2015年02月01日

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性・ボナパルティズムとは何か?

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性ボナパルティズムとは何か?

1848年のフランス二月革命、6月事件、翌年の6月反乱の激動の時代。政治思想家であり、政治家であり、当時の外相でもあったアレクシス・ド・トクヴィルが自分の見たもの、経験したことだけを冷徹なまでに観察、分析する、面白すぎて鼻血ものの一冊。2014年度シンジのベスト1でもあります。

トクヴィルがこれを書いたのが1851年ごろなので、ものすごくHOTな経験を時間を置かずに即座に書いたことになります。にもかかわらず、その筆致は冷静で客観的。今読んでも恐ろしいほどに激動のフランスを捉えていてトクヴィルの異常なまでの観察眼と分析力にうならされます。

なぜここまでトクヴィルが冷徹なまでに人々を観察しえたのか。それは彼がなんとしてでもフランスの共和制を守ろうとしたがゆえに、敵と味方をすばやく的確に見分ける必要があったためでもあります。共和制を誰から守ろうとしたのか・・・それは社会主義者と大衆とナポレオン三世からです。

トクヴィルが共和制最大の敵と見定めたルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)を見つめる目も一筋縄ではいかない。トクヴィルはルイ・ボナパルトのカリスマを認めながら、その底に狂気があることをも喝破している。トクヴィルの観察眼は凡庸なものではなく、どんな人間に対しても二面性があることを見透かしているのだ。(実兄の妻にもその冷徹な分析力を向けるところなんて笑える。)

そのたぐいまれなる観察眼は人間だけでなく、社会にも向けられる。1848年のフランス、パリで何が起きたのか。二月革命は1830年のフランス7月革命によってすでに予感されていた。中産階級(ブルジョワジー)によってなされた7月革命が貴族階級(アリストクラシー)と結びついたことにより堕落し、第三の階級である労働者たちを怒らせたのだ。こうして二月革命によりルイ・フィリップは追い落とされフランスの王制は完全に幕を閉じるのである。

二月革命はそれ以前のフランスの革命とははっきり性格の違うものだった。それは貧しい労働者階級の貧富の格差に対する怒り。そしてその格差を生む「所有権」に対する攻撃が基盤となっていた。労働者たちは貧富の差をなくすには政府の首をすげ替えるだけでは不可能であり、社会全体の仕組みを変えなければならないと思うようになっていたのである。

トクヴィルは二月革命時、道で出会った労働者にこう言われる。
「内閣が倒れたことは知っていますとも、そうですとも。しかしそうした以上のことを私らは望んでいるのです」

トクヴィルの友人は自分の家の奉公人がこう話しているのを聞いたという。
「次の日曜日、若鶏の手羽を食べることになるのは俺たちだろう」
「そして絹のドレスを着るようになるのは私たちよ」

二月革命以前のフランスの革命はしょせん政府を交代させるための革命にしか過ぎなかったのに対し、二月革命ははっきりと「社会主義革命」の様相をおびていたのだ。

トクヴィルはこうした革命の性格の変化は産業革命が起こした必然的なものだという。産業革命によりパリはフランス第一の工業都市になり地方の貧しい農民たちが職を求めてどっと集まってくる。パリはきらびやかで快楽に満ち溢れているが貧しい労働者階級はそれを享受することもできず不満を蓄積させていく。そこにあらわれた社会主義という理論に人々は突破口を見出す。貧困はこの国を支配する理不尽な社会の仕組みによって成り立っている。したがってこの貧困をなくすためにはこの社会全体の仕組みを破壊しつくすしかない。

社会主義は二月革命の基本的性格として、また最も恐るべき思い出としてあり続けるだろうートクヴィル


民衆はいくら政府の首をすげ替えても、内閣を倒そうとも、貧困はなくならないことを悟り、これを変革するには社会の不変の法則と考えられていた「所有権」を廃止するしかないということを発見するのだ。

しかしこうしたパリの労働者階級の「所有権」に対する攻撃は逆に地方の人々を恐怖と怒りで立ち上がらせることになる。皮肉なことに労働者たちの所有権への攻撃が地方の人々の身分の差や貧富の差を超えた連帯を生み出してしまうのだ。

「私が(地元に帰って)目撃してもっとも驚いたことはパリに対する憎悪が全般的に拡がっていることであった」

労働者階級は「彼らの大胆な計画と乱暴な言葉で国民をこわがらせてしまい、その行動における優柔不断さをもって国民が彼らに抵抗する余地を与えてしまった」

こうして4月の総選挙では革命派は敗北し、共和派が勝利することになる。

「諸革命が人々を疲れさせたことや、その革命が約束ばかりを乱発したことが、政治に関してのあらゆる情熱を衰弱させてしまったという状況のなかで〜」

いわば政治的アパシー(無感動)のさなかに大衆の心をつかむものがあらわれる。ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)である。彼の登場によりトクヴィルは政治家としての目標をはっきりと見定めることになる。

「この目標というのは、共和制の崩壊を回避すること。とくにルイ・ナポレオンの血統の確かではない王朝の成立を防ぐことであった」


しかし民衆の革命疲れからくる政治的無感動状態のなかでトクヴィルの思うようにはことは運ばない。1849年の選挙ではトクヴィルの共和派は敗北し、保守派(王朝派)と左派だけが議席を伸ばす。両者ともに民主主義など屁とも思ってない連中である。この危機的状況の中トクヴィルは外相に就任する。誰もが短命内閣だと予想していたのでなり手がいなかったのだ。

内閣に入るとトクヴィルは本心では「敵」と見定めているルイ・ボナパルトに信用されるようにふるまい、主義主張の異なる王朝派ともパイプをつなげようとする。トクヴィルは共和制の敵=ナポレオンに近づき、法律を改正し大統領再選を認めてもいいと交渉しさえする。共和制を守るためなら悪魔とも手を握る覚悟なのだ。

トクヴィルはまた王朝派とも良好な関係を築くことにも腐心した。だがこれはトクヴィルにとってたやすいことだった。なぜならトクヴィルは貴族階級だったからである。トクヴィルはブルジョワジーが中心となる共和派だったが、最後までブルジョワジーになじむことができなかった。彼の思想とは相容れない王朝派といるときが一番気楽だったのだ。このトクヴィル自身の矛盾はエイゼンシュタインが「イワン雷帝」で描いたものと同じで興味深い。

トクヴィルはこうして敵であるナポレオン三世や王朝派と綱渡りをするような駆け引きによって必死に脆弱な内閣を運営していこうとするが・・・ナポレオン三世のクーデターによってもろくも崩れ去るのであった。

注目すべきはその政治的アパシーの間隙を縫ってルイ・ボナパルトが大衆の支持を勝ち取る過程である。混迷の時期には政治は左右の党派に極端に分かれる。そのために議会はなんの決断もできず改革も実行できない。度重なる革命騒ぎ、守られることのない約束手形の乱発に民衆はうんざりしてくる。そして民衆はなんの決断も改革も果断にできない共和制=議会制民主主義を見捨て、一気に決断し、果断に実行することのできる独裁的権力を渇望するようになるのである。

ルイ・ボナパルトはクーデター直前の演説で革命を痛烈に批判し、こう叫ぶ
「私は将来にわたる平穏を約束する!」
民衆からの大喝采を浴びるルイ・ボナパルトはクーデターの成功を確信しただろう。

日常と平穏=「所有・家族・宗教・秩序」という旧来の価値観が革命に取って代わり、全面的に称揚される。
「終わりのない恐怖より、いっそ恐怖で終わるほうがいい!」ーマルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」

民衆はいつしかそう望むようになっていくのである。

トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性ということでいうなら、よく人は小泉純一郎や安倍晋三をヒトラーになぞらえたりするが、それは歴史を知らないだけで、実際彼らとそっくりなのはルイ・ボナパルトである。

これは柄谷行人が「表象と反復」で書いているように、ボナパルティズムというのは「資本が国民経済を超えて拡張しなければならなくなる転換期に生じるのである」

つまり国内経済重視の保護主義vs市場開放主義の争いがルイ・ボナパルト期のフランスでも起きていて、この深刻な対立をまるで解消するかのようなイメージで現れたのがルイ・ナポレオンなのである。

「ルイ・ボナパルトは本質的には保護主義者であり、しかし実際的にはサン=シモン主義者(市場開放主義者)としてふるまった」

これどこかで聞いたことがないだろうか。保守主義者としてあらわれながら、実際にやっていることはグローバリゼーション推進という政治家が日本にも存在しなかっただろうか。

経済の低迷と政治の実行力のなさに無感動状態になった大衆の前に政治における決断主義と旧来の価値観の復活を約束するもの。すべての対立を解消するといって現れる者。

「それらの要求をすべて充たすかのようにふるまう政治家はボナパルティストであるといってよい」−柄谷行人
posted by シンジ at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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