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量子の性質をディヴィッド・ドイッチュが懐中電灯の光を遠く離れたところから見るとどうなるかという例を出してわかりやすく書いているのでそれを引用する。
懐中電灯からほぼ1万キロメートルの距離のところでは、光は弱すぎて人間の目では検出できなくなり人間の観測者には何も見えないだろう。しかし、視覚のもっとするどい動物はどうだろうか?カエルの目は人間の目の数倍も鋭敏である。もし観測者がカエルだったとすれば、懐中電灯からさらに遠ざかりつづけても、電灯が見えなくなる瞬間は決してこない。しかしその代わりにカエルには電灯がまたたきはじめるのが見えてくる。またたきは不規則な間隔で現れ、遠ざかるにつれて間隔が長くなっていく、電灯から1億キロメートルの距離ではカエルは平均して1日に1回の割合でしかまたたきを見ないが、ひとつひとつのまたたきはどの距離から観測しても同じ明るさだ。−ディヴィッド・ドイッチュ「世界の究極理論は存在するか」
そのまたたきこそ、光が連続的なものではなく、ひとつひとつの粒でできているあかしだ。測定できるすべての物理的なものは光のように連続的に見えるようにみえて実は粒子でできている。ーそれを量子という。
そしてその量子の奇怪な性質をあらわしたのが量子の「二重スリット実験」である。言葉で説明するとよくわからないと思うので動画を見てほしい。
量子の「観測」によって収縮し、実体化するというこの奇怪な性質こそニールス・ボーアの量子のコペンハーゲン解釈である。
コペンハーゲン解釈
@いかなるエネルギーも量子という離散的な束を単位として生じる。
A物質は点状粒子であらわせるが、その粒子が見つかる確率は波として与えられる。そしてこの波は特定の波動方程式に従う。
B観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する。物体の状態を確定するには観測をする必要があり、それにより波動関数は「収縮」し、物体が明確な状態になる。観測という行為が波動関数を解体し、物体にはっきりとした実体をもたせるのである。−ミチオ・カク「パラレルワールド」
コペンハーゲン解釈の量子は「観測」によって実体化するという考えを一笑に付したのが、量子論の発展に重要な役割を果たしながら、のちに疑問を呈するようになったシュレーディンガーである。彼の有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験は二重スリット実験によってあきらかになった量子の奇怪な性質を皮肉るために彼が考えた思考実験である。
一匹の猫が箱に閉じ込められているとする。箱の中には毒ガスの入ったビンがあり、ビンにはハンマーが取り付けられ、さらにそれがウランのかけらの近くに設置したガイガーカウンターにつながっている。ウラン原子の放射性崩壊が起こる確率は50%だとしよう。もし崩壊すればガイガーカウンターが反応し、それでハンマーが作動して毒ガスのビンを割り、猫は死ぬ。しかし箱を開けるまで猫の生死はわからない。ー「パラレルワールド」
量子のコペンハーゲン解釈が正しいのなら、箱の中の猫は人間が観測する前は実体化していないのだから、50%生きていて50%死んでいる状態のまま存在することになる。そんなことがありうるか!?というのがシュレーディンガーの言いたいことだ。
最後まで量子論を認めなかったアインシュタインもまたこんなことを言ってコペンハーゲン解釈を嘲笑している。
「月を見たまえ、どこかのネズミが見たときに、あれはいきなり現れるのかね?」
しかしシュレーディンガーの猫のパラドックスには解決策が二つある。ひとつはバークリ的解釈である。バークリは哲学史上では観念論を唱えたことで知られている。バークリの考えはこうだ。「物質は人間の外側には存在しない。物質は人間の心の中に存在する」。たとえば「痛み」を考えてみよう。針で指を刺すとする、その痛みは針という外の世界に存在するのだろうか。痛みは針の中にあるのではなく人間の内側にしか存在しない。それは熱さや冷たさも同じで人間が外側にあると思っているものすべては人間の内側にしかないものだ。
バークリ的解釈とは最初に世界があってその中にわたしがあるのではなく、わたしのなかに世界があるのである。わたしが「見る」から世界は存在するのだ。まさにバークリの考えは量子論に合致するのである。「わたしがいるから世界は存在する」こうした独我論的考えは当然、わたしが死ねばこの世界は消えてなくなってしまうという考えをもたらす。しかしバークリはそれを否定する。わたしが死んでもこの世界はなくならない。なぜならこの世界すべてを「見る」神が存在するからだ。シュレーディンガーの猫のパラドックスのバークリ的解決法とはわたしが見る前に「すべてを見ているなんらかの存在」がいることによって量子はすでに実体化しているとするものだ。
わたしが観測してはじめて量子が実体化するのであるならば、観測するわたしを観測するものがいなければわたしは実体化しない。さらにわたしを観測する誰かを観測するまた誰かが観測される必要があり、これが無限に続く・・・・。無限後退する議論は偽であると懐疑主義者であるセクストス・エンペイリコスは言っている。バークリ的解釈ではすべてを観測するものは神だそうだが、いまさら神を信じろといっても無理というもの。これでは量子のパラドックスは解けそうにない。
そしてもうひとつの解決法こそ本命のライプニッツの可能世界論によるシュレーディンガーの猫のパラドックス解釈である。
今回は量子論の説明だけでエヴァの話が出ませんでしたが、次回は出ます!
次回はライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その3多世界論です。
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