現在世界中で跳梁跋扈するイデオロギー、リベラリズムとグローバリズム。この二つの巨大な潮流を80年以上前に徹底的に批判したのがカール・シュミット(1888-1985)である。
シュミットのもっとも有名な政治理論「友敵論」が書かれた著作「政治的なものの概念」の中で標的にされるのがリベラリズムとグローバリズムなのだ。
シュミットにおいての「友敵論」の友と敵とは、すべての政治的関係の基盤にあるものだ。味方と敵=友と敵という現実可能性を無視する政治理論はシュミットにとって意味のないものだ。
友と敵は「主権」をもった政治的団体間の関係のことである。シュミットにとっての「主権」とは、「戦争」という現実の闘争の「危急事態」に際し「決断」できるものだけを「主権者」と呼ぶ。戦争などの危急事態=例外事態に決断を下すことができるものだけが「主権者」であり「主権団体」なのだ。
こうした主権をもつものだけが「政治的単位」と呼ばれる。したがって多元主義的な政治理論における中間団体=宗教団体、労働組合、家族、スポーツクラブなどは政治的単位とは認められない。
政治的単位とはあくまで例外状況における決断のできる主権を持った団体だけが政治的単位であり、友敵区別はこの政治的単位にのみ限られる。たとえこの友敵区別に反対し、非政治的であろうとしたり、中立であろうとしても、非政治的であることや中立であることに正当性や優位性を見出しているのであり、その時点でみずから友敵区別を実行しているのである。
こうした友敵区別からは必然的に「国家多元論」が生じてくる。友敵という基本的な政治関係にとって諸国家群の存在は必須であるからだ。そしてこの考えに基づけば「世界国家」などあってはならないものなのだ。
友敵の「敵」とは
「政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとは限らず、敵と取引するのが有利だと思われることさえおそらくはありうる」(政治的なものの概念P15)
シュミットにおいて「敵」とは「悪」ではなく、交渉も取引もできる相手である。しかしリベラリズムとグローバリズムは基本的政治的単位である友敵を無化し、友敵の基盤である「国家多元論」を認めず「世界統一国家」=グローバリズムを推進する。
リベラリズムとグローバリズムというイデオロギーは敵を敵とはみなさなくなり、敵を「非合法」「非人間的」な怪物としてしかあつかわない。
敵ならざるものが非人間的、非合法的な怪物である以上もはやそれは法律(デュープロセス)や人権を剥奪された「透明な怪物」として処理されるだけの存在となる。
これこそがリベラリズムとグローバリズムの落とし子=「ポリティカル・コレクトネス」の誕生である。「ポリティカル・コレクトネス」に反するものは法律によって裁かれる前に社会的に抹殺される。抹殺するのに確かな証拠や裁判や警察すらも必要でなくなるのである。
リベラリズムとグローバリズムは国家や政治的なもの=友敵を解体し、すべてを法律以前の「道徳」と「経済」に従属させる。リベラリズムとグローバリズムによる「世界の非政治化」(=「非友敵化」)はこの世界を「道徳」と「経済」による完全支配へと結実する。
この「道徳」と「経済」によって完全支配された世界、リベラリズムとグローバリズムが完遂された世界においてもはや「敵」は存在しない。リベラリズムとグローバリズムに反するものは非合法化、非人間化され抹殺されるだけの透明な存在に過ぎなくなる。
1932年に書かれたとは思えない恐るべき予言の書といっていいだろう。とくにリベラリズムとグローバリズムが法律を超える「道徳」と「経済」にすべてを従属させようとすると喝破したのは背筋があわ立つ思いがする。
この恐るべき予言の書がナチスの法学者であったカール・シュミットの手によって書かれたのは皮肉としかいいようがない。
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