2015年05月04日

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

北野武の危険な本質「龍三と七人の子分たち」または北野武論

笑った笑った。犯罪ポイントで親分を決める映画史上最も民主的なヤクザ映画(笑)であり、女装の藤竜也や殴りこみ場面での中尾彬のことを思い出すと今でもニヤニヤ笑いが止まりません。劇場の雰囲気も最高で、いい年したおっさんおばさんたちが遠慮なしに大口開けながら笑いあう光景はすかしたシネコンがここだけ昭和の劇場になったかのように錯覚するほど。トラック野郎の公開時も劇場はこんな感じだったのでは?なんかここだけ東映の小便臭い小屋のように感じられて・・・

ニヤニヤしたり、思わず噴出したり、大口開けてガハハと笑って爽快に映画は終幕するのですが、キレのいいラストカットが終わり、鈴木慶一の音楽が流れ始めると、どこかもの悲しいようなさびしいような寂寥感に包まれるのは私だけではないはず。この寂寥感の背後にあるものの正体は「死」でしょう。

龍三の最後のセリフ「刑務所から出る頃にはもう死んでるよ!」を見るまでもなく、モキチ(中尾彬)の仇をとるためにジジィたち一龍会の面々は、ある者はお世話になった人に連絡し、ある者はメソメソ泣いたりしながらそれぞれ今生の別れをすまし「死を覚悟」するのである。

「死を覚悟する」=「死を意識する」ことが人に何をもたらすのか。それは普通、覚醒とか目覚めとか、気づきといったことを人にもたらすはずです。スティーヴ・ジョブズはこういっている。

自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておくことは、私がこれまで重大な選択をする際の最も重要なツールでした。ほとんどのものごと、外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったもののすべては死に臨んでは消えてなくなり、真に重要なことだけが残るからです。−スティーブ・ジョブズ、スタンフォード大学での卒業式スピーチ


つまり死を間近に意識すると、人はわが身を振り返り、より生の貴重さを実感し、正しく道を選択することができる、というわけです。

だがしかし龍三たちは死を間近に意識した後何をするかというと、狂うのです。ただ狂い暴れるのです。京浜連合の半グレどもは龍三たちと幾度か遭遇すると「狂ってる・・・」と吐き捨て逃げていきます。龍三たちにとって死は人生の意味や意義をみずからに問いかけるような機会とはならず、ただ「狂う」きっかけにすぎないのです。

いったいこの違いはどこからくるのか・・・これはいうまでもなく北野武の本質からくる違いです。北野武は映画「HANA-BI」(1998)公開時のインタビューでふと背筋が寒くなるようなことを漏らします。それは「もらす」というにふさわしい北野武の本質があらわになった瞬間でした。

「変な言い方をすれば、死を意識してやるんだったら、何をやってもいいと思ってるわけ。悪は法律的には悪に違いないけれど、自決の覚悟が出来ている悪は許してもいい」−BRUTUS 1997年10月号


私はこれほどギリギリで危険な発言をした北野武を以後知りません。なぜならこの後2001年9月11日以降イスラム過激派によるテロが全世界的に拡大していったために、北野武のこの発言はテロを擁護するものと受け取られかねず、これ以後北野武はこの考え自体を封印してしまったからです。

9.11以降秘匿され、隠蔽された北野武の発言。二度と口にされることなく封印された言葉・・・それこそが北野武の本質とはいえないでしょうか。

北野武の「公式見解」ー「振り子理論」なるものは彼の本質でも哲学でもなんでもない。たんなる処世術にすぎません。アウトレイジのようなバイオレンスものが続いたから次はコメディを撮る。成功作が続いたから次はめちゃくちゃな失敗作をわざと撮る。北野武とビートたけしの間を行ったりきたりする・・・これはたんなる自己防衛作、処世術でしかない。

北野武が9.11以降決して口にすることのなくなった

「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

これこそが北野武の本音であり、本質であり、彼の根幹を支える哲学に他ならない。

死を覚悟した人間はただ狂い狂うことが許される。人の命を奪うことさえ許される。いったいこの野放図な考え方は何なのでしょうか。ここにもうひとつの北野武の思想=本質があらわになります。

かって石原良純は北野武と番組で共演したときに宇宙の話になり、こういう北野武の話を聴かされたそうです。

「この宇宙は人間が生み出したものなんだよ。人間が死ねばこの宇宙も世界も消えてなくなるんだ」


これは「独我論」というものです。「私」が存在するがゆえにこの「宇宙」は存在する。「私」が死ねばこの「宇宙」は消滅する。客観的に存在するものなど何もないという考えです。まるでおとぎ話か世迷いごとのように聞こえるかもしれません。しかしこういう考えもあるのです。

われわれの惑星で生命が誕生するのはどれくらいの偶然が重なったかというと、大竜巻がくず鉄置き場を襲った結果、ボーイング747ができあがったのと同じくらい偶然だという。−ミチオ・カク「パラレルワールド」


この宇宙、この世界はあまりにも人間に都合のよいように出来すぎているというのです。人間が存在するからこの宇宙が存在する、これを宇宙論における「人間原理」といいます。しかしこうした独我論の行き着く先はこれもまた危険なものにならざるをえません。この世界は自分が存在するから存在するのだとしたら、自分が存在しなければ何の意味も価値もないということになる。究極的には

「この世界にはなんの意味も価値もない」


という「相対主義」におちいるのです。

そしてディープな北野武ファンや北野ウォッチャーなら薄々気づいていると思いますが、北野武は「相対主義者」です。

「振り子理論」のような「公式見解」の北野武ではなく、本人が秘匿し、隠蔽してきたイデオロギー

「この世には何の意味も価値もない」
のであるならば
「死を意識してやるんだったら、何をやってもいい」

という北野武が秘匿してきた本質があらわになるのです。

「龍三と七人の子分たち」のような大衆娯楽作品にさえ自分自身のどす黒い刻印が色濃くこびりついてしまうというのは、北野武はつくづく「呪われた人」だなぁというほかありません。それも「映画」が北野武を「呪う」のではなく、「北野武」が映画を「呪う」のです。フェリーニも溝口健二もブレッソンも「映画」に「呪い」をかけられた映画作家たちです。しかし北野武だけが「映画」に「呪い」をかけることができるのです。
posted by シンジ at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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