2015年12月03日

私のブログを盗用しているKINO-PRAVDAに告ぐ(苦笑)

以前このようなブログを書いた。
鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって

大好きな℃-uteのアイドル鈴木愛理のことを書いた記事で結構気に入っている。

で、これが私のブログを盗用している映画ブログ「KINO-PRAVDA」2015/12/01の記事
『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか
web魚拓はこちら
http://megalodon.jp/2015-1203-0344-54/kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/

盗用している部分を証拠としてスクリーンショットしておく。
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次に2014年04月12日に書いた私の記事

鈴木愛理・・・絶対エース。四番松井。絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ(ダイノジ大谷)。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大。そして客観的に見てもアイドルとしてずば抜けた素質と才能を持ち合わせている。
しかしグループアイドル全盛時代の今、愛理のような抜きん出た才能と個性は、あくまでグループを生かすための「点」として扱われてしまう。
いうなれば鈴木愛理はグループアイドルという形式を守るための中心なき中心「空虚な中心」として使われてきた。
歌手として抜きん出た才能を持つにもかかわらず、グループアイドルという形式のための駒として扱われてきたのである。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」


そして以下が「KINO-PRAVDA」2015年12月1日の記事です。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大なものです。グループのリーダーは矢島舞美であっても、その歌唱力や存在感やパフォーマンスの高さから、やはり「中心」としての愛理の印象は強いはずです。
いまや「アイドル戦国時代」なんちゅー物騒なネーミングが施され、幾多のアイドルが量産される中においても、愛理の存在は突出した才能だと言っても過言ではありません。
しかしながらワタシは、グループ・アイドル全盛期の現在、彼女のような突出した才能と個性は、時にグループを生かすための「中心点」として扱われてしまうのではないかと危惧しているのも確かです。
「中心点」とは、文字通りに円や図形の真ん中のことを指しますが、円や図形を描くための単なる「点」でもあり、コンパスの針が刺される場所でもあります。
それはつまり「愛理という絶対的な存在があるから、我々は他のメンバーを応援することができる。愛理がしっかりとしているから、他のメンバーの個性も引き立つ」という恐ろしき思考です。
あくまで他のメンバーの個性を引き立てるための「中心」としての鈴木愛理、そんな残酷な捉え方すら為されてしまうこともあるのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか


盗用部分はさらに続きます。
KINO-PRAVDAの記事

もう一つ、歌が「歌唱」ではなく「音色」を提示する時代になったのは、彼女にとって残酷な現実だと言っても過言ではありません。
要するに、歌の「ソング」から「サウンド」への変化のことです。
これは、今現在ディーヴァと呼称されるようなソロアーティストが一掃されつつある現状からも明らかなことなのですが、作り手は、歌唱力よりも音色の心地良さを重要視しているワケですね。
もちろん、アイドル界においてもソレは同じこと。
ちょち前には、松田聖子成るパーフェクトな歌唱力を持ったアイドルが「ソング」を唄っていました。
しかし、いまやグループ・アイドルたちには「ダンス」をするための「サウンド」がセッティングされているのみ。
21世紀のアイドルは、グループであること、ダンスをすること、そしてサウンドに重きを置くこと、この3点によってほぼ定義づけられています。
つまり、「サウンド」は必要とされても「ソング」は必要とされないのです。
転じて、ハロープロジェクト屈指の歌い手である鈴木愛理にとっては、不遇の時代と言えてしまいます。
幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまいました。つまり「音楽的本質」を持ってしまったのです。
ライムスター宇多丸氏曰く「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」だそうですが、
これをアイドルの定義とするならば、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が同等の力で対立している存在」と表現できます。
実のところ、彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのです。ー『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか


唖然としてしまいます。この人恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか。以下が私の書いた記事。完全に同じです。

歌がソングからサウンドへ変わっていったという見立ての正しさは、今現在ディーヴァ系のソロ歌手が一掃され、EDMがブームになっていることからも明らかだ。ハロプロ屈指の歌い手鈴木愛理とっては不遇の時代といっていい。
サウンド重視の今のアイドルシーンにおいて、ソング=歌のうまさなど重要ではないのだ。今のアイドルシーンでは、歌い手に合わせた楽曲は時代遅れの産物となる可能性が高い。歌唱力自慢の歌い手の個性はサウンドの邪魔になるのである。
今のアイドル三種の神器は
@グループアイドル
Aダンス
Bサウンド重視
この三つである。
この三つとも歌い手の力量を必要としないことで一致している。グループアイドルには「サウンド」は必要とされても、「ソング」は必要とされないのだ。
しかし幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまった。つまり「音楽的本質」を持ってしまった。
ライムスター宇多丸のいう「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」をアイドルの定義とするなら、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が拮抗した存在」といえる。彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのだ。
「歌手鈴木愛理」という「本質」をないがしろにしてグループアイドル、ダンスアイドルという「形式」に愛理を沿わせている現状から、いまいちど1980年代の復権ーサウンドからソングへの転換を楽曲的に行うべきではないのか。会社(アップフロント)とつんく♂さんの力がためされている。ー「鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって」


完全に盗用ですね、これは。とりあえずKINO-PRAVDAに要求するのは私の記事を盗用したと認めること。それに対する謝罪と当該記事の抹消。そしてそのことをKINO-PRAVDAのページに掲載してください。

KINO-PRAVDAのURLは
http://kinopravda821.com/2015/12/01/post-630/
彼のtwitterは
https://twitter.com/AndalouCaligari

とりあえずtwitterで彼に連絡を取ってみたいと思います。

KINO-PRAVDAの方から連絡がありました。私の記事の盗用を認め、謝罪文が掲載されました。
「謝罪」
http://kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/
謝罪を受け入れこの話はこれで終了といたします。

2015年12月12日現在
何の反省もなく謝罪文をあっというまに消し去ったようなのでweb魚拓を貼ります
http://megalodon.jp/2015-1203-0840-50/kinopravda821.com/2015/12/03/post-682/
posted by シンジ at 03:01| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月18日

全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで

全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで

朝井リョウの小説「武道館」は今売り出し中のアイドル「NEXT YOU」のメンバー愛子の心象を追いながらも、実際に作者が書きたいのは、アイドルとそのファンの関係性、アイドル現象もろもろ。つまり「アイドル論」である。

この作品内において描かれるアイドル論やアイドルの抱えている問題の数々は、今現在アイドルムーヴメントの中で語られていることのほとんどを網羅しているといっていい。
たとえばアイドルのダイエット問題であるならば、すぐに思い浮かぶのがモーニング娘。の鈴木香音の劇的なダイエットだろう。そうした現実のアイドル事情が作品にダイレクトに反映されている。作者はそうした現実にあるアイドルの問題をひとつひとつ物語の登場人物たちに語らせていくのである。
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鈴木香音ダイエット前後

アイドルの体型、ダイエット問題に対しては作者(の声を借りた登場人物)はこう答える。
10代の女の子の体型が変わるのは自然なことであり、むしろ無理なダイエットをすることにより体力が落ちてしまう。
「いま変なダイエットしてるでしょ?体力がないときって、振りを踊ることよりも体を止めることのほうができなくなるから」

とそれをいさめるのである。

そして今のアイドル問題の中核をなす「CD付握手券」の是非について、作者は登場人物を借りてこう語る。

「今、ほんっとうにCDって売れないの。音楽だけだと、誰も買ってくれないの。すぐネットにあげられちゃったりして、とにかく音楽が、お金を出して手に入れるものって思われてない感じなんだよね」
「・・・そんな状態でさ、うちらがさ、CDに握手券つけてやっと買ってもらったり、同じ人が何枚も同じCDを買ってくれたりすることって、そんなに悪いことなのかな」

CD付握手券なるものは、音楽を無料だと思っている大多数の連中に対しての精一杯の抵抗だというのだ。あなた方がただで手に入れているものは、多くの人の多くの労力を費やして作られたもののはずなのに。CD付握手券は音楽を「ただ」だと思っている私たち消費者へのカウンターなのである。

アイドル論の中には当然「アイドルファン論」も入る。ここではアイドルファンはかなり手厳しく書かれる。

アイドルファンはアイドルを応援するうちに勘違いし始める。
ファンは「やがて、ファン以上の役割を自負し始める」

アイドルという対象に欲望していただけの一方的な関係性をまるで双方向性のように錯覚しはじめ
「応援はしているけれど、自分たちよりもいい生活をすることは許さない」という視線。
「応援はしているけれど、アイドル以外の道で生きていけるほどの商品価値はないことはきちんと知らしめておきたい」という視線。
「アイドルから一歩踏み出そうとした途端、不幸を見たいっていう視線が増える気はする」

ファンの欲望どおりに従わないアイドルに不満をぶつけるいびつなアイドルファン像が語られていくのである。

・・・しかしである。このような作者が考えるアイドル問題とアイドル論を登場人物の口を借りて語らせてしまった結果、登場人物がまるで作者の口寄せ人形にしか感じられなくなり、単に作者の考えを代弁しているだけのまったく血の通わない道具のような存在になってしまっているのである。

これは物語としては致命的な欠陥となる。登場人物の誰一人として血が通ってない物語を読むのは大変な苦痛で、正直に言うとこの作品を途中までどうしようもない駄作だと思いながら読みすすめていたのが偽らざる気持ちです。

しかしある展開からこの小説「武道館」は完全に化けるのです。

その展開とは主人公の愛子が幼馴染の大地とSEXをすることによってです。
ここから驚くほど急激に登場人物に血が通い始めるのです。ありきたりなアイドル論を作者に代わって代弁するだけの存在だった愛子は愛する人とのSEXを経て一気に「血肉化」する。

私はこれを愛子がアイドルとして「欲望の対象」から「欲望の主体」へと転化したことのあらわれだと感じました。

アイドルという虚構存在はファンの一方的な欲望と議論の「対象」=「モノ」でしかなかった。そうした空っぽなモノが、愛する人とのSEXを通じて欲望の対象であることから脱し、欲望の主体的存在へと変貌を遂げることによってアイドル愛子は「人間愛子」として「血肉化」するのです。

小説「武道館」にはアイドル「NEXT YOU」の有名ヲタ、「サムライ」が出てくる。このサムライはハロプロの有名ヲタである「サムライ」氏からきているのだろう。(私も1回だけハロ現場で見かけたことがある)
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そのハロヲタ「サムライ」氏はかって℃-ute鈴木愛理の恋人発覚か?というニュースが流れたとき(結局デマだったが)こうtwitterに書いたと記憶している。

「恋人がいることを認めればアイドル史が変わったのにね」と。

当時は意味がわからなかったが、今になってその意味がわかったと思う。
わが愛する℃-uteのメンバー矢島舞美や鈴木愛理が欲望の対象としてだけではなく、欲望の主体としても私たちを認めてほしいということを主張したらどうなるのか?
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舞美や愛理が「好きな人ができました。でもアイドル続けます」とファンの前で宣言すること。私はそのことを恐れながらも、どこかで期待している自分も感じるのだ。

それは欲望の対象としてのアイドルではなく、主体的存在としてのアイドル像を認めること。アイドルの「人間宣言」を受容することでもある。

そして朝井リョウは物語の最後に心憎い場面をもってくる。NEXT YOUの愛子と碧(あおい)は大事な武道館公演の直前に恋人が発覚して、武道館公演を待たずにNEXT YOUから脱退する。そこから何年もの月日がたち、NEXT YOUは13期メンバーをお披露目する武道館公演の最中である。その公演に姿を見せファンの喝采を浴びるのは、NEXT YOUを脱退したはずの愛子と碧である。二人はすでに結婚し、子供もいる。二人はNEXT YOUの栄えある第一期生としてファンからリスペクトされながら武道館で歌い踊るのだ。

夫がいて、子供もいる女性がいちアイドルとして武道館の舞台に立ちファンから尊敬のまなざしを受けながら喝采を浴びる光景。朝井はこれこそが理想のアイドルとアイドルファンとの関係であると高らかに宣言するのである。これにはもちろんモーニング娘。OG=ドリームモーニング娘。という存在が意識されているのはいうまでもない。

これは朝井リョウのアイドルに対するひとつの理想的結論であり、またハロヲタに対する問いかけでもある。ハロヲタは期せずしてアイドルとファンの理想的な関係を体現している。つまりハロヲタこそがアイドルファンの先陣を切ってアイドル像を積極的に更新すべき責を負っているのではないかと問うているのだ。

朝井リョウは全ハロヲタに問う。アイドルの「人間宣言」に答えよと。
posted by シンジ at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月06日

きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見て

きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見て

2015年7月5日放送ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜を見た。

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内容は秋葉原の地下アイドル「カタモミ女子」にはまる中年男性の姿とアイドルの女の子たちを描いたもの。カタモミ女子はアイドルといっても日ごろはお客さんの肩をもむというアルバイトをしながらアイドル活動をしているという特殊な形態のアイドルだ。番組は53歳独身のアイドルファン「きよちゃん」とカタモミ女子のメンバーりりあを巡って繰り広げられる。

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きよちゃん53歳独身。この人がまたいい人なんだよ

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りりあちゃん。この娘さんがまたいい子なんだ。自分がお店にいると、きよちゃんに余計なお金を使わせてしまい心配だというのである。おっさんもファンになったわ!

この番組を見てなぜこんなにもつらく悲しい気持ちになり、激しく心揺さぶられたまま今に至るのか。(このノンフィクションのことを考え続け寝付くことができなかった)

それは人生のリミットというものに思いをはせざるを得なかったからだ。

リミットとは、ドルヲタのリミット、人としてのリミットでもある。きよちゃんは定年まであと7年というリミットがあり、もちろんいい年していつまでアイドルを追っかけているんだというリミットもある。そして応援しているアイドルもいつかは解散するというリミットもある。

アイドル本人たちにもリミットがある。カタモミ女子はカタモミ女子として活動することに未来が見えなくなっている。このままアイドルをやることが時間の無駄ではないかとさえ思っている。

この作品は三重、四重にも張り巡らされた現実世界の「リミット」の網の目を可視化しているがゆえに、同じように人としてリミットを意識せざる得ない中年男性ドルヲタである私自身の心を深くえぐるように突き刺すのです。

「リミット」というのはある種の「死」です。

年をとると人はいくつもの無数の死を通過します。それは比喩的な死もあれば具体的な死もあります。
私自身の経験でいうと、人は齢37〜8歳になると目に見えてガクッと体力が落ちます。特に日頃パソコンを使っている人はまず「目」にきます(眼精疲労という悪魔です)。それまで10代20代と同じように暴飲暴食し、体を酷使してきたのが、突然体がいうことをきかなくなる事を経験するのです。そのとき人は悟ります。「リミット」が来ているんだと。少し大げさに言うなら体が死ぬ準備をはじめているんだと感じるのです。

ザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜は「リミット」=「死」という「呪い」をはっきりと描いた作品です。

人間にはいつしかリミット=死という避けられないものが訪れる。私たちはその準備と心構えをしなければならない。それが人間にかけられた「呪い」なのだ。

年をとってから見る映画「スタンドバイミー」や「三丁目の夕日」がなぜこんなにも切なくまぶしく見えるのかの答えもここにあります。

子供時代はこのリミットをまったく意識することなく、この時、この場所、この学校、この遊びがいつまでも永遠に続くかのように錯覚できる唯一の時間なのです。「スタンドバイミー」や「IT(イット)」(スティーヴン・キング)などかけがえのない子供時代を描いた作品があまりにもまぶしいのは、リミットという呪いがかかっていない甘く輝かしい時が永遠に続くんだと何の疑いもなしに信じることができたからなのです。それは本当に魔法の時だったのです。

しかしそうした甘く香ばしい時代は一瞬で去り、いずれリミットが何重にも張り巡らされた世界を生きるほかなくなる。

それは絶望なのだろうか。そんな時、私はきよちゃんに薦めたい本があります。フランクルの「夜と霧」です。

そんな強制収容所の悲惨さを描いた本なんて暗くなるだけだから読みたくないよというかもしれません。しかしこの本は先の見えない絶望的な状況下でいかに生きるべきかというサバイバル指南書になっているのです。

フランクルは先の見えない絶望的な収容所内で次から次へ自殺していく同胞を見てきました。フランクルは精神科医らしく自殺していった同胞を観察して、彼らの特徴を指摘します。彼らはみな自分の外側に希望を見出していた人たちばかりだったことを。
「いつか助けがくるだろう」
「いつかこの状況は好転するだろう」
「いつか解放されるだろう」etc...
彼らはその期待があっさりと裏切られるやいなやみずからの命を絶っていったのです。

自分の外側の世界から希望がやってくると期待していた人たちはその期待が裏切られると簡単に心が打ち砕かれるのです。フランクルは考えます。希望が外側からやってくるという「期待」という考え自体があやまりなのだ。むしろその発想を逆転させて自分が世界からなにを期待されているのかを考えろというのです。そして実際にフランクルはその発想の逆転により収容所を生き延びることができた。

このことが示唆するのはなにか。それは心のもちようひとつで世界は実際に変わるということだ。

この番組を見ていい年したおっさんが30歳も年下の女の子にいれあげて気持ち悪いんだよという感想が世間一般のものだろう。

ーアイドルもアイドルオタクも気持ち悪いし、気持悪い同士仲良くやってりゃいいんじゃないの(はてなコメントより引用)


ー番組見たけどいい歳したおっさんが若い女の子に貢いだ挙句涙するって光景はキモいって感想しかうかばなかった。(はてなコメントより)


だが、きよちゃんと私たちドルヲタはフランクルにならい、そうした「外側」からの承認や救済を求めることはもうない。逆に世界が私たちになにを期待しているのかが問われているのだ。私たちは心のもちようひとつでこの世界を承認し、救済することができるのだということ。

そんなの幻想だという人もいるだろう。しかし古来から人の幻想=心のもちようこそが世界を変えてきたのではないか。マックス・ヴェーバーもプロテスタンティズムが資本主義を発展させたといっている。つまり人の心のもちよう=信仰心が世界を資本主義化したのだ。

きよちゃんは53歳にして家族なしの独身。アイドルにいれあげるのが人生唯一の楽しみという「外側」から見れば悲惨な人生なのかもしれない。おそらくきよちゃんはこのままずっと独身で、孤独死を迎える運命なのかもしれない。

米国、ルイスビル大学の研究グループは、世界中の約5億人のデータを
分析した結果、「独身者は早死にするリスクが高い」と結論づけた。
この研究によると、独身男性の寿命は既婚男性より8〜17年も短く、
独身女性は既婚女性より平均7〜15年短い。
また、独身男性の死亡率は結婚している男性に比べて32%も高く、さらに
独身女性よりも23%高いという。


しかしもう外側からの承認も救済も求めることはなくなったきよちゃんが死の床につくときに私はきよちゃんにこう言ってあげたい。

「つらいことや悲しいこともあったけど、アイドルを追いかけていたときは幸せだったよね。楽しかったよね。思い返せばそんなに悪い人生じゃなかったよ、きよちゃん・・・」と。(つい感情移入しすぎてきよちゃんを殺してしまったことをここにお詫びいたします)

少し感傷的、憐憫的にすぎたでしょうか。でもあまりにもきよちゃんやりりあちゃんに感情移入しすぎて心乱れてしまい、つい心のうちを吐き出すようなひどい文章になってしまったのもザ・ノンフィクション中年純情物語〜地下アイドルに恋して〜が真に迫る力ある作品だったからということで大目に見てほしい。
posted by シンジ at 20:21| Comment(3) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

神木隆之介愛あるいはすべての映画はアイドル映画である「るろうに剣心京都大火編」をめぐって

神木隆之介愛あるいはすべての映画はアイドル映画である「るろうに剣心京都大火編」をめぐって

真の純粋な愛とは、愛される側のものの完全性と幸福とを知ることの内に喜びを味わう状態のこと。ーライプニッツ「理性に基づく自然と恩寵の原理」


正直前作にはあまり感心しなかった私が続編である「るろうに剣心京都大火編」を観に行った理由はひとつしかない。

“大天使”神木隆之介サマを見るためである。

今私にとって最も重要なアイドルは℃-uteでもなければ、Juice=Juiceでもない。・・・神木隆之介である。

男として考えてみれば自明のことなのだが、女性アイドルは「アイドル」としては弱い。なぜならそこには応援したいという気持ちの奥底のどこかにゲスい「性欲」みたいなものが蠢いていることが否めないからだ。

ようするに男が女性アイドルをいちファンとして無心かつ純粋に応援することは不可能で、そこにはかならずいわゆる「ガチ恋」系という罠が待ち構えている。

いくら女性アイドルを応援しても、自分はただの大勢いるファンの“点”にしかすぎず、当然のごとく付き合えるわけでもなく、ただむなしくお金と時間を費やしてしまい自分の貴重な実人生を削り取られていくだけだ。

私は悟ったのだ。ダメだ、いい年したおっさんが女性アイドルに夢中になっていては!と。

そうした葛藤に苦しんでいるさなか、私のポッカリ空いた心の隙間を埋めるように飛び込んできたのが瀬田宗次郎役の神木キュンの写真である。

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「カ、カ、カワイイ!!!!」

この時私の運命は定まったといっていい。ここに究極のアイドルがいると。女性アイドルに対する時のようにガチ恋に苦しまなくてもすむ究極の形而上的アイドルがここにいるではないかと。

そしてここにひとりの#神木クラスタが誕生したのである。

もちろん神木宗次郎を見る前にも、若くして映画界で確固たる地位を築いている神木キュンのことは認めていました。彼の幼いころの代表作「妖怪大戦争」(2005)も大好きだし、ジブリ作品での声優仕事も素晴らしい。近年になっての代表作「桐島、部活やめるってよ」(2012)はいうまでもなく傑作でした。

でもその当時の私はバカでしたね。当時の自分の偶像愛の対象はすべて女性でした。しかしよく考えればそうした女性への偶像愛は一種の性欲の変形したものでしかない。不純である、不潔なのである。

真の偶像愛−アイドル愛とは純粋かつ無償のものでなければならない。

つまり「これだけ愛しているんだから、お返しに何かクレ」という態度はドルヲタとして唾棄すべきものでしかないのである。

アイドルへの愛は見返りを求めない無償の愛、霊的な愛、形而上的な愛でなければならない。

そこがゆえに男にとっての女性アイドルは「アイドルとして弱い」のだ。もっとはっきりいってしまえば、男にとって女性アイドルは欠陥品なのである。(いや、女性アイドルにとって男性ファン自体が欠陥品なのだろう)

そこで神木キュンである。私は彼に見返りを求めない。私は彼にとって何者でなくともかまわない。・・・でも好きという気持ちに偽りはない。

私は恋と苦しみは表裏一体だと思っていた。だが違っていた。人を好きになっても全然苦しくない。これこそが無償の愛、霊的な愛、形而上的な愛−究極のアイドルの嗜み方なのだと。

ここで「アイドル」とは何かという定義をせねばなるまい。
「アイドルとは空っぽの器である」
これが私のアイドルの定義である。

アイドルとは本質をもたない、意味のない、形式だけの存在。つまり空っぽの器である。(アイドル形式論についてはこちらに書きました

その空の器を私たちファンが思い思いに好きな色に染めたり、自分の想いで満たしていくものなのだ。そこにあるのは本質もなく、意味もない、未完成なままの存在を私たちファンの愛によって満たしていく能動的な営みである。

むろん私たちがアイドルという存在を愛したところでアイドルが個人個人に対し微笑み返してくれたり、愛してくれたりするわけではない。アイドルを愛するという営みはそのような見返りを求めるものではなく、アイドルという本質もなければ意味もない空の器をファンの能動的な参画によって、つまり共同幻想によって、本質のある、意味のつまった現実存在に育て上げるという実に観念的かつ形而上的な働きのダイナミズムに魅了されてのことに他ならない。私たちはただ完成されたものを無理やり口に押し込まれるようなことは好まない。未完成なものを育て上げるという共同参画に無上の喜びを感じるのである。

そしてこうした見方は「アイドル映画」にも通じる。アイドル映画もアイドルと同じように空っぽの器である。私たちアイドルを愛するファンが「映画」の器を埋めなくてはならないのだ。そしてここに「るろうに剣心」というまぎれもないアイドル映画をアイドルファン、神木隆之介ファンである私がどう埋めるかという話になる。

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映画冒頭、シルエットだけの剣客が官憲の犬どもをバッタバッタと斬り伏せていく。顔は影になっていて映らないんだけど、シルエットだけでわかる−大天使神木キュンであると・・・。そうか神木キュンは腐った政府に反逆する反体制のヒーローなのか。そしてしばらく官憲の犬どもの話が続いて、ついに大天使神木キュンのご尊顔が拝める時がやってきます。腐った政府の巨悪大久保利通を暗殺したのは神木宗次郎だったのだ!驚くべき歴史の真実が明かされる。大久保を暗殺する時の走りがまた抜群で、袴をはいてあそこまで早く動ける人を見たのははじめてです。さすが天使!

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神木宗次郎が仕える志々雄は非常にまじめな革命家で悪逆非道のかぎりをつくす明治政府を倒そうと一生懸命頑張っているだけにいつもピリピリした緊張感を漂わせています。でもそうした志々雄一派のなかでいつも笑みを絶やさずニコニコ笑って場をなごますのが神木キュンの役どころでもあるのです。いわば革命家たちの癒しというやつです。

革命に立ち上がった理想に燃える若者たちをくされ政府の犬どもが蹂躙する映画のなかで宗次郎の存在だけがホッと一息つける箇所でもあります。いわば敗北という悲壮感を背負った革命派の中でただひとりそうした悲壮な運命を打ち破ることのできる可能性としての存在が神木宗次郎なのです。

圧巻は新月村での宗次郎と官憲の犬との一騎打ちだ。このシーンはYOUTUBEでも少し見られますが作品中の白眉といえるすごい迫力です。神木キュンの運動神経に瞠目します。この新月村で宗次郎は見事な剣技で政府から送り込まれた刺客を撃退しますが、情けをかけて命を助けます。心優しき志々雄一派。しかしこの官憲の犬は宗次郎に命を助けられてもそれに感謝するでもなく、恩に着るわけでもなく、さらに革命派をつぶそうと躍起になるのだ。けしからん。人としての情がないのかこの十字傷のついた外道は。


4分30秒頃神木宗次郎と刺客との対決。

神木宗次郎の魅力は強いとかカワイイだけではない。官憲と戦った時に使った刀がボロボロに刃こぼれした時、その刀が名刀「虎徹」だと知らないアホっぷりを見せている。虎徹とは当時誰もが知る名刀中の名刀であり新撰組の近藤勇が所有したことでも知られている(近藤勇が持っていたのは偽物だったようですが、当時から偽物が出回るくらいに有名だったということです)。この宗次郎の見せるアホっぷりがなぜいいのか説明しよう。アイドルファンというのはことのほかアホの子が大好物という法則がある。

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神木宗次郎のキャラ設定
@美少年
Aめちゃ強い
Bアホ
この「アホ」がアイドルにとってどれほど重要な要素か説明しよう。美しさと強さというのはいわば完成品であり、その人の本質であり、意味なわけです。ここにはアイドルファンが埋めるべき空白はありません。しかしこの「アホ」という要素が入ることよって、その人自身にギャップが生まれる。そしてそのギャップをドルヲタはことのほか愛でるのです。完璧というしかない神木宗次郎のキャラ設定、いや、完璧でないがゆえに秀逸なキャラクターなのです。

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・・・・とこのようにドルヲタは映画を見るのです。決してふざけて書いたわけではなく、気が違ってるわけでもありません。

アイドルファンは自分の好きなアイドルを見るためだけに映画館に足を運びます。アイドル存在はファンがアイドル現象に能動的に参画することによって現実存在として具象化します。アイドル映画も同じことです。アイドル映画もアイドルファンが能動的に参画し、積極的に映画の足りない部分を肉付けすることによって映画として始めて完成するのです。

映画は映画製作者の意図や計算を正確に読み取って見るべき受動的なものではありません。町山智浩的映画の見方(作者=作品という見方、いわゆる表出主義)などアイドルファンにとってみれば論外でしかないのです。製作者の意図や計算など作品全体から見れば微々たるものでしかない。作品は(またアイドルも)作者の意図をはるかに超えて観客の欲望や社会状況をも飲み込み雪だるま式に大きくなるものなのです。つまり決めゼリフ的に言わせてもらえば

シネフィルは引っ込んでろ、映画はドルヲタが完成させる。

「この世の中で、愛の対象がなんであろうと、そんなことはたいした問題ではないと思いますわ。しかし、何かは愛さなければならないでしょう」−マンスフィールド短編集
posted by シンジ at 20:44| Comment(2) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月12日

鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって

鈴木愛理生誕記念・鈴木愛理論
鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって

少し前のことになるが、2013年12月31日放送のラジオ、ダイノジのスクールナインで映画研究者の春日太一と漫才コンビ・ダイノジ、こんにちは計画の杉田が℃-uteのことをたっぷり語り合った。そこでの℃-ute評を書き出してみる。

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矢島舞美・・・矢島を男としてみている。尊敬している。恋愛の対象ではない。そういうことを考えてはいけない存在。男にそう思わせてしまう孤独感。好きって言っちゃいけない。カテゴリー的には若山富三郎や勝新太郎のようなスターとして選ばれた存在。尊敬して追いかけたい気持ち。(春日太一)

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中島早貴・・・中島はTHE女の子。女の子の嫌な部分も含めて表に出す。不安定な女の子。見ていて不安になる。MCも不安だし、歌も不安だし、キッズステーションというTV番組でもなっきぃはすごく不安定。たえず不安な子が自分には踊りしかないと、踊りを追求していくとどんどん輝いてくる。でも不安定。そのギャップこそ女の子感。へたれ。成長物語。ドヤ顔の痛々しさ。それに目が離せない。男っぽい矢島と女の子女の子してるなっきぃの百合を妄想するのが人生の楽しみ。なっきぃは育てたくなる。でもなっきぃはTHE女の子だからどこかにフワッといってしまう。なっきぃには何の悪意もない。矢島なら「育てたい!」といえば「わかりました!」と答えてくれるが、なっきぃは「あ〜はい」といいながらどっかに消えてしまう。矢島相手になら宗方コーチと岡ひろみ(エースをねらえ!)の関係が成り立つが、なっきぃには無理。なっきぃはすぐ泣く。なっきぃはパシリ。きれいなパシリ感。矢島リーダーの横にいるときだけ生意気な顔をしている。(春日太一)

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岡井千聖・・・ポスト矢口真里。不遇な境遇にあった。センターでない人の生き方。℃-uteの楽曲「SHOCK!」のショック※を経て、愛理に対してやっかみがあったが、今は愛理にアドバイスを送るまでになった。「踊ってみた」で取り上げられた時のちっさーの輝き。「今まで私は℃-uteのために何もできなかったけど、はじめて℃-uteに貢献できたからうれしいです」これを聞いた時は一生応援しようと思った(杉田)。芸能界に長くいそう。ゲストに来たとき番組を回そうとする(大谷)。
※2010年1月発売のシングル「SHOCK!」でメインを歌うのが愛理だけで、他のメンバーがバックコーラスのような形になった時の「SHOCK事件」のこと。

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萩原舞・・・レコード大賞新人賞受賞時、メンバーが号泣しているときに舞ちゃんだけ笑顔でWピース。精神力が強い。メンバーの中で一番大人。舞ちゃんは子供時代サングラスをかけていたけど、いまこそサングラスをかけてほしい。原田芳雄感がでる。舞ちゃんは原田芳雄と同じベクトルを向いている。ちょっと斜に構えたところから世間を見る。(春日)

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鈴木愛理・・・絶対エース。四番松井。絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ(ダイノジ大谷)。歌ってよし踊ってよし。

春日太一氏は時代劇研究家でもあり、「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」という本も出しておられるので、℃-uteを東映映画に例えて話す。

℃-uteには太秦のにおいを感じるという春日氏。
鈴木愛理は中村錦之助
矢島舞美は若山富三郎
岡井千聖は山城新伍
萩原舞は原田芳雄
中島早貴はなっきぃ。なっきぃはなっきぃでしかない。

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春日氏のなっきぃに対する深い思い入れがよくあらわれたラジオ番組になっていました。
しかし興味深いのは鈴木愛理に対する淡白な評価です。

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鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大。そして客観的に見てもアイドルとしてずば抜けた素質と才能を持ち合わせている。アイドルブーム真っ盛りの今、もはや数え切れないほど大勢のアイドルたちがいるが、そのなかでも歌唱力、ダンス、アイドル性、総合的にかんがみても実力的には抜きん出た存在といえるのが鈴木愛理ではないでしょうか。


℃-ute「悲しきヘブン」

しかしグループアイドル全盛時代の今、愛理のような抜きん出た才能と個性は、あくまでグループを生かすための「点」として扱われてしまう。
そのためラジオではこのように評されてしまう。
「愛理という絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ」
あくまで他のメンバーの個性を引き立てるための「空虚な中心」(ロラン・バルト「表徴の帝国」)としての鈴木愛理というとらえかたなのである。

「空虚な中心」とはロラン・バルトが本質と意味をまとった中心を持つヨーロッパの都市に対して、日本の首都、東京の中心は本質も意味もない皇居であることから、ヨーロッパの本質主義、意味性を相対化するために日本の都市東京を「空虚な中心」と呼んだ事による。

精神科医の斉藤環は「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」でヤンキーに代表される日本文化とは本質よりも形式が優先される文化だと喝破する。たとえば神道には本質的な教義はない。ただ長年続く儀式を守ることによって中心なき中心、意味なき中心を覆い隠しているのだ。

同じように日本独自の文化であるアイドルは形式と表層の文化である。本質や中心というものがないかわりに、形式=様式だけがある。

いうなれば鈴木愛理はグループアイドルという形式を守るための中心なき中心「空虚な中心」として使われてきた。
歌手として抜きん出た才能を持つにもかかわらず、グループアイドルという形式のための駒として扱われてきたのである。

ここで音楽史における鈴木愛理の立ち位置を考察したい。

2014年1月1日にBS-TBSで放映された「未来に残すべきニッポンの歌」。久米宏、秋元康、近田春夫の三人が秋元康選出の日本のヒット歌謡曲100のリストを肴に論じ合う番組があった。この三人が出した結論が

「流行歌は1980年代で終わって、歌はソングからサウンドに変わっていった」

(ちなみに私この番組を見ておらず、ミステリマガジン2014年3月号からの孫引きになります。)

歌がソングからサウンドへ変わっていったという見立ての正しさは、今現在ディーヴァ系のソロ歌手が一掃され、EDMがブームになっていることからも明らかだ。ハロプロ屈指の歌い手鈴木愛理とっては不遇の時代といっていい。

サウンド重視の今のアイドルシーンにおいて、ソング=歌のうまさなど重要ではないのだ。今のアイドルシーンでは、歌い手に合わせた楽曲は時代遅れの産物となる可能性が高い。歌唱力自慢の歌い手の個性はサウンドの邪魔になるのである。

今のアイドル三種の神器は
@グループアイドル
Aダンス
Bサウンド重視
この三つである。

この三つとも歌い手の力量を必要としないことで一致している。グループアイドルには「サウンド」は必要とされても、「ソング」は必要とされないのだ。

今の℃-uteもこの三つにあてはまる。今の℃-uteの楽曲は歌い手重視の楽曲ではない。それにより愛理は℃-uteよりBuono!のほうが生き生きと楽しそうにしているとのファンの評価につながるのである。

Buono!とはハロプロ内選抜ユニット。オープニングの曲は「初恋サイダー」

斉藤環「世界が土曜の夜の夢なら」では近田春夫の知見を引用してヤンキー系音楽をこう分析している。
ヤンキー系音楽の特徴は二つ。
@アガるという使用目的に特化していること。
A自己投影がなされていないこと。
つまり「ヤンキー系音楽においては音楽性(本質)よりもスタイル(形式)が先行する」
ヤンキー系音楽を「アイドル系音楽」に変えてみてもまったく同じではないだろうか。

アイドル系音楽は歌い手という本質をないがしろにして、「アガる」という使用目的に特化する。作詞作曲をしないアイドルは当然曲に自己投影などできない。アイドルとはヤンキーや日本文化と同じように本質がなく、形式だけの存在なのである。

しかし幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまった。つまり「音楽的本質」を持ってしまった。

ライムスター宇多丸のいう「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」をアイドルの定義とするなら、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が拮抗した存在」といえる。彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのだ。

「歌手鈴木愛理」という「本質」をないがしろにしてグループアイドル、ダンスアイドルという「形式」に愛理を沿わせている現状から、いまいちど1980年代の復権ーサウンドからソングへの転換を楽曲的に行うべきではないのか。会社(アップフロント)とつんく♂さんの力がためされている。

これだけ稀有な才能を持った彼女が、日本の偉大なアイドル史に名前を刻むのか、それともアイドルブームでたくさん生まれたアイドルの中に埋もれて無名のままで終わるのか。祈るように見守るしかない。

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2015年12月15日追記
なんでもこのブログの内容を丸々盗用された方がいたので(笑)事の顛末を書いた記事も上げておきます。
「私のブログを盗用しているKINO-PRAVDAに告ぐ(苦笑)」
http://runsinjirun.seesaa.net/article/430615999.html
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2013年12月09日

アイドルグループを支える「ノイズ」またはJuice=Juice論

Juice=Juiceレコード大賞新人賞受賞記念
アイドルグループを支える「ノイズ」またはJuice=Juice論

よくアイドルファンが夢想することで「俺の考える最強のアイドルグループ」というのがある。歌がうまく、ルックスがよく、ダンスのうまい子ばかりを揃えれば史上最強のアイドルグループが出来上がるという妄想。だがそれは進化論的、組織論的に考えてみても単なる幻想にすぎない。歌がうまくて、ルックスがよくて、ダンスのうまい子をそろえても、魅力的な、ブレイク間違いなしのアイドルグループにはなりえないのである。

それはなぜか。そのヒントはハロープロジェクト所属の新人アイドルJuice=Juiceにある。それもJuice=Juiceメンバーの一人である植村あかりに。
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一番右が植村あかり

Juice=Juiceプロデューサーつんく♂の植村あかり評はこうである。

植村あかりは、ハロプロエッグとして加入して来た時はルックスとは裏腹に
どんくさく、リズムも取れず、大阪人なのに声を張ったりしない、
「この子は本当に芸能界でやって行きたいんだろうか」
って思わせるような子−つんく♂オフィシャルブログ


率直に言おう。植村あかりはアイドル界の中でも特に実力主義といわれるハロプロにおいて実力不足の存在である。ではなぜ歌も下手、ダンスも下手な植村が抜擢されたのか。

まずは進化論的な見地から解説してみる。蟻をよく観察してみよう。えさを求めて一列になって行進する蟻を誰もが見たことがあるだろう。これは蟻が歩く道筋にフェロモンをつけて他の蟻がその後を追っていく姿だ。規律正しく秩序にそって機械的に行動する蟻。だがさらによく観察していくと機械的に行進する蟻の群れから離れたところにいる蟻を見つけることができるだろう。蟻の列には加わらず、フラフラと行列から離れて一匹で行動する蟻。フラフラ蟻ともサボリ蟻とも名づけたくなるような蟻の存在。

この蟻という種にとって一見なんの意味もなく無駄な蟻の存在を「ノイズ」と呼ぶ。

しかし「ノイズ」蟻が蟻という種にとって何の意味もない無駄な存在であれば「淘汰」されるはずだ。つまり蟻という種にとって必要のない存在としていずれ消滅するはずである。しかし「ノイズ」蟻は淘汰されずに今もこれからも存在し続けるだろう。それはなぜか。

なぜならノイズ蟻は蟻という種にとって無駄どころか重要な役割を担っているからだ。その役割とは、規律正しく機械的に行動する蟻だけでは、エサにたどりつく非効率的なルートしか見つけられない可能性がある。ノイズ蟻は集団から離れブラブラ歩いているうちに、エサへの最短距離を見つけ出すかもしれない存在なのである。

100点満点のパーフェクトな蟻の集団は、一見すると完璧で最強なグループのような気がするけど、結果としては非効率な状況に陥ってしまう。デキの悪い仲間がいることで、偶然にも最短距離が見つかる。これはヒトも同じで100点満点取っちゃう奴は確かにすごいけど、そういう奴らばかり集まった精鋭部隊って案外ダメだったりする。ときどきミスしてしまうとか、ときどき変なことをやってしまうような奴がいないと全体としてはうまく機能しない。ー池谷祐二「単純な脳、複雑な私」


この「ノイズ」こそJuice=Juiceにおける植村あかりに他ならない。

ではここで植村あかり伝説をいくつか紹介する。
その一
植村>炭酸水を顔につけると顔が引き締まったり、ニキビが治りやすいと聞いたので、早速やってみようと思って、メンバーに「この炭酸で今日やんねん!」って言って見せたら、「それサイダーだよ」「砂糖入ってるから顔ベタベタになるよ」って言われました(笑)

その二
宮崎「度が過ぎた甘えん坊なんですね。すぐくっついてきて頭を肩にのっけてくる。でも身長もあるし頭乗っけられると重いんですよ(笑)
移動中も全力でもたれてくるんです。手加減知らずというか。佳林ちゃんとかはコトン、ってくらいなんだけどあかりちゃんは全力。ほんっと甘えん坊」
金澤「もう大きい赤ちゃん。こないだも私のヒザで寝てたんですけど冷たいなぁ、って思ったらよだれが……(笑)」ー「B.L.T.」 2013年11月号

その三
℃-uteの座間公演に迷子になったため遅刻して号泣する。
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このように組織における「ノイズ」は「ノイズ」であるがゆえに常にグループ内外の注目を集め、やきもきさせるうちにグループ内の関係性を促進し、グループの差異性、多様性を浮かび上がらせる。その多様性がファンの興味を引きつけ、アイドルグループを自然に「最適解」へ導いてくれるのである。それも計算せずにまるで「見えざる手」に導かれるように。

その見事に個性の分かれたJuice=Juiceのメンバーを紹介しよう。

植村あかり(あーりー、14歳)はグループ内「ノイズ」として他のメンバーに迷惑をかけながら愛される大きな赤ちゃんキャラ(外見は丸の内OL風だが)ハロプロ史上最強の天然といわれる。
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金澤朋子(カナトモ、18歳)はサブリーダーで最もクレバーなJuice=Juiceの頭脳。1年前はフェアリーズや℃-uteの現場にいた、ただのドルヲタ女子高生だったのがあれよあれよという間に本当のアイドルになってしまったシンデレラガール。特殊なボイスを持つ美しき百合の花
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宮本佳林(かりんちゃん、15歳)はセンターにしてプロフェッショナルアイドル。ハロプロ研修生歴5年という長い下積みを経た苦労人。松田聖子の再来(ぶりっこ的な意味だけでなくそのアイドル性も含めて)
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高木紗友希(さゆべえ、16歳)はパフォーマンスでグループを支える屋台骨。歌のうまさダントツ。
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宮崎由加(ゆかにゃん、19歳)はリーダーにして上品でおっとりしたお嬢様。ハロプロ握手女王御三家に入る。
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メンバーの多様な個性は、ファン、消費者の多様な要求に答えることができる。またそうした外在的観点(ファン・消費者力学)からだけではなく、内在的な観点(グループ内力学)からも「ノイズ」は効果を発揮する。それが「教育効果」である。

「教育効果」とは組織における弱点ともいえる「ノイズ」にメンバーが積極的に関わることから始まる。一人だけ実力の劣ったメンバーをそのままにしておいた場合、グループの足手まといになるだけだ。他のメンバーはノイズを放っておくことができない。各メンバーはノイズメンバーに対し「教える」ことが多くなるだろう。それまでハロプロ研修生として大人たちに頭ごなしに怒られるだけの存在だったアイドルの卵たちが、はじめて自分から他者に「教える」という経験をすることになる。これは人格形成において絶大な効果を発揮する。

「教えることは、教えられること」「教えることは学ぶこと」という言葉は古代ローマにも古代中国にもあった。学ぶことだけでなく、他者に教えることが人格形成の上で最も重要なことを古代の人たちも十分理解していたのだ。他者を「教える」ことは人間の成長を促すだけではない。メンバー間の個性と才能のばらつきは「教える−教えられる」関係性を通すことで、「絆」を深める。これをちょっと難しい言葉で言うと「代替不可能性」という。

それまで赤の他人同士だったメンバー、つまり「代替可能」でしかなかった存在が、「教える−教えられる」関係をとおして、かけがえのない存在「代替不可能」な「仲間」へと発展するのだ。

この代替不可能性はグループ内力学において「絆」「仲間」関係を成立させ、ファン・消費者力学においては「キャッキャウフフ感」を生じさせることとなる。「キャッキャウフフ感」とはグループのメンバー同士がじゃれついたり、いちゃついたりする様子のこと。「キャッキャウフフ感」はそれを見るアイドルファンにとって無上の喜びとなるのだ。

もしこれが「俺の考える最強のアイドルグループ」同士だとしたらどうなるだろうか。歌もうまく、ルックスもよく、ダンスもうまい、欠点のない粒ぞろいのアイドルグループには個性と才能のばらつきがないため多様性が生まれないどころか「教育効果」さえ生まれず、メンバーはいつまでたってもエゴをぶつけ合うだけのよそよそしい赤の他人同士のままだろう。

このようにグループ内力学においても、ファン・消費者力学においても個性と才能のばらつきという「多様性」は最も重要なカギとなる。進化論的にも、組織論的にも多様性を持たない「種」「組織」はちょっとした環境変化にも耐えられず滅びるのである。

ノイズが加わることで、変化する環境にうまく適応したり、より適切な答えを見つけたりできる。これがノイズの役割のひとつ。−池谷祐二「単純な脳、複雑な私」


グループ内力学では「ノイズ」の存在が「教育効果」と「代替不可能性」を生み、ファン・消費者力学からは「ノイズ」が「キャッキャウフフ感」や「多様性」を生み、ファンの多様な消費欲求をすくい取ることができる。内在的、外在的にも「ノイズ」が駆動力となってアイドルグループの「最適解」を導き出すのである。

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2013年09月15日

℃-ute武道館考・あるいはアイドル文化を支える「不安」という名の双方向性について

℃-ute武道館考・あるいはアイドル文化を支える「不安」という名の双方向性について

2013年9月9日、10日℃-ute武道館公演2daysから数日たった今でも私の生霊は武道館にいるんじゃないかというくらい魂の抜けた抜け殻のようなボーッとした気持ちで日々をすごしている。関東在住の方は毎週のようにアイドル関連のイベントがあるのでもうなれっこになっているのでしょうが、地方在住者にとってアイドルのイベントは非日常であり特別な祝祭です。特に「遠征」はそうした非日常感、祝祭感を際立たせる通過儀礼のようなもので私の℃-ute武道館考はそうした祝祭バイアスがかかっているかもしれない。しかしオーストリア出身の哲学者がいうように「世界は私の世界である」のでこのまま続けさせてもらいます。

私が武道館に着く前にすでにTeam℃-uteタオルやTシャツなどが売り切れていた。モーニング娘。の卒業公演でもグッズ売り切れはなかったそうなので、異常な売れ行きといっていいだろう。℃-uteはいつからか℃-ute自身と彼女たちを支えるスタッフ、ファンのことを含めて「Team℃-ute」というようになっていった。それはごく最近のことだ。(たしか2012年以降)

あらためてTeam℃-uteという「名づけ」をしたことには戦略的な意味合いがある。ハロプロというのはハロプロDD(DDとは誰でも大好きの意味)が支えている面が強く、モーニング娘。のコンサートに行く人も℃-uteのコンサートに来たり、グッズを買ったりする。ハロプロのコンサートではハロプロDDが動員力を支えている面があるのだ。たとえば2013年9月11日メジャーデビューの新人アイドルであるJuice=Juiceのイベントに2千人も集まるのはこのハロプロDDの動員力があるからである。

しかし℃-uteがあえて「Team℃-ute」というファンの選別をしたことにはある戦略がある。℃-uteがこれまで以上に成長し、ファンを増やすためにはハロプロDDに頼るのではなく、新規℃-uteファンを増やさなければならない。そして新規℃-uteファンを固定℃-uteファンとしてがっちり囲い込むために「Team℃-ute」という差異化が必要だったのだ。

またTeam℃-uteという枠付けはそうした経済的意味合いだけではなく、より「親密さ」を感じさせるための仕組みでもある。Team℃-uteとして差異化されたあとはTeam℃-uteという枠組み−共同体内での「関係性消費」がはじまる。℃-uteというアイドルをただ消費するだけから、Team℃-uteという共同体内での成員同士の関係性消費へと発展していくのだ。

・・・武道館へ向かうため田安門をくぐりぬけるとき私の周囲には若い女性たちしかいないという状況。女性ファンの多さにちょっとびっくりするとともに、彼女たちと私のようなおっさんファンとの間では℃-ute観がまるで違うのではないかとも考える。

女子中学生、高校生にとって℃-uteは実力派アイドルという位置づけではないだろうか。歌もうまければ、ダンスもうまい。非の打ち所のないアイドル。どちらかといえば彼女たちにとって℃-uteはアーティストのように見えるかもしれない。

武道館公演でも℃-uteはその実力を見せつけるように「One's LIFE」をアカペラで熱唱する。もちろん私も聞き惚れていたクチである。・・・だが私は見た。アカペラでリズムを取るときの℃-uteメンバーの必死さを。ミスは絶対に許されないという不安と恐れを。天性の歌手であり、リズムを取ることなどわけもないはずの鈴木愛理が必死さを隠そうともしないのを確かに見たのだ。

本来プロの歌手というのは、常に音楽を楽しんでいるという雰囲気をかもし出すものであり、ファンに不安を感じさせることなどあってはならないものだ(実際はどうであれ)。プロの歌手、音楽家は客を手のひらの上に乗せてナンボなのである。

だが、℃-uteは違う。℃-uteのメンバーは常に不安やプレッシャーと戦い、ミスを人一倍恐れている。そしてTeam℃-uteも℃-uteメンバーの不安と恐れを知っている。℃-uteがハロプロの中でも特に劣等感や弱気と戦っていることはメンバーのインタビューでもあきらかだからだ。(参考・神聖なるベストアルバム初回限定版Aの超ロングインタビュー、TopYell2013年9月号ベリキュー好敵手対談、他でも同期のBerryz工房のほうがデビューが早かったことに対する苦しみや嫉妬、劣等感などを頻繁に語っている。)

これはプロのミュージシャンやアーティストではありえないことだ。本来ならお客を不安にさせるようなアーティストのエンターテイメントが成立するはずがない。

だが、この「不安」こそが「アイドル」を支える重要なキーワードとなる。

たしかに℃-uteは歌がうまい。武道館でのアカペラ、「悲しきヘブン」での鈴木愛理、岡井千聖のハモりに度肝を抜かれた人も多いでしょう。ただそれには留保がつく。℃-uteの歌のうまさはあくまで「アイドルとしては」うまいレベルなのである。それこそ℃-ute以上に歌のうまい歌手は数え切れないほど存在するだろう。

ではなぜ私たちアイドルファンはそうした歌のうまいアーティストのファンにならずにアイドルのファンになったのか。そこに「不安」がかかわってくる。

アイドルの「不安」とは完璧ではないこと。欠けている面があることからくる「不安」のことです。

歌のうまい歌手、作詞作曲能力のあるアーティストにはそうした「不安」がない。欠けている面がない。したがって私たちはアーティストの完璧さ、プロフェッショナルさを一方的に消費しつづけるだけの存在となる。アーティストという親鳥からえさを与えられるだけの雛のような存在になるのだ。

しかしアイドルを好きになるということはアイドルの持つ不安と恐れを共有することである。℃-uteがどんなに歌がうまいといわれようと、ダンスがうまいといわれようとそれは「アイドルとしては」というカギカッコ付のことであり、そのカギカッコが取れれば℃-uteは他のアーティストの中に埋もれてしまう存在でしかない。

カギカッコ「 」がとれてしまえば何者でもなくなる女の子たち。

だからこそ私たちアイドルファンはアイドルを支えなければならないという切実で熱狂的なロイヤリティを発揮するのです。

えさを与えられるだけの雛の立場から、私たちが支えなければもろく崩れ去ってしまうかもしれないという親鳥の立場への転換。

これがアイドル文化を支える「不安」という名の双方向性です。

℃-ute武道館公演中、何度も盛り上がりの山があった。℃-uteの旗艦曲「Danceでバコーン!」は私が今まで経験した中で一番の盛り上がりのように感じたし、℃-uteの新しいLive定番曲「ザ☆トレジャーボックス」で体力を使い果たした人も多かろう。そしてアンコール後のラスト「JUMP」での8千人の大合唱を忘れることなどできない。なぜアイドルのコンサートはこんなにもみなが踊りまくり、コールしまくり、そして歌いまくるのか。

「アイドル」というカギカッコをとれば何者でもなくなる女の子たちを支えるのは私たちであるという自負がそうさせているのだ。

赤い公園の津野米咲さんはtwitterで℃-uteのことをこう評する。

つのまいさ @kome_suck
℃-uteに関して言えば、飛び道具を使わずにここまで来たってのが凄いんです。キャラクターや売り出し方に頼りません。比重的に実力が一番。ほんでもって曲とふと見せるスキだったり彼女たちを真っ当に戦わせるスタッフ陣たちが居たりと、その全てで、押し付けがましくない真面目が成立しておる。


モーニング娘。今くっそかっこいいですよ…こちらに関しては時代に合った飛び道具を効果的に使っているかんじで、悔しいけれど℃-uteよりも再ブレイクに時間はかからない気がします…面白いもの!


津野さんは℃-uteにはわかりやすい飛び道具がない。それゆえにブレイクするのは飛び道具のあるモーニング娘。の方が先だろうと予想するわけですが、飛び道具がない、実力で勝負するしかないというのも、「アイドル」というカギカッコ付の枠内で見れば十分な飛び道具として成立する。

さやわか著の「AKB商法とは何だったのか」で1990年代がアイドル冬の時代になった理由は「おニャン子クラブ」が原因だったと重要な指摘をしている。おニャン子クラブの存在により「アイドル」は
@能力のない存在
Aアイドルは一生の仕事ではなく単なる通過点
という評価が世間で一般化したのだ。

それにより90年代アイドル文化は急速にしぼんでゆく。1992年のチャートにはベスト30位以内にアイドルはひとりも入っていない。自分たちで作詞作曲できる実力主義のバンドブームが起こるのである。

おニャン子クラブは秋元康プロデュースのアイドルであり、おニャン子クラブの後継的存在がAKBであることはいうをまたない。ただ、AKBはおニャン子クラブとは違い、女の子たちの努力や頑張りを見せる、アイドルの裏側を見せるというコンセプトがある。(この努力する裏側を見せるというコンセプトはモーニング娘。を生み出したテレビ東京の番組ASAYANからきている)

一度おニャン子クラブでアイドル文化を殺した秋元康氏が「努力」「頑張り」などのコンセプトでアイドルを再びよみがえらせたのは皮肉としか言いようがない。

だがしかし、いくらAKBが努力や頑張りをみせようと口パクであり、実力も足りないままである。そこでAKBと同じように努力していてなおかつ歌のうまい、実力十分の℃-uteがAKBのオルタナティブとして浮上する可能性はある。

だが℃-uteの本当の勝負は「アイドル」というカギカッコがとれた後のことだろう。℃-uteの5人が年を取り、カギカッコが外れたとき、それこそ30歳になっても全国をホールツアーで回っているようなら、それはCDを100万枚売ることよりも偉大な成功といえる。私はそのときもステージ上の℃-uteを見つめていたい。
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2013年07月24日

アイドル工学を超えて

稲増龍夫「アイドル工学」を読む。

日本独特のアイドルの歴史は送り手(レコード会社、タレント事務所)が作り出したというよりも、受け手(アイドルファン)が作り出したということのほうが大きい割合を占める。特にその変化があらわれたのが70年代アイドル(山口百恵)から80年代アイドル(松田聖子)への変化だ。

山口百恵は不幸な生い立ちや生活のためにアイドルという職業をやっているという「実像」があって、それとは別の華やかなアイドルという「虚像」があった。しかし80年代アイドルにはそもそも「実像」なるものがない。これはアイドルという「虚像」を「虚像」のまま楽しむという受け手側の変化があったからだ。

いわばアイドルというテクストをテクストとして自由に読解するという態度。コンテクストはこの際どうでもよく、アイドルという現象そのものを楽しむ姿勢に変わってきたのだ。

またアイドル側もTVというメディアによって変質する。

アイドル能力の核とは、やはりTVの影響によって生まれた。自己像に対するフィードバック感覚とでもいうべき「自己相対化感覚」が存在する。これは簡単に言うならTVという映像にとらえられる自分自身の姿をあらかじめ想定できてしまう感性である。ー「アイドル工学」


アイドルの自己相対化の果てがいわゆる「ぶりっこ」である。TVに映るとき、いかに自分を可愛く見せられるか。その自己客体化能力こそ80年代アイドルの能力なのである。

稲増はエドガール・モランを引用し、スターを生み出すメカニズムは「神との同一化願望」だという。

人間はつねに自分の分身のなかに自分自身を越えたいという欲求を投射している。ー「アイドル工学」


日本の場合は西欧とは違い、神との同一化というより、「全能感」を得たいがための同一化といったほうが正しいと思うが、アイドルは実力がともなわない分、同一化の対象としては物足りない虚構の存在である。だが虚構であるからこそそこに受け手が読解すべき空白が生まれる。そこに受け手の能動的反応、積極的参加=同一化としての投射が生じるのだ。

アイドルシステムの世界がしょせんは虚構=シミュレーションであり、一時の共同幻想であることはたしかである。ー「アイドル工学」


ギー・ドゥボールは「スペクタクルの社会」でスペクタクルはここではないどこかを夢みさせるという意味で現実の生を貧困化させ、宗教に似ていると痛烈に批判する。この批判はシミュレーションの世界にもいえる。シミュレーションの世界に夢中になることによって、現実の世界と向き合おうとしなくなる。これをドゥボールは「生の貧困化」というのだ。

しかしあえていうなら、人間社会はすべてシミュレーションなのである。それも二種類のシミュレーションに分けられる。ひとつは「固いシミュレーション」。固いシミュレーションとは固い土台の上に築かれたシミュレーションの世界のことである。例えば「貨幣経済」。ただの紙切れでしかないもの(いや、もはや電子的な数値でしかないもの)でこの世にあるほとんどすべての「財」を動かすというのは壮大なシミュレーション以外の何ものでもない。あるいは「国民国家」。国民国家が誕生したのはフランス革命以降であり、それ以前には国民など存在しなかった。国民国家が誕生してたった200年程度なのである。にもかかわらず国民国家は厳然とした現実として屹立している。これもまさに固いシミュレーションといえるだろう。

固いシミュレーションとはその土台がいつのまにか不可視化されて人々が疑うことすらなくなったシミュレーションのことをいうのだ。

固いシミュレーションは土台が不可視化されたがゆえに、まるで実在、現実、常識、日常として人々の前に君臨する。それはほとんど動かしがたい世界だ。だが、そんな絶対とも思われるシミュレーションでも一人の天才によってあっけなく崩れ去ることがある。天動説から地動説へと転回をなしとげたコペルニクス革命がそれである。

コペルニクス(1473-1543)が自説を唱えるまで、地球は全宇宙の中心であり、地球の周りを太陽やその他の天体が回っているというのが常識であった。いわば天動説は固いシミュレーションだったのだ。しかしコペルニクスの登場によって天動説=地球中心説は完全に誤謬となる。これは固いシミュレーションでも変えることができる貴重な証拠といえるだろう。

とはいうものの、固いシミュレーションはそれが日常、常識、現実として屹立しているがゆえに、百年単位、あるいは千年単位でも微動だにしないことも事実である。

そこでもう一つのシミュレーション、「柔らかいシミュレーション」が重要になってくる。

柔らかいシミュレーションとは、固いシミュレーションとは違い、土台が虚構であることが可視化されているシミュレーションのことをいう。

固いシミュレーションが土台が不可視化されているがゆえに虚構にもかかわらず、それが現実として生きられるのに対し、柔らかいシミュレーションは同じ虚構にもかかわらず、それが現実と思われることはない。

したがって柔らかいシミュレーションは能動的、積極的にそのシミュレーションに反応しなければ、それは生きられることはない。つまり柔らかいシミュレーションを「あえて」生きようとすることは、コペルニクスが起こした革命と同様の世界観の創造が必要となるのだ。

白紙のテキストに自ら文字を書き記すこと。その意味を、その価値をいちから創造すること。これはプチコペルニクス革命とでも呼ぶべきものだ。

もはや固くなりすぎて変革することすら難しくなった固いシミュレーションの世界を柔らかいシミュレーションで上書きしていくのだ。

とはいうものの、私は柔らかいシミュレーションとしてのアイドル現象をミネルヴァの梟のように後追いで論じたいわけではない。私はアイドル論を書きたいがために、これを書いているわけではない。アイドルを高みから見下ろし、アイドルを自由に読解することになんの意味も感じていないのだ。

私がしたいと思っているのは、アイドルのような柔らかいシミュレーションをまるで固いシミュレーションであるかのように生きること。

柔らかいシミュレーションを遊戯的に横断するのではなく(ほとんどすべてのアイドル評論家はこの手合い)、シミュレーションを生と一体化するのだ。これをわかりやすくいえば「恋愛」に例えることができる。

「恋愛」というのはいうまでもなくシミュレーション=虚構です。恋愛の正体が性欲であり、もっと掘り下げるなら遺伝子の働きであることはいうを待たないでしょう。

しかしだからといって「恋愛」にはなんの価値もない、私たちが恋人や夫や妻を愛するのになんの意味もないわけではない。私たちは恋愛の正体が性欲や遺伝子の働きだと感じてはいても、絶対に人を愛することをやめたりはできないのです。

恋愛はシミュレーション=虚構です。しかし私たちは恋愛を真剣に生きます。アイドルも同じことです。アイドルは虚構です。それでも私たちはアイドルを好きになり、アイドルを生きるのです。

柔らかいシミュレーションを真の生として生きること。それは日常的にコペルニクス革命を起こすことなのです。
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2013年06月02日

アイドルコンサート幸福論・℃-uteコンサートにおける幸福論考察

アイドルコンサート幸福論・℃-uteコンサートにおける幸福論考察

2013年5月26日日曜日名古屋。日本特殊陶業市民会館フォレストホール℃-uteコンサートツアートレジャーボックス昼、夜の二回公演に行ってきました。・・・といってもこのブログをコンサート感想日誌にするつもりはありません。あくまで私なりの「幸福」に関する論考になります。

私にとって日常生活はただつらく、苦痛と退屈とのせめぎあいの中にある。そんな私にとって唯一の“ハレ”の日がLiveやコンサートに足を運ぶことだ。私が℃-ute(キュート)というアイドルグループを好きになったのは偶然にすぎない。ある日Tumblrを眺めているとものすごい美女の写真が流れてきてこれ誰だ?とびっくりしたのがきっかけだ。彼女の名前は「矢島舞美」。さっそく「矢島舞美」で検索するとYouTubeのURLが出たのでそれをクリックして出てきたのがー℃-ute「君は自転車 私は電車で帰宅」矢島舞美ソロバージョンのMVだった。

私は彼女に夢中になり、動画を漁り、CDを買うようになり、コンサートに足を運ぶようになった。それ以来℃-uteのコンサートに行くことが、苦痛に満ちた生活から抜け出せる唯一の“ハレ”の日となったのだ。

@幸福の第一段階「逃避」
私がコンサートに足を運ぶのは「生活」という苦痛からの逃避に他ならない。つらい現実を忘れさせてくれる避難場所としてのアイドル。人にとって苦痛を避けること、苦痛のない生活は生きていく上での必須条件だろう。だが苦痛を避けることイコール幸福といえるだろうか。ほしいものがあったとき、それを簡単に手に入れるのと苦労して手に入れるのとでは喜びが違うだろう。苦痛を避けることが幸福につながるとは限らないのである。

A幸福の第二段階「興奮」
℃-uteトレジャーボックスツアーの白眉はCG映像を駆使した活劇からツアータイトルにもなっている曲「ザ☆トレジャーボックス」へとなだれ込む展開だろう。この秀逸とも言える演出に興奮度はMAXになり、脳内麻薬物質ドーパミンが全身を駆け巡る。いままで人生で経験したことのない興奮が持続し続けるのである。・・・これが幸福なのだろうか?

「退屈の反対は快楽ではなく興奮である」とB・ラッセルがいうように退屈という苦痛から逃れるためには興奮が必要だとするならば、人間は常に興奮していれば幸福なのであろうか。これに対しロバート・ノージックは最大級の興奮や快楽を経験できるような「経験機械」に私たちをつなげば、つながれた私たちが寝たきりだったり、意識がないような状態でも私たちは幸せであるということになってしまうという(映画「マトリックス」を思い出してほしい)。興奮は決して幸福の条件ではないのである。

B幸福の第三段階「満足」
普段は鬱屈した不満だらけの日常を送る私も℃-uteのコンサートにだけは心からの満足感をおぼえる。この上なく満ち足りた気分にひたれるのだ。・・・これか、この感じが幸せなのか?

だが、J.S.ミルは「幸福」と「満足」とを混同してはならないという。ミルの有名な言葉に「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」というのがある。例えば囚人の幸福というものを考えてみよう。人間としての尊厳もなく、自由を奪われ、常に抑圧された状態にある囚人ですら幸せを感じたり、満足ともいえるような感情を抱くことがある。ではそんな囚人は幸せといえるだろうか。囚人の満足とはあまりにもつらく厳しい環境から自分の精神を守るためにほんの些細なことでも喜びや満足を感じとれるようにする自己防衛にすぎないだろう。ゲーテは「最悪の日に生まれたものには悪い日も快いであろう」という。満足は幸福とは違う。幸福はより高次のものなのだ。

C幸福の最終段階「アウラ」
私はフォレストホールでチーム℃-ute(℃-uteのメンバーはスタッフや℃-uteファンのことをこう呼ぶ)との一体感に身をゆだねながら、逃避→興奮→満足という段階を経てある境地に達する。いままでの幸福の諸段階ー逃避、興奮、満足はいずれも消極的体験であって、受身の行為である。いわばアイドルという親鳥がくれるものを口を開けて待っているだけの雛のような受動的行為でしかない。しかし幸福の最終段階では急激な「転回」がはじまる。アイドルの「アウラ」(ベンヤミンの用語だが、わたしはこれを唯一一回性(ゆいついっかいせい)と解釈する)を受け取った私たちはそれを投げ返そうとするのである。ただ受身のまま、よだれをたらしながらアイドルから得られるものを物欲しげに要求していただけのファンが、逆にアイドルに「アウラ」を投げ与えるのである。

図にすると、従来のアイドル受容体験である
アイドル→→→ファン(矢印はアウラが送られる向き)
という図式から
アイドル←←←ファン
へと転回しアウラが送り返されるのである。

ファンがアイドルに送り返す「アウラ」とは何か。それは

「この一瞬のためになら全生涯を投げだしてもいい」という企投に他ならない。

今この瞬間が全生涯にも匹敵するという心境。今ここで℃-uteのコンサートを楽しんでいるこの一瞬が永遠にも値する瞬間であるという確信・・・

「ああ、この一瞬のためになら全生涯を投げだしてもいい!とはっきり意識的に言うことができれば、もちろんこの一瞬それ自体は全生涯に値するものなのである。」ードストエフスキー「白痴」


アイドルがアウラをファンに向かって投げると、ファンもまたアウラ(唯一一回性)をアイドルに投げかえす。アイドルとファンの間でアウラがやりとりされるようになってコンサート会場はあの独特の空間になる。また℃-uteのコンサートの特徴としてファンの振りコピ(℃-uteのダンスをファンが真似る)という行為がある。これはまさしく古代ギリシアの芸術概念「ミメーシス」(模倣、再現)に他ならない。ミメーシスとは事物の本質やイデアを模倣しようとする芸術の根源的働きのこと。すべての芸術の根源にあるのはこの「ミメーシス」=「模倣」なのである。ファンのミメーシス行為が舞台上の℃-uteをより高い次元の存在として輝かさせるのだ。

「この一瞬のためになら全生涯を投げだしてもいい」という企投がコンサート会場に「唯一一回性」というアウラ空間を生み、ファンの振りコピがミメーシス空間を作り出す。芸術は個人で作り出されるものではなくなり、集団によって生み出されるものとなる。アウラとアウラが相互に企投されることによってアイドルコンサートはコミュニケーションを超えたコミュニケーションとして現前するのである。

幸福とはこの「アウラ」、唯一一回性という企投のことに他ならない。℃-uteコンサートの一瞬は全生涯に値すると自覚すること。ただ、この一瞬を得るためだけに今までの人生を生きてきたのだと思えること。この一瞬が永遠にも匹敵するのだと自覚すること。単なる受動体験から転回して能動的に企投することこそが幸福なのではないでしょうか。

なにを大げさなことを言っているのかと笑う人もいるでしょう。しかし無意味で鬱屈した人生を送ってきたと自覚する私が今、死なずにこうしてこの文章を書いていることがなによりの証拠となるのではないでしょうか。生きる意味はここにある。幸福はここにある。

ドキドキさせるぜトレジャーボックス
ここんとこ(頭の中)にある夢の箱♪ーザ☆トレジャーボックス

幸福が形而上学的なものであるのは、アイドルを好きになるという行為自体が形而上学的な行為であることとも重なる。すべては「頭の中にある夢の箱」につまっているのである。
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-------おまけ---------
ここから先は℃-uteファン以外は読まなくていいです。

℃-uteコンサート記

℃-uteコンサート5/26名古屋昼の部。昼はゴゴスマの取材が入ってるので岡井ちゃんが2回ほどゴゴスマでぶっこんでくる「ゴゴスマ!」とファンにコールさせるのと、「ゴゴスマ見るのは」ファン「今でしょ!」打ち合わせなしで息のあったコールをするファンたち。チーム℃-uteはよく訓練されている。

宝物のコーナーは舞美が安倍なつみさんからプレゼントされたタオル。5年間ぶりに開けてにおいをかぐ舞美は「オーガニックの香りがする!」というがマイマイは冷酷に「押入れの臭いだ」そこからちっさーは押入れに寝ている話へ。

夜、宝物MCはなっきぃの寝顔写真とマイマイ姐さん美人さんの3枚。最後の1枚で落ちがつく(マイマイ変顔)。MCは夜より昼の方が面白かったかな。特に昼はゴゴスマの取材で確実にゴゴスマの℃-ute特集で使われると思うので絶対録画もの。

℃-ute紺今回は構成が抜群だった。地球からの三重奏なんてCDで聞いたときは印象に残らなかったのに紺ではファン全員にハンドクラップさせることにより一体感を持たせることに成功している。この曲はクラップともども紺の定番曲にしてもいいのではないか。

トレジャーメドレーではあの可愛い名曲世界一HAPPYな女の子が激しい曲調にアレンジされていて新鮮な驚きだった。Bye Bye Bye!、ディスコクイーン、Midnight Temptationを聞いて℃-uteの路線はこれだよなと確信。つんくさんこの路線でヨロ

そしてこの公演の白眉中の白眉がCG活劇であることは言うを待たない。いざ、進め! Steady go!が途中で終わるとCG海賊が現れ℃-uteメンとバトルを繰り広げ見事打ち倒すとまたSteady goに戻る構成の見事さ!しかしまだ続きがある。

宝島に到着した℃-uteメンは重い扉をファンのコールと共に開けるとそこにトレジャーボックスを見つける。そしてザ☆トレジャーボックスになだれ込むのである。ここで脳内麻薬物質ドーパミンが一気に噴出する、いわゆる「アガル」というやつである。

映画を見たりライブに行くのはこの「あがる」を体験したいがためである。ザ☆トレジャーボックスの「オイオイオイオイオイ」を叫んでるときあまりの気持ちよさに「このままここで死んでも悔いはないな」なんてことが脳裏をよぎる。空前絶後至福の体験。

トレジャーボックスツアーは以前のツアーと比べてもお金の使い方が段違い。乱れ飛ぶレーザー光線、一体何回着替えるんだという衣装チェンジ。衣装のデザインも過去最高ではないだろうか。オープニングの半短パン半長パンツのなっきぃの衣装がお気に入り。

Midnight Temptationでは曲の途中で衣装の早換え。女性の柔肌が大胆に露出された衣装で℃-uteメンが出てきた時にはあまりの美しさ神々しさに呆然とした。新曲「悲しき雨降り」の衣装もシックな感じで素晴らしい、好みである。

研修生ではやはりななみん(田辺奈菜美)がその美しさ、オーラでスターの素質十分。色が抜けるように白くて身長も高い(見たところ舞美と変わらない)昼の部ではななみんが出てくると歓声が大きい。マイマイが黄色が会場に多いのはななみんがいるからなのねと嫉妬するほど(笑)

℃-ute名古屋公演に昼夜入ったが、とにかくまた行きたい。またCG活劇からのザ☆トレジャーボックスの高速「オイオイ」を体験してアガりまくりたい。℃-ute紺の中毒性はちょっとヤバイくらいだ。夜公演最後は℃-ute最高→オツカレーライス→万歳三唱でシメ。チーム℃-ute最高!

ごめんまだ続く。昼は3列目(1列はライトとカメラ場所なので実質2列目)で見たがとにかくあまりにも間近に℃-uteメンがいるので誰を見ればいいのか迷った。夜は17列。はっきりいって前と後ろで見るのでは質的には違うが幸福の量的には全く同じだといえる。

前の席で見ると5人の美しさにばかり目がいって演出や構成を見る余裕がなくなる。後ろの席では演出だけでなくファンの熱気やコール、サイの美しさや振りコピなども見られるので楽しさは倍増する。つまり℃-ute紺は前で見ようが後ろで見ようがどっちでも楽しめる。
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2013年03月31日

演じるということ・℃-ute舞台「さくらの花束」評

℃-uteの舞台「さくらの花束」をUstreamで視聴。その感想。

@鈴木愛理、萩原舞、岡井千聖メインの「チルチルサクラ」(以下@)
スクールカースト上位のあかり(常に不在、「桐島、部活やめるってよ」の桐島みたいなもん)が退学したことによる女子高グループの不協和音を描く。グループ内の友情などしょせん幻想でしかなかったことが容赦なく暴かれる。みちる(鈴木愛理)もリカ(萩原舞)もメイ(岡井千聖)も美々(藤井千帆)も映美(菊池友里恵)もただ単に仲のいいふりをしていただけ、話が合うふりをしていただけ、楽しいふりをしていただけでしかなかった。みちるたちをつなげていたものは「ふり」という虚構のふるまいでしかなかったのだ。この@が序章となりさくらの花束という舞台全体のテーマが掘り下げられていく。

A矢島舞美メインの「桜色に頬染めて」(以下A)
いわゆる「百合もの」という女性同士の同性愛もの。咲子(矢島舞美)は@のテーマである虚構としてのふるまいを続けることしかできない女の子。咲子は親友である光(福永マリカ)を愛しているが、当然それを打ち明けることも出来ずに悶々としている。愛しているのにただの友人の「ふり」をするほかないのだ。光は女性が女性を好きになるなんて「気持ち悪い」と吐き捨てる。だがこの「気持ち悪い」は同性愛への偏見ゆえに「気持ち悪い」と言っているのではない。いままで自分が理解していた人間が実は自分の考えていた人間とは違っていたことへの絶望。自我と他我との絶望的な「非対称性」を「気持ち悪い」と言っているのだ。そして舞台Aはさらにこの自我と他我との非対称性という問題を発展させる。光がひそかに愛していた井上先生と友人であるアカリがつきあっていたことを知った時、光は思いもよらない自分の醜さと汚さを自分のなかに見つけるのだ。アカリが退学になったのは光が密告したからなのだ。今まで気づきもしなかった醜悪な自分が自分の中にいる。だから光はこう吐き捨てる「こんな自分を知りたくなかった」と。自我と他我を蝕む非対称性は実は自分の中にも存在したのだ。

B中島早貴メインの「さくらん少女」
かのこ(中島早貴)は演劇部の部室でだけは女王としてふるまうことができるが、部室から出ればスクールカースト最下位の変人でしかない。いわばかのこは自己評価と他者評価が分裂しているがゆえに苦しんでいる。では自己評価と他者評価が重なり合うところに本当の自分がいるのだろうか?・・・答えをだすなら、本当の自分なるもの存在しないのである。人が自分という同一性、統一性、持続性として捉えているものは虚構でしかない。「私」という同一性はこの私自身の肉体が証拠ではないかと言われれば、その肉体は細胞レベルでは半年後には全部入れ替わっているものでしかない。肉体は半年前のものとは分子レベルでまったく別のものになっているのだ。この私というものはあくまで状況状況における今を演じる私である。学校においては生徒としてふるまい、家庭においては息子としてふるまい、またある人の恋人としてふるまい、職場では部下としてふるまう私がいるだけなのだ。状況状況に異なる私が存在し、そこに同一性も統一性も持続性もない。人間は一皮ずつ剥いていっても中心には何もないたまねぎのようなものだ。人間はさまざまな状況でさまざまな自分を演じる多面体であり、自己評価にも他者評価にも捉えることが出来ない中心そのものがない存在。存在そのものが非対称性でできた生き物なのだ。

舞台「さくらの花束」は人それぞれが何かの「ふり」をすること。すなわち虚構としてのふるまい=「演じること」をとおして多面体かつ非対称的で不可解な生き物である私たち自身を映し出す「鏡」なのだ。演じているのは舞台上のみちるや咲子やかのこだけではない。舞台を見ている私たちもまた死ぬまで演じ続けるしかない生き物なのだ。

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作品の質的には「桜色に頬染めて」と「さくらん少女」が抜群。特筆すべきはなっきぃのコメディエンヌぶり。膨大な量のセリフを立て板に水がごとく喋り続ける姿に真の女優魂を見た。なっきぃにはテレビドラマや映画にどんどん出て欲しい。あと舞美は本当にやばいね。美しすぎるアイドルとはよく言ったもんだ。美しすぎて怖いくらい。

sakura.jpg
posted by シンジ at 22:23| Comment(1) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする