2013年09月01日

風立ちぬ批評を批評する。作品イコール作者は正しいか?

風立ちぬ批評を批評する。作品イコール作者は正しいか?

ネットで見られる宮崎駿監督「風立ちぬ」評でよくできた批評はなぜか方向性が同じである。とくにこの三つの批評。

岡田斗司夫氏の批評
http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html

町山智浩氏の批評
http://www.youtube.com/watch?v=S8LBzoSx430

横岩良太氏の批評
http://urx.nu/4YCG

いずれも宮崎駿監督の人間観世界観がダイレクトに作品に反映してるというのが論旨である。いわく結核の妻の前で平然とタバコを吸う二郎の姿は宮崎駿自身であり、戦争に興味もなく、貧しい人たちにも興味がわかないのも宮崎自身であり、ピラミッドのない世界より、ピラミッドのある世界のほうがいいと思っているのも宮崎自身である・・・というような、作品と作者が完全に一体化しているとする批評。

この三つがよくできた批評だと認めつつも、やはり違和感があるといわざるをえないのはこの三つの批評の根底にある作品の創造観に受け入れがたいものがあるからだ。

その根底にある考えとは、作者と作品とは同根であり、作者と作中人物は同一であるという考え方だ。作品は作者の考えを100%反映したものであり、作品内の登場人物は作者のメッセージを伝達する役割を持つという考えがこの三つの批評に共通する考え方だ。

はたしてひとつの作品を創造するということは、ひとつのまったく揺るぎのない人格や個人の思想をそのまま作品に投影するような作業なのであろうか。私は違うと思っている。

ひとつの作品を創造するということは

ある種の小説家にとっては、物を書いているときに自分を発見し、自分を生み出しているように思われる。−ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」


作品は作者のあらかじめ保有している思想や感情をコピー&ペーストするようなものではない。むしろ書くたびに、新たな発見があり、驚きがあり、意外性が生み出されるもの。こうした作者が作品をコントロールできない実例はどこにでも転がっている。たとえば私の大好きな池波正太郎は「鬼平犯科帳」連載中、作中の人気キャラである伊三次を死なすつもりがなかったのに、書いているうちに死んでしまって呆然としたというようなことを言っています。

私だって、彼らを死なせたくなかったのだ。いつまでも生きていて、「鬼平」の連載を助けてもらいたかった。ばかばかしいと思われようが、作者の私自身、書いている人物が勝手に動き出すときの苦痛は、だれにいってもわかってもらえまい。ペンでつくりあげた人間が、ほんとうに生命をもってしまうとしか、おもわれないときがある。−池波正太郎「日曜日の万年筆」


作者の生み出した作中人物が、まるで生命をもったかのように作者の手を離れ勝手に動き出してしまうことは創作の現場では普通にあることです。宮崎駿自身もこう語っています。

自分がこれで何かを訴えたいというよりも、映画がこれを言いたがっているんだから、それを言わなきゃしょうがない。


絵を描いて動かしていくと、自分がこういう人物だと思っていた人物が理解が足りなくてそうじゃなかったとわかったり、この人はこういうことをするはずがないとわかったりする。−「もののけ姫はこうして生まれた」より


作者と作品の登場人物は決してイコールではないのです。作者と作品の登場人物との関係はまるで対話を重ねる他人同士のようだ。自分の中にさまざまな他人がうごめき、それとひとりずつ探り探り対話を重ねていく作業のように見える。

ウェイン・C・ブースは作品が駄作であればあるほど作品と現実の作者の問題とを結び付けて考えられるようになると皮肉る。

(フロベールの有名な言葉とは違い)「ボヴァリー夫人」の作者は、一見したところでは作品にほとんど姿を見せていないように見える。それは「ボヴァリー夫人」が傑作だからである。言い換えれば、渾然一体をなし、一つの全体として、それを創造した者から離れた一つの世界として、自己を主張する作品だからである。われわれが不完全であるにつれ、隙間からその憐れな作者の悩める魂が顔を出すのである。−ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」


作者が知っていることを伝えるのは伝達であって創造ではない。作者のメッセージを伝達するだけの作品は「ゴミ」でしかない。作品が作者のくびきを離れ独立した世界を作り出すような作品が「傑作」と呼ばれるのである。

ドストエフスキーの小説では、登場人物の声が、それぞれひとつの独立した声として登場し、作者自身の声を代弁することがない。つまり、登場人物は、作者の個人的な趣味や世界観といったモノローグに回収されることなく、独立した人格として自己を主張するということである。−亀山郁夫「カラマーゾフの兄弟」読書ガイド


堀越二郎は宮崎駿のメッセージの伝達者でもなければ、代弁者でもない。おそらく宮崎が絵を描いているうちに、こんな風に動くのか!?こんなことを言ったりするのか!?という驚きとともに自己主張を始めたのではないだろうか。堀越二郎は宮崎駿から独立した「他人」としてうごめきはじめるのだ。

自分が知っていることを伝えるのは伝達であって、表現ではない。表現とは自分でもよくわからないものと格闘すること。−宮崎駿


自分でもよくわからないものとは、自分の中にいる「他人」「他者」のことだろう。創作活動とは自分の中にいる「他者」との対話であり、「他者」を解放することでもある。その「他者」は決して作者を代弁するために生まれてくるのではない。逆にその「他者」が作者を屈服させてしまうことだってあるのだ。

映画は映画になろうとする。その時自分は映画のしもべ、奴隷になる。−宮崎駿

posted by シンジ at 17:01| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あなたは映画について一般論を語っている。正論かもしれない。ただし、風立ちぬは宮崎が初めてやりたい放題をやった映画であり敬愛する堀越や航空技術者だった父そしてクリエイターである自身へのオマージュとして作った映画である。まあ自慰みたいなもので他者には関係ない。角川春樹が原田への愛の結露として時をかける少女を作ったのと似てる。
あなたの論は正しいけれど時に製作者の自慰のような映画も存在する。
Posted by 安二郎 at 2013年09月02日 13:53
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