2012年09月19日

大衆の非合理的情念の行方。フランス革命・ワイマール共和国・尖閣

現在のアジア情勢を見るに、その原動力となっているのは経済的、社会的、政治的理由だけではなく、非合理的な大衆の情念の役割が大きいのではないかと考え、そうした非合理的な情念が歴史を大きく動かした例として18世紀末のフランス革命と20世紀ナチスを導いたワイマール共和国時代を考察したい。この二つの時代をジョルジュ・ルフェーヴルの「革命的群衆」を軸に読み解いていく。

フランス革命とはリーダーにそそのかされた群衆が起こした事象ではないとルフェーヴルはいう。フランス革命は大衆の「集団心性」という情念の働きなしには考えられない。集団心性が醸成されるために重要なのは民衆の「語らい」である。村々でのミサの集まり、酒場での語らい、またアンシアン・レジーム下の農村では村人が集まって老人の昔話に耳を傾ける「夜の集い」なるものもあった。こうした口伝えによる伝承は「平準化」と「抽象化」という作用をもたらす。

「平準化」とは農民ひとりひとりのさまざまな理由からなる苦境をシンプルな事象に単純化することである。たとえば私たち農民の生活が苦しいのは全部領主が悪いんだ!というように。

「抽象化」とは、たとえ領主が農民にやさしい親切な人だろうが、そうした個性は一切無視され、典型的悪役像としての「領主」として抽象化すること。「領主」は無条件で「悪」とされるのである。

こうした「語らい」によって「集団心性」は形作られていくが、この集団心性が最終的に民衆蜂起という形となるのには何がきっかけとなるか。それは情報の歪曲や偽りの情報=デマがきっかけとなる。

フランス革命時における「大恐怖」とは貴族が盗賊や浮浪者を雇い自分たち農民を襲撃するのではないかというまったくのデマからフランス全土で農民の領主たちに対する反乱が起こったことをいう。

我々農民は貴族をこんなにも憎んでいるのだから、貴族も同じように我々農民を憎んでいるにちがいないという不安と恐怖が生んだ錯覚。「相手の力を過大評価し、大いに恐れた」(G・ルフェーヴル)農民たちの誤解は恐るべきスピードでフランス全土に波及したのである。

この民衆の不安と恐怖が作り上げた幻想の「貴族の陰謀」(アリストクラートの陰謀)という観念が革命期を通じて民衆の集団心性を支配していた。

「語らい」という口コミにより平準化と抽象化がなされた結果、諸悪の根源である「敵という階級」が創造される。この敵によって虐げられてきた貧しい民衆はルソー主義や文学などによって、ありとあらゆる栄光と徳を付与される。そして社会正義を実現するためには、この貧しく虐げられた民衆の敵対階級を抹殺、根絶しさえすればそれでよいということになるのである。

フランス革命期、民衆の集合心性を支配していたのが「貴族の陰謀」という観念なら、ワイマール共和国時代のドイツ民衆の集合心性を支配していたのは、ヴェルサイユ条約とユダヤ人に対する憎悪だった。第一次大戦の敗北によりさまざまな形で噴き出た社会問題が平準化され、抽象化されるうち、ドイツ経済に壊滅的打撃をもたらすヴェルサイユ条約と、ロシア・東欧でのユダヤ人大弾圧(ポグロム)によるドイツへの大量のユダヤ人難民の流入という事象が集約化され集合心性となる。その結果ヴェルサイユ条約とユダヤ人とがドイツ人にとって「絶対的敵」として作り出されるのだ。

当時ワイマール共和国の政治家たちはヴェルサイユ条約の緩和に必死になって取り組んだといってよい。だがそんな彼らの努力も、「絶対的敵」に対する妥協とみられてしまい大衆の非合理的情念はワイマール共和国を否定することとなる。ワイマール共和国の司法大臣だったラートブルフは自叙伝でこう自己批判する。ワイマール共和国が崩壊したのは「人々のあいだに根強く存在している非理性的な国民感情に顧慮を払わなかった」からであると(林健太郎「ワイマル共和国」)。そしていうまでもなく国民の非理性的感情を利用して政権を奪取したのがナチスである。

政治家も知識人もジャーナリズムも大衆の非合理的情念を馬鹿にし、黙殺し、まともに取り扱うことを避けてきた。彼らは大衆の非合理的情念に対してはなすすべがない。大衆の非合理的情念をコントロールすることは誰にも出来ない。大衆の非合理的情念は最悪の事態を引き起こすことを想定しなければならない。ハンナ・アレントはフランス革命についてこういっている。

この見世物のなかでもっとも際立って見えたことは、その主役の誰一人として事件の成り行きをコントロールできなかったということであり、その成り行きが人々の意志的な目的とまるで関係ない方向に進んだだけでなく、逆に生き残ろうと思えば自分たちの意志や目的を革命の匿名の力に従属させなければならなかったということであった。ーアレント「革命について」


フランス革命発生時点では誰一人として王制を廃止しようなどと考えていたものはいなかった。民衆は敬愛する国王とともに革命を戦うつもりだったのである。またロベスピエールが存在しなければ恐怖政治は起こらなかったか、という問いがある。答えはNOだ。ロベスピエールがいようがいまいが、恐怖政治は起きた。なぜなら恐怖政治を望んだのは大衆自身だったからである。

1928年以前、ドイツでナチスが政権を獲るなどと考えたものはいなかった。政治家も知識人もジャーナリズムもみなナチスを馬鹿げたものとみなしていた。実際1928年5月の総選挙でナチスの得票率は2.3%でしかなかった。フランス革命期においても、ワイマール共和国期においても、誰一人として大衆の非合理的情念がこれほどまでに事態を悪化させるとは想像すらしていなかったのだ。

大衆の非合理的情念を抑制することは不可能であるという結論は、必然的にアジア情勢に対する悲観的未来を予測させることになる。端的に言えば尖閣諸島を巡る日中間の軍事衝突の現実性である。多くの専門家たちは軍事衝突の可能性は低いとみなしているが、彼らがその分析から除外しているものは他ならぬ大衆の非合理的情念である。ダントンは「民衆が恐るべき存在とならないよう、われわれが恐るべき存在となろう」と演説して革命裁判所の設置を推進した。ジャコバン派は大衆の非合理的情念の圧力に抗しきれずに恐怖政治へと舵を切ったのである。フランス革命やワイマール共和国はそうした大衆の情念が最悪の事態を引き起こした歴史的事象なのだ。

では実際日中間で軍事衝突が起きた場合どうなるのか。米海軍大学のジェームズ・ホルムス准教授はこう分析する。

@日中両国軍が尖閣をめぐり実際に戦闘となった際、日本側は必要な主要兵力をほぼすべて集中できるが、中国海軍は他の防衛海域が広大で、集中は出来ない。
A日本側は単に尖閣防衛を貫けばよく、中国軍を追撃して撃滅する必要はないが、中国側は尖閣を占拠しなければ勝利とならない。
B中国首脳は対日戦争が勝利できない場合、自国の将来がかかる海軍力の破局をもたらしかねないことを認識している。
以上の諸点からもホルムス准教授は「この日中海戦での勝者は日本となる見通しが強い」との展望を明らかにする。(週刊文春2012年9月6日号)

こうして日本が勝利し、中国が敗北した場合、起こりうることは、中国民衆の非合理的情念の爆発による民衆蜂起であり、その結果としての中国共産党政権の瓦解である。

第一次大戦が終わって以来、戦争に敗北してもなおかつ生き残るほど強力な政府や国家あるいは統治形態は存在しない。日露戦争の敗北につづくロシアの1905年の革命が、軍事的に敗北した場合に政府の運命はどうなるかを示した不吉な兆候だったことは間違いない。−ハンナ・アレント「革命について」


戦争に負けて政権を維持できる国家などどこにも存在しないのである。

そこでこう言う人もいるだろう。中国共産党が瓦解するならそれは喜ばしいことじゃないかと。だがそんなことは口が裂けても言うことはできない。大衆の非合理的な情念はフランス革命においては血の粛清を、ワイマール共和国においてはナチス台頭を招いたのであるから。
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2012年08月06日

ポピュリズム拡大の原因とは何か・シャンタル・ムフから読み解く

世界的な右翼ポピュリズムの伸張と拡大の原因をシャンタル・ムフの「政治的なものについて」から読み解く。

シャンタル・ムフは現代の危機的状況−右翼ポピュリズム、テロリズム、文明の衝突を招いているものの原因をその著作「政治的なものについて」で分析している。ムフは現代は政治的な対立を隠蔽し、すべてが道徳的対立に置きかえられてしまった時代だという。その置きかえを行う犯人は−「リベラリズム」である。

リベラリズムが掲げるのはこういう考え方だ−「党派性を超えて」、「対話型民主主義」、「コスモポリタン主義」、「グローバル市民社会」。こうしたリベラリズムの代表とでもいうべきハ−バーマスの考え方は以下のものである。

−「討議」によって唯一妥当な合意を作り出すこと。そうした合意にもとづいた民主主義の価値は普遍的なものであり、この普遍的な価値観の下、世界の差異や対立は解消され世界はひとつになる。−

ムフはまさにこうしたリベラリズムの考え方こそが政治的なものを隠蔽して道徳的なものに置きかえることに他ならないとし、この置き換えこそが、ポピュリズムやテロリズムなど現代の情念的な大衆運動の原因だというのだ。

「討議」によって唯一妥当な合意を形成し、誰もがその合意に従うことが正義であるなら、もう誰もその合意に異議を唱えることができなくなる。合意という正義に反すれば、反した人間は「道徳的に劣った存在」というレッテルを貼られるのだ。このようなリベラリズムの普遍主義は必然的に「反政治的」なものとならざるをえない。

党派性を超え、対立を超えた討議による合意に基づく理想の社会が見逃しているのは、人間の情念の集団的同一化(集団的アイデンティティ)である。リベラリズムというものが唯一の妥当で、普遍的な価値であり、もうそれに抗するものがないとすれば、大衆が自分たちの怒りや不満を向け、同一化できる対象がないということになる。

すなわちリベラリズム、キャピタリズムに対抗するオルタナティブが存在しない。自由主義的、資本主義的であることが唯一妥当な価値観であると合意された世界にはそれに代わるオルタナティブが存在できないのだ。

このとき大衆の集団的同一化傾向は「反体制主義」、「反エリート主義」という「ポピュリズム」というかたちで噴出する。

リベラリズムが政治的対立を道徳的対立に置きかえ、世界を一元化したとき、大衆の不満や怒りはポピュリズムという情念の集団的同一化を形成し、一元化された世界に対抗する。

今、世界的に右翼ポピュリズムが伸張しているのも、ほとんどどの国も似たような事情があるからだ。

1999年イェルク・ハイダー率いる極右政党、自由党が躍進したオーストリアでは、長年にわたり連立政権が政権を維持してきた。

オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党の党員に平等に分配されるというものである。−wikipediaより


すなわち政治的対立があっても正面から衝突することがなく、国民の不満や怒りが宙に浮いてしまう。

2002年のフランス国民戦線ジャン=マリー・ル・ペンの躍進もかって「左」に位置していた政党が中道へ移動して左/右の対立が不鮮明になったことが上げられる。

ルペンはシラク(得票率19.71%)に次ぐ16.86%を記録し、社会党有力候補リオネル・ジョスパン(16.12%)を上回り決選投票まで残った。この結果にEU諸国は騒然とし、マスコミは「ルペン・ショック」と呼んだ。この選挙ではトロツキスト政党である革命的共産主義者同盟のオリヴィエ・ブザンスノ候補が共産党のロベール・ユー候補の得票を上回るなど、極左も得票を伸ばしており、「コアビタシオン」(保革共存)への不満が両極に集まったとの見方も出た。−wikipediaより


ベルギーの極右政党フラームス・ブラングの成功も、同じように社会主義政党とキリスト教民主主義政党の連合が何十年もの長きにわたり政権を維持してきたことによる国民の不満が原因だとされる。

ポピュリズム極右政党が伸張してきた国々はいずれも党派的対立が避けられ、中道政権という一元化の状態にあったのだ。これは国民の様々な欲求や不満を既成政党がすくいあげることができなくなったことを意味する。そこに「反体制」「反エリート」を掲げた極右ポピュリズムが台頭する隙が出てくるのだ。

イェルク・ハイダーの言説上の戦略は、地道な勤労者や国民の価値を尊重する者であるすべての善きオーストリア人としての「われわれ」と権力の座にある政党、労働組合、官僚、さらには外国人、左派の知識人、あるいは芸術家など真の民主主義的討論を妨げる者とみなされるありとあらゆる者からなる「彼ら」とのあいだに境界線を構築することにある。−シャンタル・ムフ「政治的なものについて」


今日、支配的な普遍的リベラリズムの一元化はそれに反する者、異議を唱える者を「道徳的に劣ったもの」とする。本来、多様な価値観同士の「政治的対立」であったものが、リベラリズム的価値観の一元化により、「道徳的対立」へとすりかえられる。

それが道徳的対立である以上、リベラリズムの敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となる。(カール・シュミット)

政治的な対立を道徳的対立にすり替える行為は現代の日本でもよく見られる。たとえば昨今の原発論争ではそういうすり替えが頻繁に行われる。

Twitter - 香山リカ氏の壇上アピール.jpg


敵対者たちが政治用語ではなく道徳用語で定義されるとき、その者たちは「対抗者」ではなく「敵」とみなされるのである。「悪しき彼ら」とはいかなる闘技的な討論も不可能であり、ただ抹殺されなければならない。そのうえ彼らはしばしばある種の「道徳的な病」のあらわれとみなされるため、彼らが出現し、そして成功をおさめつつあることについての説明さえもなされるべきではない。−シャンタル・ムフ


ジョージ・W・ブッシュはアメリカと対立するもの、従わないものを「悪の枢軸」と名づけた。自分たちの対抗者を「道徳的に劣ったもの」、絶対的な敵としたのだ。対抗者を絶対的な敵とみなすことが、非人道的な殺戮の道を開くことになるのは歴史が証明している。香山リカの論理はブッシュとまったく同じものなのだ。

このようなオルタナティブが存在することすら許されない世界において大衆の集団的同一化という情念は行き場を失い、さまよい、そして右翼ポピュリズムへとたどりつかざるえない。

しかしこうした右翼ポピュリズム政党には弱点がある。ポピュリズム政党は「反体制」「反エリート」を掲げるがゆえに政権の座についた途端その力を失うのだ。

1999年の選挙でハイダ−の自由党はポピュリズム的戦略で保守党を猛追し、得票率27%で第二党に躍進。しかしそれ以降、政権への参加によって自由党の勢いは弱まっていった。2004年の欧州議会選挙では得票率がついに6.7%にまで落ち込む。ー「政治的なものについて」


シャンタル・ムフはこのような危機に対する解決策として、大衆の集団的同一化の対象としての「党派性」の復活。そして党派ごとの対立はあくまで政治的対立であってそれを道徳的対立へとすりかえないこと。政治的に対立する多様な党派を認める「多元主義」の確立を提唱する。

シャンタル・ムフのポピュリズム拡大、伸張の原因の分析は鋭い。ただ気になるのは「多元主義」という解決策である。多元主義の下ではそれこそ「極右」「極左」「原理主義的宗教」という極端な党派性も容認される。しかしながら万が一それら「極右」「極左」「原理主義的宗教」が政権の座についた場合、彼らが真っ先に実行するのは「多元主義」の否定ではなかろうか。

またムフの考え方はヨーロッパには当てはまっても、日本には当てはまらない。ヨーロッパの右翼ポピュリズムは反グローバル主義を掲げているが、日本のポピュリストたち(たとえば小泉純一郎や橋本徹など)は逆にグローバル主義的自由経済を推進しているように見える。おそらく、このねじれ現象は固定化した日本の社会構造に対するオルタナティブとしてグローバル自由経済とポピュリズムが合体したからではないだろうか。

いずれにしろ現代の日本にとってシャンタル・ムフの考えはアクチュアリティのあるものだといえよう。
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2012年06月03日

保守とは何か。バーク「フランス革命の省察」

保守主義とは何かを知るのにエドマンド・バークの「フランス革命の省察」を読む。

1789年バスティーユ監獄襲撃から始まったフランス革命。その大混乱の様子を隣国のイングランドから見て、徹底的にフランス革命を批判したエドマンド・バーク。その肝は、一体正義の根拠はどこにあるのか?という問いだ。

フランス革命の基盤にあるルソーの思想。その正義の根拠となるのは「自然法」(自然権)に他ならない。しかしバークはルソーが正義の根拠とする自然状態時の自然人の自由を虚構と断じる。

ではバークは、なにが正義の根拠になるといっているのか。それこそが「慣習」である。慣習=伝統こそが正義の根拠となるべきものなのだ。まさにこれこそ「保守」のゆえんである。

また人が生きるうえで重要なのは、「固定観念」だとバークは言う。固定観念とは慣習により根付いた感情のことだ。人間のちっぽけな理性では正しい判断はのぞめない。しかし固定観念は理屈抜きの感情として積極的な行動を起こす原動力となる。たとえば・・・川で溺れた子供がいる。理性は助けに行くと自分の身もあぶないとブレーキをかけるが、固定観念=慣習による感情は子供を助けるために「考えなし」に川に飛び込むだろう。正義をなすのは理性ではなく感情なのだ。

人間の行動を決めるのが慣習に基づく感情なら、すべての権力の源泉もまた慣習である。

「いかなる権力も慣習を離れては存在しない」−バーク


その権力が揺らぐとどうなるか。国の権威が失墜すると、軍に歯止めが利かなくなる。そうなると、軍を掌握したものが、フランスの支配者=独裁者となるとバークが書いたのは、ナポレオンが登場する前である。

しかし、バークの保守主義には致命的な弱点がある。正義の根拠が慣習=伝統なら、専制国家や独裁国家が何百年と続けば、それも伝統となる。それが伝統でさえあるなら「正義」ということになってしまうではないか。独裁国家も専制政治も、階級差も、貧富の差もそれが「慣習」ならすべて正義となってしまうだろう。たしかに慣習の力は強い。それが正義の根拠となることもあるだろうし、人々の行動の源となっていることも事実だ。だが、慣習というのは時代を経てしまうとすりへって老朽化するものだ。時間を経るたびに正義の概念が変わっていくなら、時効性は正義の根拠とはなりえない。そうなるとバークの保守主義は意味のないものとなるのだろうか。

そうとはかぎらない。バークの保守主義に現代的意味があるとするならば、それは急進主義に対する徹底した批判にある。バークは現実の政治というものは利害対立があるから、どんなことでも議論を重ねて、妥協点を探りあうことだとする。しかし急進主義は「悪徳を放置するか、制度の全面廃止か」という暴力的なまでの二者択一を迫る。そこには善か悪かの二者択一だけがあり、議論も妥協も存在しない。

ここに急進主義の暴力性がある。「正義」である我々に従わないものは「悪」だ−これを排除せよ。正義=目的のためならどのような手段も正当化されてしまう。その結果がフランス革命のように罪もない多くの人たちが、虐殺されてしまうような事態を引き起こしたのだ。

いかなる合理的目的、いかに正当な規範、いかに理想的な計画、いかに美しい社会理念、いかなる正統性、合法性といえども、そのために人間が殺戮しあうことを正当化することはできない。−「政治的なものの概念」カール・シュミット


現実的な政治闘争を越え、それが神学闘争になった時どうなるかをカール・シュミットはこう言い放つ。

そのような戦争は政治的なものを越えでて、敵を同時に、道徳的その他の諸範疇においても蔑視し、たんに撃退するだけでなく、はっきり抹殺せざるえない非人間的怪物に仕立てあげずにはいない。−「政治的なものの概念」カール・シュミット


フランス革命の末路である。

バークはスピノザ的な「多数者」=民衆が政治にかかわれば、より良い判断ができるといった楽観的な民主主義観を否定する。

「個人なら自由を得ても分別がきくが、集団が自由を得ると暴力的な権力を手にしたことになる。」−バーク


そして政治が民衆に迎合しはじめると、「目的が手段を正当化」するはずが、逆に「手段が目的を否定」するはめになる。すなわち民主革命だったはずが、いつのまにやら独裁者が誕生するはめになるのだ。
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2012年05月25日

腐敗した国家をどうすべきか・マキァヴェッリ「ディスコルシ」

マキァヴェッリ最高傑作「ディスコルシ」について

マキァヴェッリ「ディスコルシ」では「君主論」ではわからなかったマキァヴェッリ思想の核心にふれることができる。しかも「君主論」よりはるかに面白い。

「ディスコルシ」は共和政擁護の立場から、マルチチュードへの信頼が語られるのが珍しい。昔も今も知識人は大衆を馬鹿にするのが常であるが、マキァヴェッリは積極的に大衆を擁護する。

民衆の持つ性格が、君主の性格に比べて罪が重いわけではない。なぜなら、あとさきのことを考えもせずに、あやまちを犯してしまう点では、両者は五分と五分だからだ。−第1巻58章

人民に比べると、君主の方がはるかに失敗を犯しやすい。−第1巻58章

大衆は、常に政治を行う者を模倣する−第3巻29章


マルチチュードの政体である共和政が君主政と比べて劣っていることはないのだ。

またカエサルに対する厳しい批判も特徴的で、カエサルをローマ共和国はじめての僭主と酷評している。

僭主ははじめのうちは人民の味方としてあらわれるが、気づいた時には人民は奴隷となっている。−第1巻40章

僭主があらわれる原因は、人民が解放されようとして、ゆきすぎた望みを持つことにある。−第1巻40章


人間を動かすものは、いつだって、その「ゆきすぎた望み」−欲望である。

自然が人間を作った時、人間がなにごとをも望めるようにしておきながら、しかも何一つ望みどおりに実現できないように仕組んでおいた。−第1巻37章


そのせいで、人間の欲望は常に不満を持ち続けるように出来ている。欲望は決して果てることはないのである。したがって人間の欲望を基準に考えることが、より良き国家への道なのだが、古代ローマとくらべて現代のイタリア(16世紀)が悲惨なことになっているのは、宗教に原因がある。

現代の宗教(キリスト教)は、服従、謙遜をもっとも貴いことと考えて、人間が対処しなければならない日常の事柄をさげすむ。これに対して、古代の宗教は強靭な精神、頑健な肉体、さらにこの他、人間をこの上もなく力強い存在に鍛え上げうるすべての事柄を最高の善とみなしていた。−第2巻2章


古代ローマの宗教は現世での栄誉を最も尊ぶ。人間が現世で偉大なことを成し遂げることを古代ローマの神々は喜ぶのだ。しかしキリスト教はこの世で偉大なことをなせとは要求せず、ただ忍従せよ、我慢せよということを教える。これでは今、自分が生きる世界や、自分自身をよりよくしようという意欲に結びつかないのは当然だ。

このような宗教が支配した国家は必然的に腐敗する。ではそのような腐敗した国家をどうすればよいのか。マキァヴェッリは国家創設時の本来の姿にたち戻らせるしかないと言う。

国家を長く維持していくためには、多くの場合本来の姿を回復することが必要である。−第3巻1章


国家創設期は指導者も民衆もヴィルトゥ(Virtu)−活力に満ち溢れていた。そうした創設期に回帰するにはどうすればよいのか。

創設期に回帰するには「恐怖」という手段を使うほかない。恐怖心と不安を人民に与えることによって、国家創設期に回帰させるのだ。恐怖とは具体的には、違法行為に対する厳罰化や、政府交替、外国からの侵略などの外圧である。それらによって、国家創設期の緊張感と清新感を取り戻すのだ。

また時代の変化に応じて法律を変えないと国は滅びる。変えることができなければ、結局、革命という急激な変化にさらされるだけだ。しかし人間というものはなかなか自分や、国家の政体を変えようと動こうとはしないものだ。人間を動かすものはネチェシタ(necessita)(切迫性、必要性、時代性)であり、そのネチェシタ−必要性に迫られ、ネチェシタ−時代性を読むことが重要になってくる。ネチェシタをうまく利用して、いかに運命−フォルトゥナ(Fortuna)を打開するかが重要なのだ。

「ディスコルシ」はマキァヴェッリ哲学の面白さ、斬新さがつまったマキァヴェッリの最高傑作です。

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2012年05月13日

レオ・シュトラウス「哲学者マキアヴェッリについて」

現代のマキアヴェッリ評価はマキアヴェッリは単なる政治史家であって、哲学者でも政治哲学者でもないというのが支配的だそうな。しかしシュトラウスはマキアヴェッリは近代哲学の創始者であると高く評価する。

マキアヴェッリの主要著書「君主論」と「ディスコルシ」の違いとは自然的か必然的かの違いだという。「君主論」で書かれる君主政というのは人間の自然的欲望=名誉や栄誉を求める欲望から導出される。名誉欲は人間が本性的に持つ承認欲求であり、自然的欲望である。それに対し「ディスコルシ」で書かれる共和政は民衆の必然的欲望=生命と財産を奪われる恐怖から導出される。

生命と財産を奪われる恐怖=起源的テロルが人間を動かし、社会を作らせ、それを維持させる。起源的テロルという非道徳性が、共同体の道徳性を作り出すのだ。しかし民衆はいったん安全が確保されると起源的テロルを忘れ、他者への優越を欲望しはじめる。同胞たちに優越し、それを抑圧しようとするのだ。ここに「僭主」の生まれる隙が出てくる。(「僭主」というのは共和政(民主政)にもかかわらず実質君主(独裁者)が支配すること。ローマ共和国を終わらせたカエサルであるとか、15世紀フィレンツェ共和国を牛耳ったメディチ家であるとか、21世紀オーサカを牛耳っているトオル・ハシモトらのこと)この腐敗状況を変えるには、民衆に再び起源的テロルを喚起する必要性が出てくる。

体制の新創設者は古い体制を一掃し、新秩序の健全な体制を打ち立てる。マキアヴェッリにとって新秩序という目的のためなら非人道的な手段をとることも容認される。その非人道的な手段が民衆に起源的テロルを喚起させるがゆえに。

起源的テロルを喚起させる方法には、他に戦争という手段もある。実際に戦争を起こすかどうかはともかく、仮想敵国というものを作り出し、民衆の恐怖と不安をあおり国家体制を維持する国は現代にもよくある。起源的テロルを国民に終始ちらつかせないと体制が維持できないというのはそれだけ国家体制が腐敗している証拠でもある。

マキアヴェッリが近代哲学の創始者だという理由は二点。

マキアヴェッリは人間や社会を「理想の高み」へと引き上げようとするのは、非人道的で悲惨な結果を招くだけだとする(宗教改革の悲惨を予見している。その後の歴史も)。むしろ人間を「低いところ」から見て、現実的に獲得できることからはじめなければならない。「いかに人が今生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとの間には非常な隔たりがある」(君主論15章)のであるから。

人間を「低い」ところから見るとは、君主政は自然的欲望から創出され、共和政は必然的欲望から創出されたということを見ることである。国家の政体は崇高な目標からではなく、あくまで人間の低い欲望から導出されることを見なければならない。

「理想の国家」を目指すという目的論的国家観から、「低いが堅固」なコナトゥス(自己保存)から導出される作用因的国家観への転換を成し遂げたのが一点目。

二点目はマキアヴェッリの苛烈なまでのキリスト教会に対する批判である。

教会やその坊主のおかげで、我々イタリア人は宗教もろくに持たずに、よこしまな生活にふけっている。さらにそればかりではなく、はるかに大きな不幸を教会や坊主のために受けている。それは我々に破滅をもたらす原因となるものである。すなわち教会は、イタリアを昔から今まで一貫して分裂させてきたのである。−「ディスコルシ第1巻12章」

痛烈なキリスト教会批判は、キリスト教的な彼岸の理想主義的世界観からの脱却を意味する。それは目的論的世界観から作用因的世界観への転換を意味する。マキアヴェッリはホッブズやスピノザに先行する近代哲学の創始者といえるのである。

最近はレオ・シュトラウスにハマリ中。でも翻訳されてる著作が少ないからすぐに読み終わりそう。シュトラウス「自然権と歴史」はおそらく今年読んだ中のベスト1。
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2012年05月07日

新約聖書のたとえ話と隠喩

田川健三が「イエスという男」にこんなことを書いている。

福音書に出てくる比喩物語を、たとえ話(parabel)と隠喩(allgorie)に峻別し、前者のみイエスの言葉で、後者はすべて教団の創作とみなす方法は、今日学界の常識となっている。−「イエスという男」


こういう見方だといろいろ腑に落ちる点が多々ある。たとえばマタイによる福音書20章のぶどう園の賃金の話。これはっきりいって最初読んだ時はまったく意味がわからなかった。一応どういう話か書きますと・・・

ぶどう園の主人が、ぶどう園で働く労働者に1日1デナリオンの賃金を払うという。まず朝の9時ごろ広場にいた人たちを雇う。次に12時に広場にいた人を雇い、15時にいた人も雇う。夕方の17時にいた人も雇う。1日が終わり、17時から働いた人に1デナリオン支払う主人。朝から働いていた人はもっとたくさんもらえるだろうと期待していたら、彼らも1デナリオンしかもらえなかった。それに対して不満を漏らすと、主人は「私はあなたに不当なことは一切していない。1日1デナリオンの約束をしたのだから」

・・・これどう理解していいかわかんないですよね。でもこれをパウロ神学を通してみると意味が浮かび上がってくる。

つまりこれは「功績主義」に対する批判なのだ。パウロはいわゆる「信仰義認」説をとなえた人で、信仰義認というのは「信仰によってのみ、神に義と認められる」という考えのこと。つまり人間ごときの努力や行為によって神の国に入ろうなんてことは不遜以外の何ものでもない。この世のことはすべて神が決める。だから今日朝から一日中働いていたから、神はたくさんご褒美を下さるだろう、なんていう「功績主義」的な考え方はパウロ神学を通すとけしからんということになる。

しかしだ。これはあきらかに田川健三いうところの「隠喩」である。この話自体は当時イエスが実際に話したことかもしれないが、この話の「隠喩」はイエス亡き後、原始教団が宣教のために作り上げた創作に過ぎない。イエス本人は「信仰義認」による「功績主義」否定なんて教えは説いていないのだ。

当時イエスは教育を受けていない貧しい人たちや庶民相手に説教していたわけで、こんな小難しい隠喩を話に込めていたはずがない。となると、このたとえ話をイエスはどんな意味で話したのか。

田川はこれを社会的平等のたとえ話だとする。たくさん働いたから人よりたくさんもらえるという考えは格差を生む。今日一日仕事にあぶれた人も、仕事を持っている人も、等しく生きる権利がある。というたとえ話だというのだ。

これは結構ラディカルなたとえ話ではないでしょうか。当時資本主義的な傾向を持ちつつあった社会に対しての明確な否定。つまり労働の量や質で、貧富の差が出ることに対しての批判である。

イエスの考えを単純に現世否定、来世肯定ととらえてはいけない。この現実の世界にはなんの意味も価値もない。ただ彼岸の神の国だけに価値がある。という考えは、真逆の考えー現状肯定という考えを生み出してしまうからだ。神の国がすべてなら、今いる世界に対しては別に積極的にかかわりあう必要はないという考えになってしまう。

イエスは現世否定ー来世肯定=現状肯定の人では絶対にない。この現実の社会に対して、「アンチ」の考えを持った人であって、この自分たちが生きる世界に対して憤りを感じている人であり、これを変えなくてはならないと思った人だ。
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2012年03月30日

ホッブズの「リヴァイアサン」第三部について

ホッブズのリヴァイアサンというと自然権や主権について書かれているリヴァイアサンの1巻と2巻(岩波文庫)は読んでいる人は多いと思うけど、聖書の解釈が延々と続く3〜4巻は読んでる人も少ないと思う。でも俺にとってはリヴァイアサンの3巻が一番面白い。3巻は主にキリスト教権力=ローマ法王の命令は何の法的拘束力もないことを聖書を根拠にして論証するというアクロバティックなことをしていますが、それとともにもっと大胆なことを主張しています。キリスト教のすべての根拠である聖書に実は根拠は無いということをも言っているのです。・・・いや根拠が無いとは書いていません、ただその根拠となるのが「教えるー聞く」関係にしかないといっているのです。「教えるー聞く」関係とは簡単に言うと「教育」のことです。それもキリスト教の根拠となることはたったひとつだけ「イエスはキリストである」ことを「信じる」こと。それを土台にした「教えるー聞く」関係こそがキリスト教のすべての根拠だとホッブズはいうのです。したがって聖書が神の言葉であることを「知る」必要は無く、聖書が神の言葉だと「信じる」ことがキリスト教の根拠のすべてなのです。この考えはすぐにある人の考えに結びつきます。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」です。そして柄谷行人は「探究T」で他者とのコミュニケーションはすべからく 「教えるー学ぶ」関係になると書いています。ホッブズのリヴァイアサン3巻はホッブズmeetsウィトゲンシュタインmeets柄谷行人となるのです。
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2011年12月23日

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」

第3部「永遠の相のもとに」の続き

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」

私たち凡人は「永遠の相のもとに」認識することもできず、苦しみ続けるしかない。結局スピノザの思想は孤独なエリート主義でしかないのか。この第4部ではスピノザ思想の中核にはある根本的な危険がひそんでいることを示す。そしてスピノザ思想をつきつめた果てにはマルキ・ド・サドが、そして園子温がいることも。

スピノザ哲学の最重要概念はコナトゥス=自己保存本能、自己存続の努力である。何びとたりと各人の持つコナトゥスをおびやかすことは許されず、おびやかすものを排除することができる。これがスピノザの言う自然権である。

自然状態においてはすべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるようないかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら自然状態における各人はもっぱら自己の利益のみを計り、自己の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自己以外の他人に服従するように義務づけられないからである。したがって自然状態においては罪過というものは考えられない。ーエチカ第4部定理37備考2


ここまでくるとコナトゥス=絶対利己主義となる。この考えからマルキ・ド・サドまではほんのわずかだ。

神の摂理は善におけると同様、悪においても価値をあらわすものであるということ。神がわたしたちのために創ってくれた状態は平等なのだからそれを乱そうとする者がそれを回復しようと努める者より罪があるとも言えたものじゃないわ。両者とも当たり前な衝動によって事を行っているのではあるし、両者ともこの衝動にしたがい目をつぶって享楽しなければならない運命を負っているのですからねーマルキ・ド・サド「ジュスチイヌあるいは淑徳の不幸」


しかしスピノザの言う利己主義を推し進めていくと、当然のことながら自他の利害が生じ、争いになるはず。しかしスピノザの最も奇妙なところは利己主義をつらぬくと利他主義になるという点だ。

むしろ彼は理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて共同の生活および共同の利益を考慮し、したがってまた国家の共同の決定に従って生活をすることを欲するのである。ーエチカ第4部定理73証明


つまり自分の利益を確保するために他人に便宜を図ること。自由と安全な生活を得るために他者たちー共同体の利益に配慮するという考え方。これを「堕天使の倫理」の佐藤拓司は「道具主義的解釈」と喝破する。他者を自分の利益のための道具=モノと考えるスピノザ的利己主義。そしてこの道具主義は必然的にこういう考え方をもたらす。

他人の幸福を自己の幸福のための道具として考えているかぎり、社会もまた自己のための道具としてのみ存在を許されるものとなる。それならば自分の利益と社会の利益が対立するような場合には、無条件で社会の利益を無視してよいではないか。これがマルキ・ド・サドの背徳主義を生み出す土壌となった。ー「堕天使の倫理」佐藤拓司


映画「恋の罪」の女たちにとって自分を抑圧するもの、自分の自由を奪うものはすべて自分以外の「他者」である。ならば自分の体を道具=モノと化しその「モノ」を使って「他者」を組み伏せれば「他者」は「モノ」となるではないか。「モノ」になりさえすればそれはもはや私と同じ人間ではない。ただの「モノ」が私を抑圧したり、私の自由を奪ったりすることができるはずもない。かくして女たちは自分以外はすべて「モノ」となった世界に住まう。

スピノザのコナトゥス=利己主義のなれの果ては18世紀マルキ・ド・サドに行き着き、さらに21世紀園子温にまで達したのである。

自分を抑圧し、自由を奪い取ろうとする他者=外部は消えてなくなり、自分一人だけが他の「モノ」どもを踏みにじって君臨することのできる世界の誕生。

あらゆるものすべてが彼の自我の内部に取り込まれ、外部が消え失せる。彼はその中の唯一の主体となる。この仮想空間でつかの間に味わう全能感。まさに堕天使のごとく自らが神となる。ー「堕天使の倫理」


サドと園子温映画の登場人物にはもはや他者が、外部がなくなり、すべては自分が利用することのできる「モノ」でしかなくなる。自我という「閉じた円環」の中での全能感。まさにサドや「冷たい熱帯魚」のでんでんにとって自分とは神であり、「恋の罪」の女たちも自分以外はすべて「モノ」と考えることによって神になろうとしたのである。そして当然のようにそのもくろみは無残な結果を招くことになる。サドはその生涯のうちほとんどを牢獄ですごし、精神病院に幽閉されたまま息を引き取る。園子温映画の登場人物はいわずもがなだ。

彼らスピノザの子供たち孫たちがなぜこのような無残なことにならざるをえなかったのか。マルティン・ブーバーはこうスピノザを批判している。

スピノザはかの浸透せるものから自由になるように、民衆の中の知識人の精神を手助けしたのである。独語的生に向かう西欧精神の傾向が彼によって決定的に促進されたのである。そしてこのことによって、精神一般の危機が促進されたのである。なぜなら精神は独語的生の空気のなかでははなばなしく枯れ果てねばならないからである。ーマルティン・ブーバー「ハシディズム」


ここでブーバーがいう「浸透せるもの」とは神の存在、神との対話性のことである。神との対話性とはすなわち「モノ」ではありえない絶対的他者との対話性のことだ。他者との対話性を失い、他者がモノとしか感じられなくなった時、それは閉じた円環としての自己、いつわりの全能感をもったまま、はなばなしく枯れ果てるしかない独語的=モノローグ的生となるしかないのだ。

「破門の哲学」の清水礼子も書いているとおり、初期スピノザの「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」や「知性改善論」には神や他者との「合一」という言葉が頻出する。彼がユダヤ社会から追放されて間もない頃(スピノザ24歳)書かれた著作には共同体から投げ出された不安と絶望から、神や他者との「合一」を狂おしいほど切実に希求したことがうかがえるのだ。だが、晩年の著作「エチカ」や「国家論」になると他者との「合一」という概念は消えうせる。自身の庇護者であったオランダの大政治家ヤン・デ・ウィットが民衆に虐殺され、スピノザ自身もユダヤ社会、キリスト教神学者、デカルト派(当時のリベラル派)から総攻撃を受けるなか、彼にとってもはや他者とは愚かで厄介なだけのシロモノでしかなくなってしまったのだ・・・。スピノザ哲学の厳格なまでの幾何学的秩序は一種の鎧である。誰一人自分を理解してくれる人もなく、周りはすべて敵だらけのなか、彼ら他者に一切付け入る隙を与えまいとするスピノザのかたくなな態度があのような厳密な哲学体系を構築させたのだ。

これがはなばなしくも枯れ果てるしかないスピノザのモノローグ的生の悲しい帰結です。それでも私がスピノザ、サド、園子温にのめり込むのは、私自身モノローグ的生に生きているからなのかもしれません。

スピノザと園子温第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」Q・E・D・

これでスピノザ園子温論は終わりです。やっと終わった!
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2011年12月19日

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部「コナトゥス善悪の彼方」からの続き

スピノザと園子温第3部「永遠の相のもとに」

第2部の「コナトゥス善悪の彼方」では超越的普遍的価値などなく、盲目的なコナトゥス(自己存続の努力)は結局絶望でしかないのではないかと問うた。しかし本来スピノザは人間が最高の幸福にたどりつくまでの三つの認識の過程をエチカで示した。三つの認識とは、

第1種認識である表象知(表象=想像)。誤謬と錯覚にあふれた私たち凡俗が住まう苦しみに満ちた世界である。

第2種認識である理性知。身体性を基盤にした「共通概念」によって正しい認識をすることができる。

第3種認識である直観知。もはや推論も経験も必要としない。神の観念を直接つかむことができるようになる。

スピノザにとってこの直観知こそが最高の幸福なのだ。直観知とはまた「永遠の相のもとに」世界を観るということでもある。スピノザ「エチカ」の最重要概念「永遠の相のもとに」を読み解いてみよう。

永遠の相のもとに世界を知覚するとは、第3種認識、すなわち神の観念を直接つかむということだが、ここで注意しなくてはならないのは、スピノザのいう「神」は私たちがイメージする神とはまったく違うものであるということだ。スピノザの神はキリスト教の神とは違う、というかそれを神と呼んでいいのかさえわからないものを「神」と定義するのだ。スピノザにとって神とはキリスト教の神でも、超越的な存在でも、意志や知性を持つものでも、人格を持った絶対君主のような存在でもない。

スピノザの神とは、「因果関係の連鎖の網の目が無限に広がる必然性の世界」のことをいうのだ。それはまさに「神即自然」を意味する。自然と言っても草木のことではない。この私たちがよって立つ世界、全宇宙そのものを自然というのだ。

「永遠の相のもとに観る」とは、「私」はこの無限にはりめぐらされた因果の連鎖の中の一局所であるということを認識することに他ならない。ではそのことを認識した場合どうなるのか。「エチカ」で最も謎めいた難解な定理に行き着くことになる。

人間精神は身体と共に完全に破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。ーエチカ第5部定理23


このエチカ最大の難問を解いてみよう。スピノザのいう「永遠」とは時間のことではない。

永遠性とは持続や時間によっては説明されえないーエチカ第1部定義8説明


永遠は持続ではなく、したがって時間とは関係ないものである。つまり永遠性は時間を超越する。人が永遠の相のもとに世界を観るということは、時間を超越して世界を観るということになる。簡単に言えば、

今、私がここに存在していることが必然なら、1万年前同じ場所で誰かが産声を上げたのも必然であること。千年後今度は違う場所で誰かが生まれ、育ち、そして死ぬこともまた必然であること。地球上のことだけではない、遙か遠く宇宙のどこかで生命が誕生し、また死するのもすべてが必然なのだ。もはやそこに時間という概念はない。一切が同時に生起しはじめる。千年後も1億年前のことも、この全宇宙のすべてが同時進行しているのだ。そのことを理解することこそ「永遠の相のもとに観る」ことに他ならない。

この認識に達した人間はすでに時間と空間を超越している。永遠の相のもとに認識することとは、一瞬で永遠を理解すること。つまり私は一瞬で永遠を生きるのだ。

間違えてはならないのは、スピノザはエチカ第5部定理34備考で「自己の精神の永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じるのは誤りである」と言っている。つまり「私」が死後も存続することが精神の永遠性を意味しているのではない。永遠を認識することこそが時間と空間を超越し、永遠を生きることに他ならないのだ。

・・・しかしだ。私たち凡人にとって「永遠の相のもとに」認識するなどというのは、はっきりいって無理ではなかろうか。そんなことができるのは精神のエリートだけだろう。具体的に名前をあげるとしたら、それこそイエス、仏陀クラスのスーパーエリートだけだ。私たち凡人は第3種認識に達することもできず第1種認識の中でもがき苦しむほかない。

第3部「永遠の相のもとに」Q・E・D・

次はいよいよ最終回第4部「利己主義の果て・モノローグ的生」です。やっと終わりますよ。ここまで読んだ人はいないと思いますけどね!
posted by シンジ at 18:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月16日

スピノザと園子温第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

スピノザと園子温第1部「身体性」からの続き

第2部「コナトゥス・善悪の彼方」

映画「恋の罪」の女たちは売春とSEXにより精神の隷属から逃れ出た。だが、逃れ出て解放された先には何があっただろうか。結論から言えば何もありはしないのである。ある方が「恋の罪」について「抑圧から解放されたんだからもっとカタルシスが欲しかった」と書いていたが、それこそがスピノザのいう目的論的な錯覚というのではないだろうか。

スピノザがその著書で繰り返し述べているのは「人は原因がわからないために、結果を原因と錯覚してしまう」ことだ。

すべての人は、自由を持つことを誇りますけれども、この自由は単に、人が自分の欲求は意識しているが自分をそれへ決定する諸原因は知らない、という点にのみあるのです。−スピノザ往復書簡集58


映画の場合「私を苦しめている抑圧から自由になりたい!」というのが行動の原因(目的因)であると錯覚されているにすぎない。ではいったい人がわからないがゆえに錯覚してしまう原因とは何か。スピノザはそれを自己保存本能、または自己存続の努力である「コナトゥス」であるという。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


第1原因であるコナトゥスが求めるものを人は善といい、正しいものというのであり、決して善だから正しいから人はそれを求めるわけではないのだ。これは必然的に抑圧からの解放=自由が目的ではないことを意味する。

抑圧からの解放=自由はコナトゥスが欲求したから善であり、正しいものとされただけで、自由が手に入れば、一転それはコナトゥスの欲求対象ではなくなるのだ。女たちは抑圧から解放されて「ああ、なんて幸福なの!」とはならない。手に入れた途端それは霧散するー欲求対象からはずれるのだ。

善いもの、正しいものは、超越的、普遍的な概念ではない。ただ人それぞれが欲望するもの、欲求するものを善いもの、正しいものと「呼ぶ」だけにすぎない。(人は自分が欲求しないものを悪いもの、正しくないものと呼ぶ)

女たちにとってその時は「自由」が善いものであり、正しいものだった。抑圧から解放されもはや自由が求めるものでなくなったとき、次にコナトゥスが求めるのが「束縛」であったなら、今度は女たちにとって「束縛」が善いもの、正しいものになる可能性すらあるのだ。

このことは恐ろしい現実をもたらす。彼女たちが欲望するものが彼女たちにとって善いものであるなら、それは必然的に、善・悪、真・偽、正・不正という一般的価値を超えるものとなる。つまり善・悪、真・偽、正・不正も彼女たち自身の内側から出る内在的意味しかなく、それは彼女たちにとって善なるものが他人にとっては悪となることもある、ということに他ならない。必然的に彼女たちは社会と対立し、外にはじき出されることになるだろう。

我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するーエチカ第3部定理9備考


さりげなくエチカの「備考」に書かれたこのなにげない一節こそが、スピノザ最大のコペルニクス的転回を世界にもたらす。

この一節は善・悪、真・偽、正・不正は神が定めた超越的な価値でもなければ、人間社会にそなわる普遍的な価値でもなく、コナトゥスが盲目的に求めるものが善であり、真であり、正であるという。善悪は内在的意味しかないのだ。

この世界には超越的、普遍的価値などない。つまりスピノザはこの一節で「神を殺害した」。なぜあれほどニーチェがスピノザに熱狂したのかがこれでわかる。

神は善悪を決定しない。神は超越的存在ではない。神には知性も意志もないと、スピノザは神をそう定義づけている。神は内在的存在であると。これは実質的に「神殺し」といっていい。

超越的・普遍的価値なき今、すなわち神なき現代。女たちのコナトゥスはただ盲目的に求め続ける。たとえ目的だと思っていたものを得られたとしても、得られた途端その得られたものは消え失せる。だが決して何かを求め続けるコナトゥスだけは消え失せることがない。求めるものが社会の倫理観をおびやかすものであろうと、それがコナトゥスの求めるものであるならば、彼女たちはそれを求めるだろう。

・・・しかし、これは絶望というものではないだろうか。スピノザは決してこのような絶望を思考したわけではない。スピノザが思考したのは最高の幸福とは何か、であったはずだ。

第2部「コナトゥス善悪の彼方」Q・E・D・

次回は第3部「永遠の相のもとに」・・・信じられないだろ・・・まだ続くんだぜ・・・・
posted by シンジ at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする