鈴木愛理は不幸か・ソングとサウンドの関係をめぐって
少し前のことになるが、2013年12月31日放送のラジオ、ダイノジのスクールナインで映画研究者の春日太一と漫才コンビ・ダイノジ、こんにちは計画の杉田が℃-uteのことをたっぷり語り合った。そこでの℃-ute評を書き出してみる。
矢島舞美・・・矢島を男としてみている。尊敬している。恋愛の対象ではない。そういうことを考えてはいけない存在。男にそう思わせてしまう孤独感。好きって言っちゃいけない。カテゴリー的には若山富三郎や勝新太郎のようなスターとして選ばれた存在。尊敬して追いかけたい気持ち。(春日太一)
中島早貴・・・中島はTHE女の子。女の子の嫌な部分も含めて表に出す。不安定な女の子。見ていて不安になる。MCも不安だし、歌も不安だし、キッズステーションというTV番組でもなっきぃはすごく不安定。たえず不安な子が自分には踊りしかないと、踊りを追求していくとどんどん輝いてくる。でも不安定。そのギャップこそ女の子感。へたれ。成長物語。ドヤ顔の痛々しさ。それに目が離せない。男っぽい矢島と女の子女の子してるなっきぃの百合を妄想するのが人生の楽しみ。なっきぃは育てたくなる。でもなっきぃはTHE女の子だからどこかにフワッといってしまう。なっきぃには何の悪意もない。矢島なら「育てたい!」といえば「わかりました!」と答えてくれるが、なっきぃは「あ〜はい」といいながらどっかに消えてしまう。矢島相手になら宗方コーチと岡ひろみ(エースをねらえ!)の関係が成り立つが、なっきぃには無理。なっきぃはすぐ泣く。なっきぃはパシリ。きれいなパシリ感。矢島リーダーの横にいるときだけ生意気な顔をしている。(春日太一)
岡井千聖・・・ポスト矢口真里。不遇な境遇にあった。センターでない人の生き方。℃-uteの楽曲「SHOCK!」のショック※を経て、愛理に対してやっかみがあったが、今は愛理にアドバイスを送るまでになった。「踊ってみた」で取り上げられた時のちっさーの輝き。「今まで私は℃-uteのために何もできなかったけど、はじめて℃-uteに貢献できたからうれしいです」これを聞いた時は一生応援しようと思った(杉田)。芸能界に長くいそう。ゲストに来たとき番組を回そうとする(大谷)。
※2010年1月発売のシングル「SHOCK!」でメインを歌うのが愛理だけで、他のメンバーがバックコーラスのような形になった時の「SHOCK事件」のこと。
萩原舞・・・レコード大賞新人賞受賞時、メンバーが号泣しているときに舞ちゃんだけ笑顔でWピース。精神力が強い。メンバーの中で一番大人。舞ちゃんは子供時代サングラスをかけていたけど、いまこそサングラスをかけてほしい。原田芳雄感がでる。舞ちゃんは原田芳雄と同じベクトルを向いている。ちょっと斜に構えたところから世間を見る。(春日)
鈴木愛理・・・絶対エース。四番松井。絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ(ダイノジ大谷)。歌ってよし踊ってよし。
春日太一氏は時代劇研究家でもあり、「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」という本も出しておられるので、℃-uteを東映映画に例えて話す。
℃-uteには太秦のにおいを感じるという春日氏。
鈴木愛理は中村錦之助
矢島舞美は若山富三郎
岡井千聖は山城新伍
萩原舞は原田芳雄
中島早貴はなっきぃ。なっきぃはなっきぃでしかない。
春日氏のなっきぃに対する深い思い入れがよくあらわれたラジオ番組になっていました。
しかし興味深いのは鈴木愛理に対する淡白な評価です。
鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大。そして客観的に見てもアイドルとしてずば抜けた素質と才能を持ち合わせている。アイドルブーム真っ盛りの今、もはや数え切れないほど大勢のアイドルたちがいるが、そのなかでも歌唱力、ダンス、アイドル性、総合的にかんがみても実力的には抜きん出た存在といえるのが鈴木愛理ではないでしょうか。
℃-ute「悲しきヘブン」
しかしグループアイドル全盛時代の今、愛理のような抜きん出た才能と個性は、あくまでグループを生かすための「点」として扱われてしまう。
そのためラジオではこのように評されてしまう。
「愛理という絶対的な存在がいるから我々ファンは好きな娘を応援できる。愛理がいるから他のメンバーのキャラが引き立つ」
あくまで他のメンバーの個性を引き立てるための「空虚な中心」(ロラン・バルト「表徴の帝国」)としての鈴木愛理というとらえかたなのである。
「空虚な中心」とはロラン・バルトが本質と意味をまとった中心を持つヨーロッパの都市に対して、日本の首都、東京の中心は本質も意味もない皇居であることから、ヨーロッパの本質主義、意味性を相対化するために日本の都市東京を「空虚な中心」と呼んだ事による。
精神科医の斉藤環は「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」でヤンキーに代表される日本文化とは本質よりも形式が優先される文化だと喝破する。たとえば神道には本質的な教義はない。ただ長年続く儀式を守ることによって中心なき中心、意味なき中心を覆い隠しているのだ。
同じように日本独自の文化であるアイドルは形式と表層の文化である。本質や中心というものがないかわりに、形式=様式だけがある。
いうなれば鈴木愛理はグループアイドルという形式を守るための中心なき中心「空虚な中心」として使われてきた。
歌手として抜きん出た才能を持つにもかかわらず、グループアイドルという形式のための駒として扱われてきたのである。
ここで音楽史における鈴木愛理の立ち位置を考察したい。
2014年1月1日にBS-TBSで放映された「未来に残すべきニッポンの歌」。久米宏、秋元康、近田春夫の三人が秋元康選出の日本のヒット歌謡曲100のリストを肴に論じ合う番組があった。この三人が出した結論が
「流行歌は1980年代で終わって、歌はソングからサウンドに変わっていった」
(ちなみに私この番組を見ておらず、ミステリマガジン2014年3月号からの孫引きになります。)
歌がソングからサウンドへ変わっていったという見立ての正しさは、今現在ディーヴァ系のソロ歌手が一掃され、EDMがブームになっていることからも明らかだ。ハロプロ屈指の歌い手鈴木愛理とっては不遇の時代といっていい。
サウンド重視の今のアイドルシーンにおいて、ソング=歌のうまさなど重要ではないのだ。今のアイドルシーンでは、歌い手に合わせた楽曲は時代遅れの産物となる可能性が高い。歌唱力自慢の歌い手の個性はサウンドの邪魔になるのである。
今のアイドル三種の神器は
@グループアイドル
Aダンス
Bサウンド重視
この三つである。
この三つとも歌い手の力量を必要としないことで一致している。グループアイドルには「サウンド」は必要とされても、「ソング」は必要とされないのだ。
今の℃-uteもこの三つにあてはまる。今の℃-uteの楽曲は歌い手重視の楽曲ではない。それにより愛理は℃-uteよりBuono!のほうが生き生きと楽しそうにしているとのファンの評価につながるのである。
Buono!とはハロプロ内選抜ユニット。オープニングの曲は「初恋サイダー」
斉藤環「世界が土曜の夜の夢なら」では近田春夫の知見を引用してヤンキー系音楽をこう分析している。
ヤンキー系音楽の特徴は二つ。
@アガるという使用目的に特化していること。
A自己投影がなされていないこと。
つまり「ヤンキー系音楽においては音楽性(本質)よりもスタイル(形式)が先行する」
ヤンキー系音楽を「アイドル系音楽」に変えてみてもまったく同じではないだろうか。
アイドル系音楽は歌い手という本質をないがしろにして、「アガる」という使用目的に特化する。作詞作曲をしないアイドルは当然曲に自己投影などできない。アイドルとはヤンキーや日本文化と同じように本質がなく、形式だけの存在なのである。
しかし幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまった。つまり「音楽的本質」を持ってしまった。
ライムスター宇多丸のいう「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」をアイドルの定義とするなら、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が拮抗した存在」といえる。彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのだ。
「歌手鈴木愛理」という「本質」をないがしろにしてグループアイドル、ダンスアイドルという「形式」に愛理を沿わせている現状から、いまいちど1980年代の復権ーサウンドからソングへの転換を楽曲的に行うべきではないのか。会社(アップフロント)とつんく♂さんの力がためされている。
これだけ稀有な才能を持った彼女が、日本の偉大なアイドル史に名前を刻むのか、それともアイドルブームでたくさん生まれたアイドルの中に埋もれて無名のままで終わるのか。祈るように見守るしかない。
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2015年12月15日追記
なんでもこのブログの内容を丸々盗用された方がいたので(笑)事の顛末を書いた記事も上げておきます。
「私のブログを盗用しているKINO-PRAVDAに告ぐ(苦笑)」
http://runsinjirun.seesaa.net/article/430615999.html
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