スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」
第2部の「コナトゥス善悪の彼方」では超越的普遍的価値などなく、盲目的なコナトゥス(自己存続の努力)は結局絶望でしかないのではないかと問うた。しかし本来スピノザは人間が最高の幸福にたどりつくまでの三つの認識の過程をエチカで示した。三つの認識とは、
第1種認識である表象知(表象=想像)。誤謬と錯覚にあふれた私たち凡俗が住まう苦しみに満ちた世界である。
第2種認識である理性知。身体性を基盤にした「共通概念」によって正しい認識をすることができる。
第3種認識である直観知。もはや推論も経験も必要としない。神の観念を直接つかむことができるようになる。
スピノザにとってこの直観知こそが最高の幸福なのだ。直観知とはまた「永遠の相のもとに」世界を観るということでもある。スピノザ「エチカ」の最重要概念「永遠の相のもとに」を読み解いてみよう。
永遠の相のもとに世界を知覚するとは、第3種認識、すなわち神の観念を直接つかむということだが、ここで注意しなくてはならないのは、スピノザのいう「神」は私たちがイメージする神とはまったく違うものであるということだ。スピノザの神はキリスト教の神とは違う、というかそれを神と呼んでいいのかさえわからないものを「神」と定義するのだ。スピノザにとって神とはキリスト教の神でも、超越的な存在でも、意志や知性を持つものでも、人格を持った絶対君主のような存在でもない。
スピノザの神とは、「因果関係の連鎖の網の目が無限に広がる必然性の世界」のことをいうのだ。それはまさに「神即自然」を意味する。自然と言っても草木のことではない。この私たちがよって立つ世界、全宇宙そのものを自然というのだ。
「永遠の相のもとに観る」とは、「私」はこの無限にはりめぐらされた因果の連鎖の中の一局所であるということを認識することに他ならない。ではそのことを認識した場合どうなるのか。「エチカ」で最も謎めいた難解な定理に行き着くことになる。
人間精神は身体と共に完全に破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。ーエチカ第5部定理23
このエチカ最大の難問を解いてみよう。スピノザのいう「永遠」とは時間のことではない。
永遠性とは持続や時間によっては説明されえないーエチカ第1部定義8説明
永遠は持続ではなく、したがって時間とは関係ないものである。つまり永遠性は時間を超越する。人が永遠の相のもとに世界を観るということは、時間を超越して世界を観るということになる。簡単に言えば、
今、私がここに存在していることが必然なら、1万年前同じ場所で誰かが産声を上げたのも必然であること。千年後今度は違う場所で誰かが生まれ、育ち、そして死ぬこともまた必然であること。地球上のことだけではない、遙か遠く宇宙のどこかで生命が誕生し、また死するのもすべてが必然なのだ。もはやそこに時間という概念はない。一切が同時に生起しはじめる。千年後も1億年前のことも、この全宇宙のすべてが同時進行しているのだ。そのことを理解することこそ「永遠の相のもとに観る」ことに他ならない。
この認識に達した人間はすでに時間と空間を超越している。永遠の相のもとに認識することとは、一瞬で永遠を理解すること。つまり私は一瞬で永遠を生きるのだ。
間違えてはならないのは、スピノザはエチカ第5部定理34備考で「自己の精神の永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じるのは誤りである」と言っている。つまり「私」が死後も存続することが精神の永遠性を意味しているのではない。永遠を認識することこそが時間と空間を超越し、永遠を生きることに他ならないのだ。
・・・しかしだ。私たち凡人にとって「永遠の相のもとに」認識するなどというのは、はっきりいって無理ではなかろうか。そんなことができるのは精神のエリートだけだろう。具体的に名前をあげるとしたら、それこそイエス、仏陀クラスのスーパーエリートだけだ。私たち凡人は第3種認識に達することもできず第1種認識の中でもがき苦しむほかない。
第3部「永遠の相のもとに」Q・E・D・
次はいよいよ最終回第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」です。やっと終わりますよ。ここまで読んだ人はいないと思いますけどね!