漫画ワンピースの尾田栄一郎は「沓掛時次郎 遊侠一匹」が大好き、でも監督の加藤泰のことは知らない。鈴木敏夫が加藤泰の叔父である山中貞雄のことを聞くがそれも知らない。でも山中貞雄作「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」は大好き。変な映画の見方してるな〜。それとも作家主義に毒されてない純粋な映画ファンとでもいえばいいのか
山中貞雄脚本の水戸黄門三部作見る。全部で180分くらい凄いボリュームだ。凄く面白い活劇で山中ファンは必見だけど、一番の見所は高勢実乗の珍芸がたっぷり見られること。かって小林信彦が高勢実乗をどう思うか爆笑問題の太田光に聞いてみたいと書いてたけど、さすがに知らないでしょう。
山中貞雄脚本の「水戸黄門三部作」1935は明るく楽しくおおらかな前期山中の魅力を堪能することが出来る。しかし1935年の暮れに母親が亡くなってから山中の作風に陰鬱さがでてくる。その絶望が最も色濃く出たのが「森の石松」(1937)である。ラストの凄惨さは「民衆の敵」に影響をうけたもの
伊藤大輔「御誂次郎吉格子」でめずらしいなと思ったのは、あの高勢実乗が普通に悪役を演じていること。伊丹万作「国士無双」(1932)からあの喜劇役者としてのブレイクがあったみたい。山中貞雄も「国士無双」の高勢をみて自作に重用するようになった。
撮影監督宮川一夫は深水藤子のことが好きだったのではないかと言ってるのは山中貞雄の姪の原田道子さん。
原田道子さんは山中貞雄の姪御さんで山中が13歳の頃から一緒に暮らしはじめ、山中が鳴滝に住むようになってからまた一緒に住むようになった人。
原田道子さんは夏になると深水藤子に誘われて高浜に部屋を借りて一週間くらい泊まりに行った。山中貞雄は浮いた話のない真面目な人だったが、深水藤子は「監督がお茶を誘ってくれたのは女優の中では私ひとりだけなのよ」と言っていたという。
この原田道子さんのインタビューではじめて知った事実。宮川一夫が深水藤子を潮干狩りに誘ったとき二人きりではいけないので原田道子さんを連れて行った。原田さんは宮川一夫を見ていて、深水藤子のことを好きなのではと思ったという。山中貞雄と宮川はすごく気の合う親友同士・・まさに三角関係!?
山中貞雄「海鳴り街道」玩具フィルム。稲葉小僧(大河内伝次郎)が捕り手から逃げるシーン、大ロングの大横移動撮影。キラキラとひかる水面をバックに斬り結ぶシーンは俯瞰で。さらには夜間、捕り手が手にたいまつを持ちながらの捜索場面。わずか1分ほどのフィルムでこれほど興奮したことはない。
山中貞雄「海鳴り街道」はシナリオを読んだ限りでは退屈で、当時の評価も低い作品。でも実際フィルムを見たら凄いことをやってる。やっぱり実際見ないと山中の天才はわからないなぁと。
溝口の「故郷」(1923)は地主に抵抗する小作人たちの描写がズタズタにカットされ、山中貞雄「盤獄の一生」(1933)は住民運動の部分がカット。では伊藤大輔の「斬人斬馬剣」1929はどうだったのか?テーマはモロに百姓一揆だけに検閲に相当やられたと思うのだが。
筒井康隆作、山中貞雄「街の入墨者」のフィルムを上映する夢の映画館の話「CINEMAレベル9」所収の「夜のコント・冬のコント」
筒井康隆「CINEMAレベル9」山中貞雄ファンなら泣くしかないラストの数行。「街の入墨者」河原崎長十郎演じる岩吉のセリフ「佃島の牢を破って逃げた男です。こいつは与平次。やったのはこいつです。お調べください」疑いの晴れた岩吉は微笑みながら死んでいく・・体がぶるっと震える。
山中貞雄の好物は鯖寿司
黒澤明「七人の侍」創作ノートの山中貞雄話。橋本忍は新東宝から山中貞雄の「抱寝の長脇差」をリメイクするから脚本を直してくれと言われたが、完璧すぎて直すところがないので断ったそう。
「七人の侍」創作ノートの山中貞雄話。山中が東宝(PCL)に移籍してきて最初の撮影。「よ〜い・・・ここではなんて言うん?」でスタッフ大爆笑という話は評伝山中貞雄にも書いてあった。東宝での山中は最初から尊敬され愛されていたのがわかる。しかし1933年日活に移籍したときはそうではなかった。
山中貞雄が1933年日活に移籍して最初の「薩摩飛脚後篇」の撮影時は面前でスタッフから悪口を言われたり、指示を誰も聞こうとしなかった。山中は当時23歳、若さゆえにスタッフからあなどられていた。だがそれが一変したのが試写後。いままで山中を馬鹿にしていた連中が急に巨匠あつかいしだしたという
9月17日は山中貞雄の命日です。山中貞雄の隣で寝ていた坂本忠二郎氏の話。一週間ぐらい前にはもう覚悟を決めていたのか遺品についていろいろ話をされ友人の方々に私が代筆しました〜臨終は実に安らかで、どうかこんな病気で死んだなんて家に言ってくれるな、と繰り返して自分等を泣かせました。
山中貞雄ニックネームの変遷。京都一商時代「ジヤマ」。マキノ時代「社堂」→「社汰やん」。日活からPCLにかけて「サドやん」
ルビッチの「私を殺した男」(1931)を参考にしたのが山中貞雄の「街の入墨者」(1935)。前者はフランス人がドイツの街で冷遇され、後者は前科者が町で冷遇される。
ウィリアム・ワイラー「お人好しの仙女」The Good Fairyなんて興味あるな〜。1930年代は日本でもワイラーは神格化されていて小津は山中貞雄の第2作目「小判しぐれ」を見て「ワイラーみたいなものを撮ったらどうか」とアドバイスしている。
「日本映画における外国映画の影響」では山中貞雄が最も影響を受けたのはルーベン・マムーリアン。山中がマムーリアンに影響を受けた最大のものは縦の構図と間接話法。
山中貞雄の間接話法は一作目の「抱寝の長脇差」に有名な場面があります。喧嘩に出かける源太が下駄をつっかける足のアップ。次のカットでは下駄は川に浮かんでいるのです。つまり喧嘩の場面を省略し、川に浮いた下駄で喧嘩の終了を間接的に見せているわけです。
「抱寝の長脇差」の省略話法はまんまマムーリアン「市街」1931の影響です。さらに縦の構図について面白いことが。この「縦の構図」という言葉は相川楠彦という批評家の造語でそれも「山中貞雄」論で使ったのが最初だそうです。これから縦の構図を使うときは頭の隅にでも置いてください。
ハスミ大先生がこんなことを・・山中貞雄が「喝采」や「市街」に感銘を受けそのトーキー技法の一部を自作に活用したということはあるだろう。だが山中貞雄の作品は無声映画を一本も撮ったことのないマムーリアンに影響を受けたという性質のものではない。
「百万両の壺」は一つの無駄なショットもないが、「市街」には少なく見積もっても二十は無駄なショットを指摘することが可能である。つまり映画史的に見てマムーリアンは山中貞雄の簡潔さをこそ学ぶべきであり、その逆ではない。ー蓮實重彦「山中貞雄論」
あと蓮實先生が伊丹万作を批判したことにもちゃんと理由があるんだな〜とわかった。1935〜6年頃北川冬彦、滋野辰彦らが痛烈な山中貞雄批判を繰り返してきた。
山中貞雄は常に賛否両論でした。当時の批評家が山中を批判する決まり文句は「思想がない」でした。
ー「我々はサイレント時代から山中に思想の欠乏していることを言い続けてきたのだが、トーキーの時代となるにつれ、彼の思想の貧困は一層顕著なものとなってきた」(滋野辰彦)
山中貞雄と伊藤大輔がどういうふうに批判されていたか?「面白すぎる」と批判されていたのだ。「面白すぎる」ゆえに山中は「思想がない」と批判され、伊藤は映画話術の巧みさゆえに「内容がない」と批判され続けてきた。
山中貞雄は執拗に繰り返される批評家からの攻撃に「わい、もうあかんね」と友人に打ち明けている。そして思想がない中身がないと攻撃されたあげく、そうした批評に答えるためか最も厭世的な「人情紙風船」を撮る。批評がここまでひとりの映画作家を追いつめたかと思うと鬱になる。山中貞雄に明るく楽しい映画を撮らせようとしなかった当時の批評家を憎む。
山中貞雄本とか伊藤大輔本とか読んでると必然的に昔の批評を読むことになる。その批評はどんなもんかというと、伊藤大輔の油の乗りきった頃の「続大岡政談魔像解決編」1931を北川冬彦は「ここでは往年の伊藤大輔の気魄といったものはどこにも見いだせない」とか言っちゃってるわけだ。
北川冬彦はまた山中貞雄の「怪盗白頭巾」1935を「こんな面白さというものは見ているときそれだけである。」滋野辰彦にいたっては「海鳴り街道」1936を「山中のどこに芸術家的稟質を認むるか、全く疑問だと言う外はない。もし彼をしも作家と認むるならば、講釈師も芸術家と呼ばねばなるまい」
山中貞雄や伊藤大輔は映画のフォルムにのみこだわる空虚な作家であるというのがその理由でした。北川冬彦いわく山中、伊藤の作品は「韻文的」であるがゆえに評価に値しない。逆に「散文的」な伊丹万作こそ評価に値する芸術家である。
そして北川、滋野が山中貞雄、伊藤大輔を腐したあと決まってほめるのが伊丹万作というわけです。そして蓮實重彦の山中貞雄論では彼らが山中を腐す時に使う「韻文的」という言葉を逆に使って山中を絶賛している。それは蓮實の旧来の批評家に対する怒りをこめた反論なのです。
1930年代北川冬彦という詩人兼批評家が山中貞雄を激烈に批判したのです。彼は 山中を「韻文的」という言葉で批判しました。「韻文的」とはなにか?
韻文的とは言葉において「意味」よりも、その「響き」を偏重した文章のことである。山中貞雄のフィルム断片において、その「現実」リアリテよりもその「形」フォルムに感覚を向けている。ー北川冬彦「山中貞雄論」
つまり山中貞雄の映画には思想もなければメッセージもない、フォルムだけではないかと批判しているのです。しかし私があえて言いたいのは、フィルムがうつしだすのは「フォルム」のみである。ということなのです。
杉浦日向子が書いてた長屋暮らしの三つのルール。第一に初対面の人に出身地や生国を聞かない。第二に年齢を聞かない。第三に家族を聞かない。これは俺が考えてた長屋像とはずいぶん違う。
江戸の長屋暮らしというとプライバシーのない過干渉のうっとおしい世界だと思っていた。山中貞雄もそう思ってたからこそ「人情紙風船」で長屋を冷ややかに描写していた。しかし実態が杉浦日向子のいうとおりだとするとがぜん三村伸太郎版「人情紙風船」が正しいということになる。
山中貞雄版「人情紙風船」と三村伸太郎版「人情紙風船」についてはここを読んでください。「山中貞雄と三村伸太郎、脚本をめぐる攻防」