2012年06月16日

高野和明「ジェノサイド」は支離滅裂である

高野和明「ジェノサイド」を読む。
この物語の要旨はこうだ。−地球上で最も罪深く、有害な動物は人類だ。そして悲惨な暴力が渦巻くこの世界を人間の努力によって改善することは不可能である。この世界の悲惨な状況を救うには人間の能力をはるかに超えた、神のような知能を持った「神人」(god man)による独裁しかない。・・・という作者の考えがこの作品の根底にある。これはニヒリズム、というより単なる支離滅裂ではないか、というのも作中「神人」の独裁による帰結は人類の絶滅であると示唆されている。それはつまりこういうことだ、人類は暴力的で残虐な生物であり、この美しい地球に値しない下等生物である。だから全員死ね!(笑)。これって映画「ゲド戦記」のネタにあったよね。

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「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ!・・・死ね!」

これが「ジェノサイド」のメッセージですw

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イプセン「野鴨」は映画「マトリックス」だ。

イプセン「野鴨」を読む。正義にとりつかれたグレーゲルスが虚偽の土台の上に築かれた家族を壊し、真実の愛という「理想の追求」を友人のヤルマールとその家族に強いた時、それまでのヤルマール家の幸福は崩壊し、悲劇が訪れる。

「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じことになるんだからね」−「野鴨」より

読んでいる時は、このグレーゲルスというおせっかい焼きの正義ぶりっこがうっとおしくて腹が立ったんだけど、ヤルマール家が野鴨のメタファーだということに気づくと、いったいどうすべきだったのかと悩んでしまう。その野鴨とは猟で獲ったものなのだが、羽が傷ついて飛べなくなり、しかも死ななかったのでヤルマール家に飼われている。そしてヤルマール家もある秘密の事情で富豪のヴェルレ家に養われている。

野鴨がヤルマール家のメタファーだとわかると、はたして人間は、欺かれ、他人に飼われていた真実に目を開き、それを拒絶したほうが良かったのか、それとも何も知らずにいままでどおりの平凡だが、幸福な日常を続けていた方が良かったのかわからなくなる。これって映画「マトリックス」的難問だ。つまり映画「マトリックス」では真実の世界は人工知能に支配されていて、人間が日常だと思っていたものは、仮想現実の世界でしかなかった。それのどこで悩むかというと、映画内の描写ではどう見ても真実の世界は薄汚い地獄のような現実であるのに対し、仮想現実の世界は今私たちのいる世界。快適で冷暖房完備で、抗生物質があって、PCがあって、アイドルがいる世界だ。どう考えても仮想現実の世界の方がいいw

実際人間は仮想現実のような価値の体系を構築して、その世界に住んでいる。どういうことかというと、私たちが「愛」と呼んでいるものは実際は「利己的遺伝子」にすぎませんよ、と権威ある科学者が私たちの耳元でささやいたとしても、私たちは誰かを愛することをやめたりしない。遺伝子だろうが、脳科学だろうが、それら事実は事実でしかない。私たちは事実の中を生きるのではなく、自分たちが作り上げた「価値」(たとえそれが虚偽だとしても)のなかを生きているのだ。

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セバスチャン・フィツェック「アイ・コレクター」

最近はドイツミステリ界が熱い。「犯罪」「罪悪」のフェルディナント・フォン・シーラッハは今一番注目してる作家だし、このフィツェックもなかなか面白い。といってもシーラッハとはまるでタイプの違う作家で、きわめて映像的、それも映画というよりテレビドラマの連続活劇風でアメリカのドラマ「24」を思い浮かべてもらえば間違いない。物語は主人公と同行する盲目の超能力者の過去を透視する能力でプロットを進行させる強引なもので、正直そんなのあり!?と結構不満だったのが・・・読み終えて「うわ〜そう来たか!」と。読者に超能力で謎を解き明かしていくのっていくらなんでも安易すぎるだろと思わせるのも作者の術中のうちだったんだ(ネタバレギリギリ)。もう一度最初から読み直すこと必至の作劇が見事。

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佐野眞一「怪優伝−三國連太郎・死ぬまで演じつづけること」を読む。

映画「復讐するは我にあり」について

三國連太郎−緒形君は舞台出身者なので、芝居の切れがよすぎるんです。

佐野眞一−ええ、確かに緒方拳の芝居は切れがいいですよね。でも、それが何か問題なんでしょうか。

三國−僕は舞台の芝居と違って、映画の芝居は切れが少し悪いくらいのほうがいいと思っているんです。

佐野−ああ、そういう意味ですか。

三國−少し間が抜けたほうがいいと思うんです。

佐野−抜けが良すぎるとよくないんですか。

三國−と思いますね。映画の芝居というのは、カット、カットが短いわけです。僕はスコーンと抜ける芝居というのは、うまさが目立ちすぎるんじゃないかと思うんです。

佐野−なるほど、目立ちすぎて全体から浮いてしまう。

三國−舞台は切れがいいほうがアクセントがつきます。でも映画の場合は、カメラの方で切り換えてくれて、アクセントをつけてくれますからね。

三國−森雅之さんは滝沢修さんの芝居なんか真似ちゃダメよ、あんなの芝居じゃないんだからって、よく言ってましたね。同じ民藝の出身なんですけどね。

佐野−滝沢修といえば、新劇の神様といわれ、民藝では宇野重吉と二枚看板を張った人じゃないですか。へぇ〜、森雅之はその滝沢修を真似ちゃいけないって、言ったんですか。

三國−あんなのは舞台の芝居で、映画の芝居じゃないからって。

−佐野眞一「怪優伝」より

三國連太郎のことは傑物だと思ってるけど、どっちかというと、この演技論にあてはまるのは三國さん自身じゃないだろうか。私の目には三國連太郎の演技も十分に切れがありすぎるように写る。

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レオ・シュトラウスについて。

「自然権と歴史」(名著!)ではわからなかったけど、他の著作を読むとシュトラウスの全貌が見えてきた。この人スピノザとまったく真逆の思想家なんだ。スピノザがコナトゥス(自己保存の欲求)が価値を決定すると言うのに対し、シュトラウスはコナトゥスは価値を決定せず、選択が価値を決定するという。選択するということは、選択するべき「価値」があらかじめ決定されていなければならないということだ。その価値こそ古代ギリシア的価値観「徳」である。近代哲学が拒否した目的論的世界観を再び復活させようとするシュトラウスの試みは、シュトラウスの死後、ブッシュを支えるネオコン的価値観に取って代わられてしまう。(目的論的世界観は宗教と親和性が高い。ネオコンとキリスト教福音派の合体はそこにある。)しかしシュトラウスの名誉のために言っておくが、シュトラウスの著作には武力によって世界中に自由主義的民主主義を拡大すべきなんていうネオコン的な考えは一行どころか一文字たりと主張されてない。ネオコンのアホどものせいで残念ながらシュトラウスの新形而上学的試みは呪われたものになってしまった。思想は真逆とはいえ、スピノザ思想もスピノザの死後、再び人々の前に現れるまで200年もの歳月がかかった。同じ呪われた哲学者=秘教的哲学者という点で二人は似ているといえるのかもしれない。
posted by シンジ at 19:38| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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ノンストップ娯楽大作!
Excerpt: 小説「ジェノサイド」を読みました。 著者は 高野 和明 いや〜 これは面白かった! まさにエンタテイメント大作といった感じで けっこうな文量 大作ながら 最後まで一気に、ダレルことなく読ませます..
Weblog: 笑う社会人の生活
Tracked: 2013-08-29 12:00