2017年03月09日

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

後悔から遠く離れて「ラ・ラ・ランド」の映画構造

映画「ラ・ラ・ランド」を観る。映画と現実の境界が耳障りな不協和音で切断され、「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで示される親切でわかりやすい演出。

渋滞の車列の中イライラ人たちが急に楽しげに歌い踊りだす。しかし不快なクラクションの音がけたたましく鳴り響くと途端にいつものイライラした人たちに戻る。

美しい夕闇の中(映画用語でいうマジックアワー。陽が完全に沈むわずかな時間を利用して撮影すること)でミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)がダンスするシーン(おそらくフレッド・アステア「バンドワゴン」の一場面、夜の公園を踊る二人Dancing in the darkのオマージュではないか)もうっとりしているとそれを切り裂く車のキーの音。

またはオーブンから煙が出たため鳴る、耳をつんざくような警報音。スマホから発せられる耳ざわりな着信音。ジャズかと思えば唐突に入る電子音etc..etc...

すべては夢=映画の世界から現実に引き戻すために用意された警報音でありスラッシュ/だ。なぜこのように警報音によって映画と現実とをくっきりと分け隔てる必要性があったのか。

映画の世界は可逆の世界であり、時間を自在に止めることもできる世界であり、無限の選択肢あふれる世界なのに対し、現実は不可逆であり、時間は無常にも流れていくものであり、選択肢はほぼ決められたものしかない世界だ。

歌やダンスシーンつまりミュージカルシーンが主人公二人の心象風景でないことは、すでにオープニングで示されている。イライラした人々の渋滞場面が一瞬で楽しげな場面に変わるのは誰の心も表してはいない。マジックアワーでのダンスシーンもあれだけ美しいにもかかわらずミアとセブ二人の心象風景は「別にわたし、あんたのことなんとも思っていない」である。

では観客はミアとセブふたりの心象風景でなければいったい何を見せられていたのか?

「映画」を見せられていたのだ。・・・なにをわかりきったことをと言われるのは承知の上で、もっといえば「映画の仕組み」自体を見せられていたのだ。

映画の世界は無限の可能性を持つ。時間は自在に巻き戻され、宇宙空間だろうが自由に移動でき、考えられる限り最良の選択と最良の結果が約束されている夢の世界だ。

映画の中では決して「あの時ああしていれば・・・」とか「こうしていればよかった・・・」などという後悔が生まれることはない。

レストランをクビになったときミアに失礼な態度をとらずキスをしていれば・・・。あの時ミアと一緒にパリに行っていれば・・・。彼女との幸福な家庭、かわいい子供たち、すべてが思いのままのはずだったのに・・・夢の世界/現実を隔てるスラッシュ。

そんな夢の世界=映画の世界を不協和音/が切断することによって物語の時間を進行させる演出になっていたのは観てのとおり(冬から始まるオープニングから春夏秋といちいち季節がタイトルに出るのもそういう意味)

ミスを犯しても決して元に戻れない不可逆性。時間と空間と関係性の流動性。そして生まれや財産や教育などで狭められる選択性。つまりは現実世界へようこそ、というわけだ。

私たちが映画の世界に逃げ込むには、これだけで十分な理由ではないか。

ラ・ラ・ランドは私たち観客がなぜ映画に夢中になるのか、映画が私たちにとってやむにやまれぬ避難場所になるのかを容赦なく暴きだす。

ラストシーンでセブが胸押し潰され、ピアノに顔を落とさざるえないように、私たちもまた映画にすがりつかざるえない自分の姿を見る。

「映画」自体が日々現実に胸押し潰される私たちのような人間に支えられている。「映画」を支えるのは、現実に生きる私たちの日々の後悔からの逃避であるというあけすけな「映画の構造」自体をラ・ラ・ランドは描いている。

種明かしをすれば、映画中のミュージカルシーンはミアの心象風景でもなければ、セブの心象風景を映像化したものでもない。あれは私たち観客が作り出した私たち自身の心象風景なのだ。

それこそが「映画」/「現実」と鍵かっことスラッシュで表現される、切断されながらも相互に依存する二つの世界に表現されているのだ。

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それにしてもジャスティン・ハーウィッツの音楽は素晴らしい。毎日サントラを聴いてます。ダンスナンバーのA Lovely Nightは「バンドワゴン」Dancing in the darkのオマージュのわりにはエマ・ストーンもゴズリングもダンスが下手ではないか、往年のミュージカルとは比べるべくもないなどと一蹴される方もいるでしょうが、バンドワゴンのアステアもシド・チャリシーもあまりにもエレガントすぎて、遠い世界のことに感じられるのに対し、エマ・ストーンのダンスは不恰好ながらコミカルで「生」の迫力、身体性やアクチュアリティを感じさせるので、私は大好きです。
posted by シンジ at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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