鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって
大好きな℃-uteのアイドル鈴木愛理のことを書いた記事で結構気に入っている。
で、これが私のブログを盗用している映画ブログ「KINO-PRAVDA」2015/12/01の記事
『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか
web魚拓はこちら
http://megalodon.jp/2015-1203-0344-54/kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/
盗用している部分を証拠としてスクリーンショットしておく。
次に2014年04月12日に書いた私の記事
鈴木愛理・・・絶対エース。四番松井。絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ(ダイノジ大谷)。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大。そして客観的に見てもアイドルとしてずば抜けた素質と才能を持ち合わせている。
しかしグループアイドル全盛時代の今、愛理のような抜きん出た才能と個性は、あくまでグループを生かすための「点」として扱われてしまう。
いうなれば鈴木愛理はグループアイドルという形式を守るための中心なき中心「空虚な中心」として使われてきた。
歌手として抜きん出た才能を持つにもかかわらず、グループアイドルという形式のための駒として扱われてきたのである。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」
そして以下が「KINO-PRAVDA」2015年12月1日の記事です。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大なものです。グループのリーダーは矢島舞美であっても、その歌唱力や存在感やパフォーマンスの高さから、やはり「中心」としての愛理の印象は強いはずです。
いまや「アイドル戦国時代」なんちゅー物騒なネーミングが施され、幾多のアイドルが量産される中においても、愛理の存在は突出した才能だと言っても過言ではありません。
しかしながらワタシは、グループ・アイドル全盛期の現在、彼女のような突出した才能と個性は、時にグループを生かすための「中心点」として扱われてしまうのではないかと危惧しているのも確かです。
「中心点」とは、文字通りに円や図形の真ん中のことを指しますが、円や図形を描くための単なる「点」でもあり、コンパスの針が刺される場所でもあります。
それはつまり「愛理という絶対的な存在があるから、我々は他のメンバーを応援することができる。愛理がしっかりとしているから、他のメンバーの個性も引き立つ」という恐ろしき思考です。
あくまで他のメンバーの個性を引き立てるための「中心」としての鈴木愛理、そんな残酷な捉え方すら為されてしまうこともあるのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか
盗用部分はさらに続きます。
KINO-PRAVDAの記事
もう一つ、歌が「歌唱」ではなく「音色」を提示する時代になったのは、彼女にとって残酷な現実だと言っても過言ではありません。
要するに、歌の「ソング」から「サウンド」への変化のことです。
これは、今現在ディーヴァと呼称されるようなソロアーティストが一掃されつつある現状からも明らかなことなのですが、作り手は、歌唱力よりも音色の心地良さを重要視しているワケですね。
もちろん、アイドル界においてもソレは同じこと。
ちょち前には、松田聖子成るパーフェクトな歌唱力を持ったアイドルが「ソング」を唄っていました。
しかし、いまやグループ・アイドルたちには「ダンス」をするための「サウンド」がセッティングされているのみ。
21世紀のアイドルは、グループであること、ダンスをすること、そしてサウンドに重きを置くこと、この3点によってほぼ定義づけられています。
つまり、「サウンド」は必要とされても「ソング」は必要とされないのです。
転じて、ハロープロジェクト屈指の歌い手である鈴木愛理にとっては、不遇の時代と言えてしまいます。
幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまいました。つまり「音楽的本質」を持ってしまったのです。
ライムスター宇多丸氏曰く「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」だそうですが、
これをアイドルの定義とするならば、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が同等の力で対立している存在」と表現できます。
実のところ、彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか
唖然としてしまいます。この人恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか。以下が私の書いた記事。完全に同じです。
歌がソングからサウンドへ変わっていったという見立ての正しさは、今現在ディーヴァ系のソロ歌手が一掃され、EDMがブームになっていることからも明らかだ。ハロプロ屈指の歌い手鈴木愛理とっては不遇の時代といっていい。
サウンド重視の今のアイドルシーンにおいて、ソング=歌のうまさなど重要ではないのだ。今のアイドルシーンでは、歌い手に合わせた楽曲は時代遅れの産物となる可能性が高い。歌唱力自慢の歌い手の個性はサウンドの邪魔になるのである。
今のアイドル三種の神器は
@グループアイドル
Aダンス
Bサウンド重視
この三つである。
この三つとも歌い手の力量を必要としないことで一致している。グループアイドルには「サウンド」は必要とされても、「ソング」は必要とされないのだ。
しかし幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまった。つまり「音楽的本質」を持ってしまった。
ライムスター宇多丸のいう「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」をアイドルの定義とするなら、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が拮抗した存在」といえる。彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのだ。
「歌手鈴木愛理」という「本質」をないがしろにしてグループアイドル、ダンスアイドルという「形式」に愛理を沿わせている現状から、いまいちど1980年代の復権ーサウンドからソングへの転換を楽曲的に行うべきではないのか。会社(アップフロント)とつんく♂さんの力がためされている。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」
完全に盗用ですね、これは。とりあえずKINO-PRAVDAに要求するのは私の記事を盗用したと認めること。それに対する謝罪と当該記事の抹消。そしてそのことをKINO-PRAVDAのページに掲載してください。
KINO-PRAVDAのURLは
http://kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/
彼のtwitterは
https://twitter.com/AndalouCaligari
とりあえずtwitterで彼に連絡を取ってみたいと思います。
KINO-PRAVDAの方から連絡がありました。私の記事の盗用を認め、謝罪文が掲載されました。
「謝罪」
http://kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/
謝罪を受け入れこの話はこれで終了といたします。
2015年12月12日現在
何の反省もなく謝罪文をあっというまに消し去ったようなのでweb魚拓を貼ります
http://megalodon.jp/2015-1203-0840-50/kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/