼の根幹を支える哲学に他ならない。

死を覚悟した人間はただ狂い狂うことが許される。人の命を奪うことさえ許される。いったいこの野放図な考え方は何なのでしょうか。ここにもうひとつの北野武の思想=本質があらわになります。

かって石原良純は北野武と番組で共演したときに宇宙の話になり、こういう北野武の話を聴かされたそうです。

「この宇宙は人間が生み出したものなんだよ。人間が死ねばこの宇宙も世界も消えてなくなるんだ」


これは「独我論」というものです。「私」が存在するがゆえにこの「宇宙」は存在する。「私」が死ねばこの「宇宙」は消滅する。客観的に存在するものなど何もないという考えです。まるでおとぎ話か世迷いごとのように聞こえるかもしれません。しかしこういう考えもあるのです。

われわれの惑星で生命が誕生するのはどれくらいの偶然が重なったかというと、大竜巻がくず鉄置き場を襲った結果、ボーイング747ができあがったのと同じくらい偶然だという。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


この宇宙、この世界はあまりにも人間に都合のよいように出来すぎているというのです。人間が存在するからこの宇宙が存在する、これを宇宙論における「人間原理」といいます。しかしこうした独我論の行き着く先はこれもまた危険なものにならざるをえません。この世界は自分が存在するから存在するのだとしたら、自分が存在しなければ何の意味も価値もないということになる。究極的には

「この世界にはなんの意味も価値もない」


という「相対主義」におちいるのです。

そしてディープな北野武ファンや北野ウォッチャーなら薄々気づいていると思いますが、北野武は「相対主義者」です。

「振り子理論」のような「公式見解」の北野武ではなく、本人が秘匿し、隠蔽してきたイデオロギー

「この世には何の意味も価値もない」
のであるならば
「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

という北野武が秘匿してきた本質があらわになるのです。

「龍三と七人の子分たち」のような大衆娯楽作品にさえ自分自身のどす黒い刻印が色濃くこびりついてしまうというのは、北野武はつくづく「呪われた人」だなぁというほかありません。それも「映画」が北野武を「呪う」のではなく、「北野武」が映画を「呪う」のです。フェリーニも溝口健二もブレッソンも「映画」に「呪い」をかけられた映画作家たちです。しかし北野武だけが「映画」に「呪い」をかけることができるのです。
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2015年02月21日

平凡で愚かな普通の人々のための「アメリカン・スナイパー」

平凡で愚かな普通の人々のための「アメリカン・スナイパー」

映画「アメリカン・スナイパー」のテーマのひとつが「戦場と日常生活は地続きである」ということにあるのはイラクの戦場にいるクリス・カイルとアメリカにいるクリスの妻タヤとのあいだをつなぐ衛星電話の描写が頻繁にあることからもわかる。

しかし戦場と日常とが地続きであったとしてもクリスとタヤの見る現実は様相を異にする。といっても血みどろの戦場と穏やかな日常生活の違いといいたいわけではない。

様相の違いとは当人たちが抱える虚構度の違いといっていい。クリスとタヤの見る世界の虚構性の相違が戦場のクリスと地続きであるはずの日常のタヤとのディスコミニュケーションを際立たせているのだ。

タヤの場合は日々の生活、食事を作り、洗濯をし、子供の世話して・・・という地に足ついた生活世界に住まうのに対し、クリスは「大義」の世界に生きる。ケニアとタンザニアでのアメリカ大使館爆破テロにショックを受けたクリスはネイビーシールズの門を叩き、「国を守る」という「大義」の世界に住まうようになるのだ。さらに9.11のテロ以降クリスの「国を守る」「家族を守る」という大義は絶対的なものとなる。だが、この大義は空疎な概念=虚構でしかない。

クリスは家族を守るといいながら戦場に行きっぱなしで家族を放置し、国を守るといいながら、実際は9.11テロとフセインのイラクには何の関係もなかった。タヤが現実の生活世界に立っているのに対し、クリスは完全に空疎で中身のないものの上に立っているのである。

クリスが拠って立つ大義の世界とはおよそ現実とは言いがたい虚構の世界である。しかし男というものは虚構性が高ければ高いほど、それに吸い寄せられ没我していく生き物だ。

太平洋戦争時、日本人は何のために自分を鼓舞し戦ったか?妻や子供を守るためにといいながら戦っただろうか?・・・彼らは妻や子供や家族よりももっと抽象性、虚構性の高いものに自らを仮託して戦ったのだ。いわく天皇陛下のために・・・いわく靖国で会おう・・・。それらの言葉は無理やり言わされたのではない。人間は家族や生活といった地に足着いた具体的なものより、より抽象性や虚構性が高い「崇高なもの」のためにしか自身を奮い立たせることができないのだ。

「崇高なもの」のために戦う以上、この戦いには「意義」があり、自分の苦労や仲間の死にも「意味」があると思えるのである。

そしてここは声を大にして言いたいが、イーストウッドはこの「国のために戦う」という大義を口にするクリス・カイルを完全に空っぽな存在として意識的に描いている。おそらくこの映画での最重要シーンはベッドの上でのカイル夫妻のこの会話である。

(なぜあなたが戦場に行かなければならないの?という問いを投げかける妻のタヤ)
タヤ「なぜあなたがやるの?」
クリス「君のため、君を守るためだよ」
タヤ「私はここにいて、子供たちもここにいるのに、父親だけがいない」
クリス「国のためなんだよ」
タヤ「もう十分犠牲を払ったわ。他の人に替わればいい」
クリス「自分が自分でなくなってしまう」
タヤ「自分を変えればいい」


この場面でのタヤの力強い存在感にくらべ、クリスの存在感の希薄さといったら・・・。その希薄さは彼の発する言葉の空疎さから生じているのは明らかだ。その言葉の空疎さ、弱々しさに見るものはハッとさせられる。タヤが依拠しているものの力強さと比べてクリスの依拠しているものの脆弱さに気づかされるのだ。

クリスがイラクからアメリカに帰還しながら、妻や家族の元に帰らずひとりバーで飲んでいるのはなぜか。大義という虚構の世界から、地に足ついた生活世界へ足を踏み入れることになぜためらうのか?大義の世界では自分は「何者」かでいられたのに対し、生活世界では「何者」でもなくなるからだ。

またクリスに戦場で助けてもらったと感謝する青年に対しクリスはどんな態度をとったか。クリスの身の置き所のなさ、とまどい、一刻も早くここから立ち去ってしまいたいという衝動・・・。正義の戦争を戦っていると信じているのなら、青年の心からの感謝を素直に受け取ればよいではないか。だが、クリスはただとまどうのだ。なぜなら彼は心の奥底でこの戦争の大義は虚構=いつわりだと気づいているからである。

真にアメリカという国家を守りたいのなら他にもやり方はあり、真に家族を守りたいならタヤと子供のそばにいるべきなのである。だが彼はそうしようとはしない。偽りの大義でも大義だけが自分の存在を正当化してくれるものだからだ。

たとえいつわりでも「大義」はくだらない瑣末な日常に埋没する退屈な自分を忘れさせてくれる。1マイル先の敵をしとめることができる銃は自分の世界を拡張し全能感を充たしてくれる。まるで自分が偉大な人物になったかのように思えるほど・・・。これは明白なことだが、イーストウッドはクリス・カイルをヒーローとしてではなく徹頭徹尾平凡で愚かな人間として描いている。そのことはクリスがイラク人を「Savage」=野蛮人と呼んでいることからもわかる。イラク人全体を野蛮人と蔑む男が正義のヒーローでありうるだろうか。クリス・カイルはアメリカのどこにでもいる平凡で愚かな普通の男として描かれているのだ。

いつわりの大義も、銃も、愚かで卑小な自分を忘れさせてくれる全能感を提供してくれるものにすぎない。自分が何者でもないちっぽけな存在であることに耐えられない男。それがイーストウッドの描く英雄クリス・カイルその人である。

そう考えるとラストのクリスを見送る星条旗の数々もまた違った意味を帯びて見えてくる。最初見たときはあまりにも愛国主義的で「うわ〜」と閉口したけど、星条旗を振っている人々もまたクリス・カイルと同じ平凡で愚かな普通の人々なのだ。彼らもまた星条旗や偉大な国アメリカという虚構=幻想にすがりつくほかない弱い人々だ。誰が彼らを断罪できるというのか。それは私がネトウヨと呼ばれる人々の主張を心底唾棄しながらも、彼らの弱さやみじめさは完全に理解できるのと同じことだ。
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2014年06月19日

性愛と時間・映画「私の男」評

性愛と時間・映画「私の男」評

映画「私の男」を観て、いい映画なんだけどうまく言語化できなくて困っている人もいるのではないかと思い、私なりに説明のされない場面の言語化を試みようと思います。おもに「性愛」を軸にして考察します。

一、「性愛と所有」

「俺はおまえのものだ」
津波にあい、家族を失った少女、花(二階堂ふみ)を引き取る淳悟(浅野忠信)は自分の家へ連れて帰る車の中で泣き出した花をなぐさめるためにこの言葉をかける。「お前は俺のものだ」ではなく、その逆の意味「私はあなたの所有物です」という言葉をかける。これは被災地で大きなペットボトルを胸に抱え誰にも渡そうとしなかった花の心に火をともす。

すべてを奪われた花にとってペットボトルを「所有」することだけが、自分が自分でいることを維持することだった。そしてそのことを本能的に悟った淳悟の適切な言葉。「俺はおまえのものだ」により、花は淳悟を「所有」することによって自己を保持することができるようになるのである。

しかし「所有」に執着するということは、「所有」を失うことが死にも匹敵する恐怖を生み出すことにもつながることを意味する。ペットボトルを胸に抱くことにより自己を維持していた花にとって「所有」は死活問題である。「所有」を失わないためには何をなすべきか。「所有」を失う恐怖から逃れるためにはおのれの身を切ることだと花は悟る。それが「自己放棄」による自分自身の「贈与」である。花は幼い身ながら淳悟におのれ自身を与えるのだ。自分と相手との境界を崩しひとつに溶けあえば、「所有」が失われることはない。花は子供の身空で人ならざるものへの萌芽を見せる。

二、「性愛と時間」

性愛とはなにか。性愛とは時間を無化する行為である。時間とは人間の生活圏から離れて存在するものではなく(つまり客観的に存在するものではなく)人間の「労働」という観念から生み出されたものだ。

本来、動物は「今」だけを生きる。動物は過去を気にしないし、未来も気にしない。動物にとっては「今」がひたすら連続するだけであって、過去も未来も存在しない。動物には「時間」が存在しない。

人間だけが時間の観念を生み出しえたのは「労働」による「収穫」という観念を生み出したからだ。人間は未来の「収穫」を得るために「今」を生きることをあきらめるほとんど唯一の生物である。人間にとって「今」、とは楽しみをあきらめ、苦渋を当たり前のものとし、「将来」がきたるまでひたすら忍従することである。

それもこれもすべては将来の「収穫」を得るためだ。未来の「成果」や「報酬」を得るために「今」が存在するという思考様式が未来−現在−過去という時間という制度(時制)を生じさせたのだ。

だがしかし、性愛は、それも子作りという「成果」をもたない性愛は将来性−収穫性がまったく根絶された「今」を悦楽するという意味を持つ。性愛に惑溺することは時間とそれにともなう制度を無にするのである。つまり性愛は人間の時間という概念が生み出したもろもろのものをすべて無化してしまうのである。労働も、将来も、成果も、報酬も、富も、幸福ですら時間という制度の生み出したものにすぎない。性愛は時制が生み出した産物をすべて無にする。

父と娘の「所有」の果ての自己放棄−お互いを贈与しあう性愛はただ「今」だけをむさぼり続ける。

三、「性愛と死」

花は大塩(藤竜也)に淳悟との「営み」を目撃され、別の親族の元に行くよう諭される。父との性愛関係には未来がない、幸福もない。時制が生み出した観念=モラルに反するからだ。

しかしもはや時間という制度の中にいない花にとって、時間という制度に引き戻そうとする大塩は邪魔な存在でしかない。花が大塩を流氷の上で殺すのは象徴的だ。寄せては返し、流動的に動く波に対し、流氷は動く波を無視して固定的にとどまっている。波が時制に支配された人間の生活圏を意味しているなら、流氷は時制に支配されない花たちの世界だ。

物語は二つの殺人によって花と淳悟の世界を二つに分かつ。花と淳悟を分かつ「殺人」の意味とはなんだろうか。
花が殺人という現実からあっさりと立ち直るのに対し、淳悟がいつまでも殺人に拘泥し、自滅していくように見えるのにはわけがある。花は理解するのだ。

「性愛」と「死」はほとんど同じものであると。

性愛とは所有の果ての自己放棄と贈与である。さらに時間を無化する行為である。これはまったく「死」の概念と共通する。それも殺人は他者に究極の自己放棄と究極の贈与を迫る行為に他ならない。そしていうまでもなく「死」は時間という制度からもはずれている。「性愛と死」は同じものであると悟った花と違い、殺人という罪に恐れおののく淳悟は時間という制度に捕らわれてしまったのだ。

かくして花は時制から解き放たれ、自由に天空を舞う人ならざるものへと変身し、淳悟は時制に捕らわれ地上に縛り付けられまま老醜をさらけだす。二人の立場の違いを明白にあらわしたのがラストシーンなのはいうをまたない。

「お前には無理だよ」

淳悟が花の男たちにかける言葉は「お前たちに時間という制度から超越した人ならざるものを扱うことはできない」という意味だ。そしてそれは恐ろしいほどに正鵠を射ている。


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どうですか。バタイユオタクが書くと映画批評はこうなってしまうのです(苦笑)
それはともかく俳優陣は素晴らしかったです。浅野忠信の色気はやばいことになってるし、二階堂ふみさまはあいかわらず天才だし、藤竜也も枯れているだけではないし(北野映画の新作が楽しみだ)。

でも一番好きだったのは小町役(浅野忠信の恋人役)の河井青葉さんです。なんかリアルなんですよね。地方都市にいてくすぶっている女性なんだけど、妙にリアルな色気がある。こういう女性と一緒になれるなら地方でくすぶることになったとしても一向に構いません。

KawaiAoba2.jpg

ここに河井青葉さんのインタビューがあります。きれいな方だなぁ。
http://intro.ne.jp/contents/2014/06/13_1611.html
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2014年05月22日

井口昇「ライヴ」を通して考察する「デス・ゲーム」とはなにか

井口昇「ライヴ」を通して考察する「デス・ゲーム」とはなにか

井口昇監督のデス・ゲーム映画「ライヴ」を見て、あらためて「デス・ゲーム」とは何かについて考える。

デス・ゲームの元祖はリチャード・バックマン(スティーヴン・キング)の「死のロングウォーク」(1979)といわれる。有名な「バトルロワイヤル」や「ハンガーゲーム」の元ネタでもある。

デス・ゲームの特徴として
@デス・ゲームは人を問答無用で理不尽な状況に投げ込む。
Aデス・ゲームは見ず知らずの他人同士を競い合わせ、脱落したものには死が待ち受けている。

さしあたり@とAの定義が思いつくが、こういう定義だと「死のロングウォーク」以前にも同様のものがあるのではないかという指摘があるだろう。

たとえばアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を原型とするクローズドサークルミステリが「デス・ゲーム」の元祖ではないかという疑問が生じてくる。隔離された孤島に集められた他人同士が一人ずつ殺されていく。まさにデスゲームではないか。そうなると綾辻行人の「館シリーズ」も米澤穂信の「インシテミル」などもデス・ゲームといえるのだろうか。

私はそれらの作品はデス・ゲームではないと考える。なぜこれらの作品がデス・ゲームではなく、「死のロングウォーク」がデスゲームの原型といえるのか。両者の最大の違いはその作品にハイデッガーの「先駆」という考え方があるかどうかだ。

ハイデッガーの「先駆」とは

おのれの死のなかへ先駆してこの死へむかって打ち開かれることによって、現存在は、偶然のまにまに押しよせてくる有象無象の可能性への自己喪失から解放され、そして、追い越すことのできない可能性の手前に控えているもろもろの事実的可能性を、このことによってはじめて本来的に了解し選択することができるようになる。ーハイデッガー「存在と時間」下巻P88(ちくま学芸文庫、細谷貞雄訳)


・・・うん、すまない。さっぱり意味がわからないと思う。私だってできればハイデッガーなんて引用したくなかった。でも引用せずに同じようなことを書くと、「おまえハイデッガーパクってるやん!」といわれるのがしゃくなので引用せざる得なかった。でも大丈夫です。この「先駆」という考えをもっと平易になおかつ感動的な言葉で語ってくれる人がいました。スティーヴ・ジョブズです。

自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておくことは、私がこれまで重大な選択をする際の最も重要なツールでした。ほとんどのものごと、外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったもののすべては死に臨んでは消えてなくなり、真に重要なことだけが残るからです。自分も死に向かっているという自覚は、私の知る限り、何かを失ってしまうかもしれないという思考の落とし穴を避けるための最善の策です。あなた方はすでに丸裸です。自分の心に従わない理由はありません。ースティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業式スピーチ(訳はH-Yamaguchi.netさんから引用させていただきました。)


これはハイデッガーの「先駆」という考え方そのものです。めっちゃわかりやすい!さらにジョブズは素晴らしいことを言っています。

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを私は本当にやりたいだろうか?」と。その答えが「ノー」である日が続くと、そろそろ何かを変える必要があるとわかります。ースティーブ・ジョブズ


これも同じことをハイデッガーが書いています。

死への先駆において現存在がひとごとでない際立った可能性からおのれをまぎれなく了解すればするほど、おのれの実存の可能性の選択的発見は、それだけ曖昧さと偶然性のすくないものになる。死への先駆のみが、あらゆる偶然的な(暫定的な)可能性を追いはらう。死へむかって開かれた自由のみが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性のなかへ突きいれる。ー「存在と時間」下巻P324


同じことをいっているにもかかわらずジョブズの言葉の方が圧倒的に力がありますね。でも言っていることはハイデッガーの「先駆」あるいは「先駆的覚悟性」といわれるものなのです。

多くの人はこう考える。「ひとはいつかきっと死ぬ、しかし当分は、自分の番ではない」(ハイデッガー)。デス・ゲームはこうした考えに鉄槌を打ち下ろす。人をいきなり理不尽な状況に放り込み、ありとあらゆる苦難を短時間のうちに人間に与える。いままでなんとなく生きてきた人間たちにはっきりと目前の「死」を意識させることによって、人を否応なく覚醒させるのである。

つまりデス・ゲームとは人生を凝縮して短時間のうちに体験させることを主眼としているゲームなのだ。デスゲームは人生そのもの、人生のありとあらゆる理不尽さを体験させるものなのだ。そこがクリスティなどのミステリとデス・ゲームとの根本的な違いである。

R・バックマン「死のロングウォーク」は全体主義国家の祭典的な行事として子供たちにひたすら歩かせるゲームを強いる。そして精神的にも体力的にも限界が来て歩けなくなった子供を容赦なく射殺していくという、非現実的、理不尽きわまりないお話である。それでも、そんな過酷な状況下でも、子供たちは自分を見失わず、死をかけて戦う相手との友情を育みながら歩き続ける。死のロングウォークはいつしか敵との戦いではなく、自分自身との戦いになる。自分自身を見つめる旅路となるのだ。

デス・ゲームは理不尽にも「死」を意識させられた状況下で、自分にとって真に重要なことはなんなのかという「問い」と向き合わされるのである。いわば強制的に「先駆」という状況を作り出すのだ。

ここでデス・ゲームにあらたな定義が加わった。

@デス・ゲームは人を問答無用で理不尽な状況に投げ込む。
Aデス・ゲームは見ず知らずの他人同士を競い合わせ、脱落したものには死が待ち受けている。
Bデス・ゲームは人生に待ち受ける理不尽さや不条理の縮図である。
Cデス・ゲームにより主人公は人間的成長を遂げる。

クリスティや綾辻行人の「館シリーズ」にはBとCが欠けているためデス・ゲームとは呼べないのだ。

ここで井口昇の映画「ライヴ」を観ると見事に@〜Cを満たしていることがわかる。特に重要なのはCである。「ライヴ」の主人公田村直人(山田裕貴)は映画冒頭からいかに嫌な奴かということを強調して描かれている。・・・映画好きな人ならすぐにピンと来ると思うが、映画冒頭に主人公がいかに鼻持ちならない奴かということを強調するということは、この主人公は物語を通して成長するということを意味する。

デスゲームは強制的に「先駆」的状況を作り出す。つまり人生の理不尽さや不条理さを短時間のうちに凝縮して人に体験させる。それゆえに人は短時間のうちに急激に人間的成長を遂げることになるのである。「ライヴ」冒頭の主人公とラストシーンの主人公を見よ。まるで別人のように人間的に成長した姿を見せていて感動的である。

映画「ライヴ」は「デス・ゲーム」という「思想」を完全に体現した手練れの作品である。

追記・今思いついたけど、デス・ゲームの元祖って旧約聖書の「ヨブ記」じゃないか。となるとデス・ゲームの主催者であり、敵は「神」ということになる。

他にも井口昇監督作品である「電人ザボーガー」評、正義はすべてに先行する「電人ザボーガー」も書きました。
posted by シンジ at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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