映画「海獣の子供」すさまじいアニメ表現と色っぽい人物、特に少年青年老人の男勢がみんな色っぽい。アニメのキャラクターでここまで色っぽく描写できるのは驚異としかいいようがない。色っぽいというのは性的も含むけど、実在感、肉体感、身体性がすぐれているということ。アニメ演出、作画両面ですさまじく高水準な仕事をされていることがわかる。
多くの人が意味がわからないという思想的な面も「ひとつは全にして全はひとつなり」「自と他の区別なく、生と死の境もない」というような仏教思想を多少齧ったことがあるならなんとなく理解はできるだろう。
主人公ルカの家の前を虫が羽虫の死体を引きずっていく場面や、エンドクレジット後の場面ー母親が赤ちゃんのへその緒をルカに切ってくれと頼むとルカはへその緒を切りながら「命を断つ音がした」という場面はまさに「生と死はつながっているし境もない」ということをあらわした場面だ。
しかしこの映画の背景にあるのは実は仏教ではない。この映画の海や鯨に対するこだわりからみてこれはあきらかに「ニューエイジ」だろう。
「ニューエイジ」とは、1970年代にムーブメントを起こしたースピリチュアリズム、オカルティズム、神秘主義、LSDカルチャー、チャネリング、手かざしなどの代替医療、環境保護などが混合された思想、擬似宗教。
その根本思想とは「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインドが融合」(スピリチュアルコネクトより引用)したものだ。
「全ては一つであり一つは全てであるという一元論的なマインドと、神と宇宙、または神と自然とは同一であるという汎神論的なマインド」まさにこれこそが映画「海獣の子供」のすべてでありニューエイジそのものだ。おそらく原作者はニューエイジにどっぷりつかった人なのは間違いない。
多くの人がわからないという「海獣の子供」のクライマックスの観念的な映像を映画「2001年宇宙の旅」のラストの映像とくらべるむきも多いと思う。その考えは間違っていない。
こんなことを聞いたことがあるー「2001年宇宙の旅」は「しらふ」で見る映画ではないのだと。「2001年宇宙の旅」はドラッグをやりながら見るとあの最後の映像でトリップできる。トリップすることによって映画の真の価値があらわになるというのだ。
ようするにLSDカルチャー、ニューエイジカルチャーとしての「覚醒」=トリップ感覚を味わうために「2001年宇宙の旅」や「海獣の子供」のあのトリップ映像があるのだ。そしてそうしたトリップ感覚はお手軽な「悟り」として世界中に輸出され、オウム真理教のようなカルトを世界中に生んだ。
映画「海獣の子供」は極限にまで達したアニメ表現の素晴らしさと「え?今頃ニューエイジ!?」という不可解さの混合だ。