2012年06月03日

保守とは何か。バーク「フランス革命の省察」

保守主義とは何かを知るのにエドマンド・バークの「フランス革命の省察」を読む。

1789年バスティーユ監獄襲撃から始まったフランス革命。その大混乱の様子を隣国のイングランドから見て、徹底的にフランス革命を批判したエドマンド・バーク。その肝は、一体正義の根拠はどこにあるのか?という問いだ。

フランス革命の基盤にあるルソーの思想。その正義の根拠となるのは「自然法」(自然権)に他ならない。しかしバークはルソーが正義の根拠とする自然状態時の自然人の自由を虚構と断じる。

ではバークは、なにが正義の根拠になるといっているのか。それこそが「慣習」である。慣習=伝統こそが正義の根拠となるべきものなのだ。まさにこれこそ「保守」のゆえんである。

また人が生きるうえで重要なのは、「固定観念」だとバークは言う。固定観念とは慣習により根付いた感情のことだ。人間のちっぽけな理性では正しい判断はのぞめない。しかし固定観念は理屈抜きの感情として積極的な行動を起こす原動力となる。たとえば・・・川で溺れた子供がいる。理性は助けに行くと自分の身もあぶないとブレーキをかけるが、固定観念=慣習による感情は子供を助けるために「考えなし」に川に飛び込むだろう。正義をなすのは理性ではなく感情なのだ。

人間の行動を決めるのが慣習に基づく感情なら、すべての権力の源泉もまた慣習である。

「いかなる権力も慣習を離れては存在しない」−バーク


その権力が揺らぐとどうなるか。国の権威が失墜すると、軍に歯止めが利かなくなる。そうなると、軍を掌握したものが、フランスの支配者=独裁者となるとバークが書いたのは、ナポレオンが登場する前である。

しかし、バークの保守主義には致命的な弱点がある。正義の根拠が慣習=伝統なら、専制国家や独裁国家が何百年と続けば、それも伝統となる。それが伝統でさえあるなら「正義」ということになってしまうではないか。独裁国家も専制政治も、階級差も、貧富の差もそれが「慣習」ならすべて正義となってしまうだろう。たしかに慣習の力は強い。それが正義の根拠となることもあるだろうし、人々の行動の源となっていることも事実だ。だが、慣習というのは時代を経てしまうとすりへって老朽化するものだ。時間を経るたびに正義の概念が変わっていくなら、時効性は正義の根拠とはなりえない。そうなるとバークの保守主義は意味のないものとなるのだろうか。

そうとはかぎらない。バークの保守主義に現代的意味があるとするならば、それは急進主義に対する徹底した批判にある。バークは現実の政治というものは利害対立があるから、どんなことでも議論を重ねて、妥協点を探りあうことだとする。しかし急進主義は「悪徳を放置するか、制度の全面廃止か」という暴力的なまでの二者択一を迫る。そこには善か悪かの二者択一だけがあり、議論も妥協も存在しない。

ここに急進主義の暴力性がある。「正義」である我々に従わないものは「悪」だ−これを排除せよ。正義=目的のためならどのような手段も正当化されてしまう。その結果がフランス革命のように罪もない多くの人たちが、虐殺されてしまうような事態を引き起こしたのだ。

いかなる合理的目的、いかに正当な規範、いかに理想的な計画、いかに美しい社会理念、いかなる正統性、合法性といえども、そのために人間が殺戮しあうことを正当化することはできない。−「政治的なものの概念」カール・シュミット


現実的な政治闘争を越え、それが神学闘争になった時どうなるかをカール・シュミットはこう言い放つ。

そのような戦争は政治的なものを越えでて、敵を同時に、道徳的その他の諸範疇においても蔑視し、たんに撃退するだけでなく、はっきり抹殺せざるえない非人間的怪物に仕立てあげずにはいない。−「政治的なものの概念」カール・シュミット


フランス革命の末路である。

バークはスピノザ的な「多数者」=民衆が政治にかかわれば、より良い判断ができるといった楽観的な民主主義観を否定する。

「個人なら自由を得ても分別がきくが、集団が自由を得ると暴力的な権力を手にしたことになる。」−バーク


そして政治が民衆に迎合しはじめると、「目的が手段を正当化」するはずが、逆に「手段が目的を否定」するはめになる。すなわち民主革命だったはずが、いつのまにやら独裁者が誕生するはめになるのだ。
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2012年05月25日

腐敗した国家をどうすべきか・マキァヴェッリ「ディスコルシ」

マキァヴェッリ最高傑作「ディスコルシ」について

マキァヴェッリ「ディスコルシ」では「君主論」ではわからなかったマキァヴェッリ思想の核心にふれることができる。しかも「君主論」よりはるかに面白い。

「ディスコルシ」は共和政擁護の立場から、マルチチュードへの信頼が語られるのが珍しい。昔も今も知識人は大衆を馬鹿にするのが常であるが、マキァヴェッリは積極的に大衆を擁護する。

民衆の持つ性格が、君主の性格に比べて罪が重いわけではない。なぜなら、あとさきのことを考えもせずに、あやまちを犯してしまう点では、両者は五分と五分だからだ。−第1巻58章

人民に比べると、君主の方がはるかに失敗を犯しやすい。−第1巻58章

大衆は、常に政治を行う者を模倣する−第3巻29章


マルチチュードの政体である共和政が君主政と比べて劣っていることはないのだ。

またカエサルに対する厳しい批判も特徴的で、カエサルをローマ共和国はじめての僭主と酷評している。

僭主ははじめのうちは人民の味方としてあらわれるが、気づいた時には人民は奴隷となっている。−第1巻40章

僭主があらわれる原因は、人民が解放されようとして、ゆきすぎた望みを持つことにある。−第1巻40章


人間を動かすものは、いつだって、その「ゆきすぎた望み」−欲望である。

自然が人間を作った時、人間がなにごとをも望めるようにしておきながら、しかも何一つ望みどおりに実現できないように仕組んでおいた。−第1巻37章


そのせいで、人間の欲望は常に不満を持ち続けるように出来ている。欲望は決して果てることはないのである。したがって人間の欲望を基準に考えることが、より良き国家への道なのだが、古代ローマとくらべて現代のイタリア(16世紀)が悲惨なことになっているのは、宗教に原因がある。

現代の宗教(キリスト教)は、服従、謙遜をもっとも貴いことと考えて、人間が対処しなければならない日常の事柄をさげすむ。これに対して、古代の宗教は強靭な精神、頑健な肉体、さらにこの他、人間をこの上もなく力強い存在に鍛え上げうるすべての事柄を最高の善とみなしていた。−第2巻2章


古代ローマの宗教は現世での栄誉を最も尊ぶ。人間が現世で偉大なことを成し遂げることを古代ローマの神々は喜ぶのだ。しかしキリスト教はこの世で偉大なことをなせとは要求せず、ただ忍従せよ、我慢せよということを教える。これでは今、自分が生きる世界や、自分自身をよりよくしようという意欲に結びつかないのは当然だ。

このような宗教が支配した国家は必然的に腐敗する。ではそのような腐敗した国家をどうすればよいのか。マキァヴェッリは国家創設時の本来の姿にたち戻らせるしかないと言う。

国家を長く維持していくためには、多くの場合本来の姿を回復することが必要である。−第3巻1章


国家創設期は指導者も民衆もヴィルトゥ(Virtu)−活力に満ち溢れていた。そうした創設期に回帰するにはどうすればよいのか。

創設期に回帰するには「恐怖」という手段を使うほかない。恐怖心と不安を人民に与えることによって、国家創設期に回帰させるのだ。恐怖とは具体的には、違法行為に対する厳罰化や、政府交替、外国からの侵略などの外圧である。それらによって、国家創設期の緊張感と清新感を取り戻すのだ。

また時代の変化に応じて法律を変えないと国は滅びる。変えることができなければ、結局、革命という急激な変化にさらされるだけだ。しかし人間というものはなかなか自分や、国家の政体を変えようと動こうとはしないものだ。人間を動かすものはネチェシタ(necessita)(切迫性、必要性、時代性)であり、そのネチェシタ−必要性に迫られ、ネチェシタ−時代性を読むことが重要になってくる。ネチェシタをうまく利用して、いかに運命−フォルトゥナ(Fortuna)を打開するかが重要なのだ。

「ディスコルシ」はマキァヴェッリ哲学の面白さ、斬新さがつまったマキァヴェッリの最高傑作です。

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2012年05月13日

レオ・シュトラウス「哲学者マキアヴェッリについて」

現代のマキアヴェッリ評価はマキアヴェッリは単なる政治史家であって、哲学者でも政治哲学者でもないというのが支配的だそうな。しかしシュトラウスはマキアヴェッリは近代哲学の創始者であると高く評価する。

マキアヴェッリの主要著書「君主論」と「ディスコルシ」の違いとは自然的か必然的かの違いだという。「君主論」で書かれる君主政というのは人間の自然的欲望=名誉や栄誉を求める欲望から導出される。名誉欲は人間が本性的に持つ承認欲求であり、自然的欲望である。それに対し「ディスコルシ」で書かれる共和政は民衆の必然的欲望=生命と財産を奪われる恐怖から導出される。

生命と財産を奪われる恐怖=起源的テロルが人間を動かし、社会を作らせ、それを維持させる。起源的テロルという非道徳性が、共同体の道徳性を作り出すのだ。しかし民衆はいったん安全が確保されると起源的テロルを忘れ、他者への優越を欲望しはじめる。同胞たちに優越し、それを抑圧しようとするのだ。ここに「僭主」の生まれる隙が出てくる。(「僭主」というのは共和政(民主政)にもかかわらず実質君主(独裁者)が支配すること。ローマ共和国を終わらせたカエサルであるとか、15世紀フィレンツェ共和国を牛耳ったメディチ家であるとか、21世紀オーサカを牛耳っているトオル・ハシモトらのこと)この腐敗状況を変えるには、民衆に再び起源的テロルを喚起する必要性が出てくる。

体制の新創設者は古い体制を一掃し、新秩序の健全な体制を打ち立てる。マキアヴェッリにとって新秩序という目的のためなら非人道的な手段をとることも容認される。その非人道的な手段が民衆に起源的テロルを喚起させるがゆえに。

起源的テロルを喚起させる方法には、他に戦争という手段もある。実際に戦争を起こすかどうかはともかく、仮想敵国というものを作り出し、民衆の恐怖と不安をあおり国家体制を維持する国は現代にもよくある。起源的テロルを国民に終始ちらつかせないと体制が維持できないというのはそれだけ国家体制が腐敗している証拠でもある。

マキアヴェッリが近代哲学の創始者だという理由は二点。

マキアヴェッリは人間や社会を「理想の高み」へと引き上げようとするのは、非人道的で悲惨な結果を招くだけだとする(宗教改革の悲惨を予見している。その後の歴史も)。むしろ人間を「低いところ」から見て、現実的に獲得できることからはじめなければならない。「いかに人が今生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとの間には非常な隔たりがある」(君主論15章)のであるから。

人間を「低い」ところから見るとは、君主政は自然的欲望から創出され、共和政は必然的欲望から創出されたということを見ることである。国家の政体は崇高な目標からではなく、あくまで人間の低い欲望から導出されることを見なければならない。

「理想の国家」を目指すという目的論的国家観から、「低いが堅固」なコナトゥス(自己保存)から導出される作用因的国家観への転換を成し遂げたのが一点目。

二点目はマキアヴェッリの苛烈なまでのキリスト教会に対する批判である。

教会やその坊主のおかげで、我々イタリア人は宗教もろくに持たずに、よこしまな生活にふけっている。さらにそればかりではなく、はるかに大きな不幸を教会や坊主のために受けている。それは我々に破滅をもたらす原因となるものである。すなわち教会は、イタリアを昔から今まで一貫して分裂させてきたのである。−「ディスコルシ第1巻12章」

痛烈なキリスト教会批判は、キリスト教的な彼岸の理想主義的世界観からの脱却を意味する。それは目的論的世界観から作用因的世界観への転換を意味する。マキアヴェッリはホッブズやスピノザに先行する近代哲学の創始者といえるのである。

最近はレオ・シュトラウスにハマリ中。でも翻訳されてる著作が少ないからすぐに読み終わりそう。シュトラウス「自然権と歴史」はおそらく今年読んだ中のベスト1。
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2012年05月07日

新約聖書のたとえ話と隠喩

田川健三が「イエスという男」にこんなことを書いている。

福音書に出てくる比喩物語を、たとえ話(parabel)と隠喩(allgorie)に峻別し、前者のみイエスの言葉で、後者はすべて教団の創作とみなす方法は、今日学界の常識となっている。−「イエスという男」


こういう見方だといろいろ腑に落ちる点が多々ある。たとえばマタイによる福音書20章のぶどう園の賃金の話。これはっきりいって最初読んだ時はまったく意味がわからなかった。一応どういう話か書きますと・・・

ぶどう園の主人が、ぶどう園で働く労働者に1日1デナリオンの賃金を払うという。まず朝の9時ごろ広場にいた人たちを雇う。次に12時に広場にいた人を雇い、15時にいた人も雇う。夕方の17時にいた人も雇う。1日が終わり、17時から働いた人に1デナリオン支払う主人。朝から働いていた人はもっとたくさんもらえるだろうと期待していたら、彼らも1デナリオンしかもらえなかった。それに対して不満を漏らすと、主人は「私はあなたに不当なことは一切していない。1日1デナリオンの約束をしたのだから」

・・・これどう理解していいかわかんないですよね。でもこれをパウロ神学を通してみると意味が浮かび上がってくる。

つまりこれは「功績主義」に対する批判なのだ。パウロはいわゆる「信仰義認」説をとなえた人で、信仰義認というのは「信仰によってのみ、神に義と認められる」という考えのこと。つまり人間ごときの努力や行為によって神の国に入ろうなんてことは不遜以外の何ものでもない。この世のことはすべて神が決める。だから今日朝から一日中働いていたから、神はたくさんご褒美を下さるだろう、なんていう「功績主義」的な考え方はパウロ神学を通すとけしからんということになる。

しかしだ。これはあきらかに田川健三いうところの「隠喩」である。この話自体は当時イエスが実際に話したことかもしれないが、この話の「隠喩」はイエス亡き後、原始教団が宣教のために作り上げた創作に過ぎない。イエス本人は「信仰義認」による「功績主義」否定なんて教えは説いていないのだ。

当時イエスは教育を受けていない貧しい人たちや庶民相手に説教していたわけで、こんな小難しい隠喩を話に込めていたはずがない。となると、このたとえ話をイエスはどんな意味で話したのか。

田川はこれを社会的平等のたとえ話だとする。たくさん働いたから人よりたくさんもらえるという考えは格差を生む。今日一日仕事にあぶれた人も、仕事を持っている人も、等しく生きる権利がある。というたとえ話だというのだ。

これは結構ラディカルなたとえ話ではないでしょうか。当時資本主義的な傾向を持ちつつあった社会に対しての明確な否定。つまり労働の量や質で、貧富の差が出ることに対しての批判である。

イエスの考えを単純に現世否定、来世肯定ととらえてはいけない。この現実の世界にはなんの意味も価値もない。ただ彼岸の神の国だけに価値がある。という考えは、真逆の考えー現状肯定という考えを生み出してしまうからだ。神の国がすべてなら、今いる世界に対しては別に積極的にかかわりあう必要はないという考えになってしまう。

イエスは現世否定ー来世肯定=現状肯定の人では絶対にない。この現実の社会に対して、「アンチ」の考えを持った人であって、この自分たちが生きる世界に対して憤りを感じている人であり、これを変えなくてはならないと思った人だ。
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2012年03月30日

ホッブズの「リヴァイアサン」第三部について

ホッブズのリヴァイアサンというと自然権や主権について書かれているリヴァイアサンの1巻と2巻(岩波文庫)は読んでいる人は多いと思うけど、聖書の解釈が延々と続く3〜4巻は読んでる人も少ないと思う。でも俺にとってはリヴァイアサンの3巻が一番面白い。3巻は主にキリスト教権力=ローマ法王の命令は何の法的拘束力もないことを聖書を根拠にして論証するというアクロバティックなことをしていますが、それとともにもっと大胆なことを主張しています。キリスト教のすべての根拠である聖書に実は根拠は無いということをも言っているのです。・・・いや根拠が無いとは書いていません、ただその根拠となるのが「教えるー聞く」関係にしかないといっているのです。「教えるー聞く」関係とは簡単に言うと「教育」のことです。それもキリスト教の根拠となることはたったひとつだけ「イエスはキリストである」ことを「信じる」こと。それを土台にした「教えるー聞く」関係こそがキリスト教のすべての根拠だとホッブズはいうのです。したがって聖書が神の言葉であることを「知る」必要は無く、聖書が神の言葉だと「信じる」ことがキリスト教の根拠のすべてなのです。この考えはすぐにある人の考えに結びつきます。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」です。そして柄谷行人は「探究T」で他者とのコミュニケーションはすべからく 「教えるー学ぶ」関係になると書いています。ホッブズのリヴァイアサン3巻はホッブズmeetsウィトゲンシュタインmeets柄谷行人となるのです。
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2011年12月23日

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」

第3部「永遠の相のもとに」の続き

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」

私たち凡人は「永遠の相のもとに」認識することもできず、苦しみ続けるしかない。結局スピノザの思想は孤独なエリート主義でしかないのか。この第4部ではスピノザ思想の中核にはある根本的な危険がひそんでいることを示す。そしてスピノザ思想をつきつめた果てにはマルキ・ド・サドが、そして園子温がいることも。

スピノザ哲学の最重要概念はコナトゥス=自己保存本能、自己存続の努力である。何びとたりと各人の持つコナトゥスをおびやかすことは許されず、おびやかすものを排除することができる。これがスピノザの言う自然権である。

自然状態においてはすべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるようないかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら自然状態における各人はもっぱら自己の利益のみを計り、自己の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自己以外の他人に服従するように義務づけられないからである。したがって自然状態においては罪過というものは考えられない。ーエチカ第4部定理37備考2


ここまでくるとコナトゥス=絶対利己主義となる。この考えからマルキ・ド・サドまではほんのわずかだ。

神の摂理は善におけると同様、悪においても価値をあらわすものであるということ。神がわたしたちのために創ってくれた状態は平等なのだからそれを乱そうとする者がそれを回復しようと努める者より罪があるとも言えたものじゃないわ。両者とも当たり前な衝動によって事を行っているのではあるし、両者ともこの衝動にしたがい目をつぶって享楽しなければならない運命を負っているのですからねーマルキ・ド・サド「ジュスチイヌあるいは淑徳の不幸」


しかしスピノザの言う利己主義を推し進めていくと、当然のことながら自他の利害が生じ、争いになるはず。しかしスピノザの最も奇妙なところは利己主義をつらぬくと利他主義になるという点だ。

むしろ彼は理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて共同の生活および共同の利益を考慮し、したがってまた国家の共同の決定に従って生活をすることを欲するのである。ーエチカ第4部定理73証明


つまり自分の利益を確保するために他人に便宜を図ること。自由と安全な生活を得るために他者たちー共同体の利益に配慮するという考え方。これを「堕天使の倫理」の佐藤拓司は「道具主義的解釈」と喝破する。他者を自分の利益のための道具=モノと考えるスピノザ的利己主義。そしてこの道具主義は必然的にこういう考え方をもたらす。

他人の幸福を自己の幸福のための道具として考えているかぎり、社会もまた自己のための道具としてのみ存在を許されるものとなる。それならば自分の利益と社会の利益が対立するような場合には、無条件で社会の利益を無視してよいではないか。これがマルキ・ド・サドの背徳主義を生み出す土壌となった。ー「堕天使の倫理」佐藤拓司


映画「恋の罪」の女たちにとって自分を抑圧するもの、自分の自由を奪うものはすべて自分以外の「他者」である。ならば自分の体を道具=モノと化しその「モノ」を使って「他者」を組み伏せれば「他者」は「モノ」となるではないか。「モノ」になりさえすればそれはもはや私と同じ人間ではない。ただの「モノ」が私を抑圧したり、私の自由を奪ったりすることができるはずもない。かくして女たちは自分以外はすべて「モノ」となった世界に住まう。

スピノザのコナトゥス=利己主義のなれの果ては18世紀マルキ・ド・サドに行き着き、さらに21世紀園子温にまで達したのである。

自分を抑圧し、自由を奪い取ろうとする他者=外部は消えてなくなり、自分一人だけが他の「モノ」どもを踏みにじって君臨することのできる世界の誕生。

あらゆるものすべてが彼の自我の内部に取り込まれ、外部が消え失せる。彼はその中の唯一の主体となる。この仮想空間でつかの間に味わう全能感。まさに堕天使のごとく自らが神となる。ー「堕天使の倫理」


サドと園子温映画の登場人物にはもはや他者が、外部がなくなり、すべては自分が利用することのできる「モノ」でしかなくなる。自我という「閉じた円環」の中での全能感。まさにサドや「冷たい熱帯魚」のでんでんにとって自分とは神であり、「恋の罪」の女たちも自分以外はすべて「モノ」と考えることによって神になろうとしたのである。そして当然のようにそのもくろみは無残な結果を招くことになる。サドはその生涯のうちほとんどを牢獄ですごし、精神病院に幽閉されたまま息を引き取る。園子温映画の登場人物はいわずもがなだ。

彼らスピノザの子供たち孫たちがなぜこのような無残なことにならざるをえなかったのか。マルティン・ブーバーはこうスピノザを批判している。

スピノザはかの浸透せるものから自由になるように、民衆の中の知識人の精神を手助けしたのである。独語的生に向かう西欧精神の傾向が彼によって決定的に促進されたのである。そしてこのことによって、精神一般の危機が促進されたのである。なぜなら精神は独語的生の空気のなかでははなばなしく枯れ果てねばならないからである。ーマルティン・ブーバー「ハシディズム」


ここでブーバーがいう「浸透せるもの」とは神の存在、神との対話性のことである。神との対話性とはすなわち「モノ」ではありえない絶対的他者との対話性のことだ。他者との対話性を失い、他者がモノとしか感じられなくなった時、それは閉じた円環としての自己、いつわりの全能感をもったまま、はなばなしく枯れ果てるしかない独語的=モノローグ的生となるしかないのだ。

「破門の哲学」の清水礼子も書いているとおり、初期スピノザの「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」や「知性改善論」には神や他者との「合一」という言葉が頻出する。彼がユダヤ社会から追放されて間もない頃(スピノザ24歳)書かれた著作には共同体から投げ出された不安と絶望から、神や他者との「合一」を狂おしいほど切実に希求したことがうかがえるのだ。だが、晩年の著作「エチカ」や「国家論」になると他者との「合一」という概念は消えうせる。自身の庇護者であったオランダの大政治家ヤン・デ・ウィットが民衆に虐殺され、スピノザ自身もユダヤ社会、キリスト教神学者、デカルト派(当時のリベラル派)から総攻撃を受けるなか、彼にとってもはや他者とは愚かで厄介なだけのシロモノでしかなくなってしまったのだ・・・。スピノザ哲学の厳格なまでの幾何学的秩序は一種の鎧である。誰一人自分を理解してくれる人もなく、周りはすべて敵だらけのなか、彼ら他者に一切付け入る隙を与えまいとするスピノザのかたくなな態度があのような厳密な哲学体系を構築させたのだ。

これがはなばなしくも枯れ果てるしかないスピノザのモノローグ的生の悲しい帰結です。それでも私がスピノザ、サド、園子温にのめり込むのは、私自身モノローグ的生に生きているからなのかもしれません。

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」Q・E・D・

これでスピノザ園子温論は終わりです。やっと終わった!
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2011年12月19日

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部「コナトゥス善悪の彼方」からの続き

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部の「コナトゥス善悪の彼方」では超越的普遍的価値などなく、盲目的なコナトゥス(自己存続の努力)は結局絶望でしかないのではないかと問うた。しかし本来スピノザは人間が最高の幸福にたどりつくまでの三つの認識の過程をエチカで示した。三つの認識とは、

第1種認識である表象知(表象=想像)。誤謬と錯覚にあふれた私たち凡俗が住まう苦しみに満ちた世界である。

第2種認識である理性知。身体性を基盤にした「共通概念」によって正しい認識をすることができる。

第3種認識である直観知。もはや推論も経験も必要としない。神の観念を直接つかむことができるようになる。

スピノザにとってこの直観知こそが最高の幸福なのだ。直観知とはまた「永遠の相のもとに」世界を観るということでもある。スピノザ「エチカ」の最重要概念「永遠の相のもとに」を読み解いてみよう。

永遠の相のもとに世界を知覚するとは、第3種認識、すなわち神の観念を直接つかむということだが、ここで注意しなくてはならないのは、スピノザのいう「神」は私たちがイメージする神とはまったく違うものであるということだ。スピノザの神はキリスト教の神とは違う、というかそれを神と呼んでいいのかさえわからないものを「神」と定義するのだ。スピノザにとって神とはキリスト教の神でも、超越的な存在でも、意志や知性を持つものでも、人格を持った絶対君主のような存在でもない。

スピノザの神とは、「因果関係の連鎖の網の目が無限に広がる必然性の世界」のことをいうのだ。それはまさに「神即自然」を意味する。自然と言っても草木のことではない。この私たちがよって立つ世界、全宇宙そのものを自然というのだ。

「永遠の相のもとに観る」とは、「私」はこの無限にはりめぐらされた因果の連鎖の中の一局所であるということを認識することに他ならない。ではそのことを認識した場合どうなるのか。「エチカ」で最も謎めいた難解な定理に行き着くことになる。

人間精神は身体と共に完全に破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。ーエチカ第5部定理23


このエチカ最大の難問を解いてみよう。スピノザのいう「永遠」とは時間のことではない。

永遠性とは持続や時間によっては説明されえないーエチカ第1部定義8説明


永遠は持続ではなく、したがって時間とは関係ないものである。つまり永遠性は時間を超越する。人が永遠の相のもとに世界を観るということは、時間を超越して世界を観るということになる。簡単に言えば、

今、私がここに存在していることが必然なら、1万年前同じ場所で誰かが産声を上げたのも必然であること。千年後今度は違う場所で誰かが生まれ、育ち、そして死ぬこともまた必然であること。地球上のことだけではない、遙か遠く宇宙のどこかで生命が誕生し、また死するのもすべてが必然なのだ。もはやそこに時間という概念はない。一切が同時に生起しはじめる。千年後も1億年前のことも、この全宇宙のすべてが同時進行しているのだ。そのことを理解することこそ「永遠の相のもとに観る」ことに他ならない。

この認識に達した人間はすでに時間と空間を超越している。永遠の相のもとに認識することとは、一瞬で永遠を理解すること。つまり私は一瞬で永遠を生きるのだ。

間違えてはならないのは、スピノザはエチカ第5部定理34備考で「自己の精神の永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じるのは誤りである」と言っている。つまり「私」が死後も存続することが精神の永遠性を意味しているのではない。永遠を認識することこそが時間と空間を超越し、永遠を生きることに他ならないのだ。

・・・しかしだ。私たち凡人にとって「永遠の相のもとに」認識するなどというのは、はっきりいって無理ではなかろうか。そんなことができるのは精神のエリートだけだろう。具体的に名前をあげるとしたら、それこそイエス、仏陀クラスのスーパーエリートだけだ。私たち凡人は第3種認識に達することもできず第1種認識の中でもがき苦しむほかない。

第3部「永遠の相のもとに」Q・E・D・

次はいよいよ最終回第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」です。やっと終わりますよ。ここまで読んだ人はいないと思いますけどね!
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2011年12月16日

スピノザと園子温第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

スピノザと園子温第1部「身体性」からの続き

第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

映画「恋の罪」の女たちは売春とSEXにより精神の隷属から逃れ出た。だが、逃れ出て解放された先には何があっただろうか。結論から言えば何もありはしないのである。ある方が「恋の罪」について「抑圧から解放されたんだからもっとカタルシスが欲しかった」と書いていたが、それこそがスピノザのいう目的論的な錯覚というのではないだろうか。

スピノザがその著書で繰り返し述べているのは「人は原因がわからないために、結果を原因と錯覚してしまう」ことだ。

すべての人は、自由を持つことを誇りますけれども、この自由は単に、人が自分の欲求は意識しているが自分をそれへ決定する諸原因は知らない、という点にのみあるのです。−スピノザ往復書簡集58


映画の場合「私を苦しめている抑圧から自由になりたい!」というのが行動の原因(目的因)であると錯覚されているにすぎない。ではいったい人がわからないがゆえに錯覚してしまう原因とは何か。スピノザはそれを自己保存本能、または自己存続の努力である「コナトゥス」であるという。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


第1原因であるコナトゥスが求めるものを人は善といい、正しいものというのであり、決して善だから正しいから人はそれを求めるわけではないのだ。これは必然的に抑圧からの解放=自由が目的ではないことを意味する。

抑圧からの解放=自由はコナトゥスが欲求したから善であり、正しいものとされただけで、自由が手に入れば、一転それはコナトゥスの欲求対象ではなくなるのだ。女たちは抑圧から解放されて「ああ、なんて幸福なの!」とはならない。手に入れた途端それは霧散するー欲求対象からはずれるのだ。

善いもの、正しいものは、超越的、普遍的な概念ではない。ただ人それぞれが欲望するもの、欲求するものを善いもの、正しいものと「呼ぶ」だけにすぎない。(人は自分が欲求しないものを悪いもの、正しくないものと呼ぶ)

女たちにとってその時は「自由」が善いものであり、正しいものだった。抑圧から解放されもはや自由が求めるものでなくなったとき、次にコナトゥスが求めるのが「束縛」であったなら、今度は女たちにとって「束縛」が善いもの、正しいものになる可能性すらあるのだ。

このことは恐ろしい現実をもたらす。彼女たちが欲望するものが彼女たちにとって善いものであるなら、それは必然的に、善・悪、真・偽、正・不正という一般的価値を超えるものとなる。つまり善・悪、真・偽、正・不正も彼女たち自身の内側から出る内在的意味しかなく、それは彼女たちにとって善なるものが他人にとっては悪となることもある、ということに他ならない。必然的に彼女たちは社会と対立し、外にはじき出されることになるだろう。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


さりげなくエチカの「備考」に書かれたこのなにげない一節こそが、スピノザ最大のコペルニクス的転回を世界にもたらす。

この一節は善・悪、真・偽、正・不正は神が定めた超越的な価値でもなければ、人間社会にそなわる普遍的な価値でもなく、コナトゥスが盲目的に求めるものが善であり、真であり、正であるという。善悪は内在的意味しかないのだ。

この世界には超越的、普遍的価値などない。つまりスピノザはこの一節で「神を殺害した」。なぜあれほどニーチェがスピノザに熱狂したのかがこれでわかる。

神は善悪を決定しない。神は超越的存在ではない。神には知性も意志もないと、スピノザは神をそう定義づけている。神は内在的存在であると。これは実質的に「神殺し」といっていい。

超越的・普遍的価値なき今、すなわち神なき現代。女たちのコナトゥスはただ盲目的に求め続ける。たとえ目的だと思っていたものを得られたとしても、得られた途端その得られたものは消え失せる。だが決して何かを求め続けるコナトゥスだけは消え失せることがない。求めるものが社会の倫理観をおびやかすものであろうと、それがコナトゥスの求めるものであるならば、彼女たちはそれを求めるだろう。

・・・しかし、これは絶望というものではないだろうか。スピノザは決してこのような絶望を思考したわけではない。スピノザが思考したのは最高の幸福とは何か、であったはずだ。

第2部「コナトゥス善悪の彼方」Q・E・D・

次回は第3部「永遠の相のもとに」・・・信じられないだろ・・・まだ続くんだぜ・・・・
posted by シンジ at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月14日

スピノザと園子温「恋の罪」論・第1部「身体性」

スピノザと園子温「恋の罪」論・第1部「身体性」

まずはじめに、私が書かんとしていることは、ただ単に「恋の罪」評を書くより、スピノザと園子温がいかに近接しているかを書いた方が理解が得られやすいこと。そしてさらにはスピノザと園子温を包括的に批判するという大それた趣旨もあります。長くなると思いますがお付き合いください。

第1部「身体性」

人間の「身体」ほど哲学上でも神学上でも長い間不当におとしめられてきたものはないだろう。12世紀のユダヤ神学者マイモニデスはこう言っている。

ー人間の知性が肉体に縛られている限り、神の摂理と一致できない。
ー物理的なもの、動物的なものに執着する限り魂は肉体と共に滅びる。ー「スピノザの精神と生涯」


そして哲学上では17世紀デカルトにいたるまで

理性の宿る精神と、感覚や感情の領域である身体を明確に区別した。身体は精神に従属し、そして感情は理性の支配を受けなければならない。ー「カフカ」リッチー・ロバートソン


哲学史上でこの身体に対する精神の優位性というくびきから身体を解き放ったのはニーチェだと言われている。

私はどこまでも肉体でありそれ以外の何ものでもない。魂とは肉体に付着したある物をさす言葉にすぎぬ。
肉体とはすなわちひとつの偉大な理性、一つの感覚を持った複合体だ。
君が「精神」と呼んでいる君の小さな理性もまた、我が兄弟よ、君の肉体の道具なのだ。
「われ」と君は語り、この言葉を誇りとしている。だが、君が信じたくないと思っているものー君の肉体とその偉大な理性のほうが、ずっと偉大なものなのだ。その理性は、口で「われ」とは言わないが、無言で「われ」を実行する。ーニーチェ「ツァラトゥストラ」


だが、ニーチェは突然、精神から身体を解放したわけではない。ニーチェがこのような大胆な思想上の転回を成し遂げたのは、ある人の影響があったからだ。ニーチェからさかのぼること200年前のオランダ、貧困と孤独のうちに死んだレンズ職人がいた。バールーフ・デ・スピノザ。17世紀全ヨーロッパから目の敵にされた哲学者である。

僕はすっかりびっくりしてうっとりしているんだ!僕には先駆者がいたのだ。何という先駆者だろう!僕はほとんどスピノザを知らなかった。僕が今彼を求めたというのはひとつの「本能的な行為」であったのだ。この最も異常な、最も孤独な思想家は僕に最も近いのだ。ーニーチェ全集15書簡集1フランツ・オーヴァーベクへの手紙


ニーチェがこの手紙を書いたのはちょうど「ツァラトゥストラ」執筆中の時。スピノザを読んだ衝撃と感動がニーチェに「ツァラトゥストラ」を書かせたのだ。永遠回帰の啓示をスピノザから得たのだ。

スピノザは同時代人でもあったデカルトに反発するかたちで身体性の復権をはかった。デカルトの心身二元論に対して心身並行論をとなえたのだ。スピノザはそれまでの哲学や神学では常識とされてきた考えに痛撃を与えた。精神の身体に対する優位性を否定して、身体性こそが精神を決定するというコペルニクス的転回を成し遂げたのだ。

ある身体が同時に多くの働きをなし、あるいは多くの働きを受けることに対して、他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。ーエチカ第2部定理13備考


スピノザにおいてはまずなによりも身体性こそが認識の基盤であり

身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従ってその精神は多くのものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになるーエチカ2部定理39系


身体性を通じて得られる「共通概念」が認識の扉を開くのだ。

このように人間の歴史は精神性と身体性とのせめぎあいにあった。そして現代の日本の映画界においてもそのせめぎあいは続いている。園子温「恋の罪」である。(え、前置き長いって?)

いったい「恋の罪」の女たちは何にあらがい、何に苦しんでいたのか。彼女たちは精神という観念の隷属からの解放を希求していたのではなかったか。

人気作家である夫にひたすら従順な妻、である女。警察という官僚機構に所属し、また妻であり母、である女。父の娘であり、怪物的な母の子、である女。女たちはそれぞれのくびきから脱しようともがいている。だが、彼女たちが戦いを挑むのはかたちのないもの、実体のないものでしかない。すなわち、精神を支配する文化であり、慣習であり、伝統であり、制度である。慣習も文化も制度も目に見えるものではなく、手で触れられるものでもない。ただ観念上存在し、私たち人間を縛るものである。このような実体のないものを打ち壊すにはいったい何をもってすればいいのか。

・・・そう、スピノザやニーチェがやったように精神の隷属化に置かれている身体性の復権によりこれを破壊すればいいのだ。

だが、やっかいなことにこの「身体」も長い年月をかけて文化や慣習に飼い慣らされてしまい「コード化」された状態になってしまっている。文化や慣習と言った観念によってコード化された身体をコード化から解放するにはどうすればいいか。

映画を観た人ならもうおわかりだろう。身体を身体のコード化から解き放つには身体のコード化されていない部分のリミットを外してやりさえすればいい。身体のコード化されていない部分とはすなわちー「性感帯」であり「粘膜」のことである。

SEXによって性感帯を刺激し、身体のリミットを壊し、コード化から全面開放すること。それによってしか文化、慣習、制度といった観念に縛られた身体を救う方法はない。

そして「売春」という文化上、制度上の「悪」を駆使して「コード」そのものである精神自体を破壊する。売春とSEXという二つの武器を使ってコード化された身体と精神というコードそのものを打ち壊すのだ。

第1部「身体性」Q・E・D・

第2部「コナトゥス・善悪の彼方」に続きます・・・
posted by シンジ at 18:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする