日本独特のアイドルの歴史は送り手(レコード会社、タレント事務所)が作り出したというよりも、受け手(アイドルファン)が作り出したということのほうが大きい割合を占める。特にその変化があらわれたのが70年代アイドル(山口百恵)から80年代アイドル(松田聖子)への変化だ。
山口百恵は不幸な生い立ちや生活のためにアイドルという職業をやっているという「実像」があって、それとは別の華やかなアイドルという「虚像」があった。しかし80年代アイドルにはそもそも「実像」なるものがない。これはアイドルという「虚像」を「虚像」のまま楽しむという受け手側の変化があったからだ。
いわばアイドルというテクストをテクストとして自由に読解するという態度。コンテクストはこの際どうでもよく、アイドルという現象そのものを楽しむ姿勢に変わってきたのだ。
またアイドル側もTVというメディアによって変質する。
アイドル能力の核とは、やはりTVの影響によって生まれた。自己像に対するフィードバック感覚とでもいうべき「自己相対化感覚」が存在する。これは簡単に言うならTVという映像にとらえられる自分自身の姿をあらかじめ想定できてしまう感性である。ー「アイドル工学」
アイドルの自己相対化の果てがいわゆる「ぶりっこ」である。TVに映るとき、いかに自分を可愛く見せられるか。その自己客体化能力こそ80年代アイドルの能力なのである。
稲増はエドガール・モランを引用し、スターを生み出すメカニズムは「神との同一化願望」だという。
人間はつねに自分の分身のなかに自分自身を越えたいという欲求を投射している。ー「アイドル工学」
日本の場合は西欧とは違い、神との同一化というより、「全能感」を得たいがための同一化といったほうが正しいと思うが、アイドルは実力がともなわない分、同一化の対象としては物足りない虚構の存在である。だが虚構であるからこそそこに受け手が読解すべき空白が生まれる。そこに受け手の能動的反応、積極的参加=同一化としての投射が生じるのだ。
アイドルシステムの世界がしょせんは虚構=シミュレーションであり、一時の共同幻想であることはたしかである。ー「アイドル工学」
ギー・ドゥボールは「スペクタクルの社会」でスペクタクルはここではないどこかを夢みさせるという意味で現実の生を貧困化させ、宗教に似ていると痛烈に批判する。この批判はシミュレーションの世界にもいえる。シミュレーションの世界に夢中になることによって、現実の世界と向き合おうとしなくなる。これをドゥボールは「生の貧困化」というのだ。
しかしあえていうなら、人間社会はすべてシミュレーションなのである。それも二種類のシミュレーションに分けられる。ひとつは「固いシミュレーション」。固いシミュレーションとは固い土台の上に築かれたシミュレーションの世界のことである。例えば「貨幣経済」。ただの紙切れでしかないもの(いや、もはや電子的な数値でしかないもの)でこの世にあるほとんどすべての「財」を動かすというのは壮大なシミュレーション以外の何ものでもない。あるいは「国民国家」。国民国家が誕生したのはフランス革命以降であり、それ以前には国民など存在しなかった。国民国家が誕生してたった200年程度なのである。にもかかわらず国民国家は厳然とした現実として屹立している。これもまさに固いシミュレーションといえるだろう。
固いシミュレーションとはその土台がいつのまにか不可視化されて人々が疑うことすらなくなったシミュレーションのことをいうのだ。
固いシミュレーションは土台が不可視化されたがゆえに、まるで実在、現実、常識、日常として人々の前に君臨する。それはほとんど動かしがたい世界だ。だが、そんな絶対とも思われるシミュレーションでも一人の天才によってあっけなく崩れ去ることがある。天動説から地動説へと転回をなしとげたコペルニクス革命がそれである。
コペルニクス(1473-1543)が自説を唱えるまで、地球は全宇宙の中心であり、地球の周りを太陽やその他の天体が回っているというのが常識であった。いわば天動説は固いシミュレーションだったのだ。しかしコペルニクスの登場によって天動説=地球中心説は完全に誤謬となる。これは固いシミュレーションでも変えることができる貴重な証拠といえるだろう。
とはいうものの、固いシミュレーションはそれが日常、常識、現実として屹立しているがゆえに、百年単位、あるいは千年単位でも微動だにしないことも事実である。
そこでもう一つのシミュレーション、「柔らかいシミュレーション」が重要になってくる。
柔らかいシミュレーションとは、固いシミュレーションとは違い、土台が虚構であることが可視化されているシミュレーションのことをいう。
固いシミュレーションが土台が不可視化されているがゆえに虚構にもかかわらず、それが現実として生きられるのに対し、柔らかいシミュレーションは同じ虚構にもかかわらず、それが現実と思われることはない。
したがって柔らかいシミュレーションは能動的、積極的にそのシミュレーションに反応しなければ、それは生きられることはない。つまり柔らかいシミュレーションを「あえて」生きようとすることは、コペルニクスが起こした革命と同様の世界観の創造が必要となるのだ。
白紙のテキストに自ら文字を書き記すこと。その意味を、その価値をいちから創造すること。これはプチコペルニクス革命とでも呼ぶべきものだ。
もはや固くなりすぎて変革することすら難しくなった固いシミュレーションの世界を柔らかいシミュレーションで上書きしていくのだ。
とはいうものの、私は柔らかいシミュレーションとしてのアイドル現象をミネルヴァの梟のように後追いで論じたいわけではない。私はアイドル論を書きたいがために、これを書いているわけではない。アイドルを高みから見下ろし、アイドルを自由に読解することになんの意味も感じていないのだ。
私がしたいと思っているのは、アイドルのような柔らかいシミュレーションをまるで固いシミュレーションであるかのように生きること。
柔らかいシミュレーションを遊戯的に横断するのではなく(ほとんどすべてのアイドル評論家はこの手合い)、シミュレーションを生と一体化するのだ。これをわかりやすくいえば「恋愛」に例えることができる。
「恋愛」というのはいうまでもなくシミュレーション=虚構です。恋愛の正体が性欲であり、もっと掘り下げるなら遺伝子の働きであることはいうを待たないでしょう。
しかしだからといって「恋愛」にはなんの価値もない、私たちが恋人や夫や妻を愛するのになんの意味もないわけではない。私たちは恋愛の正体が性欲や遺伝子の働きだと感じてはいても、絶対に人を愛することをやめたりはできないのです。
恋愛はシミュレーション=虚構です。しかし私たちは恋愛を真剣に生きます。アイドルも同じことです。アイドルは虚構です。それでも私たちはアイドルを好きになり、アイドルを生きるのです。
柔らかいシミュレーションを真の生として生きること。それは日常的にコペルニクス革命を起こすことなのです。
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