2011年12月14日

スピノザと園子温「恋の罪」論・第1部「身体性」

スピノザと園子温「恋の罪」論・第1部「身体性」

まずはじめに、私が書かんとしていることは、ただ単に「恋の罪」評を書くより、スピノザと園子温がいかに近接しているかを書いた方が理解が得られやすいこと。そしてさらにはスピノザと園子温を包括的に批判するという大それた趣旨もあります。長くなると思いますがお付き合いください。

第1部「身体性」

人間の「身体」ほど哲学上でも神学上でも長い間不当におとしめられてきたものはないだろう。12世紀のユダヤ神学者マイモニデスはこう言っている。

ー人間の知性が肉体に縛られている限り、神の摂理と一致できない。
ー物理的なもの、動物的なものに執着する限り魂は肉体と共に滅びる。ー「スピノザの精神と生涯」


そして哲学上では17世紀デカルトにいたるまで

理性の宿る精神と、感覚や感情の領域である身体を明確に区別した。身体は精神に従属し、そして感情は理性の支配を受けなければならない。ー「カフカ」リッチー・ロバートソン


哲学史上でこの身体に対する精神の優位性というくびきから身体を解き放ったのはニーチェだと言われている。

私はどこまでも肉体でありそれ以外の何ものでもない。魂とは肉体に付着したある物をさす言葉にすぎぬ。
肉体とはすなわちひとつの偉大な理性、一つの感覚を持った複合体だ。
君が「精神」と呼んでいる君の小さな理性もまた、我が兄弟よ、君の肉体の道具なのだ。
「われ」と君は語り、この言葉を誇りとしている。だが、君が信じたくないと思っているものー君の肉体とその偉大な理性のほうが、ずっと偉大なものなのだ。その理性は、口で「われ」とは言わないが、無言で「われ」を実行する。ーニーチェ「ツァラトゥストラ」


だが、ニーチェは突然、精神から身体を解放したわけではない。ニーチェがこのような大胆な思想上の転回を成し遂げたのは、ある人の影響があったからだ。ニーチェからさかのぼること200年前のオランダ、貧困と孤独のうちに死んだレンズ職人がいた。バールーフ・デ・スピノザ。17世紀全ヨーロッパから目の敵にされた哲学者である。

僕はすっかりびっくりしてうっとりしているんだ!僕には先駆者がいたのだ。何という先駆者だろう!僕はほとんどスピノザを知らなかった。僕が今彼を求めたというのはひとつの「本能的な行為」であったのだ。この最も異常な、最も孤独な思想家は僕に最も近いのだ。ーニーチェ全集15書簡集1フランツ・オーヴァーベクへの手紙


ニーチェがこの手紙を書いたのはちょうど「ツァラトゥストラ」執筆中の時。スピノザを読んだ衝撃と感動がニーチェに「ツァラトゥストラ」を書かせたのだ。永遠回帰の啓示をスピノザから得たのだ。

スピノザは同時代人でもあったデカルトに反発するかたちで身体性の復権をはかった。デカルトの心身二元論に対して心身並行論をとなえたのだ。スピノザはそれまでの哲学や神学では常識とされてきた考えに痛撃を与えた。精神の身体に対する優位性を否定して、身体性こそが精神を決定するというコペルニクス的転回を成し遂げたのだ。

ある身体が同時に多くの働きをなし、あるいは多くの働きを受けることに対して、他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。ーエチカ第2部定理13備考


スピノザにおいてはまずなによりも身体性こそが認識の基盤であり

身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従ってその精神は多くのものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになるーエチカ2部定理39系


身体性を通じて得られる「共通概念」が認識の扉を開くのだ。

このように人間の歴史は精神性と身体性とのせめぎあいにあった。そして現代の日本の映画界においてもそのせめぎあいは続いている。園子温「恋の罪」である。(え、前置き長いって?)

いったい「恋の罪」の女たちは何にあらがい、何に苦しんでいたのか。彼女たちは精神という観念の隷属からの解放を希求していたのではなかったか。

人気作家である夫にひたすら従順な妻、である女。警察という官僚機構に所属し、また妻であり母、である女。父の娘であり、怪物的な母の子、である女。女たちはそれぞれのくびきから脱しようともがいている。だが、彼女たちが戦いを挑むのはかたちのないもの、実体のないものでしかない。すなわち、精神を支配する文化であり、慣習であり、伝統であり、制度である。慣習も文化も制度も目に見えるものではなく、手で触れられるものでもない。ただ観念上存在し、私たち人間を縛るものである。このような実体のないものを打ち壊すにはいったい何をもってすればいいのか。

・・・そう、スピノザやニーチェがやったように精神の隷属化に置かれている身体性の復権によりこれを破壊すればいいのだ。

だが、やっかいなことにこの「身体」も長い年月をかけて文化や慣習に飼い慣らされてしまい「コード化」された状態になってしまっている。文化や慣習と言った観念によってコード化された身体をコード化から解放するにはどうすればいいか。

映画を観た人ならもうおわかりだろう。身体を身体のコード化から解き放つには身体のコード化されていない部分のリミットを外してやりさえすればいい。身体のコード化されていない部分とはすなわちー「性感帯」であり「粘膜」のことである。

SEXによって性感帯を刺激し、身体のリミットを壊し、コード化から全面開放すること。それによってしか文化、慣習、制度といった観念に縛られた身体を救う方法はない。

そして「売春」という文化上、制度上の「悪」を駆使して「コード」そのものである精神自体を破壊する。売春とSEXという二つの武器を使ってコード化された身体と精神というコードそのものを打ち壊すのだ。

第1部「身体性」Q・E・D・

第2部「コナトゥス・善悪の彼方」に続きます・・・
posted by シンジ at 18:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする