吾妻ひでお「アル中病棟」を読む。
何がすごいって、これだけ悲惨な状況にもかかわらず、自己憐憫なし、自己絶望なし、ルサンチマンなし。「わたくし」漫画にもかかわらず自己言及をサラリとかわして自己も他者も、はては死すら等間隔に描く。
「わたくし」小説なり漫画なりになると、自分だけが特別な存在であり、憐れな存在であり、そんなかわいそうな私を疎外するのが無理解な他者や社会であるという風になりがちである。
しかしそんな自己憐憫、自己嫌悪、ルサンチマンといった、「わたし」「私」「自分」「自己」で埋めつくされる「わたくし」系の陥穽をヒラリといともたやすくかわしてしまうのが吾妻ひでおである。
吾妻は「わたし」と「あなた」をまるで同じようなものであるかのように描く。アルコール中毒患者の人々はみな愚かで滑稽な人々ではあるのだが、吾妻は誰一人としてわけへだてすることがない。もちろん吾妻自身もその滑稽な人々の中に含まれているからだけではなく、その徹底した等間隔の視線の先には読者すら含まれるかのようだ。
この自分を一切特別視しない等間隔の視線。バケツの中にいる虫たちをバケツの上からのぞきこんでいるかのような視点。かといって冷たい酷薄な視線でもない。なぜならそのバケツの中には吾妻自身もいて、我も他者も等距離で見つめているからだ。
そうした吾妻の視線、すべてものを等間隔に見つめ描くということは必然的にすべてのものに対する価値、貴賎、好悪を度外視して描くということになる。つまりこの世界に特別な存在などないのだ。
特にこの作品の中で強烈な印象を残す「浅野さん」。サギ、タカリ、部屋で小便などその人間のクズっぷりには呆れるばかりだが、吾妻の視線は浅野に対する嫌悪よりも好奇心=観察がまさっている。吾妻がめずらしくはっきりと「私は杉野が嫌い」という杉野ですら意外なことに決して嫌な男としては描かれていない。吾妻が人を人としての価値や貴賎、好悪を度外視して見ているのは明らかだ。
AA(アルコホーリクス・アノニマス)で話される壮絶な不幸や死ですら特別なことではない。船長と呼ばれるアル中で片足を失ったAAの議長はあっけらかんと話す。
「T川のヤマ
酒瓶のころがったアパートで一人こたつに入って死んでるのを1ヶ月たってようやく発見されてな。
冬だったから上半身はまぁまずきれいだったがこたつに電気入ってたから下半身は・・・んじゃ次の人」
「死」すら特別なことではなく、「すぐそこにある」ことでしかない。なにひとつ特別なこととして描かれることはない。
最高におかしい場面がある。お金に困った吾妻が中野のまんだらけで精神病棟で描いた鉛筆デッサンを売りに行くと、本物か?と疑われ買い取ってもらえないのである。本人が売りに行ってるのに!この場面見ようによっては相当悲惨な状況である。たとえば西村賢太あたりの私小説家ならこうした状況を憎悪と自虐と自己嫌悪とルサンチマンにまみれた文章にしてしまうだろう。だが吾妻ひでおはさほどの屈辱感も感じずに
「俺も落ちる所まで落ちたって感じ?さわやかだけど」
とあっけらかんとしたものである。
バケツの上からバケツの中にいる虫をながめるように自分を見つめていられる感性は稀有としかいいようがない。自分ですらこの世界では特別な存在ではないのだ。
草も木も、うんこも(黒田さんの)、アル中も、犬も猫も、生も死も、この世に存在するものすべては特別ではない。それはひるがえせば、この世界にあるものすべては一人一人、ひとつひとつが特別であるということにもなる。すべてのものが特別でないなら、すべては特別となる。吾妻ひでお「アル中病棟」の世界では、すべての人が特別でない特別の世界を生きるのだ。