マイケル・ウォルツァー「正しい戦争と不正な戦争」を読んでみた。
戦争における道徳についてウォルツァーは二つにわけられるという。
ひとつは「戦うにあたって国家が有する理由としての道徳」=「戦争への正義」
もうひとつは「国家が用いる手段に関しての道徳」=「戦争における正義」である。
このふたつの戦争道徳は重大な対立を引き起こす。「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」である。
国家が戦う理由の正義はおもに侵略の理論がある。侵略は明白な戦争犯罪であり、それに対抗することは「正しい戦争」である。すなわち「戦争を正当化しうるのは侵略のみである」
だがウォルツァーはそれ以外の正しい戦争=正戦もあるという。そのひとつが「人道的介入」である。人道的介入は大量虐殺に手を染める政府や軍隊に対抗するためになら容認される。
さらに「復仇」という概念もある。「復仇」とはもし我々の村が攻撃されれば、そちらの村も攻撃されるだろうという警告としての戦争のことである。ウォルツァーはこの復仇理論によりイスラエルのパレスチナ攻撃を正当化するのである。
「勝利と正しく戦うこととのあいだの対立」で最も使われるのが「スライディング・スケール」論法である。それは「ある大義が有する正義の度合いが高ければ高いほど戦闘における権利が増加する」という考え方。
つまり正義の戦争であるという大義があれば、戦場においてどんな非道なこともしても許されるという考え方のことだ。この「スライディング・スケール」論法がアメリカで最も使用されるのは第二次大戦での日本への大量の民間人を殺傷する目的の空爆と、いうまでもなく広島長崎への原爆投下の正当化のためである。
スライディング・スケール論法によれば、早く戦争を終わらすことができれば、それだけアメリカ側も日本側も犠牲者の数が少なくてすむ。よって、戦争の早期解決のためになら大量の民間人殺傷を目的とする空爆や原爆投下も容認されうるというのだ。
しかしウォルツァーはスライディング・スケール論法をこう批判する。「もしある戦争によって(民間人を殺してはならないという)制約が破られれば、それは次の戦争において守られはしないだろう。短期的な利益が得られても、それは長期的な均衡の中では意味を持たない」
またウォルツァーは日本に対しては無条件降伏を求めるべきではなかったとし、1945年時点に日本との交渉の席につくべきであったという。そのときアメリカは勝利を手中におさめていたのであり、原爆投下すべき緊急性はみじんもなかったからだ。
戦争の目的を「無条件降伏」に設定すべきではないといったのは、軍事戦略家のリデル・ハートも同じだ。「無条件降伏」を目的に設定することは、より被害者を増大させることのみならず、戦場における残虐性をも呼び起こすのである。
ウォルツァーはこのように日本に対しては軍事的緊急性が低く、「例外的状況」にはなかったので、空爆や原爆投下による民間人殺傷は容認できないとするが、これがナチスになるとちがってくる。
なぜならナチスにおいては自由民主主義共同体の自由と独立が敗北に瀕していた「例外的状況」=「最高度緊急事態」だったからである。ナチスは単なる敗北を超えた災厄をもたらすものであり、このような例外的状況に対したときのみスライディング・スケールという功利計算を用いることができる。そのときウォルツァーが出す事例はチャーチルによるドイツ本土への空爆のことである。民間人殺傷が容認されうるのは「最高度緊急事態」のみであって、ナチスはその例外的状況にあたる。
民間人を殺傷してはならないという「戦争における正義」は自由と独立を破壊する災厄をもたらす敗北に直面したときだけ「戦争への正義」に道を譲るのである。
マイケル・ウォルツァーは自由と民主主義が敗北に陥る「最高度緊急事態」にだけ「功利計算」であるスライディングスケール論法を容認するが、これはリベラル・デモクラシーそのものがカール・シュミットの「友敵理論」を最大限補強することを意味している。
友敵理論とは、本来、政治的対立にすぎなかったものが、道徳的対立にすりかえられること。「友」は味方であり同胞である。それ以外は「敵」とみなされる。それも「敵」は政治的対抗者というよりも道徳的に劣った存在として規定される。それが道徳的対立である以上、敵は「在来的な敵」=対抗者ではなく、「絶対的な敵」=非人間的で怪物的な存在となるのである。
リベラル・デモクラシーと対立するものは「絶対的な敵」=非人間的な怪物として、この世界から抹殺、根絶せしめなければならない。だとするならばリベラル・デモクラシーこそ、戦争に破壊性、残虐性をもたらす最大の要因ではないのか。
「人類の名をかかげ人間性を引き合いに出し、この語を私物化すること。この高尚な名目はなんらかの帰結をともなわずにはかかげえない。敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法、非人間と宣告」(柴田寿子「リベラル・デモクラシーと神権政治」)するリベラル・デモクラシーは友敵理論を拡大化する。リベラル・デモクラシーは異質なものはどのような手段を持ってしても排除しなければ存立できない政体なのだとしたら、近代に入って民主主義や人権が啓蒙されるようになってからのほうが古代や中世より戦争の残虐性が高まった理由も理解できるのである。
【関連する記事】
- ポリコレと検閲
- コスモポリタンへの違和感
- リベラリズムとグローバリズム最大の批判者カール・シュミット「政治的なものの概念」..
- 批評における作者の復権。ノエル・キャロル「批評について」
- トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性・ボナパルティズムとは何か?
- ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世..
- ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量..
- ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その1
- イエスは神か人か・ミシェル・セルヴェ「三位一体論の誤謬」について
- リベラル・デモクラシーは差別を助長するか。レオ・シュトラウス「スピノザの宗教批判..