2010年03月08日

黒沢清トウキョウソナタ・成熟と未成熟をめぐって

2010年3月6日に行われた国際シンポジウム 「クール・ジャパノロジーの可能性」についてのTwitterのまとめがあるのですが、リンク先があまりにも重いので、手軽に読めるように黒沢清監督関連の発言だけ抜き出してみた。(一部関係ない発言もあるかもしれないので、リンク先のTogetterで確かめてください)

テーマ「日本的未成熟をめぐって」
登壇者
東浩紀(批評家)
黒沢清(映画監督)
宮台真司(社会学者)
村上隆(現代美術家)
キース・ヴィンセント(比較文学者)

キース・ヴィンセント・黒沢清のトウキョウソナタでの父親は社会の荒波において大人ではないが、次男は米軍に志願しエディプス的な男性として未成熟さを治癒するかのように見えるが、その関係はアンビバレントなものである。

キース・未来に向かって何も起こらない時間的感覚は、日本の敗戦後から続いている。日本は敗戦した時、『次の戦争の可能性が消滅した』ために、今のような幼児性を永劫抱えることになったのだ。『次の戦争』が起こらない限り、この感覚が消失することはない。

成長の手段として戦争を選ぶ長男と、ピアノを選ぶ次男。成長を選ばない父親。脱却を選ぼうとする母親。ートウキョウソナタ

東浩紀・キースさんは基本的には未成熟と成熟、男性女性という二項対立から逃れていくことの重要性。村上隆の作品や、トウキョウソナタの作品にそれらが現れており、現実と架空の融合性などといった『新たな成熟性』を論じる必要がある、ということを言ってました。

黒沢清・日本映画の世界は戦前からの撮影所や徒弟性がのこり、クールジャパンというのとは対照的。古くから海外で受けた巨匠たちは未成熟とは無縁の文脈だった。

黒沢・黒澤明をはじめとする、世界で地位を確立している映画監督は、テレビが娯楽の華となるまえ、映画が娯楽の華だったときの監督は海外で知られているが、それ以降の映画監督はほとんど知られていないのが現状。一番知られているのが宮崎駿。

黒沢・現代の日本映画は海外では関心が持たれていない。北野武などは「個人」として有名。

黒沢・現在の日本の映画監督で最も知られているのは宮崎駿さんだと思います。ただ、宮崎さんと黒澤明、溝口健二との関係性はほとんど考えられてない。

黒沢・世界的に名が通っている「今の巨匠」(=宮崎駿、北野武、大島渚)と、「かつての巨匠」(=黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男、小津安二郎)の間にある、断絶と繋がりを問題にしたい。

ー黒沢清監督作「復讐」シリーズをうつしながら。

黒沢・平面的・静か・スタイリッシュという要素が、海外において『日本的』であると評されている。

黒沢・これが静謐でスタイリッシュで日本的だと評価された。自分としては時間も予算もない中での苦心の策だったからキョトンとした。

黒沢・ヤクザの殴りこみという物語的に重要なシーンであるにもかかわらず、茶室で淡々と茶を立ているような、そのギャップが面白いという評論がある一方で、このシーンをこういう風に撮ると何も盛り上がらないという評論もある。

黒沢・何かを表現する上の狙い≠徹底すること/何かを表現する上の狙い≠徹底せず相手の読解力(暗黙の了解)に期待することを、成熟/未成熟と見る。

黒沢・海外からのステレオタイプにも思える反応で、本当に自分はアクションの迫力や恐怖を完全に狙って演出したかと問われると、そうは言い切れない未成熟で曖昧な日本の私に気づいた。

黒沢・何の狙いも無くても、漠然とシーンが流れていっても、映画として成立してしまうのが、アニメと違うところではないかと思う。

黒沢・ハリウッドは1シーン1シーンを計算ずくで構築していくのかもしれないが、そうではなく、目の前の事象に対して、幼児的に、動物的に、ただただカメラを回すという表現が映画ではあってもいいのではないかと思う。

黒沢・映画は歴史の浅い『未成熟な』芸術。芸術といっていいかもわからない表現。その表現に『未成熟』と言われる日本人が合致しているのはある意味、当然『かも』しれない。

黒沢・アニメは成熟した作業なんだろうなあ。映画なんていいかげんですよ。

黒沢・実写映画を撮るのは『動物使い』のようなもの。全ては『たまたま写る』

黒沢・(アニメが全部のコマを作るんだから)映画はそれに比べると、野蛮的だよね。動物的だよね。たまたま撮れただけ、俳優が偶然そう動いただけっていうのを撮っただけ。だから全然違うような気が(僕には)しますね。

黒沢・(アバターについて)3Dをさも新しいようなことに宣伝して、上手いことやったなぁと思います。3Dの技術は1870年頃に既にあって、そのときからなーんにも進化してない。

黒沢・(キャメロンの映画としては…?)いやーキャメロンですから、うわーこのカットすごい、とか全然無い。ストーリーに関しては、こんな古臭い話(ネイティブアメリカンのような話)を持ってきたなーと。大きな木が一本あって、それが倒れるのなんてまさにそれ。

黒沢・忘れていたことに巨大なサイが突撃してきて敵を蹴散らしていくってのが、一番感動的だった。一番強いのはサイだった。

黒沢・古典西部劇のように古臭い話を19世紀の古臭い手法(3D)で古臭く無難に撮った話がキャメロンの「アバター」。でもサイとかヘリコプターの画は好かった。

黒沢・ハートロッカーはヒドイ、注意しろ!

黒沢・ハートロッカーって映画は実写の力を全面に出して、アバターと対極にありますが、とてもひどいプロパガンダの話で、これは現実だよと押し付けてますが、全然面白くないです。

黒沢・とりあえず「東京」を映しておくと、そんなつもりは作り手になかったとしても、「東京について語った映画」だと思われる。

宮台真司・黒沢さんの映画はリア充批判ですよ。情報の非対称性だとか現実があると思わせるものを出すのは卑怯だと考えている。それらを全て取り去ると「地獄の警備員」や「回路」のようになる。

宮台・黒沢監督の映画は「リア充」批判。「現実」があるように思わせるのは卑怯。所詮「現実」はこんなもの。みんなが「家族」だと思っているものなど成り立たない。不可能な表象としてのみしか成立しない。

黒沢・お前もっと大人になれよって言ってくるのは、いつも上の世代、全共闘世代なんですよね。

黒沢・全共闘世代に政治的に振る舞ってしまった人たちのように「ほんもの」を探求するような生き方だけは絶対にしたくない。そもそも、彼らの「ほんもの」って何?

黒沢・だから僕は(上の世代の言うこと全部に)反発しましたね。あいつらのいう本物は全部ウソだと。彼らの本物は本物だったかというのは今でも怪しい。未だに彼らのことがトラウマである。

黒沢・僕は成熟するのが正しいとは思ってないし、未成熟なものに強い政治的なメッセージがあるのではないかと思ってる。でもその未成熟が全て「カワイイ」に回収されるのは何か違うような気がします。

キース・トウキョウソナタの最後の「ピアノ」は「かわいい」とは別の未成熟。
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2010年01月24日

北野武vsライムスター宇多丸

北野武ファンであり、ライムスター宇多丸ファンであるわたくしにとってついに来るべき時が来た。

2010年1月23日土曜日21:30からのTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」にてポリープ手術のため喋れない宇多丸に変わって、Kダブシャインと吉田豪がMCを担当する回に水道橋博士がゲストに来て、ラッパーでありながら映画批評の分野でも活躍する宇多丸相手にぶちまける!その放送を一部書きおこします。(いずれウィークエンドシャッフルのホームページにポッドキャストがアップされると思うのでくわしくはそれを聞いてください)

TBSラジオのスタジオに突然入る水道橋博士(サプライズゲスト)

博士・今、ニュースキャスターのたけしさんの楽屋にずーっといたの。

吉田豪・TBS内で

博士・そうTBS内で、またちょっとすいません、ちょっと行くんで、ということで来たんだけど、その宇多丸さんを(北野武に)説明するのが大変なんですよ。

吉田・おまえ何のために抜けるんだと。

博士・ちょっと宇多丸さんのラジオでって言うじゃない。

吉田・どの“うたまる”だと。

博士・(北野武)63歳で“うたまる”って言ったらね、あっち(桂歌丸)だと思うから。宇多丸師匠というのも誤解が、落語芸術協会か、会長か!ちがうんです、ハゲの・・・また歌丸かと。おなじみの会話が延々ループして、ようやくここへ来たわけですよ。

中略

博士・たけしさん、さっきの楽屋で最終的になんなんだと。

吉田・何者だと。

博士・(宇多丸は)邦画いじめの巨匠です!(笑)

吉田・嫌なトス上げましたね。

博士・すべてのダメな邦画を叩きまくっている奴なんですという話をしたところ、呼んでこいという話になって(笑)。殿の新作がね、ヤクザ映画なんですよ。それでこの宇多丸という男はとにかく拳銃マニアでして殿のヤクザ映画に目のない男です!と言った途端、殿が「おい、ちょっと試写会呼べ」という話になって、(宇多丸が)試写会に招待されることになりました!

吉田・町山さんパターンでもしかして食事会とかまで。(町山さん=町山智浩・映画評論家。アキレスと亀公開時に北野武と一緒に食事をした経緯がある)

博士・食事会まであるかもしれない。ただ、ただですよ!あのビビる大木ごときにあそこまでへりくだった男が天下のビートたけしを相手にどこまで土下座外交を繰り返すのか!?(宇多丸はTBSラジオキラ☆キラ忘年会で同じパーソナリティである大木にこびへつらったことがある)

吉田・しかし、食事会で酒なんか入った日には!

博士・入った日には!「殿、先ほどからお聞きしておりますが、お言葉を返すようですが・・」(宇多丸は議論好きで知られその被害者は枚挙にいとまがない)

吉田・あなたのあの映画はなんですか?みたいな。

博士・ヤマトの前に芸能界からいなくなる可能性があります!(スペースバトルシップヤマトにはTBSラジオも出資してるため、シネマハスラーという映画批評コーナーでボロ糞に批判すると番組が終わる可能性がある)

博士・今、殿TBSで(ニュースキャスター)やってるわけだから11時30分くらいでしょ、その終わりでここに来ればいいわけです。だから聴取率週間かなんかにちょうど殿の映画の公開にあわせて、しかも殿の目の前で殿の新作「アウトレイジ」をね、どう批評するのか!「私は貝になりたい」を超えたどんな綱渡りをするのか。(同じくTBSラジオが出資している私は貝になりたいをシネマハスラーで取り上げたことがあり、その回は名批評と言われている。私は貝になりたい評をリンクしておきます17位のところをクリックすると聞けます)

博士・ま、名作なんですよ、これ。関係者全員聞いてますが、ひさびさに殿すごいぜ!っていうね、殿もなんで俺「アキレスと亀」なんて作ったんだろうと言ったくらいの(笑)あと我が最高傑作と言っとけよというくらいの。本当に楽しみにしてると。

吉田・あえて旧作ハスラーにしたいですけどね。

博士・じゃあTAKESHIS'を批評する、町山さんも口を濁すという(笑)

宇多丸(筆談)・(おっぱいがよかった)

博士・ちゃんとみつけるね〜

吉田・ぜひともそれは実現させてほしいですね。


これは北野武、宇多丸両者にとって恐ろしい事態になったと言っていい(半分冗談です)つまり、もし新作「アウトレイジ」が駄作なり凡作だった場合は超辛口批評で売る宇多丸さんにとっての地獄が始まるわけです。北野武を前にしてのアウトレイジ評・・・。宇多丸さんが北野武本人がいるから批評の手をゆるめるようなことをしたら、いままでのシネマハスラーを評価してきたファンも失望するでしょうし、大変難しい立場に立たされたことは間違いない。アウトレイジが水道橋博士のいうように傑作であれば何の問題もないのですが。

これからのウィークエンドシャッフルの展開に要注目です。
posted by シンジ at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月13日

庵野秀明愛ゆえに宮崎駿を斬る!

鈴木敏夫のジブリ汗まみれ。鈴木敏夫庵野秀明対談がめちゃくちゃ面白かったのでめんどくさいのにもかかわらず書きおこしてしまった。庵野さんが宮崎駿を愛情深くめった斬りにしているのがおかしくて。


鈴木敏夫・もののけの時ね、もののけ姫どうだった?と庵野に聞いたら、レイアウトがダメになったって。

庵野秀明・ダメでしたね〜。よく宮さんこのレイアウト通したなというくらいダメだった。

鈴木・かなり自分(宮崎駿)で書いてるんだけど。

庵野・いや〜ダメですね。レイアウトはかなりね。レイアウトが世界一の人だったのに。

鈴木・レイアウトマンだったものね。

庵野・あの空間のとりかたのなさというのはちょっと・・・あれは年を取ったのかな?

鈴木・空間がなくなっちゃったんだよね。

庵野・すごい平面的になって

鈴木・そうフラットになっちゃった。だからすごいのはお話の方で、絵の方はどっちかというとサラッとしてる。

庵野・あれが、またポニョで粘りがでてよかったです。

鈴木・いや、あのポニョの前にね、宮さんディズニーチャンネル見まくったんだよね。そしたら動きすぎだって言ってたのが途中から動きすぎだと思ったけどそうじゃない。動くことに意味がある。世界は動いているんだからやっぱり動かすべきだ、それをテーマにやりはじめた。ポニョはどうでした?

庵野・Cパートの途中まですごい好きです。

鈴木・Cの途中って、お婆ちゃん話になる直前?

庵野・今の尺でも長いと思いますね。お母さんが宗助を置いて車で行っちゃうじゃないですか、で二人きりになるあたりから、まあ、あんまり乗れない感じ。それまではすごいよかったですよ。特にあのお母さんがいい。

鈴木・色気がありすぎるんじゃないか。

庵野・いや、それがいいんですよ。いままで宮さんになかったものじゃないですか。

鈴木・宮さんがね、あれは近藤勝也(作画監督)がやっていて俺じゃないからって。

庵野・そうそう、それがいいんですよ。いままでの宮さんにはできなかったこと。

鈴木・すっごい色気があるんだよね。

庵野・いいですよ、線だけでそれを出しちゃう。宮さんが手を入れてないところが良かった。あれにまた手を入れ直したらぶちこわしだったのを、そこをグッと抑えているのが大人になったというか、年を取った。

鈴木・さすがだな〜、よく見てる。(笑)

かなり辛口の宮崎駿評が面白い。そして話は風の谷のナウシカで最初に宮崎駿に会った話から、アニメファンには有名な庵野さんが巨神兵を書くエピソード・・動画枚数をなか7か、なか5にするかで宮崎駿と争った話。影は2色にしろ、3色にしたら殺すと言われた話など。



庵野・宮さんは自分が好きか、こいつはいけるっていう人じゃないと教えないじゃないですか。

鈴木・そう、えこひいき。

庵野・えこひいきとあと基本的には自分の下駄がほしいのね。自分の役に立ちそうな奴しか労力を使わない。僕がナウシカの時に色々教えてもらったのはそれだな。巨神兵をこいつにやらせとけば自分はそれを直す手間の分、他のことをやれる。

庵野・(ナウシカの時)最初に面接でお会いした時にはものすごい緊張したんですけど、だんだんそれがとけてきて、ただのおやじになっていって、普段アニメを作ると宮さんってフィルターかけちゃうじゃないですか。

鈴木・バランスをとるんだよね。

庵野・ええ、いい人っぽく。本当はそうじゃない。

鈴木・そうそう、悪い奴なのね。

庵野・ナウシカの打ち上げの時にいったら若い女の子のスタッフが人間が滅びるようなものを作っていいんですか?と宮さんに食ってかかるのを「人間なんて滅びたっていいんですよ!!とにかくこの惑星に生き物が残っていれば、人間という種がいなくなってもいいんだ!」と怒鳴っているのを横で聞いていてこの人すごいと。クリエイターとして宮さんを好きになった瞬間ですね。

鈴木・もしかしたら私たちそのものが汚れかもしれない。そのセリフを読んだときにね、あ〜この人、人間よりあっちの方が好きなんだ、と。

庵野・ナウシカの7巻は宮さんの最高傑作だと思います。宮さんの持っているテーマ性というのが集約されている、原液のまま出している。ホントはすごく“あれ”な人なんですけど、それがストレートに7巻には出ていて良かったです。

鈴木・ナウシカの2やらせろって言ってたのはいつ?

庵野・あれはラピュタの頃だったと思います。

鈴木・あれだけど宮さんに真剣に庵野がやるんならいいんじゃないですか?宮さんをこう説得したんですよ。三部作にしたらどうか?第二部は殺戮の映画になるんだから庵野がやったら絶対面白くなる。で、そのしめくくりを第三部で宮さんがやればいいんじゃないか。いい説得でしょう。そうしたら怒っちゃってやめてくれといって。

庵野・僕がやりたいのはナウシカ7巻ですから。

庵野秀明のナウシカ三部作見たい!宮崎駿もそろそろ年なんだし、庵野に「ナウシカ撮っていいよ」とか言わないかな〜。
ここからは少し話題が変わって高畑勲のこわ〜い話になるw


鈴木・昔、高畑勲と押井守が雑誌で対談したときに押井さんが赤毛のアンの第一話、これがアニメーションをやるときに非常に大きな影響を与えられた。簡単に言うと30分の話を30分でやる。こんなことをテレビのシリーズでやっていいの!?と勇気づけられた。そこで描かれていたのが日常を描くということで・・・と言った瞬間、高畑さんが「あなたの使っているその日常というのはどういう意味なんですか!?」そうしたら押井さんが黙りこくったんですよ。

庵野・押井さんを黙らせるというのはすごいですよね。

鈴木・宮さんにとっての“仮想敵”はわかりやすいよね、高畑さんだよねやっぱり。

庵野・ずーっとそうですよね。

鈴木・いまだに毎日しゃべっていて半分は高畑さんの話。高畑さんがいるから作っている。高畑さんが作ろうとするから作る。おまけに高畑さんに作ってもらいたい。この期に及んで、こういう絵コンテを描いたらパクさんにしかられる。なんという純粋な人なんだろうと。

庵野・何度も挑戦してますよね、高畑さんを超えようと。そのたびに思い知っているような気がします。

鈴木・宮さんは高畑さんという大きな存在に包まれていると自分で思っている。押井さんは宮さんがいなかったら宮さんみたいな映画を作りたかった。同時代に宮さんがいるから自分はこんな変な映画を作るんだと。スカイクロラどうだった?

庵野・僕は、まあ、面白いかな、と。

鈴木・どういう意味“かな”って?

庵野・とりあえず寝ないで最期まで見れた(笑)

いや〜高畑さんの話怖かった。自分が高畑さんに「君の言う日常ってなにかね?」と詰問されたら泣くなw


鈴木・宮さんを仮想敵にしたのは作品でいうと何やってたときなの?

庵野・仮想敵にしたときはもののけですね。ちょうど師弟対決とか世間で言われてた時。

鈴木・勝ちたいと。

庵野・いや、興収では勝てる気はなかったですけど、中身では勝ちたい、と。

鈴木・どうだったの?

庵野・・・・まあ言わんとこうと(笑)怒られそう。

いままで散々師匠宮崎駿を肴に言いたい放題だった庵野だが、それが愛ゆえにだったことがわかる最期の締めくくりにグッとくる。


庵野・エヴァンゲリヲンのTVが終わって、僕がボロボロで、1回ガーッと落ちて、そこからはねあげてくれたのも宮さんのおかげです。あの頃引きこもっていて、このまま生きていてもしょうがないなと考えてた時に電話一本くれて、とにかく休めと。半年ぐらい休んでも大丈夫だからと。そういえば宮さんも3年ぐらい休んでたな〜と。あれでちょっと立ち直りました。やっぱりアニメが好きなんです。アニメを作りたいな〜というふうに戻ったんじゃないかと思います。

鈴木・宮さんのところにぜひ来てください。宮さん元気になるから。だって庵野のこと好きだもん宮さん。今も本当によく話す。今どうしてるって話を。

庵野・また遊びに行きます。

庵野さんが師匠である宮崎さんに対してかなり辛辣なんだけど、やっぱり愛してるんだな〜というのが伝わってくる素晴らしい対談でした。
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2010年01月07日

2009年シンジの映画ベスト10

あけましておめでとうございます。2010年もシンジのほにゃらら賛歌をよろしくお願いします。早速2009年度の映画ベスト10を決めたいと思います。ちなみに外国映画は見てる本数が少ないので日本映画のベスト10です。10位から1位の順に発表します。

番外「GOEMON」監督紀里谷和明
これは書くべきか迷ったのだが、あまりにボロ糞にいう人が多いのであえて擁護したいと思ってベスト10番外にした。みんなエド・ウッド好きだよね?「プラン9・フロム・アウタースペース」大好きだよね?じゃあ、なんでエド・ウッドを愛するようにキリキリ(=紀里谷)も愛せないのか!確かにGOEMONは脚本ひどいし、CGは安っぽいし、アクション演出もひどい。でも自分はなぜかこの作品を悪しざまにけなせないのだ。なぜならそこにエド・ウッドと同じ情熱を見てしまったから。人は才能が無くたって映画に対する情熱さえあれば映画が撮れるんだ!という純粋な熱気をモロに浴びてしまったから。とにかくキリキリに言いたいのは映画を作り続けろ!ということ。このまま映画を作り続ければ絶対にエド・ウッドのように再評価されるときが来る・・・・多分。


10位「ヤッターマン」監督三池崇史
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とにかくお金をかけて信じられないほどくだらないことをやる三池に脱帽というか脱力。ヤッターワンと敵メカのエロに「これはやっちゃだめだろ・・子供も見てるんだぞ・・」と映画館の親子を見てソワソワしてしまった。特筆すべきはセットと衣装の素晴らしさ。映画の予告でドロンジョの衣装を見てこれは勝てると思った。もう少し短く編集すればなお良し。


9位「悪夢探偵2」監督塚本晋也
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これすごく面白かったのに誰一人として評価してないというか、話題にすらならなかった。ホラー映画としても一級品だし、母と息子の感動ものでもある。サム・ライミの「スペル」が好きな人は絶対好きになる怖くて笑えて感動できる最高のエンターテイメントだと思う。それといつもヌボーッと演技してる松田龍平が役者として格段に成長した姿を見せている。


8位「クローズ ZERO II」監督三池崇史
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ひたすら殴り合い蹴り合うだけの映画。ストーリーなんてどうでもいいと思わせるだけの勢いがある。キャラクターの立ち具合も素晴らしい。特に山田孝之演じる百獣の王芹沢は飛び抜けて魅力的。


7位「パンドラの匣」監督冨永昌敬
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これ批評書きにくい映画なんだよね。でも俳優にすごく魅力があって、いつまでも思い返してしまうということは演出に力があるということでもある。とにかく仲里依紗、川上未映子が最高。これだけ女優を魅力的に撮る(しかも一人は素人の作家)力量は無視できない。染谷将太もスターになるかもね。


6位「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ」監督根岸吉太郎
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時代錯誤なまでの堂々たる文芸大作。とにかく撮影とセットは完璧。こういう日本映画の伝統は失われたと思っていたのでびっくりした。昔はこういう文芸作品に一定の需要があったものだが(浮雲とか墨東綺譚とか)この作品は興行的には撃沈。でも一見の価値あり。


5位「プライド」監督金子修介
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興行的にも批評的にも完全に黙殺されているのが惜しいほどの傑作。最初映画を見始めたときはぶっさいくな演出、どへたくそな演技に失笑していたのが、だんだん身を乗り出すように映画にのめり込んでしまうという、これぞ映画のマジックというものを堪能させてくれる。欠点をあげつらおうと思えばいくらでも欠点をあげられる作品なのに、いつのまにか感動しているという。この作品でも“俺たちのミューズ”満島ひかりは最高です。


4位「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」監督庵野秀明
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映画としてはかなりいびつな形をしていることは否めない。ダイジェストチックな戦いの細切れ感が強いこともある、が、それでも凄まじいばかりの熱量がこもっていることは否定できない。次回作でどう着地させるのか興味はつきない。


3位「ディア・ドクター」監督西川美和
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世の中には「ゆれる」派と「ディア・ドクター」派がいるそうだが自分はどっちも大好き。むしろいろんな解釈が可能という意味ではディア・ドクターのほうがより深い作品だと思う。賞レースでは余貴美子と票が割れて不利のようだが、八千草薫の凄さに気づいて欲しい。西川美和はデビュー作「蛇イチゴ」からすべて駄作なしどころか傑作しか撮っていない。次回作どんなものを撮るのかいまからワクワクする。


2位「愛のむきだし」監督園子温
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ホントはこれが1位でもいいんだけど、この作品に関してけなすひとはほとんどいないと思うのであえて2位で。2009年度最大の衝撃といってもいい園子温の最高傑作。ありとあらゆるテーマ・・愛、信仰、神、SEX、家族など、とてもじゃないけど描いても描ききれないような深遠なテーマをすべてぶち込んでなおかつそのすべてに答えを出そうとしている信じられないほどの蛮勇。そんな深遠なテーマをあつかっていながらめちゃくちゃ面白いエンターテイメントに仕上げる巨大な才能にノックアウト。満島ひかり、安藤サクラはこの作品で永遠に映画史に輝く。呆然と見上げるほか無い圧倒的な芸術とエンタメの巨大伽藍。


1位「サマーウォーズ」監督細田守
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ホントは1位は愛のむきだしなんだけど、どうもサマーウォーズが不当に批判されてるような気がしてならないので、このブログの姿勢をみせるためにこの作品を1位に選んだ。サマーウォーズを批判するロジックが伊丹十三映画を批判するときとまったく同じなのが気にくわない。いわゆる映画の登場人物が公務員、公僕だとそれだけで脊髄反射的に批判する反体制ぶりっこばかりなのが笑止。そういう薄っぺらな反体制ポーズが伊丹十三の再評価を遅らせていることに気づくべき。まあ敵が多ければ多いほど細田守を擁護しがいがあるけどね。あと今週号のキネ旬で大高宏雄がサマーウォーズをファイトシネクラブ賞に選んでいるがその理由が自分と同じでうれしくなるー「強靱な大衆性」by大高宏雄。それこそ細田守の最大の武器だ。宮崎駿作品は大衆性を失ってひさしいし(それでも大ヒットするんだからすごいけど)、エヴァをはじめとするアニメ作品の多くは熱狂的な信者に支えられている。テレビ局の作る大量動員することのみが要求されるTVドラマ作品でもなく、コアなファンのみを相手にする作品でもない。真に質の高い大衆性のある作品を作り出そうとするこころみを誠実にしているのが細田守なんだ。(あ、あと原恵一監督も)
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2009年12月30日

映画窓口料金が2千円になる日

アバター3Dは価格が2000円から2200円。これ以上ないほどの強気な価格設定でも大ヒットしている。

すでに『タイタニック』の256パーセント!『アバター』日本での興収ダントツ1位で13億円超え
「アバター」が日本では、23日(水・祝日)に公開され土日を含め5日間で早くも13億円を超える興行収入をたたき出したことがわかった。ーシネマトゥデイより


3D映画は大昔から上映されており、何を今さらと思う人もいるかもしれない。古くは1954年頃から3D映画の上映が試みられており、1954年のアメリカではMGMの「キス・ミー・ケイト」をはじめ44本の3D映画が公開された。では1950年代前半なぜこのような試みがなされたかというと、それは台頭し始めたテレビへの対抗策だった。ー映画ビジネスデータブック2009-2010より

このように3D映画ブームは昔から何度となく起こったが、そのつど、ハヤリモノ、キワモノあつかいされては廃れていった。しかし、今度の3Dブームは違うという。

今回の3Dブームについてハリウッドで積極的に推進する人たちからは、“サイレントからトーキー”“モノクロからカラー”につづく映画史における3回目の革命と期待している。実際これから製作されるディズニー、ドリームワークスのアニメーションはすべて3Dとなる。ー映画ビジネスデータブック


アバターの監督であるジェームズ・キャメロンも今後は3Dしか撮らないと宣言している。
この作品は全編、特注のデジタル3Dカメラで撮影された。「今後は3Dしか撮らない」と宣言したキャメロン監督だが、「私にとって3Dは特殊なものではなく映画の一部」という。「昔の3Dは物が飛んでくる効果が主流で、かえって観客は映画館にいることを意識した。今回の3Dはこちらから映画の世界に入っていくための『窓』。その場にいる臨場感が味わえるようにしました」ー産経ニュース


そしてこの3D映画革命という機会を配給側、興行側が逃すはずもないー料金値上げの絶好のタイミングを。

3D映画革命「アバター」は映画窓口料金2千円の布石である。

多くの人はこう考えるだろう、この不景気、デフレ時代に窓口料金を値上げするはずがない。もしくは3D映画だけが2千円台の料金になるだけで、従来の映画は今までと同じ1800円だろう、と。その考えは「甘い」といわざるをえない。

日本の映画業界は動員数の落ち込みを常に料金の値上げによってカバーしてきた歴史がある。

1964年
年間入場者数4億3145万人(歴代最低)
年間総興収769億円
窓口料金300円

1966年
年間入場者数3億4581万人(歴代最低)
年間総興収757億円
窓口料金400円

1969年
年間入場者数2億8398万人(歴代最低)
年間総興収838億円(歴代最高)
窓口料金500円

1971年
年間入場者数2億1675万人(歴代最低)
年間総興収792億円
窓口料金600円

1975年
年間入場者数1億7402万人(歴代最低)
年間総興収1307億円(歴代最高)
窓口料金1000円

1977年
年間入場者数1億6517万人(歴代最低)
年間総興収1523億円(歴代最高)
窓口料金1300円
(データは「映画館の入場料金はなぜ1800円なのか?」より)

窓口入場料金は1977年から1300円になり、平均入場料金もこの年923円に上昇した。そもそも入場料金の値上げが観客から見てどのように行われたかといえば、興行価値が高く、ヒットは確実と言われる作品の公開にあたって、従来よりも高い入場料金が設定される。観客としては、「この映画の時だけ、特別な料金をとるのだろう」と認識していると、それが違う。ヒット作の上映が終了しても、映画館の入場料金は上がったまま。決して下がることはなかった。何とも姑息な手段。一種のだまし討ちではないかとさえ言いたくなってしまう。ー映画館の入場料金はなぜ1800円なのか?より


従来より高い料金が設定されたのが1975年の「ゴッドファーザーPARTU」「タワーリング・インフェルノ」「ジョーズ」などである。1975年の窓口料金1000円の時に強気の1300円設定にしたのだ。そして各劇場はそれに右にならえとばかりに値上げをしていき決して料金が下がることはなかったのである。

アバター3Dの料金2000円以上という強気の設定・・・そしてどさくさまぎれに右にならえして値上げしていく配給、興行側・・・・歴史はかならず繰り返す。「この映画(アバター)の時だけ、特別な料金をとるのだろう」という観客の認識は1975年の時と同じく裏切られるのだ。

1993年
年間入場者数1億3072万人
年間総興収1637億円
窓口入場料金1800円

そして1993年から17年間続いてきた窓口料金1800円がこのアバター3D旋風によって崩れ去る。

このデフレ時代、消費そのものが伸び悩む中、映画業界がわざわざ映画人口を減らすようなことをするだろうか?という疑問はあるだろう、特に2009年は2006年以来の総興行収入2千億円超えがみえてきている。
映画興行収入3年ぶり増加へ 09年、2000億円うかがう
2009年の映画興行収入が3年ぶりに前年を上回る見通しとなった。不況で遠方への旅行などの支出が頭打ちとなるなか、近所で比較的安く楽しめる娯楽として映画が浮上した。12月の動向次第では06年以来の2000億円の大台を突破する可能性もある。映画は比較的不況に強いとされるうえ、今年は邦画・アニメを中心に作品の粒がそろい、人気を集めた。ーNIKKEI NETより


そんな中あえて窓口料金値上げに踏み切る根拠はデータを見てもらえばわかる。
1977年
年間入場者数1億6517万人
年間総興収1523億円
窓口料金1300円
スクリーン数2420

2008年
年間入場者数1億6049千万人
年間総興収1948億円
窓口料金1800円
スクリーン数3359

1977年と2008年を比較するとスクリーン数が千近く違うのにもかかわらず、年間入場者数は大して変わってない。つまり1スクリーンあたりの利益は格段に落ち込んでいるのである。

先に日本の映画業界は動員数の落ち込みを常に料金の値上げによってカバーしてきた歴史がある、と書いた。2000年代の日本の映画界は活況に見えて実は1970年代や暗黒時代と言われた90年代よりも1スクリーンあたりの利益は低いのである。この状況に降って湧いたのが3D映画革命である。常に料金値上げのタイミングをはかってきた業界がこの17年ぶりのビッグチャンスを逃すはずがない。

もうすでに現実は動き出している。
日本でのアバタ−の全スクリーン数の38%が3Dスクリーンで、その売上高はアバターの全売り上げ高の75%を占めている。ーScreen DAILY.COMより(3D上映が2000円〜2200円)


キネ旬総研白書はこう書いている。
配給、興行では3D映画により入場料単価を上げることを期待している。現在の大人1800円を2000円にするのが値頃感ではないかと言われている。

普通の消費者感覚では信じられないかもしれないが、映画業界では料金2千円が値頃感だと言われているのだ!

ただ、いきなり全国一斉に窓口料金を2千円台に値上げすると公取委が動き出すので、映画ファンにも、マスコミにも騒ぎ立てられることのないよう、徐々にゆっくりと窓口料金を2千円台にしていくだろう。(これで消費税も上がれば、値上げする口実ができて連中は喜んで一斉に料金を値上げするはず)

では最期に消費者である私の感想を。シネコンや映画館の会員サービスやレイトショーでの割引を利用して年間50本以上見てきましたが、窓口料金が2千円となり、3D映画では各種割引もきかなくなっている現状では見る本数は確実に減ります。

映画業界の考えることはこの50年間同じ。「観客動員が減ったら料金を値上げすればいい」映画の未来より目先の売り上げが重要なのだ。
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2009年12月23日

東映城の攻防 中村錦之助、美空ひばり、高倉健、菅原文太の話

東映名誉会長にして日本映画界のドンである岡田茂自伝から面白いところを抜粋。

映画のポスターの名前の順番の話
歌舞伎の世界は本当に格式や扱いにうるさい。問題は大川橋蔵さんがからんだときである。中村錦之助さんと大川橋蔵さんが映画で共演したときは「いつでも錦之助は右にしてくれ」(ポスターなどの名前順)と要求された。「いや、それは困るで」と言ったが錦之助さん側は納得しない。今度はひばりさんのお母さんが出てきて「ひなが会いたがっています」と言う。小川ひなさんは錦之助さんの母親だ。
「岡田さんあなた何と思っているんですか、橋蔵はガラス屋の息子ですよ」
ガラス屋の息子にはタイトルは譲れないというのだ。
「あれはね、ガラス屋のオヤジと誰かの間にできた子に間違いないんですよ。それが菊五郎の六代目のところに小僧で入った。六代目が鎌倉の家から歌舞伎座まで通うとき、いつも付いて歩いていたのが橋蔵なんですよ」
だから、橋蔵さんはなかなか役が付きにくく、歌舞伎の世界を早くやめて映画の世界に入ったのだ。しかし映画のタイトルを錦之助さん側の言うとおりにはできないので、ここは騙してやれと思った。錦之助さんを頭にするポスターと、橋蔵さんを頭にするポスターを半分ずつ作った。
「橋蔵さんは暮れは京都にいますか」「はい、いますよ」
じゃあ、京都には橋蔵さんが書き出しのポスターを貼ればいい。錦之助さんは東京に帰っているだろうから、東京は錦之助さんが書き出しのポスターを出す。(名前が右側の最初にあるのを書きだしという)しかし、それだけではすまなかった。その年、暮れの31日に家に帰ると電話がかかってきた。小川ひなさんからだった。
「岡田さん、あなたねぇ、約束破ったね」といきなりこういう。
「あんた、○○と××の看板は、橋蔵が右になっているじゃないですか!!」
看板のことまでは僕も気づかなかった。
「すぐに直してください。これは縁起ものですから、直してもらわないと来年の契約はお断りします」
腹が立ったが仕方ない。すべての看板を変えるしかない。東京で一番大きな看板屋に電話したが、暮れの31日で職人がいない。大阪の看板屋に電話しても同じことを言われた。
「暮れで職人がいない。そんなことできないよ」
「そんなことを言わないでくれ、オヤジ、おまえさんがやってくれ」
「んーしょうがない、なんとかします」
無理を言ってなんとか看板を全部直してもらった。

このポスターの名前順ってホントに厳しいみたい。特に岡田茂は錦之助のわがままに手を焼いて、錦之助は片岡千恵蔵や市川右太衛門など大御所が出演するオールスター映画でも自分の名前が書き出しじゃないと嫌だとごねたそう。渥美清も舞台の名前順でトラブルを起こして当時バッシングを受けたことを小林信彦が「おかしな男」で書いてる。

美空ひばりの意地
今でも語り草になっているが、中村錦之助さんと有馬稲子さんの結婚式を大川博さん(東映社長)の仲人で東急ホテルでやったときのこと。ひばりさんのお母さんの使いが僕を呼びに来た。
「いまからひばりが披露宴に行く、と言いだしている」
話を聞くと、大きな猫の絵がデザインされている、ものすごい着物を仕立てているというのだ。
「明日のスポーツ新聞の一面になるじゃないの!ひばりちゃん、そんなことダメだよ。やめなよ」と説得したら、バーッと泣き出した。
「そんなことやめてくれよ。あんた長い人生、まだまだあるじゃないか。錦之助が結婚したぐらいでなんだ」
しかし、あの子は役者を辞めてもいいというぐらい、心底から錦之助さんに惚れていた。錦之助さんは多少逃げ腰だったが。
「だいいち錦之助と結婚したって、歌舞伎界のおかみさんだぜ。そんなことできるんか。いちいち部屋をまわってな、はい、勘三郎先生、おはようございます。よろしくお願いします、なんて挨拶してまわることなんてできるんかい」
それでもひばりは「ほっといてよ、そんなこと」と強気だった。
ひばりさんが惚れていたことは事実だ。小林旭さんと結婚したのも、錦之助さんに対して自分はスターと結婚したという意地の部分が大きかったと思う。そんなに惚れてもいない男性と、意地で結婚してもうまくいくはずがない。
晩年でも、錦之助さんの話をすると顔がさっと赤くなっていたくらいだ。美空ひばりさんの最期には、錦之助さんはその亡骸を抱えて、病院から出た。よくマスコミに写真に撮られずにできたと思う。

小林旭のインタビューなどを読むと、じょじょに美空ひばりと恋愛関係になったというわけではなく、いきなり山口組三代目の田岡一雄氏からお嬢(美空ひばり)が好きだと言ってると打診されたそう。いったい小林旭の立場は・・・w

健さんの意外な過去
高倉健さんは、銀座警察(昭和21〜25年の銀座に君臨した暴力団)がフィリピンのボクシングを日本にもってきたころ、興行中の運転手をしていた。そのころ揉め事があって、こんなやりとりがあったという。
「おまえ、こんなところにいるな。役者になるならなれ。俺んところはドンパチが始まるぞ」
「いや、大丈夫です。私、行きます」
「お前が来たってしょうがねえだろ。殴り込みをかけるんだぜ、やめろ」
健さんにはそういう純情なところもあった。


東映で肩身が狭かった菅原文太
菅原文太さんは安藤昇さんの子分で、安藤さんが文太さんを連れてきて、
「頼むよ、こいつもう仕事が浮いちゃって」
「それじゃあ、しばらく東映におれよ」
最初松竹にいた菅原文太さんがこうしてずっと東映にいるようになった。最初はずいぶん苦労したと思う。京都へ来ると、鶴田浩二さんだとか、うるさいのばかりがいるし、新東宝の先輩の若山富三郎さんもいた。


この頃の東映時代の菅原文太が微妙な立場にいたことは山城新伍の「おこりんぼさびしんぼ」に書かれている。
東映にやってきたとき、すでに文ちゃんは40代前半だった。下積みも長く、それまでにも他社の映画で活躍していたのだからすぐに主役になってもそれは当然のことだという見方もできた。だが文ちゃんは文ちゃんで、映画の役のままにどこかものの言い方が偉そうなところがある。
「なんじゃい、ワレ」
なんて、誰にでも平気で言ってしまうのだ。
そんな時「仁義なき戦い」の菅原文太は京都市民映画祭の主演男優賞を取ってしまった。そこで東映の連中の怒りは沸騰した、というよりやきもちが極限に達した。若山富三郎にご注進にくる手下たち。
「菅原文太め、許せませんよ」「賞を取って、いい気になってんですよ」
文ちゃんが外様だということがすべてだった。ー「おこりんぼさびしんぼ」山城新伍著


こうした東映の異常なまでの“外様”排除意識は、「トラ・トラ・トラ!」を東映に撮影に来た黒澤明にまで向けられる。その原因は山本五十六役の素人の石油会社の社長に撮影所にある片岡千恵蔵の部屋を「間貸し」したことだった。なぜそんなことで撮影所の人々が怒ったのか?「千恵蔵先生の部屋に芸に関係のない素人を入れるなんて、俺たちは“聖地”を侵されたも同然だ」と怒ったのである。
巨匠然としてスタジオに入ってくる黒澤監督。
「・・・・・・・」「・・・・・・・」
誰も「おはようございます」とも言わない。それどころか白目を剥き、ガンを飛ばし、今にも懐からドスか拳銃でも出しそうな顔をして、にらみつけるのだ。
当時、東宝は俳優を含めたすべてのスタッフに共通のディレクターシステムを採用していた。つまり、そのシステムでは監督が一番偉いのだ。そのシステムに慣れて、撮影現場でたててもらうことに慣れている黒澤さんにしてみれば「いったいどうなっているんだ」と内心穏やかではなかったと思う。やがて黒澤さんは体調を崩されたのか、神経を病まれたのか、自殺未遂までしてしまった。ー「おこりんぼさびしんぼ」

「トラ・トラ・トラ!」黒澤降板の理由は色々言われているが、真相は東映撮影所の排他主義にあったとは・・。

岡田茂社長就任時のあれこれ。
大川社長の死で、東映の次期社長問題が浮上したとき、岡田茂の対抗馬は東映重役でもあった片岡千恵蔵だった。片岡千恵蔵はかねてから社長になりたいという野心を持っていたのだ。五島昇(東急社長)は岡田茂と片岡千恵蔵を料理屋に呼び出した。片岡千恵蔵についてきたのは俊藤浩滋。この席で五島は片岡千恵蔵を制止して、社長になるのは岡田茂がふさわしいとした。これで岡田茂が次期社長になることが決定した(1971年)。
東映史では任侠映画の大プロデューサー俊藤浩滋の名前は欠かせないものだが、岡田茂自伝では俊藤浩滋の名前が出るたびに奥歯にものがはさまったような書き方になる。それもこれも俊藤浩滋が反岡田の筆頭として、岡田茂を追い落とし、社長の座を狙っていたからに他ならない。
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2009年12月17日

ワンピースファンはわからずとも日本映画ファンならわかる尾田栄一郎・鈴木敏夫対談

鈴木敏夫のジブリ汗まみれポッドキャストから抜粋書きおこし。

尾田栄一郎・僕が一番好きなのは森繁久彌さんが森の石松を演じた「次郎長三国志」(1952年から始まったシリーズ作マキノ雅弘監督)なんです。次郎長三国志を見たときに「これこそ!」と思いました。自分のやりたいことはこれだ!この人(マキノ雅弘)やってたっていう。なんでこんな人が有名じゃないんだろう。はじめて意識した監督です。


しょっぱなからこれである。ワンピースファンの皆さんすいません。尾田先生のことを書きますが、おそらくひとつも理解できないと思います。この記事は日本映画のファンだけに向けて書きます。

尾田・中村錦之助が大好きなんです。

鈴木敏夫・なんでぇー!(笑)

尾田・かっこいいじゃないですか!「瞼の母」(1962年加藤泰監督)とか感動しまして、あの演技力!あれは演技力がないと全然成立しない映画ですよ。

鈴木・一応昔ね、マンガの編集者やってたんだよ。ホントに古いんだけど、1973年頃かな。

尾田・生まれてません・・・。

鈴木・うそぉー!(笑)

尾田・今34歳ですけど・・・1975年生まれです。

鈴木・今日はワンピースの1巻だけ読んだんですよ(笑)

尾田・七人の侍をイメージして・・・

鈴木・やっぱそうだよね。

尾田・なぜ鈴木さんとこんな話になったかというと、ジブリで今度、次郎長三国志をお願いしますと言いに来たんです(笑)


鈴木・なんで次郎長三国志なのかはすごいよくわかる。ワンピース第1巻読んだだけでわかった。

尾田・古いものにすっごい興味があって、大元をたどったら、昔から落語とか漫才とか古いものを聞いていてちょっと変な子供だった。中1の時の親からの誕生日プレゼントが新春寄席のチケット(笑)。なんでそこに興味を持ったかというと、昔の漫才師の人たちが真似をするんですよ、浪曲の。それこそ広沢虎造とかの。

鈴木・虎造聞いたの?

尾田・大好きです!

鈴木・大好きなんだ!!(笑)

尾田・広沢虎造iPODに入ってますから。虎造ファイルがありますから。

鈴木・だって広沢虎造という人は本当に人気があったのは、ぼくらの親父の世代だから。僕は親父がラジオで聞いてるのを横で聞いていた。僕が驚いたのは山下達郎も虎造が好きだって聞いたとき。

尾田・聞くべきですよ。かっこいいですよ。僕は落語を聞く種族ですから。

鈴木・落語は誰を聞くの?

尾田・誰でも聞きますね。新しい人たちも古典も。落語ファイルがありますし、特に好きなのは柳家権太楼。あの人はすごい名人でしょう。

鈴木・さっきの次郎長三国志、森の石松のセリフあるでしょ、森繁の。あのセリフは男はつらいよの寅さんの決めゼリフになっている。僕の想像だけどね、山田洋次という人は次郎長三国志が好きで、おそらく当時映画館でノートに森繁のセリフを書き取ったはず。

尾田・渥美清さんのでていた、中村錦之助さんの・・・

鈴木・「沓掛時次郎 遊侠一匹」(1966年加藤泰監督)僕はあの映画大好き。

尾田・あの映画で渥美さんが啖呵切るのすっごいうまいなぁと思って。

鈴木・長谷川伸っていう人が原作で、渥美清の登場シーンだけがオリジナル。これを作った人が加藤泰。その叔父さんが山中貞雄。

尾田・それは誰ですか・・?

尾田さん次郎長三国志や中村錦之助作品はかなり見てるにもかかわらず、加藤泰も山中貞雄も知らないという、しかも鈴木敏夫が山中貞雄の「丹下左膳百万両の壺」のことを話し始めると、「あれ僕大好きなんですよ!」という。山中貞雄は知らなくても百万両の壺は大好きという、一体どういう映画の見方をしているのか?おそらくその作品が名作だとか有名な監督作品だとかいっさい知らずに片っ端から映画を見てるみたい。作家主義や名作主義に偏らない正しい映画ファンといえるかも。
その後、座頭市の話になる、尾田さんはほとんど座頭市を見てると言うが、座頭市第一作目の「座頭市物語」のことは知らないらしく、鈴木さんが話し始める座頭市と平手造酒の一騎討ちに大喜び、拍手喝采している。

鈴木・本当のこというとね、ワンピース読んでね、最初の感想「なんだこれ、ヤクザ映画だな」(笑)

尾田・(任侠映画が)好きなんだと思う・・・だったら、今回の映画(ONE PIECE -FILM- STRONG WORLD)見て欲しいなぁ(笑)後半見て欲しい。今回は僕は日本人の討ち入りDNAに問いかけたんです。雪の降る夜に討ち入りをするという。

鈴木・今回製作総指揮?10周年。

尾田・10周年でまかされたので「よし、任侠映画作ろう」と思って(笑)

鈴木・やっぱり尾田さんってすごいな。自分の年齢より昔のものを見てる人って、ものを作る人に共通してますね。

正直ワンピースには興味なかったのですが、尾田先生が中村錦之助好き、任侠映画好きと聞いては黙ってはおけない。ワンピース見にいこうかな。ただ、今はワンピースはポニョを超える記録的な大ヒットだそうで、もう少し客足が鈍ったら行く。

“鈴木敏夫のジブリ汗まみれポッドキャストその2”もひたすら映画談義。尾田さんの、というより、鈴木さんの映画一人語りになっているので興味のある方はぜひ聞いてください。ただし、アニメファンやワンピースファンはおそらく何を話しているのかまったくわからないと思います(笑)
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2009年12月15日

町山智浩・柳下毅一郎、深夜のストリーミング生中継が面白かった!

眠れずにTwitterなどをボーッと眺めていると突然起きた事態。おそらくほとんどの人が見逃しているし、録画もされてないと思うので、どんなことが起きたかを取り急ぎ記録します。

まず12月15日深夜1時52分ガース柳下(柳下毅一郎)がiPhoneを使ってUstream中継をこころみるとTwitterでつぶやく。

そこにウェイン町山(町山智浩)が登場し、電話するから柳下のiPhone番号教えろとつぶやくのが2時8分
Hey @kiichiro 柳下、i-phoneの番号、メールして。電話するから (garth live > http://ustre.am/5NJ)


そして唐突なまでに新宿ゴールデン街の飲み屋にいる柳下さんとアメリカの町山さんとの会話の映像がストリーミング生中継ではじまるのだ。自分はiPhoneを持ってないのでわからないが、iPhone2つとUstream(http://www.ustream.tv/)で世界中に生中継で発信できる仕組み。

最初は町山柳下二人とも勝手がわからないため、町山さんの音声が聞こえないが、しばらくして町山さんの音声もiPhoneから聞こえてくるようになり、二人の映画談義が始まる。(ちなみに映像はゴールデン街の飲み屋にいる柳下さんをうつしだしていて町山さんは音声のみ)

録画も録音もしてなかったので、記憶だけで書きます。あやふやなところがあるので注意。

まず柳下さんが絶賛するイーストウッド最新作インヴィクタス(invictus)をいきなりけなす町山さん。南アフリカの代表チームが勝ち上がっていくきっかけが描かれていないのが相当ご不満の様子。それでも柳下さんはマット・デイモンをはじめていいと思ったと絶賛。

次は町山さんがイーストウッドにインタビューしたときのこと。これは初耳だったんだけど、今のイーストウッドの妻は日本人だそう。40歳くらいの日本人女性だそうです。あと、イーストウッドとモーガン・フリーマンは相当仲がよいらしくイチャイチャしてて、できてるんじゃないかと思ったそうです。
イーストウッド、モーガン・フリーマン=ホモ説by町山智浩


この時点で二人のストリーミング生中継を見ているのは100人ほど、もったいない。

次は柳下さんの今年のベスト1映画「空気人形」の話から柳下さんの理想の空気人形映画話(妄想)がはじまる。空気人形を持ってる男の隣室に住む安達祐実がどうして私を抱いてくれないの!という映画だそうです・・・・町山さん沈黙。

お次はジェームズ・キャメロンの「アバター」の話題。アバターにはエイリアン2に出ていた、超マッチョ女軍人のバスケスが出ているらしく。キャメロンはホントマッチョ女好きだな〜という話。
追記・・バスケス役の人が出演しているわけではなく、ミシェル・ロドリゲスの演じる役がバスケスっぽいという話でした。というご指摘をtamatowaさんからいただきました。ありがとうございます。

ここでiPhoneの電池が切れて終了。町山柳下両氏はこれでなんとか金取れないかとスポンサーを募集。面白い試みなので是非続けて欲しい。

さらにおまけ。朝の6時30分頃Ustreamを使っての生中継に町山さんが挑戦。うまく中継することができた町山さんはこのUstreamを使って、TBSラジオKiraKiraや、アメリカ映画特電も生中継したいそうです。
町山さん中継URLはここ
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2009年12月06日

映画評を書くのに脚本家の名前を出さない奴は俺が殺す!

キネ旬のオールタイムベスト映画遺産200での山根貞男と向井康介(脚本家)の対談を読んで脚本家の憤懣やるかたない思いを知る。

他の脚本家の方の仕事を見たり読んだりしていると、脚本家それぞれの癖があることがわかってきますよね。ああ、あの人らしいお話の作り方だなとか。でも、結局、そういう部分も“監督の色”としてとらえられてることが、たまにあったりするんですよ。最近でいえば、僕が好きな脚本家に「時をかける少女」や「サマーウォーズ」の奥寺佐渡子さんがいるんですが、ああいう構成命の映画で奥寺さんが果たした役割ってもっと大きいはずなのに、それがどうして監督の細田さん寄りの評価になっちゃうのかなーとは思いましたよね。ー向井康介


向井氏のそのご不満はよ〜くわかる、よ〜くわかるけれども、キネ旬発行の細田守本を読めば、それが誤解だということがわかる。サマーウォーズの企画が検討されたのが2006年7月、2007年12月に脚本の初稿完成。そして最終稿は2008年の3月までかかっている。脚本完成まで実に1年と8ヶ月かかっている。当然ながらその間売れっ子脚本家の奥寺佐渡子を拘束できるはずもなく、奥寺はたびたび違う仕事で抜けている

「そろそろプロットくらい入りませんか?って言っちゃったくらい粘り強いというか、ずっと雑談ばかりというか。もういつになるかわからないので、私も次の仕事を入れては途中で抜けて(笑)。でも戻ってくると、少しずつ的が絞れてきている感じはありました」ー奥寺佐渡子


奥寺が抜けている間も、細田守とプロデューサー陣(角川書店渡邊隆史、マッドハウス斉藤優一郎)は延々議論を続けて物語を固めている。そしてサマーウォーズに関してはプロットは細田守自身が書いている。さらにここからが重要だが、実写映画とアニメ映画の違いは、アニメは脚本を完成させた後、絵コンテという作業がある。

じつは絵コンテというのは、必ずしもシナリオに即しているとも限らないんですよ。実写の感覚でいえば、絵コンテというのは脚本の最終稿を監督が描いているみたいなことですね。シナリオにないキャラクターが絵コンテに出てくることもある。そういうことからの逆算で、絵コンテからキャラクターをデザインすることもあります。ー細田守


こうして完成したのが映画サマーウォーズです。じゃあなんで脚本のクレジットに細田守や他のプロデューサー陣の名前が載らないのかというと、細田さんが以前いた東映動画からの伝統なのか、あるいは脚本家に敬意を表してクレジットを辞退してるのか、実際のところはよくわかりません。

ただ向井康介氏の不満は痛いほどよくわかります。ほとんどの映画評や評論家たちが映画を論じる時、脚本家の名前をあげようともしない。それは映画に関して書いてるほとんどのブログもそう。

最近もこれおかしいんじゃないかということがあって、あのイーストウッドの「グラン・トリノ」のことですが、あの映画を語るとき誰もが、というかほとんど全員がイーストウッドの人格、歴史をふまえて映画を語っているんだけど、それおかしくね?

あの映画の脚本を書いたニック・シェンクはイーストウッドのことを一切想定せずに書いたとインタビューで答えてる。しかもイーストウッドはニック・シェンクの書いた脚本をほとんどいじらずにそのまま映像化している。

今回のストーリーはニックとデイブ・ジョハンソン(ニック・シェンクのパートナー)の実体験がもとになっている。故郷のミネソタで見聞きしたことや地元の人々との交流が下敷きなんだよー「グラン・トリノ」プロデューサーロバート・ローレンツ


つまりあの映画はニック・シェンクの人生や蓄積された経験をもとに描かれた物語なんだ。それをほとんどの批評家はニック・シェンクの名前すら出さずにイーストウッドがすべて創造したかのように書いている。あの小林信彦と芝山幹郎ですらキネ旬5月上旬号イーストウッド特集での対談で脚本家のニック・シェンクに一言もふれてないのはちょっとひどいと思った。これはチェンジリングにも言えることで

「チェンジリング」にしたって、ロン・ハワードのお下がり企画ですからね。構想10年とか言われても信じてしまいそうですが。脚本のJ・マイケル・ストラジンスキーは、SFドラマとアメコミで有名な人ですが、実録物は、あれが初めてだったはず。ーTwitterよりtamatowaさんからの引用。


チェンジリングを賞賛する批評でストラジンスキーの名前をあげたものがどれだけあっただろうか?おそらくほとんど、ない。

古くは七人の侍などの脚本家橋本忍も

どんなに自分が黒澤映画へ貢献しても結局、黒澤監督一人の手柄となる。

という理由で黒澤映画から離れているし、十三人の刺客などで有名な脚本家の池上金男も同じような理由で脚本家をやめ作家池宮彰一郎に転向した。

最近では映画「アマルフィ」の脚本家トラブルで脚本家のクレジットがはずされ、激怒した荒井晴彦がフジテレビのプロデューサー二人を呼び出して糾弾のようなことをおこなっている。(月刊シナリオにその様子が収録されているが、雰囲気はそれほど糾弾っぽくはないけど、呼び出された臼井裕詞らにとっては荒井晴彦が相手というだけで恐怖だったでしょうw糾弾の内容としては脚本家との間にトラブルがあったなら架空の名前の脚本家をクレジットに出せというものでした。たとえば山中貞雄なら梶原金八というペンネームがあるというような。今月刊シナリオが手元になく記憶で書いてるのでくわしくは月刊シナリオを読んでください)

このように脚本家受難話は枚挙にいとまがない。

しかし、あえて脚本家の方に言いたいのは、批評家も監督を中心に見る“作家主義”という誤謬にとらわれているなら、脚本家も脚本が絶対不可侵の聖域だとする別の“作家主義”にとらわれているんじゃないかということです。

とくに大物脚本家ほど「俺の本を一行一句たりと変えることはまかりならん」と要求する方がいるそうですが、それこそ映画がチームによる集団作業によってできる芸術であることを理解していないのではないでしょうか。

キネ旬の細田本を読んで痛感するのは、映画はたった一人の才能で作るものではなく、多くの才能が膨大な労力と知恵を結集させ、一つの作品のために奉仕するという姿です。脚本だけが作品を支配する唯一のものという考え方は、監督が映画の唯一の創造主であるとする間違えた作家主義的考えと何ら変わらない。

ただ、映画評に関しては、誤った監督主義的なものはすぐに正せると思います。それこそが映画評ビジランテ(自警団)をおこすことだ。すなわち

街のダニどもと、映画評を書くのに脚本家の名前を出さない奴は俺が殺す!
Copyrightウィークエンドシャッフル

ホントに細田チームには奥寺佐渡子さんを大事にしてほしい。(奥寺さんはやせれば凄い美人です。でもやせないで!)
posted by シンジ at 19:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月30日

日本映画の誕生・牧野省三カツドウ屋一代

日本映画の誕生・牧野省三年表(カツドウ屋一代より)

1895年省三17歳・12月28日パリ、リュミエール兄弟がスクリーンを使って映写したものを有料公開。「汽車の到着」など。

1899年(明治32年)省三21歳・東京で駒田好洋が初めて日本映画を撮影した。キャメラは小西六商店(のちのコニカミノルタ)がフランスから輸入した最初の撮影機ゴーモンで、小西六の店員浅野四郎がキャメラを回した。といってもいわゆる実写で、新橋芸者のおえん、こいな、おえつの三人がお座敷で踊る「鶴亀」を撮ったものである。

1899年駒田好洋は清水定吉が1882年(明治15年)に起こし、1886年に逮捕された「日本初の拳銃強盗事件」をテーマに、俳優横山運平らに演じさせた映画『清水定吉(稲妻強盗)』(『ピストル強盗清水定吉』とも)を製作する。これが「日本初の劇映画」となり、犯人清水を取り押さえ24歳で殉職した警官を演じた横山は「日本初の映画俳優」となった。(駒田好洋wikiより)

1904年(明治37年)省三26歳・京都西陣の芝居小屋千本座を経営していた牧野省三は祗園芸者のお雪と恋仲になるが、お雪はアメリカ人大富豪のジョージ・モルガンに身請けされ渡米することになる。失恋した牧野は一晩で台本を書き上げ、翌日には「大悲劇、モルガンお雪」を上演し大ヒットさせる。
後年、マキノ雅弘が「モルガンお雪って、どないな女やったんや」と聞いても「そんなこと聞くな、このアホ」と怒られたという。

1907年(明治40年)省三29歳・横田商会の横田永之助(後の日活社長)に活動写真製作を依頼される。(wikiだと明治41年になっているがカツドウ屋一代では明治40年になっている)
第一回の撮影-といっても省三が千本座の舞台でやっていた芝居をお寺の境内に移した、いわゆる実写をしただけだが-明治40年5月23日に行われた。
第一回作品は「本能寺合戦」森蘭丸奮戦の場である。配役は織田信長が中村福之助、蘭丸が嵐瑠徳、いずれも千本座の出演俳優だった。(第二回作品は「菅原伝授手習鑑」)
予算は一本30円(フィルム代はのぞく)で横田から請け負っていたが、作れば作るほど赤字になり、菅原伝授手習鑑と明鳥夢泡雪の二本で二百円近くかかったという。

日本最初の映画女優は「菅原伝授手習鑑」に出た尾上梅暁(別所ます江)と省三の長女富栄(子役)
ちなみに尾上梅暁は女優とはいっても、楽屋ではフンドシ一つでのし歩き、ことばつきも男性と変わらなかったそうで、まさに“女役者”という表現がぴったりだった。

1907年(明治40年)省三29歳・編集の発見すなわち映画技法の誕生-「明鳥」撮影中、雪攻めの場面で、裏方が紙をきざんだ小道具の雪をかごに入れて振っていたら、突然縄が切れて熱演中の役者の頭の上に落ちてきた。一同驚いたが、キャメラが回っているのでどうすることもできない。そして、そのフィルムをそのまま小屋に出したが、その場面にくるといままで涙を流していたお客がドッと笑い出して、せっかくの悲劇がアチャラカ喜劇になってしまった。さすがの省三も早く上映が終わってくれと身の縮む思いだった。

浅草の富士館でもやはりドッと起こる笑い声に館主や説明者が手を焼き、映写技師に「なんとか、あそこを切れないものだろうか」と相談した。技師も賛成して、監督の省三に了解を求めてきた。「活動写真のフィルムは、切っても大丈夫でしょうか」予想もしなかった言葉を聞いた省三は「もしつながらなくなっても、毎日冷や汗をかいたり笑われるよりええやろ」と賛成した。そして例の場面を切ってつないでみると、立派につながっている。
「うーん、これができるなら、今度は長い芝居の間に大写しを入れることもできるし、同時に進行している二つの事件を交互に見せることもできる」いわゆるカットバックの手法はここで発見されたのだった。

1909年(明治42年)省三31歳・日本映画最初の大スター目玉の松ちゃん-省三が尾上松之助を発見したのは岡山県玉島町の芝居小屋だった。西日本を中心に活躍していた松之助に光るものを感じた省三は早速スカウト、はじめて千本座に迎えたときの給料は八十円という高給だった。芝居の評判も上々で省三は活動写真にも松之助は使えると、嫌々だった松之助を口説いて松之助主演第一回作品「碁盤忠信」(1909)を撮る。

当時の松之助の出演料は月額30円。省三の月給と同じ。さらに夜の芝居の分の80円をあわせて110円という高給取りだった。
(ちなみに明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8〜9円ぐらい。一人前の大工さんや工場のベテラン技術者で月20円ぐらいだったようです。このことから考えると、庶民にとって当時の1円は、現在の2万円ぐらいの重みがあったのかもしれません-日本と世界のお金の歴史 雑学コラムより抜粋)
・・さらに参考までに夏目漱石明治40年、東京朝日新聞社入社、月俸200円+賞与。(このとき、東京朝日新聞社の社長は、月俸150円)目玉の松ちゃんより漱石のほうが金持ってる!

1910年(明治43年)省三32歳・有名な目玉の松ちゃんのあだ名が生まれたのは三本目の「石山軍記」に出演したとき。楠七郎正具に扮した松之助は、櫓の上から声高らかに御文章を読み上げ、敵軍の足並みが乱れるのを見て、キッと目玉をむいて歌舞伎独特の見得を切ったのである。これらの場面が上映されると見物人は「よう、目玉ァ!」と大喝采を送り、以来尾上松之助は“目玉の松ちゃん”の愛称で呼ばれることになったのである。

当時はシナリオなどなく、すべて省三の頭の中にあった。これを役者が口うつしでおぼえた。ただし段取帳というものはあった。段取りと場面割りを書いただけでセリフなどは一行も書いてない。これだけは省三が助手に口述で筆記させた。だが、当時裏方に字の書ける人間はあまりいなかったので、役者の中から字が書けるものが選ばれ、そのまま役者をやめて監督助手、監督への道をたどった。沼田紅緑、辻吉郎などがそうである。

1914年(大正3年)省三36歳・目玉の松ちゃんで有名なのは児雷也、猿飛佐助などの忍術映画、これらの忍術映画が松之助を不世出の大スターに押し上げた。松之助のフィルモグラフィをみると児雷也が1914年、ちなみに記録に残っているだけで松之助は1914年だけで83本もの映画に出ている(実際はおそらくそれ以上)

ただこの忍術映画の大ヒットは二つの意味で省三を苦しめることとなる。ひとつは自分の手で大スターにしたはずの松之助の増長である。脚本、芝居に口をはさむようになった松之助の態度を苦々しく思う省三。さらに映画と現実を混同した子供たちの間で忍術ごっこが大流行。それにより重傷を負う子供が何人かあったのだ。

これに関してマキノ雅弘は一生忘れえぬ悲痛な思い出がある。その頃父と一緒に人力車に乗って撮影所から帰宅の途中、バラバラと子供たちが出てきてぐるりと車を取り巻き
「このウソつき、印を結んでも消えんやないか」
と口々にののしりながら、石を投げつけるのである。省三は「すまん、かんにんしてえなぁ」と飛びくる石をよけようともせず、じっとうずくまっていたという。

1915年D.W.グリフィス「国民の創生」1916年「イントレランス」製作

1921年(大正10年)省三43歳・省三はこの二つのことに嫌気が差し、教育映画を撮ることにのめり込んでいく。日活から独立してマキノ教育映画製作所を設立、のちにマキノ映画株式会社を創立。マキノプロダクション全盛時代を築き上げていく。

1923年(大正12年)省三45歳・そして松之助に次ぐ大型時代劇スター阪東妻三郎、いわゆる阪妻が誕生したのもこの時代だった。
阪妻ははじめは「御用、御用」の捕り手の端役として出演していたが、ひとくせありげな容貌とスケールの大きさが省三の目にとまり「おまえは明日から主演や」そういって省三が阪妻に与えた役は、寿々喜多呂九平脚本の「鮮血の手形」1923であった。鮮血の手形は大成功を収め剣劇スター阪東妻三郎の名は一躍有名になった。

1924年(大正14年)省三46歳・アメリカ・カリフォルニア州の制定した排日的な移民法への報復措置としてアメリカ映画をボイコットしようという動きがあった。主唱者は日活の横田永之助。それに対し敢然と反対を表明したのは省三だった。
そのときの省三の言葉が「文化に国境なし」

1925年(大正14年)省三47歳・これまで尾上松之助、阪東妻三郎という二大スターを作った省三であったが、松之助とは日活時代に袂を分かち(1926年尾上松之助死去)、妻三郎の方は東亜キネマから独立するとき連れて行きたいと思ったが、世間に対して引き抜きをしたとの印象を与えるのを嫌ったばかりに、結局松竹に行かれてしまうという苦い経験をなめた。
省三にとってこの二人に次ぐ大スターの発掘が急務だった。そのメガネにかなったのは当時売り出し中の歌舞伎俳優・市川右一(のちの市川右太衛門)。右太衛門マキノプロ入社第一作「黒髪地獄」1925、省三が自ら監督した「怪傑夜叉王前後篇」1926で右太衛門の人気はうなぎのぼりになっていく。

1926年(大正15年)省三48歳・その右太衛門と共にマキノをになう両輪とうたわれたのが月形龍之介。月形の相手役は「文明の復讐」1925で省三の四女マキノ輝子と共演して以来常にマキノ輝子と決まっていたことから、ついにふたりは本当に愛し合うようになり、妻子ある月形は輝子と不倫駆け落ちしてしまう。

1927年(昭和2年)省三49歳・市川右太衛門の他にも省三はスターの発掘と育成を怠らなかった。昭和2年初頭マキノ映画のポスター印刷を引き受けていた大阪の印刷屋加藤清正堂の主人がやってきて大阪の若手歌舞伎俳優嵐和歌太夫を推薦。それが嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)である。第一回作品は大佛次郎原作、山上伊太郎脚色、曽根純三監督「角兵衛獅子」1927もともと角兵衛獅子の子杉作(松尾文人)を主人公に企画されたものだが、長三郎の扮した鞍馬天狗に人気が集中し、以後アラカンの十八番になった。

嵐長三郎の入社が決まった翌日、マキノ邸に直木三十五がやってきて若手歌舞伎俳優の片岡千栄蔵(のちの片岡千恵蔵)を推薦。第一回作品は吉川英治原作、中島宝三監督「万花地獄」1927長三郎の「角兵衛獅子」の次の週に封切られたが、角兵衛獅子が華々しくヒットしたのに対しこちらは地味な幕開け。それでもじょじょに人気がでてきて大スターとなっていく。この頃のマキノプロがもっとも成功した時代で牧野家資産も120〜130万とも新聞に書かれた。省三も人力車から自動車で通勤していた。

1928年(昭和3年)省三50歳・50歳となった記念に一生の金字塔ともなるべき作品を残したいと家族に相談。妻の知世子はすかさず全通しの忠臣蔵をすすめる。省三一世一代の超大作「忠臣蔵」である。省三がこの忠臣蔵にかけた費用は32万円という巨費。1本が4、5万円でできる時代のことである。

映画はキャスティングに難航する。当時のマキノには月形、千恵蔵、長三郎と若手こそ充実していたが、肝心の大石内蔵助を演じる役者がいない。最初は関西歌舞伎の重鎮、実川延若(じつかわえんじゃく)に頼んだが、松竹が横やり。というのも衣笠貞之助がマキノを離れ松竹に移籍したその報復ではないかと松竹に誤解されたのだ。省三は大石役が決まらぬまま強引にクランクインした。

次の候補は松本幸四郎(七代目)交渉は順調に進んだが、土壇場になって幸四郎が断ってくる。その理由をマキノ雅弘はこう分析している。第一に延若ができなくなった役を自分がやるのは出し抜いたような印象を与えることを怖れて。第二に吉良上野介を演じる市川小文治とは格が違いすぎて周囲が共演することを阻んだ。

最終的に新派の最高幹部伊井蓉峰がキャスティングされた。省三が撮ろうとしていたのは歌舞伎調の忠臣蔵ではなく、実録忠臣蔵であり、なまじっか型の決まった歌舞伎調の忠臣蔵を知っている役者より、白紙で演じてくれる新派の伊井の方が作品にマッチすると考えたのだ。だが、伊井は省三の期待を裏切る。伊井は出演が決まると幸四郎の家を訪れ、歌舞伎調の大石を教わり、その通り演じてしまったのだ。

省三の思うとおりに演じてくれない伊井、いつもならどなりつけるはずの省三も三顧の礼で迎えた伊井に対して何度もやり直しを要求するわけにはいかない。そうした焦りと心労が省三の体を蝕んでいった。

1928年3月5日撮影は何とか終わったものの、事件は編集中に起きた。当時の編集方法はラッシュフィルムを束にして首にかけ、いちいち電球ですかして見ては、ハサミで切り、貼っていくという原始的な手法しかなかった。5日の夜は徹夜で、6日もそのまま作業は続けられた。タフなスタッフたちもさすがに疲れて一人減り、二人減り、6日の午後6時頃になると編集室は省三だけになってしまった。そのとき、何十時間もつけっぱなしで過熱していた電球の熱で可燃性のフィルムは燃え上がった。そしてたちまちマキノ邸は炎に包まれ全焼したのだった。

皮肉なことに焼けたフィルムは伊井の出演場面ばかり、そんなこともあってマキノ雅弘は父省三が気に入らぬ映画を世に出すくらいなら自ら・・・と推理しているが、さて・・・。

1928年(昭和3年)5月・マキノプロから片岡千恵蔵、嵐長三郎などのスターが大量離脱する。この窮地にマキノ雅弘は孤軍奮闘する。スターがいないのならスターの必要ない集団映画を作ろうと「浪人街第一話美しき獲物」を撮る。雅弘は1928年度のキネ旬の1位「浪人街」、4位「崇禅寺馬場」、7位「蹴合鶏」と三本をベスト10に送り込んだ。省三は息子のキネマ旬報の授賞式にも出席し「なんであんな映画が1位になったのかわかりません」と挨拶し雅弘をハラハラさせている。

しかしこの頃にはすでに省三の体調は悪く、やがて病に伏せるようになるが、病床からも手紙や電報で撮影所に指示を出し、脚本はすべて読んで意見を書き送ってきた。

1929年(昭和4年)7月25日・牧野省三死去、享年50歳。省三臨終の枕元にいたのは妻、子供たち、生涯のライバル横田永之助、心を許した友、池永三治(池永浩久)、娘婿の竹本辰夫だった。


これは、自分用の資料として書いたものであり、マキノ雅弘著の「カツドウ屋一代」から抜粋したものを年代別に整理して書きだしたものです。多くはカツドウ屋一代からの抜粋ですが、wikiからの抜粋や、シンジの文章もあってごちゃまぜなので注意してください。
posted by シンジ at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする