蓮實重彦氏のボヴァリー夫人論が話題になってるので、あわててフロベール「ボヴァリー夫人」を読む。(フロベール読むのはじめて。恥ずかしい)
正直ガチに動揺するほど衝撃を受けたので、動揺したままの気持ちでボヴァリー夫人について書く。
物語の構造がちょっと変わっていて、エンマの夫になるシャルルの小学生時代の授業風景からはじまり、しばらくはシャルルの人生が淡々と描かれる。そしてシャルルがエンマと出会い、結婚し、エンマがシャルルの家に越してきたところではじめてエンマの視点になるのだ。
結婚してすぐに二人の断絶があらわになる。シャルルはエンマを妻に迎え満ち足りた幸福感を味わっているが、エンマは
自分が彼に幸福を味あわせていることまでがくやしく思えるのだった。−「ボヴァリー夫人」中央公論社・山田ジャク(森鴎外の孫)訳P45
エンマにとって一度手に入れたものはどうでもいいものでしかない。あこがれの尼僧院に入ってみたもののすぐに失望し、ようやく実家から離れられると結婚してみたもののこれも即座に幻滅する。エンマは常にここではない、どこかに幸福があると思っているのだ。
「ここ」にあるものはすべて退屈であり、凡庸であり、平々凡々たる日常である。
明日はまた今日に似た毎日が、数限りなく、何物ももたらさずに、ずるずると続いていくのか!(P67)
こうしたエンマの焦燥を静めてくれるのが「恋愛」である。恋愛しかないといっていい。当時の女性にとって恋愛以外で自己実現するなどということは不可能だった。結局女性は誰それの妻「何々夫人」と呼ばれるしかないのである。
ボヴァリーの奥さん・・・・・これは世間の通り名です!しかもあなたのお名前じゃない。ほかの人の名です!(P162)
恋愛だけがエンマを「ここ」ではない、幸福の待つ「どこかへ」連れて行ってくれるものなのだ。最初に書記官のレオン青年に恋したとき、その恋が実らぬとわかった時のエンマはどうしたか?
「わたしは操(みさお)正しい女なのだ」と心ひそかにつぶやきつつ、悲壮なあきらめのポーズを作って鏡に自分の姿をうつす(P112)
鏡の前で演じることによって自分は多大な犠牲を払って恋をあきらめたのだと自分で自分をなぐさめるのである。こうしたエンマの演劇的な身振りやふるまいは後半にも出てくる。ルーアンで舞台を観劇するエンマは俳優を見ているうちに狂気に近い空想に身をゆだねる。
わたしをさらってちょうだい。連れて逃げてちょうだい。さあ行きましょう!私の燃える思いも、遠いあこがれもみんなあなたにささげます。みんなあなたのものです!(P238)
幸福は今、ここではない劇的な状況の中にだけある。退屈で平凡な、今ここにいる私は本来の私ではない。劇的な状況に身をさらす前の私、本当の舞台に立つ前の私でしかない。
「今ここ」の日常は、私がいるべき本当の舞台ではないというエンマの思考。エンマは「今ここではない、どこか」のために恋愛に執着するが、
いつしかその恋は、ちょうど川の水が河床に吸い込まれるように、彼女の足もとまで減ってしまい、ついにはエンマの目にも底の泥が見えてきた。(P177−8)
もはや恋愛だけが「今ここ」ではないどこかへ通じる唯一の切符がゆえに、エンマは底の泥が見えてきたことを認めようとしない。むしろますます恋愛に執着するようになって
過大な幸福を期待するあまりに、かえって幸福を元も子もなくしていった。(P306)
エンマはこうして退屈で平凡な日常に立つ私と本来あるべき劇的な舞台のような人生に立つべき私との乖離(かいり)を埋めるために
奢侈のもたらす感覚の快楽と心情の歓喜とを混同し、習俗の優美さと感情の細やかさとを混同していた。(P63)
エンマは恋の底の泥が見えているにもかかわらずそれを認めようとはせず、恋愛の興奮を奢侈の興奮で補おうとする。そして金貸しのルールーに骨までしゃぶられて、身を持ち崩していくのだ。そして金の切れ目は縁の切れ目とばかりに男たちはエンマから離れていく。
「ここではない、どこかへ」行くために必要だったお金も底を尽きた以上、エンマの行く先は「あの世」しかない。エンマはどこまでも「今ここ」にとどまることができぬ女なのだ。
ヒ素をあおり、苦しむエンマの死が長引くさまは恐ろしいにもほどがある。死をここまで無残に描くことの意味。フツーの小説であれば、毒をあおった女はすぐさまその場で死んで「fin」となるところなのに。苦しみもだえ死ぬ様子から、死後遺体の口から黒い液体がこぼれるところまで克明に描くのである。その徹底ぶり、執拗さに教訓的な意味合いを嗅ぎ取る人もいるだろうが(つまり女性が不倫するとこうなっちゃうよというような)、フロベールの描写力はそのような教訓的なものをはるかに超えている。
エンマが亡くなった後、シャルルは抜け殻のようになって息を引き取る。一人娘ベルトは親戚の家に引き取られ、きっと今ここではないどこかを夢見ることもないまま貧しさのうちに死んでいくのだろう。そして金貸しのルールーはますます繁盛し、薬屋のオメー氏がレジオン・ドヌール勲章をもらったところで物語は終わる。ボヴァリー家がどんな悲惨な生涯を送ったかなどまるで関係なく人々の人生は続いていくのである。
しかし私はこれを悲劇だとは思わなかった。むしろフロベールが凡庸な一人の女の生涯をとりあげ、それを描ききっていることになぜかおおいになぐさめられたのだ。
エンマは刺激的で、しびれるような衝動や興奮に身をまかせることが、本当の生、本当の人生の舞台であると信じている。興奮やめくるめくような感動が絶え間なく自分に降りそそいでくることが本来の生であると。だが、現実の生は興奮と感動の舞台上にはなく、ジリジリするような焦燥と倦怠の中にしかない。そしてフロベールはそうした途切れることのない焦燥と倦怠の日常を文学的に昇華するのである。
つまりエンマが本来の生だとして恋焦がれたものは、芸術の題材にはなりえず、エンマが嫌いぬき、そこから抜け出そうとした退屈な日常こそをフロベールは芸術上の重要な題材とするのだ。平凡な人生が芸術的に昇華されることの逆転感がここにはある。エンマと私たちの住まう平凡で退屈な生にしか真に描くべきことはなにもないのだ。
わたしたちのような平凡に生き、平凡に死ぬ多くの人間にとって、エンマの平凡な生涯が文学の題材になるということは福音にも近い。そのことを強く感じたもう一つのフロベールの作品に「素朴な女」がある。
「素朴な女」の主人公はこれ以上ないといってもいいくらいの平凡な女中であるフェリシテである。女中フェリシテの人生には劇的なものなど何もなく、めぼしい恋愛も、家族もなく、波乱の事件も何一つとしてない。ただひたすら平凡に女中として働き、そしてひっそりと死んでいくフェリシテ。一人の女の人生をなんの飾り立てもすることなく淡々と描くフロベール。
これを無情だとか、リアリズムだとかは思わない。むしろ、こんな何もない人生を描くことが文学になるんだ!という驚きと喜びである。私のつまらない人生もフロベールならきっと小説にできるはず(原稿用紙5枚程度にしかならないかもだが)。つまらない男のつまらない人生だって文学になるかもしれない。平凡な人生が芸術的に昇華されることの逆転感、そのことが私にとってなぐさめとなる。
それでも私の中でエンマに似た叫びがやむことはない。「もっと豊かな人生を送れるはずだった!もっとましな人生を送るはずだったのに!」という叫びが。
いまここではないどこかにある幸福を求める焦燥は死ぬまでやむことはない。エンマ・ボヴァリーは私の中にいる。だからボヴァリー夫人を読むと死にたくなるのだ。
エンマのドレスを根こそぎかっさらって男と逃げたフェリシテですか。