2007年08月14日

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマーと大人帝国と時かけの類似性

NHKBSの「とことん!押井守」これだけは絶対見逃せないのは当然「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)


一体何年ぶりに観たのか記憶も定かではないが、やっぱりすごい作品でした。と確認すると同時にこの映画は現在でも通用すると確信。


というか今でも影響を与えている。たとえば「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! 大人帝国の逆襲」や細田版「時をかける少女」の思想性、テーマ性はビューティフル・ドリーマーと同じように俺には思える。


つまり自分にとっての幸福な時間や記憶を閉じ込めてしまい、その中で永遠に暮らす。未来を遮断し、幸福な記憶の中だけで生きたいという人間なら誰しもが持つ欲望を具現化した作品なんだよね、いずれの作品も。


うる星やつらビューティフル・ドリーマーでは学園祭前日というもっともワクワクする楽しい時間が延々と繰り返される。それはラムの願望が夢邪鬼によって具現化したものであった。


クレしんの大人帝国ではケンとチャコによる一種の洗脳革命によって美しい記憶の中で生きよう、醜いだけの未来なんてもう必要ないんだよ、というきわめて吸引力のある誘惑に満ちた世界観を提示。


時をかける少女の真琴は過去へのタイムリープを駆使して楽しい時間を何度でも繰り返す。気にくわない未来はリセットして過去に何度でも戻ってやり直す。


いずれもビューティフル・ドリーマーと似通ったモチーフだろう。


そして大人帝国も時かけも過去の美しい記憶の中に閉じこもるのではなく未来に向かって歩き出そうという前向きなメッセージで幕を閉じる。


それは映画として、また現実的にもきわめてまっとうなあり方だと思う。


だがビューティフル・ドリーマーだけがそれらの作品と一線を画すのは、ビューティフル・ドリーマーだけがいまだに学園祭前日を繰り返している(それは今も!)ということにつきる。


・・・ということをアニメ夜話を見て初めて知った!


なぜ映画のラストではじめて「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」というタイトルが出て終わるのか。


なぜならこのラストこそが映画の真のオープニングであり、映画の冒頭に円環しているからなのだ。


長年の疑問・・・なぜ映画冒頭の諸星あたるはひとりだけ呆然としているのか?→ループしていることに気づいて愕然とするあたるの姿だったんだね!


いや〜アニメ夜話見てはじめてよかったと思ったw


かくしてラムの幸福、学園祭前日は延々と繰り返され未来は永遠にやってこない。


未来がやってこないということは別離も死さえもない世界ということだ。


それこそ大人帝国のケンとチャコが勝利した世界、時かけの真琴が望んだ世界だったんだ。
posted by シンジ at 01:46| Comment(0) | TrackBack(2) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月24日

冨樫義博「HUNTER×HUNTER」休載の衝撃的理由

俺がこよなく愛する漫画。HUNTER×HUNTER。


漫画にひかれる理由はいろいろあるだろう。超絶的な絵のうまさ「バカボンド」「ベルセルク」。エンターテイメントとしての充実度「うしおととら」などなど。


ではHUNTER×HUNTERの面白さとはいったいなんだろう。俺はそれをプロット主義漫画と呼んでいる。


プロットは映画の世界ではおおまかなストーリーの意味に使われることが多い。だがプロットは物語とはまったく別なものである。


ここでプロットとストーリーの違いを小林信彦がなんと言っているか引用したいと思う。


−青年Aは知り合った女の子Bに惚れて、友人Cに紹介した。ところが、実は、BはCのフィアンセだったのである。
ごく単純な例をあげたが、これがプロットである。
プロットとストーリーは違う。ストーリーとは次のようなものだ。
−美しい女性Bは青年Cのフィアンセだった。そのBに、Cの友人Aが惚れた。
同じことを書いているようだが、プロットの方には<実は・・・・・>がある。−小林信彦


辞書でプロットPLOTを調べるとひそかな計画、(悪意のある)たくらみ、(…しようとする)陰謀、(…に対する)策略、とでる。


プロットとはストーリーのなかに“ある策略”をしかけることといっていいだろう。


HUNTER×HUNTERよりすぐれたストーリーの漫画、映画、小説はいくらでもある。


だがHUNTER×HUNTERはまさにストーリーのなかに“ある策略”をふんだんにしかけることにより他のストーリー漫画より一歩抜きん出た存在になっているのだ。


で・・・・・本題だが(笑)HUNTER×HUNTERの休載理由がわかった。岡田斗司夫のプチクリ日記をみてほしい。
http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/09/post_9909.html

「HUNTER×HUNTER」の連載を休みっぱなしの冨樫義博氏だけど、その原因が「子供のお受験」だという噂を聞いた。


えーっ!!!!嘘だろ!!!!!


でも冨樫先生ならありえるなとも思った。もう冨樫先生にとっては漫画より子供のほうが大事なんだよ・・・・・って、まぁあたりまえか・・・・・orz
posted by シンジ at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月08日

「デスノート」小畑健逮捕のSankeiWeb記事が狙ってる件。

http://www.sankei.co.jp/news/060907/sha015.htm

ライトのせいで…「デスノート」作者、小畑健容疑者逮捕


おまえ絶対デスノート読んでるだろwwwwwwww


調べでは、小畑容疑者は6日午前0時30分ごろ、同区大泉町の路上で、乗用車のコンソールボックス内にアーミーナイフ(刃渡り約8.6センチ)を所持していた。パトロール中の同署員がライトが切れた乗用車を発見。運転していた小畑容疑者を職務質問し、キーのアクセサリーに小さなナイフが付いていたことから車内を調べたところ、見つかった。


っていうか刃渡り約8.6センチのナイフもっていただけで逮捕されるっておかしくないか?ふつーの果物ナイフだってそれぐらいだろ?これからは包丁などを買っても車にのせて帰るなってことか!?


いくらなんでも警察やばすぎるだろ。まぁ警察にもノルマがあるらしいから、小畑先生はそれの犠牲になったってことか・・・orz


あと早速小畑先生逮捕の瞬間がコラになってます(笑)
これをクリック→3F3F3F3F8FA7FE3F3F3F3F.jpg

posted by シンジ at 02:31| Comment(1) | TrackBack(2) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

「百鬼夜行抄」14巻と今市子先生に対する漠然とした不安

百鬼夜行抄14巻が出ているのを知らず見逃していて、あわてて購入。


最近の百鬼夜行抄は質が落ちているとか嫌なうわさを耳にしていたので、不安だったが・・・うん面白いや。


あいかわらずプロットや描写が複雑きわまりなく、1回読んだだけでは理解できないところまでいつもどうりの今先生でした。


もちろん気になるところもある。


14巻最終話の「介添人」俺の大好きな若き日の蝸牛と八重子の話で、蝸牛と八重子がでてくる話はほとんど傑作。もちろん「介添人」も14巻のなかで一番の作品だと思う。


ただ必要以上にプロットを複雑にしすぎ、詰め込みすぎではなかっただろうか?


この物語のメインテーマとしてもっともふさわしいのは、あまりにも悲劇的で恐ろしい、暎子という女性の宿命であり、そんな悲劇的な女性に自分の運命を重ね合わせる蝸牛の姿であるべきだった。


だが今先生はあふれでるご自分の想像力を抑えることができない。


あまりにも重いテーマと同時に意味不明のタイムスリップネタまで詰め込んでしまい読者大混乱。


今先生、あの無精ひげの書生、ストーリーに必要だったんですか?


正直ホントに惜しいと思った。この暎子という女性は百鬼夜行抄のなかでも一二を争う最高に魅力的で恐ろしいキャラクターだけに、この暎子というキャラクターをもっと深く掘り下げて欲しかった。


あと今先生の絵の質が落ちているといううわさだが、素人である自分にはよくわからない。もし落ちているのであれば、それは単純に“腱鞘炎”の影響だと思う。


多くの漫画家が苦しみ、まったく筆圧をかけられないという状態。・・・そうおそらくあの冨樫先生もそうだ、そうに違いない!(ううっ泣)


タイトルに“今市子先生に対する漠然とした不安”などとかいて後悔してる。


稀代のストーリーテラー今市子の作品まで読めなくなったらこの世は闇だ。(冨樫・・・)





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2006年05月21日

クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲と戦国大合戦。岡田斗司夫の分析

岡田斗司夫氏のあまりにもあざやかなデスノートに対する分析に感心したので、アニメ夜話での「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」(2001)の岡田氏の分析も書き記してみたいと思う。


しんのすけ家族がオート三輪にのって脱出するシーンでの原恵一の演出に言及してー


ひろしが警官のくびねっこをつかんで言う「なつかしくて頭がおかしくなりそうだ!」

おかしくなったらひろしはなにをするのか?

家族を捨てるんです。

ひろしはここで葛藤していた。しんのすけに起こされ現実に戻っていたはずのひろしの心の奥深いところでは、もう一度家族を捨て“イエスタデイワンスモア”の世界に行きたいと悩んでいる。

この映画のテーマは実は家族のきずなは素晴らしいでもなんでもなく、人間の葛藤そのものにある。

それがこの映画の空前絶後のところではないか。


しびれるような分析だ。俺もこんなにあざやかに映画を語ってみたい。岡田氏にはぜひとも原恵一もうひとつの傑作「嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」(2002)を分析してもらいたい。


戦国大合戦。細かなディテールとギャグを繊細に積み立てていったさきにあのようなことが待ち構えているなど誰が予想していただろう。


この作品が子供向き映画ということから大きくはずれているがゆえにシンエイ動画内では原恵一が批判の対象になったとかならないとか・・・


もうこのさいはっきり言っちゃいますが、原恵一監督は宮崎某監督をこえてると思う。


原恵一監督の次回作は2007年公開の「河童のくれた贈り物」期待です。








posted by シンジ at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月19日

デスノート最終回とクレヨンしんちゃん。岡田斗司夫の分析に感服

デスノートについては熱心に読んでいたわけではない。


ジャンプではHUNTER×HUNTRE派なので・・・(負け組ですがなにか?)


デスノート最終回についてなにか書こうとおもっていたら“岡田斗司夫のプチクリ日記”をたまたま目にして、もう俺が書くことは何もないと感服した。(無断引用します。すいません)


「新世界の神になる」と決意した高校時代の月。それはけっして「誰にも捕まらない世界最高の権力者になりたい」という意味ではなかったはずだ。

天国や地獄など存在しない世界。つまり正義や「悪への報い」などない、この私たちの住む世界にひとつのルールを作ろうとした。

悪には報いを。
正しい人が泣き寝入りしないで住む世界。
月が目指したのは、たったそれだけだった。

しかし、Lの登場で月は変質する。

Lを出し抜きたい。

自分に逆らう人間に天罰をくらわせたい。

そんなことばかり考えているうちに、月は月でなくなってしまった。

デスノートという絶対的な力を手に入れた月は、その力を失うことを恐れ、自分の背後に忍び寄る影に怯えて、どんどんダメな奴になる。

天国や地獄を信じない精神力は、自らを神と称する自我肥大にすりかわる。


岡田氏は月をただ断罪するだけではない。弱者にとっての月の存在をこう書いてみせる。


最終回のラストシーン、世界の果ての山頂に集まる人たち。

彼らはキラに感謝している人たちなんだろう。

大切な人を失い、復讐することも出来ず警察も助けてくれなかった人たち。

Lの世界、「天国も地獄もない世界」にはけっして住めない人たち。

月によって無念を晴らしてもらった人たち。

キラの世界でだけ、平和に生きられた人たち。

世界の果ての山頂で、誰にも知られず、夜神月は弱者たちに感謝される。

正しく強いLは「独裁者=太陽のような世界の中心」を認めない。

しかし弱きもの、この世の地を這うものたちは、暗黒の夜の世界をかすかに照らしてくれる月を忘れはしない。


最後の文を読んで泣きそうになった。


クレヨンしんちゃんについての岡田斗司夫氏の分析は明日書きます。





posted by シンジ at 16:29| Comment(1) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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