2023年05月25日

神殺しの一撃 映画PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE

映画サイコパスのこんな批判を見た。

『劇場版 PSYCHO-PASS PROVIDENCE』、さすがに、さすがにお粗末すぎるだろ…お話が。登場人物が「法律の廃止」を連呼して作品世界でどうも大きな流れになってるみたいで、しかしそれは「刑法」の廃止の言い換えか?と思ってたらどうもマジに「法律」の廃止っぽいので脳みそ焼き切れるかと思った

法務省解体して法律廃止したらふつうにすべての省庁の根拠なくなって国家そのものがおしまいにならないの?これだけ主要人物に役人が出てくるのに作り手は官僚制のことどういうふうに捉えてるわけ?結末が決まっているのでどうそこに着地させるか苦慮した結果とは推察しますが、それにしたってですよ。ー@AmberFeb201氏のtweetから引用。


映画を見る前にこの批判を読んだので一時はなるほどと思ったが、映画を見てからはこの批判は的外れだと感じた。

「サイコパス」の世界ではシビュラシステムという全能のAIがすべてを支配し、人間を完全に数値化することに成功しており、そこから人の犯罪係数をわりだし犯罪を未然に防いだり、その人にとって一番いい職業を選択してくれたりする。人間が考え決断する手間をすべて省いてくれるシステムだ。

この作品のテーマは全能のAI(=神)と法律との対立構造だが、実はこの対立は今現在、現実の世界でも形を変えて存在している。

近年政治的に正しくないという理由で訴訟を起こす前にキャンセルを起こし、失職させるという動きが多方面であった。

どんな最悪の犯罪者でも法の下で裁きを受ける権利がある。裁判以前に確たる証拠もなく有罪を宣告される前に容疑者をリンチにかけ、職を奪い人生を奪う権利は誰にもない。

今は下火になったとはいえ数年前の「キャンセル」ムーヴメントに心のしこりを感じるのはこの一点だ。

私はこのキャンセルと法律の対立関係にサイコパスのシビュラと法律の対立関係を重ね合わせてみてしまう。

正義の大衆の私刑とかたや全能のAIによる合理的判断。

まるで別物のようにも見えるが、どちらも大衆(マルチチュード)と法律の緊張関係に関係していることをこれから論証する。

まず「大衆」に歴史上はじめて重きを置いた人物に「君主論」で有名なマキャヴェッリ(1469-1527)がいる。

君主論は君主による非情な政治手法を説いたものとして有名だが、これはあくまでロレンツォ・デ・メディチ公に捧げるために書かれたものであり、実際のマキャヴェッリの主張とは違うものだった。

本来のマキャヴェッリの思想は君主政にはなく共和政の道を説いた「ディスコルシ」にある。

マキャヴェッリはカエサルを痛烈に批判し、独裁政を酷評する。

民衆の持つ性格が、君主の性格に比べて罪が重いわけではない。なぜなら、あとさきのことを考えもせずに、あやまちを犯してしまう点では、両者は五分と五分だからだ。−第1巻58章

人民に比べると、君主の方がはるかに失敗を犯しやすい。−第1巻58章


大衆の政体である共和政が君主政と比べて劣っていることはないのだ。

こうしたマキャヴェッリの政治学における「大衆」の重要性をさらに推し進めたのがスピノザ(1632-1677)である。

常にスピノザの念頭にあった仮想敵とはアリストテレスをはじめとする「徳」を掲げ大衆を支配する政治論を主張する一派だった。

大衆は愚かでまぬけで感情に支配され、欲望にまみれている。そんな大衆を政治に関わらせてはならないといった考えが数千年もの間ヨーロッパを支配してきた。

そうしたアリストテレス以来の考えをマキャヴェッリとスピノザはひっくり返す。君主も貴族も大衆も同じ人間本性を持つ以上愚かさでは五分五分でしかないし、間違える確率も同じだろう。

ならばより集合知の力が期待できる「大衆」を政治の基盤にすえるべきなのだ。

そして重要なのは徳や道徳といったもので大衆を支配することはできない。徳による大衆支配の政治体制は必ず失敗するということをマキャヴェッリ、スピノザともに主張している。

徳による支配をわかりやすく言うと、ある一つの理想を描き、その理想を大衆に強要する政体のことをいう。いろんな政体が思い浮かぶはずだ。

スピノザはそうした「上」からの支配は必ず失敗するとしたうえで、「上」からではなく「下」からの政体しか成功しえないという。

上から(理想や徳)ではなく、下=大衆の感情や情念、欲望といったそれまで何千年も馬鹿にされ、悪しきものとされ、汚らわしいとされてきたものこそが大衆を基盤とする政体をつき動かすものとなるのだ。

こうして「大衆」はマキャヴェッリとスピノザによって「神」にとって代わるものとして誕生する。

その「神」は法律に対しこう宣言する。

「法は理性と人間の共通の感情とによって支持される場合のみ破られない。そうではなく、もし理性の助けによってのみ支えられるなら、それはきっと無力で、容易に破られる」−スピノザ国家論第10章第9節


大衆の感情こそが法の根拠であり、大衆の感情によって支持されない法律は意味をなさない。

こうしたマキャヴェッリとスピノザ流の考え方はまさに近年キャンセルの嵐となって吹き荒れたのを私たちは見ている。法律を超えて判断を下す神なる存在としての「大衆」

万能の神としての大衆と万能の神としてのシビュラシステムは必然的に法律と対立し齟齬をきたすのである。(映画の中で法律を廃止すべきと言っているのは人間だが、それを指示したのはシビュラだろう)

そして映画サイコパスの常守朱(つねもりあかね)は極限まで達した万能の神と法律との齟齬の中でひとつの決断を下す。

それはグロティウス(法学者1583-1645)的決断である。

グロティウスはこう言う。
「たとえ神が存在しなくとも法(自然法)はその効力を失わない」−「戦争および平和の法」


もはや万能の大衆も万能の神をも必要としない神殺しの一撃である。

映画「サイコパス プロヴィデンス」は常守朱のグロティウス的一撃により神は必要ないことを証明した傑作である。
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2022年12月22日

だめだこりゃ アバター:ウェイ・オブ・ウォーター

アバターwowを見たのでつらつらと。巷では世界中で日本だけアバターが興収1位を取れなかったことを揶揄する方も多いそうですが、作品の質を見てもwowはスラムダンクに負けてるのでそうおかしなことではない(興収スラムダンク1位アバター3位)

アバターwowは1作目と比べてもクライマックスのアクションがかなりスケールダウンしている。なにしろ敵は「捕鯨船」でしかないのだ。戦闘のプロではなく漁業を営む人たちをナヴィ族が大虐殺していくのである。

キャメロンの日本の捕鯨船に対する憎悪はシーシェパード並なんだな(笑)というのはわかるが、敵役としてはあまりにも弱すぎる。こんな貧弱な敵ではバトルが盛り上がらない。前作よりスケールダウンと表現した所以である。

アバターwowはアバター3の人間との全面戦争につながる中途の作品だとわかるのも不満だ。見せ場は全部アバター3に取っておいてあるだろうと予測できてしまうくらい地味なストーリーなのだ。

シナリオ面でも不備はあり、弟ばかり描写して兄のことをほとんど描写しないので、クライマックスの衝撃と感動がほとんどない。そしてしつこいくらい繰りかえされる「俺たちはファミリーだ」ワイルドスピードじゃないんだよ!古臭いな。

映画を見た人のほとんどが称賛する映像美についてだが、たしかに今まで映画館では見たことのないレベルのクリアな映像だった・・・でもこのクリアで陰影の全くない映像どこかで見たことがある・・・電器店の店頭にある大型TVのデモ映像とそっくりじゃないか!

wowの異常なくらいくっきりとした、映画的な陰影のない映像は完全に電器店の大型テレビのデモ映像と質感がそっくりなのだ。近所の電器店に行って大型TVに移る映像を見に行ってください、それがアバターwowの映像です。

とはいうものの、CG技術は天元突破しているのでマーベル映画の雑なCG(いわずもがな日本映画のCGも)などとは比べものにならないのは事実。でも面白いことにすべてのシーンに金がかかり、すべてのシーンが凄いと皮肉なことにすべてのシーンが「普通」に思えてくるのだ。慣れって怖いですね。

すべてのシーンが凄すぎてすべてのシーンが普通になるとどうなるか。一点豪華主義みたいな、ここに多額の予算をかけてますというような「ここが見せ場ですよ!」というフリがないので作品自体が平板な印象になるのだ。

posted by シンジ at 09:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月29日

対話と救済 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||評

対話と救済 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||評

シン・エヴァンゲリオン劇場版を初めて見たとき、映画のDパート(マイナス宇宙のパート)のあまりに意表を突く突拍子もない映像の数々と初出の用語と概念の洪水に脳をやられて感動する暇すらなかった。3回目を見てようやく情報の洪水状態を脱し、脳の処理速度が追い付いてきたのでやっとシンエヴァ評を書けるに至った次第。

しかし1回だけ見てあの大量の情報が高密度で高速に流れるさまを見て理解できたり、「泣いた」と言ってる人が多いのにびっくりした。正直こんなにも理解してる人が多いのに、理解できなかった自分が馬鹿なのかと不安になったりもした。

でも3月28日のシンエヴァ声優陣の舞台挨拶でカヲル役の石田彰さんが

「僕もこの作品見終わったあとに、作品自身に翻弄されました。異様とも言える映像を見せられて、これをどう解釈すればいいんだろうとか、細かな設定的な事とか、理解が及ばない事が多すぎて、物語をどうとらえればいいんだろうと思ったいました。けれど、シンジとゲンドウの会話をきっちり聞き逃さないようにしていれば大丈夫なのかなと思っています。今作の中で、ゲンドウがシンジに“大人になったな”と言うんですけど、“お前が言うな!!”って思いました。そういう作品です」
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1314909.html

石田さん!そうですよね!26年間エヴァにたずさわってきた人でさえ翻弄されたんだから。自分だけが翻弄されたんじゃないと。

私も初出の用語、概念の「エヴァイマジナリー」だとか「マイナス宇宙」に頭の中がはてなマークになったり、既出の用語にすら(「黒い月ってなんだっけ・・・?」「アダムスって?」)戸惑い、頭フル回転状態でしたから。

私のシンエヴァ鑑賞ガイドとしては初出、既出の難解な用語、概念はひとまず置いておいて、「テーマ」と「メッセージ」だけに注目してみるという古典的な手法でシンエヴァのかなりの部分を味わい尽くせると思っております。

エヴァ新劇場版のテーマなんてあるのか?と問われれば「明確にあります」
ヱヴァンゲリヲンQですらはっきりとしたテーマがあるのです。(ヱヴァQのテーマに関しては運命と自由意志の相克であると考えますが、それは「ヱヴァンゲリヲンQと自由意志問題」に書きました http://runsinjirun.seesaa.net/article/313105957.html

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のテーマは「対話」と「救済」です。

「救済」に関しては作中のそれぞれの立場によって救済の中身が違ってきます。
ゼーレは「人類補完計画」という「人類の個という外殻を捨て去り、一つの魂となって融合することにより、争いも差別もない永遠の平穏を得る」ことを目指しているのに対し、碇ゲンドウはゼーレに従うと見せかけて、フォースインパクトとは別の「アディショナル・インパクト」を起こそうとしています。

ゲンドウがおこそうとするアディショナル・インパクトとは作中のセリフによれば「虚構と現実の情報の均一化」つまりエヴァイマジナリーを使って魂の均一化だけでなく、虚構と現実の均一化も成し遂げようとしているのです。人の想像が現実と同一になることによって妻であるユイを取り戻そうとするわけです。

これがゼーレとゲンドウが考える「救済」の中身です。

だが碇シンジの考える「救済」はこれらのものとは違います。

シンエヴァ作中、しきりに「縁」という言葉が繰り返し発せられます。相田ケンスケが3回重要な場面で「縁」を口にし、カヲル君も1回「縁」を口にします。いずれもシンジ君へと発せられ伝えられたのが「縁」という言葉です。

「縁」とはすべてのものは相互に関係しているものであり、独立自存するものは存在しないという意味です。「関係」と言い換えてもいい。

ー「関係」とは「私」が他者との関係に巻き込まれ、他者と共に存在し、他者に対して存在することで深く規定されている。関係とは他者へのかかわりとふるまいによってかたちづくられるものーであり

「人間は厳密にいえば他の人間とだけ「関係」することが可能である」ーレーヴィット「共同存在の現象学」

M・ブーバーはさらにはっきりといいます「憎しみをもつ人は、愛も憎しみもない人よりは、はるかに関係の近くにいる」と。(我と汝)

人類補完計画は個人を捨て、自我を捨て、執着も捨てることにより、「関係」の一切ない、つまり愛も憎しみもない平穏な世界を創造しようとするが、シンジは愛も憎しみもある「縁」の世界を望むのだ。

ありがたいことに人類補完計画を全否定してくれるようなバフチンの文章がある。

ー人間のいかなる出来事も、ひとつの意識の枠内では展開されないし、解決されない。そのためドストエフスキーはひとつの意識のなかの融合、溶解や個別化の解消を最終目的とみなすような世界観に敵対する。いかなる涅槃もひとつだけの意識にはありえない。一つだけの意識というのは形容矛盾である。意識とは本質的に複数ものである。ー「バフチン対話そして解放の笑い」

融合、溶解や個別化の解消を最終目的とみなすような世界観に敵対すること。ではそれらを否定して、愛も憎しみも存続する「縁」の世界での「救済」とは何か?

それこそが「対話」である。

「真理が開かれるのは、対等な複数の意識が対話的に交通しあう過程においてである」ー(バフチン対話そして解放の笑い)

映画のクライマックス。ついにゲンドウとシンジの親子対決が始まる!!と期待していた観客はあっさりと裏切られます。まるで映画のセットのような場所(東宝スタジオらしい)
で天丼ギャグのようなバトルを繰り返す親子。ゲンドウは言います「暴力と恐怖では決着はつかない」と。非常にメタ的な表現を用いて、バトルものにはしない。そんなものではこの映画は決着できないと映画の作者から面と向かって言われるような気にすらなる、異様なシーンでした。

ここから映画の雰囲気は一気に変わり、内面世界へと、対話の世界へと入っていくのです。

ここでもう一度「対話」の意味を考えます。

平田オリザは「会話」と「討論」と「対話」の違いについてこう書いています。

「会話」とは価値観や生活慣習なども近い親しい者同士のおしゃべり。

「討論」とはAとB二つの論理が戦ってAが勝てばBはAに従うこと。

そして「対話」とはAとB異なる二つの論理がすりあわさりCという新しい概念が生み出されることだ。ー「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」

「対話」による「救済」とは、対話によりなにか新しいものが生まれ、そして二人の間の関係性が変わるだけでなく、二人の魂自体も変わることをいう。

個人を消去し、関係も消去することによって得られる永遠の平穏(人類補完計画)も、ゲンドウの虚構と現実の境目をなくして、想像を現実化させようとする計画(アディショナル・インパクト)も、所詮は他者不在の妄想=独我論でしかない。

シンジはそれらを否定し、「私」と「君」が縁を結び、関係性を築きあげ、対話による「変容」をうながす世界へと舵を切るのだ。

それではその「対話」によって「変容」したことによる「救済」をエヴァはどう描いたか。

この映画で一番びっくりするのは登場人物全員が「救済」されたことではないでしょうか。ゲンドウが救済されるのはまだしも、カヲル君まで救済されたのには驚きました。

この救済方法が独特で、登場人物たちの「神秘性」をはく奪し「凡俗」化することが救済につながるというものです。

アスカは今まで求め続けてきた愛をしごく平凡な形として受け取る。決して得られることのなかった両親の愛でもなく、それまで愛していた特別な男(シンジ)の愛でもなく、エヴァ作品上最も特別なところのない平凡な男の愛を得るのです。

エヴァ破で消えた綾波レイは初号機の中で生き続けていたことが髪の伸びたレイとして描かれる。作中マリのセリフにある通り、髪が伸びるということはカオスであること、人間である証拠だ。またそのレイが赤ちゃん(ツバメ)の人形を持っていることからも、第3村で消滅した黒波(仮称)の記憶も受け継いでいることがわかる。綾波レイはクローンでも操り人形でもなく完全なる自我を持った「平凡な人間」となるのだ。

ゲンドウは壮大な計画を遂行する鉄の人間のような見かけに対して、実際はおのれの弱さに向き合うことができなかった欠点だらけの弱くもろい存在として暴かれる。シンジとの対話でようやくおのれの弱さと向き合い、その結果、求め続けた妻ユイがすぐそばにいたことに気づく。そして最後は妻ユイと一緒になって、シンジの身代わりとなってすべてのエヴァンゲリオンごと消えていく。

カヲル君はエヴァ作品上最も神秘性に覆われた人物として描かれてきたが、その本質は自分の欲望と向き合うことができずにいた、ただの哀れな弱い存在でしかなかったと暴かれる。人間ではなく使徒として神秘性と謎の権化だったカヲルがひどく平凡な「人間」として描かれ、そしてそのことによって救われるのだ。このことは作中最大の衝撃をもたらす。

そしてマリである。正直にいってシンエヴァ中、最も謎めいた人物が真希波・マリ・イラストリアスだろう。マリは作中でゲンドウとユイの同期の友人として描かれている。そしてなぜか一切年を取っていないことから、真希波シリーズというクローンなのだろうと推定ができる。マリは過去からやってきた時間を超越する者だ。超越者だからこそ、イマジナリーの中に取り残されたシンジを迎えに行き、救い出すことができたのだろう。ではマリの救済はいかなる形でおこなわれたのか?マリはおそらくゲンドウかユイを(もしくは両方を)愛していた。その愛の執念がゲンドウとユイ二人の息子であるシンジへの愛へと結実した、というのは的外れだろうか?(ここは私にもわからないので、マリ読解を成し遂げた人の意見を聞きたい)。過去からやってきた時間を超越する特別な存在が、愛の執念の結実という至極平凡なことで救われるのだ。

庵野秀明のエヴァンゲリオンの終わらせ方は、登場人物から神秘をはく奪し凡俗化させるということだった。そして驚くべきことにこの凡俗化が救済になるのだ。なぜ神秘をはく奪し凡俗化させることが「救済」になるのか。

それだけが「神話」の否定になるからである。エヴァの登場人物はほとんどが怪物であり、英雄である。シンジにいたっては世界を書き換えるという神にも匹敵する御業を見せる。そんな神話的人物を救済するには平凡な「人間」へと昇格(降格ではない)させるほかない。

あらゆる登場人物を凡俗化させ神話から解放することが、すべてを救済し、エヴァンゲリオンを完全に終わらせる唯一の方法だったのだ。

もしラストシーンでシンジの声が緒方恵美さんのままだったら、シンジの神話はこれからも続く・・・という意味合いのラストシーンになっていただろう。声優を交代させたことによりシンジの神話は完全に終わったのだ。

エヴァンゲリオンのこの終わらせ方、救済方法だけでも庵野秀明は天才だと断言できる。極細の針の穴に糸を通すかのようなエヴァを終わらせる唯一の方法を発見した庵野秀明をもっとみんなほめたたえるべき。これは偉業です。
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2019年07月31日

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

新海誠「天気の子」愛でも破滅でもなく

主人公の帆高の選択に対する批判としてこれを社会性のないものであるとか、浅薄な功利主義(最大多数の最大幸福)批判であるとか、公共的なものへの反発からくる徹底した利己主義、リバタリアニズム(自由至上主義=個人の自由と権利を絶対視する思想)であるとかいう批判が一部にある。

一方で帆高の選択に対する賞賛として非常にラディカルでアナーキーなものであると賞賛する人たち(おもに革新幻想にとらわれた中年男性)がいる。むしろ批判よりもこっちのほうが多いかもしれない。

だがこの批判するもの、賞賛するもの両者ともに映画に描かれているものと向き合わず、新海誠の意図するものを無視し、頭の中にある「公式」に映画を当てはめているにすぎない。

この批判と賞賛の両者が見逃しているものとは新海誠その人であるといってもいい。

はたして新海誠は徹底した利己主義、自由至上主義の観点から帆高の決断を描いたのであろうか。もしくはこの世界など滅びてもかまわない、愛さえあればそれでいいというようなアナーキズムからこの決断を描いたのだろうか。

どちらも共に間違っている。

私のようなすれっからしからしてみれば信じられないことなのだが、新海誠は本心から「世界が良くなってほしい」と願い「世界が少しでも良くなるよう」に思いをこめて映画を作るお人なのだ。

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」ーLINELIVEの『君の名は。』特番での新海誠。


私は新海誠のこの発言が嘘偽りない彼の本心、映画作りの根底にある考えだと確信している。ここ何年かの新海誠のインタビューや対談のネット記事、雑誌記事のほとんどに目を通してきた結論がこれだ。(これでもし彼の発言が全部嘘で演技しているだけというなら脱帽する)

新海誠は我々が思っている以上に「ガチ」の人なのだ。心の底からこの世界が良くなればいいと願いながら映画作りをする新海が、リバタリアニズムにもとづいて、もしくはアナーキズムにもとづいてこうした選択を描いているのだと見えたのなら、その目は節穴である。

新海誠は議論の余地なく完全に帆高の選択こそが「世界を良くする」ものだと確信して描いているのである。

新海は徹頭徹尾、登場人物に寄り添い、どうすればこの子達が幸せとなるのか、どうすればこの世界がより良いものとなるのかを真摯に考え抜いた結果、この選択、この決断を描いたのだ。

帆高がくだした決断は、まず「目の前にいる苦しんでいる子を助けよ」という衝動に従うことだった。

目の前にいる苦しみ助けを求める人に手を差し伸べることこそが全世界を救うことと同義であるということ。

ここで毒々ルサンチマンもちの邪悪な私が囁く。「いや、もちろん目の前に困っている人がいたら助けるけども・・・それと世界を救うことには深い断絶があるよね?私たちは家族や友人、目の前にいる人は助けようと思っても、少しでも離れた地域や別の国にいる人たちの不幸に関してはほとんど無関心じゃないか」

人間の同情心や想像力というのは自分の身近なものにしか働かないように見える。そうした狭い範囲でしか通用しない衝動に身をまかせることは根本的にあやまちではないのか。

しかしこの目の前にいる苦しんでいる人を助けるという衝動こそ孟子のいう

「人皆人に忍びざる心有り」


に他ならない。これを「道徳を基礎づける」のフランソワ・ジュリアンはこう訳す。

「誰にとっても他人が不幸に沈んでいる時に無関心でいられず、反応を引き起こすものがある」


これを「仁」という。

なるほどこの「仁」はいまだ不完全であるかもしれない。目の前の人を助けても、地球の裏側で苦しんでいる人々を助けることもできないちっぽけな感傷かもしれない。

だがしかし目の前にいる苦しんでいる人を助けたいと思うこの小さな衝動こそが人のモラルの源泉であり根底にあるものなのだ。この未熟で小さな思いこそが地球上のすべての人々が倫理的にふるまう最初の一歩なのだ。

新海誠は苦しんでいる人が目の前にいたなら、それに無条件で手を差しのべる衝動こそが世界をより良くする第一歩だと本気で信じているからこそ「天気の子」を作った。

帆高の決断は愛を選ぶか、世界を選ぶかというような陳腐なトロッコ問題ではない。男女間の愛の問題ですらない。

焦点は「仁」なのである。
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2019年06月14日

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」いまごろニューエイジ思想かよ

映画「海獣の子供」すさまじいアニメ表現と色っぽい人物、特に少年青年老人の男勢がみんな色っぽい。アニメのキャラクターでここまで色っぽく描写できるのは驚異としかいいようがない。色っぽいというのは性的も含むけど、実在感、肉体感、身体性がすぐれているということ。アニメ演出、作画両面ですさまじく高水準な仕事をされていることがわかる。

多くの人が意味がわからないという思想的な面も「ひとつは全にして全はひとつなり」「自と他の区別なく、生と死の境もない」というような仏教思想を多少齧ったことがあるならなんとなく理解はできるだろう。

主人公ルカの家の前を虫が羽虫の死体を引きずっていく場面や、エンドクレジット後の場面ー母親が赤ちゃんのへその緒をルカに切ってくれと頼むとルカはへその緒を切りながら「命を断つ音がした」という場面はまさに「生と死はつながっているし境もない」ということをあらわした場面だ。

しかしこの映画の背景にあるのは実は仏教ではない。この映画の海や鯨に対するこだわりからみてこれはあきらかに「ニューエイジ」だろう。

「ニューエイジ」とは、1970年代にムーブメントを起こしたースピリチュアリズム、オカルティズム、神秘主義、LSDカルチャー、チャネリング、手かざしなどの代替医療、環境保護などが混合された思想、擬似宗教。

その根本思想とは「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインドが融合」(スピリチュアルコネクトより引用)したものだ。

「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインド」まさにこれこそが映画「海獣の子供」のすべてでありニューエイジそのものだ。おそらく原作者はニューエイジにどっぷりつかった人なのは間違いない。

多くの人がわからないという「海獣の子供」のクライマックスの観念的な映像を映画「2001年宇宙の旅」のラストの映像とくらべるむきも多いと思う。その考えは間違っていない。

こんなことを聞いたことがあるー「2001年宇宙の旅」は「しらふ」で見る映画ではないのだと。「2001年宇宙の旅」はドラッグをやりながら見るとあの最後の映像でトリップできる。トリップすることによって映画の真の価値があらわになるというのだ。

ようするにLSDカルチャー、ニューエイジカルチャーとしての「覚醒」=トリップ感覚を味わうために「2001年宇宙の旅」や「海獣の子供」のあのトリップ映像があるのだ。そしてそうしたトリップ感覚はお手軽な「悟り」として世界中に輸出され、オウム真理教のようなカルトを世界中に生んだ。

映画「海獣の子供」は極限にまで達したアニメ表現の素晴らしさと「え?今頃ニューエイジ!?」という不可解さの混合だ。

posted by シンジ at 15:57| Comment(1) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

アウトレイジ最終章のすべての疑問に答える。

アウトレイジ最終章のすべての疑問に答える。

太刀魚

太刀魚は港や堤防で釣る場合は夜間、灯りのある場所でしか釣れない。その太刀魚がまっ昼間海面に浮かび上がるのは「場違い」でしかない。花菱会の内部抗争に場違いにも首を突っ込んでいく大友(ビートたけし)の姿そのものとはいえないだろうか。


アウトレイジシリーズのオープニングを必ず飾る黒塗りの車。これはわざわざ指摘するまでもなく「棺桶」である。車の連なりはヤクザどもの葬列に他ならない。黒のボディは闇の中、「死」からこちらを招いている。しかしこうしたヤクザどもの葬列に連ならない車は死を拒絶するかのようにかならず白いボディに輝いている。最終章ではチャン会長(金田時男)の車がそれである。

三千万円

花菱の中田(塩見三省)と花田(ピエール瀧)がチャン会長に謝罪に行くと逆に三千万円もたされて「増えてもうたがな・・・」というギャグのような場面がある。これはアウトレイジ一作目にもあったぼったくりバーの店員に百万円持ってかえらせるのと同じ意味。すなわち「因縁」をつけているのである。相手に因縁を付け、相手に非があることにさせ、相手に「負い目」を背負わせること。ヤクザ流のマウンティングといってもいい。そうしたヤクザ独特の因縁の付け方をお金を持たせて帰らせるというユーモラスな方法で描いたのだ。(北野武監督によれば三千万円に三千万円つけて帰らせるのは本当は六千万円持って来いという意味だったそう。ー産経新聞インタビューより

大友の動機と目的

さて大方の人が思い悩むのは今作品での大友の位置づけだろう。いったい大友の動機は?目的は何なのか。なぜあれほどまでに大勢の人を殺戮するのか。
最終章で描かれるのはおもに花菱の内部抗争、すなわちヤクザどもの醜いエゴと欲得づくの争いだが、大友だけはまったく別のルールで動いている。ひとつは済州島でチャン会長の部下が花田に殺されたことの敵討ち。もうひとつは前作アウトレイジビヨンドで殺された兄弟分の木村(中野英雄)の敵討ち、これだけである。

映画の後半部、映画的にはまったく蛇足でしかないにもかかわらず、前作で殺された木村の仇をとるために、もはや堅気となり、うらびれた工場で働く男を殺害する大友。他の殺害シーンとは違い、静かなロングショットで映画的にも物語的にもほとんど何の意味もないシーンのようであるが、あの静謐なシーンこそ弟分の木村の葬送と哀悼のシーンだったのだ。大友としてはこれだけがやりたかったのであり、あの場面こそ己の感情のままに動いてきた大友自身のクライマックスだったのである。

ひとつの物語の中で他の組織とはまったく別のルールで行動している大友の存在が「浮いている」のは当然で、大友だけが欲得抜きの「私情」のみで動いている。しかも大友は欲得抜きで行動するがゆえに他の組織からは利用されやすい存在でもある。山王会の五味(光石研)は木村組の跡を継いだ吉岡(池内博之)を大友に殺させ、花菱の西野(西田敏行)もまた大友を利用できる駒として扱う。まるで昼間の水面にのこのこと浮かび上がり、釣り人の格好の餌食となる場違いな太刀魚のように。

病み衰えた西野=西田敏行と中田=塩見三省

前作でど迫力の暴力装置として機能していた西野と中田だが、演じる西田敏行と塩見三省は映画撮影前に重い病に倒れてしまう(頸椎亜脱臼と脳出血)。二人とも死に瀕するほどの重篤な症状であり後遺症も残っている。この二人の病によって北野監督は映画の方向性に変更を迫られることになっただろう。

塩見三省は病み衰えた姿を北野武に見せる日のことを日記に書いている。

衣裳合わせの日を迎えた昨年の6月23日、北野監督にこの身体をただただ見てもらう気持で、杖をついて部屋に入る。四年ぶりに監督に会えた。そして目を合わせるところまできた。

「こんな身体になりました……」
しかし北野監督はなにも聞こえなかった様に、平然と、
「じゃー塩見さん、よろしくね。」と。
「……」

鳥肌がたった。これが始まりである。その時、僕は目の前の北野武監督、その人に、その人と自分の心の中で約束した。

この仕事は、演技が上手いとか、良い芝居をするなんてことはズコッと外して、ただ、毎日の撮影に、ある覚悟をして望みます、と。
http://shiomisansei.jp/note.html


北野武はこのとき病み衰えた塩見の姿を見てシナリオを変更することを考えたのではないだろうか。西野と中田を前作のように凄みのある暴力装置としてはもう使えない。ではどう変えるのか?それは俳優の身体性と物語とを重ね合わせるように変えるのだ。

アウトレイジと身体性

アウトレイジシリーズが北野武のフィルモグラフィーのなかでも異色なのは、アウトレイジ以前と以後とでは演出が違うということがあげられる。アウトレイジ以前の北野映画では俳優に演技らしい演技は求められず、何もせずに突っ立っているだけでいい。棒読みでボソボソしゃべるだけでいい、といったように北野武にとって俳優とは単なるオブジェにすぎなかった。

たけしさんには「役者の演技を褒められても映画の価値に繋がらない」という頑なな姿勢が、初期に見られました。でもそれは逆に言うと、役者に任せられなかったということ。撮りたいものを実現するために役者に芝居されちゃかなわないという一種の、作家性たるゆえんみたいなところでのこだわりがあったと思うんですね。ー森昌行プロデューサー「北野武監督の崖っぷちと『アウトレイジ』3部作の真実 - オフィス北野社長・森昌行P、同志の告白」


しかしアウトレイジでは演技は俳優の自由裁量にまかせられ、アドリブも許されるようになった。例えばアウトレイジ1作目で有名な山王会の関内(北村総一郎)が加藤(三浦友和)の頭をひっぱたくシーンは北村のアドリブだったことは知られている。また西田敏行は本番一発撮りという北野組の異様なルール(よほどのミスがない限りリテイクはしない)の中でもアドリブを連発して他の共演者を異常な緊張状態へと追い込んだという。こうしたことはアウトレイジ以前の北野映画ではありえなかった。

こうした俳優の自主性にまかせる演出とリテイクの許されない本番一発撮りは必然的に作品の質を俳優の身体性が負うようになる。アウトレイジ一作目は椎名桔平の匂い立つような色気が支配していたように、アウトレイジビヨンドでは老いて疲れ果てた北野武の身体性が大友の存在を亡霊のように見せていた。

そして最終章では現実に重い病に倒れた西田と塩見の衰えた姿が作品に重くのしかかる。前作で恫喝装置として機能していた中田は西野や花菱会長の野村(大杉漣)、チャン会長の右腕、李(白竜)に翻弄されるがままの弱々しい姿をさらけだす。

西野はほとんどのシーンで椅子に座った状態でしか描かれず、大友と駐車場の屋上で対峙する場面では車の中から顔をのぞかせる西野の顔は青ざめ、まるで幽鬼のような、死者そのもののような相貌をおびている。

俳優の現実の身体性にその作品の質を負わせるアウトレイジシリーズ。西田敏行と塩見三省の病み衰えた姿を北野武が見たときから、当初からの映画の方向性が変わるのは避けられなかったに違いない。

なぜ大友は西野を殺さないのか?

この作品で大方の人が納得せず、不満に思うのが、なぜ大友は花菱会の西野を殺さないのかということではないだろうか。アウトレイジシリーズでヤクザ世界を引っ掻き回す存在「ゲームマスター」こそがこのシリーズの諸悪の根源である。ヤクザ世界を一段高みから見下ろし、混沌に陥れる存在。一番悪い奴といってもいい「ゲームマスター」。(アウトレイジにおけるゲームマスターに関しての詳しい解説は「アウトレイジビヨンド完全読解」に書いてあります。http://runsinjirun.seesaa.net/article/297523933.html

前作アウトレイジビヨンドではそうしたゲーム全体をあやつるゲームマスターを演じたのが片岡(小日向文世)である。片岡はヤクザではなく警察という立場からこのヤクザゲームをあやつるがゆえにゲームの盤面上には存在しない無敵の存在であった。だからこそ死者として復活した大友だけが片岡を殺すことが出来たのである。

アウトレイジ最終章でこのゲームマスターたりうる資格をもっているのは西野だ。なぜなら西野は物語中死んだ(と見せかけた)からである。擬似的に死んだことによりゲームの盤面から消え失せた西野はゲーム全体を動かすゲームマスターとしての資格を得た。そしてアウトレイジシリーズの常である一番悪い奴=ゲームマスターは殺されなければならないという資格も得たわけだ。
(実はチャン会長もヤクザではないがゆえにゲームマスターの資格を持っているのだが、やはりヤクザではないので積極的には抗争に関わろうとしない超越的な存在である。)

しかしあろうことかここでは大友はアウトレイジビヨンドのようにゲームマスター西野を殺せなくなっている。なぜなら大友はチャン会長と死んだ木村の私情の鎖に繋がれてゲームの盤面上にとどまっているからだ。ゲームの盤面上につながれている限り、ゲームをコントロールするゲームマスターを殺害することは出来ない。大友は西野を殺せばチャン会長に迷惑がかかるという義理立てゆえに西野を殺すことができないのである。

パーティ会場での大虐殺

そのかわりに大友がなしたことは「河野くんを励ます会」にて花菱会の若手から中堅の構成員を皆殺しにすることだった。私情によってゲームにつなぎとめられた大友はゲームマスター西野を殺すことは出来ない。だが、西野から野村会長を殺せという口実を得た大友はどさくさにまぎれ花菱の構成員をごっそり削ることにより、このヤクザゲームの連綿と続く円環構造に楔を打ったのである。花菱に残るのは病み衰えた西野や中田、その他高齢のヤクザどもだけだ。花菱の天下も長続きはせず先細りしていくだけだろう。

ウロボロスという言葉がある。「尾を飲み込む蛇」という意味のギリシア語だ。ヤクザ世界は尾を飲み込む蛇のような円環構造にある。ヤクザが別のヤクザを食いものにしてさらに別のヤクザがまた別のヤクザを食いものにするウロボロス構造。

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もし大友が西野を殺すことができたとしても西野の次の跡目はすぐに決まり、醜悪なウロボロス構造が続いていくだけだったろう。そこで大友はヤクザ世界に供給されつづける「尾」自体を無くすことにしたのだ。それがパーティでの大虐殺の意味である。西野と中田が食らう尾自体を無くせば、蛇の頭は餓死するしかない。西野と中田=病み衰えた西田敏行と塩見三省の身体性を、餓死する蛇の頭に擬することによって、そう遠くない花菱会の崩壊を暗示する。これが俳優の身体性が作品の質を負うという意味だ。

北野武が撮影前に西田敏行と塩見三省の姿を見たときからすでに彼らの生身の身体性を、飲み込む尾をなくし餓死するしかない蛇の頭に擬する方向転換が行われていたのかもしれない。

大友の死

大友の中ではチャン会長に迷惑をかけたので自ら責任を取って死ぬという意味合いがあるだけだろうが、シリーズ全体を見てきたものだけがわかる象徴的意味というものがある。
アウトレイジ一作目では、仲間の復讐に立ち上がることもなく、なすすべもなく警察に逮捕されて「逃げる」大友の姿を描いた。「逃げる」ことでしかこの馬鹿げたヤクザの「尾を飲み込む蛇」的円環構造から抜け出すことができなかったからだ。

最終章では逮捕されることも、誰かに殺されることもウロボロス的ヤクザ世界の構造に殉じるだけでしかない。このウロボロス構造から完全に抜け出すには自決しかない。

死にゆく大友が一瞬の走馬灯としてみた光景は昼間に釣り上げられた太刀魚。暗い泥の底から海面に浮かび上がる場違いの太刀魚の姿だ。それはシリーズ一作目から最終章にいたるまでヤクザゲームのルールに踏みにじられ、なじめずにいた場違いな大友そのものではないだろうか。
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2017年03月09日

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

映画「ラ・ラ・ランド」を観る。映画と現実の境界が耳障りな不協和音で切断され、「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで示される親切でわかりやすい演出。

渋滞の車列の中イライラ人たちが急に楽しげに歌い踊りだす。しかし不快なクラクションの音がけたたましく鳴り響くと途端にいつものイライラした人たちに戻る。

美しい夕闇の中(映画用語でいうマジックアワー。陽が完全に沈むわずかな時間を利用して撮影すること)でミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)がダンスするシーン(おそらくフレッド・アステア「バンドワゴン」の一場面、夜の公園を踊る二人Dancing in the darkのオマージュではないか)もうっとりしているとそれを切り裂く車のキーの音。

またはオーブンから煙が出たため鳴る、耳をつんざくような警報音。スマホから発せられる耳ざわりな着信音。ジャズかと思えば唐突に入る電子音etc..etc...

すべては夢=映画の世界から現実に引き戻すために用意された警報音でありスラッシュ/だ。なぜこのように警報音によって映画と現実とをくっきりと分け隔てる必要性があったのか。

映画の世界は可逆の世界であり、時間を自在に止めることもできる世界であり、無限の選択肢あふれる世界なのに対し、現実は不可逆であり、時間は無常にも流れていくものであり、選択肢はほぼ決められたものしかない世界だ。

歌やダンスシーンつまりミュージカルシーンが主人公二人の心象風景でないことは、すでにオープニングで示されている。イライラした人々の渋滞場面が一瞬で楽しげな場面に変わるのは誰の心も表してはいない。マジックアワーでのダンスシーンもあれだけ美しいにもかかわらずミアとセブ二人の心象風景は「別にわたし、あんたのことなんとも思っていない」である。

では観客はミアとセブふたりの心象風景でなければいったい何を見せられていたのか?

「映画」を見せられていたのだ。・・・なにをわかりきったことをと言われるのは承知の上で、もっといえば「映画の仕組み」自体を見せられていたのだ。

映画の世界は無限の可能性を持つ。時間は自在に巻き戻され、宇宙空間だろうが自由に移動でき、考えられる限り最良の選択と最良の結果が約束されている夢の世界だ。

映画の中では決して「あの時ああしていれば・・・」とか「こうしていればよかった・・・」などという後悔が生まれることはない。

レストランをクビになったときミアに失礼な態度をとらずキスをしていれば・・・。あの時ミアと一緒にパリに行っていれば・・・。彼女との幸福な家庭、かわいい子供たち、すべてが思いのままのはずだったのに・・・夢の世界/現実を隔てるスラッシュ。

そんな夢の世界=映画の世界を不協和音/が切断することによって物語の時間を進行させる演出になっていたのは観てのとおり(冬から始まるオープニングから春夏秋といちいち季節がタイトルに出るのもそういう意味)

ミスを犯しても決して元に戻れない不可逆性。時間と空間と関係性の流動性。そして生まれや財産や教育などで狭められる選択性。つまりは現実世界へようこそ、というわけだ。

私たちが映画の世界に逃げ込むには、これだけで十分な理由ではないか。

ラ・ラ・ランドは私たち観客がなぜ映画に夢中になるのか、映画が私たちにとってやむにやまれぬ避難場所になるのかを容赦なく暴きだす。

ラストシーンでセブが胸押し潰され、ピアノに顔を落とさざるえないように、私たちもまた映画にすがりつかざるえない自分の姿を見る。

「映画」自体が日々現実に胸押し潰される私たちのような人間に支えられている。「映画」を支えるのは、現実に生きる私たちの日々の後悔からの逃避であるというあけすけな「映画の構造」自体をラ・ラ・ランドは描いている。

種明かしをすれば、映画中のミュージカルシーンはミアの心象風景でもなければ、セブの心象風景を映像化したものでもない。あれは私たち観客が作り出した私たち自身の心象風景なのだ。

それこそが「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで表現される、切断されながらも相互に依存する二つの世界に表現されているのだ。

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それにしてもジャスティン・ハーウィッツの音楽は素晴らしい。毎日サントラを聴いてます。ダンスナンバーのA Lovely Nightは「バンドワゴン」Dancing in the darkのオマージュのわりにはエマ・ストーンもゴズリングもダンスが下手ではないか、往年のミュージカルとは比べるべくもないなどと一蹴される方もいるでしょうが、バンドワゴンのアステアもシド・チャリシーもあまりにもエレガントすぎて、遠い世界のことに感じられるのに対し、エマ・ストーンのダンスは不恰好ながらコミカルで「生」の迫力、身体性やアクチュアリティを感じさせるので、私は大好きです。
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2017年01月07日

絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」

絶対的他者との応答としての神話・映画「溺れるナイフ」

映画「溺れるナイフ」(山戸結希監督)を観た実感として、少女漫画原作の女子中高生用のよくあるジャンル映画とはかけ離れた映画であることにまず驚愕する。一種の極北映画。ロベール・ブレッソンと柳町光男を掛け合わせたような作風に戦慄をおぼえた。

画面をところ狭しと予測不可能な動きで飛び回る菅田将暉とそれに必死で食らいついていく小松菜奈。画面を見ているだけ、人の動きを見ているだけでこれは映画だ。ここには映画しかない。という感慨が喜びとともに溢れてくる。

ただ、映画「溺れるナイフ」をこの映画だけで完全に理解することは難しいと思うので補助線として、柳町光男の「火まつり」を参考映画としてあげておきたい。

「火まつり」の主人公(北大路欣也)は野蛮で野卑で、野生そのものを体現したかのような男だ。彼は不遜にも自分を神に愛し愛される男だと自負していた。そして彼は神と「契り」を交わし、その代償として自分の子供たちを神にささげ、自らの命を絶つ。

映画「火まつり」の「神」とは、惜しみなく与え、惜しみなく奪う。理不尽かつ理解不能な存在として人の前に屹立している。この「神」はヨブ記の神に近い。

溺れるナイフのコウは、この火まつりの主人公に対応するキャラクターといっていいだろう。「神さん」と特別な関係にあると自負するコウ。そしてそのコウを特別視し、自身の神とする夏芽。

だが「神さん」に愛されていると自負していたコウは「自分のもの」である夏芽がストーカー男に乱暴されるのを防ぐことができなかった。

わしは神に愛されていなかったのかと自分に失望するコウと、なんでやっつけてくれなかったの?とコウに失望する夏芽。二人は疎遠になる。コウは神と自分に、夏芽はコウに失望するのだ。

だがこの二人の失望は浅慮な「神」観からくるものでしかない。「神」なんだから私の希望をかなえてくれるだろう。「神」は願いを聞いてくれるものだろう、というのは自分の欲望を神に投影したものにすぎない。二人は「神」とは絶対的「他者」であることを知らない。

絶対的他者とは、あなたの希望や願いや欲望を都合よくかなえてくれる存在ではなく、理解不能であり、理不尽なまでの決断をあなたに不断に迫る不可避の存在。それが絶対的他者である「神」である。

ルドルフ・ブルトマンは「神」をヒューマニズムのかけらもない、人間には理解不能の、人間的な善、正義、幸福すべてを打ち壊す存在と定義している。(ブルトマン「イエス」)

注意すべきはコウは「不遜」にも神に愛されていると自負していたから罰せられたのではないということ。神は人間とは取引しない。ただ一方的に与え、一方的に奪うだけでしかない。したがって人間に罰を与えることも、逆に褒美を与えることもしない。神はただ

「不可能な決断を迫る」(ブルトマン)
それだけだ。

そしてその時がやってくる。

再度夏芽を襲うストーカー男。このクライマックスの火まつりシーンの夢かうつつか幻かというエロティックなシーンは、夏芽と神との「交合」であることはいうをまたない。神は一方的に与え、そして一方的にストーカー男を「贄」として奪う。

神との「交合」をはたした夏芽はもはやもうひとりの「神さん」コウちゃんを必要としなくなり、東京に出て女優として成功をおさめる。

最後の現実ではないコウと夏芽の「応答」は、「絶対的他者」との応答。自己の欲望をうつしだす鏡としての「他者」ではなく、自身と隔絶した、不可能な決断を迫る「他者」を認めることにより「私」は目覚め、私としての実存を生きることになるその証しだ。

それは不可解なことや理不尽なことに直面し、悩み苦しみながら一歩を踏み出すその一瞬一瞬に「私」が目覚め、「私」が生まれるということ。私を目覚めさせるのは自分の欲望を投影できる「もうひとりの自分」ではなく、絶対的他者である「あなた」に他ならない。

「人間はこの本来的存在において「あなた」に出会い、「あなた」に求められていると知ることができる。まさにこの要求が本当のところ、はじめて彼に「私」としての実存を与えるのである。そうして人間が「私」に目覚めることによってさけがたい「あなた」に要求されていると気づく」−ブルトマン「イエス」


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小松菜奈も菅田将暉も本当に素晴らしかったが、この二人は神話の世界に生きる二人である。溺れるナイフの中でひとり現実に生きる大友(重岡大毅)がいたからこそ、この映画は魅力的な恋愛映画として繋ぎとめられているのだ。観客はみな大友に恋するだろう。彼がいたからこそ神話と恋愛がシームレスにつながっている。
posted by シンジ at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

運命を打ち破れ!君の名は。とシン・ゴジラ。新海誠と庵野秀明論

「失われたもの」


この夏公開された二本の大ヒット作、新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は奇妙な符合を見せている。

「失われたものを取り戻す」。それが偶然にも両者に共通するテーマとなっているのだ。

シン・ゴジラと君の名は。は両作品とも3.11=東日本大震災の悲惨な出来事が背景として存在している。そして両作品とも3.11で「失われたもの」を取り戻すというファンタジーであるということも共通している。

シン・ゴジラは3.11でうまく立ち回れず、被害を大きくしてしまったかもしれない当時の政府がもしうまく立ち回れていたら、という「願望」めいた「幻想」を描いていた。

君の名は。は3.11で失われてしまった生命と土地を再びこの世に取り戻すというファンタジーだ。

「失われたものを取り戻す」という幻想は、もはや変えることのできない「運命」への絶望的な挑戦でもあるがゆえに、映画のような創作にだけに許された特権的なもののようみえる。

「運命を打ち破れ」


「運命」とはいかなるものか。運命とは過去から未来にわたって、決して変えられない世界のことをいう。「運命」とは「決定論的世界観」の別の名前です。

決定論的世界観とはこの世界は人間の手が下される前に、過去も未来もどうなるかすでに決まっていて絶対に動かせない。そういう世界観のことだ。

こうした決定論的世界観=「運命絶対主義」ともいうべきテーマをもった映画が、シン・ゴジラの監督でもある庵野秀明の前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だ。

エヴァQに関してはすでにここで書いている。

エヴァンゲリヲンQと自由意志問題

エヴァQでしつこいくらい描かれたのは「人は運命の前では無力」。人の意志や行動や善意や正義では決して運命は変えられない、そのことだけだった。人間の自由意志が「運命」に戦いを挑み無惨に散っていく姿を描いたのがエヴァQだった。

しかし庵野秀明はシン・ゴジラでは一転、3.11のメタファーであるゴジラというあらがえない「運命」に対し果敢に挑戦する人間たちを描き、そして彼らはゴジラに見事に勝利する。人間の意志や行動、決断が決してあらがえない「運命」の象徴であるゴジラ=「災害」に打ち勝つのだ。

そしてさらに、そこから歩を進めた「君の名は。」では、「自然災害」や「失われた生命」という絶対に覆すことのできない「運命」=「歴史」をも人の「意志」で変えてしまうというアクロバットを見せるのだ。

とくに「君の名は。」の歴史改変というアクロバットは「運命」に立ち向かうというより、絵空事でしかないという人もいるだろう。しかしそうした考えも「運命絶対主義」という考えに毒されたものでしかないとしたらどうだろう。

「運命」は決して変えられないという思考は、実はたったひとつの思考に縛られているに過ぎない。すなわち「世界はひとつしかない」という思考である。

世界がひとつしかないのであるならば、「運命」に打ち勝つことは不可能だろう。もはや絶対に変えられない「過去」によって「未来」は規定されるからだ。

「多世界論=並行世界論」


しかしここにひとつの考え方がある。「多世界論」である。人がさまざまなことを「決断」するたびに「世界」は分裂していく。「並行世界」が生まれていくという考え方だ。これはなにも突飛なSFを語っているのではない。多世界論とは「量子力学」のことだ。

多世界論ならシュレーディンガーの猫のパラドックスだけではなく、タイムマシンのパラドックスまで一気に解決できる。タイムトラベルのパラドックスで有名なのは祖父殺しのパラドックスだろう。タイムマシンに乗って過去にタイムトラベルし、子供時代の自分の祖父を殺したとしよう。・・・でははたして祖父を殺したわたしはいったい誰から生まれたのだろうか?これが祖父殺しのタイムパラドックス。

しかしこれも多世界論ならパラドックスにはならない。過去にタイムトラベルした時点で自分の元いた世界とはちがう並行世界に来た事になるからだ。自分の殺した祖父は自分の元いた世界の祖父ではなく、並行した別の世界の祖父であり、だから祖父を殺しても自分の存在にパラドックスは起きない。こうして多世界論は量子力学とタイムトラベルのパラドックスを一気に解決することができる。ーライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

多世界論ならば、「君の名は。」の歴史改変は絵空事ではなく、実現可能なことになる。世界がひとつでない以上「運命」は変えられるのである。

そしてまた「シン・ゴジラ」もゴジラがこれまで存在しなかった「並行世界」を描いている。それまでのゴジラシリーズは初代ゴジラすなわち1954年本多猪四郎と円谷英二の作り出した「ゴジラ」という前提があったうえでその後のゴジラ世界を描いている。しかしシン・ゴジラは1954年版ゴジラが存在せずに、今この時代に始めてやって来た「巨大不明生物」としてあつかっている。

そしてその巨大不明生物は3.11と重ねあわされ、3.11をうまく処理できた日本政府と社会という並行世界となっているのだ。

君の名は。もシン・ゴジラもそうであったかもしれない多世界=並行世界を描いているのだ。

「時代が要請する公共性」


新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」はまったくの偶然ながら、同じようなテーマをあつかっていた。しかしこれは偶然というより「時代の要請」というものではないだろうか。3.11という出来事を前にした庵野と新海は同じ時代の空気を浴びたがゆえに、まったく違う種類の映画で同じようなテーマ描くことになってしまった。

新海誠は「新海誠その作品と人」(EYESCREAM 2016年10月増刊号)のインタビューで「公共的な視点」という言葉を口にしている。さらにLINELIVEの『君の名は。』特番では

「僕はこの作品を作っている二年間、この作品によって世界が少しでも良くなればいいと本気で願いながら二年間作ってきた。」
といっているのだ。

奇しくも細田守も是枝裕和との対談でこう言っているー

「作家主義的なものより公共性が先に来るべきだと。それを外しちゃうんだったら、作らなくていいよってなっちゃう」 ー映画ナタリー「細田守と是枝裕和が“いい父親”東映動画とテレビマンユニオンについて語る」


この「公共性」とは噛み砕いて言えば、映画は社会と無関係ではいられない。「内向性」や「趣味性」という個人の殻の中にとどまってはいられないということ。映画は社会と向き合い、人や社会に向けて肯定的なメッセージやときには警告を発する必要があるということだ。

はっきりいってしまえば、「世界がどうなろうと君と僕さえいれば世界は完結する」だの、「世界もニンゲンもこの世からすべて消え去ってしまえばいい」などという社会への無関心や後ろ向きなルサンチマンからくる映画など作っても意味がないといっているのだ。・・・まるでかっての庵野秀明を批判しているようだが。

新海誠や細田守が3.11以降敏感に感じた「時代の空気」とは、作品と社会とは決して切り離すことができないということ。うちひしがれた人々を励まし、顔を上げさせ、重くのしかかる「運命」に立ち向かわせること。そして映画はその手助けをするべきだということだ。

そして庵野秀明もさすがに凡庸ではない。新海誠と細田守がとらえた時代の空気を敏感に察し、「運命」を打ち破り、失われたものを取り戻す「シン・ゴジラ」を作ったのだ。人は運命の前で決して無力ではない。戦え!とあの庵野が言うのである。

シン・ゴジラは庵野秀明なりの時代が要請する「公共性」への答えなのである。

新海誠「君の名は。」と庵野秀明「シン・ゴジラ」は、時代の空気を敏感に読み取った映画作家二人の転回点であり、代表作であり、時代の要請に誠実に答えたことの結実だ。
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2016年08月31日

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題について

映画「シン・ゴジラ」とてもとても面白かった。正直に告白すれば「無人在来線爆弾」のあたりであまりにも面白すぎて気が狂うのではないかと思ったくらいだ。こういう人はどうやら私だけではなく、8月28日のBS-TBSのシン・ゴジラ特集では10回も見たという女性も出てきていた。

たしかにシン・ゴジラは面白かった。しかし、ただ面白かったというだけで人は何回も何回も同じ映画を観てしまうものだろうか。

いわゆる「シン・ゴジラなぜ何回も観てしまうのか問題」である。

実は私もすでに4回観てしまっている。しかし好きな映画を繰り返し観ることはさほど珍しいことではない。「仁義なき戦い」とくに「代理戦争」などは10回以上は観ているし、北野武映画は最低三回は観て批評なり感想なりを書くことにしている。

しかしそれらの作品を繰り返し見ることと、シン・ゴジラを何回も観ることのあいだには何か決定的な違いがあるように思われる。

なにしろシン・ゴジラの場合、観るのが四回目でも画面のレイヤー(層)のどこを見るかで悩み苦しむことになるのだ。

映画表現におけるレイヤーについて考えるために、亀山郁夫のドストエフスキー論を借りたい。亀山によればドストエフスキー作品は「象徴層」と「自伝層」と「物語層」の三つのレイヤーに分けられるという。

これをシン・ゴジラに当てはめると、「象徴層」は2011年3月11日いわゆる「3.11」に起こった悲惨な出来事。震災、津波、原発事故のことであるといえる。この3.11が象徴層として通奏低音のように作品の背後に控えているため、ゴジラというまったくの虚構存在、ファンタジー存在が恐るべき迫真と現実性をもって観客に迫ってくる。

「自伝層」についてはゴジラ誕生の首謀者といえる牧悟郎(岡本喜八)の遺言「私は好きにした、君らも好きにしろ」に庵野秀明の自伝的「覚悟」を見ることも可能だろうが、ここでは「日本人である私」または「日本に住んでいる私」からの視点の層としたい。生命の危険をともなう甚大な災害に見舞われることは日本に住んでいる限りありえないことではない。誰でも3.11のようなことを経験しうる。「その時」私は、私たちはどうなるのか?また「その時」が来たらどうすればいいのか?このことを作品を観ているあいだじゅう突きつけられるのだ。

「物語層」は亀山郁夫によれば、象徴層や自伝層よりも低次の層として、象徴層や自伝層に支配される層とされる。しかし本当にそうだろうか?ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」は圧倒的にその物語が面白いからこそ、名作として残っているわけで、象徴層や自伝層がより高次で高尚だから名作として今も読み継がれているわけではない。

シン・ゴジラも同じで、物語層が圧倒的に面白いからこそ、象徴層や自伝層がうまく機能するのであって、その逆ではない。作品はまずメッセージありき、テーマありきではなく、作品として面白いからこそ副次的なメッセージやテーマが観客のもとにうまく届くようになっているのだ。

さて、まだシン・ゴジラをなぜ何回も観たくなるのかの答えを出していなかった。

シン・ゴジラのレイヤーは実はこの三つだけではない。より表層的なレイヤーがある。それが「日本語表現層」と「キャラクター層」である。

日本語表現層はセリフとテロップに分けられる。奔流のようなセリフ量にテロップ量。カット割が早いために

「いま、環境省自然環境局野生生物課課長補佐の尾頭さんなんつった!?」

「テロップちょっと待って!安田さんの役職、文部科学省研究振興局基礎研究・・・なに!?」

とくに驚愕したのはtwitterでの伊藤聡さんの指摘。

2016-8-30.jpg
https://twitter.com/campintheair/status/764351578274799617?lang=ja

みんな大好き泉ちゃんこと泉修一保守第一党政調副会長(松尾諭)と矢口蘭堂内閣官房副長官(長谷川博巳)の大惨事の後の会話「君も地元を大事にしろよ」のすぐあとのセリフがどうしても聞き取れないと思っていたら、こういうことを言っていたという。「キンキカライのおかげで助かったよ」のキンキカライとは「金帰火来」(国会議員が金曜に自分の選挙区へ帰り、火曜に東京へ戻ることを指す)というのだ。こんな日本語初めて知ったよ!

この興奮は日本語使用者だけにしかわからない醍醐味ではある。ちなみにこういうセリフについては「製作側からは「分かりやすく言い換えてほしい」という要求があったけれど、闘い続けました。言い換えたら、嘘になってしまう。」と樋口真嗣監督がインタビューで答えている。

樋口真嗣監督がエヴァンゲリオンの盟友・庵野秀明総監督を語る「破壊しながら前に進む。彼こそがゴジラだった…」ー産経ニュース

役職のテロップの長さも凄い。何度も観てなんとか俳優と役職名を一致させようとテロップ読みに全力を尽くすが常に惨敗。四回目はヤシオリ作戦中の科学技術館の指揮台にいるのはどんな役職の誰なのか見極めようとするが、全員マスクをかぶっているので皆目見当も付かず!

「キャラクター層」ではネット上でのシン・ゴジラの登場人物の二次創作が盛んだ。尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐(市川実日子)の最後の笑顔に萌え、矢口と泉はできている!やぐいずだ、いや、矢口は赤坂先生と相思相愛なのだから矢赤だ!などという議論もかまびすしい。画面に描かれていないことまで観客は想像して楽しんでいる。

それもこれも、象徴層、自伝層、物語層、日本語表現層、キャラ層など何重ものレイヤーがたった2時間の中に凝縮されているから、情報を処理しきれないため起こる現象といっていい。この現象を見事にあらわした動画をネット上で見つけたので見てほしい。



まさにこの動画の子犬こそ、シン・ゴジラに夢中になる私たちそのものではないだろうか。

本来映画というものは、情報の取捨選択を積極的に行う「省略」の芸術である。観客を短い時間のうちにたくみに誘導するために、省略すべきところは省略し、シンプルな描写で情動を刺激する。シン・ゴジラは物語層こそシンプルかもしれないが、それ以外のところではこれでもかとばかりに情報の洪水を引き起こしている。それこそが、観客に今日はどのレイヤーに注目して見ようかというモチベーションを起こし、何度も観る動機となるものだ。

観客にとって情報が処理しきれなくなる映画が失敗作としてではなく、傑作となって姿をあらわしてしまう稀有な例がこのシン・ゴジラだ。
ラベル:シン・ゴジラ
posted by シンジ at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする