マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオコンビ作としてはじめての傑作である。
これほど生き生きと演技しているディカプリオを見るのは「ギルバート・グレイプ」(1993)以来ではないか(ということは20年ぶり・・・)
この映画のテーマはずばり「ボヴァリズム」である。
ボヴァリズムとはフロベールの「ボヴァリー夫人」の主人公エンマ・ボヴァリーの生き方や思考からくる用語である。
ボヴァリズムとは、今現在、私が生きている退屈な日常は偽物であり、私が生きるべき本来の生はここではないどこかにあると考えること。(ボヴァリズムについては「ボヴァリー夫人を読むと死にたくなる」に詳細に書いた)
人は人間という動物に生まれてきた以上、自己の喜びや快楽を追求し、それを味わい尽くすのが真の幸福ではないのか。普段の人間にそれができないのは、そうした自分の欲望にフタをしているからだ。教育なり、宗教なりが邪魔をしたり、人の目を気にして欲望や快楽を追求できないだけなのだ。
そしてなにより欲望のフタの最大の重しは、欲望をかなえる「お金」がないことである。
映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」ではジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)というこの詐欺師にして俗物を3時間にわたって見せつけられるにもかかわらず、この人物に対してまったく嫌な感じを持たずにすむのは驚くべきことであるが、それには理由がある。ジョーダンにとって「お金」は目的ではなく「手段」にすぎないからだ。お金だけが目的の男なら3時間退屈で仕方なかっただろう。しかしジョーダンにとってお金とは自身の「欲望のフタ」をはぎとる手段でしかない。ジョーダンにとってお金は自分自身の際限のない欲望と快楽に惑溺するための道具なのだ。
でかい豪邸に住み、超絶美女を妻にし、自家用ジェットで飛び回り、豪華ヨットでクルージングを楽しむこと。ジョーダンはそうした外在的な享楽とともに、麻薬によって身体的にも享楽を浴び続ける。ジョーダンのモットーは「お金を儲けろ!」というより「もっと快楽を!」である。それが見ていて嫌な気持ちにならない最大の理由だろう。
なぜなら私たちもジョーダンのように、快楽をとことんまで追求してみたいという幻想を誰もが持っているからだ。この退屈きわまりない日常が延々と繰り返されるかのように見える私たちの生。なにもかも少しずつ抑制されて、制御された人生からはみだし、思うがままに欲望を追求してみたい。度を越した快楽に身をまかせてみたいとジョーダン・ベルフォートやエンマ・ボヴァリーのようなことを少しでも考えない人がいるだろうか。
ジョーダンを逮捕し大手柄を挙げたはずのFBI捜査官は今日もさえない勤務のために地下鉄に乗って出勤する。変わりばえのしない毎日を送るために、わずかな給料のために。最後に映し出されるジョーダンのセミナーに来た人たちの顔、顔、顔。ここに映し出された人々の顔は、映画館に座る私たちの顔でもある。変わりばえのしない日常から抜け出したい。豊かな暮らしをしたい。幸福になりたい。今、ここから抜け出せさえすれば幸せが待っているに違いないと思う人たちの顔、顔、顔・・・
「今ここではない、どこかへ」行きたい私たちはみなエンマ・ボヴァリーの子供だ。だからこそ「ウルフ・オブ・ウォールストリート」はボヴァリズムを描いた作品なのだ。ボヴァリズムこそ映画そのものなのである。