2012年05月23日

理想の死に方「餓死」最悪の死に方「首吊り」

自然死とは、実態は“餓死”なんです。餓死という響きは悲惨に聞こえますが、死に際の餓死は一つも恐ろしくない。不安もなければ寂しくもない。まず口から飲み食いできなくなった人は飢餓状態になります。すると脳内モルヒネが出て、いい気持ちになる。それから水も入りませんから、脱水状態になる。こうなると血が濃く煮詰まって、意識レベルが落ちてきて、ぼんやりするんです。いい気持ちのまどろみの中で死んでいける。だから放っておくと全部穏やかで安らかに死ねるように自然の仕組みはできているんです。−「往生したけりゃ医療とかかわるな」著者中村仁一・週刊文春2012年5月24日号より

人間はゆっくり首を吊られると、息がつまる。最初の段階でロープが首に食い込み、頚静脈と頚動脈がしまって、顔が青紫に変色する。脳に酸素が供給されなくなり、十秒ほどで意識を失う。空気の供給が完全に遮断されなかった場合は、もう少し時間がかかる。一分ほどして次の段階へ移行する。呼吸筋が収縮し、舌が口から飛び出し、舌骨と喉頭が損傷する。その後、制御不能の激しい痙攣が起こる。手足が八回から十回がくがくふるえ、たいていの場合、頚部筋肉が裂ける。それから突然静かになり、息も止まる。一、二分すると最終段階となり、死はほぼ避けられなくなる。口が開き、体全体で空気を求め、断続的にあえぐ。一分間にせいぜい十回ほど。口、鼻、耳から出血し、顔がふくれあがり、右心室が広がる。そしておよそ十分後、死に至る。
−フェルディナント・フォン・シーラッハ「罪悪」

死ぬなら餓死に限るな・・・首吊りは一番お手軽だけど、きつそう。
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2011年08月21日

卑劣か卑小か・日々の雑記。

テーマを決めず日々考えたことをつらつら書く。

トルストイ「要約福音書」のなかで最も感情移入したのはピラトだ。そのあまりにも人間的な卑小さ。ピラトのイエスを殺したくない、でもユダヤ正教徒の圧力も怖い。俺どうしたらいいんだよ〜という泣き言があまりにも人間的で、そこに自分と同じ卑小さを見る。イエスは立派すぎて感動するというよりは、理解できないという思いが強い。

ー卑小という言葉で思い出したが、小林信彦が「仁義なき戦い」の山守組長(金子信雄)を形容して「卑劣」と言ったとき、笠原和夫に「卑劣と言っちゃいけない」とたしなめられたという。(「仁義なき戦い」スクラップブックより)

これを私なりに解釈すると、卑劣というとそこには私とは断絶した、何か別の生き物、理解不能の存在という意味合いがあるが、卑小であるとは、私と同じ人間、私と変わらぬ存在だという意味合いがあるように思われる。

つまりピラトや山守は卑劣ー理解不能の存在ではなく、私とまったく変わらぬ同じ存在、卑小な存在。私の似姿である、ということではないだろうか。

なんでトルストイの「要約福音書」を読んだのかというと、ウィトゲンシュタインの愛読書だから。ウィトゲンシュタインは第一次大戦、最前線で戦うことを自ら志願し、死の危険にさらされるなかでトルストイの「要約福音書」をむさぼり読んだ。(1万人いた兵士の中で生き残ったのはウィトゲンシュタインを含めた3千人程度だったという)

要約福音書のなかにウィトゲンシュタインの信仰と思考の秘密があると思ったのだ。要約福音書はトルストイの解釈した福音書ー体制側であるユダヤ正教徒と戦う反体制のヒーローとしてのイエスの姿が描かれている。しかし結局信仰とは何たるかはよくわからなかった。

なぜウィトゲンシュタインの信仰に興味を持つかというと、ウィトゲンシュタインの信仰と思想は切っても切り離せないものだと思うからだ。信仰と言語ゲームの関係については、さらっと「バウドリーノ、エレクション、言語ゲーム」に書いた。

なぜ私は要約福音書を読んでも理解できなかったのか。それは信仰を正当化するものは何か、と考えていたからだ。信仰とは確信であって信念ではない。ーそこにウィトゲンシュタイン思想の根幹がある。

「神を信じることは生に意味があることを見てとることである」ーウィトゲンシュタイン戦場でのノートより

「神を信じる」ことを蝶番(確信)にした言語ゲームの世界こそ、意味のある世界とウィトゲンシュタインは言うのだ。


もうひとつ小林信彦の話題。「映画を夢みて」を読んでいると黒澤明の「天国と地獄」についてこんなことが書かれている。

「天国と地獄」〜これがつらいのは、ラストで対決するのが、三船と山崎努であることだと思った。シムノンの愛読者である黒澤が「男の首」を意識してないはずはなく、これは当然、マニアックな仲代の警部と山崎犯人の心理的対決で終わるべきドラマなのに、大スター三船が出ざるをえなかった。ー小林信彦

なるほどとは思うが、あのラストは天と地にいたものが、同じ地平に立って向き合うというところに意味があるので、あれはあれでテーマにそった感銘深いラストであると思う。「天国と地獄」とシムノン「男の首」はプロット的にはまるで関連はないが、奇妙な知能犯とメグレとの対決、そして犯人が絞首台に向かう直前までメグレと言葉を交わすラストの異様な余韻は「天国と地獄」のラストの余韻とつながるものがある。つまり最初は理解できなかった自分とは断絶した卑劣な存在が同じ地平に立った途端、自分と同じ卑小な存在だったと理解するのだ。


映画「Super 8」について。

この映画での8ミリ映画、謎の宇宙人、悪辣な軍部などなどのガジェットは、すべてある一つのことに奉仕するために存在する。

昔聞いた恋愛作法で、好きな女の子とデートするときはジェットコースターに乗ればよい、というのがあった。つまりジェットコースターに乗ったときのドキドキは恋したときのドキドキと似ているので、女の子はそれを恋と錯覚するという(笑)

このスーパー8はまさにそれ!冒頭の列車破壊シーンも、なにやら怪しい軍も、得体の知れない怪生物も、すべてが少年と少女の初恋を盛り上げるためのドキドキを提供するジェットコースター的ガジェットなのである。

@8ミリ映画は二人の出会いを取り持ち(少女がゾンビを演じるシーンはこの10年のベストシーンといってよい。首筋につくキスマーク!最高!)

A仲の悪い親同士は、ロミオとジュリエットのように二人の間に障害を設け、よりいっそう二人の恋を燃え上がらせ

B怪しい軍に、謎の宇宙生物は、お姫様を守る騎士の役割を男の子に与える

世界のすべてが二人の恋をお膳立てする小道具であること。まさに初恋映画の鏡。大好き。
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2011年03月14日

私はいかにして連帯を忌み嫌うのをやめキャプラ的世界を望むようになったか

2011年3月11日未曾有の大震災は私に私の中の矛盾を突きつけた。

私はいままで連帯や共同体というものを忌避してきた。私にとって連帯とは、あのうっとおしいご近所さんの目であり、集団からの同調圧力であり、社会主義的強制とでもいうべきものであった。

こんな私であるからあの悪名高いサド侯爵に心惹かれるのもわかっていただけるだろうか。サド侯爵の思想を端的に表したジョルジュ・バタイユはモーリス・ブランショの助けを借りながらこう言う。

サドの思想は「他者への無限否定の先にある自己肯定」であると。

他者への無限否定とは何か。連帯や共同というものは他者への依存と従属を強いるものであって、真の自由を求めるものはこれを否定しなければならない。

これがマルキ・ド・サドの根幹をなす思想だといっていい。

しかし、しかしだ。サドがなぜこのような他者の無限否定というような思考にたどり着いたかを考えなければならない。

彼は生涯の内30年間、牢獄につながれていたのであり、そのような環境では、他者を無限否定することによってしか自分の正常さを保っていることができなかったのだ。

そしてサド侯爵に魅せられ、他者との連帯性を忌避してきた私もまた、自分という牢獄につながれていたことを知るのだ。

今、津波によって目の前で家族をさらわれ失った人たち、生き残った人たちは絶望の淵にいることだろう。そして自分だけなぜ生き残ってしまったのか、苦しみの中、自問自答しているのではないだろうか。

彼ら生き残った人たちに、あなたがたが生きていることには意味があるんだと、この世界で生きることには意味があるんだと思ってもらえるのは、彼らを暖かく包み込む連帯性と共同体にしかないのではないか。

私が夢想する連帯性はフランク・キャプラの映画のラストシーンにある。生きる意欲を失った男が自分という存在が他者にとってどんなにかけがえのないものかを知ることであり、心を失った男が他者の善意に触れるうちに、自分の善性を取り戻すことである。

絵空事かもしれない。笑われるかもしれない。しかし今の私はフランク・キャプラ的世界を望むことがそんなにおかしいこととは思えないのだ。

生きることには意味があるということ、それを業田良家の「自虐の詩」から引用して終わりたいと思います。

−この世には幸も不幸もないのかもしれません
 
−なにかを得ると必ずなにか失うものがある

−なにかを捨てると必ずなにか得るものがある

−たったひとつのかけがえのないもの、大切なものを失った時はどうでしょう・・・

−私たちは泣き叫んだり立ちすくんだり・・・

−でもそれが幸や不幸ではかれるものでしょうか

−かけがえのないものを失うことは、かけがえのないものを真に、そして永遠に手に入れること!

−私は幼い頃、あなたの愛を失いました。

−私は死にもの狂いで求めました。求め続けました。

−私は愛されたかった。

−でもそれがこんなところで自分の心の中で見つけるなんて・・・

−ずっと握りしめてきた てのひらを開くとそこにあった。そんな感じで。

−おかあちゃん これからはなにが起きても怖くありません。勇気がわいています。

−この人生を二度と幸や不幸ではかりません

−なんということでしょう 人生には意味があるだけです。

−ただ人生の厳粛な意味をかみしめていけばいい。勇気がわいてきます。
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2009年10月13日

平野啓一郎の分人主義は多くの人を救うだろう

悪夢のエレベーターを観る。出来の悪い内田けんじフォロワー。テレビのコント番組を見るような大げさな演技にうんざり。テレビマンと演劇人は映画の演技を誤解してないか?

テレビマンで放送作家の監督堀部圭亮の考える演技と演劇人の内田聖陽の考える演技の負のベクトルが同じだと言うことに驚く。

演劇人は広い客席を意識した演技。テレビマンは馬鹿な視聴者を想定したわかりやすい演技を心がけるというが、その真逆のアプローチがはからずも映画では同じベクトル〜映画の客を馬鹿にしてるようにしか見えないふざけた演技という結果を生み出している。

おれは内田けんじが好きだから、こういう出来の悪いフォロワーが増えるのは嫌だな。だって本家の内田けんじ作品を知らない連中からいっしょくたにされる恐れがあるし、内田の新作の新鮮さが失われるかもしれないから。まあ杞憂だと思うが。


話題を変えてロケスタ社長日記の養老孟司の話が興味深い。

紙に印刷されて発表される文章と、ネットにのる文章は、どうしたって違ってくるはずなんです。ネットの場合は明らかに、反論を予測しながら書くことになりますから。読む人間がどう反応するかを極端なケースまで予想して書く。ウェブは書いたことにかなり悪口を言われますからね。しかも、新聞や雑誌を違って反応がダイレクトだから、書いたほうもついつい悪口を読まざるを得なくなる。そうすると、あれこれのケースを考えながら書くようになって、すっきりした文章にならない。読んでいるとなんだかうるさい感じの文章になってくる。

反論を予測しながら書くとどうなるかというと、これは官僚の作文に近くなっていきます。


自分の場合ブログは結構好き勝手に書いてるけどTwitterは控えめに書いてる。書く媒体によって自分の人格を切り替えているようなところはあるね。匿名掲示板だと言葉使いも荒くなる感じ、ブログは読んでる人がわからないし、少ないから結構自分の考える素の自分っぽい感じ。Twitterはいくら読んでる人が少ないからって変なことを書いたら確実にブロックされるだろうからおすまししている自分。


書く媒体によって人格を切り替えてるという話つながりで平野啓一郎公式ブログで書かれた「分人主義(ディヴィジュアリズム)」という考え方が面白い。

「個人」の中には、対人関係や、場所ごとに自然と生じる様々な自分がいる。それを僕は、「本当の自分が、色々な仮面を使い分ける、『キャラ』を演じる」といった考え方と区別するために、「分人(ディヴ)」と言っています。

好きな友達や家族の前での自分は、必ずしも「演じている」、「キャラをあえて作っている」のではないし、逆にあわない人間の前では、イヤでもある自分になってしまうわけで、人間が多様である以上、コミュニケーションの過程では、当然、人格は相手ごとに分化せざるを得ません。その分人の集合が個人だという考え方です。詳しくは、『ドーン』を読んでいただきたいのですが。

会社や学校でうまくいっていないとしても、それを自分という人間の本質的な、全人格的な問題と考えるべきではないです。そうした場所や対人関係の中で生じた分人だと、分けて考えるべきです。

その上で、自分の中の分人の比率、バランスを考えることです。対人関係や場所の分だけ、分人を抱え込むことになりますが、好きな、居心地がいいというか、「生き心地がいい」分人をベースにして生きていくべきだと思います。


この考え方は多くの人を救うんじゃないかな。嫌な自分、最低の自分を自分の全人格だと思わないこと。そうすれば自分を全否定することもなくなる。
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2009年09月05日

シンジのTwitter噂の真相

嫁にするなら谷村美月。愛人にするなら仲里依沙。 1 day ago

今週のシネマハスラー町山さんの20世紀少年評か。20世紀少年見たくないけど見ないと批評の面白さがわかんないからな〜 2 days ago

松屋のフレッシュトマトカレー安いわうまいわコストパフォーマンス最高だろ 2 days ago

2ちゃんで大量にばらまかれたかっこいい民主党支持者とぶっさいくな自民党支持者の絵を描いたの小田嶋隆らしい。 2 days ago

小林信彦が中原早苗の女優魂を絶賛。読みたい。表紙が最高!http://bit.ly/Mn6yp 2 days ago

南極料理人見てきた。いろんな料理が出てくるがラーメンを一番うまそうに描いた監督の腕は確かだ。 2 days ago

超硬派なエヴァ興行論を書きました。 3 days ago

「ペギー・スー 蜃気楼の国へ飛ぶ」 監督:細田守脚本:奥寺佐渡子製作プロダクション:ゴンゾ、角川書店、フジテレビ公開時期:08年下半期 これマジすか? 3 days ago

サマーウォーズ7位にランクアップよ〜!奇跡の推移だわ。10億も超えたでしょ。 4 days ago

ホショタ監督・・・というレスをカズマスレで見た。 6 days ago
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2009年08月15日

山城新伍は張飛である

山城新伍さん死去享年70歳

山城新伍氏は毀誉褒貶する立場の人だった。浅草キッド水道橋博士も絶賛する山城新伍著「おこりんぼさびしんぼ・若山富三郎・勝新太郎無頼控」は傑作として名高く、この本で描かれる若山富三郎のモンスターっぷりにワクワクしたことを思い出す。


若山富三郎はとにかくすぐに怒って誰かれかまわず殴り飛ばす人ですでにスターであった菅原文太も殴られたことがあるほどの暴君だったが、なぜか山城新伍だけは一度も殴られたことがない。それも山城さんは若山富三郎に心酔して常にそばにいたにもかかわらずである。


山城新伍は先輩や目上の人に可愛がられるコツをしっている。ところがこれが自分より年下や目下を相手にすると一変する。


インスタント麺のどん兵衛のCMで長らくコンビを組んでいた川谷拓三はのちに山城を大嫌いだと告白している。


三池崇史監督は自身の作品に山城新伍をキャスティングすることをすすめられ断っている。TVドラマハングマンの助監督だった三池は山城からひどくいじめられたことがあり、その苦い思いがあるからだという。(極道恐怖大劇場・牛頭公開時の曽根晴美のインタビュー証言)


このように目上には評判が良く、目下の者には毛嫌いされる山城新伍って唐突だけど張飛っぽいなぁと。


三国志時代の英傑である関羽、張飛の有名な人物評がある。「関羽張飛はみな万人の敵にかない、世の虎臣となす」そして二人にはもう一つの側面があった。


関羽は「善く卒伍に待つも、士大夫に驕る」つまり自分より身分の低い者や部下には優しく接したが身分の高い者には傲慢な態度を隠さなかった。


張飛はまったくその逆で身分の高い者にはこびへつらい、目下の者や部下は平気で打ちすえたり殺したりしていた。


結局ふたりともその性格の欠点がもろに自身の死に直結してるんだけどね。


なんか不意に思いついて書いたので他意はありません。山城新伍氏のご冥福をお祈りいたします。
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2009年06月26日

マイコオォォォォォォォォ

さてと、劔岳の感想でも書くか・・・と思ってたらマイコオォォォォ!!
20世紀最大のスターが逝ってしまいました。全日三沢世代でもある私はもちろんM・J世代でもあるわけで・・・続けての訃報にショックを通り越して頭がボーッとしています。


追悼のためにいろいろ映像とか見返しておりますが



ベタだと思うけどはじめて聞いてショックを受けたのはやはりビリージーンです。

わりと最近のパフォーマンスですがこれも凄い。



キラキラ(TBSラジオ)聞けなかったけど西寺郷太さんがっくりしてるだろうな。マイケル・ジャクソン氏のご冥福をお祈りいたします。



追記・キラキラのポッドキャスト聞いたけどひどいな・・・。西寺さん怒りで頭の中真っ白になったんじゃないか。
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2009年06月16日

いまだに鬱状態・三沢光晴各界からの追悼コメント

いまだにショックが後を引いて何もする気が起きません。今度映画「レスラー」を見に行って心を静めたい・・・。

英国のSUN紙も三沢さんのことを大きく取り上げています。
記事が消された場合のjpgも一応置いておきます。
Japanese wrestling legend Mitsuharu Misawa dies in ring  The Sun SportWrestling.jpg


2ch系プロレスさんで各界の著名人からのコメントがまとめられていますのでみてください。


一番心打たれたのは、三沢さんと面識のなかったであろうジム・ロスWWE解説者兼上級副社長のコメントです。


「三沢光晴とは直接の知り合いではなかったが、彼の試合のDVD

−その多くは自分が直接知っている対戦相手との試合だったー

を沢山見てまるで知り合いであるかのように感じていた。

最盛期の三沢は世界で最もリングで魅せることが出来る選手だったと言っていいだろう。

まず、三沢はレスリングを知っていたし、フィジカルにレスリングをすることができた。

その基礎は若い頃、日本でアマレスの全国チャンピオンになるまでに至ったトレーニングで培われたものだった。

私が特に感銘をうけた特徴について記そう。

三沢はフィジカルで根っから健康的なアスリートであることに加え、間合いとタフネスがずば抜けて優れていた。

間合いは、ほとんどの場合教わったからといって身につくものではない資質だ。リング上の勝負勘といってもいい。

ある程度は教えることは出来るものの、殆どの場合は自ら後天的に習得しなければならないような資質だ。

この業界に長年いても、間合いまたはメイン・イベント・レベルの勝負勘を身につけられないレスラーは何人もいる。

タフネスという資質ももまた、訓練によって身につけることもできるが殆どの場合教えて出来るものではない。

三沢は生来タフな選手で、彼のタフさは眼に明らかだった。三沢のファンは彼のタフネスぶりに熱狂した。

ファンはまた、三沢が示す情熱と、彼のファイトによって感情を揺さぶられる経験を愛していた。

観客に感情を提供すること−まさにそれこそがプロレスリングの本質だ。

もう一つ、記さなければいけない事は、日本のプロレス界の歴史に於いて特に重要だった存在がこの週末に亡くなってしまった。

三沢光晴選手は、まさに彼自身が信じられないと思う程の名声と世界中のプロレスファンからの尊敬を受けた場所で亡くなった。

…そう、リングの中で。

アメリカのプロレスファンの多くが、この「日本人レスラー」の早すぎる死について考えを巡らせないことは非常に恥ずべき事だ。

すべてのファンに三沢のDVDを探し、全盛期の彼を見ることを勧めたい。特にお勧めなのは彼の90年代の頃の姿だろう。

そして本気で技術の高いプロレスラーになりたいのであれば、晩年の三沢光晴を研究するといい。

 
ご冥福をお祈りします。」ージム・ロス


面識のない人間にこれほどまで心のこもったコメントが出せる人を尊敬します。三沢光晴は世界中のプロレス関係者から尊敬されていたんだ。三沢さん、あなたのことを心から誇りに思うよ。



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2009年06月14日

なんて見事な人生だろう・三沢光晴

プロレス全盛時代を生きてきた(力道山世代じゃなく、見始めたのは鶴田の黄金時代からかな)

おぼえてるよ、あのあまりにも強大でプロレスの天才といわれたジャンボ鶴田にぶつかってはひねりつぶされていたレスラーのことを。

三沢が虎のマスクを試合中に取ったのは見逃したけど、絶対に勝てないだろうな〜と思っていた鶴田に超地味なフェイスロックではじめて勝った試合は見た。

その試合を境に三沢は全日の顔になっていく。俺は思い出す。やたらクルクル宙を飛ぶオレンジ色のパンツの線の細い青年とタッグを組んでいたっけ。

それからやたらと殺気のこもったキックをだす小太りのタイツのおっさんもよく三沢にからんできた。

三沢は全日の顔になりトップに立ったんだけど鶴田のような絶対的な強さを誇っていたわけではなかった。試合の中盤まではひたすら相手の技を受け見るものをハラハラさせた。鶴田的な盤石な試合運び、力でねじ伏せるところなんて見たことがない。

でも三沢には一発逆転の技があった。伝家の宝刀「エルボー」である。どんなにピンチになってフラフラの状態でもエルボー1発であっさり逆転する。それはまるで歌舞伎の世界。柴田錬三郎とかの剣豪小説の世界だ。一撃必殺という漫画的、剣豪小説的な醍醐味が三沢にはあった。

そしていつしか時代は過ぎ、三沢も第一線からしりぞくときが来た。あの線の細かったオレンジ色のパンツの青年はいつしか鶴田並みの強大な存在として三沢を追い落とす。小橋建太と三沢のタイトルマッチを見た。

おそらく三沢対小橋戦が今のプロレスの過激化路線を推し進めたのは間違いない。執拗なまでの頭部への直接攻撃。リング上から下のコンクリートへと技を繰り出す過激さにいままでこんなこと見たことないと熱狂した。

しかし時代はいつしか総合格闘技の時代になっていき、プロレスは衰退していく・・・

この間30年ほど。たった30年弱でプロレスが夜のゴールデンタイムに放送していた時からじょじょに衰退していき放送枠が深夜に追いやられ、K1やプライドの登場で死にかけそしてこの不況下で深夜の放送すらなくなってしまったという。

しかもそれがピッタリ俺の人生と合わさるように進行していく。成功から没落までまるで映画のようなストーリーが目前で進行していく不思議さ。三沢はそんな映画の主人公だったんだ。

まるでゴッド・ファーザーのようなゼア・ウィル・ビー・ブラッドのような市民ケーンのような壮大な物語を30年に渡って繰り広げてきた、その主人公は三沢光晴、あなただったんだよ。

三沢光晴。あなたの人生は上質の映画そのものだ。なんて見事な人生だろう。
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2009年05月12日

ヒロトと木の子と宇多丸そしてスウィーツ

忌野清志郎告別式でヒロトら弔辞&バンド生演奏ーナタリー

ヒロトの弔辞はすごいね。ヒロトの持つ言葉の力は彼の楽曲からだけではなく、普通の会話にもでてくる。


たとえば笑芸人での水道橋博士(高校の同級生)との対談も素晴らしかったし、雑誌CONTINUEでのヤッターマンでおなじみ山本正之氏との対談にも驚いた(ヒロトが無名時代からの友人づきあい!)


ヒロトの対談にははずれがない。気負いがなく、俺が俺がというエゴもない。そして誠実に自分の言葉で話す、いつもひょうひょうとして気安い兄ちゃんという感じ。こんないい男が他にいるだろうか?宇多丸師匠がウィークエンドシャッフルで俺の好きな女はみんな忌野清志郎が好きだったと言っていたが、俺はヒロトを好きな女が好きだ。



「Perfumeワンマンライブ『ディスコ!ディスコ!ディスコ!』記念前夜祭 非公式ファントークイベント」での木の子の話が結構ショック。


木の子の中田ヤスタカ評「ヤスタカは職人というよりビジネスマン。作品の売りを分かっている」〜ほほう。


「ヤスタカは制作の全てを手がけたい人だから、歌詞も手がけていきたかったのではないか」「ヤスタカにメールしたが返信がない・・・」〜木の子とヤスタカの共同作業が終わるきっかけ?二人の間になにかあったの?


「最近のPerfumeの曲は聴いていない」「徳間からperfumeのCD1枚送ってこない」・・・・・Perfume初期の功労者に対しあまりの仕打ちに泣けてきた。



宇多丸師匠が「スラムドッグミリオネア」を酷評!ウヒョオオオ完全に同意!俺の信頼する映画サイトはほとんど100%といってもいいくらいスラムドッグを絶賛していたのでものすっごい孤独だったけど、俺の言いたいことすべて宇多丸師匠が言ってくれました。


俺の記事「アカデミー賞受賞作品って・・・スラムドッグミリオネア」


「雑な演出、雑な受賞」(by宇多丸)に笑った。やっぱダニー・ボイル演出へったくそだよね〜、宇多丸氏「山椒大夫」のことまで俺とシンクロ。ダニー・ボイルは溝口健二の山椒大夫とホセ・メンドーサ戦を見ろ!



榮倉奈々、瑛太主演の『余命1ヶ月の花嫁』が9日、大ヒットのスタートを切った。9、10の公開2日間で観客動員30万2000人、興行収入4億1000万円を記録。ーVariety・Japan

完全に読み間違えた「2009東宝ラインナップにひとりツッコミをいれるさびしい男が一人」で絶対に大コケすると予想したのにこの始末だよ。


〜客層は女子中高生から20代の女性が多く、若者中心の興行になっているのが特徴。カップル以外では、女性同士という観客が目立ち、小学生の女の子も散見される。ーVariety・Japan

スウィーツ層の動向は俺にはさっぱりわかんないや。廣木隆一監督作初の大ヒットになったのはいいんだけどさぁ・・これが大ヒットしたことによってスウィーツ層だけを狙い撃ちする映画が増加することが考えられる。類似の映画がこれからも作られるかと思うとうんざりするよ。ますます男の見る日本映画が減っていく。
posted by シンジ at 07:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする