エヴァQの主人公シンジはその選択という選択、行動という行動がすべて裏目にでる。よかれと思ってしたことが、ことごとく悲惨な状況を生み出してしまう。このような主人公は他の映画でも見たことあるな〜と思い出したのがフランク・ダラボンの映画「ミスト」だ。
ミストを観た人はわかると思うが、ミストの主人公であるお父さんは子供を守るために行動するまさに正統派ヒーローだ。モンスターが闊歩する異常な世界にいながら果断に決断し、行動する主人公らしい主人公。しかしこの映画「ミスト」が特異なのは、このお父さんの決断という決断、行動という行動がすべて間違っているというところにある。ヒーローとして作品世界に君臨する主人公の選択と行動がすべて間違っているとどうなるのかを映画「ミスト」は冷酷に描く。主人公を信じ、支持し、ついてくる人間をことごとく死に至らしめるのだ。
ミストでいわゆる悪役として描かれるのはキリスト教原理主義のババァだが、この映画の二重の皮肉は、主人公の決断と行動、すなわち「自由意志」がことごとく間違っていたという意味で、作品自体が「自由意志」を否定するカルヴィニズムを体現している点にある。悪役も原理主義者なら、作品自体も原理主義的内容に沿っているのだ。
ミストのお父さんとエヴァQのシンジが重なり合うのは、まさにその点、「自由意志」がことごとく否定される点にある。
キリスト教における自由意志問題はキリスト教の根幹にかかわる問題である。神は全能と永遠と定義される以上、「これまで起きたこと」、「今起きていること」、「これから起きること」すべてを見通している。したがって救済される人は生まれる前から神によって決められているとするのがキリスト教の教義「予定説」である。この世の出来事はあらかじめ神によって決定されているのだ。
だがしかし、そうなると問題が出てくる、すべてが決定されているならば、殺人などの犯罪を犯した人間もあらかじめ決定されていたことになる。そうなるとあらかじめ決定されていたのだから殺人犯に罪はないことになってしまう。人間には自由意志があるから善をなしたり、悪をなしたりすることができるという考えに立たないと矛盾が出てくるのだ。ここで「自由意志」問題が浮上してくるわけだ。
キリスト教における自由意志問題を雄弁に語ったのがペラギウス(354年−不明)である。人間は神に作られた以上、自由意志を持っている。善をなすのも悪をなすのもあらかじめ決定されているのではなく、自らの意志で選択することができる。
これに対し反駁をくわえたのが「告白」などの著作で知られるアウグスティヌス(354年−430年)である。アウグスティヌスは人間は罪にまみれた弱い存在でしかないとし、そのような罪人である人間が自らの意志で善を選択することはできない。人間はひたすら神にすがるほかないのだ。
二人の対照的な考えをまとめると
アウグスティヌス
@予定説・すべてはあらかじめ神によって決定されている。
A原罪説・人間は生まれながらに罪を背負っている。
B自由意志否定・人間は原罪のためかならず間違った選択をしてしまう。
C信仰義認・信仰によってのみ神に認められる。
ペラギウス
@予定説否定・神によって作られた人間は自由である。
A原罪説否定・神の似姿である人間が罪を背負って生まれてくるはずがない。
B自由意志肯定・イエス・キリストを教師として人は自分の意志で善を選択できる。
C実践義認・道徳的な行為によってのみ神に認められる。
アウグスティヌスにおける神は絶対的な存在であり、人間の力ではどうやっても神に届くことはできないことを示しているなら、ペラギウスにとって神は道徳的な手本として存在し、イエスの行為をまねることによって神に届くことができるとする。
このペラギウスの考えは決断主義的、行動主義的であり、自らの自由意志によって人間を、世界を変革することができるということを確信してる点においてエヴァQの碇シンジと同じである。
映画のクライマックスにおいてシンジはよくわからないにもかかわらず、ロンギヌスの槍を抜けば世界が良くなると考えた。そこには世界がこの先どのようになるかの吟味も内容もなく、ただ決断し、行動することこそがこの停滞した状況を変えられるがゆえに、善であり、正義であるという考えが根底にある。
決断主義の誤謬は決断の内容が一切かえりみられず、ただ決断することのみが重視される点にある。なんらかの価値に基づいたものでない決断は必然的に悲惨な状況へと決断したものを投げ込むことになる。シンジの決断と行動がことごとくあやまちとなり、周囲の人間が返り血を浴びることになるのはそのためだ。
いわば、このエヴァンゲリヲンQという作品自体、アウグスティヌス的、カルヴィニズム的な予定説−すべては神によって定められている−に支配されている。サードインパクトもフォースインパクトも人類滅亡も、すべてあらかじめ決定されている。そんなすべてが予定された世界の中で自由意志によって世界を変えられると考えた人間は「ミスト」のお父さんやエヴァQのシンジのように無惨な姿を晒すほかないのだ。
こうしてエヴァンゲリヲンQの自由意志は異端とされその全著作を灰にされたペラギウスの運命と同じように無残に敗北する・・・だがしかし、だがしかしである。次回作の「シン・エヴァンゲリオン」には、だがしかし・・・を見せて欲しいと願っている。
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・・・と一応解釈はしてみたものの、この映画をはじめて見た時の意味わかんね〜けどめちゃ面白い!という原初的な感動には1ミリたりと近づけていないのが本当のところ。言葉ってむなしい、そして映画は偉大だ。