2015年05月18日

マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

何か書いてないと脳みそが腐ってくるので、「〜を読んでみた」シリーズをはじめてみる。最初は
マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

戦争における道徳についてウォルツァーは二つにわけられるという。
ひとつは「戦うにあたって国家が有する理由としての道徳」=「戦争への正義」
もうひとつは「国家が用いる手段に関しての道徳」=「戦争における正義」である。

このふたつの戦争道徳は重大な対立を引き起こす。「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」である。

国家が戦う理由の正義はおもに侵略の理論がある。侵略は明白な戦争犯罪であり、それに対抗することは「正しい戦争」である。すなわち「戦争を正当化しうるのは侵略のみである」

だがウォルツァーはそれ以外の正しい戦争=正戦もあるという。そのひとつが「人道的介入」である。人道的介入は大量虐殺に手を染める政府や軍隊に対抗するためになら容認される。

さらに「復仇」という概念もある。「復仇」とはもし我々の村が攻撃されれば、そちらの村も攻撃されるだろうという警告としての戦争のことである。ウォルツァーはこの復仇理論によりイスラエルのパレスチナ攻撃を正当化するのである。

「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」で最も使われるのが「スライディング・スケール」論法である。それは「ある大義が有する正義の度合いが高ければ高いほど戦闘における権利が増加する」という考え方。

つまり正義の戦争であるという大義があれば、戦場においてどんな非道なこともしても許されるという考え方のことだ。この「スライディング・スケール」論法がアメリカで最も使用されるのは第二次大戦での日本への大量の民間人を殺傷する目的の空爆と、いうまでもなく広島長崎への原爆投下の正当化のためである。

スライディング・スケール論法によれば、早く戦争を終わらすことができれば、それだけアメリカ側も日本側も犠牲者の数が少なくてすむ。よって、戦争の早期解決のためになら大量の民間人殺傷を目的とする空爆や原爆投下も容認されうるというのだ。

しかしウォルツァーはスライディング・スケール論法をこう批判する。「もしある戦争によって(民間人を殺してはならないという)制約が破られれば、それは次の戦争において守られはしないだろう。短期的な利益が得られても、それは長期的な均衡の中では意味を持たない」

またウォルツァーは日本に対しては無条件降伏を求めるべきではなかったとし、1945年時点に日本との交渉の席につくべきであったという。そのときアメリカは勝利を手中におさめていたのであり、原爆投下すべき緊急性はみじんもなかったからだ。

戦争の目的を「無条件降伏」に設定すべきではないといったのは、軍事戦略家のリデル・ハートも同じだ。「無条件降伏」を目的に設定することは、より被害者を増大させることのみならず、戦場における残虐性をも呼び起こすのである。

ウォルツァーはこのように日本に対しては軍事的緊急性が低く、「例外的状況」にはなかったので、空爆や原爆投下による民間人殺傷は容認できないとするが、これがナチスになるとちがってくる。

なぜならナチスにおいては自由民主主義共同体の自由と独立が敗北に瀕していた「例外的状況」=「最高度緊急事態」だったからである。ナチスは単なる敗北を超えた災厄をもたらすものであり、このような例外的状況に対したときのみスライディング・スケールという功利計算を用いることができる。そのときウォルツァーが出す事例はチャーチルによるドイツ本土への空爆のことである。民間人殺傷が容認されうるのは「最高度緊急事態」のみであって、ナチスはその例外的状況にあたる。

民間人を殺傷してはならないという「戦争における正義」は自由と独立を破壊する災厄をもたらす敗北に直面したときだけ「戦争への正義」に道を譲るのである。

マイケル・ウォルツァーは自由と民主主義が敗北に陥る「最高度緊急事態」にだけ「功利計算」であるスライディングスケール論法を容認するが、これはリベラル・デモクラシーそのものがカール・シュミットの「友敵理論」を最大限補強することを意味している。

友敵理論とは、本来、政治的対立にすぎなかったものが、道徳的対立にすりかえられること。「友」は味方であり同胞である。それ以外は「敵」とみなされる。それも「敵」は政治的対抗者というよりも道徳的に劣った存在として規定される。それが道徳的対立である以上、敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となるのである。

リベラル・デモクラシーと対立するものは「絶対的な敵」=非人間的な怪物として、この世界から抹殺、根絶せしめなければならない。だとするならばリベラル・デモクラシーこそ、戦争に破壊性、残虐性をもたらす最大の要因ではないのか。

「人類の名をかかげ人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること。この高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえない。敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法、非人間と宣告」(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治」)するリベラル・デモクラシーは友敵理論を拡大化する。リベラル・デモクラシーは異質なものはどのような手段を持ってしても排除しなければ存立できない政体なのだとしたら、近代に入って民主主義や人権が啓蒙されるようになってからのほうが古代や中世より戦争の残虐性が高まった理由も理解できるのである。
posted by シンジ at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月01日

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性・ボナパルティズムとは何か?

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性ボナパルティズムとは何か?

1848年のフランス二月革命、6月事件、翌年の6月反乱の激動の時代。政治思想家であり、政治家であり、当時の外相でもあったアレクシス・ド・トクヴィルが自分の見たもの、経験したことだけを冷徹なまでに観察、分析する、面白すぎて鼻血ものの一冊。2014年度シンジのベスト1でもあります。

トクヴィルがこれを書いたのが1851年ごろなので、ものすごくHOTな経験を時間を置かずに即座に書いたことになります。にもかかわらず、その筆致は冷静で客観的。今読んでも恐ろしいほどに激動のフランスを捉えていてトクヴィルの異常なまでの観察眼と分析力にうならされます。

なぜここまでトクヴィルが冷徹なまでに人々を観察しえたのか。それは彼がなんとしてでもフランスの共和制を守ろうとしたがゆえに、敵と味方をすばやく的確に見分ける必要があったためでもあります。共和制を誰から守ろうとしたのか・・・それは社会主義者と大衆とナポレオン三世からです。

トクヴィルが共和制最大の敵と見定めたルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)を見つめる目も一筋縄ではいかない。トクヴィルはルイ・ボナパルトのカリスマを認めながら、その底に狂気があることをも喝破している。トクヴィルの観察眼は凡庸なものではなく、どんな人間に対しても二面性があることを見透かしているのだ。(実兄の妻にもその冷徹な分析力を向けるところなんて笑える。)

そのたぐいまれなる観察眼は人間だけでなく、社会にも向けられる。1848年のフランス、パリで何が起きたのか。二月革命は1830年のフランス7月革命によってすでに予感されていた。中産階級(ブルジョワジー)によってなされた7月革命が貴族階級(アリストクラシー)と結びついたことにより堕落し、第三の階級である労働者たちを怒らせたのだ。こうして二月革命によりルイ・フィリップは追い落とされフランスの王制は完全に幕を閉じるのである。

二月革命はそれ以前のフランスの革命とははっきり性格の違うものだった。それは貧しい労働者階級の貧富の格差に対する怒り。そしてその格差を生む「所有権」に対する攻撃が基盤となっていた。労働者たちは貧富の差をなくすには政府の首をすげ替えるだけでは不可能であり、社会全体の仕組みを変えなければならないと思うようになっていたのである。

トクヴィルは二月革命時、道で出会った労働者にこう言われる。
「内閣が倒れたことは知っていますとも、そうですとも。しかしそうした以上のことを私らは望んでいるのです」

トクヴィルの友人は自分の家の奉公人がこう話しているのを聞いたという。
「次の日曜日、若鶏の手羽を食べることになるのは俺たちだろう」
「そして絹のドレスを着るようになるのは私たちよ」

二月革命以前のフランスの革命はしょせん政府を交代させるための革命にしか過ぎなかったのに対し、二月革命ははっきりと「社会主義革命」の様相をおびていたのだ。

トクヴィルはこうした革命の性格の変化は産業革命が起こした必然的なものだという。産業革命によりパリはフランス第一の工業都市になり地方の貧しい農民たちが職を求めてどっと集まってくる。パリはきらびやかで快楽に満ち溢れているが貧しい労働者階級はそれを享受することもできず不満を蓄積させていく。そこにあらわれた社会主義という理論に人々は突破口を見出す。貧困はこの国を支配する理不尽な社会の仕組みによって成り立っている。したがってこの貧困をなくすためにはこの社会全体の仕組みを破壊しつくすしかない。

社会主義は二月革命の基本的性格として、また最も恐るべき思い出としてあり続けるだろうートクヴィル


民衆はいくら政府の首をすげ替えても、内閣を倒そうとも、貧困はなくならないことを悟り、これを変革するには社会の不変の法則と考えられていた「所有権」を廃止するしかないということを発見するのだ。

しかしこうしたパリの労働者階級の「所有権」に対する攻撃は逆に地方の人々を恐怖と怒りで立ち上がらせることになる。皮肉なことに労働者たちの所有権への攻撃が地方の人々の身分の差や貧富の差を超えた連帯を生み出してしまうのだ。

「私が(地元に帰って)目撃してもっとも驚いたことはパリに対する憎悪が全般的に拡がっていることであった」

労働者階級は「彼らの大胆な計画と乱暴な言葉で国民をこわがらせてしまい、その行動における優柔不断さをもって国民が彼らに抵抗する余地を与えてしまった」

こうして4月の総選挙では革命派は敗北し、共和派が勝利することになる。

「諸革命が人々を疲れさせたことや、その革命が約束ばかりを乱発したことが、政治に関してのあらゆる情熱を衰弱させてしまったという状況のなかで〜」

いわば政治的アパシー(無感動)のさなかに大衆の心をつかむものがあらわれる。ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)である。彼の登場によりトクヴィルは政治家としての目標をはっきりと見定めることになる。

「この目標というのは、共和制の崩壊を回避すること。とくにルイ・ナポレオンの血統の確かではない王朝の成立を防ぐことであった」


しかし民衆の革命疲れからくる政治的無感動状態のなかでトクヴィルの思うようにはことは運ばない。1849年の選挙ではトクヴィルの共和派は敗北し、保守派(王朝派)と左派だけが議席を伸ばす。両者ともに民主主義など屁とも思ってない連中である。この危機的状況の中トクヴィルは外相に就任する。誰もが短命内閣だと予想していたのでなり手がいなかったのだ。

内閣に入るとトクヴィルは本心では「敵」と見定めているルイ・ボナパルトに信用されるようにふるまい、主義主張の異なる王朝派ともパイプをつなげようとする。トクヴィルは共和制の敵=ナポレオンに近づき、法律を改正し大統領再選を認めてもいいと交渉しさえする。共和制を守るためなら悪魔とも手を握る覚悟なのだ。

トクヴィルはまた王朝派とも良好な関係を築くことにも腐心した。だがこれはトクヴィルにとってたやすいことだった。なぜならトクヴィルは貴族階級だったからである。トクヴィルはブルジョワジーが中心となる共和派だったが、最後までブルジョワジーになじむことができなかった。彼の思想とは相容れない王朝派といるときが一番気楽だったのだ。このトクヴィル自身の矛盾はエイゼンシュタインが「イワン雷帝」で描いたものと同じで興味深い。

トクヴィルはこうして敵であるナポレオン三世や王朝派と綱渡りをするような駆け引きによって必死に脆弱な内閣を運営していこうとするが・・・ナポレオン三世のクーデターによってもろくも崩れ去るのであった。

注目すべきはその政治的アパシーの間隙を縫ってルイ・ボナパルトが大衆の支持を勝ち取る過程である。混迷の時期には政治は左右の党派に極端に分かれる。そのために議会はなんの決断もできず改革も実行できない。度重なる革命騒ぎ、守られることのない約束手形の乱発に民衆はうんざりしてくる。そして民衆はなんの決断も改革も果断にできない共和制=議会制民主主義を見捨て、一気に決断し、果断に実行することのできる独裁的権力を渇望するようになるのである。

ルイ・ボナパルトはクーデター直前の演説で革命を痛烈に批判し、こう叫ぶ
「私は将来にわたる平穏を約束する!」
民衆からの大喝采を浴びるルイ・ボナパルトはクーデターの成功を確信しただろう。

日常と平穏=「所有・家族・宗教・秩序」という旧来の価値観が革命に取って代わり、全面的に称揚される。
「終わりのない恐怖より、いっそ恐怖で終わるほうがいい!」ーマルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

民衆はいつしかそう望むようになっていくのである。

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性ということでいうなら、よく人は小泉純一郎や安倍晋三をヒトラーになぞらえたりするが、それは歴史を知らないだけで、実際彼らとそっくりなのはルイ・ボナパルトである。

これは柄谷行人が「表象と反復」で書いているように、ボナパルティズムというのは「資本が国民経済を超えて拡張しなければならなくなる転換期に生じるのである」

つまり国内経済重視の保護主義vs市場開放主義の争いがルイ・ボナパルト期のフランスでも起きていて、この深刻な対立をまるで解消するかのようなイメージで現れたのがルイ・ナポレオンなのである。

「ルイ・ボナパルトは本質的には保護主義者であり、しかし実際的にはサン=シモン主義者(市場開放主義者)としてふるまった」

これどこかで聞いたことがないだろうか。保守主義者としてあらわれながら、実際にやっていることはグローバリゼーション推進という政治家が日本にも存在しなかっただろうか。

経済の低迷と政治の実行力のなさに無感動状態になった大衆の前に政治における決断主義と旧来の価値観の復活を約束するもの。すべての対立を解消するといって現れる者。

「それらの要求をすべて充たすかのようにふるまう政治家はボナパルティストであるといってよい」−柄谷行人
posted by シンジ at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月08日

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

その1「自由意志と決定論」

その2「量子力学」

シュレーディンガーの猫のパラドックスのもうひとつの解決法がライプニッツの可能世界論だ。可能世界論では現実化した世界だけではなく、現実化しなかった無数の可能世界がモナドの中に存在する。箱の中の猫は50%生きていて50%死んでいるような状態で存在しているのではなく、猫が死んだ状態の世界と猫が生きている状態の世界とに分岐するのである。シュレーディンガーの猫のパラドックスはモナドの無数に存在する可能世界が実はすべて現実化しているのだと考えればよいのだ。

ヒュー・エヴェレット三世(多世界解釈を最初にとなえた物理学者)は猫が生きていると同時に死んでいるという状態がふたつの別個の宇宙でなら可能かもしれないと論じた。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


生きた猫が観測された世界と死んだ猫が観測された世界の二つに分岐するのである。世界は決してひとつではない。世界には無数の可能世界があり、そして量子力学の世界ではその無数の可能世界はすべて現実化する。量子論的には世界はどこまでもはてしなく分岐し続ける。そしてそのすべての分岐した可能世界は我々には見えないだけで我々と共存している。これが量子力学における「多世界論」である。

なんて奇怪な説だと思うかもしれない。しかしこの多世界論ならシュレーディンガーの猫のパラドックスだけではなく、タイムマシンのパラドックスまで一気に解決できるのである。タイムトラベルのパラドックスで有名なのは祖父殺しのパラドックスだろう。タイムマシンに乗って(ちなみに物理的な条件が厳しすぎるだけで理論上だけなら過去へのタイムトラベルは可能である。)過去にタイムトラベルし、子供のころの自分の祖父を殺したとしよう。・・・でははたして祖父を殺したわたしはいったい誰から生まれたのだろうか?これが祖父殺しのタイムパラドックス。

しかしこれも多世界論ならパラドックスにはならない。過去にタイムトラベルした時点で自分の元いた世界とはちがう並行世界に来た事になるからだ。自分の殺した祖父は自分の元いた世界の祖父ではなく、並行した別の世界の祖父であり、だから祖父を殺しても自分の存在にパラドックスは起きない。こうして多世界論は量子力学とタイムトラベルのパラドックスを一気に解決することができる。

それでもそんなことは信じられないという人が多いだろう。だが、

物理学者のプライス・デウィットは決定をおこなうたびに自分が複数の別個のコピーに「分裂する」とはどうしても感じられない、と述べた。ヒュー・エヴェレットの返事はガリレオと異端審問所のあいだの論争を踏まえたものだった。「あなたは地球が動いていると感じますか?」と彼はたずねた。彼が言いたかったのは、人が地球の動きを感じないのはなぜかをガリレオの慣性の法則の理論が説明しているのと同じだ、ということだった。デウィットは敗北を認めた。ーディヴィッド・ドイッチュ「世界の究極理論は存在するか」


人は地球が超高速(時速1700km)で動いているなどとは実感できない。しかしそれでも地球は超高速で回転している。それを人が感じないのは慣性の法則があるからだ。それと同じようにわたしたちは世界が決断ごとに分裂するなどとは感じられない。しかし人の感覚や実感よりもいつだって科学理論のほうが正しいのである。多世界論はたとえ奇怪だったり、不可思議に思えてもパラドックスを解決する以上存在するものとみなさなければならない。多世界理論はSFではない。現実なのである。

エヴァンゲリオンファンならばこの多世界論はすんなり受けとめてもらえるだろう。TV版、旧劇場版、新劇場版のストーリーの違いは、碇シンジやネルフの人々のもつ無数の可能世界が現実化した多世界=並行世界をそれぞれ映し出したものなのである。

しかしそうなるとシン・エヴァンゲリオン劇場版:‖もまた旧劇場版とは違う欝展開が待ち受けているのではないかと戦々恐々としているファンも多いと思う。だがしかし、これも多世界理論の面白いところで、それぞれ無数に枝分かれしていく可能世界は、それぞれ別個の世界として無関係に存在するのではなく、分岐した無数の多世界はそれぞれ量子干渉を起こしている。TV版の最終回のように学園ラブコメのようなエヴァ世界も並行世界には存在するし、人類が滅亡してひとつに解け合った並行世界も存在する。それぞれの世界はお互いに見ることも、触ることもできないが、並行世界同士はお互いに量子干渉を起こし、影響しあっているのだ。

そうした多世界間の干渉を利用するのが「量子コンピュータ」である。量子コンピュータの計算は並行世界にまたがる量子干渉を通じてなされる。そうすることによってスーパーコンピュータでも数千年かかるような計算でも数十秒でできるようになるといわれている。

この量子コンピュータの仕組みは何も計算だけに限られるわけではない。こうした多世界にまたがる量子干渉は人間の知識をも干渉しあう。旧約聖書の昔から人間の道徳律の基礎である「殺すな、盗むな、嘘をつくな」という命令や、17世紀ヨーロッパで生まれた「自然権」「人権」という概念もたまたま生まれたわけではない。無数にある多世界にまたがって人々の知識の干渉が起こり、その干渉の結果、この道徳律が多くの多世界間で採用されたと推測できるのだ。

こうした多世界間にまたがる量子干渉により無数に存在するエヴァの並行世界でも相互に干渉が起こり倫理的、美的、人間的価値に基づいた「より良い」選択と判断をした世界が無数の多世界で多数を占めることになる。多世界間で知識の多数決みたいなものが起きていて、より良い知識が勝利を収めるとその知識が多世界間にまたがり広まっていくのだ。そこでは誰も納得できないような理不尽な世界は多世界間の量子干渉により、現実度が低くなる。

・・・これは何を意味するのか。映画エヴァンゲリオンQのテーマが自由意志と決定論だったのはすでに「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」で書いた。エヴァQでは自由意志は決定論的世界の前にもろくも崩れ去る。庵野秀明はさらにシン・エヴァでも同じようなテーマを繰り返すだろうか?わたしはそれはないと予測する。多世界理論による量子干渉の理論が正しければ、次のシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖は決定論に対し自由意志が勝利する展開となるはずだ。そして多世界理論の量子干渉によりシン・エヴァは誰もが納得するような倫理的かつ美学的にもすぐれた価値をともなった大団円を迎えるに違いない。つまり・・・・

ハッピーエンドとなる可能性が高い!!!


ライプニッツ可能世界論の量子力学的解釈による多世界理論はこう「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖」を予測する。




・・・・と思ったら9月5日放映のTV版「エヴァンゲリオンQ」の最後に出てきたこれ

Bwxiz5xCUAAeTK.jpg

「EVANGELION:3.0+1.0」!?いろいろ推測してみよう。
まずEVANGELIONのNの字が二重に重なっていることからもこれは多世界理論の並行世界のことを表しているのは間違いない。+1.0は・・・これエヴァQ=3.0、エヴァ序=1.0という意味ならループするという意味になるが、多世界理論と円環構造世界のループとは理論的に相容れないので、ちょっとそれは考えにくい。おそらくこれは、次回作はエヴァQの続きと一応の完結を示した後で、さらにあらたな並行世界の物語「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖1.0」が始まるのだとみる。そしてこれからはシンジやアスカやレイのいた世界とは違う並行世界の登場人物たちの物語「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖1.0」→「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖2.0」→「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖3.0」と続いていくのではないだろうか。

・・・いやらしい話、カラー(庵野秀明の会社)にとってエヴァンゲリオンはドル箱シリーズであり、会社の経営にとって絶対必要なコンテンツだ。ビジネス的な要請上、決して庵野はエヴァから離れられないのだ。だが、わたしとしては庵野にオリジナル長編アニメ作品を撮って欲しいと思っているので「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖」は他人に任せて、庵野自身はオリジナル作品を製作して欲しい。

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測はこれにて完結です。
posted by シンジ at 20:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量子力学について

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量子力学について
その1はこちら

量子の性質をディヴィッド・ドイッチュが懐中電灯の光を遠く離れたところから見るとどうなるかという例を出してわかりやすく書いているのでそれを引用する。

懐中電灯からほぼ1万キロメートルの距離のところでは、光は弱すぎて人間の目では検出できなくなり人間の観測者には何も見えないだろう。しかし、視覚のもっとするどい動物はどうだろうか?カエルの目は人間の目の数倍も鋭敏である。もし観測者がカエルだったとすれば、懐中電灯からさらに遠ざかりつづけても、電灯が見えなくなる瞬間は決してこない。しかしその代わりにカエルには電灯がまたたきはじめるのが見えてくる。またたきは不規則な間隔で現れ、遠ざかるにつれて間隔が長くなっていく、電灯から1億キロメートルの距離ではカエルは平均して1日に1回の割合でしかまたたきを見ないが、ひとつひとつのまたたきはどの距離から観測しても同じ明るさだ。−ディヴィッド・ドイッチュ「世界の究極理論は存在するか」


そのまたたきこそ、光が連続的なものではなく、ひとつひとつの粒でできているあかしだ。測定できるすべての物理的なものは光のように連続的に見えるようにみえて実は粒子でできている。ーそれを量子という。

そしてその量子の奇怪な性質をあらわしたのが量子の「二重スリット実験」である。言葉で説明するとよくわからないと思うので動画を見てほしい。



量子の「観測」によって収縮し、実体化するというこの奇怪な性質こそニールス・ボーアの量子のコペンハーゲン解釈である。

コペンハーゲン解釈
@いかなるエネルギーも量子という離散的な束を単位として生じる。
A物質は点状粒子であらわせるが、その粒子が見つかる確率は波として与えられる。そしてこの波は特定の波動方程式に従う。
B観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する。物体の状態を確定するには観測をする必要があり、それにより波動関数は「収縮」し、物体が明確な状態になる。観測という行為が波動関数を解体し、物体にはっきりとした実体をもたせるのである。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


コペンハーゲン解釈の量子は「観測」によって実体化するという考えを一笑に付したのが、量子論の発展に重要な役割を果たしながら、のちに疑問を呈するようになったシュレーディンガーである。彼の有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験は二重スリット実験によってあきらかになった量子の奇怪な性質を皮肉るために彼が考えた思考実験である。

一匹の猫が箱に閉じ込められているとする。箱の中には毒ガスの入ったビンがあり、ビンにはハンマーが取り付けられ、さらにそれがウランのかけらの近くに設置したガイガーカウンターにつながっている。ウラン原子の放射性崩壊が起こる確率は50%だとしよう。もし崩壊すればガイガーカウンターが反応し、それでハンマーが作動して毒ガスのビンを割り、猫は死ぬ。しかし箱を開けるまで猫の生死はわからない。ー「パラレルワールド」


量子のコペンハーゲン解釈が正しいのなら、箱の中の猫は人間が観測する前は実体化していないのだから、50%生きていて50%死んでいる状態のまま存在することになる。そんなことがありうるか!?というのがシュレーディンガーの言いたいことだ。

最後まで量子論を認めなかったアインシュタインもまたこんなことを言ってコペンハーゲン解釈を嘲笑している。
「月を見たまえ、どこかのネズミが見たときに、あれはいきなり現れるのかね?」

しかしシュレーディンガーの猫のパラドックスには解決策が二つある。ひとつはバークリ的解釈である。バークリは哲学史上では観念論を唱えたことで知られている。バークリの考えはこうだ。「物質は人間の外側には存在しない。物質は人間の心の中に存在する」。たとえば「痛み」を考えてみよう。針で指を刺すとする、その痛みは針という外の世界に存在するのだろうか。痛みは針の中にあるのではなく人間の内側にしか存在しない。それは熱さや冷たさも同じで人間が外側にあると思っているものすべては人間の内側にしかないものだ。

バークリ的解釈とは最初に世界があってその中にわたしがあるのではなく、わたしのなかに世界があるのである。わたしが「見る」から世界は存在するのだ。まさにバークリの考えは量子論に合致するのである。「わたしがいるから世界は存在する」こうした独我論的考えは当然、わたしが死ねばこの世界は消えてなくなってしまうという考えをもたらす。しかしバークリはそれを否定する。わたしが死んでもこの世界はなくならない。なぜならこの世界すべてを「見る」神が存在するからだ。シュレーディンガーの猫のパラドックスのバークリ的解決法とはわたしが見る前に「すべてを見ているなんらかの存在」がいることによって量子はすでに実体化しているとするものだ。

わたしが観測してはじめて量子が実体化するのであるならば、観測するわたしを観測するものがいなければわたしは実体化しない。さらにわたしを観測する誰かを観測するまた誰かが観測される必要があり、これが無限に続く・・・・。無限後退する議論は偽であると懐疑主義者であるセクストス・エンペイリコスは言っている。バークリ的解釈ではすべてを観測するものは神だそうだが、いまさら神を信じろといっても無理というもの。これでは量子のパラドックスは解けそうにない。

そしてもうひとつの解決法こそ本命のライプニッツの可能世界論によるシュレーディンガーの猫のパラドックス解釈である。

今回は量子論の説明だけでエヴァの話が出ませんでしたが、次回は出ます!
次回はライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論です。
posted by シンジ at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月06日

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その1

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その1

以前、「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」というものを書いた。それはエヴァQのテーマが“自由意志はエヴァ世界に存在するか?”というものだったからだ。そしてエヴァQは自由意志に否定的な世界観を描き出した。ー「決定論的世界」である。

決定論的世界とはダニエル・デネットの定義によれば

どの瞬間にも物理的に可能な未来はたったひとつしかない。


というものだ。つまりわたしが今こんなことをしているのも、将来あんなことになるのも、あらかじめ決められているとする考え方。運命や宿命なるものがこの世界の隅から隅まで張りめぐらされているとする世界観のことだ。

わたしはそれを「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」では、キリスト教的決定論観によるものとして描き出した。だが、決定論的世界観と自由意志の対立はそれだけではない。決定論と自由意志とがもっとも激しく戦った時代、17世紀ヨーロッパの思想上の戦いをここに描き出したい。

17世紀ヨーロッパでは歴史上最大の決定論と自由意志の論争があった。そしてその論争はひとりの宮廷人を中心に交わされていた。その宮廷人とはライプニッツである。ハノーファー選帝侯に仕えていたライプニッツはそのあくなき知識欲と探究欲でヨーロッパ中の知識人とやりとりがあった。そのなかでもライプニッツ最大の敵といえる人物が二人存在した。

ひとりはオランダのレンズ職人にしてユダヤ社会から永久追放された異端者にして隠遁者であるスピノザである。ライプニッツはその思想上の最大の敵とも言えるスピノザにオランダまで直接会いに出かけて、議論を戦わせている。

そしてもうひとりの敵が万有引力を発見した古典物理学の祖であるニュートンである。ライプニッツとニュートンは微分積分法をどちらが先に発見したかで長年争っていたが、論争はそれだけではなかった。1715年から1716年ライプニッツは死の直前までニュートンの弟子であるクラークと手紙で激烈なやりとりをしている。この論争はニュートンの机からクラークがライプニッツにあてた手紙の草稿が発見されていることから、実質ニュートンとライプニッツのやりとりであるといっていい。

当時のヨーロッパ最高の頭脳三人が同時期に存在し、実際に議論を戦わせたのである。そしてこの三人の最大の争点となる対立こそ決定論vs自由意志にほかならない。

16世紀宗教改革吹き荒れる時代にカルヴァンがアウグスティヌスの決定論的世界観の焼き直しである予定説を唱える。つまり救われるものは生まれる前から神によって決められている。人間が努力して人生を変えようとしても変えられないし救われることもない、という自由意志完全否定の教説。こうしたキリスト教の決定論的世界観に対して非キリスト教の決定論的世界観を打ち出したのがスピノザである。

スピノザはキリスト教の神のようなこの世界の外側にいる(超越的という)存在が世界のものごとを決めているという考えを否定し、世界のものごとのすべてを決めているのは、人間や生物すべてに内在する自己保存欲求(コナトゥス)であるとする。自己保存欲求という原理が原因と結果の無限のつらなりによって埋め尽くされている世界。これがスピノザの決定論的世界である。

われわれの行動すべてはコナトゥスから発する因果関係が網の目状に広がった世界の一点であり、わたしがどのように考え、どのように行動するかも因果関係の網の目世界によってすでに決められている。ひとが自分には自由があると錯覚するのは、因果関係の網の目が広大すぎて主観では捉えられないからにすぎない。・・・ライプニッツはこうした決定論的スピノチズムと戦ったのだ。

ライプニッツもうひとりの敵ニュートンの決定論的世界観は古典物理学の基本仮説からくる。

ニュートンの古典物理学の基本仮説とは
@この宇宙には絶対的な時間と空間の枠組みが存在する。
Aすべての運動には原因がある。原因と結果という因果関係は絶対である。


このニュートンの古典物理学の考えから必然的に導き出される決定論こそ「ラプラスの魔」である。

任意の瞬間における自然界を動かす力をすべて知り、自然界を構成するあらゆる存在の相互位置を知っている知性体は、そのデータを分析に投じられるほどの力量を持った知性であるなら、宇宙で最大の物体ともっとも軽い原子の動きをひとつの式に集約してしまえるだろう。この知性体には不確定なものはない。そして過去とまったく同じく未来もその眼前に開けている。−ピエール・シモン・ラプラス


この古典物理学的超知性体「ラプラスの魔」はすべての物理的な因果関係の網の目を見通せることができる。ゆえに過去だけでなくすべての未来も一望できる。(このラプラスの魔という能力を人が持ってしまったらどうなるかを書いた小説がアダム・ファウアー「数学的にありえない」)

ライプニッツはカルヴィニズム、スピノザ、ニュートンという三者三様の決定論から自由意志を守るために戦ったといっていい。ライプニッツははたしてどのようにして自由意志を擁護したのか。ーそれは「モナド」によってである。

モナドとは日本語にすれば「個別的実体」とでもいうべきものである。つまりこの誰でもない「わたし」自身のこと。それも代わりのきかない、この宇宙でただひとつしかない「わたしそのもの」の本質のことである。宇宙にただひとつのわたくしの「魂」と言い換えてもいい。ライプニッツはこのモナドの特異な概念でもって決定論をくつがえそうとする。

モナドの特異性とは、モナドにはあらゆるすべての「可能性」が含まれているとする点にある。エヴァ世界の現実では碇シンジはエヴァに無理矢理乗せられて、使徒と戦い、サードインパクトを起こすきっかけとなり人類は滅びる。この歴史のストーリーライン@にいる碇シンジだけが現実化したシンジとされる。しかしライプニッツはモナドにはそれ以外のシンジの人生も無数に含まれているとするのだ。シンジの人生@はシンジのモナドに含まれる無数の可能性のうちのひとつがたまたま現実化しただけにすぎない。

だから碇シンジのモナドにはエヴァに乗らずに普通の中学生としてすごしたシンジの人生Aの可能性も存在し、エヴァに乗ったけど途中で戦死するシンジの人生Bの可能性も存在する。使徒を全部倒した後でも人類が滅亡しない人生Cの可能性さえも存在するのである。そうした現実化しなかった無数の「可能世界」もモナドには含まれている。ライプニッツはこの「可能世界」という考えによって決定論を反駁しようとした。「この世界はたったひとつしかない」という決定論的世界観を「この世界は無数にある」という可能世界論によってくつがえそうとしたのだ。

しかしライプニッツのモナドの可能世界論はほとんど誰にも理解されることはなかった。あまりにも奇抜で論証不可能の世迷いごとと思われたのである。だが、ライプニッツの死後200年がたった頃、ニュートンの古典物理学をくつがえす奇怪な物理学が産声を上げる。「量子力学」である。

次回は量子力学の解説から。
ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量子力学について
posted by シンジ at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月13日

イエスは神か人か・ミシェル・セルヴェ「三位一体論の誤謬」について

イエスは神か人か・ミシェル・セルヴェ「三位一体論の誤謬」について

「三位一体論の誤謬」の著者のミシェル・セルヴェ(1511-1553)は宗教改革期の神学者、医者でカルヴァンの天敵ともいえる人物。カルヴァンがジュネーヴで宗教的独裁政治を行っている時にカルヴァンの独裁制を倒そうとジュネーヴ入りしたが、捕らえられ生きながら火刑にされた。ジュネーヴにはセルヴェに対する贖罪の石碑とミシェル・セルヴェ通りが存在する。

セルヴェが批判する三位一体論とは父(神)と子(イエス)と聖霊(神の力)という三つの位格は同一本性であるというキリスト教の考え方。なんでこんな変な考えが生まれたかというとすべてはイエスの存在をどう考えるかという宗教上の綱引きによるもの。

イエスの存在における綱引きとは「神性」と「人性」の綱引きのことである。イエスの「神性」を高めると、つまりイエスは完全に神ですよ〜ということになると困ったことになる。イエスの秤が「神性」に傾くと、神(イエス)が私たち人間によって苦しめられ、殺されたことになってしまう。そうなると必然的に贖い(あがない)の意味もなくなってしまう。神(イエス)は人間に殺された(そもそも人に神が殺せるのか?)、だから神は人間の罪をあがなうことにした・・・どう考えても論理的におかしいのである。

では逆にイエスの秤を「人性」に傾けてみよう。つまりイエスは完全に人間ですよ〜ということになると、イエスは神とかかわりのない普通の人間ということになり、普通の人がどうして人類すべての罪をあがなえることができるのかということになってしまう。またイエスも人間なんだからイエス自身もあがないが必要になってしまうことになる。

つまりイエスが神になっても、人になっても厄介なことになるのだ。そこでこの難問を一気に解決するために生み出されたのが「三位一体論」というわけ。神とイエスと聖霊は一つの本性に三つの位格を持つ。イエスは神でもあり、人でもある。(これをマルティン・ブーバーは神に人格を持たせるための哲学的こころみと言っている。)

セルヴェはこの三位一体論を批判する。セルヴェはイエスの神性を否定し、イエスは神の被造物であるという立場に立つ。ということはセルヴェはイエスを人間として規定することになるが、セルヴェはイエスが人間であることも認めない。イエスは我々人間と神とを和解させるために神に使わされたものとする。つまりイエスは神とは別個の存在。神と人間とをつなげる中間存在として規定されるのだ。

セルヴェはこの著書が原因で処刑されたようなものだが、イエスは神と人との中間存在であるという主張は実はセルヴェのオリジナルではなく、西暦300年ごろのアレクサンドリアの司祭アリウスの主張と同じものである。このアリウス論、父なる神が唯一の存在であってイエスは神の被造物であるという主張は論理的に考えればそれほどおかしな主張というわけでもなく、しごくまっとうな意見である。三位一体論自体がイエスに神性を付与しようとしたあまり無理やりこじつけ感満載のアクロバティックな論なのだ。

セルヴェの主張はアリウス論の焼き直しであり、神の存在を否定しているわけではなく、あくまでキリスト教ゲームの枠内に収まるものでしかない。セルヴェの中では超越的な唯一神が存在していたのであり、無神論ではないからだ。ただイエスの神性と人性の綱引きにおいて人性を強く引いただけにすぎない。

このキリスト教ゲームのルール自体をひっくり返す人物があらわれるまで、人類はセルヴェの処刑からあと100年ほど待たなければならない。超越的な神など存在しないと主張するオランダのユダヤ人を。
posted by シンジ at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月08日

リベラル・デモクラシーは差別を助長するか。レオ・シュトラウス「スピノザの宗教批判」

2012年読んだ本9位はレオ・シュトラウス「スピノザの宗教批判・英語版序文」(スピノザーナ1号より)です。

リベラル・デモクラシー最大の欠陥は公的領域と私的領域の分断にある。ワイマール共和国時代を生きたユダヤ人哲学者レオ・シュトラウスはワイマール共和国というリベラル・デモクラシーに夢と希望を抱いていた。リベラル・デモクラシーこそが長きに渡るユダヤ人差別を解消してくれるのだと、シュトラウスだけでなく多くのユダヤ人が楽観的に考えていたのだ。たしかにワイマール共和国下ではユダヤ人にドイツ人と同等の市民権があたえられ、法的平等の下に置かれた。(ワイマール共和国憲法を書いたのはユダヤ人フーゴー・プロイスである。)

だが、「リベラルな解決がもたらすのは法的平等であって社会的平等ではない」(スピノザの宗教批判)


つまり公的領域ではユダヤ人差別は存在しなくても、私的領域では差別は依然としてなくならないどころか、むしろ助長されるのである。なぜなら、リベラル・デモクラシーにおいては私的領域は不可侵の領域である。個人の思想、信条、自由はなんぴとたりとも犯してはならないのがリベラル・デモクラシーの根幹だからだ。

私的領域が法に保護されつつも法の及ばないものであることを認めないならば、リベラリズムは成り立たない。ー「スピノザの宗教批判」


だがしかし、こうした私的領域の聖域化がなにをもたらすのか

こうした意味での私的領域の承認は、私的な「差別」を許容し、これを保護し、つまるところ助長する。ーシュトラウス


公的領域の私的領域への不可侵性ゆえに国家はユダヤ人差別を止めることはできない。ではこの私的領域の聖域化をやめ、私的領域を制限すればどうなるのか。それは公的領域の私的領域への侵犯を容認するということになる。歴史を見ればわかるように、公的領域が私的領域を侵犯することを容認する政治体制は一般に宗教国家や共産主義国家、独裁国家といわれる。

ユダヤ人問題を解決するには、あらゆる種類の「差別」の法的禁止が必要となり、それは私的領域の放棄にほかならず、リベラルな国家の破壊を意味する。ーシュトラウス


ヨーロッパ近代の歴史はいうなれば公的領域から私的領域を守る長い長い戦いだったと言っていい。その始まりは宗教改革期にある。アンリ・オーゼールは「十六世紀の近代性」で「良心の自由は命をかけても守らなければならない」という考え方はプロテスタンティズムから来たという。だがカルヴァンは信仰に誤りがあった場合、公権力による強制と処罰を容認し、三位一体説を批判したミシェル・セルヴェを生きながら火刑にしている。それを痛烈に批判したセバスチャン・カステリョは最初の「私的領域」の擁護者といっていい。ヨーロッパ近代はおびただしい血を流しながら「私的領域」を勝ち取ってきた時代なのだ。

そうした私的領域を過去最大級に拡大し、逆転したのが近代最初の個人主義者であり、自由主義者であるスピノザである。スピノザの同時代人ホッブズは公的領域のために私的領域を制限しなければいわゆる「万人の万人に対する戦争状態」になるとしたが、スピノザはそれを逆転させ、公的領域は私的領域を守るために存在するとした。つまり国家は人民の私的領域を守るために存在するのであり、その逆ではない。「国家の目的は最終的には自由にある」−スピノザ「神学政治論第20章」
このリベラル・デモクラシーの袋小路はリベラル・デモクラシーを最初に打ち出したユダヤ人哲学者スピノザの思想にすでに内包されていたのだ。

読んだ本ベスト10、解説がどんどん長くなる・・・。小難しい本ばかりですが、ベスト10上位はエンターテイメントですのでご安心を。まだ続く。
posted by シンジ at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月05日

2012年読んだ本ベスト10レオ・シュトラウス「自然権と歴史」

あけましておめでとうございます。ブログ更新をしばらく忘れていたので、2012年に読んだ本のベスト10をあげていこうと思います。映画は最近見てないのですが2012年のベスト1は「アウトレイジ ビヨンド」です。「アウトレイジビヨンド完全読解」というものを書いたのでよろしければどうぞ。

2012年読んだ本10位はレオ・シュトラウス「自然権と歴史」

無神論者にとって道徳の根拠は共同体(社会)にある。社会秩序を守るための道徳「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」どれも共同体を円滑に進めていくためのものだ。しかしこのことは共同体から一歩はずれればその道徳は効力を失ってしまうことを意味する。道徳の根拠が自分の所属する共同体にしかないとすれば、その共同体とは違う世界にある共同体の価値を批判できなくなるのだ。例えば、日本の隣国にカニバリズム国家があるとしよう。しかし私たちはそのカニバリズムを批判できない。なぜなら日本の道徳は日本という共同体にのみ依拠したものであり、それは普遍的ではない。したがって日本の道徳を他国に強要することはできなくなる。カニバリズム国家はこう言うだろう。−「人肉食」はわが国の古くからある伝統であり、わが国の道徳観念上でも認められている行為だ。だから外国から批判されるいわれはない、と。

カニバリズム国家を批判するためには共同体に依拠しない普遍的な道徳が必要となるのだ。ではいったいそんな普遍的な道徳の根拠はどこにあるのか。それは「人を殺すな」「人を殺して食べるな」という無条件の「最終真理」に依拠するほかないのである。最終真理とはもうそれ以上根拠を問うことが出来ない根拠の最終地点を意味する。なぜ人を殺してはいけないの?その根拠はなに?と問うことが出来ない地点。根拠をそれ以上問うことの出来ない最終根拠はもはや超越的なものに他ならない以上「神」と呼ぶほかないものである。シュトラウスはこの「神」を「自然権」に置き換えているに過ぎない。ホッブズもロックもルソーも「神」を「自然権」に置き換えているだけなのだ。

超越的なものが存在すると認めなければ、普遍的な道徳は存在できない。普遍的道徳が実在しなければカニバリズムは批判できないのである。

カニバリズムと聞いて藤子・F・不二雄の短編SF漫画「ミノタウロスの皿」を思い出す人もいるだろう。「ミノタウロスの皿」は藤子の「神」なんて存在しない宣言に等しい。あのマンガは普遍的道徳など存在しないということがテーマだからだ。それでもなお普遍的道徳は必要だといってるのがレオ・シュトラウスの立場といっていい。シュトラウスは「それでも、なお〜必要とする」ということを「高貴なる欺瞞」といっている。たとえそれが欺瞞でも必要とされるのが普遍的道徳なのだ。

9位はまたもレオ・シュトラウスの「スピノザの宗教批判」クリックすれば飛びます。
posted by シンジ at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月19日

大衆の非合理的情念の行方。フランス革命・ワイマール共和国・尖閣

現在のアジア情勢を見るに、その原動力となっているのは経済的、社会的、政治的理由だけではなく、非合理的な大衆の情念の役割が大きいのではないかと考え、そうした非合理的な情念が歴史を大きく動かした例として18世紀末のフランス革命と20世紀ナチスを導いたワイマール共和国時代を考察したい。この二つの時代をジョルジュ・ルフェーヴルの「革命的群衆」を軸に読み解いていく。

フランス革命とはリーダーにそそのかされた群衆が起こした事象ではないとルフェーヴルはいう。フランス革命は大衆の「集団心性」という情念の働きなしには考えられない。集団心性が醸成されるために重要なのは民衆の「語らい」である。村々でのミサの集まり、酒場での語らい、またアンシアン・レジーム下の農村では村人が集まって老人の昔話に耳を傾ける「夜の集い」なるものもあった。こうした口伝えによる伝承は「平準化」と「抽象化」という作用をもたらす。

「平準化」とは農民ひとりひとりのさまざまな理由からなる苦境をシンプルな事象に単純化することである。たとえば私たち農民の生活が苦しいのは全部領主が悪いんだ!というように。

「抽象化」とは、たとえ領主が農民にやさしい親切な人だろうが、そうした個性は一切無視され、典型的悪役像としての「領主」として抽象化すること。「領主」は無条件で「悪」とされるのである。

こうした「語らい」によって「集団心性」は形作られていくが、この集団心性が最終的に民衆蜂起という形となるのには何がきっかけとなるか。それは情報の歪曲や偽りの情報=デマがきっかけとなる。

フランス革命時における「大恐怖」とは貴族が盗賊や浮浪者を雇い自分たち農民を襲撃するのではないかというまったくのデマからフランス全土で農民の領主たちに対する反乱が起こったことをいう。

我々農民は貴族をこんなにも憎んでいるのだから、貴族も同じように我々農民を憎んでいるにちがいないという不安と恐怖が生んだ錯覚。「相手の力を過大評価し、大いに恐れた」(G・ルフェーヴル)農民たちの誤解は恐るべきスピードでフランス全土に波及したのである。

この民衆の不安と恐怖が作り上げた幻想の「貴族の陰謀」(アリストクラートの陰謀)という観念が革命期を通じて民衆の集団心性を支配していた。

「語らい」という口コミにより平準化と抽象化がなされた結果、諸悪の根源である「敵という階級」が創造される。この敵によって虐げられてきた貧しい民衆はルソー主義や文学などによって、ありとあらゆる栄光と徳を付与される。そして社会正義を実現するためには、この貧しく虐げられた民衆の敵対階級を抹殺、根絶しさえすればそれでよいということになるのである。

フランス革命期、民衆の集合心性を支配していたのが「貴族の陰謀」という観念なら、ワイマール共和国時代のドイツ民衆の集合心性を支配していたのは、ヴェルサイユ条約とユダヤ人に対する憎悪だった。第一次大戦の敗北によりさまざまな形で噴き出た社会問題が平準化され、抽象化されるうち、ドイツ経済に壊滅的打撃をもたらすヴェルサイユ条約と、ロシア・東欧でのユダヤ人大弾圧(ポグロム)によるドイツへの大量のユダヤ人難民の流入という事象が集約化され集合心性となる。その結果ヴェルサイユ条約とユダヤ人とがドイツ人にとって「絶対的敵」として作り出されるのだ。

当時ワイマール共和国の政治家たちはヴェルサイユ条約の緩和に必死になって取り組んだといってよい。だがそんな彼らの努力も、「絶対的敵」に対する妥協とみられてしまい大衆の非合理的情念はワイマール共和国を否定することとなる。ワイマール共和国の司法大臣だったラートブルフは自叙伝でこう自己批判する。ワイマール共和国が崩壊したのは「人々のあいだに根強く存在している非理性的な国民感情に顧慮を払わなかった」からであると(林健太郎「ワイマル共和国」)。そしていうまでもなく国民の非理性的感情を利用して政権を奪取したのがナチスである。

政治家も知識人もジャーナリズムも大衆の非合理的情念を馬鹿にし、黙殺し、まともに取り扱うことを避けてきた。彼らは大衆の非合理的情念に対してはなすすべがない。大衆の非合理的情念をコントロールすることは誰にも出来ない。大衆の非合理的情念は最悪の事態を引き起こすことを想定しなければならない。ハンナ・アレントはフランス革命についてこういっている。

この見世物のなかでもっとも際立って見えたことは、その主役の誰一人として事件の成り行きをコントロールできなかったということであり、その成り行きが人々の意志的な目的とまるで関係ない方向に進んだだけでなく、逆に生き残ろうと思えば自分たちの意志や目的を革命の匿名の力に従属させなければならなかったということであった。ーアレント「革命について」


フランス革命発生時点では誰一人として王制を廃止しようなどと考えていたものはいなかった。民衆は敬愛する国王とともに革命を戦うつもりだったのである。またロベスピエールが存在しなければ恐怖政治は起こらなかったか、という問いがある。答えはNOだ。ロベスピエールがいようがいまいが、恐怖政治は起きた。なぜなら恐怖政治を望んだのは大衆自身だったからである。

1928年以前、ドイツでナチスが政権を獲るなどと考えたものはいなかった。政治家も知識人もジャーナリズムもみなナチスを馬鹿げたものとみなしていた。実際1928年5月の総選挙でナチスの得票率は2.3%でしかなかった。フランス革命期においても、ワイマール共和国期においても、誰一人として大衆の非合理的情念がこれほどまでに事態を悪化させるとは想像すらしていなかったのだ。

大衆の非合理的情念を抑制することは不可能であるという結論は、必然的にアジア情勢に対する悲観的未来を予測させることになる。端的に言えば尖閣諸島を巡る日中間の軍事衝突の現実性である。多くの専門家たちは軍事衝突の可能性は低いとみなしているが、彼らがその分析から除外しているものは他ならぬ大衆の非合理的情念である。ダントンは「民衆が恐るべき存在とならないよう、われわれが恐るべき存在となろう」と演説して革命裁判所の設置を推進した。ジャコバン派は大衆の非合理的情念の圧力に抗しきれずに恐怖政治へと舵を切ったのである。フランス革命やワイマール共和国はそうした大衆の情念が最悪の事態を引き起こした歴史的事象なのだ。

では実際日中間で軍事衝突が起きた場合どうなるのか。米海軍大学のジェームズ・ホルムス准教授はこう分析する。

@日中両国軍が尖閣をめぐり実際に戦闘となった際、日本側は必要な主要兵力をほぼすべて集中できるが、中国海軍は他の防衛海域が広大で、集中は出来ない。
A日本側は単に尖閣防衛を貫けばよく、中国軍を追撃して撃滅する必要はないが、中国側は尖閣を占拠しなければ勝利とならない。
B中国首脳は対日戦争が勝利できない場合、自国の将来がかかる海軍力の破局をもたらしかねないことを認識している。
以上の諸点からもホルムス准教授は「この日中海戦での勝者は日本となる見通しが強い」との展望を明らかにする。(週刊文春2012年9月6日号)

こうして日本が勝利し、中国が敗北した場合、起こりうることは、中国民衆の非合理的情念の爆発による民衆蜂起であり、その結果としての中国共産党政権の瓦解である。

第一次大戦が終わって以来、戦争に敗北してもなおかつ生き残るほど強力な政府や国家あるいは統治形態は存在しない。日露戦争の敗北につづくロシアの1905年の革命が、軍事的に敗北した場合に政府の運命はどうなるかを示した不吉な兆候だったことは間違いない。−ハンナ・アレント「革命について」


戦争に負けて政権を維持できる国家などどこにも存在しないのである。

そこでこう言う人もいるだろう。中国共産党が瓦解するならそれは喜ばしいことじゃないかと。だがそんなことは口が裂けても言うことはできない。大衆の非合理的な情念はフランス革命においては血の粛清を、ワイマール共和国においてはナチス台頭を招いたのであるから。
posted by シンジ at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月06日

ポピュリズム拡大の原因とは何か・シャンタル・ムフから読み解く

世界的な右翼ポピュリズムの伸張と拡大の原因をシャンタル・ムフの「政治的なものについて」から読み解く。

シャンタル・ムフは現代の危機的状況−右翼ポピュリズム、テロリズム、文明の衝突を招いているものの原因をその著作「政治的なものについて」で分析している。ムフは現代は政治的な対立を隠蔽し、すべてが道徳的対立に置きかえられてしまった時代だという。その置きかえを行う犯人は−「リベラリズム」である。

リベラリズムが掲げるのはこういう考え方だ−「党派性を超えて」、「対話型民主主義」、「コスモポリタン主義」、「グローバル市民社会」。こうしたリベラリズムの代表とでもいうべきハ−バーマスの考え方は以下のものである。

−「討議」によって唯一妥当な合意を作り出すこと。そうした合意にもとづいた民主主義の価値は普遍的なものであり、この普遍的な価値観の下、世界の差異や対立は解消され世界はひとつになる。−

ムフはまさにこうしたリベラリズムの考え方こそが政治的なものを隠蔽して道徳的なものに置きかえることに他ならないとし、この置き換えこそが、ポピュリズムやテロリズムなど現代の情念的な大衆運動の原因だというのだ。

「討議」によって唯一妥当な合意を形成し、誰もがその合意に従うことが正義であるなら、もう誰もその合意に異議を唱えることができなくなる。合意という正義に反すれば、反した人間は「道徳的に劣った存在」というレッテルを貼られるのだ。このようなリベラリズムの普遍主義は必然的に「反政治的」なものとならざるをえない。

党派性を超え、対立を超えた討議による合意に基づく理想の社会が見逃しているのは、人間の情念の集団的同一化(集団的アイデンティティ)である。リベラリズムというものが唯一の妥当で、普遍的な価値であり、もうそれに抗するものがないとすれば、大衆が自分たちの怒りや不満を向け、同一化できる対象がないということになる。

すなわちリベラリズム、キャピタリズムに対抗するオルタナティブが存在しない。自由主義的、資本主義的であることが唯一妥当な価値観であると合意された世界にはそれに代わるオルタナティブが存在できないのだ。

このとき大衆の集団的同一化傾向は「反体制主義」、「反エリート主義」という「ポピュリズム」というかたちで噴出する。

リベラリズムが政治的対立を道徳的対立に置きかえ、世界を一元化したとき、大衆の不満や怒りはポピュリズムという情念の集団的同一化を形成し、一元化された世界に対抗する。

今、世界的に右翼ポピュリズムが伸張しているのも、ほとんどどの国も似たような事情があるからだ。

1999年イェルク・ハイダー率いる極右政党、自由党が躍進したオーストリアでは、長年にわたり連立政権が政権を維持してきた。

オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党の党員に平等に分配されるというものである。−wikipediaより


すなわち政治的対立があっても正面から衝突することがなく、国民の不満や怒りが宙に浮いてしまう。

2002年のフランス国民戦線ジャン=マリー・ル・ペンの躍進もかって「左」に位置していた政党が中道へ移動して左/右の対立が不鮮明になったことが上げられる。

ルペンはシラク(得票率19.71%)に次ぐ16.86%を記録し、社会党有力候補リオネル・ジョスパン(16.12%)を上回り決選投票まで残った。この結果にEU諸国は騒然とし、マスコミは「ルペン・ショック」と呼んだ。この選挙ではトロツキスト政党である革命的共産主義者同盟のオリヴィエ・ブザンスノ候補が共産党のロベール・ユー候補の得票を上回るなど、極左も得票を伸ばしており、「コアビタシオン」(保革共存)への不満が両極に集まったとの見方も出た。−wikipediaより


ベルギーの極右政党フラームス・ブラングの成功も、同じように社会主義政党とキリスト教民主主義政党の連合が何十年もの長きにわたり政権を維持してきたことによる国民の不満が原因だとされる。

ポピュリズム極右政党が伸張してきた国々はいずれも党派的対立が避けられ、中道政権という一元化の状態にあったのだ。これは国民の様々な欲求や不満を既成政党がすくいあげることができなくなったことを意味する。そこに「反体制」「反エリート」を掲げた極右ポピュリズムが台頭する隙が出てくるのだ。

イェルク・ハイダーの言説上の戦略は、地道な勤労者や国民の価値を尊重する者であるすべての善きオーストリア人としての「われわれ」と権力の座にある政党、労働組合、官僚、さらには外国人、左派の知識人、あるいは芸術家など真の民主主義的討論を妨げる者とみなされるありとあらゆる者からなる「彼ら」とのあいだに境界線を構築することにある。−シャンタル・ムフ「政治的なものについて」


今日、支配的な普遍的リベラリズムの一元化はそれに反する者、異議を唱える者を「道徳的に劣ったもの」とする。本来、多様な価値観同士の「政治的対立」であったものが、リベラリズム的価値観の一元化により、「道徳的対立」へとすりかえられる。

それが道徳的対立である以上、リベラリズムの敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となる。(カール・シュミット)

政治的な対立を道徳的対立にすり替える行為は現代の日本でもよく見られる。たとえば昨今の原発論争ではそういうすり替えが頻繁に行われる。

Twitter - 香山リカ氏の壇上アピール.jpg


敵対者たちが政治用語ではなく道徳用語で定義されるとき、その者たちは「対抗者」ではなく「敵」とみなされるのである。「悪しき彼ら」とはいかなる闘技的な討論も不可能であり、ただ抹殺されなければならない。そのうえ彼らはしばしばある種の「道徳的な病」のあらわれとみなされるため、彼らが出現し、そして成功をおさめつつあることについての説明さえもなされるべきではない。−シャンタル・ムフ


ジョージ・W・ブッシュはアメリカと対立するもの、従わないものを「悪の枢軸」と名づけた。自分たちの対抗者を「道徳的に劣ったもの」、絶対的な敵としたのだ。対抗者を絶対的な敵とみなすことが、非人道的な殺戮の道を開くことになるのは歴史が証明している。香山リカの論理はブッシュとまったく同じものなのだ。

このようなオルタナティブが存在することすら許されない世界において大衆の集団的同一化という情念は行き場を失い、さまよい、そして右翼ポピュリズムへとたどりつかざるえない。

しかしこうした右翼ポピュリズム政党には弱点がある。ポピュリズム政党は「反体制」「反エリート」を掲げるがゆえに政権の座についた途端その力を失うのだ。

1999年の選挙でハイダ−の自由党はポピュリズム的戦略で保守党を猛追し、得票率27%で第二党に躍進。しかしそれ以降、政権への参加によって自由党の勢いは弱まっていった。2004年の欧州議会選挙では得票率がついに6.7%にまで落ち込む。ー「政治的なものについて」


シャンタル・ムフはこのような危機に対する解決策として、大衆の集団的同一化の対象としての「党派性」の復活。そして党派ごとの対立はあくまで政治的対立であってそれを道徳的対立へとすりかえないこと。政治的に対立する多様な党派を認める「多元主義」の確立を提唱する。

シャンタル・ムフのポピュリズム拡大、伸張の原因の分析は鋭い。ただ気になるのは「多元主義」という解決策である。多元主義の下ではそれこそ「極右」「極左」「原理主義的宗教」という極端な党派性も容認される。しかしながら万が一それら「極右」「極左」「原理主義的宗教」が政権の座についた場合、彼らが真っ先に実行するのは「多元主義」の否定ではなかろうか。

またムフの考え方はヨーロッパには当てはまっても、日本には当てはまらない。ヨーロッパの右翼ポピュリズムは反グローバル主義を掲げているが、日本のポピュリストたち(たとえば小泉純一郎や橋本徹など)は逆にグローバル主義的自由経済を推進しているように見える。おそらく、このねじれ現象は固定化した日本の社会構造に対するオルタナティブとしてグローバル自由経済とポピュリズムが合体したからではないだろうか。

いずれにしろ現代の日本にとってシャンタル・ムフの考えはアクチュアリティのあるものだといえよう。
posted by シンジ at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする