ニャアンは人を殺してるんだから幸福になってはいけないというお話について
さてまだまだジークアクスについてお話していきましょうか。
ニャアンはストーリー上たくさん人を殺しているので幸福になってはいけない論というものがあるそうな。
気持ちはわかりますよ。映画とかドラマとか小説とかアニメで極悪非道のやつが逃げおおせたり、なんの罰も受けない描写があるとモヤッとすることは誰にでもある。
それは人の持つ宗教観や倫理観のあらわれで、勧善懲悪や因果応報という概念を創作物に適応してもらいたいという自然な心の動きだ。
ただ私は物語上の倫理観と外部規範(道徳だったり昨今だとポリコレだったり)は明確に区別したほうがよいと考えます。
ポリティカルコレクトネスとは「歓迎されない信念や考えを言説や表現から排除しようとする試み」という外部規範であり、それに対し作品内の倫理度=エシックラインは登場人物の好感度操作の手法である。
たとえば私の大好きな映画「仁義なき戦い代理戦争」の主人公広能(菅原文太)は山守組長に対抗するために神戸から大組織である明石組(実際のモデルは山口組)を広島内に引き入れる。単なる地方都市の争いに関係のない大組織を招き大混乱を引き起こすのだ。
これを外部規範的に見れば広能は極悪非道のヤクザだろう。全く関係のない組織をおのれの利益のために地元の呉に手引きして引き入れるからだ。ヤクザとして人としても最悪の行動といってもいいだろう。
しかし広能は主人公である以上、悪としては描かれず他のヤクザたちよりもエシックライン(倫理度)が高く設定されるという奇妙なことが起こっている。エシックラインが高くないと主人公として成立しないのだ。作品内倫理が主人公の好感度操作に利用されている例だ。
このように映画の正しさ(作品内倫理)とは外部規範とは関係なく、物語の都合上設定されるものなのだ。
最悪な登場人物がストーリー上罰を受けるとスカッとするのも事実ではある。邪悪な人間が物語上まんまと逃げおおせるとモヤッとすることもある。ただ現実の外部規範を創作物に強要すると途端に創作の面白さや自由がなくなってしまう。勧善懲悪、因果応報概念は紋切り型表現の典型ともなってしまうのだ。
ニャアンについていえば、マチュという猪突猛進型主人公と対比的に作られたであろうキャラなのは明白だと思う。シャアやシャリア・ブルが理念型ならニャアンは動物的な自己保存本能のみ。倫理観もあいまいで善にも悪にもどっちに転んでもおかしくない「あわい」(間)の存在。能動的なマチュと動物的なあいまいさのニャアンという対比ありきのキャラクターだ。もちろん2クールあればもっと二人の対比描写が増えわかりやすくはなったと思うが、物語上に隙間があればあるほどオタクは考察をはかどらせるものなので、私もこんな文章を書いているというわけ。
(あと単純にシャアもシャリア・ブルもエグザベくんもみんな職業軍人でたくさん人を殺してるのにそっちはいいの?と思う。アメリカの小説では主人公が人を殺すけどハッピーエンドで終わるものが結構あるのも戦争や軍人が日常にあるからなのかも。)


