2012年08月16日

まなざしという幻視「桐島、部活やめるってよ」

映画「桐島、部活やめるってよ」を見る。

この映画で個人的に最もショックを受けたところは、わが最愛の橋本愛さまのシーンです。映画ヲタ的には映画館で一人塚本晋也監督の「鉄男」を見ている同じクラスの美少女というだけで、ご飯何杯でもいけるくらい幻想が膨らみ放題膨らむわけで。映画中、愛さまを見つめることだけがこの映画の推進力だといってもいいほど。だが、しかし、このボンクラの愛さまへのまなざしが極限まで達した時、それが起こる!

・・・映画の中途で愛さまが学校一のチャラ男と付き合っていたことが発覚するのだ。これには映画部の神木隆之介だけでなく、俺も顔面蒼白。失望と絶望が同時に襲ってきて頭が痛くなってくる。愛さまは名画「鉄男」を見るほどの由緒正しい映画美少女にもかかわらず、こんな映画もろくに見ないであろう薄っぺらな男と付き合ってるのだ!ああ、しょせん俺は愛さまに自分の幻想を仮託していたにすぎないのだ。

と、映画を見てガチでへこんでいたら(笑)、ハッと気づいた。これこそ、この映画の構造そのものではないか。

吹奏楽部の部長はヒロキに熱いまなざしを一方的にそそぎ、バドミントン部の少女は桐島の補欠だった男子にひたすらまなざしを向ける。そして神木くんは橋本愛にそのまなざしを向け続ける。この一方的なまなざしの先にあるのは、それが一方的であるという意味では幻視に近い。つまりあくまで自分の幻想をふくらまして幻想そのものを見ているのだ。だが、それでもそのまなざしの先にあるのは、生身の肉体であり、実在する人間である。

しかし、そのまなざしの先にあるものが、不在ならばどうなるのだろう。多くの女子や男子がそのまなざしを向けていたものが不在となったとき、そのまなざしは行き場を失い、まなざし自体が失われてしまう。まなざしの対象がなくなれば、もはや、まなざしそのものが意味をもたなくなる。

そのまなざしを支えていたものは、学校内階層の頂点に君臨する桐島という存在だ。まなざしという幻視に支えられていた学校内階層という虚構。そしてその虚構を最後の最後に打ち破るのが、これまた不在の対象を幻視する「映画」という虚構なのである。虚構の上に成り立っていた学校内階層を破壊し、それに代わって立ち上がるのは、もう一つの大いなる虚構「映画」なのだ。

それがゾンビ映画というのにももちろん意味がある。ゾンビは生者でもなければ死者でもない存在。ゾンビは此岸にいながら彼岸のものでもある。それは存在しながら、不在でもあるものに向けるまなざし−幻視と同じことだ。・・・クライマックスのゾンビはこのことをあらわしている。

これは虚構がさらに徹底した大虚構によって打ち砕かれる痛快無比で、どこかほろ苦い物語。そのほろ苦さはこんなところから来る。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことだ。」−イプセン「野鴨」

だが学校内階層という嘘は取り上げられても、映画という嘘だけは決して取り上げることは出来ないだろう。
posted by シンジ at 18:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。

橋本愛ちゃん、なんでそんな男に・・・でしたよねw。

まなざしという幻視、素晴らしいレビューで感心するばかりでした。


突然失礼いたしました。


Posted by ターンダウン at 2012年10月16日 10:13
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