2012年05月13日

レオ・シュトラウス「哲学者マキアヴェッリについて」

現代のマキアヴェッリ評価はマキアヴェッリは単なる政治史家であって、哲学者でも政治哲学者でもないというのが支配的だそうな。しかしシュトラウスはマキアヴェッリは近代哲学の創始者であると高く評価する。

マキアヴェッリの主要著書「君主論」と「ディスコルシ」の違いとは自然的か必然的かの違いだという。「君主論」で書かれる君主政というのは人間の自然的欲望=名誉や栄誉を求める欲望から導出される。名誉欲は人間が本性的に持つ承認欲求であり、自然的欲望である。それに対し「ディスコルシ」で書かれる共和政は民衆の必然的欲望=生命と財産を奪われる恐怖から導出される。

生命と財産を奪われる恐怖=起源的テロルが人間を動かし、社会を作らせ、それを維持させる。起源的テロルという非道徳性が、共同体の道徳性を作り出すのだ。しかし民衆はいったん安全が確保されると起源的テロルを忘れ、他者への優越を欲望しはじめる。同胞たちに優越し、それを抑圧しようとするのだ。ここに「僭主」の生まれる隙が出てくる。(「僭主」というのは共和政(民主政)にもかかわらず実質君主(独裁者)が支配すること。ローマ共和国を終わらせたカエサルであるとか、15世紀フィレンツェ共和国を牛耳ったメディチ家であるとか、21世紀オーサカを牛耳っているトオル・ハシモトらのこと)この腐敗状況を変えるには、民衆に再び起源的テロルを喚起する必要性が出てくる。

体制の新創設者は古い体制を一掃し、新秩序の健全な体制を打ち立てる。マキアヴェッリにとって新秩序という目的のためなら非人道的な手段をとることも容認される。その非人道的な手段が民衆に起源的テロルを喚起させるがゆえに。

起源的テロルを喚起させる方法には、他に戦争という手段もある。実際に戦争を起こすかどうかはともかく、仮想敵国というものを作り出し、民衆の恐怖と不安をあおり国家体制を維持する国は現代にもよくある。起源的テロルを国民に終始ちらつかせないと体制が維持できないというのはそれだけ国家体制が腐敗している証拠でもある。

マキアヴェッリが近代哲学の創始者だという理由は二点。

マキアヴェッリは人間や社会を「理想の高み」へと引き上げようとするのは、非人道的で悲惨な結果を招くだけだとする(宗教改革の悲惨を予見している。その後の歴史も)。むしろ人間を「低いところ」から見て、現実的に獲得できることからはじめなければならない。「いかに人が今生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとの間には非常な隔たりがある」(君主論15章)のであるから。

人間を「低い」ところから見るとは、君主政は自然的欲望から創出され、共和政は必然的欲望から創出されたということを見ることである。国家の政体は崇高な目標からではなく、あくまで人間の低い欲望から導出されることを見なければならない。

「理想の国家」を目指すという目的論的国家観から、「低いが堅固」なコナトゥス(自己保存)から導出される作用因的国家観への転換を成し遂げたのが一点目。

二点目はマキアヴェッリの苛烈なまでのキリスト教会に対する批判である。

教会やその坊主のおかげで、我々イタリア人は宗教もろくに持たずに、よこしまな生活にふけっている。さらにそればかりではなく、はるかに大きな不幸を教会や坊主のために受けている。それは我々に破滅をもたらす原因となるものである。すなわち教会は、イタリアを昔から今まで一貫して分裂させてきたのである。−「ディスコルシ第1巻12章」

痛烈なキリスト教会批判は、キリスト教的な彼岸の理想主義的世界観からの脱却を意味する。それは目的論的世界観から作用因的世界観への転換を意味する。マキアヴェッリはホッブズやスピノザに先行する近代哲学の創始者といえるのである。

最近はレオ・シュトラウスにハマリ中。でも翻訳されてる著作が少ないからすぐに読み終わりそう。シュトラウス「自然権と歴史」はおそらく今年読んだ中のベスト1。
posted by シンジ at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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