2013年09月15日

℃-ute武道館考・あるいはアイドル文化を支える「不安」という名の双方向性について

℃-ute武道館考・あるいはアイドル文化を支える「不安」という名の双方向性について

2013年9月9日、10日℃-ute武道館公演2daysから数日たった今でも私の生霊は武道館にいるんじゃないかというくらい魂の抜けた抜け殻のようなボーッとした気持ちで日々をすごしている。関東在住の方は毎週のようにアイドル関連のイベントがあるのでもうなれっこになっているのでしょうが、地方在住者にとってアイドルのイベントは非日常であり特別な祝祭です。特に「遠征」はそうした非日常感、祝祭感を際立たせる通過儀礼のようなもので私の℃-ute武道館考はそうした祝祭バイアスがかかっているかもしれない。しかしオーストリア出身の哲学者がいうように「世界は私の世界である」のでこのまま続けさせてもらいます。

私が武道館に着く前にすでにTeam℃-uteタオルやTシャツなどが売り切れていた。モーニング娘。の卒業公演でもグッズ売り切れはなかったそうなので、異常な売れ行きといっていいだろう。℃-uteはいつからか℃-ute自身と彼女たちを支えるスタッフ、ファンのことを含めて「Team℃-ute」というようになっていった。それはごく最近のことだ。(たしか2012年以降)

あらためてTeam℃-uteという「名づけ」をしたことには戦略的な意味合いがある。ハロプロというのはハロプロDD(DDとは誰でも大好きの意味)が支えている面が強く、モーニング娘。のコンサートに行く人も℃-uteのコンサートに来たり、グッズを買ったりする。ハロプロのコンサートではハロプロDDが動員力を支えている面があるのだ。たとえば2013年9月11日メジャーデビューの新人アイドルであるJuice=Juiceのイベントに2千人も集まるのはこのハロプロDDの動員力があるからである。

しかし℃-uteがあえて「Team℃-ute」というファンの選別をしたことにはある戦略がある。℃-uteがこれまで以上に成長し、ファンを増やすためにはハロプロDDに頼るのではなく、新規℃-uteファンを増やさなければならない。そして新規℃-uteファンを固定℃-uteファンとしてがっちり囲い込むために「Team℃-ute」という差異化が必要だったのだ。

またTeam℃-uteという枠付けはそうした経済的意味合いだけではなく、より「親密さ」を感じさせるための仕組みでもある。Team℃-uteとして差異化されたあとはTeam℃-uteという枠組み−共同体内での「関係性消費」がはじまる。℃-uteというアイドルをただ消費するだけから、Team℃-uteという共同体内での成員同士の関係性消費へと発展していくのだ。

・・・武道館へ向かうため田安門をくぐりぬけるとき私の周囲には若い女性たちしかいないという状況。女性ファンの多さにちょっとびっくりするとともに、彼女たちと私のようなおっさんファンとの間では℃-ute観がまるで違うのではないかとも考える。

女子中学生、高校生にとって℃-uteは実力派アイドルという位置づけではないだろうか。歌もうまければ、ダンスもうまい。非の打ち所のないアイドル。どちらかといえば彼女たちにとって℃-uteはアーティストのように見えるかもしれない。

武道館公演でも℃-uteはその実力を見せつけるように「One's LIFE」をアカペラで熱唱する。もちろん私も聞き惚れていたクチである。・・・だが私は見た。アカペラでリズムを取るときの℃-uteメンバーの必死さを。ミスは絶対に許されないという不安と恐れを。天性の歌手であり、リズムを取ることなどわけもないはずの鈴木愛理が必死さを隠そうともしないのを確かに見たのだ。

本来プロの歌手というのは、常に音楽を楽しんでいるという雰囲気をかもし出すものであり、ファンに不安を感じさせることなどあってはならないものだ(実際はどうであれ)。プロの歌手、音楽家は客を手のひらの上に乗せてナンボなのである。

だが、℃-uteは違う。℃-uteのメンバーは常に不安やプレッシャーと戦い、ミスを人一倍恐れている。そしてTeam℃-uteも℃-uteメンバーの不安と恐れを知っている。℃-uteがハロプロの中でも特に劣等感や弱気と戦っていることはメンバーのインタビューでもあきらかだからだ。(参考・神聖なるベストアルバム初回限定版Aの超ロングインタビュー、TopYell2013年9月号ベリキュー好敵手対談、他でも同期のBerryz工房のほうがデビューが早かったことに対する苦しみや嫉妬、劣等感などを頻繁に語っている。)

これはプロのミュージシャンやアーティストではありえないことだ。本来ならお客を不安にさせるようなアーティストのエンターテイメントが成立するはずがない。

だが、この「不安」こそが「アイドル」を支える重要なキーワードとなる。

たしかに℃-uteは歌がうまい。武道館でのアカペラ、「悲しきヘブン」での鈴木愛理、岡井千聖のハモりに度肝を抜かれた人も多いでしょう。ただそれには留保がつく。℃-uteの歌のうまさはあくまで「アイドルとしては」うまいレベルなのである。それこそ℃-ute以上に歌のうまい歌手は数え切れないほど存在するだろう。

ではなぜ私たちアイドルファンはそうした歌のうまいアーティストのファンにならずにアイドルのファンになったのか。そこに「不安」がかかわってくる。

アイドルの「不安」とは完璧ではないこと。欠けている面があることからくる「不安」のことです。

歌のうまい歌手、作詞作曲能力のあるアーティストにはそうした「不安」がない。欠けている面がない。したがって私たちはアーティストの完璧さ、プロフェッショナルさを一方的に消費しつづけるだけの存在となる。アーティストという親鳥からえさを与えられるだけの雛のような存在になるのだ。

しかしアイドルを好きになるということはアイドルの持つ不安と恐れを共有することである。℃-uteがどんなに歌がうまいといわれようと、ダンスがうまいといわれようとそれは「アイドルとしては」というカギカッコ付のことであり、そのカギカッコが取れれば℃-uteは他のアーティストの中に埋もれてしまう存在でしかない。

カギカッコ「 」がとれてしまえば何者でもなくなる女の子たち。

だからこそ私たちアイドルファンはアイドルを支えなければならないという切実で熱狂的なロイヤリティを発揮するのです。

えさを与えられるだけの雛の立場から、私たちが支えなければもろく崩れ去ってしまうかもしれないという親鳥の立場への転換。

これがアイドル文化を支える「不安」という名の双方向性です。

℃-ute武道館公演中、何度も盛り上がりの山があった。℃-uteの旗艦曲「Danceでバコーン!」は私が今まで経験した中で一番の盛り上がりのように感じたし、℃-uteの新しいLive定番曲「ザ☆トレジャーボックス」で体力を使い果たした人も多かろう。そしてアンコール後のラスト「JUMP」での8千人の大合唱を忘れることなどできない。なぜアイドルのコンサートはこんなにもみなが踊りまくり、コールしまくり、そして歌いまくるのか。

「アイドル」というカギカッコをとれば何者でもなくなる女の子たちを支えるのは私たちであるという自負がそうさせているのだ。

赤い公園の津野米咲さんはtwitterで℃-uteのことをこう評する。

つのまいさ @kome_suck
℃-uteに関して言えば、飛び道具を使わずにここまで来たってのが凄いんです。キャラクターや売り出し方に頼りません。比重的に実力が一番。ほんでもって曲とふと見せるスキだったり彼女たちを真っ当に戦わせるスタッフ陣たちが居たりと、その全てで、押し付けがましくない真面目が成立しておる。


モーニング娘。今くっそかっこいいですよ…こちらに関しては時代に合った飛び道具を効果的に使っているかんじで、悔しいけれど℃-uteよりも再ブレイクに時間はかからない気がします…面白いもの!


津野さんは℃-uteにはわかりやすい飛び道具がない。それゆえにブレイクするのは飛び道具のあるモーニング娘。の方が先だろうと予想するわけですが、飛び道具がない、実力で勝負するしかないというのも、「アイドル」というカギカッコ付の枠内で見れば十分な飛び道具として成立する。

さやわか著の「AKB商法とは何だったのか」で1990年代がアイドル冬の時代になった理由は「おニャン子クラブ」が原因だったと重要な指摘をしている。おニャン子クラブの存在により「アイドル」は
@能力のない存在
Aアイドルは一生の仕事ではなく単なる通過点
という評価が世間で一般化したのだ。

それにより90年代アイドル文化は急速にしぼんでゆく。1992年のチャートにはベスト30位以内にアイドルはひとりも入っていない。自分たちで作詞作曲できる実力主義のバンドブームが起こるのである。

おニャン子クラブは秋元康プロデュースのアイドルであり、おニャン子クラブの後継的存在がAKBであることはいうをまたない。ただ、AKBはおニャン子クラブとは違い、女の子たちの努力や頑張りを見せる、アイドルの裏側を見せるというコンセプトがある。(この努力する裏側を見せるというコンセプトはモーニング娘。を生み出したテレビ東京の番組ASAYANからきている)

一度おニャン子クラブでアイドル文化を殺した秋元康氏が「努力」「頑張り」などのコンセプトでアイドルを再びよみがえらせたのは皮肉としか言いようがない。

だがしかし、いくらAKBが努力や頑張りをみせようと口パクであり、実力も足りないままである。そこでAKBと同じように努力していてなおかつ歌のうまい、実力十分の℃-uteがAKBのオルタナティブとして浮上する可能性はある。

だが℃-uteの本当の勝負は「アイドル」というカギカッコがとれた後のことだろう。℃-uteの5人が年を取り、カギカッコが外れたとき、それこそ30歳になっても全国をホールツアーで回っているようなら、それはCDを100万枚売ることよりも偉大な成功といえる。私はそのときもステージ上の℃-uteを見つめていたい。
posted by シンジ at 19:40| Comment(1) | TrackBack(0) | アイドル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>飛び道具がない、実力で勝負するしかないというのも、「アイドル」というカギカッコ付の枠内で見れば十分な飛び道具として成立する。

飛び道具って「誰でも使えるちょっと卑怯な技」というニュアンスがあると思います。
実力だけで勝負することは誰にもできることではないし、卑怯でもない。
なので「実力勝負が飛び道具として成立する」というのは無理があるかと。

「結果的に実力勝負がアイドルシーン唯一無二の個性になってしまった」くらいの表現が妥当だと思います。
Posted by なな at 2013年09月16日 22:37
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック