2024年03月17日

米アカデミー賞のアジア人透明化現象を擁護する人たちの考察

米アカデミー賞でのアジア人透明化現象について、なぜアメリカ在住の日本人たちはこれは差別ではないと白人俳優を擁護するのか?この現象をジョージ・オーウェルから読み解きたい。

オスカーでの人種差別を米メディアが書かない訳
「失礼だったが、人種差別とは限らない」
https://toyokeizai.net/articles/-/740839

冷泉彰彦
「こうした事件を取り上げて、ハリウッドやアメリカで社会的なアジア系差別があるとか、自分も被害者だとして憤ったり、アメリカへの不快感、距離感を表明したりするのは、やや過剰な反応と思います」
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2024/03/post-1346.php

ビルマで警官をしていた作家のジョージ・オーウェルは白人よりも白人に仕える現地の人々のほうが同胞であるビルマ人に対し苛烈なあつかいをすることを見てきた。彼らは支配階級(白人)の文化を受容し自分たちを白人に擬すれば擬するほど自分の出自に引け目を感じることになる。

そしてその引け目があるからこそますます支配的価値への同化と忠誠を強めていく(ジョージ・オーウェル評論集1解説)私はこれでいわゆる欧米出羽守のほとんどすべての説明はできると思っている。

これらの人々をロドニー・スタークは「人がふたつの集団に属しているとき、そのことで矛盾を抱えたり、どちらの集団においても低い地位に押しやられる圧力を受けたりすることを周縁化という。人々は周縁化された位置からの逃避あるいは解消を試みるだろう」

周縁化された位置からの逃避あるいは解消の試みこそが「支配的価値観」への同化と忠誠に。そしてそうした価値観に染まらない「劣った」ものに対する苛烈な扱いにつながるのだろう。

人種差別的扱いを受けたとき、どうすればよいのかもジョージ・オーウェルは教えてくれる。

「人種差別が実際に起こったら、いつでもできるだけ仰々しく騒ぎ立てることが極めて重要である。なぜならこれは騒ぎ立てることが何かを成し遂げうるような事柄のひとつだからだ。」−ジョージ・オーウェル「有色人種立ち入り禁止」
posted by シンジ at 12:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月26日

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武の新作映画「首」は織豊時代のアウトレイジである

北野武監督の「アウトレイジ最終章」後の新作映画が決まったようだ。文藝春秋2019年1月号でのビートたけしと伊集院静との対談で明かしている。

たけし−いま、ずっと映画にしたいと構想している。本能寺の変を題材にした「首」って歴史物を、小説とシナリオで同時に進めてるんです。片っ端から史料を読んでノートを取るでしょ。そうすると、こんなに積み上がっちゃって。どうしていいか書きあぐねている感じですよ。

伊集院−ちょっとしたきっかけがあればそこから飛躍するのはあっという間ですよ。私も取材をするけれども、実際の小説は資料や聞いた話とは別に育っていくから。

たけし−今年は小説を六本書いちゃったんで、来年はしっかり「首」に集中しようかと思ってるんです。

伊集院−映画「首」は、いつ頃撮るご予定ですか?

たけし−「いだてん」(NHK大河ドラマ)が終わってからでしょうね。大河で俺は古今亭志ん生さんを演るんですけど、セリフは少ないんです。だいたい月二回の撮影で来年の九月までかかるのかな。(文藝春秋2019年1月号)


2019年9月以降撮影開始と予想される「首」とはずばり「織豊時代のアウトレイジ」である。この企画はもう十年以上前から北野武の口にのぼっては消える幻の企画だった。

北野武はつねにいくつかの映画企画を準備している人なのだが、「首」も企画はされるもののオフィス北野の森昌行元社長に却下される映画のひとつだった。

却下された映画企画の中には、たとえば障害者にピナ・バウシュ風のダンスを躍らせる時代劇だったり、のちに小説「アナログ」として結実した恋愛ものもあった。映画「首」も森昌行に却下されて日の目を見ないはずの映画だったのだ。

しかし事態は急転した。北野映画の企画をさまざまな理由で却下しつづけて、本人が撮りたくもないヤクザ映画の続編を二本も無理やり撮らせた元凶はもう存在しない。

北野武が本当に撮りたかった企画「首」がついに始動したのだ。ただ森昌行が「首」を却下した理由もわかる。映画「首」の内容を北野武監督自身の証言から追ってみよう。

豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。

でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。

その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。

それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。

それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」

まさに本人が話す内容から見ても「織豊時代のアウトレイジ」と呼ぶにふさわしい内容だ。だが織豊時代を描く、さらには高松城の水攻めや中国大返しを描くとなると莫大な予算がかかってしまう。森昌行が映画化に二の足を踏んだのも理解できる。

しかしどうやらこの「首」にGOサインが出たということはお金を出してくれるところが見つかったようだ。シナリオと同時に小説も書くということはその小説の出版社がお金を出してくれるのではないか。

そしてその出版社とは北野武の小説「ゴンちゃん、またね。」や「フランス座」を出版した文藝春秋社ではないだろうか。

同じ出版社である新潮社が映画「関ヶ原」に出資してそれなりの手ごたえを得た(興行収入24億円)ことも文藝春秋社には念頭にあったのではないか。そしてここで満を持して日本を代表する出版社が世界的巨匠の映画に出資するのだ。楽しみでならない。

北野武新作映画「首」見るまでは生きていようという気にもなるものだ。
posted by シンジ at 19:34| Comment(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

なぜ映画ジョジョの奇妙な冒険と東京喰種は失敗したのか?「進撃の巨人トラウマ」という背景

なぜ映画ジョジョの奇妙な冒険と東京喰種は失敗したのか?「進撃の巨人トラウマ」という背景

日本の映画界は近年漫画原作に頼るのが常だ。理由はオリジナル作品や原作が小説の場合、客がどれくらい入るかまったく読めないのに対し、すでに数百万部、数千万部も売れている漫画原作は、映画会社上層部にプレゼンしやすく、製作委員会方式なら金も集まりやすい。わかりやすい「数字」が見える以上成功もたやすいと考えられているわけだ。

なかでも漫画として1億部以上売れているジョジョの奇妙な冒険や1800万部以上売れている東京喰種(グール)は熱狂的なファンが多い超人気作であり、映画化に期待されていた今年一番の注目作であったことは間違いない。JOJOなら東宝とワーナーが組むという異例の体制での大作であり、東京グールは松竹史上でも最大の予算をかけたと喧伝される大作だ。

だがしかし、こうしたメジャー映画会社の鳴り物入りの企画がまさかここまで無残に失敗するとは誰が予想しえたであろうか。

JOJOの奇妙な冒険の興行収入初動(土日二日間)は動員11万7000人、興収1億6600万円、ランキング5位だった。初動1.6億円がどういうことかを簡単に説明するとほぼ確実に最終興収10億円に届かない目も当てられない大失敗ということになる。

東京グールは初動が16万6000人、興行収入約2億3200万円、ランキング5位。この数字は悪くないように思えるが、なんと公開2週目はベスト10圏外という異常事態。これも興収10億円には届かずに終わる可能性が高い。大惨敗といっていい。JOJOもグールも映画会社は興行収入30億円以上を当て込みシリーズ化をもくろんでいたはずなのに。

いったいなぜこのような興行的惨敗が起きたのか?まず映画公開前の問題点をあぶりだしてみよう。

特にJOJOに顕著なのだが、本来映画の口コミの火付け役=アーリーアダプターとなるべき原作ファンが映画製作発表時に一斉に敵に回ったことが誤算中の誤算だった。

・アーリーアダプター(Early Adopters:初期採用者):流行に敏感で、情報収集を自ら行い、判断する人。他の消費層への影響力が大きく、オピニオンリーダーとも呼ばれる。市場全体の13.5%。

・アーリーマジョリティ(Early Majority:前期追随者):比較的慎重派な人。平均より早くに新しいものを取り入れる。ブリッジピープルとも呼ばれる。市場全体の34.0%。

・レイトマジョリティ(Late Majority:後期追随者):比較的懐疑的な人。周囲の大多数が試している場面を見てから同じ選択をする。フォロワーズとも呼ばれる。市場全体の34.0%。
ーイノベーター理論
http://www.jmrlsi.co.jp/knowledge/yougo/my02/my0219.html


JOJOファンの動向はおもにSNSなどで収集していたが、最も目立つところでファンの不満が可視化されていたのがYOUTUBEの公式予告動画のコメント欄だろう。

映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』予告2
https://www.youtube.com/watch?v=FwMv9zt_hDA

>俳優より監督にムカつく!
>糞映画確定。はよ死ねや
>大コケ続きの三池にはもう漫画原作ものはやらせない方がいいんじゃないか
>キャスティング意味不明だわ 承太郎マッチして無さすぎるし業界の「とりあえず山崎賢人使っときゃ何とかなる」脳、細胞単位で死滅してほしい
(コメント欄より抜粋)

等々、読んでるだけで気分が悪くなる罵詈雑言の嵐。低評価が高評価をはるかに上回る散々なコメント欄。ファンがこれだけ激怒している理由はおもに監督である三池崇史への不満。監督の前作、映画「テラフォーマーズ」への不満が背景にあるようだ。

そして多くの漫画原作ファンに共通する日本映画全般に対する不信。自分たちの愛する漫画がことごとく日本の映画会社によって「糞化」したことによる怒りは相当大きいようだ。私はこれを「進撃の巨人トラウマ」と名づける。

日本に一大ブームを巻き起こし、経営難の講談社をも救ったといわれる漫画「進撃の巨人」。映画が公開された2015年当時はまだそれほど原作ファンの実写映画化に対する拒否反応は少なかったように見える。しかし映画が公開されて事態は一変する。あまりにもあまりな出来にファンが激怒、Twitter上にいる映画制作者たちにその怒りを直接ぶつけるという事態になったことは記憶に新しい。

映画「進撃の巨人」酷評に監督やスタッフがブチ切れ 大人の対応した石原さとみだけ「株急上昇」
https://www.j-cast.com/2015/08/03241857.html?p=all


私はこの「進撃の巨人」映画化以降、漫画ファンの日本映画への憎悪が目に見えて高まったと見ている。

この進撃の巨人トラウマこそが、JOJOファンが公開前の映画に対しここまでむき出しの憎悪をむける背景となっていたのは間違いない。実写映画化を憎悪するJOJOファンは当然のことながら映画公開時に動こうとしなかった。すなわちアーリーアダプターとなるべき人々が映画にそっぽを向いた以上、口コミもきかず、SNSも踊らず、映画JOJOが大惨敗を喫するのはもはや必然だったといえよう。

アーリーアダプターがどれほど映画興行に影響を与えるかを見るには、「シン・ゴジラ」が適当だろう。シンゴジも公開前はそれほど評判はよくなかった。庵野秀明の実写映画の前作は、あの「キューティハニー」(2004年)だぞという嘲笑の声。試写をまったくやらないのは映画の出来に自信がないからだ、等々。

だがゴジラには初日に必ず駆けつける長年のゴジラファンがおり、庵野作品なら是が非でも観るという特濃エヴァヲタも存在していた。彼らはみな頼もしいアーリーアダプターといっていい。そして彼らは実際に作品を見て、その見事なできばえをSNSや口コミで拡散していく。アーリーアダプターが飛びついて拡散したものを映画館まで足を運ぶことに慎重なマジョリティが後追いをするようになる。実際私もシン・ゴジラはある程度客足が落ち着いてから見に行こうと思っていたものが、ネット上でのあまりの熱狂ぶりにあわてて公開二日目に足を運んだほどだった。シンゴジラの興行はアーリーアダプターが熱狂を拡散し、マジョリティが後追いするという理想的かつある意味典型的な動きだったといえるだろう。

そしてJOJOの興行はアーリーアダプターたりえた原作ファンを動かせなかった時点ですでに「詰んでいた」

JOJOも東京グールも公開前から「進撃の巨人トラウマ」というハンデを背負っていたのだ。しかしそれも作品の質が高ければ、そんなハンデや悪評も消し飛ばせただろう。だが実際に聞こえてくる評価はJOJOもグールも「決して駄作ではないが・・・」という消極的なものばかりだ。

私自身も二つの作品を見てこれは原作ファンが悪し様に罵るような駄作ではないと感じた。むしろ制作者たちは漫画ファンの「進撃の巨人トラウマ」を見越して、かなり原作に忠実に作ろうとした意図がうかがえる。

しかしJOJOも東京グールも漫画原作に忠実であろうとしたばかりにある共通した問題点を抱えている。具体的には作品の「テンポの悪さ」であり、そのテンポの悪さは二つの理由から生じている。

ひとつは原作に忠実であろうとするあまり、原作のエッセンスを凝縮する作業、いったん原作を解体し再構築するという作業を怠っている点だ。

これは漫画と映画の根本的な表現の違いによる。長期連載漫画は数多くの登場人物をさまざまなエピソードを通して深く描きこめるという利点がある。それに対し映画は2時間程度の間ですべてを表現しなくてはならないため、セリフやシーンに特徴的な意味を持たせるための「象徴化」や「シンプル化」が行われ、結果として作品は「省略化」と「スピード化」がなされる。これが原作のエッセンスを凝縮する作業、原作を解体し再構築するという作業なのだが、映画会社はこの作業を放棄したのである。これは進撃の巨人トラウマを反省したがゆえの決断だった。

映画「進撃の巨人」は原作がまだ続いているだけでなく、原作者自身からの要請により原作から大幅にストーリーを変えることを強いられた。原作を解体-再構築する必要があったのだ。そしてその結果が映画界を震撼させることとなる罵詈雑言の非難が日本映画や映画スタッフへ向けられる「進撃の巨人トラウマ」を生み出したのだ。そしてそのことを深く反省した映画人たちは「映画はなるべく原作ファンを裏切らないため原作のストーリーをなぞること」という結論を出すにいたる。

トラウマが生んだ要請。それは映画本来の持ち味である飛躍や省略を駆使した映画文法が省みられずにほとんど愚直なまでに原作のストーリーをなぞることに徹するというルールを生み出してしまった。映画的な躍動感やスピード感を犠牲にして、映像表現が漫画のストーリーを伝えるだけの道具に成り下がってしまったのだ。

JOJOの三池演出で特にテンポの悪さが目立ったのが、東方仗助の家族のシーン全般だ。人間ドラマ部分は全部カットして、アクションシーンのつらなりだけで構成してしまう大胆さがあってもよかった。原作を尊重するという意識が、三池監督が本来持つ遊び心さえ失わせてしまったのか。結局尊重されていたのは原作のストーリーだけであり、本来JOJOが持っていた遊び心、エキセントリックな表現は鈍重な演出にスポイルされてしまった。

これは東京グールも同じで、映画は終始原作からはみ出るような過剰さを一切持たずに、淡々と原作をなぞるスクエア(=生真面目)な印象だけが残る出来となっている。

実際JOJOにもグールにも思わず「ハッ!」とするようなカットやシーン、度肝を抜くようなカメラワークも構図も見られなかった。映像表現はただ物語をなぞるために使役される道具でしかなかった。

テンポの悪さを生む二つ目の理由は、身体性とCGの相性の悪さだ。

東京グールで一番ワクワクしたシーンはなにあろう、窪田正孝と清水富美加の映画「ロッキー」ばりの特訓シーンだ。高速度でお互いの身体と身体がぶつかりあう攻防、凄まじい両者の身体能力の高さと格闘技術。二人の才能ある俳優のアクションに魅了されてしまう。

だが惚れ惚れするのはここまでで、グールがもつ「赫子(カグネ)」という触手のような武器による戦闘シーンではCGが全面的に使われるため、途端に俳優の持つ身体性の輝きは失われていく。あれだけスムーズに行われた肉体同士の攻防がCGに置き換えられるとワンテンポずれてしまうのだ。

またアクションシーンにCGを多用することは、テンポが悪くなるひとつ目の理由にも関係してくる。俳優の動きにあとからCGを付け足す作業があるため、カメラは動かすことができずフィックスのままにならざるえない。平凡なカメラワークや構図の理由もここにある気がする。

JOJOの三池崇史監督、東京グールの萩原健太郎監督ともにものすごくまじめに映画を撮っていることはあきらかだ。それも原作に誠実に向きあい、原作を尊重したきまじめさが、逆に映画的なものを奪わせているという皮肉な結果になってしまってるのだが。
posted by シンジ at 19:21| Comment(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月04日

庵野秀明は天才か二流か。庵野秀明論

庵野秀明は天才か二流か。庵野秀明論

「人間が天才でいられる時間は短い。しかしプロは生涯プロでいられる。才能を技術として体系化できるからだ。」佐藤大輔「虚栄の掟」


庵野秀明の評価はエヴァンゲリヲン、シン・ゴジラを経てもなお毀誉褒貶が激しいように見える。その評価には天才というものもあれば、オリジナリティのない映画作家というものもある。

いったい庵野秀明は天才なのかそうではないのか。

たとえば押井守はTVBros2016年9月10日号でこういうことを言っている。

(庵野は)全部コピーだよ。レイアウトからテーマにいたるまで、言ってみればすべてがコピー。初代「ゴジラ」と同じレイアウトがどんだけ出てくるか知ってるの?わざわざゴジラと電車を組み合わせたのも初代「ゴジラ」を意識したものだし。さっきも言った岡本喜八の「日本の一番長い日」とか、数えだしたらきりがない。


庵野の色は何かといえば、真っ白なんだよ。あいつの好きだったものが全部、反射されているだけ。芯というものがないんだけど、それが庵野という存在。一応言っておくけど否定的な意味じゃなくて、客観的にそうだといってるだけだからね。ただしその反射する能力は天下一品であるということ。コピーの天才であるだけで、本当にたいしたもんだと思うよ。ー押井守


押井守の庵野評価は「コピーの天才」。褒めているようで実際は揶揄しているかのようだ。

また映画評論家で庵野秀明を高く評価しているモルモット吉田氏も庵野秀明は映画作家として欠点だらけの存在であると指摘する。

庵野実写映画の最大の欠点となるのが、俳優という自意識を肥大化させた表現者をコントロールできないという問題である。基本的に演技は俳優にお任せで、庵野はカメラアングルや、画面内のレイアウトを作りこむことに専念しているのは映画を観ても伝わってくるが、『ラブ&ポップ』の様なドキュメンタリー的な手法が内容にも合致する場合は成功するものの、『式日』で藤谷文子と大竹しのぶのアドリブ合戦を長回しで見せるなどというシーンになると、過剰な演技を編集で除去できなくなり、映画全体の均衡すらも崩している。


(庵野は)描写を積み重ねて〈過程〉を描くことに興味がないのだ。そこが庵野実写の重大な欠落部分でもあったが、『シン・ゴジラ』でその欠点が目立たずに済んでいるのは、膨大な情報量と台詞を絶えず流し込むことで、過程の省略を補っているからだろう。ー「モルモット吉田が評する実写監督としての庵野秀明」Real Sound映画部



実写監督としての庵野秀明は、娯楽大作を自在にこなせるタイプではないにもかかわらず、このプロットはかなりの職人的技倆が必要とされる内容なのである。庵野が優れているのは、予算規模と自身の能力とを的確に計算し、〈出来ること/出来ないこと〉の線引きが明確なことだろう。
『シン・ゴジラ』脚本から見えた“もう一つの物語” 『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』徹底考察・Real Sound映画部



モルモット吉田氏の庵野評価は映画作家としてはともかく「演出家としては二流」といったものだろう。吉田氏の指摘が全面的に正しいかどうかはわからない。私は撮影現場での庵野の演出法を見ているわけでもないし、庵野の演出を受けた俳優たちにインビューしたわけでもないからである。しかし「シン・ゴジラ」に出演した映画監督でもある塚本晋也はこう証言する。

重要なセリフを言うシーンについて「庵野監督がものすごく興奮して、『あなたはそのために雇われた』と言った。緊張してトイレで練習した」と、大げさな演技で再現。「ダメ出しもされず毎回その調子でやっていたら、本番前に『じゃあ普通にやってください』って。庵野監督はそこがうまい。普通と無茶苦茶の狭間がちょうどいい演技で、最終的に導き出すことが見えていた。さすがの演出術ですよ。ただ者じゃありませんね」ー『シン・ゴジラ』キャストが語る裏側



また矢口蘭堂(長谷川博己)がヤシオリ作戦前に自衛隊特殊建機小隊に向かって演説する場面で、最初のテストはよかったが、本番1回目で長谷川博己のボルテージが落ちたときがあった。そのときの庵野は長谷川博己をこう演出したという。

「最初のあなたの芝居を見て、僕はとても感動しました。きっとあなたは昨晩、こういう風にやろう、ああいう風にやろうと、考えたんだと思います。その思いをずっとため込んで、ため込んだものがテストの1回目に全部出たから、それが届いて、僕は感動したんだと思うんです。けれど、2回目は、同じように持っていこうという意識が働いて、ちょっと、作り物っぽくなっていました。次は、うまく見せようとか、リズムよくしゃべろうとか、そんなことを考えなくていいので、自分の感情の流れのまま、セリフをしゃべって欲しい。語尾とかも言いにくかったら変えてもらって構わないですから」ージ・アート・オブ・シン・ゴジラ 大庭功睦監督助手による証言


塚本晋也に対するものといい、長谷川博己に対するものといい、見事な俳優操作術といっていい。

はたして庵野秀明は「オリジナリティのないコピーだけの存在」で、「俳優をまともに演出できない二流の演出家」なのか。だとするなら、庵野は何を評価されているのだろうか。

「天才」の定義を考えてみよう。天才とはギフテッド (gifted)という呼称もあるように、天から、もしくは神からの「贈り物」。あるいは「無」から「有」を生み出す才能といわれる。

こうした定義ですぐにイメージが沸く人物は手塚治虫だろう。たいしてインプットがあるとも思えないのにあの膨大なアウトプットの量。無限とも思われるアイデアの数々。ギフテッドとしか呼びようのないものを手塚治虫は授けられた様に見える。

たしかに「天才」がこういった定義なら庵野秀明は「天才」の定義には当てはまらないように思える。庵野は自身も認めるようにコピー世代であり、引用やオマージュ、自分の好きな作品のコラージュで映画を作っているように見えるからだ。彼は無から有を生み出すことなどできないし、作品を創るごとに空っぽになり、次の作品を創るまで何年もインプットしなければならない人だ。

庵野秀明は近代が作り出したイメージの「天才」ではないことは確かだ。では彼はいったい何なのか?私は彼を「高度資本主義消費社会」に特化した天才といいたい。

「高度資本主義消費社会」をボードリヤール風にいうなら、消費が財の取得や蓄積を価値において上回り、差異と意味を生産する。そしてその差異と意味の関係性をさらに消費する世界のことである。

庵野秀明をこう評した人がいる。
anno001.png
宮崎監督の諸作品を見ても分かると思うが、あの人は組織を描けない。あの人が組織を描くと、例えばカリオストロやラピュタで出てきた軍のように、カトゥーン的な戯画化された形になってしまうんだ。あるいはもののけ姫のタタラ場のような、中間層のないフラットな組織になってしまう。


anno002.png
これってつまり、宮崎監督は組織を信じていない、組織を理解できないって事だと思う。対して真逆な監督は押井守なんだけども、この人の欠点は組織を理解できるが信じていないって事かな。彼が描くとどうしても組織への絶望感が強調されてしまい、個人力という方向になりがちなんだ。


anno003.png
この2名に比べ庵野監督は非常に健康的というか、全員が力を結集して物事に当たるというのをナチュラルに描けているんだ。実のところ庵野監督のこの作風はトップをねらえの頃から全く変わっていないんだ。


宮崎駿は組織を理解できないし信じていない、押井守は組織を理解はできるが信じてはいない。それに対し庵野秀明は組織を理解できるし組織を信じている。

この対照的な作風は庵野秀明と宮崎駿、押井守とを決定的に分かつ資質だ。庵野秀明は映画作家であると同時に、組織運営をつかさどる経営者でもあるのだ。経営者庵野秀明が自身の経営術についてだけ話す貴重なインタビューがある。

「庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年」
http://diamond.jp/articles/-/107910

ここでの庵野は暴君的な映画作家として知られる彼の姿とは程遠いものだ。ビジネスマン庵野はコスト意識を重視し、リクープラインを押さえた商売をすることを常に念頭に置いているという。

──経営で重視しているのはどのような点ですか。

庵野・言い方が難しいのですが、「なるべくもうかる商売をする」ということを意識しています。リクープラインを押さえた商売をする、つまり赤字にしないということです。

そのためには、麻雀に例えれば、トップを狙わずに2番手に位置し続けるということです。トップを取れなくても、負けないようにする。それには相手に振り込まず、良くても満貫(5翻)を狙うぐらいでいい。それを何年か繰り返していればおのずと一番になれるということだと思います。

──役満(13翻以上)狙いではないのですね

庵野・よほどのことがない限り、勝負には出ません。満貫止まりでいいのです。その考えも、私の性質かなと思っています。

監督のときもリクープラインを常に考えています。唯一考えなかったのは、実写映画『式日』のときだけです。あれは当時の徳間(康快・徳間書店)社長が「これは商売抜きでいい」とおっしゃったので。ー「庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年」


ジ・アート・オブ・シン・ゴジラで明らかになった現場乗っ取り事件を起こした張本人とは思えない、あまりにも現実主義的、ビジネスライクな考え方にあ然としてしまう。

古今東西の偉大な映画監督たち、D.W.グリフィスやエーリッヒ・フォン・シュトロハイム。溝口健二や黒澤明。フェリーニやヴィスコンティなどの「近代的天才」イメージの監督たちとは根本的に異なった存在といわざるえない。

彼ら近代的イメージの天才たちは金に一切糸目をつけないで、どれだけ撮影時間が押そうが、雲が晴れるのを何週間でも待ち自分のビジョンを実現するためにあらゆる犠牲を強いる存在だ。

それに対し庵野はコスト計算をし、リクープラインを常に考え、貸借対照表(BS)と損益計算書(PL)とにらめっこする映画作家だ。さらに彼は近代的イメージの天才映画作家たちが絶対に考えないことを考える。それがファンとの関係性だ。

僕はマニアやファンのことを考えて映画を作ったことは一度もないけど、庵野はちゃんと考えている。−押井守


作品を実際に作っているのは監督ではなく、スタッフです。さらに、作品の土台を経済的に支えてくれるのはファンの人たちです。ファンとスタッフは大事にしなければなりません。これがデファクト(標準)であり、当然のこと。作品を作り続けるには、両者に対して還元をしていかなければならないという考えがあります。ー庵野秀明


大事にしている基準は、ファン目線です。この連携をしたら、作品にとって広がりが出るかとか、ファンの方の喜ぶ姿が見られるのかとか、そういうことを重視しています。商売は二の次です。結局、ファンの方を中心に考えることが回り回って商売につながると思います。


製作だけでなく、宣伝や版権管理まで行うことで、ファンサービスまで自由にできる。ファンとの関係まできちんとコントロールできることが大事なのです。ー庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年


ここまでファンのことを考えている映画作家など前代未聞ではなかろうか。F.W.ムルナウや溝口健二、フェデリコ・フェリーニが1ミリでも自分のファンのことを考え映画を撮ったことなどあるだろうか?・・・絶対にない。

自分とファンとの関係性までも「コントロール」しようとする映画作家など映画100年の歴史の中でも庵野秀明ただ一人だろう。

近代的イメージの天才たち。ギフテッド、無から有を作り出す者たち。庵野はそうした天才では明らかにない。しかし彼は高度資本主義消費社会に特化した才能を得た。

それがコピーの才能であり(自身にとって快楽的な映像をコピーし、ろ過した上でペーストしてファンに提供できる才能)

ビジネスマンとしてのコスト意識であり(予算規模と自身の能力とを的確に計算し、〈出来ること/出来ないこと〉の線引きが明確なことーモルモット吉田)

組織を理解し組織を信じ組織を最大限活用することであり

製作だけでなく、宣伝や版権管理までも手がけることであり

映画作家で世界で唯一といっていいファンとの関係性をコントロールすることに意識的であることである。

この中で最も重要なのはファンとの関係性をコントロールする高度資本主義消費社会に特化した才能だろう。すなわちファンとの関係性を生産し、ファンとの関係性を消費するという才能。ここからなぜ庵野作品はエヴァにしてもシン・ゴジラにしてもあれほどの熱狂と議論と考察が渦巻くのかが理解されるだろう。

庵野秀明は従来の映画作家たちでは到底ありえない能力、組織と商売を理解する能力。関係性を生産し消費するという構造自体を生み出す高度資本主義消費社会に特化した才能を得たのである。

そしてなにより恐ろしいのは映画制作と製作、音響、宣伝、版権管理、経営。そしてファンとの関係まで自分に関わる物事のすべてをコントールしなければ気がすまないコントロールマニアックなところであろう。

彼は近代的な意味での天才ではなく、近代以後の資本主義社会が生み出した複合的な意味での天才といっていい。

庵野秀明の特殊性はそうした複合的な才能を活かし、差異と意味と関係性の生産と消費のウロボロス構造を自らの中に作り上げた点にある。それを「天才」といってしまうと逆に矮小化することになるかもしれない。
posted by シンジ at 13:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

庵野秀明は樋口真嗣から映画を奪った・シンゴジラ簒奪劇のすべて。ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読む

庵野秀明は樋口真嗣から映画を奪った・シンゴジラ簒奪劇のすべて。ジ・アート・オブ・シン・ゴジラを読む

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラはただのアートブックでも、映画制作を資料を並べながら解説する本でもない。ここには庵野秀明という異物がいかに映画スタッフから憎まれ、嫌われながら、それでもなお映画の現場を蹂躙していったかの記録が残されている。

この本は庵野秀明がいかにして現場の主導権を傍若無人に奪い取ったかのあまりにも赤裸々な記録なのだ。

そもそもシン・ゴジラ撮影現場での大混乱は庵野秀明自身も樋口真嗣やそのスタッフも庵野本人が撮影現場に出張ってくるとは誰も考えていなかったことにある。

「(庵野は)脚本とプリヴィズと編集だけやるから、現場は任せた」という話だった。−樋口真嗣監督(p482)


しかしなぜか庵野は撮影現場につきっきりとなる。このことに騒然とする樋口組スタッフ。当たり前である。現場スタッフは進撃の巨人からのスタッフが多く、みな樋口を「親分」とする樋口組のスタッフで構成されているからだ。

当たり前ですけど、(現場は)「監督」である樋口君の意見を尊重します。ー尾上克郎准監督(p478)


しかし「監督」であるはずの樋口がOKを出しても庵野が首を振らないということが現場でたびたび起こるようになる。

それによって、かなり混乱があったようですし、「約束と違います」という話も漏れ聞こえてきました。−佐藤敦紀編集・VFXスーパーバイザーp456


最初のころ現場のスタッフ、全キャストが庵野さんに対して「あの人、なんなの」みたいな感じで、それをなだめすかすのが自分の役割でした。「樋口さんは、それでいいわけ?」なんて聞かれる。−樋口真嗣p485


招かれざる闖入者庵野秀明に対する現場の風当たりは庵野子飼いのスタッフ、轟木一騎、摩砂雪が撮影D班として現場に入った時に頂点に達する。映画撮影というのは大きなメインカメラがひとつドカッとあってそれを中心に撮影班が動いていく。しかしそれでは機動力が足りないと庵野は小型カメラのキャノンXC10だけではなくiPhoneをも導入するのである。そして現場では撮影A班B班C班だけではなく庵野子飼いのD班が急遽導入され撮影現場では常時6台以上のカメラが回っているという状況になってしまう。このことを撮影のクオリティに人一倍気を使う撮影班が面白く思うはずがなかった。

「(自分たちは)他のスタッフにはメイキング班以下に感じられていたみたいですね。」−摩砂雪・画コンテ・D班監督p342


「(D班は)イレギュラーなチームだったので、現場スタッフには戸惑いや反発もあったようです。僕の反省として、D班に関する周知を、もっとかみ砕いてスタッフに話しておけばよかったなというのがあります。」−尾上克郎p479


この証言だけでも庵野と庵野子飼いのスタッフが樋口組の中で完全に孤立していたというのがわかる。

シン・ゴジラ現場は招かれざる客庵野秀明により破綻寸前だった。しかしシンゴジラは完成した。それはなぜか?常識では考えられないほどのお人よし=樋口真嗣監督のおかげである。

「現場からすれば、庵野さんの陣取るベースを敵視するようなムードになる時だってあったわけですが、そんな時には、樋口監督が、素晴らしいリエゾン(連絡、関係の意)的能力を発揮していただいて、ありがたかったですね。」ー中川和博監督助手p327


「普通だったら、ヤケクソになって、「もうなんでもいいや、やっときゃいいんだろう」ってなりそうな所を、ムードを鋭く察知した樋口監督が絶妙にフォローしてくださったのでそうはならずに、ベストのことが成し遂げられたと思います」−大庭功睦監督助手p327


普通であれば現場責任者は樋口真嗣であるし、樋口の権限で庵野を撮影現場から追い出すこともできたはずだ。だが、樋口は庵野との長年の友情からか、庵野を切ることができなかった。樋口のその優柔不断さがまたスタッフの怒りや苛立ちを煽ったこともあるかもしれない。しかし樋口の常軌を逸したお人よしさはこう考えるまでにいたる。

「おれが助けようと。(庵野に)尽くそう。尽くします。」ー樋口真嗣p485


樋口真嗣が最終的に折れたことで、庵野は現場での実権を奪い取ることに成功するのである。庵野は樋口真嗣、樋口組から映画を奪い取ったのだ。

撮影現場で蛇蝎のごとく嫌われた庵野秀明だったが、この庵野の傍若無人な暴れぶりはプリプロダクションでも、ポストプロダクションでも同じだった。

プリプロダクションでは他の脚本家が書いてきた内容(恋愛、家族ドラマたっぷり)に激怒して2014年9月の段階でゴジラから降板するという電話を東宝映画社長の市川南にしている。

ポストプロダクションでは次のような証言をネットで見つけた。

No-001.jpg

「面白かったのはシンゴジの焦土東京の衛星高度からの夜の画でプリビズから出来上がっていく進行過程が全部貼ってある横の監督の指示がもうgdgd 修正させた挙句 前の段階の画に「これでいいです」打ち上げで「1つ前に戻るのはよくある事」 あーこれじゃ人が離れてくのも無理ないわ…」


どうやら庵野秀明の悪評は業界の隅々にまで周知されているようだ。

庵野秀明はこのようにありとあらゆるスタッフから嫌われ、憎まれ、現場は怒りと不安と苛立ちで包まれていた、にもかかわらずシン・ゴジラは興行的にも批評的にも大成功を収めた稀有な作品となった。なぜなのか?庵野は自分がスタッフから憎まれていることなど一切関知できないほどの鈍感な人間だったのだろうか?

そうではなかった。庵野秀明は自分の行動がスタッフ間にさざなみを立てさせ、怒りや憎しみを生むことになることをはっきりと自覚していた。

(最初は現場に出る予定はなかったが)いくつかの段階と転機と理由があり「可能な限り現場に出るしかない」と判断しました。実は理由のひとつに現場の意識改革を試みるしかないと思ったこともありました。当初スタッフは、ルーティンワークで動いていました。もちろん全員がそうではないんですが、基本的にスタッフの意識は「年に何本かある仕事の一本」なんです。


ルーティンからは面白さも新しさも生まれにくいんです。普段と違うことで、何か引っかかるというか面白さや変革がそこに生まれると思うんです。ですから現場でのルーティンの否定と破壊から始めようと。スタッフにはパラダイムシフトを起こして欲しかったんですねー庵野秀明脚本・総監督


庵野は意識的にスタッフとの間に緊張関係を作り出していたのだ。そしてそのために庵野はつらい状況に置かれることにもなった。

「自業自得の状況なんですが、正直辛くて、あまり良い記憶がない現場でした。それが作品の緊張感になっていれば、幸いです。」


庵野は撮影に入って早い段階から、現場の主導権を樋口から奪おうと画策していた。二人には長年の友情があるのではっきりとは言わないが、赤の他人の私なら遠慮なしに書ける。庵野は早い段階で樋口真嗣と樋口組にまかせていてはシン・ゴジラは駄作になると確信したのだ。そして庵野は自覚的に映画を樋口の手から奪った。これがシン・ゴジラ簒奪劇の真相だ。

こうして映画は樋口組スタッフによるものでありながら、樋口真嗣の影はどこにも存在しない、どこを切っても庵野秀明の刻印が押された作品となってしまった。あれほどまでにスタッフから反発され、嫌悪されても庵野印の作品になってしまうのかと、映画の恐ろしさを痛感するばかりだ。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラは庵野秀明とスタッフとの壮絶なバトルを描いたドキュメントであり、2017年最大の読書体験を私たちにもたらす大事件だ。
posted by シンジ at 20:13| Comment(28) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月08日

北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」か

北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」か

「龍三と七人の子分たち」が大ヒットしているので北野武監督の次回作もワーナーが配給するのは確実。そこで北野監督の龍三公開前のインタビューから、北野映画の次回作を予想してみる。

北野武監督が次回作として構想中とあげている作品は大体3本。時代劇二本に、恋愛映画一本です。そのなかでも最も実現性の高そうな作品が時代劇版「フリークス」です。

「江戸時代に障害者が生まれるとそこに捨てられるっていう部落があって。で、主人公は殿様の子で、双子なんだけど、当時は双子って
「畜生腹だ」っつって嫌がられた。っていうのがあって。殿様の子供が双子で、その一人が捨てられて、捨てられたとこがその障害者の部落で。そこの親分が「ここで生きるためにはしょうがないんだ」つって、その子の片腕を取っちゃう。そいつが実は運動神経がすごくて、丹下左膳みたいに強くて、片手で熊殺したりする奴に成長して。で自分たちを差別する町の代官みたいなひどいのがいて、それで城を攻めちゃうと。そうするとそこに自分とそっくりな奴がいて、それが殿様で、双子の片方で・・・・っていう話。ーCUT5月号北野武インタビュー


時代劇版「フリークス」と書いたのは、トッド・ブラウニング「フリークス」(1932)のことを念頭においています。映画「フリークス」とは見世物小屋の障害者たちの復讐劇を描いた映画で、実際の小人や下半身のない障害者を起用しているので当時物議をかもした問題作です。しかしそれだけでは終わらないのが北野作品です。

「ただ、その映画で見せたいのは、立ち回りもそうだけど、実は・・・死んじゃったけど、振付家のピナ・バウシュっているじゃない?障害者が踊るっていう。ひとりが踊っているのを観ると変な動きなんだけど、全員揃うと異常にかっこいいの。生で観たことあんだけど、もうブレイクダンスみたいになってるわけ。だから松葉杖とかダンスに使えないかって考えたり・・・村祭りのシーンを要所要所に入れて、片足で杖ついてて、杖の音とタップシューズの音でカタカタカタカタって激しくやり合うとか。そうすると映画的にはすごいなと思って」


殿!これやりましょう!これ絶対傑作になりますよ!めちゃくちゃ面白そう!!・・・ただ問題は障害者を描くことが配給のワーナー的にはどうなんだろう?という問題がありますが・・・。でもこんな野心的で面白そうな企画はめったにないんでぜひ実現してほしい。

もうひとつの時代劇企画はズバリ、安土桃山版「アウトレイジ」

豊臣秀吉が主役の「首」ってタイトルの映画とかね。本能寺で明智光秀に織田信長を襲わせたのは実は秀吉と家康の策略だったっていう話なんだけど。でもそれを秀吉の視点で映画にするんじゃなくて、雑兵っていうか、百姓で槍もって戦に参加した奴から見た秀吉の話なんだけど。その話の中に高松城の水攻めなんか出てくるんだけど、秀吉と家康は光秀に信長を襲わせて。秀吉、あんとき高松からすごい速さで京都に帰ってきたじゃない。あれは実はもう準備をしてたって話で。/それで秀吉が高松へ行く前に堺の商人がダーッと行って、高松城の周りの米をみんな買い漁るのね。相場の二倍の値段で。それで高松城の兵糧係も米を持ってっちゃって「高く売れました」って喜んでんだけど、その後三万の大軍で攻めて行って兵糧攻めにしちゃうので、村人を全部城の中に追い込むんで食うものなくて、向こうの城主が切腹して終わるんだけど、そのあとまた堺の商人が行って米を買った金の三倍で売るっていう(笑)そういうエピソードをいっぱい入れて「きたねえ!」っていう映画をやりたいんだけどね。−北野武「やり残したこと」


「汚ねえ!」連中の謀略戦を描かせれば北野武の右に出るものはいません。安土桃山版「アウトレイジ」間違いなく傑作になると思いますが、問題になるのは「予算」でしょう。なにしろ信長が本能寺で暗殺されるシーンや、高松城水攻め、中国大返しまで描くとなると、莫大な製作費がかかること必定です。正直そこまで北野作品に大予算をかけるガッツが今のワーナー日本支社にあるとは思えないのです。

そこでもう一つの企画、北野武念願の企画だという「純愛映画」が浮かび上がってきます。

「それとか純愛ものを撮りたい。純愛ものなんだけど、実は主人公を取り囲む人間関係がすごい笑っちゃうとか、お笑いがいっぱい入ってくるんだけど」−CUT5月号


・・・私も長年北野ファンを続けてきましたが、これに関しては「嫌な予感しかしない」といわせていただきます。殿の恋愛観って「いつまでもお弁当作ってあなたをお待ちしてます・・・」的なあれでしょ。この恋愛観って完全に明治大正時代の恋愛観なんですよ!(苦笑)。

これは本人も認めるところですが、北野武にとって女性は二種類しかいません。「おかーちゃんとおねーちゃん」の二種類です。これは「性の二重基準」といわれるもので、女性を性的な主体とは認めないミソジニー男性がよくやることです。女性を性的主体と認めないにもかかわらず、そんな女性の母から生まれてきた自分という矛盾を解消するために、男性は女性をおかーちゃん=聖女と、おねーちゃん=娼婦に二分するのです。だから北野武が「純愛」映画を撮るというときは女性をありえないくらい美化し理想化=聖女化してしまうのが目に見えてしまう。率直に言わせてもらえば、女性を美化し理想化するような人は「恋愛映画」は撮らないほうがいいです。

というわけで、北野武「龍三と七人の子分たち」の次回作の有力候補は時代劇版「フリークス」か安土桃山版「アウトレイジ」で決まりではないでしょうか。超楽しみ!!みんな、北野武新作が見られるまで生きていような!
posted by シンジ at 18:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月27日

山中貞雄あれこれ

山中貞雄あれこれ

漫画ワンピースの尾田栄一郎は「沓掛時次郎 遊侠一匹」が大好き、でも監督の加藤泰のことは知らない。鈴木敏夫が加藤泰の叔父である山中貞雄のことを聞くがそれも知らない。でも山中貞雄作「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」は大好き。変な映画の見方してるな〜。それとも作家主義に毒されてない純粋な映画ファンとでもいえばいいのか

山中貞雄脚本の水戸黄門三部作見る。全部で180分くらい凄いボリュームだ。凄く面白い活劇で山中ファンは必見だけど、一番の見所は高勢実乗の珍芸がたっぷり見られること。かって小林信彦が高勢実乗をどう思うか爆笑問題の太田光に聞いてみたいと書いてたけど、さすがに知らないでしょう。

山中貞雄脚本の「水戸黄門三部作」1935は明るく楽しくおおらかな前期山中の魅力を堪能することが出来る。しかし1935年の暮れに母親が亡くなってから山中の作風に陰鬱さがでてくる。その絶望が最も色濃く出たのが「森の石松」(1937)である。ラストの凄惨さは「民衆の敵」に影響をうけたもの

伊藤大輔「御誂次郎吉格子」でめずらしいなと思ったのは、あの高勢実乗が普通に悪役を演じていること。伊丹万作「国士無双」(1932)からあの喜劇役者としてのブレイクがあったみたい。山中貞雄も「国士無双」の高勢をみて自作に重用するようになった。

撮影監督宮川一夫は深水藤子のことが好きだったのではないかと言ってるのは山中貞雄の姪の原田道子さん。

原田道子さんは山中貞雄の姪御さんで山中が13歳の頃から一緒に暮らしはじめ、山中が鳴滝に住むようになってからまた一緒に住むようになった人。

原田道子さんは夏になると深水藤子に誘われて高浜に部屋を借りて一週間くらい泊まりに行った。山中貞雄は浮いた話のない真面目な人だったが、深水藤子は「監督がお茶を誘ってくれたのは女優の中では私ひとりだけなのよ」と言っていたという。

この原田道子さんのインタビューではじめて知った事実。宮川一夫が深水藤子を潮干狩りに誘ったとき二人きりではいけないので原田道子さんを連れて行った。原田さんは宮川一夫を見ていて、深水藤子のことを好きなのではと思ったという。山中貞雄と宮川はすごく気の合う親友同士・・まさに三角関係!?

山中貞雄「海鳴り街道」玩具フィルム。稲葉小僧(大河内伝次郎)が捕り手から逃げるシーン、大ロングの大横移動撮影。キラキラとひかる水面をバックに斬り結ぶシーンは俯瞰で。さらには夜間、捕り手が手にたいまつを持ちながらの捜索場面。わずか1分ほどのフィルムでこれほど興奮したことはない。

山中貞雄「海鳴り街道」はシナリオを読んだ限りでは退屈で、当時の評価も低い作品。でも実際フィルムを見たら凄いことをやってる。やっぱり実際見ないと山中の天才はわからないなぁと。

溝口の「故郷」(1923)は地主に抵抗する小作人たちの描写がズタズタにカットされ、山中貞雄「盤獄の一生」(1933)は住民運動の部分がカット。では伊藤大輔の「斬人斬馬剣」1929はどうだったのか?テーマはモロに百姓一揆だけに検閲に相当やられたと思うのだが。

筒井康隆作、山中貞雄「街の入墨者」のフィルムを上映する夢の映画館の話「CINEMAレベル9」所収の「夜のコント・冬のコント」

筒井康隆「CINEMAレベル9」山中貞雄ファンなら泣くしかないラストの数行。「街の入墨者」河原崎長十郎演じる岩吉のセリフ「佃島の牢を破って逃げた男です。こいつは与平次。やったのはこいつです。お調べください」疑いの晴れた岩吉は微笑みながら死んでいく・・体がぶるっと震える。

山中貞雄の好物は鯖寿司

黒澤明「七人の侍」創作ノートの山中貞雄話。橋本忍は新東宝から山中貞雄の「抱寝の長脇差」をリメイクするから脚本を直してくれと言われたが、完璧すぎて直すところがないので断ったそう。

「七人の侍」創作ノートの山中貞雄話。山中が東宝(PCL)に移籍してきて最初の撮影。「よ〜い・・・ここではなんて言うん?」でスタッフ大爆笑という話は評伝山中貞雄にも書いてあった。東宝での山中は最初から尊敬され愛されていたのがわかる。しかし1933年日活に移籍したときはそうではなかった。

山中貞雄が1933年日活に移籍して最初の「薩摩飛脚後篇」の撮影時は面前でスタッフから悪口を言われたり、指示を誰も聞こうとしなかった。山中は当時23歳、若さゆえにスタッフからあなどられていた。だがそれが一変したのが試写後。いままで山中を馬鹿にしていた連中が急に巨匠あつかいしだしたという

9月17日は山中貞雄の命日です。山中貞雄の隣で寝ていた坂本忠二郎氏の話。一週間ぐらい前にはもう覚悟を決めていたのか遺品についていろいろ話をされ友人の方々に私が代筆しました〜臨終は実に安らかで、どうかこんな病気で死んだなんて家に言ってくれるな、と繰り返して自分等を泣かせました。

山中貞雄ニックネームの変遷。京都一商時代「ジヤマ」。マキノ時代「社堂」→「社汰やん」。日活からPCLにかけて「サドやん」

ルビッチの「私を殺した男」(1931)を参考にしたのが山中貞雄の「街の入墨者」(1935)。前者はフランス人がドイツの街で冷遇され、後者は前科者が町で冷遇される。

ウィリアム・ワイラー「お人好しの仙女」The Good Fairyなんて興味あるな〜。1930年代は日本でもワイラーは神格化されていて小津は山中貞雄の第2作目「小判しぐれ」を見て「ワイラーみたいなものを撮ったらどうか」とアドバイスしている。

「日本映画における外国映画の影響」では山中貞雄が最も影響を受けたのはルーベン・マムーリアン。山中がマムーリアンに影響を受けた最大のものは縦の構図と間接話法。

山中貞雄の間接話法は一作目の「抱寝の長脇差」に有名な場面があります。喧嘩に出かける源太が下駄をつっかける足のアップ。次のカットでは下駄は川に浮かんでいるのです。つまり喧嘩の場面を省略し、川に浮いた下駄で喧嘩の終了を間接的に見せているわけです。

「抱寝の長脇差」の省略話法はまんまマムーリアン「市街」1931の影響です。さらに縦の構図について面白いことが。この「縦の構図」という言葉は相川楠彦という批評家の造語でそれも「山中貞雄」論で使ったのが最初だそうです。これから縦の構図を使うときは頭の隅にでも置いてください。

ハスミ大先生がこんなことを・・山中貞雄が「喝采」や「市街」に感銘を受けそのトーキー技法の一部を自作に活用したということはあるだろう。だが山中貞雄の作品は無声映画を一本も撮ったことのないマムーリアンに影響を受けたという性質のものではない。

「百万両の壺」は一つの無駄なショットもないが、「市街」には少なく見積もっても二十は無駄なショットを指摘することが可能である。つまり映画史的に見てマムーリアンは山中貞雄の簡潔さをこそ学ぶべきであり、その逆ではない。ー蓮實重彦「山中貞雄論」

あと蓮實先生が伊丹万作を批判したことにもちゃんと理由があるんだな〜とわかった。1935〜6年頃北川冬彦、滋野辰彦らが痛烈な山中貞雄批判を繰り返してきた。

山中貞雄は常に賛否両論でした。当時の批評家が山中を批判する決まり文句は「思想がない」でした。

ー「我々はサイレント時代から山中に思想の欠乏していることを言い続けてきたのだが、トーキーの時代となるにつれ、彼の思想の貧困は一層顕著なものとなってきた」(滋野辰彦)

山中貞雄と伊藤大輔がどういうふうに批判されていたか?「面白すぎる」と批判されていたのだ。「面白すぎる」ゆえに山中は「思想がない」と批判され、伊藤は映画話術の巧みさゆえに「内容がない」と批判され続けてきた。

山中貞雄は執拗に繰り返される批評家からの攻撃に「わい、もうあかんね」と友人に打ち明けている。そして思想がない中身がないと攻撃されたあげく、そうした批評に答えるためか最も厭世的な「人情紙風船」を撮る。批評がここまでひとりの映画作家を追いつめたかと思うと鬱になる。山中貞雄に明るく楽しい映画を撮らせようとしなかった当時の批評家を憎む。

山中貞雄本とか伊藤大輔本とか読んでると必然的に昔の批評を読むことになる。その批評はどんなもんかというと、伊藤大輔の油の乗りきった頃の「続大岡政談魔像解決編」1931を北川冬彦は「ここでは往年の伊藤大輔の気魄といったものはどこにも見いだせない」とか言っちゃってるわけだ。

北川冬彦はまた山中貞雄の「怪盗白頭巾」1935を「こんな面白さというものは見ているときそれだけである。」滋野辰彦にいたっては「海鳴り街道」1936を「山中のどこに芸術家的稟質を認むるか、全く疑問だと言う外はない。もし彼をしも作家と認むるならば、講釈師も芸術家と呼ばねばなるまい」

山中貞雄や伊藤大輔は映画のフォルムにのみこだわる空虚な作家であるというのがその理由でした。北川冬彦いわく山中、伊藤の作品は「韻文的」であるがゆえに評価に値しない。逆に「散文的」な伊丹万作こそ評価に値する芸術家である。

そして北川、滋野が山中貞雄、伊藤大輔を腐したあと決まってほめるのが伊丹万作というわけです。そして蓮實重彦の山中貞雄論では彼らが山中を腐す時に使う「韻文的」という言葉を逆に使って山中を絶賛している。それは蓮實の旧来の批評家に対する怒りをこめた反論なのです。

1930年代北川冬彦という詩人兼批評家が山中貞雄を激烈に批判したのです。彼は 山中を「韻文的」という言葉で批判しました。「韻文的」とはなにか?

韻文的とは言葉において「意味」よりも、その「響き」を偏重した文章のことである。山中貞雄のフィルム断片において、その「現実」リアリテよりもその「形」フォルムに感覚を向けている。ー北川冬彦「山中貞雄論」

つまり山中貞雄の映画には思想もなければメッセージもない、フォルムだけではないかと批判しているのです。しかし私があえて言いたいのは、フィルムがうつしだすのは「フォルム」のみである。ということなのです。

杉浦日向子が書いてた長屋暮らしの三つのルール。第一に初対面の人に出身地や生国を聞かない。第二に年齢を聞かない。第三に家族を聞かない。これは俺が考えてた長屋像とはずいぶん違う。

江戸の長屋暮らしというとプライバシーのない過干渉のうっとおしい世界だと思っていた。山中貞雄もそう思ってたからこそ「人情紙風船」で長屋を冷ややかに描写していた。しかし実態が杉浦日向子のいうとおりだとするとがぜん三村伸太郎版「人情紙風船」が正しいということになる。

山中貞雄版「人情紙風船」と三村伸太郎版「人情紙風船」についてはここを読んでください。「山中貞雄と三村伸太郎、脚本をめぐる攻防」
posted by シンジ at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月08日

北野武監督の新作映画が始動

2014年どうやら北野武監督の新作が始動したようだ。

北野武の弟子シェパード太郎のブログにこう書いてある。

【4月16日 水曜日】

お昼過ぎ、付き人へ。

ロケバスにて殿の映画のロケハンへ。

そこに行く間、
殿は本や台本を読まれていたので会話はなく、無言のままバスは目的地へ。

そして、殿はスタッフさんとカット割りなどを確認され、ロケハンは終了します。

17時頃、新宿へ戻りそこで解散に。
http://ameblo.jp/ken-kusai/entry-11837090093.html


さらに
【4月18日 金曜日】

そして、17時頃に打ち合わせは終わり
今日は殿と映画のスタッフさんたちがお食事会をするということでボクも殿のお車に同乗してそのお店へ。

そして、20名ほどの大所帯にて大宴会が始まったのです。

映画のスタッフさん
と言えば、勝手にではありますがボクは豪快なイメージを持っていまして、その方々がどんな飲み方をされるのだろうかと興味津々に眺めさせて頂いたのです。

すると、前半は真面目な飲み会というような感じでボクの予想とは裏腹な感じだったのですが、2時間を過ぎたあたりでそのボクの期待を応えてくださるような叫び声がお店に鳴り響いたのです。

「北野組はサイコーですよー!!」

そうお叫びになられていたのは、お顔を真っ赤に紅潮させた殺陣師の二家本さんなのです。
http://ameblo.jp/ken-kusai/entry-11838790872.html

この記述から想像するに北野組は今年4月にロケハンして今年中に撮影し、来年の2015年公開を目指していると思われます。
殺陣師の二家本さんとは映画「座頭市」や「アウトレイジ」シリーズの殺陣、アクション指導をされた二家本辰巳さんのことです。北野映画のファンやウルトラマンシリーズのファンなら名前は聞いたことがあると思います。

nikamoto.jpg
二家本辰巳氏

つまりだ・・・北野武監督の新作にして第17作目はほぼ確実にアクションがある映画、つまりエンタメ路線ということになります。「アウトレイジパート3」ということもありうるし、そうじゃないエンタメ路線の映画、アクションやバイオレンスのある映画と見てほぼ間違いはないのではないでしょうか・・・やったー!!!

わたしも年季の入った北野武=ビートたけしファンではありますが、北野ファンも頭を抱えるアート三部作「TAKESHIS'」、「監督・ばんざい!」、「アキレスと亀」をいまだにどう評価すればいいのかわからないまま歳月を重ねてきました。ファンとしては殿も年なので自分の好きなように映画を撮ってくださいという気持ちはあるものの、残された時間を有効に使い、傑作だけを撮り続けて欲しい・・・というファンの身勝手な思いもあります。

しかし押井守が北野武を評した言葉にも北野映画ファンは深くうなずかざるえないのです。

ーたけしの映画の中には、評価のしにくいお笑い系の映画があるじゃないですか。

押井・たけしの中ではやる理由がきっとあるんだろうね。たけしの場合は自他共に認める自分の作風みたいなものがあるわけだけど、「そういう監督なんだ」って思われちゃうのが自分自身で嫌なんじゃないかな。

ーフィルモグラフィーを並べた時に「そろそろこういうのが入っとかないとな」という感じで撮ってる感じがします。

押井・明らかに意図的に撮ってるよね。3〜4本に1本ぐらい必ず入ってくる、世に言うたけしのしょうもない映画っていうのは、僕は全体のなかで機能してると思うよ。あれによって、時々とんでもないものを作っちゃって大失敗するんだ、という評価を世間的に獲得してるんだから。次々と失敗できない企画が回ってくるハリウッドの監督に比べたら全然プレッシャーないもん。ー押井守「勝つために戦え・監督篇」


・・・そうなのだ。北野武という人は傑作を撮ったかと思うと、次の作品では頭を抱えるような珍妙な作品を「わざと」撮る人なのである。あまのじゃくというか、当人の言う「振り子理論」なのか。映画の巨匠、バイオレンスの巨匠という評価が固まると、それを自らくつがえしたくなるお人なのである。

ただひとつだけ安心材料を出すなら、オフィス北野の最重要人物である森社長の存在がある。森昌行氏は先にもあげたいわゆる「アート三部作」で北野映画の海外マーケットでの信用は地に堕ちたと話しており(雑誌SIGHTのインタビュー)、おそらく二度とアート三部作のような作品を北野武に撮らせることはないと思われる。

というわけで北野武監督第17作目はほぼアクションありのエンタメ系映画で確定か?

-------------------------------------

6/3追記
5月29日号の週刊文春で新たな情報が入ったので追記します。
「アウトレイジ」パート3の構想はいったん棚上げ。四月からは、来年春公開に向けて「七人の子分たち(仮)」という新しい映画の撮影に入ってます。


出演は藤竜也、近藤正臣、品川徹、小野寺昭、と全員70歳以上の俳優陣ばかり。内容は老人ヤクザvs詐欺グループとの戦いになる模様。となるとこれは仮のタイトルから予想するに「コンゲーム」ものの映画になるのではないか。

「コンゲーム」とは・・・
con game (confidence gameの略)信用詐欺。取り込み詐欺師。相手を信用させて詐欺をはたらくこと。また、策略により騙したり騙されたり、ゲームのように二転三転するストーリーのミステリーのジャンル。−はてなキーワード


たとえばコンゲームものの小説として有名なのはジェフリー・アーチャーの「百万ドルを取り返せ!」があり、映画では「スティング」などが代表的なものでしょうか。

まさか「ソナチネ」の監督が、日本のブレッソン、メルヴィルといわれる人が「コンゲーム」映画を撮ることになるとは・・・ファンとしては期待と不安の入り混じった気持ちです。ちなみに文春の記事は主演は高倉健にオファーしたが断られたとあります。北野映画初の「コンゲーム」映画を期待しましょう。

-------------------------------------

6月7日再追記
6月6日の高田文夫ラジオビバリー昼ズにツービートがゲスト出演して映画のことを喋っていたのでその内容を追記します。

北野武・(映画の撮影で)こないださぁアルツ(ハイマー)が始まった親爺がいてさぁ。セリフで
「それは堂島の親分が一番じゃないですかね。だって5人殺してるもん」
ってセリフがあるんだよ。その人の番になると、
「そりゃ堂島の親分が一番じゃないすか」で終わっちゃうから、すいません「だって5人殺してますから」でお願いします。
はい、よ〜いスタート!
「5人殺してますよね〜どうじ・・」
いやいや、堂島の親分が一番じゃないですかねでお願いします。
「堂島の親分が一番で5人で・・・」
もうだめだこの人と思って。全然おぼえられない。カンペ用意して、よ〜いスタート。
「すいませんメガネかしてください」(笑)
メガネかけた顔どうやって撮るんだよ。弱っちゃってさぁ〜。
松村邦洋・「アウトレイジ」の三作目はどうなってるんですか?
北野武・それはもう台本書いてある。連発しちゃうと飽きちゃうから。今度の作品が失敗したらアウトレイジに戻ろうと思って。アウトレイジは保険だから。ちょっと困ったらアウトレイジに戻ればいいから。
高田文夫・じゃあ撮影は隔週でやってるの?
北野・そう。ニュースキャスター休んで。

・・・と、きよし師匠を前に舌好調の殿でした。

-----------------------
さらに追記。
北野武新作は「龍三と七人の子分たち」で決定。作品内容は私が予想していた「コンゲーム」などではなく、老人版「エクスペンダブルズ」になる模様。
1c1dad307df4d8b4ecdcc748acc95242.png
老人ヤクザと詐欺集団のアクションと笑いのエンターテイメント。それもいままでの北野映画とは毛色の違う作品になっている模様。
posted by シンジ at 19:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月17日

映画を政治的、道徳的に批判してはダメか

twitterでRTされたtweetを読むとこんなことが書いてある。映画「アルゴ」を政治的な理由で批判する人は政治を重視し、映画を軽視してるという批判だ。

正直またか・・・という気がする。つまり映画は社会的、政治的なものには一切関わらない、無謬の楼閣であり、映画を見る場合は政治的、道徳的価値決定に対してはあくまで中立的でなければならない。

映画を見る時は、あくまで映画に内在する美学的見地からしか映画を評してはいけないといいたいのだろう・・・・・アホじゃなかろうか。

では聞くが、はたして政治的、道徳的に完全に中立の立場から映画を見ることなどできるのだろうか。はっきりいってしまえば映画内の道徳的価値決定に対しては中立的でなければならないと言う奴は嘘をついているかバカか、そのどちらかでしかない。

もちろん映画に外在する現実の映画作家たち、クリント・イーストウッドが極右であろうが、ハワード・ホークスが反ユダヤ主義者であろうが、それは映画作品とは何の関係もない。彼らが人間のクズだとしても私は彼らの映画を楽しく見られる。

だがそれは映画内における道徳的価値決定に中立であることとは違うのだ。観客は映画を見る一瞬一瞬、一秒一秒に道徳的価値決定を下している。およそ作品に内在するものに道徳的価値決定を一切下さずにその作品を楽しむことなどできないのだ。

私たち映画を楽しむものが、ある作品に身をゆだねたり、ストーリーに翻弄されたり、登場人物に感情移入したりすることができるのも、映画に描写されるものすべてに道徳的価値決定をおこなっているからだ。道徳的価値決定せずに映画を楽しむことは不可能なのだ。

映画が社会や政治とは一切関係のない象牙の塔であることはできない。映画作品は作品に内在するものの美学的見地だけで評価しなければならないというのは錯覚か誤謬でしかない。

・・・え、私の「アルゴ」評?はっきりいって不愉快でした。特にイラン人の描き方が。そしてその不愉快さを上回る映画的な瞬間でもあれば、チャラにしてもよかったのですが、結局その不愉快さを上回る映画的瞬間などは微塵もなかった。
posted by シンジ at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月13日

北野武の主治医

最近のたけしさんは、まわりで見てても「どんだけ働くんですか!?」っていうぐらい、めちゃくちゃ働いてる。
「俺、頑張ってるだろ」
自分でもちょくちょく、そう言ってるぐらい。
いまから7、8年前ぐらい前の一時期、あまり体調が芳しくなかった頃は、
「いいよ、こんな仕事やりたくねーよ」
って言ったり、
「やめようかな・・・」
そう言い出したこともあった。それまでにも「引退」に関してはよく口にしてたけど、この時期のたけしさんは心底疲れ果てて、
「もう全部、面倒くさいから辞めたい!」
そういう感じがした。
それがここ2、3年、自分でも感心するぐらい働くようになったのは、体の調子が良くなったことも大きいだろう。それに、主治医の先生のお陰もある。
いまから10年、いや、ひょっとして15年ぐらい前だったか、当時たけしさんの追っかけをやっていた女子高生だか女子大生と話す機会があった。どんな場面で、どんな話をしたのか、その詳細は忘れたけど、そのときたけしさんがこういったのを覚えている。
「女の子だからって結婚すりゃいいやって思って適当にやってるんじゃなくて、俺のギャグで笑ってくれるような子はきちんとやっててくれるような子がいいんだよな。だから将来的には、科学者とか病院の先生とかになれるような、そんな人になって欲しいな」
あれからずいぶん長い月日が流れたある日、日テレで番組の収録が終わって出てきたたけしさんに声をかけてきた子がいた。
「たけしさん、覚えてますか?」
そう言われてもわからない。
「昔、追っかけやってた・・・」
・・・・・・あ、覚えてる覚えてる。あのときの追っかけの子だ。
「あのとき、たけしさんに言われたから私、頑張りました!」
彼女はたけしさんの言葉を聞いて、頑張って勉強して医者になっていた。
当時、彼女にとって、たけしさんの声は“天の声”だった。たけしさんの言葉が、追っかけだった彼女の人生を変えた。世間からすれば“ただのお笑い芸人”だったかもしれない。でも、そんなお笑い芸人の言葉がその人の人生に影響を及ぼすこともあるのだ。
彼女はいまたけしさんの主治医になっている。彼女のお陰で、たけしさんの体調もすっかり良くなった。
「俺、なんで辞めようって言ったのかな?」
って言うぐらい。

ー「我が愛と青春のたけし軍団」たけし軍団編 ガダルカナル・タカ監修より
posted by シンジ at 18:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 映画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする