2012年10月15日

アウトレイジビヨンド完全読解

映画「アウトレイジ ビヨンド」を隅から隅まで考察しているので、当然ネタバレしています。

1カット目・単線と複線


人は映画を見るとき、ただ物語や登場人物の感情を追うだけではない。映像やセリフとして表現されたものだけではなく、表現されていないものまでそこに読み取ろうとする。一番わかりやすいたとえを出せば、私の大好きな映画監督にエルンスト・ルビッチがいます。

ルビッチの映画手法は表面的にかわされる会話やしぐさの裏に別の意味が隠されている。つまり映像で表現されていないものを観客に読み取らせるのだ。映画「メリーウィドウ」(1934)ではテーブル席に座る男女がよそよそしい会話をかわす。彼らはあくまで礼儀正しく、堅苦しい態度を崩さないのだが、女がある一言をもらす「靴をかえしてくださる?」

その瞬間そのシーンはひっくりかえる。よそよそしく堅苦しい男女の会話が続くなか実はテーブルの下ではエロティックな攻防が行われていたことがわかるのだ。ルビッチ映画では表現されていること(テーブルの上でのよそよそしさ)と表現されていないこと(テーブルの下のエロティックな攻防)の二重の表現がある。

では北野映画ではどうなのか。アウトレイジビヨンドは一見したところ表面的な表現しかないように見える。これまでの北野映画以上に緻密に組み立てられたプロットは一方通行的に進行する物語と登場人物の感情を追わせるだけのような作品に見える。そういう映画をここでは「単線的」映画ということにする。

単線的とはブレヒトの言葉で
「観客が演じられている事柄に身を置き、そこから考えること。一切を一つの理念に組み込み、観客を単線的な思考方向に駆り立てて右も左も上も下も見えなくすること」をいう。(三文オペラへのブレヒトの覚え書き)


単線的作品とは、物語の一定の型に観客をはめ込むこと。観客を一つの表現や一つの感情に誘導することをいう。

だが、実はアウトレイジビヨンドもまたルビッチ映画と同じように、表現されている面と表現されていない面の二重の面をもっている。単線的の反対だからこれを複線的ということにする。

ルビッチ映画の場合表現されないテーブルの下を暗示するのが一番表現したい部分なので、最初から観客にテーブルの下を読み取ってくださいという意図がある。その点が北野映画と違って親切設計なのだ。アウトレイジビヨンドがやっかいなのは、一見したところ、ただのヤクザ映画にしか見えない、それも面白いヤクザ映画にしか見えない点で、いわば単線的表現だけでも十分に映画として完成されている点だ。北野映画は映画を深く読み取らない人にとっても面白くできているのだ。だが、北野映画にはまる人にとって北野映画は単線的とは言い難い複雑な魅力を持つ。映画を単線的に見るのではなく、より深く読み取るためには映画のどこに注視すればいいかというと、北野武の「身体性」に注視すればよいということになります。

2カット目・北野武の身体性


アウトレイジビヨンドを見ていて少し違和感がなかったでしょうか。おそらくその違和感はこの映画の中心であるはずの大友(北野武)の存在感の希薄さと関係がある。

この映画での大友は老い、疲れはて、抗争に対するやる気のなさを露呈しています。この人が映画の主人公?と思えるような存在感のなさです。しかしこの大友の存在感の希薄さが映画を単線的なものから複線的なものへと変換する重要なファクターなのです。

本来映画の中心であるべき大友の老いと疲れが大友というキャラクターを突きぬけて北野武という生身の男の身体にまで到達する。映画のキャラである大友はいつしか北野武という現実の男と重なり合う。老いて疲れはてた北野武の身体性が透明感を帯び、大友をまるで映画のなかで宙に浮いたような存在にさせる。それは映画の中の余白、空白として機能しはじめる。

自分をヒーローにすると、映画が、小型になっちゃうじゃない。自分が主役で、自分が最後に殴り込んだりすると、映画がすごい小型化して、単なる、主役とその周りに付随した奴のストーリーになるんだけど。主役を薄くしちゃって、周りを広くすると、映画自体が大きくなるっていう。ー北野武「物語」


空白となった北野武の肉体はこの映画を単線的なものから複線的なものへと変換する。映画の中心が空白ということは、いくらでもそこに意味を読み取ることが可能ということであり、観客の思考は上にも下にも右にも左にも開かれる。世界は開かれ、映画が大きくなるのだ。

大友の老いと疲れと諦念を如実にあらわす北野武の身体性をとおしてわかるのは、大友と他の人物は同じ盤上に存在していないということだ。大友にとって前作の因縁がある山王会に対する復讐の機会はととのっているにもかかわらず彼は復讐というゲームの盤上にのぼろうとしない。いや、のぼろうとしないのではなく、のぼれないのだ。なぜなら彼だけは同じ盤上に存在していないからだ。

3カット目・ゲームマスター


この映画のほとんどの登場人物が住まう世界とは片岡(小日向文世)が作り出したゲームの世界である。アウトレイジビヨンドの世界は片岡という刑事が作り出したゲームにすぎない。他はヤクザゲームの駒でしかない。だがそれぞれの人物は自分が駒だとは思わずに、自分こそが駒を動かす棋士だと思っている。だがその棋士もこのゲームのルールにのっとった上で意味がある存在でしかない。片岡は棋士でもなければ駒でもない。彼こそはこのゲームのルールを司るゲームマスターなのだ。

ゲームマスターは他のプレイヤーと対話しながらゲームの舞台となる世界とそこに登場するいろいろな事件や人物を説明し、決められたルールに従って、プレイヤーが考えたキャラクターの行動が実現したか否かを裁定することでゲームを進行させる。ーテーブルトークRPG・wikiより


テーブルトークRPGではゲームマスターがストーリーの背景や設定を考え、ゲームマスターにリードされて役割を演じるプレイヤーがいる。この映画の登場人物を采配し、自分の思い通りに動かしていく片岡こそ、この映画のゲームマスターである。彼は盤面上の駒も駒を動かしている棋士も自分の決めたルールで動かしているのだ。そしてこの片岡がルールを決めるゲームの盤面に上がらないのが大友である。なぜなら大友だけがこのゲームの仕組みに気づいているからだ。

通常、ゲームの駒やゲームプレイヤーがゲーム自体のルールを疑うということはあり得ない。彼らにとってルールに対する疑いは不可視化されている。つまり、将棋の駒がしゃべれるとして、この将棋のルールはおかしいといいだすだろうか。将棋の棋士がこの将棋のルールっておかしくないか、などといったりするだろうか。ゲームをプレイするものがゲームのルールに疑いを持つことはあり得ない。疑わないことでゲームは成立しているのだ。

ではなぜ大友だけがこのゲームのルールはおかしいと気づき、ゲームの盤面に上がろうとしないのか。それは大友が前作「アウトレイジ」で死んだからである。死んだことによりゲームの盤上からはじき出され、外側からゲームの盤面を眺めることができるからだ。そのような立場にいる存在とはいうまでもなく「亡霊」にほかならない。

4カット目・召還


大友が刑務所から出所するとき、彼を迎えに来たのは「その男凶暴につき」の白竜である。蓮實重彦は「ビートたけしによりそう白竜は、「彼岸」からの、寡黙な、だが妥協を知らぬ一徹な使者にほかなるまい」と書いている(群像11月号)。白竜は彼岸と此岸の間にいる亡霊と化した大友を彼岸の世界(ビヨンド)へ連れ去ろうと迎えに来た使者なのだ。見事な造形だった刑務所の塀を思い出してほしい。灰色と黒影が交互に刻まれた刑務所の壁はそれぞれ彼岸と此岸をあらわしているといえはしまいか。(ちなみに蓮實氏は白竜を見て落涙したそうです。どんだけ殿の映画が好きなんだよ)

しかし大友が亡霊のままでは映画は進展しない。亡霊は現世に関わることができないからだ。そこで大友を現世へと呼び戻すきっかけになるのが、木村(中野英雄)の若い衆二人の惨殺と花菱会の怒号飛び交う会合での木村の衝撃的な指つめである。この木村の血の儀式により大友ははからずも現世へと召還されてしまうのだ。木村の衝撃的行為、その血、その引きちぎられた指により亡霊は現し身(うつしみ)となる。このシーンの演出は見事でそのシーンの前と後ろでは画面の空気の色がまるで違って見えるほどだ。血の儀式による召還にふさわしい名場面といえる。

5カット目・彼岸=ビヨンドの表現


この映画では「黒」や「闇」という映像表現が頻出する。特に象徴的なのは人を殺すときに頭に黒い袋をかぶせるシーンだ。それは視界を奪うことだけではなく、光の遮断を意味している。ゲームの盤面上を照らし出す光を遮断することはそのゲームからの離脱であり、光を遮断された世界はゲーム世界の埒外を示す。

北野武は車を撮る達人だと言いたくなるほど車をきわめてエロティックに撮る。車はゲームの盤上にいる駒たちをその濡れたような黒光りする車体から捕らえようとしているかのようだ。いつでも彼らをゲームから取り除くことができるようにその黒い深淵からのぞいているものは−彼岸。そしてゲームマスターである片岡の車は黒を拒絶するかのように銀色に鈍く光り輝いている。

音響について
映画冒頭で鮮烈に示されるように、音声だけが映像に先行し、後から映像が追いつく手法が頻繁に使われる。銃声だけが画面外のどこかから響きわたり、その後、殺されたばかりの死体が映し出される場面。三浦友和が殺害されるパチンコ店では音響が徐々にマイナスされナイフが内臓をえぐる音だけが響きわたる。

画面外、彼岸=ビヨンドからの手が先にさしのべられた後で、此岸=現世の映像がそれを後追いする。パチンコ店の音響は音がマイナスされることによって画面全体を彼岸が覆う瞬間を遅延して見せる。音響もまた映像における闇や黒と同じものを表現しているのだ。

6カット目・北野武と数学


ゲームの盤上に降り立った大友は花菱会最強の手駒、城(高橋克典)率いる殺し屋集団をあやつり手際よく駒を排除していく。その排除の演出には数学的手法が使われている。銃声だけがどこからか響き渡り、あとは死体だけがころがっている演出。

「映画における因数分解」
aという殺し屋がxとyとzを殺すという話を数式にすると、ax+ay+azという式で表せる。この場合映像的にはaがxを拳銃で撃つと、次のシーンではaがyを撃って、また次にはaがzを撃つ。近代映画における因数分解は、aが拳銃を持って、ただ歩くだけ。次のシーンで、x,y,zの死体を順番に見せる。それでaが3人を殺したってわかる。つまり、a(x+y+z)となるわけ。それが因数分解的な映画表現。ービートたけし「達人に聞け!」


北野武の数学へのこだわりは、この世界はすべて数学によってはかることができるという考えに基づく。だが、その考えは、この世界は数学では決してはかれないものがあるという不安の裏返しでもある。この世界は数学に代表される理性や知性によって完全に解明できるとする考えは、人間の理性や知性の光によっても照らし出すことのできない闇の領域があることへの恐怖と区別できない。

片岡はいうなれば、数学が支配する世界の王だ。この世はすべて自分の計算通りに動かすことができる。自分の知性に対する絶対の信頼。そこに自分に対する疑いや、自分の作り出したゲームに対する疑いは微塵もない。それに対し大友はまず自分を疑い、みなが従うゲームを疑う。この世界に確たるものは何もない。大友は知性という光から遮断された世界である深淵=ビヨンドから来た埒外の男である。つまり、片岡は表の北野武の顔、大友は裏の北野武の顔である。片岡と大友は北野武という同じ仮面の表裏なのだ。

7カット目・北野映画におけるコンビ


北野映画はこれまでもさまざまな「コンビ」(二人組)を描いてきた。コメディリリーフ的なコンビもいれば、心の交流をもつコンビも。しかしアウトレイジビヨンドで描かれるコンビはいままでの北野映画が描いてきたコンビとは一線を画している。片岡とコンビを組む繁田(松重豊)は最初から最後まで片岡に対する疑いを隠そうとせず、最後には片岡と離反する。花菱会の西田敏行と塩見三省は相手をかわるがわる恫喝し追い込んでいく二人で一組の暴力機械である(この映画で一番恐ろしく素晴らしいのが塩見の顔芸、恫喝芸である。見ていて怖いけど惚れ惚れする)。桐谷健太と新井浩文のキッズリターンを思わせる二人はあっさりと命を散らし、山王会二代目加藤(三浦友和)と石原(加瀬亮)のコンビは加藤の石原に対する疑心暗鬼から最後には石原は切り捨てられる。大友と木村は唯一人間らしい交流を持つが大友は山王会を弱体化した後あっさりと身を引く。

この今までの北野映画に見られない寒々しいまでのコンビの姿。なぜこのような描写になったのか、ヒントは北野武のインタビューにある。

「震災後の一年間は、逆に自分は怒りを感じている部分があった。世の中、絆とか愛とか表面的なものばかりでイライラした。こういうときこそヤクザ映画を撮ってやろうとやる気が起きた」ーベネチア映画祭でのインタビュー


絆とか愛とか連帯とかいう空疎な言葉を連呼する世間に対する嫌悪感。北野武は連帯や団結に疑いを向け、愛や友情も虚構ではないのかと疑う。つまり連帯や団結、愛や友情などの言葉だけで実体のない概念の強制がなければ人間社会が成り立たないのだとすれば、そんなもろい基盤の上に立つ人間社会は容易に残虐な相貌をあらわにすることを北野武は知っているのだ。

アウトレイジビヨンドのコンビの寒々しいまでの描写は、他者に依存することの危うさ、他者の価値観を疑わずに従うものには悲惨な末路が待ちうけていること教える。映画ではコンビの片岡を疑い決別した繁田が生き残り、木村との交流を断ち切って別れた大友が生き残る。他者に依存しないものが生き残り、他者に依存するものはみな死ぬのだ。

ファイナルカット・ゲームマスターを殺す者


木村の血の儀式によって彼岸より召還された大友だったが、山王会を弱体化させた後はお役ご免だとばかりに抗争から身を引く。大友はゲームの盤上から降りる、つまり亡霊へと戻るのだ。そしてこのことは衝撃のラストシーンを必然のものとする。ゲームのルールを作り出したゲームマスターである片岡をゲームの盤上にいる駒やゲームのプレイヤーたちは決して殺すことはできない。ゲームマスターはこのゲームの創造者であるがゆえに、このゲームの盤上に存在しないからだ。そしてゲームマスターである片岡を殺すことができる映画中唯一の存在はゲームの盤上に存在しない亡霊たる大友だけなのだ。このラストは必然である。

---------------------

小難しいことを書いてきましたが、この映画は何も考えずボーッと眺めているだけでもめちゃくちゃ面白いです。そして何回か繰り返し見ていくと、その面白さが別の意味を持って浮かび上がってくることがある、そこがまた映画を見る楽しみでもあります。映画を見る楽しみは一方通行=単線的ではなく、多角的=複線的なのです。
posted by シンジ at 11:18| Comment(5) | TrackBack(2) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ビートたけし、で私もブログを書きました。仰るとおりだと思います。また、来ます。
Posted by 芸能坩堝 at 2012年10月16日 16:44
アウトレイジビヨンドの本当の主役は松重豊だと思いました
Posted by 本物の主役 at 2012年11月16日 20:17
素晴らしい考察だと思います。
個人的には、花菱会の三人は片岡のゲームコントロールから脱している可能性があると思います。
時に自らの策略を誇る関内や片岡より、言葉全てが結果を手に入れるための建前であることがまさに息を吐くように当たり前になっている布施の方が、マキャベリストとして一枚上手だと思うからです。西野も大友・繁田を除くと、唯一、明確に片岡の本性を言い当てています。
片岡は自分より大きすぎる力を支配しようとして、飲み込まれてしまった気がします。
Posted by ロー・コノヤ at 2013年01月09日 18:05
久しぶりに夢中で映画の考察を読みました。これからの映画鑑賞が変わってきそうです。
Posted by たく at 2013年11月03日 12:26
大変勉強になりました。
Posted by 千葉 at 2015年08月15日 16:40
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック

映画「アウトレイジ ビヨンド」良くまとまった印象でだからこそ物足りない
Excerpt: 「アウトレイジ ビヨンド」★★★ ビートたけし、西田敏行、三浦友和、加瀬亮、 松重豊、小日向文世、高橋克典、桐谷健太、新井浩文出演 北野武監督、 112分、2012年10月6日(公開) 日本,ワーナ..
Weblog: soramove
Tracked: 2012-10-26 07:25

再び、全員悪人
Excerpt: 9日のことですが、映画「アウトレイジ ビヨンド」を鑑賞しました。 「アウトレイジ」の続編! 今回も前作と同じく 全員悪人 暴力エンターテイメントを見せてくれましたね 今回は前作よりはストーリーが..
Weblog: 笑う社会人の生活
Tracked: 2012-11-10 17:28