2012年読んだ本10位はレオ・シュトラウス「自然権と歴史」
無神論者にとって道徳の根拠は共同体(社会)にある。社会秩序を守るための道徳「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」どれも共同体を円滑に進めていくためのものだ。しかしこのことは共同体から一歩はずれればその道徳は効力を失ってしまうことを意味する。道徳の根拠が自分の所属する共同体にしかないとすれば、その共同体とは違う世界にある共同体の価値を批判できなくなるのだ。例えば、日本の隣国にカニバリズム国家があるとしよう。しかし私たちはそのカニバリズムを批判できない。なぜなら日本の道徳は日本という共同体にのみ依拠したものであり、それは普遍的ではない。したがって日本の道徳を他国に強要することはできなくなる。カニバリズム国家はこう言うだろう。−「人肉食」はわが国の古くからある伝統であり、わが国の道徳観念上でも認められている行為だ。だから外国から批判されるいわれはない、と。
カニバリズム国家を批判するためには共同体に依拠しない普遍的な道徳が必要となるのだ。ではいったいそんな普遍的な道徳の根拠はどこにあるのか。それは「人を殺すな」「人を殺して食べるな」という無条件の「最終真理」に依拠するほかないのである。最終真理とはもうそれ以上根拠を問うことが出来ない根拠の最終地点を意味する。なぜ人を殺してはいけないの?その根拠はなに?と問うことが出来ない地点。根拠をそれ以上問うことの出来ない最終根拠はもはや超越的なものに他ならない以上「神」と呼ぶほかないものである。シュトラウスはこの「神」を「自然権」に置き換えているに過ぎない。ホッブズもロックもルソーも「神」を「自然権」に置き換えているだけなのだ。
超越的なものが存在すると認めなければ、普遍的な道徳は存在できない。普遍的道徳が実在しなければカニバリズムは批判できないのである。
カニバリズムと聞いて藤子・F・不二雄の短編SF漫画「ミノタウロスの皿」を思い出す人もいるだろう。「ミノタウロスの皿」は藤子の「神」なんて存在しない宣言に等しい。あのマンガは普遍的道徳など存在しないということがテーマだからだ。それでもなお普遍的道徳は必要だといってるのがレオ・シュトラウスの立場といっていい。シュトラウスは「それでも、なお〜必要とする」ということを「高貴なる欺瞞」といっている。たとえそれが欺瞞でも必要とされるのが普遍的道徳なのだ。
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