高野史緒「カラマーゾフの妹」を読む。
ドフトエフスキーが実際に構想していた「カラマーゾフの兄弟」の第二部をミステリーとしてよみがえらせた野心や好し。
フョードル・カラマーゾフ殺人事件から13年後。イワン・カラマーゾフが再捜査のため特別捜査官として町に戻ってくる。犯人とされたドミートリーはシベリア流刑中に事故死していた。イワンの来訪はカラマーゾフ事件の当事者たちにさまざまな波紋を投げかける。
イワンがまるでホームズばりの推理を繰り広げる名探偵になっているばかりか、多重人格者というトンデモ設定になっている。ただこの多重人格者という設定はトンデモのようでいて意外と正解だったりする。なにしろイワンの内に潜む多重人格は「悪魔」と「大審問官」なのだ!エキセントリックなカラマーゾフ気質ならこういう設定もアリだと思わせる。
アリョーシャの純真無垢性を「異様」と捉えたのも作者の慧眼といっていい。ここからはネタバレ。
「カラマーゾフの妹」でのアリョーシャの異様さは彼が「神に選ばれた」と確信している事にある。この「神に選ばれた」という確信は人になにをもたらすのか。「神に選ばれた」以上自分の行為はすべて神に許されているという確信を人にもたらすのだ。ルターやカルヴァンを例にとると、ルターは再洗礼派の農民たちの反乱の鎮圧を支持し、それによって多くの農民たちが虐殺されている。カルヴァンもまた、自分の政敵ともいえるミシェル・セルヴェを捕らえ、生きながら火刑にしている。彼らは神に仕える身として良心の呵責を感じなかったのだろうか?答えは簡単だ・・・微塵も感じなかった。
ルターもカルヴァンも自分が「神に選ばれてある」という確信を持っていた。いわゆる「予定説」である。神はあらかじめ救われる人と救われない人を選択している。人間ごとき卑小な存在が自分の功績やら罪やらで神の行いを変えられるわけがない。というのがその教説である。
ルターもカルヴァンも「選ばれている」という確信があるからこそ、大勢の人がむごたらしく死のうが、残虐な死刑を命じようが1ミリたりと良心の呵責を感じることがなかった。なぜなら自分は神に選ばれている以上、どのような行いをしてもすべて許されているのだから。
アリョーシャも同じことである。「選ばれた」私が「選ばれてない」人を殺したところで罪にはならない。選ばれた人はすべてが許されている。殺される人=選ばれてない人は神から見捨てられた人にすぎない。
アリョーシャの異様さはこうしたプロテスタンティズムの予定説とは関わりのないはずのロシア正教者でありながら、こうした確信を得たことにある。つまり「カラマーゾフの妹」の大事件は連続殺人では決してなく、一体どこで、どのようにしてアリョーシャは「神に選ばれた」と確信しえたのか。そのこと、その転回こそが真に大事件なのである。
そしてその大転回はドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」にある。ということでカラマーゾフの兄弟を読まないと「カラマーゾフの妹」の面白さは半減してしまうので、読もう。(カラマーゾフの兄弟はちょっと長いけど読むだけの価値はあります。純文としてではなくエンタメとしても面白い)