2025年07月01日

ジークアクスーニャアンは人を殺してるんだから幸福になってはいけないというお話について

ニャアンは人を殺してるんだから幸福になってはいけないというお話について


さてまだまだジークアクスについてお話していきましょうか。


ニャアンはストーリー上たくさん人を殺しているので幸福になってはいけない論というものがあるそうな。


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気持ちはわかりますよ。映画とかドラマとか小説とかアニメで極悪非道のやつが逃げおおせたり、なんの罰も受けない描写があるとモヤッとすることは誰にでもある。


それは人の持つ宗教観や倫理観のあらわれで、勧善懲悪や因果応報という概念を創作物に適応してもらいたいという自然な心の動きだ。


ただ私は物語上の倫理観と外部規範(道徳だったり昨今だとポリコレだったり)は明確に区別したほうがよいと考えます。


ポリティカルコレクトネスとは「歓迎されない信念や考えを言説や表現から排除しようとする試み」という外部規範であり、それに対し作品内の倫理度=エシックラインは登場人物の好感度操作の手法である。


たとえば私の大好きな映画「仁義なき戦い代理戦争」の主人公広能(菅原文太)は山守組長に対抗するために神戸から大組織である明石組(実際のモデルは山口組)を広島内に引き入れる。単なる地方都市の争いに関係のない大組織を招き大混乱を引き起こすのだ。


これを外部規範的に見れば広能は極悪非道のヤクザだろう。全く関係のない組織をおのれの利益のために地元の呉に手引きして引き入れるからだ。ヤクザとして人としても最悪の行動といってもいいだろう。


しかし広能は主人公である以上、悪としては描かれず他のヤクザたちよりもエシックライン(倫理度)が高く設定されるという奇妙なことが起こっている。エシックラインが高くないと主人公として成立しないのだ。作品内倫理が主人公の好感度操作に利用されている例だ。


このように映画の正しさ(作品内倫理)とは外部規範とは関係なく、物語の都合上設定されるものなのだ。


最悪な登場人物がストーリー上罰を受けるとスカッとするのも事実ではある。邪悪な人間が物語上まんまと逃げおおせるとモヤッとすることもある。ただ現実の外部規範を創作物に強要すると途端に創作の面白さや自由がなくなってしまう。勧善懲悪、因果応報概念は紋切り型表現の典型ともなってしまうのだ。


ニャアンについていえば、マチュという猪突猛進型主人公と対比的に作られたであろうキャラなのは明白だと思う。シャアやシャリア・ブルが理念型ならニャアンは動物的な自己保存本能のみ。倫理観もあいまいで善にも悪にもどっちに転んでもおかしくない「あわい」(間)の存在。能動的なマチュと動物的なあいまいさのニャアンという対比ありきのキャラクターだ。もちろん2クールあればもっと二人の対比描写が増えわかりやすくはなったと思うが、物語上に隙間があればあるほどオタクは考察をはかどらせるものなので、私もこんな文章を書いているというわけ。


(あと単純にシャアもシャリア・ブルもエグザベくんもみんな職業軍人でたくさん人を殺してるのにそっちはいいの?と思う。アメリカの小説では主人公が人を殺すけどハッピーエンドで終わるものが結構あるのも戦争や軍人が日常にあるからなのかも。)
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2025年06月28日

シャリア・ブルという男。マチュの希望。ジークアクスのニュータイプ論

シャリア・ブルという男。マチュの希望。ジークアクスのニュータイプ論

機動戦士Gundamジークアクスはシャリア・ブルを追っているだけで面白かったし、驚きに満ちているだけではなく、ガンダムシリーズがずっと描いてきた「ニュータイプ」とは何かを端的に表しているので目が離せなかった。

シャリアは最初はシャア・アズナブルという男に身も心も灼かれた男として描かれたように視聴者には見えていた。木星から帰ってきて空っぽになった虚無の男が野心に満ちた才能とカリスマだけでできているかのような男に魅了され、ただ戦争に利用されるだけのニュータイプの未来を変えてくれるかもしれない存在に見えたのは確かだろう。

そしてシャリア・ブルの目的である「ニュータイプが戦争の道具としてではなくニュータイプがニュータイプとして生きられる世界」をシャアになら託すことができるかもしれないと「その時」は思ったのかもしれない。

シャリアがどこで心変わりしていたのかはわからない。もしかしてビギニング部分(第2話)のどさくさにまぎれてシャアがグラナダにソロモンを落とそうとしたことをアルテイシアから聞かされたのかも。

しかし我々視聴者はずっとシャリアはキシリア、ギレンを暗殺してシャアをジオン公国の新しい総帥として擁立するとばかり思っていたのを最終回12話で実はアルテイシアを新しく擁立し邪魔なシャアを排そうとしていたと知り驚愕するのだ。

誰かがtwitterで書いていたがまるでミステリの叙述トリックを読んで騙されたかのような展開はジークアクスのストーリー上でも白眉といえる驚きの展開だった。

このシャリアの心変わりは視聴者に隠されているように見えて、実はシャリアのニュータイプ観が物語上で変わっていってることをジークアクスはちゃんと描いている。

シャリアが影響を受けたシャアのニュータイプ観を「大きい思想」と名付けよう。つまりニュータイプや人類すべてを統率するような大きい思想。理念。理想。人々を「高次元」に導く大きい思想。そしてその大きい思想のためなら他者を抑圧したり、強制できたりもする。それがシャアのニュータイプ観だ。

シャリアも最初はシャアの大きい思想=ニュータイプ観に魅せられていたのだろう。そうした大きい思想でしかニュータイプがニュータイプとして生きられる世界はやってこないと。だが必然的に大きい思想は他者を抑圧し強制をともなうとシャリアは理解していく。

シャアのふるまいは大きい思想が他者を抑圧し強制するものでしかないと理解されるに十分なものだった。グラナダでの人命を一顧だにしないふるまい、イオマグヌッソ開発。この男の掲げる大きい思想=ニュータイプ観は邪悪であると。

12話でシャアはシャリア・ブルに向かってこう言う。
「(シャロンの薔薇の彼女を排除する)人類をより良き時代に導くのはそれからのことだ」と。

シャアを愛しシャアのために運命を変えようとするララァを排除してからより良き時代に導く。まさにこれこそ大きい思想のためになら他者を抑圧し強制してもよいとするシャアのニュータイプ観に他ならない。

「他の人々を「より高い」レベルの自由にまで高めるために、ある人々によって加えられる強制を正当化する」(アイザイア・バーリン「自由論」)・・・それがシャアのそしてかってはシャリアのニュータイプ観だった。

それに対してシャリア・ブルはゾッとするほどの冷ややかさで応じる「・・・でしょうね」

シャリアは「独裁の下では人の革新など起こるはずもない」とシャアの大きい思想を全否定するに至るのだ。(ここでシャアとシャリアのBL的妄想に浸ってきた人は冷水を浴びせられたような気分になるのでは?)

シャリアとシャアが戦っているときのソドンのラシット艦長の言葉がシャアのニュータイプ観の限界を表していて面白い。
「ふん・・・結局争う事をやめられない。多少人よりモノが見えたところで撃たれりゃ死んじまうのに」

大きい思想のためにニュータイプを人殺しの道具として使うシャア。より「高い次元」に行くためなら人々を抑圧したり強制しても構わないというニュータイプ観。

そうしたニュータイプ観を打ち砕くのがマチュなのだ。

シュウジはララァを守るために彼女を殺さなきゃいけないという。マチュは言う。

「誰かに守られなきゃ生き残れないなんてそんなの本物のニュータイプじゃない」

ー温情的干渉主義(パターナリズム)は想像しうる限り最大の専制である(カント)なぜならそれは人間を自由なものとしてではなく自分にとっての材料であるかのごとく取り扱う。温情に満ちた改革者は自分自身の自由意志で採用した目的に従って、その人々を型にはめようとするのである。ーバーリン「自由論」・・・まさにシュウジの陥った心理だろう。

ララァは誰かに守ってもらおうなどとは微塵も思っていない。彼女は自分の願いのために自分の自由を、わがままをとおしているだけだ。

マチュもまた「私たちは毎日進化している。明日の私はもっと強くなる!」
強くなってやる。なんのために?誰かの大きい思想に導かれたり、誰かに守ってもらうためではなく自分の意志で道を切り開くために!

「自由のために傷つくものこそが本物のニュータイプなのだから」シャリア・ブル

大きい思想では運命を変えることはできない。運命を変えるには必然の網の目をぶち破ることができる唯一のもの「自由」こそが必要なのだ。

マチュの自由を求める強い心が大きい思想と運命を打ち破ることのできる新しいニュータイプ観なのだということを示したのが機動戦士Gundam GQuuuuuuX ジークアクスだ。

マチュがゼロキルカウントなのはみなさんご承知の通り。ガンダムシリーズはニュータイプ同士理解しあうことができるのに殺しあわなきゃいけないというジレンマを描いてきたが、ジークアクスでは理解しあえば殺しあう必要はないというところまで進んだのだ。理解しあっても殺しあわなきゃいけないのは「大きい思想」に従わされているからにすぎない。

マチュによって表現されるニュータイプ観は他者を抑圧し強制しようとする大きい思想を拒否し、運命=決定論を打ち破るものだ。そしてそれこそが真に自由と呼ばれるものなのである。

シャリア・ブルはマチュと共鳴しシャアのニュータイプ観から完全に脱することができたのだ。


あとがき。ジークアクスを2025年1月の公開から最終回6月の半年間楽しめたのは本当に幸せでした。なんか2016年7月にシンゴジラを見た時以来の熱狂の日々でした。もうこんなことはしばらくないだろうなと思えるほどの楽しさ。鶴巻和哉監督、脚本の榎戸洋司さん。スタジオカラー、サンライズのスタッフのみなさん(某弊社社長も)本当にありがとうございました。
posted by シンジ at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月26日

イプセン「野鴨」が裏テーマのリコリスリコイル

アニメ「リコリスリコイル」が大人気の内に最終回を終えたが、私も最初は楽しく見ていたものの、徐々に否定的になっていった、その変遷を抜き書きしてみる。

「先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い」(はてな匿名ダイアリー)


というリコリコに対する代表的な批判に対して、まだまだ寛容だった時↓

「リコリスリコイルに関するこの手の批判は
@1話目でこの世界がディストピアだと明示されている。
Aまだ6話なので結論を出すのは早い。
に尽きるが、ディストピア世界を自明のものとして進行していく作品には他にサイコパスなどもある。まだ6話目なので結論を出すには早いが、」

「私にとってリコリコはディストピアを自明のものとして進行していく「萌え」フォーマットの作品の一種だと思える。そうした作品を、この作品には深いテーマ性や社会的なメッセージがないと言って批判するのは単に「カテゴリーミス」としか思えない。」

「批評における「カテゴリーミス」とは例えばアガサ・クリスティーの作品にドストエフスキー的な深みのあるテーマがないとか、ミケランジェロと現代美術を比較して批判するようなことを指す。そもそもカテゴリーが違うのだ。これを批評におけるカテゴリーミスという。」

「とはいうもののリコリコのスタッフがこの先物語をどう転ばせていくかは誰にもわからないので、まずは終わりを見届けてから批評を始めても遅くはないだろう。」

とここまでは寛容というか鷹揚にかまえている。これが8話目になると・・・

「リコリスリコイル8話。めちゃくちゃよくできている。だがしかし、だからこそ「萌え」に頼らずアクションとプロットで勝負してくれ。萌えに頼るか、プロットによるかでアニメ史に残るか否かが決まる。」

作画も、演出も、美術も高水準なのにだんだん不安を感じていることがわかる。そして10話になると評価が一変する。

「リコリスリコイル10話。もともとガバ脚本なのには目をつむってきたが、ここにいたって段々きつくなってきた。設定がガバガバなのは受け入れる(そもそも少女暗殺者集団だしな・・)がストーリーの細部までガバになると・・・」

「創作物のセオリーとして大きな嘘をつくときは、小さな事実を積み重ねろというのがある。設定のリアリティラインは低くてもよいが(大きな嘘)、ドラマやアクションの細部はリアリティラインを高くする。リコリコはそれができているか?」

「あんな厳重な警戒態勢を敷いていながらあっさりタワーへの侵入を許すDA。そんなスーパーテロリスト真島のテロの方法が拳銃千丁を街にばらまくだけ(現代日本でも千丁ばらまいたって重大なことは起こらないでしょう)細部がガバだとすべてが台無しになる。」

ガバガバな脚本の荒に目が行き、評価が辛くなってくる。そしてついに11話では作品内モラルとの決定的な齟齬が生まれる。

「リコリスリコイル11話。本当にアクションは素晴らしいだけに、設定面が気になってしょうがない。この物語どう考えてもテロリスト真島が正義の味方であり、千束たちの所属するDAこそが悪の組織そのものなんだよね。そこらへんにムズムズして素直に楽しめない。」

「犯罪者を、法律も無視し、逮捕も起訴もせずにただ殺害するだけの組織と、殺害を実行する少女たちは、どう考えても悪の組織であり、革命を起こされる側の腐った体制側である。その体制を覆そうとしている真島は革命側であり、正義なんだよね。」

「このどんだけ腐った体制でも、平和と日常さえ維持できてさえいれば、それは尊いものであり、守るべきものであるという考えのアニメがリコリスリコイル以外にもある。「サイコパス」である。」

「アニメ「サイコパス」は大好きだし、傑作なんだけど、腐った体制を維持し続ける点にモヤモヤしたものを感じた。どうやらリコリコにもそうしたモヤモヤを感じることになりそうだ。」

リコリスリコイル12話ともなるともう評価は覆らないあきらめの境地に。

「リコリスリコイルはスーパーテロリストが銃を千丁、街にばらまくだけのスーパーテロ(笑)を起こしたあたりと、リコリコの存在が世間にばれて全員抹殺指令が出てるのに、実はリコリコはテーマパークの新しいアトラクションでした、で全国民納得する時点で、傑作からありきたりな萌え作品になった感」

リコリコ13話では制作者側の思想自体に問題があると考えるように。

「リコリコ13話。制作者のグロテスクな思想が垣間見えてきつかったな。千束の「世界を好みの形に変えてる間にお爺さんになっちゃうぞ」「世界がどうとか知らんわ」というのは作品で描かれるこの世界の人権無視、法治主義否定のファシズム体制の現状肯定という意味だからね。」

「千束の現状肯定はニヒリズムと表裏一体で、「この世界はこのままで完璧なんだから、一切変える必要はない」は、「この現実の世界にはなんの意味も価値もないのだから変える必要はない」と同義である。これが現状肯定のニヒリズム。」

「制作者は意図しなかったことだろうが、今、人権も法律も無視してロシアが侵略してる最中に、「どんな腐った体制でも、変える必要はないし、この体制を維持していきます」という主人公なのはバッドタイミングとはいえグロテスクすぎる。」

「リコリスリコイルに感じる、このロシアや北朝鮮をはるかに凌駕する極悪国家、ファシズム体制を命を懸けて守る意味ってなにかね?」

これ書き終えてしばらくしてイプセン「野鴨」が裏テーマなんだと気づいた。

イプセン「野鴨」とは。〜正義にとりつかれたグレーゲルスが虚偽の土台の上に築かれた家族を壊し、真実の愛という「理想の追求」を友人のヤルマールとその家族に強いた時、それまでのヤルマール家の幸福は崩壊し、悲劇が訪れる。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことになるんだからね」−「野鴨」より

これまったくリコリスリコイルやPSYCHO-PASSサイコパスのメッセージなのだ。

吐き気を催すディストピアであったとしても、そこで暮らす人々は幸福に暮らしている。だがしかし「正義」や「真実」に価値を置くならば、この虚妄に満ちた世界を破壊しなければならない。たとえ真実と正義のために人々の日常や生活や幸福が完膚なきまでに破壊されようと。・・・だがしかしそれは本当に正しいのか?

PSYCHO-PASSではこの社会のシステムが破壊されれば、大混乱が起こり、人々の平穏は一瞬で終わるがゆえに、シビュラシステムを温存せざるえない=このディストピアを続けていくほかないという答えにある程度の説得力があった。

しかしリコリスリコイルではそれほどの説得力はない。むしろ少女暗殺集団を国家が運営してること自体、なくしてしまったほうがいいのではないか?つまりこの虚妄の世界を維持し続けなければならないという理由がとぼしいのだ。

イプセン「野鴨」のテーマを突き詰めて考えているがゆえに、PSYCHO-PASSは傑作であり、おそらく制作陣が野鴨など読んだこともないであろうリコリコが浅い萌え作品のなったのは当然であった。

posted by シンジ at 14:23| Comment(1) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

現代ゾンビ考・アイアム・ア・ヒーローがもたらす新たなイデオロギー

現代ゾンビ考・アイアム・ア・ヒーローがもたらす新たなイデオロギー

今頃ドラマ「ウォーキング・デッド」を見始めて、やっぱりゾンビはのろのろ動くほうがいいな〜とつくづく思った。ダニー・ボイルの「28日後」(2002)からはじまった走るゾンビ、すばやく動くゾンビはザック・スナイダーの「ドーン・オブ・ザ・デッド」と共に新しいゾンビ映画のトレンドを作り出した。

しかし旧来のゾンビファンとしては、ゾンビがすさまじい勢いで走って追いかけてくるというムーブメントには正直疑問を感じていた。そこでドラマ「ウォーキング・デッド」を見て、やっぱフランク・ダラボンわかってるな〜と。

なんでゾンビがすばやく動くなどという非ゾンビ的ムーブメントが起きたかというと、端的に言って映画会社のビジネス的要請だろう。ゾンビがすばやく動けば映画にスピード感とサスペンス感が増す。映画のテンポを悪くする(!)人間ドラマをカットできるし、ゾンビがすばやく動けるだけでたいした演出の技量がなくても手っ取り早く興奮度が増すというビジネス的要請。映画の上映時間をできるだけ短くし、興奮度だけが増す興行的要請としてのゾンビのスピード化。

しかし、ゾンビスピード化はサスペンスとスピード感アップのために大事なことを忘れてしまった。ゾンビ映画の肝とは、ゾンビが「速い!怖い!」ではない。ゾンビが地上を埋め尽くす異常な状況下で最も恐ろしいのはゾンビではなく、人間だ。というゾンビ映画の創始者ジョージ・A・ロメロの思想がないがしろにされているのである。

ゾンビものの基本原則とは「真のモンスターはゾンビではなく人間である」ということに他ならない。

その基本原則を忘れず忠実に描いたのが「ウォーキング・デッド」である。大変好ましい作品といえよう。基本原則を忘れてスピードアップとサスペンス醸成のために最も重要なテーマを忘れたゾンビ物など見るに値しない。

ゾンビスピード化という世界的トレンドの中、それに呼応して描かれたのが花沢健吾「アイアムアヒーロー」という漫画だろう。しかし花沢はスピード化に呼応するとともに、まったく新しい思想をゾンビものに持ち込んだ。それは人類の進化にともなう「移行期的危機」としてのゾンビという思想である。

人類の歴史的変化としての「移行期的危機」という考え方はエマニュエル・トッドの「文明の接近」から得た。トッドは今起きているイスラム原理主義者のテロや中東の民主化を「近代化」という同じ歴史の流れとして捉えている。これら中東の混乱はすべて近代化へとつながる歴史的必然であるというのだ。トッドの分析を簡明に解説するとこうだ。

@教育による女性の識字率上昇

A女性の識字率が高まると女性の社会進出が増加する。

B女性の社会進出が増加すると出生率が下がる。

C女性の社会進出と出生率低下によって男性権威が失墜し男性中心主義社会が崩壊する。

D社会混乱

E近代化へ

この識字率上昇→出生率低下→社会混乱というコンボはフランス革命やロシア革命でも証明されている。

今、中東で起こっていることは、かってフランスやロシアや日本で起きたことが遅れてやってきただけなのだ。それまでの伝統社会が変化を迫られ、近代社会に移行するとき、社会は必ず流血と混乱の局面に入ることをトッドは見事に論証している。

アラブ世界によるイスラム原理主義の動きは決して歴史の退行や逆行を意味するのではなく、近代化の生みの苦しみであり、近代化へといたる避けては通れない「移行期イデオロギー」の発露なのである。このテロや騒乱を経て旧来の伝統社会は近代社会へと移行するのである。

「アイアムアヒーロー」もまったく同じである。旧来の世界から、新世界へと移行するその移行期的危機をゾンビを通して描いているのだ。それを「アイアムアヒーロー」は旧人類から新人類へのメタモルフォーゼとして描く。新人類とは女子高生の比呂美であり、来栖(クルス)のことである。彼らはゾンビウィルスに感染したにもかかわらず発症せず、人間を超越した能力を手に入れる(人間をはるかに超える膂力、言葉を通さないコミュニケーション能力など)。旧人類から新人類への「移行期イデオロギー」としてのゾンビ「ZQN(ゾキュン)」なのだ。

「アイアムアヒーロー」をトッド風に(マルサス風か)分析してみよう。
@人口の爆発的増加

A食料や資源の不足

B飢餓や資源争奪戦争

C人工的あるいは自然的、どちらかの介入によるゾンビウィルスの発生。

D社会混乱

E人口は抑制され新人類の誕生へ

Cの人工的介入はどこかの国が作成したウィルスが外に流出した場合。自然的介入はいわゆる自然の摂理=神の介入のこと。
ゾンビは増えすぎた人口を抑制するためと、人口が激減した後でも生きていける超越した能力を持つ新人類を生誕させるための移行期的危機といえるのだ。
Eに関しては楽観的な見方が人口の抑制と新人類の誕生。悲観的な見方だと人類は絶滅するか、生き残っても新人類の奴隷となる。

人類が伝統的世界から近代的世界へと移行するとき多大な犠牲を出すことは歴史が証明している。「アイアム・ア・ヒーロー」が描くのは近代的世界というシステムから人類のメタモルフォーゼによってまったく別の世界へと姿を変える移行期的危機である。「アイアム・ア・ヒーロー」はゾンビを人類の移行期的危機=移行期イデオロギーとしてとらえた事により新しい息吹をゾンビものに与えたのだ。
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2013年10月11日

特別なものなどなにもない。吾妻ひでお「アル中病棟」

特別なものなどなにもない。吾妻ひでお「アル中病棟」

吾妻ひでお「アル中病棟」を読む。

何がすごいって、これだけ悲惨な状況にもかかわらず、自己憐憫なし、自己絶望なし、ルサンチマンなし。「わたくし」漫画にもかかわらず自己言及をサラリとかわして自己も他者も、はては死すら等間隔に描く。

「わたくし」小説なり漫画なりになると、自分だけが特別な存在であり、憐れな存在であり、そんなかわいそうな私を疎外するのが無理解な他者や社会であるという風になりがちである。

しかしそんな自己憐憫、自己嫌悪、ルサンチマンといった、「わたし」「私」「自分」「自己」で埋めつくされる「わたくし」系の陥穽をヒラリといともたやすくかわしてしまうのが吾妻ひでおである。

吾妻は「わたし」と「あなた」をまるで同じようなものであるかのように描く。アルコール中毒患者の人々はみな愚かで滑稽な人々ではあるのだが、吾妻は誰一人としてわけへだてすることがない。もちろん吾妻自身もその滑稽な人々の中に含まれているからだけではなく、その徹底した等間隔の視線の先には読者すら含まれるかのようだ。

この自分を一切特別視しない等間隔の視線。バケツの中にいる虫たちをバケツの上からのぞきこんでいるかのような視点。かといって冷たい酷薄な視線でもない。なぜならそのバケツの中には吾妻自身もいて、我も他者も等距離で見つめているからだ。

そうした吾妻の視線、すべてものを等間隔に見つめ描くということは必然的にすべてのものに対する価値、貴賎、好悪を度外視して描くということになる。つまりこの世界に特別な存在などないのだ。

特にこの作品の中で強烈な印象を残す「浅野さん」。サギ、タカリ、部屋で小便などその人間のクズっぷりには呆れるばかりだが、吾妻の視線は浅野に対する嫌悪よりも好奇心=観察がまさっている。吾妻がめずらしくはっきりと「私は杉野が嫌い」という杉野ですら意外なことに決して嫌な男としては描かれていない。吾妻が人を人としての価値や貴賎、好悪を度外視して見ているのは明らかだ。

AA(アルコホーリクス・アノニマス)で話される壮絶な不幸や死ですら特別なことではない。船長と呼ばれるアル中で片足を失ったAAの議長はあっけらかんと話す。

「T川のヤマ
酒瓶のころがったアパートで一人こたつに入って死んでるのを1ヶ月たってようやく発見されてな。
冬だったから上半身はまぁまずきれいだったがこたつに電気入ってたから下半身は・・・んじゃ次の人」

「死」すら特別なことではなく、「すぐそこにある」ことでしかない。なにひとつ特別なこととして描かれることはない。

最高におかしい場面がある。お金に困った吾妻が中野のまんだらけで精神病棟で描いた鉛筆デッサンを売りに行くと、本物か?と疑われ買い取ってもらえないのである。本人が売りに行ってるのに!この場面見ようによっては相当悲惨な状況である。たとえば西村賢太あたりの私小説家ならこうした状況を憎悪と自虐と自己嫌悪とルサンチマンにまみれた文章にしてしまうだろう。だが吾妻ひでおはさほどの屈辱感も感じずに

「俺も落ちる所まで落ちたって感じ?さわやかだけど」

とあっけらかんとしたものである。

バケツの上からバケツの中にいる虫をながめるように自分を見つめていられる感性は稀有としかいいようがない。自分ですらこの世界では特別な存在ではないのだ。

草も木も、うんこも(黒田さんの)、アル中も、犬も猫も、生も死も、この世に存在するものすべては特別ではない。それはひるがえせば、この世界にあるものすべては一人一人、ひとつひとつが特別であるということにもなる。すべてのものが特別でないなら、すべては特別となる。吾妻ひでお「アル中病棟」の世界では、すべての人が特別でない特別の世界を生きるのだ。
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2012年04月20日

Hunter x Hunter論 メルエムはイエスである

冨樫義博「Hunter x Hunter」30巻を読んであまりにも深く、激しく動揺してしまう。それはそこに感情移入していた登場人物の死が描かれているからというわけではない。ここには「悲しい死」ではなく、もっと別のことが描かれている。そこに描かれているのは・・・

「メルエムはイエスである」 ー このことである。

おかしなことを言い出す奴だなと思われるかも知れません。いったいメルエムのどこがイエスだというのか。私はイエスを「イエス」たらしめているのは三つの愛だと考えます。メルエムはそこに重なるのです。

「イエスの三つの愛」
その一。「贖罪の愛」いけにえ性としての愛
イエスはほとんどいいがかりのような罪をきせられ、無残にも十字架上で処刑された。一時はイエスをメシアと持ち上げた民衆からは足蹴にされ、イエスを慕った弟子たちもみなイエスを裏切った(裏切ったのはイスカリオテのユダだけではない)。十字架にかけられたとき、イエスはなんと言ったか。

「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・34)

イエスは自分を死刑にしろと扇動した民衆を赦し、裏切った弟子たちをも赦した。キリスト教とはイエスの弟子たちが、このイエスの無残な死を「なぜ?」と問い続けることによってできた宗教だといってよい。弟子たちは考え続けた、なぜイエスは死ななければならなかったのかと。そしてその答えこそ、愚かな私たち人間の罪をあがなうために死んだのだという考えだ。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のためのあがないの代価として、自分の命を与えるためなのです」(マルコ10・45)

愚かな人間たちの積み上げた罪過という名の借金を、イエス自らいけにえとなり、命を捧げることによってその借金を帳消しにしたと考えるのだ。

メルエムもまた愚かで残酷な人間の作り出した悪魔兵器によってその命を奪われつつあるにもかかわらず、それを赦し、そして人間であるコムギを愛する。人類の罪業を赦し、愛し、そして無惨に死ぬのだ。まるで人間の罪をあがなうためのいけにえのように。

その二。「愛敵」範囲性を無化する愛。
スピノザはキリスト教において重要なことは二つしかないという。それは神への愛と隣人愛である。そして神への愛を証明するのは隣人愛しかないという(神学政治論)。では隣人愛とはなんだろうか。隣近所の人を、知人や友人、家族を愛せということだろうか。辻学「隣人愛のはじまり」はそういう考えを根底からひっくり返す。 ー イエスは隣人愛に批判的だったというのだ。

それを如実に示すのがルカによる福音書の有名な良きサマリア人の話だ。

ある日ユダヤ教の律法学者がイエスを試そうと論争を挑む。「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいでしょうか」。イエスは冷ややかに「律法には何とかかれていますか」と質問をかえす。律法学者は「神を愛し、隣人を愛すことです」と答える。もともと隣人愛の教えはユダヤ教から来ている。

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいーレビ記19・18

イエスはいかにもめんどくさそうに「ああ、あなたの言ったことはあってるよ」と律法学者を追い払おうとするが、律法学者は食い下がり「では、私の隣人とは誰ですか?」と聞くとついにイエスはブチ切れるのだ!

道ばたに強盗に襲われ半死半生の人が倒れている。そこをユダヤ教の祭司が通りかかったが、無視して行ってしまった。もう一人ユダヤ人がそばを通りかかったが彼も無視して通り過ぎた。だが、通りすがりのサマリア人だけは倒れた人を介抱してやり、宿屋に泊めその代金まで支払った。この三人の中でいったい誰が倒れた人の隣人か?と問うイエス。律法学者はしぶしぶ「その人を助けた人です」と答える。

なぜイエスはサマリア人という具体的な民族をあげたのか。当時サマリア人はユダヤ人に蔑視され差別の対象となっていた人たちだからだ。

ユダヤ人と「隣人関係」にあるとは思えないサマリア人が、民族の垣根を越え、ユダヤ教の掟が命じる隣人愛を実践するという皮肉。「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスの反問の前で、「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の問いが持つ無意味さが露呈する。どのような人間が「隣人」として愛する対象になるのかという律法学者の問いに対してイエスは「隣人」の範囲を限定するという前提そのものを拒むー辻学「隣人愛のはじまり」

ユダヤ教徒は隣人愛を説きながら現実にはサマリア人を、収税人を、娼婦を徹底的に差別していた。イエスにとってユダヤ教の隣人愛とは、愛の範囲を限定する許し難い考えでしかなかったのだ。そこでイエスは隣人愛を批判し、隣人愛の範囲性を打ち砕く究極の思想を説く。それが「汝の敵を愛せ」という思想ー「愛敵」である。

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。ーマタイ5・43ー44

愛敵はまさに隣人愛の範囲性を木っ端微塵に打ち砕く。イエスにとって愛する対象を限定することは馬鹿げたことでしかない。自分の友人や家族を愛することは悪人でもできることではないか。愛の範囲性を無化する愛敵という破壊的な思想。しかし愛敵とは果たして可能なのだろうか。マーティン・ルーサー・キングは愛敵を「おそらくイエスの訓戒の中で「汝の敵を愛せよ」という命令に従うこと以上にむずかしいことはないであろう」という。

だが、この難しく、不可能な決断をした者がいる。自身にとって家畜にも劣る存在であり、同じ種族同士で殺し合うような唾棄すべき敵ー人間を愛したのは誰であったか。種族の違いを超え、敵であることも越えて愛した者は誰か。いうまでもなくメルエムである。

その三。「永遠の愛」時間を無化する愛。
永遠とは何か。永遠とは時間が無限に続くことではない。永遠とは時間を超越していること。無時間性のことである。キリスト教最大の「教父」アウグスティヌスは時間的なものと永遠なものとの違いをこう言っている。

時間的なものは、得られない間は愛されるが、得られるとはなはだしく価値を減じる。永遠なものは、得られたときには欲望の対象であったときよりもいっそう熱烈に愛される。ー省察と箴言

例えるなら、子供がおもちゃを見て「あれが欲しい!」とダダをこねる。泣き叫んでそれを熱烈に欲しがるが、そのおもちゃを手に入れた途端、すぐに興味を失い、放り投げて見向きもしなくなる。時間性の愛とはそれを手に入れた途端、価値がなくなり消え失せるもの。生成し、消滅するものでしかない。

時間とは、生成し、消滅することの繰り返しをいう。もっとくわしく言えば、生成し消滅するのは生命のサイクルで、そのサイクルを「知覚」すると「現在」となり、「期待」すると「未来」になり、「記憶」すると「過去」になる(アウグスティヌス「告白」)。アウグスティヌスは時間は心そのものの延長だといい、コジェーヴは「時間は人間の外には現存在しない。したがって人間が時間であり、時間は人間である」という(ヘーゲル読解入門)。

いうなれば、人間は生成と消滅のサイクルの中にいるかぎり、時間の外に逃れることはできないのだ。だがしかし、そうだからこそ、こういう考えもできる。 ー 人間が時間的存在であり、時間は人間の外には存在せず、時間が心の延長であるなら、心が変われば時間の外に出られるということにはならないだろうか。

そしてそれは実際に可能である。ハンターXハンター30巻中感動必至の名場面がそれである。

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メルエム(・・・そうか、余は)

コムギ「ワダすは、きっと この日のために生まれて来ますた・・・!」

メルエム(この瞬間のために生まれて来たのだ・・・!!)

この感動的なシーンはおそらくドストエフスキーのこの場面に影響を受けている。

「ああ、この一瞬のためなら全生涯を投げだしてもいい!」とはっきり意識的に言うことができれば、もちろんこの一瞬それ自体は全生涯に値するものなのである。ードストエフスキー「白痴」


愛が極限まで一点に集中し、この瞬間のために自分は生きてきたと自覚するとき、メルエムとコムギの愛は時間を超越する。たとえ二人が百年生きようと、千年生きようと、その生涯の価値すべてをあわせても、二人が愛するこのほんのわずかな一瞬を上回ることはない。この一瞬こそが、千年を、万年をも超え、時間の外へ飛び出る至高の瞬間なのだ。これが時間を無化する愛。永遠の愛の本当の意味である。

では最後にメルエムがイエスであるという決定的な証拠をお見せします。

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ジョヴァンニ・ベリーニ「ピエタ」

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ミケランジェロ「サン・ピエトロのピエタ」

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メルエムの亡骸を抱くコムギのピエタ

「ピエタ」とは聖母マリアが死んだイエスを十字架からおろして抱く姿である。つまり母親が無惨にも殺された息子をかき抱いているのである。これほど悲しくつらい場面があるだろうか。しかし不思議なことにピエタ像に悲しみや絶望は見られない。なぜならこの愛は生成や消滅といった時間性を超越している愛。永遠の愛だからである。
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2010年03月15日

漫画家冨樫義博の作劇術その2

ヘタッピマンガ研究所Rの冨樫義博インタビューその2

インタビューその1「天才冨樫義博の作劇メソッド」はここ

ネームの真理に最も近い男と呼ばれる「HUNTERxHUNTER」の冨樫義博先生に直撃インタビュー

編集者サイトウ「先生!ストレートにお聞きしたいんですけど!」

冨樫義博「ハイ何でしょう」

編集「新人の頃これはやっといた方がいい!って事何かありますか!?」

冨樫「そーですね、僕は最初担当さんに面白くない映画を沢山観ろって言われましたね。短編小説読むのと同じで自分ならこうする、こうすれば面白くなるっていうのを観ながら考えてメモっていくんですよ。それはもう今後一切物語に没入して楽しむことはできないぞっていう覚悟の元にね。今では面白い映画もそういう観方しかできなくなったのは寂しいですけど」

編集「先生的にありもののストーリーを自分なりにアレンジするって訓練はオススメなんですね!」

冨樫「あーいやオススメというか、まぁ色んなモノを分析したり分類するのは大好きですけどね、たまにその分類に当てはまんないヤツをどーすればいいんだ!とかね。でもね、今言った訓練もあくまで僕はこうして来たってだけの話であって結局他の人には当てはまらなかったりするんですよ。自分なりの漫画作りのマニュアルを作った時にもそれは感じました。説明してもピンとこないって感想のアシさんもいましたからね」

漫画家村田「でもどの先生にも共通する漫画の秘訣として『キャラクターが重要』っていうのがありますよね。キャラクター作りについてなら誰にでも共通する理論とかあったりするんじゃないですか?」

冨樫「いやーそれこそまちまちだと思いますよ。教えられるのはキャラの人柄を読者にうまく伝えられる手練手管まででね、キャラの人柄自体は大抵作者の人柄を反映したものになりますから、それは教わってどうにか出来るものではないですし」

村田「あ、あのじゃあ先生の手練手管は例えばどんなものが・・・」

冨樫「あ、基本的には漫才ですよ。大好きなんです漫才」

編集「えっ、ハンターってめちゃシリアスじゃないすか!?」

冨樫「基本的にはこう・・・ネームにする前に紙にキャラ達のセリフのかけ合いを書き出すんですよ、ザーっとね。その中でキャラ同士がそいつらしさを守った上での最良の一手をボケツッコミみたいな感じでバンバンかぶせていくんです。そんで論理展開させてってー最後は主人公がそのずっと上をゆく解(オチ)を打ち出す!そんな感じです。これならそれぞれのキャラも引き立つし主人公も立てられるでしょ。ハンターの序盤は特に意識してそういう作り方をしてましたね」

編集「おおおお、レオリオとクラピカが登場する回とか『ドキドキ二択クイズ』の回ですね、たっ確かにそんな構成になってますよ・・・!うおーっハンターの面白さの秘密をちょっとだけ知ってしまった!!」

村田「・・・でも相当な切れ者を描ける人じゃないとこの手法って使えませんよね・・・アホ同士の心理戦なんて見たって・・・ねぇ」

冨樫「いや、あの、論理展開だの堅っ苦しい言い方しましたけど、基本はキャラ達と相談する感じでやってますよ」

編集「相談・・・?」

冨樫「ええ、例えばキャラが二人いて片方が『俺はこっちに行って戦う』もう一方は『俺はこっち』と別行動する展開にしたいとしますね。作中では省略されていてもそういう展開になるまでの経緯をセリフのかけ合いとして紙に書き出してみるんです。ホントにそんな結論になるのか?という検証作業みたいなもんですね。その過程で『あ、こいつの性格だとこっちに行きたいとは言わないな』となったらその展開はボツにします」

編集「こだわりですね〜」

冨樫「ていうか僕自身そういう事やっとかないと不安なんですよ。そいつがちゃんと生きてて自分で判断してる様に思えないと・・・」

編集「いや〜も〜生きてるも何も・・・むしろ尊敬しちゃうくらいの奴がいっぱいいますよねハンターって」

冨樫「で、そういう判断ってギリギリの死線をくぐらせた方が際立つじゃないですか、そういうとこにチャレンジしたいなっていうのは常々思ってたんですよ。というのもね、ヒーロー戦隊ものってあるでしょ?あれ子供の頃始めて観た時にポーズ決めてる主人公に一切手を出さない敵に納得がいかなかったんですよ。逃げもしないし、敵が自分の能力や弱点を大事なとこでペラペラ喋っちゃったりとかね。子供ながら理不尽すぎるだろって思ってたんです。だからなるべくそうしたくはないんですよ、全員が死力を尽くしてる感じを大事にしたいというか・・・」

編集(う〜ん確かにハンターのキャラは全員智将の風格だもんなー敵も味方も。キャラの人柄は作者の人柄か・・・)

村田・サイトウ「どうもありがとうございました」

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前回のインタビューよりストーリー作りの核心に迫る話があったと思う。漫才の手法を使ったキャラ作りがそのままプロット作りに直結するところなど非常に興味深い。キャラクターの性格を突き詰めて考えていくうちにプロットが出来ていくという。

映画でも登場人物がここは当然こうすべきだろうと観客が思っているところを、まるでトンチンカンな行動をされると一気に冷める時がある。映画の中の登場人物が映画を観ている自分よりバカだとイライラするのだ。

漫画にも当然そういうところがあって「アホ同士の心理戦」なんて誰も観たくないのだ。どの漫画とは言わないが。
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2010年03月02日

細田守の最高傑作「どれみと魔女をやめた魔女」その恐ろしさについて

これほど恐ろしい作品をいまだかって見たことがない。おジャ魔女どれみドッカ〜ン!の第40話「どれみと魔女をやめた魔女」細田守演出回のことである。

どれみは魔女見習いの少女。学校から帰宅途中ふと遠回りをして不思議な家を発見する。そこには魔女をやめた魔女、未来(みらい)さん(原田知世)が住んでいた。自宅に溶解炉があり、そこでガラス工芸をしている魔女。

引っ越してきたばかりの未来さんに街を案内するどれみ。美空町で一番夕焼けが素敵な海の見える高台に案内してもらった未来はお礼に自分で作ったビー玉をどれみにプレゼントする。

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未来「ガラスってね、冷えて固まっているように見えて本当はゆっくり動いているのよ。ただし何十年も何百年も何千年もかけて少しずつゆっくりと。あんまりゆっくりなんで人間の目には止まっているようにしか見えないだけ。でも何千年も生きる魔女はガラスが動いているのを見ることが出来る。いずれ私もそれを見る」

この作品を支配する最も重要なセリフがこれだ。このガラスの性質を言いあらわした言葉こそ魔女の世界を端的にあらわした言葉なのだ。ガラスの性質とはー

ガラスをいくら冷やし続けても、結晶化はしない。固体の定義である、温度低下に伴う結晶化が見られないので、ガラスは個体の仲間には入れないのだ。そのためガラスは異状に粘度が高く、剛性がある不思議な液体、ということになる。ですから、長い年月がたつうちに、少しずつガラスはたれてくる。一番良い例が、長い年月を過ごしてきたステンドグラスです。ちょっとみただけでは判りませんが、上に比べればやや下側が厚くなっている。ーステンドグラス〜ガラスが描く世界より抜粋

つまりガラスというのは、固形物のように見えながら実際は長い年月をかけてゆっくりと動く液体。どれみと魔女をやめた魔女は明確にガラスが魔女の永遠の生命のメタファーになっている。

永遠に生き続けるということは周りから見れば止まった時間を生きているように見えるが、実際は周りとは違うゆっくりと進む時間の中に生きている。つまりガラスは現世に存在していながら、現世とは完全に違った時間を生きている魔女のメタファーである。

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金魚鉢のガラスから透けて見えるどれみ、理髪店のポール、波ガラスを横切るどれみ。ビー玉をのぞくどれみに、ガラス細工を生業とする魔女。

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細田守は執拗なまでにガラスの反射と、ガラスから透けて見えるどれみとその世界を描写する。現実に存在しながら現実とはまったく違う時間を生きているガラスが現実と魔女の住む世界との差異を表すのだ。

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「何千年も生きる魔女はガラスが動いているのを見ることが出来る。いずれ私もそれを見る」

この未来さんのセリフはそのまま、ガラスが動いているのが見えるほど私は何千年も生きてきたという意味だろう。だがこのシーンは異様に死の香りが濃厚で、まるで遺言のようにしか聞こえないほどゾッとするほどの響きがある。

そこにあるのは永遠の孤独、絶望の響き。死なないこと、永遠に生きることが喜びも幸せもない、ただ永遠に続く苦痛でしかないことを匂わせる、これはそんな言葉だ。

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翌日、どれみは再び未来宅を訪れ、三面鏡のなかにびっしりと貼られた写真を見る。それはすべて未来が過去にかかわった人たちの写真。そこにかって未来が愛した男の写真があったが、未来はその恋をあきらめたという。どれみはなぜなのかわからない。未来はどれみと記念写真を撮りながら言う。

未来「町から町へ、国から国へ、すぐ引っ越しちゃう」

どれみ「ずっと同じとこにいてもいいじゃん」

未来「それはね、同じ人間といるといろいろ不都合があるからよ。だって、あなたも魔女になるなら・・・」


ハッとして口ごもる未来。この娘はいまだ魔女の過酷な運命を知らないのだ・・・。永遠に生き続けると言うことは永遠に年を取らないということでもある。だから魔女は決してひとつ同じ場所に居つづけることは出来ないのだ。

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うっとりするようなガラス工芸の行程をじっくりと見せるシーンが続く。これが20分程度のアニメとは思えないほどの贅沢な時間の使い方。どれみが友達はみんな目標があるのに自分だけは何をやっていいかわからなくて、何も見えないと未来に悩みを打ち明ける。

どれみが何も見えない(自分の未来が見えない)というのに対し未来は何も見えなくていいじゃん、とあっさりという。

なぜ未来はどれみに対して何も見えなくていいと素っ気なく答えたのか、それは魔女の先には過酷な運命しか待ち受けていないことを知っているから。そして幼い子供であるどれみにそんな過酷な運命を背負わせることの残酷さも。未来はどれみの悩みに答える代わりにグラスの縁をなでて不思議な音色を奏でる。

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まるでこの時この瞬間が永久にパッケージされたかのようなガラスの音色。このとき未来はどれみに呪いをかけたのだ。ガラスの時を生きる魔法を。

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ガラス工芸の作業が終わると、未来はどれみにまた引っ越すことを告げる。ヴェネチアにいる、かって愛した男が90歳となり未来にこっちで勉強しないかと言ってきたのだ。

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未来「彼は今、私のことを昔好きになった人の娘や孫だと信じてる。だから、私も彼が昔好きだった人の娘や孫を演じ続ける」


かって愛した男が今は死の間際にいる。未来はそれを知り、その死を看取りに行くのだ。自分はその孫と偽って・・・。これが魔女というあまりにも残酷な現実だ。そして未来は思いがけないことをどれみに言う。

未来「あなたは人間で、まだ魔女見習い。魔女の世界を知っているようで実はガラス越しにしか見てないようなもの。でも、もしその先を見てみたいなら、ヴェネチア、私と一緒に来る?」

ここで未来はどれみにあまりにも過酷な決断を迫るのである。私と一緒に来て、魔女の本当の世界を知る?と。

その言葉が何を意味するのか。それは今どれみが住んでいる土地を離れ、家族や友人たちと別れて、永遠の時を生きる魔女となるということ。現世を捨て、もはや普通の人間との関わりを捨てた彼岸の世界への旅路を意味する。

未来は明日必ず来てという。明日がその旅立ちの日だという。

どれみは家に帰るが、家族の団らんがとても遠くに感じられる。まるでもう自分とは関わりのない人たちのように感じられて・・・。なぜ少女がこのような苦悩を抱えなければならないのか?いままでどおりみんなと一緒に魔女修行をしていれば魔女になれるはずではないか。

だが、どれみは思い悩むのである。家でも学校でも周囲から隔絶した時の中で苦悩するどれみ。それこそが未来のかけたガラスの魔法。現世とは違う時の中を生きる魔女の呪い。

そして次の日、夕闇、黄昏時。いつもの五叉路に立ったどれみは決断を迫られる。左にゆけばいつもの平和で穏やかな日常が待っている。暖かい家族、楽しい学校、にぎやかな友達。そして右にゆけば、それらすべてのものと別れ違う世界へと行くことになる。

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そして、どれみは決断する。現世を離れ、魔女の世界、彼岸の世界へと飛び込むことを。一人の少女がはじめて安穏とした道、通い慣れた道ではなく、明らかに苦難が待ち受けている道を選ぶのだ。

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その決断のなんと重い事か・・・彼女は家族を、友達を捨て、未来とともに魔女として永遠の時を生きる事を決断したのだ。

このような彼岸への旅路といってもいい決断を幼い少女にさせる物語は異常である。

魔女として生きるということはどういう事か。それは永遠の時を生きること。永遠の時を生きることとは、無数の苦痛と無数の死を通過する事である。それはまさに死出の旅路といって差し支えない。

それも永遠に終わることのない死出の旅路である。

だが、どれみが必死の思いで決断した時、未来は去っていた・・・。未来にはどれみを最初からヴェネチアに連れて行く気はなかったのかもしれない。未来はただどれみをためしただけなのかもしれない。魔女になる事がどんなことか理解できないであろう子供に対して、永遠に生き続ける事が終わりのない死だということを。そのことを受け入れる覚悟があるのかどうかを。

そしてどれみは幼いながらもその覚悟を示した。どれみは家族や友人という現世への執着を捨て永遠の魔女の孤独という彼岸への道を選んだのだ。幼い少女にこのような決断をせまる細田守の残酷さに呆然とするほかない。

だがしかし、未来はどれみに魔女の世界の一端を見せただけで去った。そして少女はいつもの日常へと帰って行くのだが、ふと私は想像するのだ。本当に未来はどれみをためしただけで一緒に連れて行く気はなかったのかと?

未来さんは穏やかで優しい魔女?。何千年もの想像を絶する長い年月を生きてきた人ならざるモノが、人間の価値観や道徳観ではかれるようなものだろうか。一人の少女の運命をもてあそぶことに蚊に刺されたほどの痛痒も感じないと考えるのは間違いだろうか。

私は恐ろしいのだ、未来のなかにエゴイズムはなかったのか・・・永遠の孤独に耐えかねた魔女がその孤独をまぎらわすために少女を巻き添えにしようとしたエゴイズムが本当になかったといえるのかと。

グラスの縁をなでた時、未来は確かにどれみに呪いをかけた。
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最後どれみは日常へと帰って行くように見える。だが、そこはどれみにとってのいつもの日常ではない。すでにどれみの時はガラスの時に浸食されている。いずれ家族が、友人が、恋人が遠くに去り、永遠の孤独がどれみを蝕むだろう。

私は慄然とする。一人の少女が世界を転々としながら、誰にも関わらず、誰も愛さず愛されず、永遠に終わることのない旅を続けている姿を想像して。

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おまけ・細田監督がブログなどでよく見せるポーズ

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これどれみのポーズと一緒ですね。ディープな細田ファンなら知っていたのでしょうが、自分はおジャ魔女どれみを見て初めて気づきました。

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posted by シンジ at 19:39| Comment(29) | TrackBack(1) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月16日

天才冨樫義博の作劇メソッド

週刊少年ジャンプ3月1日号ヘタッピマンガ研究所R・STEP16「冨樫先生に突撃取材!」は冨樫ファンにとって見逃せないマンガだった。前回のSTEP15では冨樫先生のことを

同業者の作家たちにとって冨樫義博は「ネームの真理に一番近い男」と言われている


と評したヘタッピマンガ研究所であるが、今回はより深く冨樫義博の作劇術に踏み込んでインタビューしている。


冨樫・漫画の技法を理論化するのは僕好きなんで

研究所・そういえば、冨樫先生の仕事場のスタッフさんだけに伝えられる、冨樫流ネーム虎の巻もあるって噂を聞いたんですが・・・昔先生が体調を崩して入院された時、連載で身につけてきた漫画作りのあらゆる技術をノートに書きとめたそうなんです。もし自分がこのままリタイアしてもアシさん達が食うに困らないようにと・・・

冨樫・いやーっいやいやいや、時間を持て余していただけですよ!

研究所・あのそれ・・・是非ひと目・・・

冨樫・いや、それがね〜字が汚すぎて僕しか読めないって有様で

(ちなみにこの虎の巻、部外者で内容を知る人間は原作者の稲垣一郎先生だけ。あるスタッフさんにこっそり見せて貰ったとの事であった)

研究所・そういうご自身の技術を理論化するという事はいつ頃から意識されていたんですか?デビュー作の「てんで性悪キューピッド」の頃から一話一話メチャクチャ綿密に、論理的に作ってあるなって印象だったんですが

冨樫・あーっあれね、うんっ(ゴホゴホ)ウ冠の富樫さんの作品ですけど

研究所・はい?

スタッフ井上・先生の中であの作品なかった事になってはるみたいなんですよ。

研究所・え・・・ええ!?そうなんですか!?

冨樫・もーそれっくらいね、打ちのめされたんですよ、毎週一話漫画を作る事の難しさに。その頃かなぁ、このままじゃイカン!って話作りのメソッドを本腰入れて組み立て始めたのは。初代担当の高橋さんの助けもあったんですけど。

研究所・具体的にはどんな事をされてたんですか?やっぱ本読まれたりとか・・・?

冨樫・そうですね、映画の脚本家の入門書なんかも読んで、そこにある技術を自分の中で消化したら自分なりの名前をつけたりしてね。いかにも私が考案しました!みたいにね。小説なんかだと時間がないから30ページくらいの短編をいっぱい読みました。筒井康隆さんとか最近だと平山夢明さんとか。

研究所・あ、平山さん!某先生も冨樫先生が読まれてるって聞いたら速攻買ってましたよ、あの人が読んでるなら絶対勉強になる!って。

冨樫・忙しいと長編小説ってちょっとわずらわしくて、中断すると内容忘れちゃったりするから、次読むとき結局最初っから読むハメになっちゃう。どんどん短編中心になって、しまいにはホント2,3ページで終わるような短編に移ってったんですよ。むしろ自分の中でそれを長く伸ばすんだったらどう膨らますかとか、そんな事を考えながら楽しんでました。

研究所・達人ともなるとそんな楽しみ方ができるんですね〜。

冨樫・あ、楽しむといえばね、「ハンター」の着想のきっかけになった趣味がありまして・・・

研究所・あっ、立て看板のコレクションっすね!(店頭等でよく見る等身大ポップ)変わったご趣味だな〜と思いましたが。

冨樫・まあ当時の担当さんにも怪訝な顔されましたけど。でもね、その集める過程が面白かったんですよ。レアもの探しはもちろん、金額の交渉になる事もたまにはありました。タダで譲ってくれる方もいれば絶対ダメ!って方もいて、そういう方はもう会った瞬間にわかるようになってましたね最終的には。

ーこれは今、手もとに単行本がないので(ダンボールの奥底にあるので探したくないw)巻数はいえませんがオークション篇で骨董品の取引を描いた場面に生かされていますね。しかしあの値段の駆け引きが実は冨樫先生の立て看板コレクション収集の駆け引きを元に描かれていたとは・・・面白いぞ先生)ーシンジ


研究所・コレクターの世界ですね。言われてみると「ハンター」って基本裏モノ探しの職業ですもんね。じゃあそれから色々なコレクターに取材されたりとか?

冨樫・いや、僕そういう事はあまりしないんです。基本的にウソが好きなんですよね。そこにどれだけ説得力を持たせるかって所に力を注ぐ方で。その辺については僕なりのコツというか・・・遊びがあるんです。

研究所・と、いいますと!?

冨樫・たとえばどこかで聞きかじったその世界の用語とか隠語とか、作中で使いたいな!と思ったときはなるべく自分で作った造語に置きかえたりして使うんです。そうして設定を組み上げていくと大ウソがポンとまぎれてももっともらしく思えたりするんですよ。ー3月号につづく

インタビューのその2はこちら「漫画家冨樫義博の作劇術その2」

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小さな事実を積み重ねていき大きなウソをつく。冨樫先生の話は作劇の基本ですね。以前にも書いたのですが、冨樫先生のスタイルとはプロット主義だと思う。プロットとはストーリーのことではなく

プロットとは・・・ひそかな計画、悪意のあるたくらみ、陰謀、策略のこと


プロットとストーリーの違いを小林信彦はこう書いています。

−美しい女の子Bは青年Cのフィアンセだった。その女の子Bに、青年Cの友人Aが惚れた。
これがストーリーなら
−青年Aは知り合った女の子Bに惚れて、友人Cに紹介した。ところが、実は、女の子BはCのフィアンセだったのである。
ごく単純な例をあげたが、これがプロットである。同じことを書いているようだが、プロットの方には<実は・・・>がある。−小林信彦


冨樫義博ほど読者の裏をかこうかこうとたくらむ漫画家を私は知りません。伏線の張り方の巧みさ(それも何巻先も見据えたかのような遠大な伏線)、常に読者の予想を上回る、時には裏切るプロット作りの巧みさ。冨樫ファンのひいき目かもしれませんが、タイトルにあえて「天才冨樫義博の」とつけさせてもらったのは偽らざる本音です。
posted by シンジ at 00:36| Comment(0) | TrackBack(1) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月09日

辻真先サマーウォーズを絶賛・そして楳図かずお

これだけは書いておきたい。『時かけ』以来の細田監督作品『サマーウォーズ』は、傑作と信ずる。あちこちで提灯を持つつもりだから多言しないが、ジブリより今日的で、エヴァより明快で、ガンダムより万人向きで、だが作家性をまったくうしなっていない。拍手。ー辻真先


辻真先氏はwikiを見てもらえばわかるようにアニメ黎明期から名だたる有名作品(鉄腕アトム、ジャングル大帝、デビルマンから名探偵コナンまで)の脚本を書かれてきた大家です。


サマーウォーズを見て1ヶ月たつのにいまだその熱が覚めやらない自分としても嬉しい限りのほめ言葉。・・・といいつつ自分は辻真先氏の作品を1冊も持ってないのですが、なぜか辻氏が楳図かずおについて書いた新聞の切り抜きだけは大事に取ってあります。なぜならそこに書かれた楳図かずお作品「きずな」についての解説文に感動したからです。


結婚を誓った18歳の英夫と17歳のミチ。だがふたりの間に飛び込んできたトラックのため、運命は暗転する。意識不明となったミチを、英夫は決して見捨てようとしない。物言わぬまま老いていくミチの介護に明け暮れて、他の女に心動かそうとしなかった。

ーとは実は、意識不明がつづく英夫の空想であった(交通事故で頭を打ったのは彼の方だった!)。英夫の介護に若さをすりへらすミチは、見合いの話を断り、老いつづける英夫と生涯をともにする。男の枕元で女はつぶやく。

「わたしは今もこの人を愛しているのです・・・・・・でもこの人はそれを知らない・・・・・・知らなくてもかまわないのよ。愛は片道切符なのだから・・・・・・」

そして最後にミチはいう。「私が死ぬ時にこの人が死ぬのよ」

このセリフは怖かった。愛を極限状態に置いた観察記録が語る、優しさと酷さ。だが彼女は信じるのだ、「この人の顔つきは、いつも私のことを思いつづけているような気がするのよ・・・・・」と。

カットは、ミチを介護する英夫の場面だが、どんでん返しを知った後で読み返すと、片道切符でしかない愛の「きずな」の正体が、痛烈に刻み込まれる。発表は30年も昔だが、時の腐食を覚えない傑作と信じている。ー1999年2月13日中日新聞現代マンガ私史楳図かずお「きずな」ー辻真先



恥ずかしながら楳図かずお先生の「きずな」をいまだ読んでない不勉強の自分ですが、この文章だけで胸が熱くなり、陶然としてしまい読んだ気になってしまうのです。
posted by シンジ at 16:57| Comment(1) | TrackBack(0) | アニメ・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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