WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENTをついさっき見たばかりの興奮の真っ只中で一気に書きあげるので誤字脱字悪文ご容赦。
幸せすぎて泣けてくるという稀有な体験をさせてくれる映画。それが本作「WE ARE Perfume」だ。
映画の構成的には単純極まりない。ワールドツアーで台北→シンガポール→LA→ロンドン→NYと巡り、本番前、本番後、各都市で観光を楽しむPerfumeの三人の姿を映し出すだけだ。
ファン目線で見るならば、公演後のダメ出し会議が実に興味深い。ダメ出し会議といってもピリピリしたムードではなく、可愛いかしゆかが可愛いおみ足をモミモミマッサージをしながら、セットリストをあれこれ考えたりするのでファン的には「萌」という感情しか湧いてきません。
まじめに書くと、3人は公演後、客の反応を見て次の公演のセトリを臨機応変に変更するのだ。この曲は海外のファンにはなじみがないから変えようとか、こっちの曲の方が盛り上がるよとか。演出面でもアメリカのお客さんは暗転すると熱が引いてしまうので暗転は最小限にとどめようとか。3人が主体的にセットリスト、演出面で意見を交換していくのを見るのは楽しい。
LA公演ではトラブルで背景のLEDがつかないというピンチに立たされる。そしてLA公演後はMIKIKO先生が号泣するのである。それはうれし泣きではなく、悔し泣き。トラブルがあり、完璧に出来なかったことへの悔し泣きである。こういうところがMIKIKO先生の素晴らしいところだ。私は映画館内でおもわず「MIKIKO I LOVE YOU・・・」とつぶやいてしまった。MIKIKO先生は4人目のPerfumeなのである。あとLA公演後、OK GOのメンバーがのっちの手に熱烈にキスしてるところだけは決して許さない決して。
ロンドン公演ではのっちの大失敗とのっちの弁明が映し出され、大笑いした。大事な本番でフリを間違え、フリーズしてあ〜ちゃんの顔色をうかがうのっちのおかしさ、愛らしさ。もうとにかく映画を見てる感覚じゃなくなってる、私もチームの一員としてハラハラしたり、楽しんだり、外国の観客となって拍手してしまうのだ。
公演前は3人が異国の地を楽しんでいる姿を堪能する。3人の私服がまた三者三様の個性が出てていいんだよな〜。かしゆかは常にキメキメの服でファッションリーダー感満載。あ〜ちゃんは常にスカートで上着にはヒラヒラがついているフェミニンなものしか着ない。のっちは常にオールブラック、ダボッとしたものしか着ない、当然パンツスタイル。これだけ着る服によって性格が出るってすごいな。
ワールドツアー最終の地はNY。やはりエンタメ業界にいる人たちにとってNYは特別な地らしく、3人にも気負いや緊張が見られる。NY公演最後の曲は「MY COLOR」
「MY COLOR」中、映し出される世界各国のファンの顔顔顔・・・泣いているファンもたくさんいる。白人や黒人もいれば、アジア人もラテン系もいる。ゲイのひとたちもいる。いろんな「私の色」を持った人たちみんながみんなPerfumeを愛している、それだけの理由で集まっているのだ。
いまから子供じみた幻想を書くのでギョッとしないでほしい。マイカラーとは肌の色や人種や民族、性別、主義主張のさまざまな色のことを言っているのだとする。そうした多種多様なMY COLORはPerfumeを愛するということだけで乗り越えられてひとつになるのだ。
Perfumeの愛のもとで私たちのMY COLORはひとつに塗りなおされていく。世界はひとつだし、世界は愛でひとつになる。
世界はひとつだ、なんて言葉でギョッとされる方に、ここで多様性と多元性の違いを説明しておこう。多元性とはそれぞれが決してまじりあうことなく独立性をたもったままの状態でそれぞれ隔離的に存在するさまのことをいう。それとは違い、多様性とはそれぞれが影響しあい、交じり合うことを恐れない存在のあり方をいうのだ。それぞれのMY COLORが多種多様に存在しつつも、影響しあいまじりあってひとつになることも多様性のあり方なのだ。
・・・わかってる、わかってるよ。私もいい年をしたすれっからしのおっさんだし、世界はひとつだとか、愛で世界は変えられるだなんて本気で信じているわけじゃない。
でも、このドキュメント映画「WE ARE Perfume」を見ている2時間だけは、このすれっからしのおっさんも、俺たちはみんな同じ人間だし、愛で世界はひとつになれるとたしかに信じることができたんだ。
Perfumeを愛している人たち。そんな人たちが世界中に存在している。そのことを感じることができるだけで、えもいわれぬ幸福感に満たされ泣けてくるんだ。
たしかにこれはたった2時間の愛の幻想である。現実の人間ってのは互いに憎みあい、争いあう生き物だ。内と外で境界を作り、外側を攻撃する。そういう本性を持っている生き物だ。この本性は何万年にもわたって作られてきたものでいまさらやめろといわれてもやめるわけにはいかない厄介なシロモノだ。
でもあ〜ちゃんの言葉を聴いていると、現実を忘れ、幻想が確かな輪郭を持って浮かび上がってくるのだ。あ〜ちゃんの言葉はメンバーやスタッフ、ファンの心にクリティカルに届く恐ろしいほどの強い力を秘めている。その説得力とカリスマ性。人間力としか形容しがたい器の大きさ。
もしあ〜ちゃんが戦国時代に生まれていたなら、確実に天下を獲っていただろう。・・・いや、あ〜ちゃんのことだから戦争をことのほか嫌っているであろうから戦国時代のたとえは適当ではなかった。
もしあ〜ちゃんが宗教改革期にプロテスタント側に生まれていたならプロテスタントは天下を獲っていただろう。
もしあ〜ちゃんがフランス革命期に生まれていたなら恐怖政治は起こらずフランス国王も斬首されずに愛に満ちた共和制が今に至るまで続いていたことだろう。
私はこの映画「WE ARE Perfume」を見て人類の歴史に思いをはせていたわけだが、見ているうちに「ピコーン!」ときた。
人類の歴史は内と外に境界を設けて争いあうことで成り立ってきた。内=友、外=敵として。じゃあ「外」なくして「内」だけにすればいいんじゃね、と。
この世界でPerfumeを愛する同胞を増やしていき、境界線を広げて全世界を同胞だらけにしていけばよい。つまりこの世界を全部「内」側にしてしまえばよいのだ。
全世界をPerfumeを愛する同胞で満たしていけば世界中の人たちが全員同胞になる。全世界がPerfume共同体の一員となるのだ。
ってこれ宗教じゃん!!!
無信仰の俺にも信仰の何たるかを教えてくれるこの映画やばすぎる。
「WE ARE Perfume」というこの映画のタイトルにもなっている言葉は、Perfumeの自己紹介の英訳で、ワールドツアーでは「I'm kashiyuka, I'm a-chan, I'm NOCCHi WE ARE Perfume!」とお約束の挨拶となっている。そしてもちろんファンは「WE ARE Perfume!」のところで同じように声を上げるわけだ。「私たちもPerfumeである」と。
でもそれはおかしいといわせていただきたい。Perfumeはいわば教祖的立場の人であるわけです。私たちPerfumeを愛する同胞は教祖と同じ立場なわけはなく、あくまでPerfumeを愛する同胞、仲間という位置づけであるべきなのです。
しかしである。宗教というのは魅力的な教祖がいるだけでは立ち行かなくなるものなのです。教祖の魅力や教えを理論化、体系化して衆生や後世に伝える人が必要となるのです。
ここらへんで記事のタイトルの意味がわかりかけてきた人もいるでしょう。「私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!」の「Paul」とは「パウロ」のことです。
私たちはPerfumeにはなれないけど「パウロ」になるんだよ!これです。
イエスが「キリスト教」を設立した気なんてこれっぽっちもなかったのは確かです。イエスは自分のことをユダヤ教の革新者としか考えていませんでした。にもかかわらずキリスト教を今日の世界宗教にしたのは、イエスと会ったこともないパウロがイエスの教えを理論化体系化し、世界中に伝道したことによるのです。キリスト教とはパウロ教のことに他なりません。
アイドルを世界中に広めるのは(私はPerfumeをアイドルだと思っています)、教祖(アイドル自身)でもなく、会社でもなく、ファンひとりひとりが「パウロ」になって世界中に愛を伝え広めることなんだとこの映画は教えてくれます。
「WE ARE Paul!」これが今日から私たちドルヲタの合言葉です。
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NY公演後にあのキャンディーズのマネージャーだったアミューズ会長大里洋吉氏が登場して、その場違いなハイテンションぶりをみせつけて場をさらっていくのに笑った。はじめて大里氏を映像で見た。なんか日本の芸能史の1ページにPerfumeもいるんだなぁと考えてしまった。