2013年11月13日

イエスは神か人か・ミシェル・セルヴェ「三位一体論の誤謬」について

イエスは神か人か・ミシェル・セルヴェ「三位一体論の誤謬」について

「三位一体論の誤謬」の著者のミシェル・セルヴェ(1511-1553)は宗教改革期の神学者、医者でカルヴァンの天敵ともいえる人物。カルヴァンがジュネーヴで宗教的独裁政治を行っている時にカルヴァンの独裁制を倒そうとジュネーヴ入りしたが、捕らえられ生きながら火刑にされた。ジュネーヴにはセルヴェに対する贖罪の石碑とミシェル・セルヴェ通りが存在する。

セルヴェが批判する三位一体論とは父(神)と子(イエス)と聖霊(神の力)という三つの位格は同一本性であるというキリスト教の考え方。なんでこんな変な考えが生まれたかというとすべてはイエスの存在をどう考えるかという宗教上の綱引きによるもの。

イエスの存在における綱引きとは「神性」と「人性」の綱引きのことである。イエスの「神性」を高めると、つまりイエスは完全に神ですよ〜ということになると困ったことになる。イエスの秤が「神性」に傾くと、神(イエス)が私たち人間によって苦しめられ、殺されたことになってしまう。そうなると必然的に贖い(あがない)の意味もなくなってしまう。神(イエス)は人間に殺された(そもそも人に神が殺せるのか?)、だから神は人間の罪をあがなうことにした・・・どう考えても論理的におかしいのである。

では逆にイエスの秤を「人性」に傾けてみよう。つまりイエスは完全に人間ですよ〜ということになると、イエスは神とかかわりのない普通の人間ということになり、普通の人がどうして人類すべての罪をあがなえることができるのかということになってしまう。またイエスも人間なんだからイエス自身もあがないが必要になってしまうことになる。

つまりイエスが神になっても、人になっても厄介なことになるのだ。そこでこの難問を一気に解決するために生み出されたのが「三位一体論」というわけ。神とイエスと聖霊は一つの本性に三つの位格を持つ。イエスは神でもあり、人でもある。(これをマルティン・ブーバーは神に人格を持たせるための哲学的こころみと言っている。)

セルヴェはこの三位一体論を批判する。セルヴェはイエスの神性を否定し、イエスは神の被造物であるという立場に立つ。ということはセルヴェはイエスを人間として規定することになるが、セルヴェはイエスが人間であることも認めない。イエスは我々人間と神とを和解させるために神に使わされたものとする。つまりイエスは神とは別個の存在。神と人間とをつなげる中間存在として規定されるのだ。

セルヴェはこの著書が原因で処刑されたようなものだが、イエスは神と人との中間存在であるという主張は実はセルヴェのオリジナルではなく、西暦300年ごろのアレクサンドリアの司祭アリウスの主張と同じものである。このアリウス論、父なる神が唯一の存在であってイエスは神の被造物であるという主張は論理的に考えればそれほどおかしな主張というわけでもなく、しごくまっとうな意見である。三位一体論自体がイエスに神性を付与しようとしたあまり無理やりこじつけ感満載のアクロバティックな論なのだ。

セルヴェの主張はアリウス論の焼き直しであり、神の存在を否定しているわけではなく、あくまでキリスト教ゲームの枠内に収まるものでしかない。セルヴェの中では超越的な唯一神が存在していたのであり、無神論ではないからだ。ただイエスの神性と人性の綱引きにおいて人性を強く引いただけにすぎない。

このキリスト教ゲームのルール自体をひっくり返す人物があらわれるまで、人類はセルヴェの処刑からあと100年ほど待たなければならない。超越的な神など存在しないと主張するオランダのユダヤ人を。
posted by シンジ at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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