2021年03月29日

対話と救済 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||評

対話と救済 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||評

シン・エヴァンゲリオン劇場版を初めて見たとき、映画のDパート(マイナス宇宙のパート)のあまりに意表を突く突拍子もない映像の数々と初出の用語と概念の洪水に脳をやられて感動する暇すらなかった。3回目を見てようやく情報の洪水状態を脱し、脳の処理速度が追い付いてきたのでやっとシンエヴァ評を書けるに至った次第。

しかし1回だけ見てあの大量の情報が高密度で高速に流れるさまを見て理解できたり、「泣いた」と言ってる人が多いのにびっくりした。正直こんなにも理解してる人が多いのに、理解できなかった自分が馬鹿なのかと不安になったりもした。

でも3月28日のシンエヴァ声優陣の舞台挨拶でカヲル役の石田彰さんが

「僕もこの作品見終わったあとに、作品自身に翻弄されました。異様とも言える映像を見せられて、これをどう解釈すればいいんだろうとか、細かな設定的な事とか、理解が及ばない事が多すぎて、物語をどうとらえればいいんだろうと思ったいました。けれど、シンジとゲンドウの会話をきっちり聞き逃さないようにしていれば大丈夫なのかなと思っています。今作の中で、ゲンドウがシンジに“大人になったな”と言うんですけど、“お前が言うな!!”って思いました。そういう作品です」
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1314909.html

石田さん!そうですよね!26年間エヴァにたずさわってきた人でさえ翻弄されたんだから。自分だけが翻弄されたんじゃないと。

私も初出の用語、概念の「エヴァイマジナリー」だとか「マイナス宇宙」に頭の中がはてなマークになったり、既出の用語にすら(「黒い月ってなんだっけ・・・?」「アダムスって?」)戸惑い、頭フル回転状態でしたから。

私のシンエヴァ鑑賞ガイドとしては初出、既出の難解な用語、概念はひとまず置いておいて、「テーマ」と「メッセージ」だけに注目してみるという古典的な手法でシンエヴァのかなりの部分を味わい尽くせると思っております。

エヴァ新劇場版のテーマなんてあるのか?と問われれば「明確にあります」
ヱヴァンゲリヲンQですらはっきりとしたテーマがあるのです。(ヱヴァQのテーマに関しては運命と自由意志の相克であると考えますが、それは「ヱヴァンゲリヲンQと自由意志問題」に書きました http://runsinjirun.seesaa.net/article/313105957.html

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のテーマは「対話」と「救済」です。

「救済」に関しては作中のそれぞれの立場によって救済の中身が違ってきます。
ゼーレは「人類補完計画」という「人類の個という外殻を捨て去り、一つの魂となって融合することにより、争いも差別もない永遠の平穏を得る」ことを目指しているのに対し、碇ゲンドウはゼーレに従うと見せかけて、フォースインパクトとは別の「アディショナル・インパクト」を起こそうとしています。

ゲンドウがおこそうとするアディショナル・インパクトとは作中のセリフによれば「虚構と現実の情報の均一化」つまりエヴァイマジナリーを使って魂の均一化だけでなく、虚構と現実の均一化も成し遂げようとしているのです。人の想像が現実と同一になることによって妻であるユイを取り戻そうとするわけです。

これがゼーレとゲンドウが考える「救済」の中身です。

だが碇シンジの考える「救済」はこれらのものとは違います。

シンエヴァ作中、しきりに「縁」という言葉が繰り返し発せられます。相田ケンスケが3回重要な場面で「縁」を口にし、カヲル君も1回「縁」を口にします。いずれもシンジ君へと発せられ伝えられたのが「縁」という言葉です。

「縁」とはすべてのものは相互に関係しているものであり、独立自存するものは存在しないという意味です。「関係」と言い換えてもいい。

ー「関係」とは「私」が他者との関係に巻き込まれ、他者と共に存在し、他者に対して存在することで深く規定されている。関係とは他者へのかかわりとふるまいによってかたちづくられるものーであり

「人間は厳密にいえば他の人間とだけ「関係」することが可能である」ーレーヴィット「共同存在の現象学」

M・ブーバーはさらにはっきりといいます「憎しみをもつ人は、愛も憎しみもない人よりは、はるかに関係の近くにいる」と。(我と汝)

人類補完計画は個人を捨て、自我を捨て、執着も捨てることにより、「関係」の一切ない、つまり愛も憎しみもない平穏な世界を創造しようとするが、シンジは愛も憎しみもある「縁」の世界を望むのだ。

ありがたいことに人類補完計画を全否定してくれるようなバフチンの文章がある。

ー人間のいかなる出来事も、ひとつの意識の枠内では展開されないし、解決されない。そのためドストエフスキーはひとつの意識のなかの融合、溶解や個別化の解消を最終目的とみなすような世界観に敵対する。いかなる涅槃もひとつだけの意識にはありえない。一つだけの意識というのは形容矛盾である。意識とは本質的に複数ものである。ー「バフチン対話そして解放の笑い」

融合、溶解や個別化の解消を最終目的とみなすような世界観に敵対すること。ではそれらを否定して、愛も憎しみも存続する「縁」の世界での「救済」とは何か?

それこそが「対話」である。

「真理が開かれるのは、対等な複数の意識が対話的に交通しあう過程においてである」ー(バフチン対話そして解放の笑い)

映画のクライマックス。ついにゲンドウとシンジの親子対決が始まる!!と期待していた観客はあっさりと裏切られます。まるで映画のセットのような場所(東宝スタジオらしい)
で天丼ギャグのようなバトルを繰り返す親子。ゲンドウは言います「暴力と恐怖では決着はつかない」と。非常にメタ的な表現を用いて、バトルものにはしない。そんなものではこの映画は決着できないと映画の作者から面と向かって言われるような気にすらなる、異様なシーンでした。

ここから映画の雰囲気は一気に変わり、内面世界へと、対話の世界へと入っていくのです。

ここでもう一度「対話」の意味を考えます。

平田オリザは「会話」と「討論」と「対話」の違いについてこう書いています。

「会話」とは価値観や生活慣習なども近い親しい者同士のおしゃべり。

「討論」とはAとB二つの論理が戦ってAが勝てばBはAに従うこと。

そして「対話」とはAとB異なる二つの論理がすりあわさりCという新しい概念が生み出されることだ。ー「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」

「対話」による「救済」とは、対話によりなにか新しいものが生まれ、そして二人の間の関係性が変わるだけでなく、二人の魂自体も変わることをいう。

個人を消去し、関係も消去することによって得られる永遠の平穏(人類補完計画)も、ゲンドウの虚構と現実の境目をなくして、想像を現実化させようとする計画(アディショナル・インパクト)も、所詮は他者不在の妄想=独我論でしかない。

シンジはそれらを否定し、「私」と「君」が縁を結び、関係性を築きあげ、対話による「変容」をうながす世界へと舵を切るのだ。

それではその「対話」によって「変容」したことによる「救済」をエヴァはどう描いたか。

この映画で一番びっくりするのは登場人物全員が「救済」されたことではないでしょうか。ゲンドウが救済されるのはまだしも、カヲル君まで救済されたのには驚きました。

この救済方法が独特で、登場人物たちの「神秘性」をはく奪し「凡俗」化することが救済につながるというものです。

アスカは今まで求め続けてきた愛をしごく平凡な形として受け取る。決して得られることのなかった両親の愛でもなく、それまで愛していた特別な男(シンジ)の愛でもなく、エヴァ作品上最も特別なところのない平凡な男の愛を得るのです。

エヴァ破で消えた綾波レイは初号機の中で生き続けていたことが髪の伸びたレイとして描かれる。作中マリのセリフにある通り、髪が伸びるということはカオスであること、人間である証拠だ。またそのレイが赤ちゃん(ツバメ)の人形を持っていることからも、第3村で消滅した黒波(仮称)の記憶も受け継いでいることがわかる。綾波レイはクローンでも操り人形でもなく完全なる自我を持った「平凡な人間」となるのだ。

ゲンドウは壮大な計画を遂行する鉄の人間のような見かけに対して、実際はおのれの弱さに向き合うことができなかった欠点だらけの弱くもろい存在として暴かれる。シンジとの対話でようやくおのれの弱さと向き合い、その結果、求め続けた妻ユイがすぐそばにいたことに気づく。そして最後は妻ユイと一緒になって、シンジの身代わりとなってすべてのエヴァンゲリオンごと消えていく。

カヲル君はエヴァ作品上最も神秘性に覆われた人物として描かれてきたが、その本質は自分の欲望と向き合うことができずにいた、ただの哀れな弱い存在でしかなかったと暴かれる。人間ではなく使徒として神秘性と謎の権化だったカヲルがひどく平凡な「人間」として描かれ、そしてそのことによって救われるのだ。このことは作中最大の衝撃をもたらす。

そしてマリである。正直にいってシンエヴァ中、最も謎めいた人物が真希波・マリ・イラストリアスだろう。マリは作中でゲンドウとユイの同期の友人として描かれている。そしてなぜか一切年を取っていないことから、真希波シリーズというクローンなのだろうと推定ができる。マリは過去からやってきた時間を超越する者だ。超越者だからこそ、イマジナリーの中に取り残されたシンジを迎えに行き、救い出すことができたのだろう。ではマリの救済はいかなる形でおこなわれたのか?マリはおそらくゲンドウかユイを(もしくは両方を)愛していた。その愛の執念がゲンドウとユイ二人の息子であるシンジへの愛へと結実した、というのは的外れだろうか?(ここは私にもわからないので、マリ読解を成し遂げた人の意見を聞きたい)。過去からやってきた時間を超越する特別な存在が、愛の執念の結実という至極平凡なことで救われるのだ。

庵野秀明のエヴァンゲリオンの終わらせ方は、登場人物から神秘をはく奪し凡俗化させるということだった。そして驚くべきことにこの凡俗化が救済になるのだ。なぜ神秘をはく奪し凡俗化させることが「救済」になるのか。

それだけが「神話」の否定になるからである。エヴァの登場人物はほとんどが怪物であり、英雄である。シンジにいたっては世界を書き換えるという神にも匹敵する御業を見せる。そんな神話的人物を救済するには平凡な「人間」へと昇格(降格ではない)させるほかない。

あらゆる登場人物を凡俗化させ神話から解放することが、すべてを救済し、エヴァンゲリオンを完全に終わらせる唯一の方法だったのだ。

もしラストシーンでシンジの声が緒方恵美さんのままだったら、シンジの神話はこれからも続く・・・という意味合いのラストシーンになっていただろう。声優を交代させたことによりシンジの神話は完全に終わったのだ。

エヴァンゲリオンのこの終わらせ方、救済方法だけでも庵野秀明は天才だと断言できる。極細の針の穴に糸を通すかのようなエヴァを終わらせる唯一の方法を発見した庵野秀明をもっとみんなほめたたえるべき。これは偉業です。
posted by シンジ at 16:33| Comment(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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