2020年09月06日

ポリコレと検閲

ポリコレを創作物に適用せよというのは、映画や漫画やドラマや小説に「社会正義を実現させる道具」としての役割を期待しているという意味で創作物への過大評価かつ極めて一面的な評価にすぎないだろう。
またそれは社会正義を実現させる道具として機能していない作品はパージせよという危険なメッセージでもある。

創作物に「社会正義を実現させる道具」という役割を着せることは、必然的に社会正義にそぐわない表現をパージすること「検閲」を意味する。ポリコレが危険なのはその「検閲」を為政者や権力者が行うのではなく民間が行うことにある。

もちろん為政者側が検閲を行うのも危険なことだが、民間が検閲を行うことの真の恐ろしさは検閲が恣意的に行われることにある。ルールなき、定義なき、法的根拠なき検閲はその時・その場所・その人次第、その時の気分次第でいかようにも運用される。

検閲が恣意的に行われることの恐ろしさはすでに多くの人が経験している。バルテュスの絵を美術館から撤去せよという1万人の署名。もう二度と映画館で上映されないであろう風と共に去りぬ。これらのことを国家権力が行うのであれば許せないこととはいえ、まだ理解できる。だがこれらはすべて民間人が積極的に行ってきた検閲なのだ。

現代において検閲はもはや国家権力の仕事ではなくなっているのだ。

ポリコレ派をあえて好意的に見るなら、彼らはすごくまじめなんだと思う。だがそのまじめさは「無能な働き者」に近い。社会正義を本当に実現したいなら、創作物に対し検閲を仕掛けるよりも、現実に対し政治的アプローチを仕掛けるべき(投票行動、ボランティア、NGO、ロビー活動など)なのだ。


だが彼らはそういうことには熱心になれない。「コスト」がかかりすぎるから。だからコストの一切かからないポリコレ検閲に夢中になる。こんなに簡単に社会正義を行使した気になれることはないからである。

ポリコレの理想(これも恣意的に変えられるかもしれないが)あらゆる差別に対する反対、多様性の尊重などに反対する人は少ないだろう。では何が問題とされているのか、その「運用」が問題とされているのだ。

文化盗用なる珍妙な概念、バルテュスの絵画の追放、スティーブン・ピンカーですら政治的に正しくないという理由で学会からの除名運動が起きたり、映画やドラマにおける同性愛者やトランスジェンダーの役は同じ属性の人しか演じてはいけないなど、ポリコレの運用は支離滅裂になっている。

これこそが「民」が検閲を行うことの恐ろしさだ。ルールなき、定義なき、法的根拠なき検閲はその時・その場所・その人次第、気分次第でいかようにも運用される。検閲が恣意的に行われるとはまさにこのことなのである。

ここにいたって「自由論」を書いたジョン・スチュアート・ミルの慧眼が光る。ミルにとって自由の敵は「大衆」に他ならなかった。大衆が法的以外の手段を用いて正しいとされる考えを強制してくることこそミルは問題視したのだ。国家権力の圧力によって自由は死ぬのではなく、大衆の良識によって自由は死ぬのだ。

twitterでどう即氏がこんなことを書いていた。
>映画は「作り物と知りつつ、ソレにノる」事で楽しめる芸術と思う。最近のPC議論に感じる小さな違和感は、この「作り物と知りつつ」が抜けて(本物と思って)る人への違和感でもある。


>映画は「作り物と知りつつ、ソレにノる」事で楽しめる芸術。まさにそうなんだけど、
最近は映画を「正しい」イデオロギーとその描写を見るものと考える人が多くて危機感を覚える。

いつから映画は「正しさ」を要求されるような高級なものとなったのか。本来映画は人間のやましい感情や薄暗い欲望に光をあてるものではなかったか。

映画の起源がアメリカと日本共に犯罪映画であったことは決して偶然ではない(アメリカ映画最初の「劇映画」は1903年製作「大列車強盗」であり、日本映画最初の劇映画は1899年製作駒田好洋「ピストル強盗清水定吉」である)

映画やドラマに「正しさ」を啓蒙してもらいたい、あるいは啓蒙するものだと考えるのはまるで「社会主義リアリズム」の復活を思わせる。社会主義リアリズムとは芸術作品にマルクス主義的な考えに基づいた描写を必ず入れることを要求する芸術運動、批評の手法のことだ。

しかし社会主義リアリズムは芸術運動としての側面をあっという間に失い、社会主義リアリズムに即していない作品、社会主義リアリズムに反した作品に対する「検閲」としか機能しなくなる。

ポリコレも社会主義リアリズムと同じ運命をたどりつつあるのではないだろうか。
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2020年01月24日

コスモポリタンへの違和感

最近のカズ・ヒロ氏のインタビューやゴーン逃亡に対してのリベラルの賞賛に違和感があったが、それがグローバリストやコスモポリタンに対する違和感であることが言語化できたのでメモとして書き残しておく。

2020年米アカデミー賞でノミネートされたカズ・ヒロ氏のインタビュー

「ウィンストン・チャーチル〜」で受賞をした時にも、彼は、「日本を代表して」とか、「日本人として初の」というような言われ方をされるのが、あまり心地よくないと語っていた。

「日本人は、日本人ということにこだわりすぎて、個人のアイデンティティが確立していないと思うんですよ。だからなかなか進歩しない。そこから抜け出せない。一番大事なのは、個人としてどんな存在なのか、何をやっているのかということ。その理由もあって、日本国籍を捨てるのがいいかなと思ったんですよね。(自分が)やりたいことがあるなら、それをやる上で何かに拘束される理由はないんですよ。その意味でも、切り離すというか。そういう理由です」。

https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20200114-00158572/

それはコスモポリタン(国際人)への違和感でもある。

世界で最初に我こそはコスモポリタンであると宣言したのはディオゲネス(紀元前412年?ー 紀元前323年)だった。

中世にも「私の故郷はおよそ世界である」といった人がいた。ダンテ(1265-1321)である。

ディオゲネスやダンテがコスモポリタンを自称できたのは世俗世界の上位にある教養人の世界に属しえたからだ。ディオゲネスはギリシアの哲学世界、ダンテはイタリアの詩人世界に。土地や親族、共同体を無視し唾棄すべきものとして遠ざけることができたのは知識人階級に属し、才能に恵まれたからでもある。まさにグローバルエリート族だからこそコスモポリタンを名乗れたのである。

コスモポリタンとは土地や親族、共同体から離れて個人の才覚のみに頼って生きることが出来ると「思っている」スーパーエリートである。ブルクハルトが言った様に「コスモポリタニズムは個人主義の一つの最高段階である」(ーイタリア・ルネサンスの文化)。彼らが頼みとするのはおのれの才覚ひとつであり、それ以外は取るに足らないものにすぎない。

しかしだ、ダンテもディオゲネスも土地や家族、共同体や民族が長年つちかってきた文化資本を摂取して生まれ育ってきたことを忘却している。人間の生来の資質=才能は自分だけの「手柄」ではない。才能は生まれ育った土地や家族、共同体のリソースによって開花するものであって個人の手柄でも「功績」でもない。

ではグローバリストやコスモポリタンのように才能は完全に個人の資質であり「手柄」であると考えると人間はどうなるか?サンデルいわく「成功を自分の手柄と考えるようになると遅れをとった人々に責任を感じなくなる」(ーこれからの「正義」の話をしよう)。エマニュエル・トッドも「グローバル化で、エリートは自分の国の人々に対して責任を感じなくなった」。

生まれ育った土地や共同体に帰属意識を持たなくなり、したがってそこへの責任も持たない、いびつな個人主義が選民思想をともなったとき、コスモポリタンというフリーライダーが誕生するのである。
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2018年09月05日

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」を読む

現在世界中で跳梁跋扈するイデオロギー、リベラリズムとグローバリズム。この二つの巨大な潮流を80年以上前に徹底的に批判したのがカール・シュミット(1888-1985)である。

シュミットのもっとも有名な政治理論「友敵論」が書かれた著作「政治的なものの概念」の中で標的にされるのがリベラリズムとグローバリズムなのだ。

シュミットにおいての「友敵論」の友と敵とは、すべての政治的関係の基盤にあるものだ。味方と敵=友と敵という現実可能性を無視する政治理論はシュミットにとって意味のないものだ。

友と敵は「主権」をもった政治的団体間の関係のことである。シュミットにとっての「主権」とは、「戦争」という現実の闘争の「危急事態」に際し「決断」できるものだけを「主権者」と呼ぶ。戦争などの危急事態=例外事態に決断を下すことができるものだけが「主権者」であり「主権団体」なのだ。

こうした主権をもつものだけが「政治的単位」と呼ばれる。したがって多元主義的な政治理論における中間団体=宗教団体、労働組合、家族、スポーツクラブなどは政治的単位とは認められない。

政治的単位とはあくまで例外状況における決断のできる主権を持った団体だけが政治的単位であり、友敵区別はこの政治的単位にのみ限られる。たとえこの友敵区別に反対し、非政治的であろうとしたり、中立であろうとしても、非政治的であることや中立であることに正当性や優位性を見出しているのであり、その時点でみずから友敵区別を実行しているのである。

こうした友敵区別からは必然的に「国家多元論」が生じてくる。友敵という基本的な政治関係にとって諸国家群の存在は必須であるからだ。そしてこの考えに基づけば「世界国家」などあってはならないものなのだ。

友敵の「敵」とは

「政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとは限らず、敵と取引するのが有利だと思われることさえおそらくはありうる」(政治的なものの概念P15)


シュミットにおいて「敵」とは「悪」ではなく、交渉も取引もできる相手である。しかしリベラリズムとグローバリズムは基本的政治的単位である友敵を無化し、友敵の基盤である「国家多元論」を認めず「世界統一国家」=グローバリズムを推進する。

リベラリズムとグローバリズムというイデオロギーは敵を敵とはみなさなくなり、敵を「非合法」「非人間的」な怪物としてしかあつかわない。

敵ならざるものが非人間的、非合法的な怪物である以上もはやそれは法律(デュープロセス)や人権を剥奪された「透明な怪物」として処理されるだけの存在となる。

これこそがリベラリズムとグローバリズムの落とし子=「ポリティカル・コレクトネス」の誕生である。「ポリティカル・コレクトネス」に反するものは法律によって裁かれる前に社会的に抹殺される。抹殺するのに確かな証拠や裁判や警察すらも必要でなくなるのである。

リベラリズムとグローバリズムは国家や政治的なもの=友敵を解体し、すべてを法律以前の「道徳」と「経済」に従属させる。リベラリズムとグローバリズムによる「世界の非政治化」(=「非友敵化」)はこの世界を「道徳」と「経済」による完全支配へと結実する。

この「道徳」と「経済」によって完全支配された世界、リベラリズムとグローバリズムが完遂された世界においてもはや「敵」は存在しない。リベラリズムとグローバリズムに反するものは非合法化、非人間化され抹殺されるだけの透明な存在に過ぎなくなる。

1932年に書かれたとは思えない恐るべき予言の書といっていいだろう。とくにリベラリズムとグローバリズムが法律を超える「道徳」と「経済」にすべてを従属させようとすると喝破したのは背筋があわ立つ思いがする。

この恐るべき予言の書がナチスの法学者であったカール・シュミットの手によって書かれたのは皮肉としかいいようがない。
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2018年05月26日

批評における作者の復権。ノエル・キャロル「批評について」

批評における作者の復権。ノエル・キャロル「批評について」

ノエル・キャロル「批評について」を読む。キャロルが批判の対象にするのはテクスト論、エクリチュール論などに代表されるポストモダン批評である。(キャロルの言葉に直せば「受容理論」「読者反応批評」)

この本で批判される批評理論を「テクスト論」という言葉に統一する。テクスト論とは

作者という主体が作品を書き上げる以上、作品はあくまで作者からのメッセージを読者に伝達するものだという近代以降の「作者=作品」という考え方を批判し、書かれたもの=「テクスト」は作者主体とは一切関係がない独立したものとする。作者と作品との連関を切断するという考えである。作者と作品の連関を切断することにより、作品は作者からの一方的な伝達という役割を終え、テクストは無限の多様性を手に入れることができるのだ。これをロラン・バルトは「作者の死」といった。テクスト論の肝である。

このテクスト論の問題点は、ある作品に無限の解釈ができるとすれば「価値決定」ができなくなるということにある。つまりその作品の良し悪し、美醜はすべて観賞者の主観によって決まり、一般的基準は存在しない。基準が存在しないということは「批評」はこの世に存在せず、すべてはひとりひとりによる主観的「感想」にしかすぎなくなる。テクスト論にはこの「価値決定不能性」という難点がある。

キャロルはこの長年にわたり批評理論を支配してきたテクスト論にメスを入れる。

キャロルは言う。批評には一般的基準があり、基準がある以上、客観的批評は存在すると。

その基準で重要なのは「分類」=カテゴライズである。

批評対象となる作品がどんな様式運動や形式に属しているか。歴史的、社会的文脈をさぐれば、ほぼ確実にその作品がどの時代のどの作品群の文脈に属しているか分類できる。

そして適切なカテゴリーに分類することができれば同一作品群と「比較」することが可能になる。

「比較」できるということは良し悪しの判断「価値決定」ができるということでもある。「比較」こそ「批評」という「価値決定」の基準そのものなのだ。

そしてさらに重要なこと

「芸術家は自分の作品をそうしたカテゴリー、伝統、分類に結びついた目的を追求するものとして意図しているのだろう」(P103-104)


そうしたカテゴリーの目的を達成しようとする「作者の意図」その情報が当の作品の成功の度合いを測るために用いられる。

例えば「ミステリ小説」の場合。作者がミステリというカテゴリーに属する作品を書いた場合、作者の意図は「誰が?(フーダニット)」「どうやって?(ハウダニット)」「なぜ?(ホワイダニット)」などを読者の意表をつく形で表現できるかどうか。そうした作者の意図が達成されればそのミステリは成功といえるのだ。

テクスト論の核には「作者の意図など読者が理解することは絶対的に不可能」というものがある。

しかしキャロルは作者には読者(観賞者)に理解してもらいたいというコミュニケーションが基盤にあるという。

「作品のあらゆる要素は作家が最終産物の中にその要素の存在を容認したという意味で少なくとも意図的なものだ」(P202)


テクスト論では作者と作品は切断されているので、どのような解釈も自由だとされるが、芸術がコミュニケーションである以上「作者の意図」を無視して勝手に批評することは不当なものとなる。それが他者とのコミュニケーションであれば私たちは道徳的責任に縛られることになるのであり、作者や歴史的文脈を完全に無視した解釈は不当な行為となるのである。

ノエル・キャロル批評理論の簡単な要約

@作品を適切に分類する(特定ジャンルに位置づける)

A作品のおかれた文脈を理解する

B作者の意図がわかる

Cその意図の成功の度合いで作品の良し悪し(価値決定)が決まる

こうしたキャロルの批評理論には無数の反論が寄せられることだろう。例えば、ヨーロッパ中世の絵画や彫刻などは教会や貴族からの注文で、その権威を増すために作られたものである。となるとミケランジェロの作品は、つまり彼の意図は教会や貴族の権威を増すことにあり、その意図がどれだけ達成されたかで、ミケランジェロの作品の価値が決定されるとでもいうのだろうか。

また「ロリータ」などで知られるナボコフの文学理論をおおざっぱにいえば「文学が社会的、政治的メッセージであることを拒否すること。作品の本質は社会の中にはなく、作品自体の中にしかない」というものだ。ではナボコフ作品の成功と批評とは、どれだけナボコフの作品が社会的、政治的文脈とは関係ないものなのかを分析することにあるとでもいうのだろうか。

テクスト論に慣れ親しんだ世代にはキャロルの批評理論はあまりにも違和感の強いものかもしれない。なぜならそれは彼らポストモダン派が完全に否定したはずの「作者の復活」をもくろむものだからである。

しかし作品をカテゴライズし比較対照することはほとんどの批評家が賛成できることであろうし(例えばアガサ・クリスティーを純文学作品と比較することはカテゴリーミスとなる)、またカテゴライズするには広範な社会的、歴史的、制度的な文脈を知る必要があり、当然それを知ること=学ぶことが批評家に求められる。それは批評家に文化批評の責任とリスクが生じるということでもある。当たり前のことだが批評家は主観的感想家ではなく、あらゆる文化的歴史的社会的教養が必要とされるのである。

ただ注意してほしいのは、批評理論を学びたいというときにいきなりこの本からはじめるのはお勧めしない。キャロルの批評理論は「作者=作品」が自明のものだった近代の批評理論をひっくり返した「テクスト論」を標的にし、再度「作者の意図」を理論づけ復活させたという歴史的経緯を知ってはじめて理解できるものだからである。この本を読む前に作品における「価値決定」の問題をより深く思考した本をいくつかあげるので参考にしてほしい。

ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」
ウンベルト・エーコ「エーコの文学講義」
加藤典洋「テクストから遠く離れて」

これらの本を読めば批評という「価値決定」の深さと困難さがより理解できるようになるだろう。
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2015年05月18日

マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

何か書いてないと脳みそが腐ってくるので、「〜を読んでみた」シリーズをはじめてみる。最初は
マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。

戦争における道徳についてウォルツァーは二つにわけられるという。
ひとつは「戦うにあたって国家が有する理由としての道徳」=「戦争への正義」
もうひとつは「国家が用いる手段に関しての道徳」=「戦争における正義」である。

このふたつの戦争道徳は重大な対立を引き起こす。「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」である。

国家が戦う理由の正義はおもに侵略の理論がある。侵略は明白な戦争犯罪であり、それに対抗することは「正しい戦争」である。すなわち「戦争を正当化しうるのは侵略のみである」

だがウォルツァーはそれ以外の正しい戦争=正戦もあるという。そのひとつが「人道的介入」である。人道的介入は大量虐殺に手を染める政府や軍隊に対抗するためになら容認される。

さらに「復仇」という概念もある。「復仇」とはもし我々の村が攻撃されれば、そちらの村も攻撃されるだろうという警告としての戦争のことである。ウォルツァーはこの復仇理論によりイスラエルのパレスチナ攻撃を正当化するのである。

「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」で最も使われるのが「スライディング・スケール」論法である。それは「ある大義が有する正義の度合いが高ければ高いほど戦闘における権利が増加する」という考え方。

つまり正義の戦争であるという大義があれば、戦場においてどんな非道なこともしても許されるという考え方のことだ。この「スライディング・スケール」論法がアメリカで最も使用されるのは第二次大戦での日本への大量の民間人を殺傷する目的の空爆と、いうまでもなく広島長崎への原爆投下の正当化のためである。

スライディング・スケール論法によれば、早く戦争を終わらすことができれば、それだけアメリカ側も日本側も犠牲者の数が少なくてすむ。よって、戦争の早期解決のためになら大量の民間人殺傷を目的とする空爆や原爆投下も容認されうるというのだ。

しかしウォルツァーはスライディング・スケール論法をこう批判する。「もしある戦争によって(民間人を殺してはならないという)制約が破られれば、それは次の戦争において守られはしないだろう。短期的な利益が得られても、それは長期的な均衡の中では意味を持たない」

またウォルツァーは日本に対しては無条件降伏を求めるべきではなかったとし、1945年時点に日本との交渉の席につくべきであったという。そのときアメリカは勝利を手中におさめていたのであり、原爆投下すべき緊急性はみじんもなかったからだ。

戦争の目的を「無条件降伏」に設定すべきではないといったのは、軍事戦略家のリデル・ハートも同じだ。「無条件降伏」を目的に設定することは、より被害者を増大させることのみならず、戦場における残虐性をも呼び起こすのである。

ウォルツァーはこのように日本に対しては軍事的緊急性が低く、「例外的状況」にはなかったので、空爆や原爆投下による民間人殺傷は容認できないとするが、これがナチスになるとちがってくる。

なぜならナチスにおいては自由民主主義共同体の自由と独立が敗北に瀕していた「例外的状況」=「最高度緊急事態」だったからである。ナチスは単なる敗北を超えた災厄をもたらすものであり、このような例外的状況に対したときのみスライディング・スケールという功利計算を用いることができる。そのときウォルツァーが出す事例はチャーチルによるドイツ本土への空爆のことである。民間人殺傷が容認されうるのは「最高度緊急事態」のみであって、ナチスはその例外的状況にあたる。

民間人を殺傷してはならないという「戦争における正義」は自由と独立を破壊する災厄をもたらす敗北に直面したときだけ「戦争への正義」に道を譲るのである。

マイケル・ウォルツァーは自由と民主主義が敗北に陥る「最高度緊急事態」にだけ「功利計算」であるスライディングスケール論法を容認するが、これはリベラル・デモクラシーそのものがカール・シュミットの「友敵理論」を最大限補強することを意味している。

友敵理論とは、本来、政治的対立にすぎなかったものが、道徳的対立にすりかえられること。「友」は味方であり同胞である。それ以外は「敵」とみなされる。それも「敵」は政治的対抗者というよりも道徳的に劣った存在として規定される。それが道徳的対立である以上、敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となるのである。

リベラル・デモクラシーと対立するものは「絶対的な敵」=非人間的な怪物として、この世界から抹殺、根絶せしめなければならない。だとするならばリベラル・デモクラシーこそ、戦争に破壊性、残虐性をもたらす最大の要因ではないのか。

「人類の名をかかげ人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること。この高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえない。敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法、非人間と宣告」(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治」)するリベラル・デモクラシーは友敵理論を拡大化する。リベラル・デモクラシーは異質なものはどのような手段を持ってしても排除しなければ存立できない政体なのだとしたら、近代に入って民主主義や人権が啓蒙されるようになってからのほうが古代や中世より戦争の残虐性が高まった理由も理解できるのである。
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2015年02月01日

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性・ボナパルティズムとは何か?

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性ボナパルティズムとは何か?

1848年のフランス二月革命、6月事件、翌年の6月反乱の激動の時代。政治思想家であり、政治家であり、当時の外相でもあったアレクシス・ド・トクヴィルが自分の見たもの、経験したことだけを冷徹なまでに観察、分析する、面白すぎて鼻血ものの一冊。2014年度シンジのベスト1でもあります。

トクヴィルがこれを書いたのが1851年ごろなので、ものすごくHOTな経験を時間を置かずに即座に書いたことになります。にもかかわらず、その筆致は冷静で客観的。今読んでも恐ろしいほどに激動のフランスを捉えていてトクヴィルの異常なまでの観察眼と分析力にうならされます。

なぜここまでトクヴィルが冷徹なまでに人々を観察しえたのか。それは彼がなんとしてでもフランスの共和制を守ろうとしたがゆえに、敵と味方をすばやく的確に見分ける必要があったためでもあります。共和制を誰から守ろうとしたのか・・・それは社会主義者と大衆とナポレオン三世からです。

トクヴィルが共和制最大の敵と見定めたルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)を見つめる目も一筋縄ではいかない。トクヴィルはルイ・ボナパルトのカリスマを認めながら、その底に狂気があることをも喝破している。トクヴィルの観察眼は凡庸なものではなく、どんな人間に対しても二面性があることを見透かしているのだ。(実兄の妻にもその冷徹な分析力を向けるところなんて笑える。)

そのたぐいまれなる観察眼は人間だけでなく、社会にも向けられる。1848年のフランス、パリで何が起きたのか。二月革命は1830年のフランス7月革命によってすでに予感されていた。中産階級(ブルジョワジー)によってなされた7月革命が貴族階級(アリストクラシー)と結びついたことにより堕落し、第三の階級である労働者たちを怒らせたのだ。こうして二月革命によりルイ・フィリップは追い落とされフランスの王制は完全に幕を閉じるのである。

二月革命はそれ以前のフランスの革命とははっきり性格の違うものだった。それは貧しい労働者階級の貧富の格差に対する怒り。そしてその格差を生む「所有権」に対する攻撃が基盤となっていた。労働者たちは貧富の差をなくすには政府の首をすげ替えるだけでは不可能であり、社会全体の仕組みを変えなければならないと思うようになっていたのである。

トクヴィルは二月革命時、道で出会った労働者にこう言われる。
「内閣が倒れたことは知っていますとも、そうですとも。しかしそうした以上のことを私らは望んでいるのです」

トクヴィルの友人は自分の家の奉公人がこう話しているのを聞いたという。
「次の日曜日、若鶏の手羽を食べることになるのは俺たちだろう」
「そして絹のドレスを着るようになるのは私たちよ」

二月革命以前のフランスの革命はしょせん政府を交代させるための革命にしか過ぎなかったのに対し、二月革命ははっきりと「社会主義革命」の様相をおびていたのだ。

トクヴィルはこうした革命の性格の変化は産業革命が起こした必然的なものだという。産業革命によりパリはフランス第一の工業都市になり地方の貧しい農民たちが職を求めてどっと集まってくる。パリはきらびやかで快楽に満ち溢れているが貧しい労働者階級はそれを享受することもできず不満を蓄積させていく。そこにあらわれた社会主義という理論に人々は突破口を見出す。貧困はこの国を支配する理不尽な社会の仕組みによって成り立っている。したがってこの貧困をなくすためにはこの社会全体の仕組みを破壊しつくすしかない。

社会主義は二月革命の基本的性格として、また最も恐るべき思い出としてあり続けるだろうートクヴィル


民衆はいくら政府の首をすげ替えても、内閣を倒そうとも、貧困はなくならないことを悟り、これを変革するには社会の不変の法則と考えられていた「所有権」を廃止するしかないということを発見するのだ。

しかしこうしたパリの労働者階級の「所有権」に対する攻撃は逆に地方の人々を恐怖と怒りで立ち上がらせることになる。皮肉なことに労働者たちの所有権への攻撃が地方の人々の身分の差や貧富の差を超えた連帯を生み出してしまうのだ。

「私が(地元に帰って)目撃してもっとも驚いたことはパリに対する憎悪が全般的に拡がっていることであった」

労働者階級は「彼らの大胆な計画と乱暴な言葉で国民をこわがらせてしまい、その行動における優柔不断さをもって国民が彼らに抵抗する余地を与えてしまった」

こうして4月の総選挙では革命派は敗北し、共和派が勝利することになる。

「諸革命が人々を疲れさせたことや、その革命が約束ばかりを乱発したことが、政治に関してのあらゆる情熱を衰弱させてしまったという状況のなかで〜」

いわば政治的アパシー(無感動)のさなかに大衆の心をつかむものがあらわれる。ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)である。彼の登場によりトクヴィルは政治家としての目標をはっきりと見定めることになる。

「この目標というのは、共和制の崩壊を回避すること。とくにルイ・ナポレオンの血統の確かではない王朝の成立を防ぐことであった」


しかし民衆の革命疲れからくる政治的無感動状態のなかでトクヴィルの思うようにはことは運ばない。1849年の選挙ではトクヴィルの共和派は敗北し、保守派(王朝派)と左派だけが議席を伸ばす。両者ともに民主主義など屁とも思ってない連中である。この危機的状況の中トクヴィルは外相に就任する。誰もが短命内閣だと予想していたのでなり手がいなかったのだ。

内閣に入るとトクヴィルは本心では「敵」と見定めているルイ・ボナパルトに信用されるようにふるまい、主義主張の異なる王朝派ともパイプをつなげようとする。トクヴィルは共和制の敵=ナポレオンに近づき、法律を改正し大統領再選を認めてもいいと交渉しさえする。共和制を守るためなら悪魔とも手を握る覚悟なのだ。

トクヴィルはまた王朝派とも良好な関係を築くことにも腐心した。だがこれはトクヴィルにとってたやすいことだった。なぜならトクヴィルは貴族階級だったからである。トクヴィルはブルジョワジーが中心となる共和派だったが、最後までブルジョワジーになじむことができなかった。彼の思想とは相容れない王朝派といるときが一番気楽だったのだ。このトクヴィル自身の矛盾はエイゼンシュタインが「イワン雷帝」で描いたものと同じで興味深い。

トクヴィルはこうして敵であるナポレオン三世や王朝派と綱渡りをするような駆け引きによって必死に脆弱な内閣を運営していこうとするが・・・ナポレオン三世のクーデターによってもろくも崩れ去るのであった。

注目すべきはその政治的アパシーの間隙を縫ってルイ・ボナパルトが大衆の支持を勝ち取る過程である。混迷の時期には政治は左右の党派に極端に分かれる。そのために議会はなんの決断もできず改革も実行できない。度重なる革命騒ぎ、守られることのない約束手形の乱発に民衆はうんざりしてくる。そして民衆はなんの決断も改革も果断にできない共和制=議会制民主主義を見捨て、一気に決断し、果断に実行することのできる独裁的権力を渇望するようになるのである。

ルイ・ボナパルトはクーデター直前の演説で革命を痛烈に批判し、こう叫ぶ
「私は将来にわたる平穏を約束する!」
民衆からの大喝采を浴びるルイ・ボナパルトはクーデターの成功を確信しただろう。

日常と平穏=「所有・家族・宗教・秩序」という旧来の価値観が革命に取って代わり、全面的に称揚される。
「終わりのない恐怖より、いっそ恐怖で終わるほうがいい!」ーマルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

民衆はいつしかそう望むようになっていくのである。

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性ということでいうなら、よく人は小泉純一郎や安倍晋三をヒトラーになぞらえたりするが、それは歴史を知らないだけで、実際彼らとそっくりなのはルイ・ボナパルトである。

これは柄谷行人が「表象と反復」で書いているように、ボナパルティズムというのは「資本が国民経済を超えて拡張しなければならなくなる転換期に生じるのである」

つまり国内経済重視の保護主義vs市場開放主義の争いがルイ・ボナパルト期のフランスでも起きていて、この深刻な対立をまるで解消するかのようなイメージで現れたのがルイ・ナポレオンなのである。

「ルイ・ボナパルトは本質的には保護主義者であり、しかし実際的にはサン=シモン主義者(市場開放主義者)としてふるまった」

これどこかで聞いたことがないだろうか。保守主義者としてあらわれながら、実際にやっていることはグローバリゼーション推進という政治家が日本にも存在しなかっただろうか。

経済の低迷と政治の実行力のなさに無感動状態になった大衆の前に政治における決断主義と旧来の価値観の復活を約束するもの。すべての対立を解消するといって現れる者。

「それらの要求をすべて充たすかのようにふるまう政治家はボナパルティストであるといってよい」−柄谷行人
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2014年09月08日

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論

その1「自由意志と決定論」

その2「量子力学」

シュレーディンガーの猫のパラドックスのもうひとつの解決法がライプニッツの可能世界論だ。可能世界論では現実化した世界だけではなく、現実化しなかった無数の可能世界がモナドの中に存在する。箱の中の猫は50%生きていて50%死んでいるような状態で存在しているのではなく、猫が死んだ状態の世界と猫が生きている状態の世界とに分岐するのである。シュレーディンガーの猫のパラドックスはモナドの無数に存在する可能世界が実はすべて現実化しているのだと考えればよいのだ。

ヒュー・エヴェレット三世(多世界解釈を最初にとなえた物理学者)は猫が生きていると同時に死んでいるという状態がふたつの別個の宇宙でなら可能かもしれないと論じた。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


生きた猫が観測された世界と死んだ猫が観測された世界の二つに分岐するのである。世界は決してひとつではない。世界には無数の可能世界があり、そして量子力学の世界ではその無数の可能世界はすべて現実化する。量子論的には世界はどこまでもはてしなく分岐し続ける。そしてそのすべての分岐した可能世界は我々には見えないだけで我々と共存している。これが量子力学における「多世界論」である。

なんて奇怪な説だと思うかもしれない。しかしこの多世界論ならシュレーディンガーの猫のパラドックスだけではなく、タイムマシンのパラドックスまで一気に解決できるのである。タイムトラベルのパラドックスで有名なのは祖父殺しのパラドックスだろう。タイムマシンに乗って(ちなみに物理的な条件が厳しすぎるだけで理論上だけなら過去へのタイムトラベルは可能である。)過去にタイムトラベルし、子供のころの自分の祖父を殺したとしよう。・・・でははたして祖父を殺したわたしはいったい誰から生まれたのだろうか?これが祖父殺しのタイムパラドックス。

しかしこれも多世界論ならパラドックスにはならない。過去にタイムトラベルした時点で自分の元いた世界とはちがう並行世界に来た事になるからだ。自分の殺した祖父は自分の元いた世界の祖父ではなく、並行した別の世界の祖父であり、だから祖父を殺しても自分の存在にパラドックスは起きない。こうして多世界論は量子力学とタイムトラベルのパラドックスを一気に解決することができる。

それでもそんなことは信じられないという人が多いだろう。だが、

物理学者のプライス・デウィットは決定をおこなうたびに自分が複数の別個のコピーに「分裂する」とはどうしても感じられない、と述べた。ヒュー・エヴェレットの返事はガリレオと異端審問所のあいだの論争を踏まえたものだった。「あなたは地球が動いていると感じますか?」と彼はたずねた。彼が言いたかったのは、人が地球の動きを感じないのはなぜかをガリレオの慣性の法則の理論が説明しているのと同じだ、ということだった。デウィットは敗北を認めた。ーディヴィッド・ドイッチュ「世界の究極理論は存在するか」


人は地球が超高速(時速1700km)で動いているなどとは実感できない。しかしそれでも地球は超高速で回転している。それを人が感じないのは慣性の法則があるからだ。それと同じようにわたしたちは世界が決断ごとに分裂するなどとは感じられない。しかし人の感覚や実感よりもいつだって科学理論のほうが正しいのである。多世界論はたとえ奇怪だったり、不可思議に思えてもパラドックスを解決する以上存在するものとみなさなければならない。多世界理論はSFではない。現実なのである。

エヴァンゲリオンファンならばこの多世界論はすんなり受けとめてもらえるだろう。TV版、旧劇場版、新劇場版のストーリーの違いは、碇シンジやネルフの人々のもつ無数の可能世界が現実化した多世界=並行世界をそれぞれ映し出したものなのである。

しかしそうなるとシン・エヴァンゲリオン劇場版:‖もまた旧劇場版とは違う欝展開が待ち受けているのではないかと戦々恐々としているファンも多いと思う。だがしかし、これも多世界理論の面白いところで、それぞれ無数に枝分かれしていく可能世界は、それぞれ別個の世界として無関係に存在するのではなく、分岐した無数の多世界はそれぞれ量子干渉を起こしている。TV版の最終回のように学園ラブコメのようなエヴァ世界も並行世界には存在するし、人類が滅亡してひとつに解け合った並行世界も存在する。それぞれの世界はお互いに見ることも、触ることもできないが、並行世界同士はお互いに量子干渉を起こし、影響しあっているのだ。

そうした多世界間の干渉を利用するのが「量子コンピュータ」である。量子コンピュータの計算は並行世界にまたがる量子干渉を通じてなされる。そうすることによってスーパーコンピュータでも数千年かかるような計算でも数十秒でできるようになるといわれている。

この量子コンピュータの仕組みは何も計算だけに限られるわけではない。こうした多世界にまたがる量子干渉は人間の知識をも干渉しあう。旧約聖書の昔から人間の道徳律の基礎である「殺すな、盗むな、嘘をつくな」という命令や、17世紀ヨーロッパで生まれた「自然権」「人権」という概念もたまたま生まれたわけではない。無数にある多世界にまたがって人々の知識の干渉が起こり、その干渉の結果、この道徳律が多くの多世界間で採用されたと推測できるのだ。

こうした多世界間にまたがる量子干渉により無数に存在するエヴァの並行世界でも相互に干渉が起こり倫理的、美的、人間的価値に基づいた「より良い」選択と判断をした世界が無数の多世界で多数を占めることになる。多世界間で知識の多数決みたいなものが起きていて、より良い知識が勝利を収めるとその知識が多世界間にまたがり広まっていくのだ。そこでは誰も納得できないような理不尽な世界は多世界間の量子干渉により、現実度が低くなる。

・・・これは何を意味するのか。映画エヴァンゲリオンQのテーマが自由意志と決定論だったのはすでに「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」で書いた。エヴァQでは自由意志は決定論的世界の前にもろくも崩れ去る。庵野秀明はさらにシン・エヴァでも同じようなテーマを繰り返すだろうか?わたしはそれはないと予測する。多世界理論による量子干渉の理論が正しければ、次のシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖は決定論に対し自由意志が勝利する展開となるはずだ。そして多世界理論の量子干渉によりシン・エヴァは誰もが納得するような倫理的かつ美学的にもすぐれた価値をともなった大団円を迎えるに違いない。つまり・・・・

ハッピーエンドとなる可能性が高い!!!


ライプニッツ可能世界論の量子力学的解釈による多世界理論はこう「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖」を予測する。




・・・・と思ったら9月5日放映のTV版「エヴァンゲリオンQ」の最後に出てきたこれ

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「EVANGELION:3.0+1.0」!?いろいろ推測してみよう。
まずEVANGELIONのNの字が二重に重なっていることからもこれは多世界理論の並行世界のことを表しているのは間違いない。+1.0は・・・これエヴァQ=3.0、エヴァ序=1.0という意味ならループするという意味になるが、多世界理論と円環構造世界のループとは理論的に相容れないので、ちょっとそれは考えにくい。おそらくこれは、次回作はエヴァQの続きと一応の完結を示した後で、さらにあらたな並行世界の物語「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖1.0」が始まるのだとみる。そしてこれからはシンジやアスカやレイのいた世界とは違う並行世界の登場人物たちの物語「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖1.0」→「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖2.0」→「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖3.0」と続いていくのではないだろうか。

・・・いやらしい話、カラー(庵野秀明の会社)にとってエヴァンゲリオンはドル箱シリーズであり、会社の経営にとって絶対必要なコンテンツだ。ビジネス的な要請上、決して庵野はエヴァから離れられないのだ。だが、わたしとしては庵野にオリジナル長編アニメ作品を撮って欲しいと思っているので「シン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖」は他人に任せて、庵野自身はオリジナル作品を製作して欲しい。

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測はこれにて完結です。
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2014年09月07日

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量子力学について

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量子力学について
その1はこちら

量子の性質をディヴィッド・ドイッチュが懐中電灯の光を遠く離れたところから見るとどうなるかという例を出してわかりやすく書いているのでそれを引用する。

懐中電灯からほぼ1万キロメートルの距離のところでは、光は弱すぎて人間の目では検出できなくなり人間の観測者には何も見えないだろう。しかし、視覚のもっとするどい動物はどうだろうか?カエルの目は人間の目の数倍も鋭敏である。もし観測者がカエルだったとすれば、懐中電灯からさらに遠ざかりつづけても、電灯が見えなくなる瞬間は決してこない。しかしその代わりにカエルには電灯がまたたきはじめるのが見えてくる。またたきは不規則な間隔で現れ、遠ざかるにつれて間隔が長くなっていく、電灯から1億キロメートルの距離ではカエルは平均して1日に1回の割合でしかまたたきを見ないが、ひとつひとつのまたたきはどの距離から観測しても同じ明るさだ。−ディヴィッド・ドイッチュ「世界の究極理論は存在するか」


そのまたたきこそ、光が連続的なものではなく、ひとつひとつの粒でできているあかしだ。測定できるすべての物理的なものは光のように連続的に見えるようにみえて実は粒子でできている。ーそれを量子という。

そしてその量子の奇怪な性質をあらわしたのが量子の「二重スリット実験」である。言葉で説明するとよくわからないと思うので動画を見てほしい。



量子の「観測」によって収縮し、実体化するというこの奇怪な性質こそニールス・ボーアの量子のコペンハーゲン解釈である。

コペンハーゲン解釈
@いかなるエネルギーも量子という離散的な束を単位として生じる。
A物質は点状粒子であらわせるが、その粒子が見つかる確率は波として与えられる。そしてこの波は特定の波動方程式に従う。
B観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する。物体の状態を確定するには観測をする必要があり、それにより波動関数は「収縮」し、物体が明確な状態になる。観測という行為が波動関数を解体し、物体にはっきりとした実体をもたせるのである。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


コペンハーゲン解釈の量子は「観測」によって実体化するという考えを一笑に付したのが、量子論の発展に重要な役割を果たしながら、のちに疑問を呈するようになったシュレーディンガーである。彼の有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験は二重スリット実験によってあきらかになった量子の奇怪な性質を皮肉るために彼が考えた思考実験である。

一匹の猫が箱に閉じ込められているとする。箱の中には毒ガスの入ったビンがあり、ビンにはハンマーが取り付けられ、さらにそれがウランのかけらの近くに設置したガイガーカウンターにつながっている。ウラン原子の放射性崩壊が起こる確率は50%だとしよう。もし崩壊すればガイガーカウンターが反応し、それでハンマーが作動して毒ガスのビンを割り、猫は死ぬ。しかし箱を開けるまで猫の生死はわからない。ー「パラレルワールド」


量子のコペンハーゲン解釈が正しいのなら、箱の中の猫は人間が観測する前は実体化していないのだから、50%生きていて50%死んでいる状態のまま存在することになる。そんなことがありうるか!?というのがシュレーディンガーの言いたいことだ。

最後まで量子論を認めなかったアインシュタインもまたこんなことを言ってコペンハーゲン解釈を嘲笑している。
「月を見たまえ、どこかのネズミが見たときに、あれはいきなり現れるのかね?」

しかしシュレーディンガーの猫のパラドックスには解決策が二つある。ひとつはバークリ的解釈である。バークリは哲学史上では観念論を唱えたことで知られている。バークリの考えはこうだ。「物質は人間の外側には存在しない。物質は人間の心の中に存在する」。たとえば「痛み」を考えてみよう。針で指を刺すとする、その痛みは針という外の世界に存在するのだろうか。痛みは針の中にあるのではなく人間の内側にしか存在しない。それは熱さや冷たさも同じで人間が外側にあると思っているものすべては人間の内側にしかないものだ。

バークリ的解釈とは最初に世界があってその中にわたしがあるのではなく、わたしのなかに世界があるのである。わたしが「見る」から世界は存在するのだ。まさにバークリの考えは量子論に合致するのである。「わたしがいるから世界は存在する」こうした独我論的考えは当然、わたしが死ねばこの世界は消えてなくなってしまうという考えをもたらす。しかしバークリはそれを否定する。わたしが死んでもこの世界はなくならない。なぜならこの世界すべてを「見る」神が存在するからだ。シュレーディンガーの猫のパラドックスのバークリ的解決法とはわたしが見る前に「すべてを見ているなんらかの存在」がいることによって量子はすでに実体化しているとするものだ。

わたしが観測してはじめて量子が実体化するのであるならば、観測するわたしを観測するものがいなければわたしは実体化しない。さらにわたしを観測する誰かを観測するまた誰かが観測される必要があり、これが無限に続く・・・・。無限後退する議論は偽であると懐疑主義者であるセクストス・エンペイリコスは言っている。バークリ的解釈ではすべてを観測するものは神だそうだが、いまさら神を信じろといっても無理というもの。これでは量子のパラドックスは解けそうにない。

そしてもうひとつの解決法こそ本命のライプニッツの可能世界論によるシュレーディンガーの猫のパラドックス解釈である。

今回は量子論の説明だけでエヴァの話が出ませんでしたが、次回は出ます!
次回はライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論です。
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2014年09月06日

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その1

ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その1

以前、「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」というものを書いた。それはエヴァQのテーマが“自由意志はエヴァ世界に存在するか?”というものだったからだ。そしてエヴァQは自由意志に否定的な世界観を描き出した。ー「決定論的世界」である。

決定論的世界とはダニエル・デネットの定義によれば

どの瞬間にも物理的に可能な未来はたったひとつしかない。


というものだ。つまりわたしが今こんなことをしているのも、将来あんなことになるのも、あらかじめ決められているとする考え方。運命や宿命なるものがこの世界の隅から隅まで張りめぐらされているとする世界観のことだ。

わたしはそれを「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」では、キリスト教的決定論観によるものとして描き出した。だが、決定論的世界観と自由意志の対立はそれだけではない。決定論と自由意志とがもっとも激しく戦った時代、17世紀ヨーロッパの思想上の戦いをここに描き出したい。

17世紀ヨーロッパでは歴史上最大の決定論と自由意志の論争があった。そしてその論争はひとりの宮廷人を中心に交わされていた。その宮廷人とはライプニッツである。ハノーファー選帝侯に仕えていたライプニッツはそのあくなき知識欲と探究欲でヨーロッパ中の知識人とやりとりがあった。そのなかでもライプニッツ最大の敵といえる人物が二人存在した。

ひとりはオランダのレンズ職人にしてユダヤ社会から永久追放された異端者にして隠遁者であるスピノザである。ライプニッツはその思想上の最大の敵とも言えるスピノザにオランダまで直接会いに出かけて、議論を戦わせている。

そしてもうひとりの敵が万有引力を発見した古典物理学の祖であるニュートンである。ライプニッツとニュートンは微分積分法をどちらが先に発見したかで長年争っていたが、論争はそれだけではなかった。1715年から1716年ライプニッツは死の直前までニュートンの弟子であるクラークと手紙で激烈なやりとりをしている。この論争はニュートンの机からクラークがライプニッツにあてた手紙の草稿が発見されていることから、実質ニュートンとライプニッツのやりとりであるといっていい。

当時のヨーロッパ最高の頭脳三人が同時期に存在し、実際に議論を戦わせたのである。そしてこの三人の最大の争点となる対立こそ決定論vs自由意志にほかならない。

16世紀宗教改革吹き荒れる時代にカルヴァンがアウグスティヌスの決定論的世界観の焼き直しである予定説を唱える。つまり救われるものは生まれる前から神によって決められている。人間が努力して人生を変えようとしても変えられないし救われることもない、という自由意志完全否定の教説。こうしたキリスト教の決定論的世界観に対して非キリスト教の決定論的世界観を打ち出したのがスピノザである。

スピノザはキリスト教の神のようなこの世界の外側にいる(超越的という)存在が世界のものごとを決めているという考えを否定し、世界のものごとのすべてを決めているのは、人間や生物すべてに内在する自己保存欲求(コナトゥス)であるとする。自己保存欲求という原理が原因と結果の無限のつらなりによって埋め尽くされている世界。これがスピノザの決定論的世界である。

われわれの行動すべてはコナトゥスから発する因果関係が網の目状に広がった世界の一点であり、わたしがどのように考え、どのように行動するかも因果関係の網の目世界によってすでに決められている。ひとが自分には自由があると錯覚するのは、因果関係の網の目が広大すぎて主観では捉えられないからにすぎない。・・・ライプニッツはこうした決定論的スピノチズムと戦ったのだ。

ライプニッツもうひとりの敵ニュートンの決定論的世界観は古典物理学の基本仮説からくる。

ニュートンの古典物理学の基本仮説とは
@この宇宙には絶対的な時間と空間の枠組みが存在する。
Aすべての運動には原因がある。原因と結果という因果関係は絶対である。


このニュートンの古典物理学の考えから必然的に導き出される決定論こそ「ラプラスの魔」である。

任意の瞬間における自然界を動かす力をすべて知り、自然界を構成するあらゆる存在の相互位置を知っている知性体は、そのデータを分析に投じられるほどの力量を持った知性であるなら、宇宙で最大の物体ともっとも軽い原子の動きをひとつの式に集約してしまえるだろう。この知性体には不確定なものはない。そして過去とまったく同じく未来もその眼前に開けている。−ピエール・シモン・ラプラス


この古典物理学的超知性体「ラプラスの魔」はすべての物理的な因果関係の網の目を見通せることができる。ゆえに過去だけでなくすべての未来も一望できる。(このラプラスの魔という能力を人が持ってしまったらどうなるかを書いた小説がアダム・ファウアー「数学的にありえない」)

ライプニッツはカルヴィニズム、スピノザ、ニュートンという三者三様の決定論から自由意志を守るために戦ったといっていい。ライプニッツははたしてどのようにして自由意志を擁護したのか。ーそれは「モナド」によってである。

モナドとは日本語にすれば「個別的実体」とでもいうべきものである。つまりこの誰でもない「わたし」自身のこと。それも代わりのきかない、この宇宙でただひとつしかない「わたしそのもの」の本質のことである。宇宙にただひとつのわたくしの「魂」と言い換えてもいい。ライプニッツはこのモナドの特異な概念でもって決定論をくつがえそうとする。

モナドの特異性とは、モナドにはあらゆるすべての「可能性」が含まれているとする点にある。エヴァ世界の現実では碇シンジはエヴァに無理矢理乗せられて、使徒と戦い、サードインパクトを起こすきっかけとなり人類は滅びる。この歴史のストーリーライン@にいる碇シンジだけが現実化したシンジとされる。しかしライプニッツはモナドにはそれ以外のシンジの人生も無数に含まれているとするのだ。シンジの人生@はシンジのモナドに含まれる無数の可能性のうちのひとつがたまたま現実化しただけにすぎない。

だから碇シンジのモナドにはエヴァに乗らずに普通の中学生としてすごしたシンジの人生Aの可能性も存在し、エヴァに乗ったけど途中で戦死するシンジの人生Bの可能性も存在する。使徒を全部倒した後でも人類が滅亡しない人生Cの可能性さえも存在するのである。そうした現実化しなかった無数の「可能世界」もモナドには含まれている。ライプニッツはこの「可能世界」という考えによって決定論を反駁しようとした。「この世界はたったひとつしかない」という決定論的世界観を「この世界は無数にある」という可能世界論によってくつがえそうとしたのだ。

しかしライプニッツのモナドの可能世界論はほとんど誰にも理解されることはなかった。あまりにも奇抜で論証不可能の世迷いごとと思われたのである。だが、ライプニッツの死後200年がたった頃、ニュートンの古典物理学をくつがえす奇怪な物理学が産声を上げる。「量子力学」である。

次回は量子力学の解説から。
ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量子力学について
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2013年11月13日

イエスは神か人か・ミシェル・セルヴェ「三位一体論の誤謬」について

イエスは神か人か・ミシェル・セルヴェ「三位一体論の誤謬」について

「三位一体論の誤謬」の著者のミシェル・セルヴェ(1511-1553)は宗教改革期の神学者、医者でカルヴァンの天敵ともいえる人物。カルヴァンがジュネーヴで宗教的独裁政治を行っている時にカルヴァンの独裁制を倒そうとジュネーヴ入りしたが、捕らえられ生きながら火刑にされた。ジュネーヴにはセルヴェに対する贖罪の石碑とミシェル・セルヴェ通りが存在する。

セルヴェが批判する三位一体論とは父(神)と子(イエス)と聖霊(神の力)という三つの位格は同一本性であるというキリスト教の考え方。なんでこんな変な考えが生まれたかというとすべてはイエスの存在をどう考えるかという宗教上の綱引きによるもの。

イエスの存在における綱引きとは「神性」と「人性」の綱引きのことである。イエスの「神性」を高めると、つまりイエスは完全に神ですよ〜ということになると困ったことになる。イエスの秤が「神性」に傾くと、神(イエス)が私たち人間によって苦しめられ、殺されたことになってしまう。そうなると必然的に贖い(あがない)の意味もなくなってしまう。神(イエス)は人間に殺された(そもそも人に神が殺せるのか?)、だから神は人間の罪をあがなうことにした・・・どう考えても論理的におかしいのである。

では逆にイエスの秤を「人性」に傾けてみよう。つまりイエスは完全に人間ですよ〜ということになると、イエスは神とかかわりのない普通の人間ということになり、普通の人がどうして人類すべての罪をあがなえることができるのかということになってしまう。またイエスも人間なんだからイエス自身もあがないが必要になってしまうことになる。

つまりイエスが神になっても、人になっても厄介なことになるのだ。そこでこの難問を一気に解決するために生み出されたのが「三位一体論」というわけ。神とイエスと聖霊は一つの本性に三つの位格を持つ。イエスは神でもあり、人でもある。(これをマルティン・ブーバーは神に人格を持たせるための哲学的こころみと言っている。)

セルヴェはこの三位一体論を批判する。セルヴェはイエスの神性を否定し、イエスは神の被造物であるという立場に立つ。ということはセルヴェはイエスを人間として規定することになるが、セルヴェはイエスが人間であることも認めない。イエスは我々人間と神とを和解させるために神に使わされたものとする。つまりイエスは神とは別個の存在。神と人間とをつなげる中間存在として規定されるのだ。

セルヴェはこの著書が原因で処刑されたようなものだが、イエスは神と人との中間存在であるという主張は実はセルヴェのオリジナルではなく、西暦300年ごろのアレクサンドリアの司祭アリウスの主張と同じものである。このアリウス論、父なる神が唯一の存在であってイエスは神の被造物であるという主張は論理的に考えればそれほどおかしな主張というわけでもなく、しごくまっとうな意見である。三位一体論自体がイエスに神性を付与しようとしたあまり無理やりこじつけ感満載のアクロバティックな論なのだ。

セルヴェの主張はアリウス論の焼き直しであり、神の存在を否定しているわけではなく、あくまでキリスト教ゲームの枠内に収まるものでしかない。セルヴェの中では超越的な唯一神が存在していたのであり、無神論ではないからだ。ただイエスの神性と人性の綱引きにおいて人性を強く引いただけにすぎない。

このキリスト教ゲームのルール自体をひっくり返す人物があらわれるまで、人類はセルヴェの処刑からあと100年ほど待たなければならない。超越的な神など存在しないと主張するオランダのユダヤ人を。
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