@鈴木愛理、萩原舞、岡井千聖メインの「チルチルサクラ」(以下@)
スクールカースト上位のあかり(常に不在、「桐島、部活やめるってよ」の桐島みたいなもん)が退学したことによる女子高グループの不協和音を描く。グループ内の友情などしょせん幻想でしかなかったことが容赦なく暴かれる。みちる(鈴木愛理)もリカ(萩原舞)もメイ(岡井千聖)も美々(藤井千帆)も映美(菊池友里恵)もただ単に仲のいいふりをしていただけ、話が合うふりをしていただけ、楽しいふりをしていただけでしかなかった。みちるたちをつなげていたものは「ふり」という虚構のふるまいでしかなかったのだ。この@が序章となりさくらの花束という舞台全体のテーマが掘り下げられていく。
A矢島舞美メインの「桜色に頬染めて」(以下A)
いわゆる「百合もの」という女性同士の同性愛もの。咲子(矢島舞美)は@のテーマである虚構としてのふるまいを続けることしかできない女の子。咲子は親友である光(福永マリカ)を愛しているが、当然それを打ち明けることも出来ずに悶々としている。愛しているのにただの友人の「ふり」をするほかないのだ。光は女性が女性を好きになるなんて「気持ち悪い」と吐き捨てる。だがこの「気持ち悪い」は同性愛への偏見ゆえに「気持ち悪い」と言っているのではない。いままで自分が理解していた人間が実は自分の考えていた人間とは違っていたことへの絶望。自我と他我との絶望的な「非対称性」を「気持ち悪い」と言っているのだ。そして舞台Aはさらにこの自我と他我との非対称性という問題を発展させる。光がひそかに愛していた井上先生と友人であるアカリがつきあっていたことを知った時、光は思いもよらない自分の醜さと汚さを自分のなかに見つけるのだ。アカリが退学になったのは光が密告したからなのだ。今まで気づきもしなかった醜悪な自分が自分の中にいる。だから光はこう吐き捨てる「こんな自分を知りたくなかった」と。自我と他我を蝕む非対称性は実は自分の中にも存在したのだ。
B中島早貴メインの「さくらん少女」
かのこ(中島早貴)は演劇部の部室でだけは女王としてふるまうことができるが、部室から出ればスクールカースト最下位の変人でしかない。いわばかのこは自己評価と他者評価が分裂しているがゆえに苦しんでいる。では自己評価と他者評価が重なり合うところに本当の自分がいるのだろうか?・・・答えをだすなら、本当の自分なるもの存在しないのである。人が自分という同一性、統一性、持続性として捉えているものは虚構でしかない。「私」という同一性はこの私自身の肉体が証拠ではないかと言われれば、その肉体は細胞レベルでは半年後には全部入れ替わっているものでしかない。肉体は半年前のものとは分子レベルでまったく別のものになっているのだ。この私というものはあくまで状況状況における今を演じる私である。学校においては生徒としてふるまい、家庭においては息子としてふるまい、またある人の恋人としてふるまい、職場では部下としてふるまう私がいるだけなのだ。状況状況に異なる私が存在し、そこに同一性も統一性も持続性もない。人間は一皮ずつ剥いていっても中心には何もないたまねぎのようなものだ。人間はさまざまな状況でさまざまな自分を演じる多面体であり、自己評価にも他者評価にも捉えることが出来ない中心そのものがない存在。存在そのものが非対称性でできた生き物なのだ。
舞台「さくらの花束」は人それぞれが何かの「ふり」をすること。すなわち虚構としてのふるまい=「演じること」をとおして多面体かつ非対称的で不可解な生き物である私たち自身を映し出す「鏡」なのだ。演じているのは舞台上のみちるや咲子やかのこだけではない。舞台を見ている私たちもまた死ぬまで演じ続けるしかない生き物なのだ。
-------------------------
作品の質的には「桜色に頬染めて」と「さくらん少女」が抜群。特筆すべきはなっきぃのコメディエンヌぶり。膨大な量のセリフを立て板に水がごとく喋り続ける姿に真の女優魂を見た。なっきぃにはテレビドラマや映画にどんどん出て欲しい。あと舞美は本当にやばいね。美しすぎるアイドルとはよく言ったもんだ。美しすぎて怖いくらい。

【関連する記事】
生徒会室 該当者なし
部室 中島早貴
MVP 中島早貴
演じるって意味では彼女が一番演じていたと。
舞美、愛理は流石だなと。
福永さんも良かったですね。