2011年12月19日

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部「コナトゥス善悪の彼方」からの続き

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部の「コナトゥス善悪の彼方」では超越的普遍的価値などなく、盲目的なコナトゥス(自己存続の努力)は結局絶望でしかないのではないかと問うた。しかし本来スピノザは人間が最高の幸福にたどりつくまでの三つの認識の過程をエチカで示した。三つの認識とは、

第1種認識である表象知(表象=想像)。誤謬と錯覚にあふれた私たち凡俗が住まう苦しみに満ちた世界である。

第2種認識である理性知。身体性を基盤にした「共通概念」によって正しい認識をすることができる。

第3種認識である直観知。もはや推論も経験も必要としない。神の観念を直接つかむことができるようになる。

スピノザにとってこの直観知こそが最高の幸福なのだ。直観知とはまた「永遠の相のもとに」世界を観るということでもある。スピノザ「エチカ」の最重要概念「永遠の相のもとに」を読み解いてみよう。

永遠の相のもとに世界を知覚するとは、第3種認識、すなわち神の観念を直接つかむということだが、ここで注意しなくてはならないのは、スピノザのいう「神」は私たちがイメージする神とはまったく違うものであるということだ。スピノザの神はキリスト教の神とは違う、というかそれを神と呼んでいいのかさえわからないものを「神」と定義するのだ。スピノザにとって神とはキリスト教の神でも、超越的な存在でも、意志や知性を持つものでも、人格を持った絶対君主のような存在でもない。

スピノザの神とは、「因果関係の連鎖の網の目が無限に広がる必然性の世界」のことをいうのだ。それはまさに「神即自然」を意味する。自然と言っても草木のことではない。この私たちがよって立つ世界、全宇宙そのものを自然というのだ。

「永遠の相のもとに観る」とは、「私」はこの無限にはりめぐらされた因果の連鎖の中の一局所であるということを認識することに他ならない。ではそのことを認識した場合どうなるのか。「エチカ」で最も謎めいた難解な定理に行き着くことになる。

人間精神は身体と共に完全に破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。ーエチカ第5部定理23


このエチカ最大の難問を解いてみよう。スピノザのいう「永遠」とは時間のことではない。

永遠性とは持続や時間によっては説明されえないーエチカ第1部定義8説明


永遠は持続ではなく、したがって時間とは関係ないものである。つまり永遠性は時間を超越する。人が永遠の相のもとに世界を観るということは、時間を超越して世界を観るということになる。簡単に言えば、

今、私がここに存在していることが必然なら、1万年前同じ場所で誰かが産声を上げたのも必然であること。千年後今度は違う場所で誰かが生まれ、育ち、そして死ぬこともまた必然であること。地球上のことだけではない、遙か遠く宇宙のどこかで生命が誕生し、また死するのもすべてが必然なのだ。もはやそこに時間という概念はない。一切が同時に生起しはじめる。千年後も1億年前のことも、この全宇宙のすべてが同時進行しているのだ。そのことを理解することこそ「永遠の相のもとに観る」ことに他ならない。

この認識に達した人間はすでに時間と空間を超越している。永遠の相のもとに認識することとは、一瞬で永遠を理解すること。つまり私は一瞬で永遠を生きるのだ。

間違えてはならないのは、スピノザはエチカ第5部定理34備考で「自己の精神の永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じるのは誤りである」と言っている。つまり「私」が死後も存続することが精神の永遠性を意味しているのではない。永遠を認識することこそが時間と空間を超越し、永遠を生きることに他ならないのだ。

・・・しかしだ。私たち凡人にとって「永遠の相のもとに」認識するなどというのは、はっきりいって無理ではなかろうか。そんなことができるのは精神のエリートだけだろう。具体的に名前をあげるとしたら、それこそイエス、仏陀クラスのスーパーエリートだけだ。私たち凡人は第3種認識に達することもできず第1種認識の中でもがき苦しむほかない。

第3部「永遠の相のもとに」Q・E・D・

次はいよいよ最終回第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」です。やっと終わりますよ。ここまで読んだ人はいないと思いますけどね!
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2011年12月16日

スピノザと園子温第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

スピノザと園子温第1部「身体性」からの続き

第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

映画「恋の罪」の女たちは売春とSEXにより精神の隷属から逃れ出た。だが、逃れ出て解放された先には何があっただろうか。結論から言えば何もありはしないのである。ある方が「恋の罪」について「抑圧から解放されたんだからもっとカタルシスが欲しかった」と書いていたが、それこそがスピノザのいう目的論的な錯覚というのではないだろうか。

スピノザがその著書で繰り返し述べているのは「人は原因がわからないために、結果を原因と錯覚してしまう」ことだ。

すべての人は、自由を持つことを誇りますけれども、この自由は単に、人が自分の欲求は意識しているが自分をそれへ決定する諸原因は知らない、という点にのみあるのです。−スピノザ往復書簡集58


映画の場合「私を苦しめている抑圧から自由になりたい!」というのが行動の原因(目的因)であると錯覚されているにすぎない。ではいったい人がわからないがゆえに錯覚してしまう原因とは何か。スピノザはそれを自己保存本能、または自己存続の努力である「コナトゥス」であるという。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


第1原因であるコナトゥスが求めるものを人は善といい、正しいものというのであり、決して善だから正しいから人はそれを求めるわけではないのだ。これは必然的に抑圧からの解放=自由が目的ではないことを意味する。

抑圧からの解放=自由はコナトゥスが欲求したから善であり、正しいものとされただけで、自由が手に入れば、一転それはコナトゥスの欲求対象ではなくなるのだ。女たちは抑圧から解放されて「ああ、なんて幸福なの!」とはならない。手に入れた途端それは霧散するー欲求対象からはずれるのだ。

善いもの、正しいものは、超越的、普遍的な概念ではない。ただ人それぞれが欲望するもの、欲求するものを善いもの、正しいものと「呼ぶ」だけにすぎない。(人は自分が欲求しないものを悪いもの、正しくないものと呼ぶ)

女たちにとってその時は「自由」が善いものであり、正しいものだった。抑圧から解放されもはや自由が求めるものでなくなったとき、次にコナトゥスが求めるのが「束縛」であったなら、今度は女たちにとって「束縛」が善いもの、正しいものになる可能性すらあるのだ。

このことは恐ろしい現実をもたらす。彼女たちが欲望するものが彼女たちにとって善いものであるなら、それは必然的に、善・悪、真・偽、正・不正という一般的価値を超えるものとなる。つまり善・悪、真・偽、正・不正も彼女たち自身の内側から出る内在的意味しかなく、それは彼女たちにとって善なるものが他人にとっては悪となることもある、ということに他ならない。必然的に彼女たちは社会と対立し、外にはじき出されることになるだろう。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


さりげなくエチカの「備考」に書かれたこのなにげない一節こそが、スピノザ最大のコペルニクス的転回を世界にもたらす。

この一節は善・悪、真・偽、正・不正は神が定めた超越的な価値でもなければ、人間社会にそなわる普遍的な価値でもなく、コナトゥスが盲目的に求めるものが善であり、真であり、正であるという。善悪は内在的意味しかないのだ。

この世界には超越的、普遍的価値などない。つまりスピノザはこの一節で「神を殺害した」。なぜあれほどニーチェがスピノザに熱狂したのかがこれでわかる。

神は善悪を決定しない。神は超越的存在ではない。神には知性も意志もないと、スピノザは神をそう定義づけている。神は内在的存在であると。これは実質的に「神殺し」といっていい。

超越的・普遍的価値なき今、すなわち神なき現代。女たちのコナトゥスはただ盲目的に求め続ける。たとえ目的だと思っていたものを得られたとしても、得られた途端その得られたものは消え失せる。だが決して何かを求め続けるコナトゥスだけは消え失せることがない。求めるものが社会の倫理観をおびやかすものであろうと、それがコナトゥスの求めるものであるならば、彼女たちはそれを求めるだろう。

・・・しかし、これは絶望というものではないだろうか。スピノザは決してこのような絶望を思考したわけではない。スピノザが思考したのは最高の幸福とは何か、であったはずだ。

第2部「コナトゥス善悪の彼方」Q・E・D・

次回は第3部「永遠の相のもとに」・・・信じられないだろ・・・まだ続くんだぜ・・・・
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2011年12月14日

スピノザと園子温「恋の罪」論・第1部「身体性」

スピノザと園子温「恋の罪」論・第1部「身体性」

まずはじめに、私が書かんとしていることは、ただ単に「恋の罪」評を書くより、スピノザと園子温がいかに近接しているかを書いた方が理解が得られやすいこと。そしてさらにはスピノザと園子温を包括的に批判するという大それた趣旨もあります。長くなると思いますがお付き合いください。

第1部「身体性」

人間の「身体」ほど哲学上でも神学上でも長い間不当におとしめられてきたものはないだろう。12世紀のユダヤ神学者マイモニデスはこう言っている。

ー人間の知性が肉体に縛られている限り、神の摂理と一致できない。
ー物理的なもの、動物的なものに執着する限り魂は肉体と共に滅びる。ー「スピノザの精神と生涯」


そして哲学上では17世紀デカルトにいたるまで

理性の宿る精神と、感覚や感情の領域である身体を明確に区別した。身体は精神に従属し、そして感情は理性の支配を受けなければならない。ー「カフカ」リッチー・ロバートソン


哲学史上でこの身体に対する精神の優位性というくびきから身体を解き放ったのはニーチェだと言われている。

私はどこまでも肉体でありそれ以外の何ものでもない。魂とは肉体に付着したある物をさす言葉にすぎぬ。
肉体とはすなわちひとつの偉大な理性、一つの感覚を持った複合体だ。
君が「精神」と呼んでいる君の小さな理性もまた、我が兄弟よ、君の肉体の道具なのだ。
「われ」と君は語り、この言葉を誇りとしている。だが、君が信じたくないと思っているものー君の肉体とその偉大な理性のほうが、ずっと偉大なものなのだ。その理性は、口で「われ」とは言わないが、無言で「われ」を実行する。ーニーチェ「ツァラトゥストラ」


だが、ニーチェは突然、精神から身体を解放したわけではない。ニーチェがこのような大胆な思想上の転回を成し遂げたのは、ある人の影響があったからだ。ニーチェからさかのぼること200年前のオランダ、貧困と孤独のうちに死んだレンズ職人がいた。バールーフ・デ・スピノザ。17世紀全ヨーロッパから目の敵にされた哲学者である。

僕はすっかりびっくりしてうっとりしているんだ!僕には先駆者がいたのだ。何という先駆者だろう!僕はほとんどスピノザを知らなかった。僕が今彼を求めたというのはひとつの「本能的な行為」であったのだ。この最も異常な、最も孤独な思想家は僕に最も近いのだ。ーニーチェ全集15書簡集1フランツ・オーヴァーベクへの手紙


ニーチェがこの手紙を書いたのはちょうど「ツァラトゥストラ」執筆中の時。スピノザを読んだ衝撃と感動がニーチェに「ツァラトゥストラ」を書かせたのだ。永遠回帰の啓示をスピノザから得たのだ。

スピノザは同時代人でもあったデカルトに反発するかたちで身体性の復権をはかった。デカルトの心身二元論に対して心身並行論をとなえたのだ。スピノザはそれまでの哲学や神学では常識とされてきた考えに痛撃を与えた。精神の身体に対する優位性を否定して、身体性こそが精神を決定するというコペルニクス的転回を成し遂げたのだ。

ある身体が同時に多くの働きをなし、あるいは多くの働きを受けることに対して、他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。ーエチカ第2部定理13備考


スピノザにおいてはまずなによりも身体性こそが認識の基盤であり

身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従ってその精神は多くのものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになるーエチカ2部定理39系


身体性を通じて得られる「共通概念」が認識の扉を開くのだ。

このように人間の歴史は精神性と身体性とのせめぎあいにあった。そして現代の日本の映画界においてもそのせめぎあいは続いている。園子温「恋の罪」である。(え、前置き長いって?)

いったい「恋の罪」の女たちは何にあらがい、何に苦しんでいたのか。彼女たちは精神という観念の隷属からの解放を希求していたのではなかったか。

人気作家である夫にひたすら従順な妻、である女。警察という官僚機構に所属し、また妻であり母、である女。父の娘であり、怪物的な母の子、である女。女たちはそれぞれのくびきから脱しようともがいている。だが、彼女たちが戦いを挑むのはかたちのないもの、実体のないものでしかない。すなわち、精神を支配する文化であり、慣習であり、伝統であり、制度である。慣習も文化も制度も目に見えるものではなく、手で触れられるものでもない。ただ観念上存在し、私たち人間を縛るものである。このような実体のないものを打ち壊すにはいったい何をもってすればいいのか。

・・・そう、スピノザやニーチェがやったように精神の隷属化に置かれている身体性の復権によりこれを破壊すればいいのだ。

だが、やっかいなことにこの「身体」も長い年月をかけて文化や慣習に飼い慣らされてしまい「コード化」された状態になってしまっている。文化や慣習と言った観念によってコード化された身体をコード化から解放するにはどうすればいいか。

映画を観た人ならもうおわかりだろう。身体を身体のコード化から解き放つには身体のコード化されていない部分のリミットを外してやりさえすればいい。身体のコード化されていない部分とはすなわちー「性感帯」であり「粘膜」のことである。

SEXによって性感帯を刺激し、身体のリミットを壊し、コード化から全面開放すること。それによってしか文化、慣習、制度といった観念に縛られた身体を救う方法はない。

そして「売春」という文化上、制度上の「悪」を駆使して「コード」そのものである精神自体を破壊する。売春とSEXという二つの武器を使ってコード化された身体と精神というコードそのものを打ち壊すのだ。

第1部「身体性」Q・E・D・

第2部「コナトゥス・善悪の彼方」に続きます・・・
posted by シンジ at 18:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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