映画「溺れるナイフ」(山戸結希監督)を観た実感として、少女漫画原作の女子中高生用のよくあるジャンル映画とはかけ離れた映画であることにまず驚愕する。一種の極北映画。ロベール・ブレッソンと柳町光男を掛け合わせたような作風に戦慄をおぼえた。
画面をところ狭しと予測不可能な動きで飛び回る菅田将暉とそれに必死で食らいついていく小松菜奈。画面を見ているだけ、人の動きを見ているだけでこれは映画だ。ここには映画しかない。という感慨が喜びとともに溢れてくる。
ただ、映画「溺れるナイフ」をこの映画だけで完全に理解することは難しいと思うので補助線として、柳町光男の「火まつり」を参考映画としてあげておきたい。
「火まつり」の主人公(北大路欣也)は野蛮で野卑で、野生そのものを体現したかのような男だ。彼は不遜にも自分を神に愛し愛される男だと自負していた。そして彼は神と「契り」を交わし、その代償として自分の子供たちを神にささげ、自らの命を絶つ。
映画「火まつり」の「神」とは、惜しみなく与え、惜しみなく奪う。理不尽かつ理解不能な存在として人の前に屹立している。この「神」はヨブ記の神に近い。
溺れるナイフのコウは、この火まつりの主人公に対応するキャラクターといっていいだろう。「神さん」と特別な関係にあると自負するコウ。そしてそのコウを特別視し、自身の神とする夏芽。
だが「神さん」に愛されていると自負していたコウは「自分のもの」である夏芽がストーカー男に乱暴されるのを防ぐことができなかった。
わしは神に愛されていなかったのかと自分に失望するコウと、なんでやっつけてくれなかったの?とコウに失望する夏芽。二人は疎遠になる。コウは神と自分に、夏芽はコウに失望するのだ。
だがこの二人の失望は浅慮な「神」観からくるものでしかない。「神」なんだから私の希望をかなえてくれるだろう。「神」は願いを聞いてくれるものだろう、というのは自分の欲望を神に投影したものにすぎない。二人は「神」とは絶対的「他者」であることを知らない。
絶対的他者とは、あなたの希望や願いや欲望を都合よくかなえてくれる存在ではなく、理解不能であり、理不尽なまでの決断をあなたに不断に迫る不可避の存在。それが絶対的他者である「神」である。
ルドルフ・ブルトマンは「神」をヒューマニズムのかけらもない、人間には理解不能の、人間的な善、正義、幸福すべてを打ち壊す存在と定義している。(ブルトマン「イエス」)
注意すべきはコウは「不遜」にも神に愛されていると自負していたから罰せられたのではないということ。神は人間とは取引しない。ただ一方的に与え、一方的に奪うだけでしかない。したがって人間に罰を与えることも、逆に褒美を与えることもしない。神はただ
「不可能な決断を迫る」(ブルトマン)それだけだ。
そしてその時がやってくる。
再度夏芽を襲うストーカー男。このクライマックスの火まつりシーンの夢かうつつか幻かというエロティックなシーンは、夏芽と神との「交合」であることはいうをまたない。神は一方的に与え、そして一方的にストーカー男を「贄」として奪う。
神との「交合」をはたした夏芽はもはやもうひとりの「神さん」コウちゃんを必要としなくなり、東京に出て女優として成功をおさめる。
最後の現実ではないコウと夏芽の「応答」は、「絶対的他者」との応答。自己の欲望をうつしだす鏡としての「他者」ではなく、自身と隔絶した、不可能な決断を迫る「他者」を認めることにより「私」は目覚め、私としての実存を生きることになるその証しだ。
それは不可解なことや理不尽なことに直面し、悩み苦しみながら一歩を踏み出すその一瞬一瞬に「私」が目覚め、「私」が生まれるということ。私を目覚めさせるのは自分の欲望を投影できる「もうひとりの自分」ではなく、絶対的他者である「あなた」に他ならない。
「人間はこの本来的存在において「あなた」に出会い、「あなた」に求められていると知ることができる。まさにこの要求が本当のところ、はじめて彼に「私」としての実存を与えるのである。そうして人間が「私」に目覚めることによってさけがたい「あなた」に要求されていると気づく」−ブルトマン「イエス」
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小松菜奈も菅田将暉も本当に素晴らしかったが、この二人は神話の世界に生きる二人である。溺れるナイフの中でひとり現実に生きる大友(重岡大毅)がいたからこそ、この映画は魅力的な恋愛映画として繋ぎとめられているのだ。観客はみな大友に恋するだろう。彼がいたからこそ神話と恋愛がシームレスにつながっている。