2016年04月13日

秀吉の経済政策はまっとうです「落日の豊臣政権」に書いていないこと

秀吉の経済政策はまっとうです「落日の豊臣政権」に書いていないこと

河内将芳著「落日の豊臣政権・秀吉の憂鬱 不穏な京都」の意図はタイトルにもあるように、秀吉の政策がいかにひどくて、人心の離反を招いたか、にあるわけだが、そこで指摘されている秀吉の失敗したとされる経済政策を見てみると・・・あれ?秀吉の経済政策全部まともじゃね?という感想が浮かび上がってくるのは私だけでしょうか。

ここで批判的に書かれる秀吉の経済政策は三つ。「公共事業」、「金くばり」、「ならかし」である。

「公共事業」についてはいうまでもないが、秀吉の「普請好き」は有名だ。京都に聚楽第を建設すると、当然その周りに大名や奉公人たちの屋敷や家々が建築され、彼らにともなって人と経済の大移動が始まり、京都は一大都市へと発展していく。

聚楽第建築以前の京都は人口8千人程度の小さな町にすぎなかったが、聚楽第以後はその10倍以上の大都市になっていくのである。

こうした公共事業による経済成長により、当時の人々に何が起こるか。かって北条氏政に仕えたこともある随筆家三浦浄心はこう書いている。

浄心が若い頃は金など見ることはなく、わずかな金五枚、三枚をもっているものでさえ長者、有徳者とよばれていたものだが、今は民百姓でさえ金を五両、拾両、富豪にいたっては五百両、六百両ももっている。(P21)


すさまじいまでの経済成長と貨幣経済の浸透が見られるようになるのである。

次の秀吉の「金くばり」政策とは、その名のとおり、大名や公家や奉公人に見返りなしで金銀をくばる=配布するだけの政策である。

京都聚楽にて、関白殿より金銀諸大名衆へくださる、近江中納言(豊臣秀次)御屋形の御門前より東へ二町ほどにおいて三通りにならぶ、金銀台に積む、諸大名衆三百人ばかり、赤衣装束にて御使いの役者なり、希代の見物、古今あるべからざることなり、耳目をおどろかすー蓮成院記録天正十七年五月二十七日(p24)


これはミルトン・フリードマンのいう「ヘリコプターマネー」である。

作者はこれを不均衡な経済政策というが、この金くばりを大名や公家ではなく、民衆にたいして行うと、確実にインフレーションが起きる。よって大名や公家にばらまいて、大名や公家の経済活動=消費などによって下々へと経済活動が伝播していくようにしたほうが、インフレは最小限に抑えられる。上流階級にだけばらまくのは理にかなっているのである。

そして秀吉の経済政策で最大の愚策とされる「ならかし」。ならかしとは「奈良貸し」つまり秀吉(秀長)が奈良の商人に高利で金を貸しつけ、その利息をはぎとる政策のこと。この政策により奈良の商人たちは苦しみ、利息を払えなかったものは夜逃げしたり、自宅を売ったりするほどで、耐えられずに秀吉に直訴にまでおよんだという。

なるほど、文面を読んでるだけなら、ひどい政策だと私も思ったことだろう。でもいままでこの本を読んできて、多少は経済学を齧ったことのある人ならこの「ならかし」がどんな意図を持って行われたのか気づいた人もたくさんいるのではないか。

秀吉の経済政策「公共事業」と「金くばり」により、いまだかってないほどのすさまじい経済成長と貨幣経済の浸透に到達した社会。そこではみんなが豊かになるだけではなく、

今は民百姓でさえ金を五両、拾両、富豪にいたっては五百両、六百両ももっている。ー三浦浄心


つまり民百姓と富豪とのあいだに経済格差が生じてきている。この経済格差を解消するにはどうすればよいか?商人たちが溜め込んでいる金銀を市場に吐き出させる必要があるのである。

秀吉(秀長)の愚策と思われた「ならかし」はあきらかに、商人たちの溜め込んだ金銀を吐き出させるための政策に他ならない。秀長によって高利で貸し付けられた金を返すためには、商人たちはこの借りた金を投資するなり、民に貸し付けたりして市場に放出せざるえなくなる。こうして商人たちが溜め込んだ金銀は市場に循環していくのである。

「民間、特に企業部門の構造的な貯蓄過剰が政府を赤字財政に向かわせて債務が膨らんでいる」(日本経済新聞電子版2016年1月12日付け)


いうまでもなく金銀、貨幣は使用されてはじめてその価値が生じるものだ。経済を理解してない人は金銀や貨幣自体を「財産」だと思っているが、金銀や貨幣はそれを保持しているだけ、溜め込んでいるだけでは、何の価値もないゴミクズ同然のものにすぎない。それもゴミクズだけならまだしも、使われずに溜め込まれただけの金銀貨幣は経済活動を阻害し、社会の損失ともなるのである。使われて=市場に出回り循環することではじめて経済活動が始まり、社会は豊かになっていくのである。

羽柴秀長の「ならかし」はそうした金銀貨幣の真の価値を理解した、斬新な「格差是正」政策に他ならない。

こうして秀吉の経済政策「公共事業」、「金くばり」、「ならかし」を見てきたが、どれも理にかなった経済政策でこれをもって秀吉の経済政策は失敗したとするのはどうにも違和感がある。

私が考えるすぐれた「為政者」の条件は、「民」の「安全」を守り、「民」の「財産」を守ること。究極的にはこの二つだろう。

秀吉は日本全土に「平和」(惣無事)をもたらし、日本の歴史上かってないほどの経済成長を成し遂げた。率直に言って秀吉は為政者として見事に仕事をしてのけたといえる。

ではなぜ秀吉はこうまで悪し様に罵られるようになったのか。秀吉政権下では秀次切腹事件のあと、大きな被害のあった文禄大地震(1596年)が起きている。この「落日の豊臣政権」によれば、当時は「天災」、自然災害は為政者の政=まつりごとが悪いから起きるのだという考えが一般的だったのだという。当時の民衆はこの自然災害を秀吉のまつりごとと結びつけて考えるようになる。

つまり秀吉は急激な経済成長による民衆のとまどいや自然災害は為政者のせいという迷信により、求心力を失っていったということになる。別に秀吉をかばうわけではないが、あんまりではないか。

秀吉の経済政策については歴史家ではなく、経済学者による正しい評価を待ちたい。
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2016年02月10日

2015年めっちゃ面白かった本ベスト10

2015年度ベストBOOKを発表します。ベスト10とありますが、11冊面白かった本を紹介します。

11位エマニュエル・トッド「移民の運命」
欧州を代表する知性としてピケティと並んで日本のメディアに取り上げられることも多いエマニュエル・トッドが世界中の家族形態を調査して、移民を受け入れる体制が、国ごとの家族形態によって異なることを論証する。それはおおまかに「普遍主義」と「差異主義」の二つに分けられる。この場合ものすごく大ざっぱに説明すると普遍主義とは「人間はみな同じようなもので大した違いはない」という考え。差異主義は「人間は生まれや育ち、環境によってまったく違うものとして存在する」という考え方のこと。トッドは左翼にして愛国者であることを隠しもせず、フランスの形態である「普遍主義」こそがもっとも移民を受け入れる体制としてふさわしいと豪語するのである。普遍主義とはこの場合「同化主義」を意味する。「差異主義」の国々では「多文化主義」という美名の下に各民族ごとの「隔離政策」が行われているに過ぎないというのだ(差異主義の代表的な国はドイツ、日本、アメリカ)。その証拠にフランスでは人種混交率が他の国より高い。こうした人種混交=同化主義こそが移民問題を解決する鍵となるというのだが、もはやトッドが自慢するようなフランスの同化政策は揺らいでいるのが現実だ。欧州で最も極右が台頭し、移民に対する風当たりが強い国、移民たちにもフランスは移民したくない国筆頭として挙げられるようになってしまっている。トッドの斬新な研究が、容赦ない現実によって無残にも洗い流されようとしているのを読んで味わうのもまた一興というわけで、あえてベスト10圏外の11位からはじめてみた。

10位ビートきよし「相方」
ツービート、ビートたけしファンにとっては、意外な浅草時代の真実が明かされている。一般的なイメージとして才気あふれるたけしによって凡庸なきよしが引き上げられツービートが結成されたというものがあるが、実際は浅草にいた頃のたけしはとにかくやる気ゼロ、酒を飲んでは客前に出て暴言を吐くような、自暴自棄なダメ人間だったのだ。そうしたやる気のないダメ人間のたけしを才能はないが野心とやる気だけはあるきよしが説得し、強引に漫才に引き込み、やる気を出させ、救いあげたというのだ。また長年の相方だけあって、たけしに対する観察眼も並々ならぬものがある。とくにたけしが自分がステップアップするために誰の力を利用したらよいかの嗅覚が並外れていたと喝破するところなど、あのきよし師匠に非凡ささえ感じてしまう。・・・まぁゴーストライターが書いてるんだろうけど。

9位ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」
なんか最近読む外国のミステリーに過去の陰惨な事件をたどっていく形式のものが多い。アイスランドのミステリ作家インドリダソンの全作品をはじめ北欧のミステリ、ジャック・カーリィの髑髏の檻などなど。ハリー・クバート事件も30年前の事件が現代によみがえる形式になっている。そしてひとりの女を多面的に描くのはルメートルの「その女アレックス」でもあり黒澤の「羅生門」のようでもある。この作品の非凡さは羅生門からシラノ・ド・ベルジュラックへと変転していく万華鏡的展開にある。ちなみにこの作品アマゾンのレビューでは評価が低いが、めっちゃ面白いんで無視してください。本にしろ、映画にしろ、食べ物にしろ他人の評価は当てにしちゃならんです。2011年映画秘宝でワースト1だった作品に「スーパー8」なる作品がありますが、これは私大好きな作品ですし、食べログで評価の高いラーメン店に行くと、がっかりすることがたびたびあります。他人の評価を当てにしていると本当に素晴らしいものを見逃すことになります。

8位森本あんり「反知性主義・アメリカが生んだ「熱病」の正体」
日本では反知性主義とは(自民党などを支持する)知的レベルの低い大衆を批判する言葉として近年知識人を中心に頻繁に使われているが、反知性主義という運動や言葉が生まれたアメリカではまったく違う意味であるという。むしろ反知性主義はキリスト教エリートたちに対する大衆側からの反発や批判を意味していた。反知性主義とは反エリート主義、反権威主義という積極的で肯定的な意味合いを持つものなのだ。これを読んじゃうともう安易に反知性主義というレッテルを他人に貼ることができなくなってしまう。残念だったね内田樹先生。

7位ブレイク・クラウチ「パインズ」「ウエイワード」「ラストタウン」ウエイワード・パインズ三部作
1作目のアイデア一発勝負ものがまさか3部作も続けることができるなんて。しかも3作とも面白い!なんも考えずにジェットコースターに身を任せる感じで読み進めていけばよい。面白くて時間を忘れて夢中になってしまう。難しいことなんて何一つない。ミステリも、SFも、モンスターパニックもなんでもござれの、これがTHE娯楽である。

6位フェルディナント・フォン・シーラッハ「禁忌」
前半部分は文学的香気が充溢してて「これは傑作やな〜」と思っていたんですが、後半の裁判部分、真相に差し掛かると「おい!なんやこの茶番!」となる非常に読者を混乱させてくれる作品です。この作品はある人にとってはベスト作でもあるでしょうし、別の人にとってはワースト作にもなる。でもこうやって読者を混乱させることがシーラッハの目的であるならば、私はまんまとその罠に引っかかったといえるわけでこの順位にしました。

5位米澤穂信「王とサーカス」
これは禁忌とは逆で、前半は退屈なミステリで「なんや平凡なミステリやな」と。米澤先生の好調もここで途切れるかなと思っていたんですが、終盤になってきて「うわ〜そうきたか〜米澤やべ〜!」となりましたよね。ミステリは本筋を隠すためのものにすぎなくて、本当に伝えたいメッセージがラストにドカン!と提示されるのにびっくり。ニュースを消費するメディアや私たち読者にも襲い掛かってくる真の犯人の恐ろしさ。米澤穂信絶好調。

4位ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」
これに関しては長文を書いていますので、そちらを参照していただければ。「その女アレックス」にもびっくりしたけど、ミステリ好きにはこっちのほうがショックが大きいかもしれない。
ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

3位イアン・マキューアン「初夜」
マキューアンのなにがすごいって文章がすごい。翻訳者の村松潔氏もすごいんでしょうけど、この心のひだの裏の奥のほうまで表現する文章力。ゾッとするけど美しい。華麗なんだけど吐き気を催す筆致にクラクラする。特にこの初夜はマキューアン節が炸裂してる大傑作で、SEXがテーマなんだけど、そのSEX描写のおぞましさたるや・・・もう一生童貞でかまいません的なギブアップせざるえない強烈な描写。おぞましいまでのSEXに対する嫌悪が克明に描かれるのである。すんごい、ホントすんごい。

2位ジョン・ウィリアムズ「ストーナー」
外国文学ではこれがダントツの1位です。ナボコフは「小説に「実人生」を探すという致命的な誤りを犯さぬように最善の努力をしたいものだ。」というようなことを書いている。その意図は、文学がなんらかのイデオロギーや社会的メッセージの奴隷であることへの拒絶にあります。ナボコフにとって作品の本質は社会の中にはなく、作品の中にしかないのです。
「文学は狼が来たと叫びながら、少年が走ってきたが、その後ろには狼なんかいなかったというその日に生まれたのである」ー「ナボコフの文学講義」

ナボコフの言いたいこともわかります。しかし、私は文学の中に実人生を、自分自身を見つけたいのです。私は作品に感情移入し、共感し、没入できることを無上の喜びとする凡庸な読者です。文学に高度な読み、ハイコンテクストを読解することを求める作品は、私には関係ない作品でしかない。そしてこのストーナーは恐ろしいまでの感情移入と没入感をもたらすがゆえに私にとって最も大切な作品となったのです。もちろんここに描かれる主人公は私とはまったく関わりのない、住んでいる世界も、考えも何から何まで違う世界の住人にすぎません。しかもこの作品で描かれることはどこにでもある苦悩であり、ありふれた悲しみでしかありません。主人公ストーナーは苦悩や悲しみ、災難に雄雄しく立ち向かうわけでもなく、ただじっと静かに受け止めるだけです。みずからにふりかかる災難や不幸に対し、なすすべもなく立ちすくむしかないストーナーは誰でもない私たちそのものだ。人生の苦悩や困難がなにかのきっかけでいっぺんに解決することはほとんどなく、その苦しみや困難と渋々ながらもつきあっていくしかない。まさに平凡極まりないわたしたちの姿が描かれている。しかし同じ平凡な人間を描くフローベールの視点が冷徹な観察から来るものだったのに対し、ウィリアムズは、「確かに平凡で愚かな人間の人生は苦しみに満ちている・・・しかしそれでも美しい」。という平凡さから「美」を取り出すことに成功しているのだ。これほどの作品にはめったにお目にかかれない。極上の読書体験。

1位ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」
2015年度もっとも知的興奮を覚えたウルトラ大傑作とはこの本のことだ。ローマ帝国のはずれで起こった小さなカルト宗教が、あまたの宗教を駆逐し、ローマ帝国全体を支配するようになったのはなぜか?それを著者は数量的、社会科学的アプローチでこれまでにない説得力をもって論証していくのである。圧巻というほかない。この作品の面白さはそこだけではない。この本にはカルト宗教、新興宗教の運営者ばかりでなく、アイドル運営者にとってもヒントとなるような具体的なことが書かれているのだ。はっきりいって新興宗教指導者はみんなこの本を読んだほうがよい。信者獲得、アイドル運営にとってはファン獲得の重大なヒントがつまっている。こういう学術書が実社会で応用できてしまうのは大変面白く危険である。

シンジの2015年ベストBOOK
1位ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」
2位ジョン・ウィリアムズ「ストーナー」
3位イアン・マキューアン「初夜」
4位ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」
5位米澤穂信「王とサーカス」
6位フェルディナント・フォン・シーラッハ「禁忌」
7位ブレイク・クラウチ「パインズ」「ウエイワード」「ラストタウン」ウエイワード三部作
8位森本あんり「反知性主義アメリカが生んだ「熱病」の正体」
9位ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」
10位ビートきよし「相方」
11位エマニュエル・トッド「移民の運命」
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2015年12月11日

ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。

いきなりネタバレから入るので注意。







ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」は一部と二部に分かれていて、一部は犯人の書いた小説である。つまり犯人は自分の書いた小説と同じように実際の犯行を重ねていくのである。虚構を現実が後追いしていくというのがこの作品の大きな仕掛けである。

犯人の犯行はすべて現実に存在する小説に描かれた犯罪の忠実な模倣である。

犯人はジェイムズ・エルロイの「ブラック・ダリア」の犯行を模倣し
ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ」の殺人を模倣し
マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの「刑事マルティン・ベック ロセアンナ」の犯罪を模倣し
ウィリアム・マッキルヴァニー「夜を深く葬れ」の事件を模倣する。

犯人は実際に存在する小説を「引用」しながら殺人を実行していくのだ。

作家とは、引用文から引用符を取り除き、加工する者のことである。−ロラン・バルト(悲しみのイレーヌ序文より引用)


他の小説を引用して作られた犯罪小説と、その犯罪小説を引用して実行される現実の犯罪の「入れ子構造」。「悲しみのイレーヌ」のこの入れ子構造はいったい何を意図しているのか。

すべては「読者をこの入れ子構造に巻き込む」ためにであるーそしてその犯人は「作者」に他ならない。

作者は「作品」を創造するだけでなく、「読者」をも創造している。作者はストーリーやプロットを駆使して読者の感情や思い込みを巧みに誘導する。そうした作者のコントロールによって創造された読者のことをここでは「想定読者」と呼ぶ。

「想定読者」は作者の想定したとおりの反応を見せてくれる「いいお客さん」であり、あくまで作品の外側=安全圏にいる存在だ。

しかしルメートルが「悲しみのイレーヌ」に施した「入れ子構造」は想定読者を無理やりこの構造の中に巻き込み、取り込んでしまうことを意図している。想定読者は安全圏にいて「作品」をながめて楽しむお客さんから、小説内へと取り込まれ作品の「当事者」にされてしまうのだ。読者は「想定読者」から「共犯読者」へと変貌させられるのだ。

ルメートルが引用する小説の犯罪はどれも残虐なものである。そしてそれらの作品は一部の好事家だけが評価している知る人ぞ知る作品ではなくて、エルロイ「ブラック・ダリア」もB・E・エリス「アメリカン・サイコ」も大ベストセラーである。つまり大衆が支持した有名作品なのだ。

ベストセラーというものはその時代の大衆の欲望を反映したものであることが多い。残虐な描写、むごたらしい殺人も大衆が望んだもの、人々の欲望が反映したものなのだ。

ルメートルは「悲しみのイレーヌ」の中でこう書いている。

ミステリがこれほどもてはやされるのは、人々が無意識のうちに死を求めているからです。そして謎を。誰もが死のイメージを追い求めるのは、イメージが欲しいからではなく、イメージしか手に入らないからです。血に飢えた人々のために政府が用意する戦争や虐殺を除くと、ほかになにがあるでしょう?そう、死のイメージです。それしかありません。だから人々は死のイメージを求めます。そして、その渇きを癒すことができるのは芸術家だけです。作家は死を夢見る人々のために死を描き、悲劇を求める人々のために悲劇を書いています。人類は芸術という形で現実を変貌させることによって、自分たちの欲望を正当化しようとしている・・・(「悲しみのイレーヌ」p349)


作家とは大衆の暗い欲望を満たすために存在しているのであるならば、大衆の欲望を満たしてきたベストセラー小説内の犯罪を引用して書いた小説を実際に実行することは、わたしたち大衆の暗い欲望を実現化することではないか。

わたしたち大衆は自分たちの暗くて陰惨などす黒い欲望を剥き出しにすることはほとんどない。誰もが持つ後ろ暗い欲望を世間につまびらかに明かすことになれば、わたしたちの見かけ上は平和で穏やかな生活が破綻することは確実だからだ。

だが小説は(小説に限らず、あらゆる表現形態。映像、演劇、ゲームにいたるまで)わたしたちの暗く邪な欲望を肯定し、実現してくれる。

「悲しみのイレーヌ」の犯人は(この場合犯人は作者であるルメートルだが)読者にこう言っているように感じられる。
「私はあなたたちが心のうちに秘めてきた欲望を実現してあげただけですよ」

本国フランスでもルメートル作品は「残虐すぎる」と批判されているという。だが「悲しみのイレーヌ」で描かれる残虐性はすべて大衆の支持を長年受け続けた作品(エルロイ、エリス、シューヴァル&ヴァールー)からの引用である。ルメートルは残虐であるという非難にこう言いたい事だろう。

「私は読者に感謝されこそすれ、非難されるいわれはない」と。
「私はあなた方読者の欲望を忠実に再現したにすぎない」と。

ここにいたって悲しみのイレーヌを読んでいた私たちはこの作品の残虐性がわたしたち読者の暗い欲望を直接反映したものにすぎない、合わせ鏡を見ていたにすぎないと悟るのである。

この小説でむごたらしく殺された女性たち。悲しみのイレーヌで引用された小説内で殺された被害者たちはすべてわたしたち読者が望んで殺したものなのである。

こうしてルメートルは読者を作品の外側にいて、安全な場所で作品を眺めて楽しんでいる立場から、作品内の犯行はすべて読者の欲望を反映したにすぎないとする「共犯読者」、「加害読者」を創造するのである。真の犯人はわたしたち「読者」なのだ。
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2015年01月02日

2014年に読んだ本のベスト12

あけましておめでとうございます。2014年に読んだ本のベストを選びました。ベスト10ではなくベスト12になります。

12位大崎善生「赦す人」

作家団鬼六の生涯を「聖の青春」の大崎善生が描き出す。鬼六の放蕩三昧、欲望むき出しの人生に影響を与えた数々の出来事。まずは父親からの影響。父がことあるごとに口ずさんでいた室町時代の閑吟集「何せうぞ くすんで 一期の夢よ ただ狂え」(この世はどうせ夢なんだからひたすら遊べ)が強く印象に残っていた鬼六。ある日鬼六の経営していた酒場に松竹のスター高橋貞二が来る。高橋は鬼六に遊びに行こうと誘ったが、鬼六は用事があったためにそれを断る。そして高橋は車に乗って出て行ったその直後に交通事故を起こして死亡するのだ。この衝撃から鬼六は教訓を得る。人生なんて一寸先は闇、ならばただ遊べ、ただ狂え。自己の欲望を決して抑圧することなく全開にして生きるのだ。そして鬼六に多大な影響を与えたもう一人の人物、真剣師「小池重明」。平然と人を裏切り続け、金と女のために身を持ち崩しながらも、アマチュア最強の棋士やプロの棋士たちを次から次へ滅多斬りしていく怪物。鬼六は彼らに影響を受け、自分の欲望に忠実に生きることによって激しい人生の浮き沈みを経験することになる。放蕩三昧の人生を送ってきた鬼六も晩年は病におかされ愚痴もでる。「不公平や、もっともっと遊びたかった」。あれだけ狂ったように遊び呆けてきた人が、まだまだ遊び足りないというのである。なんという人間の業の深さよ。

11位アラン・ロブ=グリエ「消しゴム」

あの映画「去年マリエンバートで」の人なので、ハイコンテクスト読解的なやっかいな小説なんかな〜と思っていたらさにあらず。変種の探偵ものとして面白くグイグイ読み進めることができた。死体の存在しない殺人事件を真犯人らしき刑事があてどなく捜査するという不条理コメディが展開されていくのだ。ベケットやカフカをミステリ化したといえばいいか。ロラン・バルトが絶賛したとか、エクリチュールだとか一切考えることなく楽しめる。

10位ハイデッガー「芸術作品の根源」

はい、読んだ人みんな頭が痛くなるドイツのおじさんですよ。哲学のだめな部分が全面的に展開されているように見えるハイデッガー哲学。「学問」というものの定義を「検証可能であるかどうか」であるとするならば、ハイデッガー哲学は学問ではない。ハイデッガーのやってることは検証不可能であり、学問というより一種の「詩」みたいなものだ。だが、この「芸術作品の根源」ではハイデッガーの詩的さがゴッホの「靴」を評する上で最大級の力を発揮しているのである。ゴッホの「靴」を評するハイデッガーの言葉はいままで見たことも、読んだことも、経験したことすらない輝くような豊穣さに満ち溢れている。その言葉の魔力は衝撃的。「存在と時間」を挫折した人でもゴッホの「靴」評だけは読んでほしい。

9位フローベール「感情教育」

フランス二月革命期(1848年〜)当時のフランスの恋愛事情では、結婚と恋愛とはまったく別物であった。「結婚」とはあくまで地位や財産目当てのものであり、恋愛の入る余地はない。真の「恋愛」とは結婚が介在する余地のない「既婚者」とするべきものなのである。だから主人公フレデリック・モローの恋愛対象はすべて人妻。結婚など野暮な男がするものでしかないのだ。そしてモローの恋愛模様に否応なくフランス二月革命という現実が影響を与える。激情に身をまかす「恋愛」と「革命」。理性の抑制が働く「結婚」と「保守」。モローとフランスはこの二つの間を行き来するのだ。モローの恋愛はいつしか財産目当ての打算的なものへと変化し、フランス二月革命の情熱はいつしか安定と平穏の保守反動に飲み込まれていく。モローの情熱から打算への変節は、革命の情熱から保守反動への道(ナポレオン三世誕生)をたどった二月革命以降のフランス社会の動きとぴったり連動するのである。恋愛小説の傑作であり、革命期のフランス人の変節を見事に活写した歴史小説でもある。

8位デニス・ルヘイン「夜に生きる」

「運命の日」の続編だけど、読んでなくてもOK。今作はどストレートなエンターテイメント。ギャングの成り上がりもので、近年のルヘイン作で最も娯楽色が強い。私はルヘインではこれが一番好きです。この作品には魅力的な必殺のパターンがあって、バイオレンス一歩手前のネゴシエーション場面がすばらしいのだ。敵を制する前に@綿密な下準備→A敵とのタフネゴシエーション→B一対一のブラフ合戦→C交渉で敵をノックアウト!という一連のパターンのやりとりが「夜を生きる」の面白さの大半を占めている。またルヘインの格言めいたセリフや文章の切れ味もするどい。たとえば
「犯罪は割に合わない。制度的なレベルでやらないかぎり」
「第一に自分はギャングではなく無法者だ。第二にすばらしい家(ハウス)はあるが、すばらしい居場所(ホーム)はない」
「中庸は人々に考えることを要求する。みんなそれで頭が痛くなる。人々が好きなのは両極端であって細やかな心配りではない」
名言、格言のオンパレード。読みながらいちいちメモしてしまう。

7位フリードリヒ・デュレンマット「失脚/巫女の死」

全体主義、社会主義を描いた作品として、G・オーウェルの諸作品に匹敵する傑作「失脚」。こんな台詞がある。
「苦しむことがあっても飢えることがあっても、迫害されたり拷問されたりしても、自分は平気だった。むしろ誇らしいくらいだった。なぜなら自分は貧しい者たち、搾取されている者たちの味方になる術を心得ていたのだから。正しい側にいることはすばらしい気分だった。けれども勝利を収めた今、党が権力を掌握した今、急に自分は正しい側にはついていないことになってしまった。急に自分は権力者の側につくことになってしまったのだ。」
弱者憑依という最大の武器を使って権力を奪取したものは必然的に正しさを失う。正しさを失った支配者が次に求めるものは何か。それは「威信」である。
G・オーウェルは独裁者は「威信」に支配されるという。「威信」を追求するとき独裁者は自分のふるまいを支配できないというのだ。デニス・ルヘインは「夜に生きる」でこう書く。
「刑務所内で最も凶暴な男たちがもっとも怯えていた。彼らは臆病者と見なされることに怯えていた」
威信を追及するとき、人は「威信」に支配される。威信を失った彼らの力はあっけなく霧散するがゆえに、支配者は必死になって「威信」にすがりつき、結果的に「威信」に支配される。彼らに自由はないのである。
「故障−まだ可能な物語」不条理劇の傑作。すべての短編がすこぶる面白い。おすすめ。

6位コニー・ウィリス「混沌ホテル」

わが最愛の作家コニー・ウィリス傑作短編集。彼女の作品の中でも二大傑作短編といっていい「インサイダー疑惑」と「まれびとこぞりて」の度を越した面白さに狂喜乱舞。両作とも度肝を抜くようなアイデアとユーモア炸裂で楽しませてくれます。インチキ霊能者を追及する主人公がインチキチャネラーの嘘を暴こうとするが、そのチャネラーに乗り移ったのがオカルトやニセ科学を糾弾する実在の人物H.L.メンケンだったことから事態は紛糾する。インチキを見破ろうとする主人公はインチキチャネラーにのりうつったインチキを徹底的に糾弾したH.L.メンケンに葛藤するのだ。アイデアが天才的で巧みな文章で笑わせてくれるのだから言うことなし。楽しい!

5位 アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム「三秒間の死角」

スウェーデン製大脱獄サスペンス。とにかく刑務所内のディテールが圧巻。刑務所内のありとあらゆる細部が事細かに描写されていて凄まじい。なんでこんなにくわしく描けるんだと思ったら、作者の一人が元受刑者だった。上巻は丁寧に複線を張り巡らし、リアリティあふれる細部の描写を積み重ねていって、下巻で驚天動地の大ハッタリをかますという、物語で大嘘をかますときの正しい手法を用いていて爽快。大嘘、はったりをかますときは小さな事実を積み重ねろという詐欺師のいろはを教えられた気分。

4位フィリップ・K・ディック「ユービック」

フィリップ・K・ディックの作品ではこれがダントツで面白い。SF初心者だけど、SFには文学にはない面白さがあるとだんだん掴めてきた。文学は気づかなかったことをふと教えてくれるような、感情を拡張してくれるようなところがあるんだけど、SFは今まで考えもつかなかったこと、思考を拡張してくれるようなところがある。1992年の現代から、1939年の過去へ「物」だけが古くなっていく。人間が過去にタイムスリップするのではない。「物」だけがどんどん過去へと戻っていくのである。油圧式エレベータはいつしか手動式エレベータとなり、最新の自動車は、クラシックカーへと変貌する。いったい何がどうなっているのか。奇想天外なアイデアひとつでこんなにも面白い物語が誕生する。思考が、世界が拡張されていく。

3位コニー・ウィリス「犬は勘定に入れません―あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」

はい、また愛するコニーおばさんですよ。オックスフォード史学科タイムトラベルシリーズ中の最高傑作にして、コニー・ウィリス作品中でもトップクラスの面白さを誇る。コニー・ウィリスは何から読めばいいですかと問われればためらうことなく「航路」(2013年4位)とこの「犬は勘定に入れません」をあげる。よほどの読書家でも本を読んでいて声を上げて笑ったり、吹き出したりという経験はあまりないだろう。だが「犬は〜」では大げさに書いているのではなく、実際に読み進める5ページごとに吹き出したり、笑いをこらえられない場面が頻出する。そう「犬は〜」は私が読んだ本のなかでも屈指にして史上最高のコメディ小説なのである。もちろんウィリスならではの複雑な伏線をちりばめそれを回収していくプロットの巧みさ、一寸先の展開さえも読ませないストーリーも至高。これほど読んでいて幸福感を得られる小説はないと断言する。・・・なんか書いているうちにもう一回読みたくなってきた。

2位イアン・マキューアン「贖罪」

この文学的たくらみに満ちた小説には驚きを隠せない。精緻な文章表現と波乱のストーリー展開で純文学としてだけではなくエンターテイメントとしても一級。上巻では少女の妄想と誤解により無実の罪に貶められていく男の悲喜劇をこれ以上ない精緻さで描き、下巻では凄絶な戦争描写と波乱万丈の展開にワクワクドキドキしっぱなし。これだけでもこの作品は極上のエンターテイメントとして成功しただろう。・・・だが、これらのことすべてはマキューアンの「罠」にしかすぎなかった・・・。マキューアンはおもわず頭の中が真っ白になるような文学的トリックを仕掛けることによってすべてをちゃぶ台返しし、読者をあ然呆然とさせるのだ。これは文学手法的には「信用できない語り手」とよばれるもの。自分の妄想によって生まれた罪をさらに妄想で塗りつぶそうというこころみ。作品内作者のブライオニーはそれを「弱さやごまかしではなく、最後の善行であり、忘却と絶望への抵抗」(下巻p306)というが、読者はそうは見ない。ブライオニーの行為は卑劣極まりない自己欺瞞にしかすぎないと読者(わたし)には見える。だがこうした「作品内作者」の卑劣な自己欺瞞を、「作品外作者」のマキューアンがさらに塗りつぶしていくのである。ブライオニーの「妄想」はマキューアンによって崇高なる「創作」へと塗り替えられ、ブライオニーの欺瞞的な創作は、マキューアンによって創作=「忘却と絶望への抵抗」へと変わる。作品内テーマを作品外の作者であるマキューアンが強引なまでに塗り替えていくのである。これほど高度な文学的たくらみに満ちた小説は空前絶後であるといえる。私が書いたことの意味がわからないとか関係ない、読め!

1位アレクシス・ド・トクヴィル「フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録」

2014年のベスト1はトクヴィル!これに関してはかなり長文になるので後日書きます。現代の日本や世界の状況と似通いすぎていて今後の歴史的な見通しにも参考になるんじゃないかな。

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性を書きました。

2014年ベストBOOKでしたが、これ以外にももっと面白い作品はいっぱいありました。ミシェル・ウエルベックの「地図と領土」とか、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」、ジョージ・オーウェル「パリ・ロンドン放浪記」、ライプニッツも面白かった。でもどれも書き始めると長文になるのでベスト12で勘弁してくれ。

1位アレクシス・ド・トクヴィル「フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録」
2位イアン・マキューアン「贖罪」
3位コニー・ウィリス「犬は勘定に入れません―あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」
4位フィリップ・K・ディック「ユービック」
5位 アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム「三秒間の死角」
6位コニー・ウィリス「混沌ホテル」
7位フリードリヒ・デュレンマット「失脚/巫女の死」
8位デニス・ルヘイン「夜に生きる」
9位フローベール「感情教育」
10位ハイデッガー「芸術作品の根源」
11位アラン・ロブ=グリエ「消しゴム」
12位大崎善生「赦す人」
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2014年01月09日

シンジの2013年小説ベスト10

2014年明けましておめでとうございます。

早速2013年小説ベスト10を発表します。(新作旧作混合です)小説以外ベスト10もやるかも。

10位「第四解剖室」スティーヴン・キング
キングの短編集はどれも傑作ぞろいで、どれから読んでもいいけど、これは純文学系キングの面白さを堪能できます。「ジャック・ハミルトンの死」、「愛するものはぜんぶさらいとられる」の素晴らしさはカポーティやサリンジャーの最良の短編にも匹敵する。twitterでこんな感想を書いた。

「第四解剖室」で一番の傑作は「ジャック・ハミルトンの死」だ。実在のギャングであるジョン・ディリンジャーの逃亡劇。ディリンジャーの子分ハミルトンは逃亡中銃で撃たれ致命傷を負うが、なかなか死なずに逃亡を続ける。この緊張感とユーモアの絶妙な味わいが素晴らしい。
いわばハミルトンの死が延々遅延されるわけだ。最近読んだポーの「メエルシュトレエムに呑まれて」も死が遅延される話だったけど、死が遅延されるというのはどういう状況かというと此岸にいながら彼岸に脚をかけている状況のこと。
これはいわば生きながら死を体験しているような独特の状況なわけで。ウィトゲンシュタインは論考で「死は人生の出来事ではない。人は死を経験しない」といっている。
人間は本来死を経験できないものだ。だが文学は現実的には絶対あり得ないものを現出させてしまう。それがポーやキング作品で描かれる「死の遅延化」だ。死が延々と引き延ばされていくと此岸や彼岸そのどちらでもない中空に宙づりにされる。その宙づり感がたまらなく好きなのだ。

9位「オール・クリア2」コニー・ウィリス
オックスフォード大学史学科のタイムトラベルシリーズ。本当は「ブラック・アウト」「オール・クリア1・2」の三分冊だが、とにかく冗長すぎる。プロットが遅々として進まないので、ブラックアウトとオールクリア1は圏外に。でも我慢して読み進めた分このオール・クリア2で衝撃と感動が大爆発する。長いのを我慢した甲斐があった(苦笑)

8位「ゴーン・ガール」ギリアン・フリン
上巻は夫婦の悲しいすれ違いを丹念に描き、無神経な夫がいかに妻を追い詰めていったかが描かれる。読者は読み進めるうちに、もしかして行方不明の妻は夫が殺したんじゃないかと疑い始める。ところが下巻になるとこれが180度ひっくり返るのである。この読者を翻弄し、完璧にコントロールする作者こそゴーン・ガールその人である。ゴーン・ガール詳しい書評はこちら

7位「99%の誘拐」岡嶋二人
1988年に書かれたコンピュータ犯罪ものなんて今読んだら古臭くて読んでいられないと思うだろう。だがこの作品はそうした読者の傲慢な思い込みを軽く一蹴する。「99%の誘拐」の驚くべきところはまったく古びていないどころか、この斬新きわまりない誘拐方法を越える誘拐ものがいまだ出てきていないということだ。半永久的に古びないこのアイデアに100万点。

6位「緑の影、白い鯨」レイ・ブラッドベリ
ブラッドベリが映画「白鯨」の脚本を書くためアイルランドに住むジョン・ヒューストンの元へ行き、1年もの間アイルランドで暮らす。傍若無人の怪物ヒューストンに翻弄され、泣かされるブラッドベリ。ほとんどマンガみたいなアイルランドの人々とのつきあい。いったいどこまでが現実で、どこまでが虚構なのか、その境界の曖昧さがこの作品を特異で美しい作品にしている。ヒューストンの毒舌があまりにひどいのでいつも涙をポロポロこぼすブラッドベリ(ブラッドリ萌えがこの作品の重要点)にヒューストンの人たらしが炸裂する場面。ヒューストンは泣くブラッドベリの肩をそっとやさしく抱き寄せ、「きみは、私がきみに惚れこんでる半分も私に惚れていない!」いや〜ヒューストンずるい。

5位「夜がはじまるとき」スティーヴン・キング
キングの短編集で特に好きなのはこれですかね。「N」はクトゥルー神話もので、キングなんてたいして怖くないとほざいてる人はこれを読めと。人間には絶対理解不能なものを描く時のキングの筆致のすごさに脱帽するしかない。この文章力はしびれる。そして日常にある恐怖を描いた大傑作「どんづまりの窮地」工事現場によくある簡易トイレに閉じ込められた男のうんちまみれの脱出劇。絵づらは滑稽だけど、簡易トイレに閉じ込められることをこれほど恐ろしく描ける人が世界にどれだけいるというのか!?キング天才だよ。

4位「航路」コニー・ウィリス
まずコニー・ウィリスはこれを最初に読んでくれといいたい。これを読んだら完全にコニー・ウィリス中毒になり禁断症状が出て次から次へと読みたくなること必定。ニア・デス・イクスピアリアンス(N・D・E、臨死体験)を人工的に作り出せる新薬が開発され、その実験台になるうちに主人公は妙なことに気づく。いつも体験するN・D・Eの場所に見覚えがあるのだ。一体その場所とはどこなのか?予想のはるか斜め上をいく超展開にびっくりする。しかも超展開なだけではなく、神経科学的にも説得力のあるストーリーにもなっている。とにかく読みすすめるたびにびっくりしっぱなしで、一気読みかつ徹夜必至のジェットコースター本。すごいよこれ。

3位「草の竪琴」カポーティ
カポーティの少年時代を投影した作品はどれも傑作だけど、これが一番だと思う。とにかくカポーティの描くおばあちゃん、おじいちゃんの魅力ったらないね。またこのばあちゃん、じいちゃんが心に染み入るような名言連発するから、ついつい本に線を引いてしまう。幻想のように美しい子供時代へ限りない愛情をこめた惜別の物語。

2位「聖餐城」皆川博子
私の皆川博子愛は「開かせていただき光栄です」とこの「聖餐城」で決定的となった。17世紀のヨーロッパ宗教戦争をサヴァイヴするユダヤ商人と傭兵の物語。国家を運営するユダヤ人と戦場を駆け巡る傭兵の二つの視点から30年戦争の実相を描く。実在した歴史上の人物も数多く登場し、宗教戦争の実態や、当時の国際社会の仕組み、非情な戦場の実態、さらにオカルティズムまで盛り込んだウンベルト・エーコ越えの大傑作。あと皆川博子を読んでいて強く感じるのは、人間に対する信頼と愛だ。どんなに残酷な物語であろうと、その根底には人間への信頼があるから読んでいてすがすがしい。

1位「11/22/63」スティーヴン・キング
タイムトラベルをしてケネディ大統領の暗殺をくいとめるというアイデアは面白いけど、とりたてて独創的なアイデアというわけではない。しかしキングが仕掛けたアイデアはそれだけではなかった。2011年主人公がいる世界に空いたタイムトラベルの穴は1958年の同日同場所にしか通じていない。何度でも出入り可能で、過去に戻って歴史を変えてから現在に戻るとちゃんと歴史は改変されているが、また穴に入って過去に戻るとすべてがリセットされ、また1958年からやり直しになるのだ。このアイデアはこの物語を構築する最高最大のアイデアとなった。つまり穴に入ったらケネディ暗殺の1963年までず〜っと過去のアメリカですごさなければならないのだ。5年もの長い月日を凡庸な作家なら適当にショートカットするだろうが、残念、キングは天才だった。主人公が過ごす1958年から1963年のアメリカの日常を一切ショートカットせずに、たっぷり丁寧に描くのである。アメリカの社会状況、風俗、そしてITの舞台であるデリーも!(しかも1958年だからちょうどITと戦うあの子供たちに会えるのだ!)当時のアメリカをノスタルジーたっぷりに描くことはもちろん、アメリカの醜い面もきっちりと描く。キューバ危機による核の脅威に恐れおののくアメリカ国民が“アカ”に対する憎悪をつのらせる姿を見て「9.11直後の日々とあまりにも似ていた」(下巻p107)と書くキング。だがやはり作品中の白眉はジョーディの町での美しく輝くような栄光の日々だろう。主人公が高校教師となり生徒たちに教え教えられる日々の充実。おそらくキングがもっとも力をいれて書いたであろうチャリティショーの素晴らしさ。そして生涯をかけ愛する運命の人を見つけた喜び。そして主人公は決意する「もう二度と帰らない」と。主人公は過去のアメリカに骨をうずめる決心をするのだ。この場面に心震わせぬものはいないだろう。だが、主人公のそんな幸せな日々とは関係なく、刻一刻とケネディ暗殺のその日が近づいてくる。主人公のスリリングで輝くような人生が描かれるとともに、はたして本当にケネディ暗殺はオズワルドの単独犯だったのか?という探偵小説的な興趣も加わり、クライマックスに向かって怒涛の展開を見せる。とにかくあらゆるジャンル(純文、ミステリ、SF、歴史もの)を横断する2013年を代表する超絶大傑作。ルートビアを飲みながらどうぞ(飲んだことないけどサロンパスみたいな味だそうです笑)。本当に私としてはめずらしいけど、読んでいてページ数が少なくなるたびにさびしくなっていった。もっとずっとこの世界にいたい、この物語に終わってほしくないと切実に願った小説はひさしぶりだ。
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2013年12月28日

ボヴァリー夫人を読むと死にたくなる

ボヴァリー夫人を読むと死にたくなる

蓮實重彦氏のボヴァリー夫人論が話題になってるので、あわててフロベール「ボヴァリー夫人」を読む。(フロベール読むのはじめて。恥ずかしい)

正直ガチに動揺するほど衝撃を受けたので、動揺したままの気持ちでボヴァリー夫人について書く。

物語の構造がちょっと変わっていて、エンマの夫になるシャルルの小学生時代の授業風景からはじまり、しばらくはシャルルの人生が淡々と描かれる。そしてシャルルがエンマと出会い、結婚し、エンマがシャルルの家に越してきたところではじめてエンマの視点になるのだ。

結婚してすぐに二人の断絶があらわになる。シャルルはエンマを妻に迎え満ち足りた幸福感を味わっているが、エンマは

自分が彼に幸福を味あわせていることまでがくやしく思えるのだった。−「ボヴァリー夫人」中央公論社・山田ジャク(森鴎外の孫)訳P45


エンマにとって一度手に入れたものはどうでもいいものでしかない。あこがれの尼僧院に入ってみたもののすぐに失望し、ようやく実家から離れられると結婚してみたもののこれも即座に幻滅する。エンマは常にここではない、どこかに幸福があると思っているのだ。

「ここ」にあるものはすべて退屈であり、凡庸であり、平々凡々たる日常である。

明日はまた今日に似た毎日が、数限りなく、何物ももたらさずに、ずるずると続いていくのか!(P67)


こうしたエンマの焦燥を静めてくれるのが「恋愛」である。恋愛しかないといっていい。当時の女性にとって恋愛以外で自己実現するなどということは不可能だった。結局女性は誰それの妻「何々夫人」と呼ばれるしかないのである。

ボヴァリーの奥さん・・・・・これは世間の通り名です!しかもあなたのお名前じゃない。ほかの人の名です!(P162)


恋愛だけがエンマを「ここ」ではない、幸福の待つ「どこかへ」連れて行ってくれるものなのだ。最初に書記官のレオン青年に恋したとき、その恋が実らぬとわかった時のエンマはどうしたか?

「わたしは操(みさお)正しい女なのだ」と心ひそかにつぶやきつつ、悲壮なあきらめのポーズを作って鏡に自分の姿をうつす(P112)


鏡の前で演じることによって自分は多大な犠牲を払って恋をあきらめたのだと自分で自分をなぐさめるのである。こうしたエンマの演劇的な身振りやふるまいは後半にも出てくる。ルーアンで舞台を観劇するエンマは俳優を見ているうちに狂気に近い空想に身をゆだねる。

わたしをさらってちょうだい。連れて逃げてちょうだい。さあ行きましょう!私の燃える思いも、遠いあこがれもみんなあなたにささげます。みんなあなたのものです!(P238)


幸福は今、ここではない劇的な状況の中にだけある。退屈で平凡な、今ここにいる私は本来の私ではない。劇的な状況に身をさらす前の私、本当の舞台に立つ前の私でしかない。

「今ここ」の日常は、私がいるべき本当の舞台ではないというエンマの思考。エンマは「今ここではない、どこか」のために恋愛に執着するが、

いつしかその恋は、ちょうど川の水が河床に吸い込まれるように、彼女の足もとまで減ってしまい、ついにはエンマの目にも底の泥が見えてきた。(P177−8)


もはや恋愛だけが「今ここ」ではないどこかへ通じる唯一の切符がゆえに、エンマは底の泥が見えてきたことを認めようとしない。むしろますます恋愛に執着するようになって

過大な幸福を期待するあまりに、かえって幸福を元も子もなくしていった。(P306)


エンマはこうして退屈で平凡な日常に立つ私と本来あるべき劇的な舞台のような人生に立つべき私との乖離(かいり)を埋めるために

奢侈のもたらす感覚の快楽と心情の歓喜とを混同し、習俗の優美さと感情の細やかさとを混同していた。(P63)


エンマは恋の底の泥が見えているにもかかわらずそれを認めようとはせず、恋愛の興奮を奢侈の興奮で補おうとする。そして金貸しのルールーに骨までしゃぶられて、身を持ち崩していくのだ。そして金の切れ目は縁の切れ目とばかりに男たちはエンマから離れていく。

「ここではない、どこかへ」行くために必要だったお金も底を尽きた以上、エンマの行く先は「あの世」しかない。エンマはどこまでも「今ここ」にとどまることができぬ女なのだ。

ヒ素をあおり、苦しむエンマの死が長引くさまは恐ろしいにもほどがある。死をここまで無残に描くことの意味。フツーの小説であれば、毒をあおった女はすぐさまその場で死んで「fin」となるところなのに。苦しみもだえ死ぬ様子から、死後遺体の口から黒い液体がこぼれるところまで克明に描くのである。その徹底ぶり、執拗さに教訓的な意味合いを嗅ぎ取る人もいるだろうが(つまり女性が不倫するとこうなっちゃうよというような)、フロベールの描写力はそのような教訓的なものをはるかに超えている。

エンマが亡くなった後、シャルルは抜け殻のようになって息を引き取る。一人娘ベルトは親戚の家に引き取られ、きっと今ここではないどこかを夢見ることもないまま貧しさのうちに死んでいくのだろう。そして金貸しのルールーはますます繁盛し、薬屋のオメー氏がレジオン・ドヌール勲章をもらったところで物語は終わる。ボヴァリー家がどんな悲惨な生涯を送ったかなどまるで関係なく人々の人生は続いていくのである。

しかし私はこれを悲劇だとは思わなかった。むしろフロベールが凡庸な一人の女の生涯をとりあげ、それを描ききっていることになぜかおおいになぐさめられたのだ。

エンマは刺激的で、しびれるような衝動や興奮に身をまかせることが、本当の生、本当の人生の舞台であると信じている。興奮やめくるめくような感動が絶え間なく自分に降りそそいでくることが本来の生であると。だが、現実の生は興奮と感動の舞台上にはなく、ジリジリするような焦燥と倦怠の中にしかない。そしてフロベールはそうした途切れることのない焦燥と倦怠の日常を文学的に昇華するのである。

つまりエンマが本来の生だとして恋焦がれたものは、芸術の題材にはなりえず、エンマが嫌いぬき、そこから抜け出そうとした退屈な日常こそをフロベールは芸術上の重要な題材とするのだ。平凡な人生が芸術的に昇華されることの逆転感がここにはある。エンマと私たちの住まう平凡で退屈な生にしか真に描くべきことはなにもないのだ。

わたしたちのような平凡に生き、平凡に死ぬ多くの人間にとって、エンマの平凡な生涯が文学の題材になるということは福音にも近い。そのことを強く感じたもう一つのフロベールの作品に「素朴な女」がある。

「素朴な女」の主人公はこれ以上ないといってもいいくらいの平凡な女中であるフェリシテである。女中フェリシテの人生には劇的なものなど何もなく、めぼしい恋愛も、家族もなく、波乱の事件も何一つとしてない。ただひたすら平凡に女中として働き、そしてひっそりと死んでいくフェリシテ。一人の女の人生をなんの飾り立てもすることなく淡々と描くフロベール。

これを無情だとか、リアリズムだとかは思わない。むしろ、こんな何もない人生を描くことが文学になるんだ!という驚きと喜びである。私のつまらない人生もフロベールならきっと小説にできるはず(原稿用紙5枚程度にしかならないかもだが)。つまらない男のつまらない人生だって文学になるかもしれない。平凡な人生が芸術的に昇華されることの逆転感、そのことが私にとってなぐさめとなる。

それでも私の中でエンマに似た叫びがやむことはない。「もっと豊かな人生を送れるはずだった!もっとましな人生を送るはずだったのに!」という叫びが。

いまここではないどこかにある幸福を求める焦燥は死ぬまでやむことはない。エンマ・ボヴァリーは私の中にいる。だからボヴァリー夫人を読むと死にたくなるのだ。
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2013年10月13日

選ばれてある人「カラマーゾフの妹」評

選ばれてある人「カラマーゾフの妹」評

高野史緒「カラマーゾフの妹」を読む。

ドフトエフスキーが実際に構想していた「カラマーゾフの兄弟」の第二部をミステリーとしてよみがえらせた野心や好し。

フョードル・カラマーゾフ殺人事件から13年後。イワン・カラマーゾフが再捜査のため特別捜査官として町に戻ってくる。犯人とされたドミートリーはシベリア流刑中に事故死していた。イワンの来訪はカラマーゾフ事件の当事者たちにさまざまな波紋を投げかける。

イワンがまるでホームズばりの推理を繰り広げる名探偵になっているばかりか、多重人格者というトンデモ設定になっている。ただこの多重人格者という設定はトンデモのようでいて意外と正解だったりする。なにしろイワンの内に潜む多重人格は「悪魔」と「大審問官」なのだ!エキセントリックなカラマーゾフ気質ならこういう設定もアリだと思わせる。

アリョーシャの純真無垢性を「異様」と捉えたのも作者の慧眼といっていい。ここからはネタバレ。


「カラマーゾフの妹」でのアリョーシャの異様さは彼が「神に選ばれた」と確信している事にある。この「神に選ばれた」という確信は人になにをもたらすのか。「神に選ばれた」以上自分の行為はすべて神に許されているという確信を人にもたらすのだ。ルターやカルヴァンを例にとると、ルターは再洗礼派の農民たちの反乱の鎮圧を支持し、それによって多くの農民たちが虐殺されている。カルヴァンもまた、自分の政敵ともいえるミシェル・セルヴェを捕らえ、生きながら火刑にしている。彼らは神に仕える身として良心の呵責を感じなかったのだろうか?答えは簡単だ・・・微塵も感じなかった。

ルターもカルヴァンも自分が「神に選ばれてある」という確信を持っていた。いわゆる「予定説」である。神はあらかじめ救われる人と救われない人を選択している。人間ごとき卑小な存在が自分の功績やら罪やらで神の行いを変えられるわけがない。というのがその教説である。

ルターもカルヴァンも「選ばれている」という確信があるからこそ、大勢の人がむごたらしく死のうが、残虐な死刑を命じようが1ミリたりと良心の呵責を感じることがなかった。なぜなら自分は神に選ばれている以上、どのような行いをしてもすべて許されているのだから。

アリョーシャも同じことである。「選ばれた」私が「選ばれてない」人を殺したところで罪にはならない。選ばれた人はすべてが許されている。殺される人=選ばれてない人は神から見捨てられた人にすぎない。

アリョーシャの異様さはこうしたプロテスタンティズムの予定説とは関わりのないはずのロシア正教者でありながら、こうした確信を得たことにある。つまり「カラマーゾフの妹」の大事件は連続殺人では決してなく、一体どこで、どのようにしてアリョーシャは「神に選ばれた」と確信しえたのか。そのこと、その転回こそが真に大事件なのである。

そしてその大転回はドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」にある。ということでカラマーゾフの兄弟を読まないと「カラマーゾフの妹」の面白さは半減してしまうので、読もう。(カラマーゾフの兄弟はちょっと長いけど読むだけの価値はあります。純文としてではなくエンタメとしても面白い)
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2013年08月27日

ギリアン・フリン「ゴーン・ガール」書評

ギリアン・フリン「ゴーン・ガール」を読む。

理想的な夫婦と周囲から見られていたエイミーとニック。だが結婚記念日の当日エイミーが消息を絶ち、その失踪には夫が関わっているのではないかと疑いを向けられ・・・

上巻では夫婦のすれ違いを微に入り細に入る、こと細かな描写で描きそのリアリズムに驚嘆する。夫であるニックはハンサムで人当たりのいい男として描かれるが、妻の日記であらわになっていく欠点、また欠点。ひとつひとつの欠点はどんな人間だってもつ欠点で決して夫は悪人ではないのにもかかわらず、そのひとつひとつが積み重なると、世にも嫌な男として現前しはじめるのだ。この執拗なまでの男下げの描写に感嘆と賞賛と寒気を禁じえない。

作者が女性だからなのか、男性の嫌な部分を見つけるのが抜群にうまい。最初は夫にあやしい感じすらなかったのに、徐々にこの男が妻を殺したんじゃないか?とじわじわと読者を誘導していく手並みがあざやか。

そしてそんな悪い、嫌な夫を愛そうとつとめるけなげな妻!・・・・だがこれは上巻まで、下巻で物語は一変する!(ここからネタバレあるから気をつけて)




上巻は上質な夫婦崩壊劇、男女のすれ違い劇を堪能したんだけど、下巻は完全に違うベクトルに突入する。なんと驚いたことに「白いドレスの女」になっちゃうのだ!「白いドレスの女」はご存知ローレンス・カスダン監督の傑作映画、っていえばもう書かなくても「ゴーン・ガール」がどんな小説かわかるよね。

失踪した妻は、けなげに夫を愛する妻ではなく、浮かび上がってくるのは一人の怪物的な女の姿。
「エイミーは幸せじゃないと神になりきろうとする。旧約聖書の神に」
「罰を与えるのさ、容赦なく」−「ゴーン・ガール」

悪魔的な頭脳をもち、用意周到に計画を立て他人を陥れていく一人の女の姿が明らかになるのだ。これ日本語版で上下巻にわけたのは正解。まるで違う種類の小説を二度楽しめるようになってる。

エイミーは確かに恐ろしい女だけど、それはモンスター的な恐ろしさとは違う。モンスターとは例えば、「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターみたいなのをいう。心のない、わけのわからない闇を抱えている理解不能の怪物。そういう怪物が主役だと読者としては心置きなく楽しめるもんなんだ。だってそんな怪物自分の周囲にはいないし、関わりあうこともない。だから非現実的なモンスター小説やモンスター映画はエンタメとして単純に楽しむことができる。

しかしエイミーは非現実的なモンスターではない。エイミーは人間としてひとつの論理に従って生きているだけなのだ(いびつではあるが)。その論理とは、

「私は常にほかの誰よりも優越していなければならない」だ。

自分の優越をおびやかすものはどのような手段を使っても排除しなければならない。エイミーはその考えに忠実なだけなのだ。確かに彼女は見ようによっては怪物に見えるかもしれない。だがそれは、得体の知れない怪物ではなく、人間的あまりにも人間的な怪物なのだ。

だからこの小説をサイコパスものや、モンスターものなどのジャンル小説として扱うのは間違っている。サイコパスやモンスターは現実には自分の周りには存在しない。存在しないがゆえに安心かつ単純にジャンルものとして楽しむことができてしまう。

だが、エイミーは違う。彼女が従うのは理解不能の闇ではなく、あくまで現実的な論理に従っているにすぎない。この論理は人間なら誰でももつ論理だろう。彼女が怪物ではないことを示す象徴的な場面がある。夫の前から姿を隠し、キャンプ場のようなところでひっそりと隠れて住むエイミーに近づく男女。彼らはエイミーと友人づきあいをしながら、容赦なくエイミーの全財産を奪う。怪物エイミーはここでは人を信じたがゆえに無残に裏切られる被害者でしかない。エイミーが優越の論理に従っているなら、金を奪った男女は金の論理に従っているにすぎない。どちらもただの人間にすぎないのだ。

物語は悪魔的な頭脳を持つ妻と、それを暴こうとする夫との死闘へとなだれ込み、そして予想だにしない着地を見せる。それは終わりなき終焉、果てしなく苦しみが続くクライマックスへ。一気読み必至の読書体験。これ映画化されるみたいだけど、多分エイミーをモンスターとして描くんだろうな〜。だったらそんな映画には興味ないな。ただの人間だから怖いんじゃないか。
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2012年06月16日

高野和明「ジェノサイド」は支離滅裂である

高野和明「ジェノサイド」を読む。
この物語の要旨はこうだ。−地球上で最も罪深く、有害な動物は人類だ。そして悲惨な暴力が渦巻くこの世界を人間の努力によって改善することは不可能である。この世界の悲惨な状況を救うには人間の能力をはるかに超えた、神のような知能を持った「神人」(god man)による独裁しかない。・・・という作者の考えがこの作品の根底にある。これはニヒリズム、というより単なる支離滅裂ではないか、というのも作中「神人」の独裁による帰結は人類の絶滅であると示唆されている。それはつまりこういうことだ、人類は暴力的で残虐な生物であり、この美しい地球に値しない下等生物である。だから全員死ね!(笑)。これって映画「ゲド戦記」のネタにあったよね。

gedo.jpg

「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ!・・・死ね!」

これが「ジェノサイド」のメッセージですw

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イプセン「野鴨」は映画「マトリックス」だ。

イプセン「野鴨」を読む。正義にとりつかれたグレーゲルスが虚偽の土台の上に築かれた家族を壊し、真実の愛という「理想の追求」を友人のヤルマールとその家族に強いた時、それまでのヤルマール家の幸福は崩壊し、悲劇が訪れる。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことになるんだからね」−「野鴨」より

読んでいる時は、このグレーゲルスというおせっかい焼きの正義ぶりっこがうっとおしくて腹が立ったんだけど、ヤルマール家が野鴨のメタファーだということに気づくと、いったいどうすべきだったのかと悩んでしまう。その野鴨とは猟で獲ったものなのだが、羽が傷ついて飛べなくなり、しかも死ななかったのでヤルマール家に飼われている。そしてヤルマール家もある秘密の事情で富豪のヴェルレ家に養われている。

野鴨がヤルマール家のメタファーだとわかると、はたして人間は、欺かれ、他人に飼われていた真実に目を開き、それを拒絶したほうが良かったのか、それとも何も知らずにいままでどおりの平凡だが、幸福な日常を続けていた方が良かったのかわからなくなる。これって映画「マトリックス」的難問だ。つまり映画「マトリックス」では真実の世界は人工知能に支配されていて、人間が日常だと思っていたものは、仮想現実の世界でしかなかった。それのどこで悩むかというと、映画内の描写ではどう見ても真実の世界は薄汚い地獄のような現実であるのに対し、仮想現実の世界は今私たちのいる世界。快適で冷暖房完備で、抗生物質があって、PCがあって、アイドルがいる世界だ。どう考えても仮想現実の世界の方がいいw

実際人間は仮想現実のような価値の体系を構築して、その世界に住んでいる。どういうことかというと、私たちが「愛」と呼んでいるものは実際は「利己的遺伝子」にすぎませんよ、と権威ある科学者が私たちの耳元でささやいたとしても、私たちは誰かを愛することをやめたりしない。遺伝子だろうが、脳科学だろうが、それら事実は事実でしかない。私たちは事実の中を生きるのではなく、自分たちが作り上げた「価値」(たとえそれが虚偽だとしても)のなかを生きているのだ。

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セバスチャン・フィツェック「アイ・コレクター」

最近はドイツミステリ界が熱い。「犯罪」「罪悪」のフェルディナント・フォン・シーラッハは今一番注目してる作家だし、このフィツェックもなかなか面白い。といってもシーラッハとはまるでタイプの違う作家で、きわめて映像的、それも映画というよりテレビドラマの連続活劇風でアメリカのドラマ「24」を思い浮かべてもらえば間違いない。物語は主人公と同行する盲目の超能力者の過去を透視する能力でプロットを進行させる強引なもので、正直そんなのあり!?と結構不満だったのが・・・読み終えて「うわ〜そう来たか!」と。読者に超能力で謎を解き明かしていくのっていくらなんでも安易すぎるだろと思わせるのも作者の術中のうちだったんだ(ネタバレギリギリ)。もう一度最初から読み直すこと必至の作劇が見事。

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佐野眞一「怪優伝−三國連太郎・死ぬまで演じつづけること」を読む。

映画「復讐するは我にあり」について

三國連太郎−緒形君は舞台出身者なので、芝居の切れがよすぎるんです。

佐野眞一−ええ、確かに緒方拳の芝居は切れがいいですよね。でも、それが何か問題なんでしょうか。

三國−僕は舞台の芝居と違って、映画の芝居は切れが少し悪いくらいのほうがいいと思っているんです。

佐野−ああ、そういう意味ですか。

三國−少し間が抜けたほうがいいと思うんです。

佐野−抜けが良すぎるとよくないんですか。

三國−と思いますね。映画の芝居というのは、カット、カットが短いわけです。僕はスコーンと抜ける芝居というのは、うまさが目立ちすぎるんじゃないかと思うんです。

佐野−なるほど、目立ちすぎて全体から浮いてしまう。

三國−舞台は切れがいいほうがアクセントがつきます。でも映画の場合は、カメラの方で切り換えてくれて、アクセントをつけてくれますからね。

三國−森雅之さんは滝沢修さんの芝居なんか真似ちゃダメよ、あんなの芝居じゃないんだからって、よく言ってましたね。同じ民藝の出身なんですけどね。

佐野−滝沢修といえば、新劇の神様といわれ、民藝では宇野重吉と二枚看板を張った人じゃないですか。へぇ〜、森雅之はその滝沢修を真似ちゃいけないって、言ったんですか。

三國−あんなのは舞台の芝居で、映画の芝居じゃないからって。

−佐野眞一「怪優伝」より

三國連太郎のことは傑物だと思ってるけど、どっちかというと、この演技論にあてはまるのは三國さん自身じゃないだろうか。私の目には三國連太郎の演技も十分に切れがありすぎるように写る。

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レオ・シュトラウスについて。

「自然権と歴史」(名著!)ではわからなかったけど、他の著作を読むとシュトラウスの全貌が見えてきた。この人スピノザとまったく真逆の思想家なんだ。スピノザがコナトゥス(自己保存の欲求)が価値を決定すると言うのに対し、シュトラウスはコナトゥスは価値を決定せず、選択が価値を決定するという。選択するということは、選択するべき「価値」があらかじめ決定されていなければならないということだ。その価値こそ古代ギリシア的価値観「徳」である。近代哲学が拒否した目的論的世界観を再び復活させようとするシュトラウスの試みは、シュトラウスの死後、ブッシュを支えるネオコン的価値観に取って代わられてしまう。(目的論的世界観は宗教と親和性が高い。ネオコンとキリスト教福音派の合体はそこにある。)しかしシュトラウスの名誉のために言っておくが、シュトラウスの著作には武力によって世界中に自由主義的民主主義を拡大すべきなんていうネオコン的な考えは一行どころか一文字たりと主張されてない。ネオコンのアホどものせいで残念ながらシュトラウスの新形而上学的試みは呪われたものになってしまった。思想は真逆とはいえ、スピノザ思想もスピノザの死後、再び人々の前に現れるまで200年もの歳月がかかった。同じ呪われた哲学者=秘教的哲学者という点で二人は似ているといえるのかもしれない。
posted by シンジ at 19:38| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月03日

ジョン・ハート「ラスト・チャイルド」「アイアン・ハウス」の倫理観について

まず最初にジョン・ハートの「アイアン・ハウス」を読んでとまどったのは、その倫理観である。殺し屋が組織から抜けたために追われるというベタなストーリー展開に、殺し屋の弟の周りで起こる謎の連続殺人事件というミステリが重なる。問題は二人の殺人犯が不幸な身の上だったとはいえ、大量に人を殺しておきながらその罪を咎められることなく、幸せをつかむという、「え?その倫理観あり!?」というハッピーエンディングになっているところです。

実はこの倫理観は「アイアン・ハウス」の前作である「ラスト・チャイルド」を読んでおけばわかることでした(先にアイアン・ハウスを読んだ)。ラスト・チャイルドはかなり露骨にキリスト教的価値観を押し出している作品で、特にある黒人の存在は完全に「デウス・エクス・マキナ」といっていいでしょう。デウス・エクス・マキナとは神の突然の参入という意味です(キリスト教神学用語ではなく古代ギリシア演劇用語のラテン語訳ですが)。過酷な現実に唐突に現れる神の手。簡単にいってしまえば「ご都合主義」のことです。しかしこれがキリスト教圏では「ご都合主義」とは呼ばれずに、世界の理(ことわり)となる。なぜなら神のいない世界では「救い」が存在しない。救いが存在しない世界、すなわち神のいない世界観はキリスト教にとってはありえないのです。

ジョン・ハートはかなり露骨にキリスト教的価値観を押し出してくる。そのことがわかれば、「アイアン・ハウス」の倫理観も理解できるようになる。殺人者二人がなぜ罰を受けずに幸せを手に入れることが出来たのか?それは「神は罪人の回心を特に喜ぶ」というキリスト教的価値観が背景にあるからです。
一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要の無い99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。−ルカによる福音書15・7

私は以前ブログでキリスト教的殺人者であるジル・ド・レのことを書きましたが(園子温のキリスト教理解は見せかけか第一部ジル・ド・レ篇)、彼は100人以上の少年を虐殺しながら、その罪を認め涙ながらに謝罪したことで裁判を見守る大勢の聴衆を感動させています。なぜ聴衆や裁判官は虐殺者ジル・ド・レに感動したのか?それはこのような極悪非道の罪人が「回心」できたのは神の恩恵によるものにほかならないという考えがあるからです。だから人々は罪人の回心=神の恩恵ととらえ、それをたたえるのです。その最高の例として、最初はキリスト教徒を弾圧する役人だったのに「回心」して使徒となったパウロがいます。
posted by シンジ at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする