2015年02月21日

平凡で愚かな普通の人々のための「アメリカン・スナイパー」

平凡で愚かな普通の人々のための「アメリカン・スナイパー」

映画「アメリカン・スナイパー」のテーマのひとつが「戦場と日常生活は地続きである」ということにあるのはイラクの戦場にいるクリス・カイルとアメリカにいるクリスの妻タヤとのあいだをつなぐ衛星電話の描写が頻繁にあることからもわかる。

しかし戦場と日常とが地続きであったとしてもクリスとタヤの見る現実は様相を異にする。といっても血みどろの戦場と穏やかな日常生活の違いといいたいわけではない。

様相の違いとは当人たちが抱える虚構度の違いといっていい。クリスとタヤの見る世界の虚構性の相違が戦場のクリスと地続きであるはずの日常のタヤとのディスコミニュケーションを際立たせているのだ。

タヤの場合は日々の生活、食事を作り、洗濯をし、子供の世話して・・・という地に足ついた生活世界に住まうのに対し、クリスは「大義」の世界に生きる。ケニアとタンザニアでのアメリカ大使館爆破テロにショックを受けたクリスはネイビーシールズの門を叩き、「国を守る」という「大義」の世界に住まうようになるのだ。さらに9.11のテロ以降クリスの「国を守る」「家族を守る」という大義は絶対的なものとなる。だが、この大義は空疎な概念=虚構でしかない。

クリスは家族を守るといいながら戦場に行きっぱなしで家族を放置し、国を守るといいながら、実際は9.11テロとフセインのイラクには何の関係もなかった。タヤが現実の生活世界に立っているのに対し、クリスは完全に空疎で中身のないものの上に立っているのである。

クリスが拠って立つ大義の世界とはおよそ現実とは言いがたい虚構の世界である。しかし男というものは虚構性が高ければ高いほど、それに吸い寄せられ没我していく生き物だ。

太平洋戦争時、日本人は何のために自分を鼓舞し戦ったか?妻や子供を守るためにといいながら戦っただろうか?・・・彼らは妻や子供や家族よりももっと抽象性、虚構性の高いものに自らを仮託して戦ったのだ。いわく天皇陛下のために・・・いわく靖国で会おう・・・。それらの言葉は無理やり言わされたのではない。人間は家族や生活といった地に足着いた具体的なものより、より抽象性や虚構性が高い「崇高なもの」のためにしか自身を奮い立たせることができないのだ。

「崇高なもの」のために戦う以上、この戦いには「意義」があり、自分の苦労や仲間の死にも「意味」があると思えるのである。

そしてここは声を大にして言いたいが、イーストウッドはこの「国のために戦う」という大義を口にするクリス・カイルを完全に空っぽな存在として意識的に描いている。おそらくこの映画での最重要シーンはベッドの上でのカイル夫妻のこの会話である。

(なぜあなたが戦場に行かなければならないの?という問いを投げかける妻のタヤ)
タヤ「なぜあなたがやるの?」
クリス「君のため、君を守るためだよ」
タヤ「私はここにいて、子供たちもここにいるのに、父親だけがいない」
クリス「国のためなんだよ」
タヤ「もう十分犠牲を払ったわ。他の人に替わればいい」
クリス「自分が自分でなくなってしまう」
タヤ「自分を変えればいい」


この場面でのタヤの力強い存在感にくらべ、クリスの存在感の希薄さといったら・・・。その希薄さは彼の発する言葉の空疎さから生じているのは明らかだ。その言葉の空疎さ、弱々しさに見るものはハッとさせられる。タヤが依拠しているものの力強さと比べてクリスの依拠しているものの脆弱さに気づかされるのだ。

クリスがイラクからアメリカに帰還しながら、妻や家族の元に帰らずひとりバーで飲んでいるのはなぜか。大義という虚構の世界から、地に足ついた生活世界へ足を踏み入れることになぜためらうのか?大義の世界では自分は「何者」かでいられたのに対し、生活世界では「何者」でもなくなるからだ。

またクリスに戦場で助けてもらったと感謝する青年に対しクリスはどんな態度をとったか。クリスの身の置き所のなさ、とまどい、一刻も早くここから立ち去ってしまいたいという衝動・・・。正義の戦争を戦っていると信じているのなら、青年の心からの感謝を素直に受け取ればよいではないか。だが、クリスはただとまどうのだ。なぜなら彼は心の奥底でこの戦争の大義は虚構=いつわりだと気づいているからである。

真にアメリカという国家を守りたいのなら他にもやり方はあり、真に家族を守りたいならタヤと子供のそばにいるべきなのである。だが彼はそうしようとはしない。偽りの大義でも大義だけが自分の存在を正当化してくれるものだからだ。

たとえいつわりでも「大義」はくだらない瑣末な日常に埋没する退屈な自分を忘れさせてくれる。1マイル先の敵をしとめることができる銃は自分の世界を拡張し全能感を充たしてくれる。まるで自分が偉大な人物になったかのように思えるほど・・・。これは明白なことだが、イーストウッドはクリス・カイルをヒーローとしてではなく徹頭徹尾平凡で愚かな人間として描いている。そのことはクリスがイラク人を「Savage」=野蛮人と呼んでいることからもわかる。イラク人全体を野蛮人と蔑む男が正義のヒーローでありうるだろうか。クリス・カイルはアメリカのどこにでもいる平凡で愚かな普通の男として描かれているのだ。

いつわりの大義も、銃も、愚かで卑小な自分を忘れさせてくれる全能感を提供してくれるものにすぎない。自分が何者でもないちっぽけな存在であることに耐えられない男。それがイーストウッドの描く英雄クリス・カイルその人である。

そう考えるとラストのクリスを見送る星条旗の数々もまた違った意味を帯びて見えてくる。最初見たときはあまりにも愛国主義的で「うわ〜」と閉口したけど、星条旗を振っている人々もまたクリス・カイルと同じ平凡で愚かな普通の人々なのだ。彼らもまた星条旗や偉大な国アメリカという虚構=幻想にすがりつくほかない弱い人々だ。誰が彼らを断罪できるというのか。それは私がネトウヨと呼ばれる人々の主張を心底唾棄しながらも、彼らの弱さやみじめさは完全に理解できるのと同じことだ。
posted by シンジ at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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