以前、「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」というものを書いた。それはエヴァQのテーマが“自由意志はエヴァ世界に存在するか?”というものだったからだ。そしてエヴァQは自由意志に否定的な世界観を描き出した。ー「決定論的世界」である。
決定論的世界とはダニエル・デネットの定義によれば
どの瞬間にも物理的に可能な未来はたったひとつしかない。
というものだ。つまりわたしが今こんなことをしているのも、将来あんなことになるのも、あらかじめ決められているとする考え方。運命や宿命なるものがこの世界の隅から隅まで張りめぐらされているとする世界観のことだ。
わたしはそれを「エヴァンゲリオンQと自由意志問題」では、キリスト教的決定論観によるものとして描き出した。だが、決定論的世界観と自由意志の対立はそれだけではない。決定論と自由意志とがもっとも激しく戦った時代、17世紀ヨーロッパの思想上の戦いをここに描き出したい。
17世紀ヨーロッパでは歴史上最大の決定論と自由意志の論争があった。そしてその論争はひとりの宮廷人を中心に交わされていた。その宮廷人とはライプニッツである。ハノーファー選帝侯に仕えていたライプニッツはそのあくなき知識欲と探究欲でヨーロッパ中の知識人とやりとりがあった。そのなかでもライプニッツ最大の敵といえる人物が二人存在した。
ひとりはオランダのレンズ職人にしてユダヤ社会から永久追放された異端者にして隠遁者であるスピノザである。ライプニッツはその思想上の最大の敵とも言えるスピノザにオランダまで直接会いに出かけて、議論を戦わせている。
そしてもうひとりの敵が万有引力を発見した古典物理学の祖であるニュートンである。ライプニッツとニュートンは微分積分法をどちらが先に発見したかで長年争っていたが、論争はそれだけではなかった。1715年から1716年ライプニッツは死の直前までニュートンの弟子であるクラークと手紙で激烈なやりとりをしている。この論争はニュートンの机からクラークがライプニッツにあてた手紙の草稿が発見されていることから、実質ニュートンとライプニッツのやりとりであるといっていい。
当時のヨーロッパ最高の頭脳三人が同時期に存在し、実際に議論を戦わせたのである。そしてこの三人の最大の争点となる対立こそ決定論vs自由意志にほかならない。
16世紀宗教改革吹き荒れる時代にカルヴァンがアウグスティヌスの決定論的世界観の焼き直しである予定説を唱える。つまり救われるものは生まれる前から神によって決められている。人間が努力して人生を変えようとしても変えられないし救われることもない、という自由意志完全否定の教説。こうしたキリスト教の決定論的世界観に対して非キリスト教の決定論的世界観を打ち出したのがスピノザである。
スピノザはキリスト教の神のようなこの世界の外側にいる(超越的という)存在が世界のものごとを決めているという考えを否定し、世界のものごとのすべてを決めているのは、人間や生物すべてに内在する自己保存欲求(コナトゥス)であるとする。自己保存欲求という原理が原因と結果の無限のつらなりによって埋め尽くされている世界。これがスピノザの決定論的世界である。
われわれの行動すべてはコナトゥスから発する因果関係が網の目状に広がった世界の一点であり、わたしがどのように考え、どのように行動するかも因果関係の網の目世界によってすでに決められている。ひとが自分には自由があると錯覚するのは、因果関係の網の目が広大すぎて主観では捉えられないからにすぎない。・・・ライプニッツはこうした決定論的スピノチズムと戦ったのだ。
ライプニッツもうひとりの敵ニュートンの決定論的世界観は古典物理学の基本仮説からくる。
ニュートンの古典物理学の基本仮説とは
@この宇宙には絶対的な時間と空間の枠組みが存在する。
Aすべての運動には原因がある。原因と結果という因果関係は絶対である。
このニュートンの古典物理学の考えから必然的に導き出される決定論こそ「ラプラスの魔」である。
任意の瞬間における自然界を動かす力をすべて知り、自然界を構成するあらゆる存在の相互位置を知っている知性体は、そのデータを分析に投じられるほどの力量を持った知性であるなら、宇宙で最大の物体ともっとも軽い原子の動きをひとつの式に集約してしまえるだろう。この知性体には不確定なものはない。そして過去とまったく同じく未来もその眼前に開けている。−ピエール・シモン・ラプラス
この古典物理学的超知性体「ラプラスの魔」はすべての物理的な因果関係の網の目を見通せることができる。ゆえに過去だけでなくすべての未来も一望できる。(このラプラスの魔という能力を人が持ってしまったらどうなるかを書いた小説がアダム・ファウアー「数学的にありえない」)
ライプニッツはカルヴィニズム、スピノザ、ニュートンという三者三様の決定論から自由意志を守るために戦ったといっていい。ライプニッツははたしてどのようにして自由意志を擁護したのか。ーそれは「モナド」によってである。
モナドとは日本語にすれば「個別的実体」とでもいうべきものである。つまりこの誰でもない「わたし」自身のこと。それも代わりのきかない、この宇宙でただひとつしかない「わたしそのもの」の本質のことである。宇宙にただひとつのわたくしの「魂」と言い換えてもいい。ライプニッツはこのモナドの特異な概念でもって決定論をくつがえそうとする。
モナドの特異性とは、モナドにはあらゆるすべての「可能性」が含まれているとする点にある。エヴァ世界の現実では碇シンジはエヴァに無理矢理乗せられて、使徒と戦い、サードインパクトを起こすきっかけとなり人類は滅びる。この歴史のストーリーライン@にいる碇シンジだけが現実化したシンジとされる。しかしライプニッツはモナドにはそれ以外のシンジの人生も無数に含まれているとするのだ。シンジの人生@はシンジのモナドに含まれる無数の可能性のうちのひとつがたまたま現実化しただけにすぎない。
だから碇シンジのモナドにはエヴァに乗らずに普通の中学生としてすごしたシンジの人生Aの可能性も存在し、エヴァに乗ったけど途中で戦死するシンジの人生Bの可能性も存在する。使徒を全部倒した後でも人類が滅亡しない人生Cの可能性さえも存在するのである。そうした現実化しなかった無数の「可能世界」もモナドには含まれている。ライプニッツはこの「可能世界」という考えによって決定論を反駁しようとした。「この世界はたったひとつしかない」という決定論的世界観を「この世界は無数にある」という可能世界論によってくつがえそうとしたのだ。
しかしライプニッツのモナドの可能世界論はほとんど誰にも理解されることはなかった。あまりにも奇抜で論証不可能の世迷いごとと思われたのである。だが、ライプニッツの死後200年がたった頃、ニュートンの古典物理学をくつがえす奇怪な物理学が産声を上げる。「量子力学」である。
次回は量子力学の解説から。
ライプニッツ可能世界解釈によるシン・エヴァンゲリヲン劇場版:‖完全予測その2・量子力学について
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